洞庭湖柳毅伝書雑劇
尚仲賢撰
楔子
（外が涇河老龍王に扮し、水卒を率いて登場。詩）羲皇は八卦をもて乾坤を定むれど、左右になほも輔弼の臣を必要とせり。死後はみづから天帝の命を承け、ただひとり水底に魁て龍神と作る。
わたしは涇河老龍王、倅は涇河小龍じゃ。洞庭湖老龍の娘の龍女三娘というものが、小龍の嫁となったが、琴瑟は不和なので、心中とても楽しまない。とりあえず小龍が来るのを待とう。どのような話をするやら。
（浄が小龍に扮し登場、詩）堂堂は霊聖[1]と作り、小鬼は労病に罹りたり。身辺に陰人は無ければ、死すとも清きことならん。
わたしは涇河小龍だ。わが父の老龍はわたしに嫁を娶せた。それが龍女三娘だ。かれと前世の縁はない。どういうことかは分からぬが、かれの姿を見ただけで、とても不愉快になるのだ。今から父王の面前にゆき、何回か唆し、追い出させればよいだろう。（会う）父上、わたしに嫁を取られましたが、あのものは性格が強情で、今になっても睦まじくせず、あのものの父、叔の神通を頼りにし、猛々しくしてわたしを尻に敷こうとし、父上も眼中に置いておりませぬ。かように賢くない婦は、わたしは必要ございませぬ。
（老龍）そのような事があったか。あの娘を呼んでこい。沙汰をすることにしようぞ。
（水卒）かしこまりました。龍女三娘さま、どちらにいらっしゃいますか。
（正旦が龍女に扮し登場）わらわは洞庭湖の龍女三娘。わが父上と母上はわたしを涇河小龍に嫁がせて妻となされた。いかんせん、涇河小龍は婢僕に惑わされ、日に日にわたしを疎んじるため、われら二人は琴瑟和せず。今日は舅に呼ばれたが、何事だろうか。ゆかねばならない。（会う）お義父さま、呼ばれましたは何ゆえにございましょうや。
（老龍）そなたはどうして性格が強情で、小龍と睦まじくしないのだ。考えを変えるならよし、変えようとせぬのなら、そなたを処罰するとしようぞ。やすやすと許すと思うな。
（正旦が跪く）お義父さま、わたくしと関わりはございませぬ。これはみな小龍が婢僕を信じ、ゆえもなく諍いを生じたものにございます。わたくしも龍子龍孫にございますから、魚や蝦の手に落ちるわけにはまいりませぬ。
（老龍）こら、そなた、わたしの前でなおも強弁するとはな。わが小龍を咎めることはできぬわい。鬼卒よ、このものの冠と袍を剥ぎ取り、涇河の岸辺に羊を飼いにゆかせてくれ。
（詩）夫と妻はなにゆゑぞ相投ぜざる。罰して羊を見にゆかせ、幾秋を過ごさしむべき。涇河の水を掬し尽くすとも、本日の羞を洗ふは難からん。（退場）
（正旦が嘆く）ああ。涇河の岸へ羊を飼いにゆかせるとは。かような辛苦と艱難に耐えられようか。
（唱う）
【仙呂端正好】雲雨の期を徒にしたれば、滄波の会を離れたり[2]。このたびは水は尽き、鵝は飛ぶかのごときなり。凶悪な夫の気に耐へきれず、さらにいけずな舅姑の意は耐へ難し。
【幺篇】それゆゑに羊を飼ふ差をば割り当てられて、束縛を設けられたり。かれらには恩義[3]なく、本性の変はるは難きことならん。われをして野田、衰草、残紅の裏にあらしめたれば、鳳閣を離れ、漁磯に近づき、蝉鬢を乱し、蛾眉を蹙めつ。愁は荏苒[4]、涙は淋漓、父母と親戚を思へり。ああ、ああ、かれはいづれの日にかまた睦まじくするを得ん。（退場）
（冲末が柳毅に扮し、老旦が卜児に扮し登場。詩）子に書を習はしめども志は報はれず、桑楡暮景にとりあへず淹留[5]したり。月は十五を過ぎなば光明少なく、人は中年に到りなば万事休せん。
老いぼれは姓は張。夫の姓は柳といい、とうのむかしに亡くなった。身辺に名を柳毅という一子があるのみ。本年、二十三歳になるのだが、家が貧しく、結婚をしていない。息子よ、いつになったら出世するかえ。
（柳毅）母上、わたしは満腔の文章を学んでおります。このたびは、春榜[6]が掲げられ、試験場が開かれました。功名を得にいって、官職に就きさえすれば、門閭を耀かせることができましょう。母上はいかが思し召されますか。
（卜児）息子や、功名を得ることは書を読むものの本分だ。とにかくしっかりするのだよ。
（柳毅）本日は吉日にございますから、母上に別れを告げて、長の旅路に出るとしましょう。（別れて退場）
（卜児）息子はいってしまったわい。眼には望まん旌旗捷、耳には聴かん好き消息。（退場）
（正旦が登場）わたくしは龍女三娘。舅は涇河小龍の言うことを信じられ、わたくしに涇河の岸で羊を飼わせることとなされた。これは羊などではなく、雨を降らせるのを怠けている雨工[7]なのだ。雨工よ、今日は風雲を遂げることなく、わたしはそなたとともに水辺で落ちぶれて、同じように悲しんでいる。（唱う）
【仙呂点絳唇】魂は断たれてしきりに哭けり。夢は醒め、睹ることもなく[8]、暮春に逢へり。いづれの日にか湖に帰り、つばらかにこの離愁をば訴へん。
【混江龍】そのかみは凌波に相助けられ[9]、翠鬟[10]に高々と水晶の梳を插せども、今となりては衣裳は襤褸、容貌は焦枯。蕭史の台の辺にて鳳に乘りし客に学ばず[11]、武陵の溪の畔にて羊を飼へる奴となれり。むかしを思へば、むかしを憶へば、繾綣として、歓娯をなせり。かのひとは鷹の指爪、蟒の身躯にて、いと粗暴、いと粗忽なり。話をするに、すぐに怒鳴れば、琴瑟はなど睦まめや。
（言う）あの龍は、
（唱う）わづかなる雲雨する期さへあらで、ひたすらに雷霆と怒らんとせり。われもまたおんみの栄華富貴を恋はず、鰥寡孤独を受けんことをぞ願ふなる。
（卜児）思へばわれは洞庭湖にて、いかばかり楽しかりしか。今、かばかりに虐げらるれば、げにやげにいとも悲しき。（唱う）
【油葫蘆】わが頭には風沙あり顔には土あり、顔を洗ふは涙の雨のみ。鬢は蓬鬆、冷たき風に梳かるるのみ。かのものは巫山廟裏に神女を尋ねてゆかんとはせず、われをして涇河の岸にて蘇武にしぞ学ばしめたる。今となりては、坐るも行くも不安なり。ふと振り返り、眼を凝らせば、家はいづこぞ、ただ嗟吁をつけるのみ。
（卜児）一通の手紙を書いた。人が届けてくれればよいが。（唱う）
【天下楽】わが家は南天水国にあり。実のところは、尺素の書のなきにあらねど、いかんせん衡陽は鴻雁の羽を伝へず[12]、黄犬も筋力疲れ[13]、錦鱗も性格愚なり[14]、幾たびか書を寄せんとしたれどもつねに隔たる。
（柳毅が登場、詩）客裏に愁多ければ春に気付かず、鶯を聞きてはじめて柳条の新たなるをぞ覚えたる。年ごとに落第し、東へ帰りゆきたれば、見ゆるを羞づ長安の旧主人[15]。
わたしは柳毅。今は大唐の儀鳳二年、上京、受験したものの、運は拙く、落第し、東へ帰る。友人が涇河県で役人となっているから、ついでに訪ねてゆこう。こちらは涇河の岸辺だが、遠くには一人の婦人が羊を飼っているのが見える。とてもおかしい。（会う）あのひとは眉を顰めて、眸を凝らし、待ち人があるかのようだ。進み出て一声掛けてみずばなるまい。娘さん、ごきげんよう。
（正旦）先生、ごきげんよう。お尋ねしますが、お住まいはどちらでしょうか。ご姓とお名は。どうしてこちらに来られましたか。
（柳毅）わたくしは淮陰の人、姓は柳、名は毅といいます。受験して落第し、たまたまこちらを通り過ぎたのです。娘さん、ご姓とお名は。どうしてこちらで羊を飼ってらっしゃるのでしょう。
（正旦）わらわは洞庭湖の龍女三娘にございます。父はわたしを涇河小龍に嫁がせて妻としました。ところが涇河小龍は粗暴不仁で、婢僕に惑わされたため、琴瑟が相和すことはなかったのです。舅はわたしに命令し、涇河の岸で羊を飼わせているのです。日々朝に起き、夜に眠り、日に焼かれ、風に吹かれ、虐げられてわたしは痩せてしまいました。このたびは手紙を一通書いたのですが、いかんせん届ける人がおりませぬ。おりよくも先生に遇いましたので、父に届けていただきたいと思うのですが、承知してくださりましょうか。
（柳毅）わたしは義夫にございますから、お言葉をお聞きして、気と血を動かされました。もちろん宜しゅうございます。ただ、娘さんはそのむかし、そのひとに従って、このような苦しみを受けるのを免れられればよかったのではありますまいか。
（正旦）先生はご存じないのでございます。わたしが一遍話すのをお聴きください。（唱う）
【那吒令】一言と半句のために、千辛と万苦を受けぬ。千辛と万苦を受けぬ。十親と九故を思へば[16]、十親と九故を思へば、三江と五湖にしぞある。憐れやな、われら夫婦は仲違ひして、かの姻縁簿[17]は誤りとなりしかど、すべてはわたしの浮気な夫のためなりき。
（柳毅）娘さん、ご主人がどのように恐ろしいのか、話してお聴かせくださいまし。
（正旦が唱う）
【鵲踏枝】嗔ること忿忿として胸脯を突き出し、悪しきこと哏哏として髭鬚を逆立つ。口を開けば霧を吐き、雲を吹く。玉を噀き、珠を噴くことなどはなし。かるく咳嗽せば風を呼び、雨を呼び、かのものの気の江湖を捲くを誰か知らざらん。
（柳毅）娘さん、どちらにお住まいなのでしょう。涇河からどのくらい遠いのでしょうか。
（正旦が唱う）
【寄生草】故郷を離れ、外府に到り、野塘千里を繞りつつ紅塵にしぞ歩みたる。残霞一縷青紗の霧をはるかに隔て、寒波万頃白蘋の渡を望めども見ず。
（柳毅）お見受けしますに、娘さんはきれいなお顔をされており、身分の低いお方ではございますまい。ひょっとして鳷鵲殿[18]で生長なさったのでしょうか。
（正旦が唱う）鳷鵲殿で生まれましたはもちろんのこと、わが家は鸚鵡洲辺にしぞ住めるなる。
（柳毅）ああ、娘さん、そのように仰るのなら、お家は洞庭湖の水中にあるのですね。手紙を届けてさしあげようにも、塵凡は隔たっていますから、どうしてそこにゆくことができましょう。
（正旦が手紙、金釵を出す）ご承知頂けましたから、路案内をいたしましょう。わが洞庭湖の入り口に、廟があり、香案の脇には一本金橙樹があり、里人は社橘と称しておりまする。おんみがわたしの金釵でその樹を鳴らされれば、わたしの家から人が出てくることでしょう。
（唱う）
【幺篇】わが家の沙浦近くに廟あり、廟の前に到りなば金の釵をしかと持ち、香案の辺にて金橙の樹を鳴らしなば、水の中には金沙の路が開かれて、巡海の夜叉が走りきて、手紙を届くる先生を背負ひゆくべし。
（柳毅）それならば、手紙を届ける使者になってあげましょう。ただ、後日、洞庭に帰られましたら、どうかわたしを避けられないでくださいまし[19]。
（正旦）避けたりはいたしませぬ。大恩人はわが親戚も同じことです。（唱う）
【賺煞】われはなど鳳凰台に上るに倦みて、鴛鴦浦へと対ふを羞づることあらん[20]。霹靂の火の無情の夫は、かつて海蔵龍宮につれあひしかど、水魚のごとくすることはたえてなかりき。むなしくたちもとをりたれば、姿寂しく、われの涙は落花の雨よりも多かりき。ありがたや。汝は心腸ある雁足となり、われをして龍に乘り、帰らしめんとしたまへり。（拝し、唱う）あらゆることは涙とともにしたためし両親に寄する一通の書にしぞある。（退場）
（柳毅）あのひとは神であろうか、鬼であろうか。とりあえず手紙を持ってただちに洞庭湖の廟の前へゆこう。
（詩）涇河の岸でゆくりなく三娘に遇ふ。離愁を訴へ雨の涙は幾そ筋。これより洞庭湖にゆきて、この書を龍王に寄せんとしたり。（退場）
第二折
（柳毅が登場）わたしは柳毅。龍女三娘と別れて、はやくも洞庭湖に着いた。湖の入り口にほんとうに廟があり、廟の前には一本の金橙樹がある。こうして見ると、龍女が言っていたことはほんとうに嘘ではないのだ。今、この金釵を取り出して、この樹を撃とう。（撃つ）
（浄が夜叉に扮し登場、詩）湖上にて神通を顕はして、浪を作し、風を興せり。蝦元帥を知ることはなく、鼈相公を語りたるのみ[21]。
わたしは巡海夜叉。誰かが金橙樹を鳴らしている。水面を掻き分け、見てみよう。おい、おまえ、何者だ。なにゆえにこの金橙樹を鳴らしておるのだ。
（柳毅）淮陰の秀才で、柳毅といいます。洞庭君にお会いすれば、おのずと話がございます。
（夜叉）秀才どの、眼を閉じてわたくしに従ってこられませ。（ともに退場）
（外が洞庭君に扮し、老旦の扮した夫人とともに登場）わたしは洞庭湖の老龍。近頃、わたしの娘の龍女三娘が涇河小龍に嫁いで妻となったのだが、行った後、音信がまったくないので、とても心配しているところだ。今日の昼、太陽道士の『道德経』の講義を聴いている最中に、人が金橙樹を鳴らしたと報せがあった。すでに巡海夜叉を尋ねてゆかせたが、そろそろやってくるだろう。（夜叉とともに柳毅が登場）
（夜叉）秀才どの、おんみはこちらで待っていられよ。
（柳毅）かしこまりました。
（夜叉が報せる）上聖さまにお知らせ申し上げまする。秀才が金橙樹を撃ち、みずから上聖さまに会いたい、おのずと話があると申しておりまする。
（洞庭君）通すがよい。
（柳毅が会い、驚いて拝礼する）
（老龍）水府は幽深、寡人は暗昧。秀才どの、どちらのお方じゃ。危険を冒してこられたが、どのようなお話じゃ。
（柳毅）わたくしは淮陰の人、姓は柳、名は毅ともうし、落第し、東へと帰るため、たまたま涇河の岸を過ぎ、一人の婦人に会ったのですが、それが龍女三娘さまで、羊を飼っていられました。虐げられて顔色は憔悴し、まったくむかしと違っていました。わたくしに一通の手紙を届けるようにと言われましたので、神さま、ご覧下さいまし。
（手紙を渡す、洞庭君が受け取り、夫人とともに見、驚き、悲しむ）
（老龍）このような事があったか。（謝する）秀才どの、ありがとうございます。手紙をこちらへ届けてこられ、遠路ご苦労さまでした。
（夫人が哭く）娘や、このようなことになり、どうしたらいいだろう。
（洞庭君）待て、待て。夫人よ、大騒ぎをするな。弟の火龍に悟られてはならぬ。秀才どの、ひとまず明珠宮に行き、しばらく腰を掛けられよ。左右のものよ、食事を調え、秀才どのを款待するのだ。
（夜叉が柳毅とともにしばらく退場）
（外が銭塘君に扮して登場、詩）満目の霞光は宇宙に籠め、溌天の波浪は人魂を恐れしむ。鼻の中より噴き出す千条の焰、身を翻し卷き起こす万堆の雲。
わたしは火龍。兄上は洞庭老龍。わたしはなにゆえこちらで閑居しているか。唐堯の時、あやまって雨を降らせて、天下に九年洪水の害を与えたために罰せられ、ずっとこの銭塘は水簾洞で罪を受けているわけだ。今日は何事もないから、洞庭湖へ兄上を訪ねてゆこう。はやくも着いた。夜叉よ、取り次げ、わたしがきたと。
（夜叉が報せる）上聖さまにお知らせ申し上げまする、銭塘火龍がまいりました。
（洞庭君）お通ししてくれ。
（夜叉）お入りください。
（会う）兄上、姉上、わたくしはまいりましたぞ。
（洞庭君）弟よ、掛けるがよいぞ。
（銭塘君）兄上、この海蔵になぜ一陣の生身の人の気があるのでしょう。
（洞庭君）弟よ、わたしのところに、一人の俗世の秀才がおり、大事なことを話しているのだ。弟よ、ひとまず席を外していてくれ。
（銭塘君）かしこまりました。この門を出るとしよう。ひとまず去らずに、こちらでかれが何を話すか聴くとしよう。
（洞庭君）夫人よ、さきほどの柳先生は、われらの娘が苛められ憔悴したと仰った。
（夫人）娘は手紙にはっきりと書いております。涇河の小龍が妾に惑わされ、琴瑟は和していないため、罰せられ、涇河の岸で羊を飼うているとのことです。（悲しむ）娘はどうしてかような恥辱に耐えられましょう。大王さま、すみやかに人を遣わし、娘を取り戻してこられてはいかがでしょうか。
（洞庭君）夫人よ、もうすこし小声で話せ。銭塘の弟がこちらにいるのだ。あのものに知られたら、怒りを発して、大変なことになろうぞ。
（銭塘君）このようなことだったのか。涇河の小龍め、無礼なやつだ。わたしの龍女三娘に涇河の岸で羊を飼わせ、わたしの顔を辱しめたな。兄上、おんみがわたしを瞞かりょうとも、わたしは我慢できませぬ。今日は配下の水卒を点呼して、にわかに鉄鎖を引き裂いて、ただちに天堂へと奔り、みずから上帝さまに会い、わが衷腸を訴えて、信義のない業畜が、わたしの龍女に羊を飼わせていることを話すとしましょう。いそいで水卒を点呼しよう。龍王に告げることはない。かならずや涇河の岸を、漢洋江[22]にしてくれようぞ。（退場）
（夜叉）上聖さまにお知らせ申し上げまする。火龍が配下の水卒を引き連れて、涇河小龍と戦いにゆきました。
（洞庭君）このようなことになり、どうしたらよいだろう。とりあえず柳秀才には知らせるな。この戦いは小さなものではないだろう。上客を驚かせては、大変だ。水卒を点呼して、弟の応援をしにゆかせよう。
（詩）言葉を聴きて、ただちに海蔵をば離れ、雲霧に駕して空中を自ら降れり。涇河小龍が逃げたらば、すみやかに九重の天上にしぞ追ひゆかん。
（夫人、夜叉ともに退場）
（小龍が水卒を率いて登場）わたしは涇河小龍だ。龍女三娘が従おうとしないため、かれを罰して涇河の岸で羊を飼わせた。ところがどこかのろくでなしめがあいつのために、手紙を届けていったため、このたび、銭塘火龍が来、わたしと戦おうとしている。大小の水卒よ、わが命を聴き、陣を布くのだ。火龍がそろそろやってこようぞ。
（銭塘君が登場）水卒よ、一文字に並ぶのだ。おい業畜、そなたはたいしたことはあるまい。わたしはそなたと交戦しようぞ。（陣を調える）
（小龍）あのものに近寄れぬわい。逃げろや逃げろ。（退場）
（銭塘君）あのものは神通が浅く、法力が弱いため、近寄れず、逃げてしまった。どこであろうと追ってゆこうぞ。（退場）
（小龍があわてて登場）三十六計、逃ぐるにしかず。わたしはかれに近寄れない、今からどこへ逃げてゆこうか。やむなく小さな蛇に変わって、淤泥の中に逃げるとしよう。
（銭塘君がふたたび登場）追い掛けてこちらに来たが、いったいどうして見えなくなってしまったのだろう。（見る）あいつは恐がり、小さな蛇に姿を変えて、淤泥の中に逃げたのか。ただではすまさぬ。とりあえず、捕まえて、一口で腹に呑み込み、まだ悪さする力があるかを見るとしよう。今から兵を収め、凱歌を奏で、兄上にご報告しに行こう。（退場）
（涇河老龍が登場）わたしは涇河老龍。このたび銭塘火龍がうちの小龍と戦ったのだが、勝敗はいまだに知れない。雷公電母を見にゆかせたが、そろそろ勝利を報せてこよう。
（正旦が電母に装いを改め、両手に鏡を持って登場）この戦いは並大抵のものではない。（唱う）
【越調闘鵪鶉】かれら二人は天の北、天の南、海の西、海の東、雲は閉ざして雲は開き、水は掩ひて水は噴き、煙は罩ひて煙は飛び、火は焼きて火は烘るなり。卒律律[23]と電影は重なりて、古突突[24]と、霧気は濃く、幾たびか骨碌碌[25]たる轟雷と、一陣の撲簌簌[26]たる怪風をしぞ起こしたる。
【紫花児序】薪を負へる樵子をいたく驚かさんとせり。薬を採れる仙童をいと慌てしめ、網を打つ漁翁をひどく脅かす。たえて見ず、紅蓮の日に映えて、翠蓋の風を迎ふるを。覆へるは、みな鬼卒神兵の四方より攻めよするなり。わが両脚は空を踏み、可擦擦[27]と紅塵に墜落せんとす、
（言う）お報せにございます。お報せにございます。
（唱う）わが青銅[28]を転んで破れり。
（老龍）電母どの、雲霧の中より来にければ、いづれが優勢なりしかを言へよかし。雷公電母は霊通を顕はして、電を掣き雷を轟かす縹渺の中。両陣の相持して勝敗を分かちしことは、ことごとく来たりし神の啓かん口の中にあるべし。こたびの戦はいづれが敗れ、いづれが勝ちしや。電母どの、息が鎮まらば、ゆるゆる一遍話さるるがよし。
（電母）ほんとうにすばらしい戦にございました。（唱う）
【小桃紅】小龍は大いに水殿をば開き、金鍾を飲み、厮琅琅[29]と幾部かの笙歌を送れり。しらぬまに天辺に黑雲は重なりて、昏鄧鄧[30]と籠めんとしたり。忽剌剌[31]と半空に霹靂の声は動きて、古都都[32]と瓦隴[33]をば剥がし、吸哩哩[34]と斗栱を抬げ、滴溜溜[35]と水晶宮を翻したる。
（老龍）火龍は大いに勇烈を施して、わが小龍は服することなく、強きを競へり。こなたに火光は燦燦として天関に触れ、あなたに風雨は颼颼として地角に迷る。げに江は翻り、地は沸り、地は震へ、山は揺らげり。火龍はいかやうに怒りしか、小龍はいかやうに忍びしか。もう一度ゆるゆると語り聴かせよ。（電母が唱う）
【紫花児序】たちまちに陰雲は地を覆ひ[36]、淹せるは、洪水の天に滔る。騰るは、烈火の空を飛びたる。涇河の龍は碧落に逃げ帰り、銭塘の龍は蒼穹に追ひて上れり。両条の龍の威風は、鼈大夫、亀将軍、鼉相公らをいと脅かすことならん。今、おのおのは神通を戦はせ、はやくも海島十洲を翻し、華岳三峰を倒さんとせり。
（老龍の『西江月』詞）火龍は狂煙烈火に頼り、小龍は驟雨飄風を逞しうせり。火は来たり、雨は去り、勢は汹汹として、おのおのがその場にて力を示せり。火が起こりなば、雨はよくそれを滅ぼし、雨が飛びなば火も攻めきたれり。大空に二龍は争ひ、いづれかもつとも勇ましき。わが小龍は神通は広大にして、変化は多端、火龍は大したことはなからん。ひとまず息が鎮まらば、もう一度話せかし。
（電母が唱う）
【鬼三台】二匹の龍は身躯を伸ばし、乾坤を震はしめたり。悪哏哏と勇ましく、赤焰焰たる紅は天に満ちたり。かたや撞り、かたや衝き、たとひ心が鉄石なりとも恐るべく、銅山鉄壁ありとも、役には立たざらん。銭塘龍は水に逆らひ、いそぎ截り、涇河の龍は淤泥の裏に潜りこみたり。
（老龍）そのかみ龍女三娘は涇河の岸で羊を飼った。かのものの父母はいずれも洞庭湖に居り、はるかに隔たり、かれらに手紙を届ける者は居ないのに、どうして気が付いたのだろう。ゆっくりともう一度話すがよいぞ。
（電母）上聖さまがくだくだしいのを厭われぬなら、申し上げるのをお聴きください。（唱う）
【調笑令】うたてしや、かの業龍は－わが老旦那さまに申し上ぐべし[37]－かの龍女三娘のため禍を招きたるなり。思ふにかれは涇河の岸に千種の愁を抱きつつ、悶懨懨と眉峰を蹙め、損なひて、ひそかに手紙一通を書き、両親に訴へんとし、哭啼啼と賓鴻をしぞ待ち侘びしなる。
（言う）手紙を届けた人のことも調べましたが、そのものは淮陰の人で、柳毅ともうします。
（唱う）
【禿厮児】三娘は運が開けて、さらにかの柳毅と逢へり。かのものは始めから終りまでいきさつを述べ、書を洞庭の龍宮に寄せきたるなり。
（老龍）凡人柳毅が三娘のため、手紙を届けて洞庭湖へと行ったのか。三娘の父母は手紙を見、いったいどうしたのだろうか。
（電母が唱う）
【聖薬王】父親は手紙を読み、怒をば胸に満たしめ、母親は報を聴きて、珠の涙を傾けぬ。かのひとの哭く声は翠簾籠[38]へぞ吹き入るる。銭塘龍の忿気は烈しく、粗鉄の索さへも葱のごとくに断たるべし。はやくも磕塔と金鎖を裂きて蛟龍は逃げ、撲騰と日華の東にしぞ飛び過ぐる。
（老龍）火龍は勇ましいとはもうせ、われら涇河の龍たちは風を呼ぶことができ、雨を呼ぶことができ、雲に騰ることができ、霧に駕することができる。部下には水卒鬼兵がおり、神通変化するのであるから、かれより弱いはずがあろうか。もう一度話してみよ。わたしは聴いてみるとしよう。
（電母が唱う）
【拙魯速】わが水卒は二重三重、鬼兵は数百種、いささかも力を緩むることぞなき。ひたすらに突撃するは、ことごとく魚鼈黿鼉と随従ぞかし。しかと阻みて、陣頭に交戦し、かのものを苦淹淹と葬り去るべし。
【幺篇】負けたれば乱蓬蓬[39]、傷つけば鬧茸茸[40]たり。かれらは紅絨をば断たれ、熟銅を外されて[41]、弦は雕弓をば絶たれ、剣は霜鋒をしぞ缺かるる。かれらは動くは難くして、休む暇なく、推しあひて、劈丟撲冬と、水の中にて行水をせり[42]。
（老龍が悲しむ）わが家が負けるとは思わなかった。電母よ、今、小龍はどこにいるのだ。
（電母）小龍さまのことをまだお思いですか。あのかたは追われて慌て、一匹の小蛇に化けて、淤泥の中に隠れましたが、火龍によって一口で腹に呑まれてしまったのです。ほんとうにお可哀想に。（唱う）
【収尾】かれは金蛇の電影の内に神威を示したり。見よやかの霸橋の北と、涇河の岸の東を。われはただ、血の水の淹淹と流れ、江湖となれる、尸骸の滾滾と溶け、丘塚となれるを見るのみ。（退場）
（老龍）われら水府の情況が、凡人の手に落ちて、わが小龍を酷い目に遭わされようとは思わなかった。とりあえず我慢して、ゆっくりと計略を考えて、復讐すればよいだろう。
（詩）いづこの一迂儒、公然と手紙を届けて、わが潜龍の種を滅ぼし、羊を飼へる奴を奪ひゆきたりし。「恨が小さくば君子に非ず、毒なくば丈夫ならず」。かならず威力を逞しうして、洞庭湖をば満たさばや。（退場）
第三折
（洞庭君が水卒を率いて登場）わたしは湖庭老龍だ。弟の銭塘火龍は涇河小龍と戦いにいったが、勝敗はどうなっただろう。そろそろやってくるはずだ。
（夜叉が登場、報せる）上聖さまにお知らせ申し上げまする。火龍が勝利して戻ってまいりました。
（洞庭君）はやく隊伍を整えて、迎えにゆくのだ。
（銭塘君が登場、会う）兄上、勝利して戻ってまいりました。
（洞庭君）生霊を殺さなかったか。
（銭塘君）六十万にございます。
（洞庭君）禾稼を損なわなかったか。
（銭塘君）八百里にございます。
（洞庭君）薄情者はどこにいるのだ。
（銭塘君）なぜお尋ねになるのでしょうか。腹の中に呑みこんでしまいました。
（洞庭君）それもよかろう。あのものは不仁だが、そなたもひどく性急だ。上帝さまがお許しにならない時は、どうしたらいいだろう。
（銭塘君）兄上、お怒りを晴らしてさしあげたのですよ。怒りをぶちまけられなかったら、我慢ができなかったでしょう。
（洞庭君）弟よ、相談がある。思えばむかし柳秀才が手紙を寄せてこなければ、娘の命はなかっただろう。「恩を知り、恩に報いる」というではないか。左右のものよ、柳秀才を呼んできてくれ。
（夜叉）柳秀才さま、どうぞ。
（柳毅が登場）わたしは柳毅。洞庭湖に来て、この海蔵に幾日か留まっている。龍王が呼んでいるのは、何事だろうか。会いにゆかねばならぬわい。（会う）
（洞庭君）秀才どの、手紙を届けて下さったので、わたしの龍女三娘は救われました。このたびおんみを招いて婿にしたいのですが、いかが思し召されましょう。
（柳毅が背を向ける）思えば龍女三娘は、涇河の岸で羊を飼っていたときは、ひどく憔悴していたから、必要ないわい。（振り返る）神さま、何を仰います。わたし柳毅は一点の義気のため、危険を冒し、手紙を届けたのでございます。夫を殺してその妻を奪うなら、義士とするには足りませぬ。くわえて母は高齢で、世話するものがおりませぬから、帰らせていただきたいと思います。
（銭塘君が怒る）秀才どの、思うに姪は十分おんみと釣り合いますぞ。今日承知なさればよし、承知なさらぬのであれば、わたしはおんみを糞土に塗れさせましょうぞ。ふたたび還ることができると思われますな。
（柳毅が笑う）それは違います。洪波の中ならば、鬐を揚げて、鬣を鼓わせ、風、浪を引き起こすのは、すべておんみのご勝手にございます。今日は衣冠を身に着けて、酒筵の上にいられますから、虫蟻の心を逞しうすることはできませぬ。
（銭塘君が揖をして、謝る）一時、酔うて失言し、たいへん失礼いたしました。秀才どのにはお咎めになられませぬよう。
（洞庭君）弟よ、それでよいのだ。秀才どのがどうしても承知しようとなされぬのなら、どうして無理強いできようか。左右のものよ、龍女三娘を呼び出して、手紙を届けていただいたご恩に拝謝させるのだ。さらに金珠財宝を送り、帰ってゆくのをお送りするのだ。
（夜叉）かしこまりました。龍女三娘さま、どうぞ。
（正旦が登場）叔父の銭塘火龍に救われ、また洞庭湖にやってきた。こうなったのも手紙を届けた柳毅秀才さまのおかげだ。今日、父上は水殿で筵席を調えて秀才さまを款待し、わたしを呼び出しにこられた。わたしにお礼をさせるのだろう。わたしが思うにこの恩德は甦らされたかのようなもの。一回の拝礼のみでどうして報いることができよう。（唱う）
【商調集賢賓】わたしの手紙を寄せてきたりし秀才はあやまちて立身すとも、などかたやすく青雲に上るを得べけん。かのひとは長安市にて虎榜に登らざりしかば、わたしを涇河の岸に救ひて羊の群を離れしめたり。かのひとは至公楼[43]にて、鰲頭を独占するを望みしかども、本日は洞庭湖にて龍門をしぞ跳び越ゆる。わたくしの重畳畳たる眷姻らは哂ふに堪へたり。新婚を成就せずんば、珍宝を調へて、大恩人のおんみに報いん。（歩き、唱う）
【金菊花】わたしの凌波の襪は小さくして、階に上れば痕あり。手に水の瀝れる湘裙[44]を提げて、おんみとともに殿門にしぞ入りぬべき。この渾金[45]の椅子の前にて、（両親に会い、唱う）二親に会ふ。電は馳せ、雷は奔りたるなり。
（銭塘君に会う）
（唱う）風雲に駕する叔父さま、ほんたうにご苦労さまにござゐました。
（銭塘君）姪よ、わたしは苦しくないが、そなたは苦しいのではないか。
（洞庭君）柳先生がいなければ、今日はなかったな。先生に拝謝しにくるがよい。
（正旦が唱う）
【梧葉児】わたしはこちらで袂を掩ひていそいで進み[46]、愁ふる顔を改めて喜べり。（拝謝して、唱う）挨拶をして寒温[47]を叙ぶ。水路では風波は悪しく、陸路では旅程は忙し。かやうに辛苦に耐へたれば、おんみはまさに遠路風塵の故人なり[48]。
（柳毅）この娘さんはどなたでしょうか。
（洞庭君）娘の龍女三娘にございます。
（柳毅）龍女三娘どのですか。羊を飼っていた時とまったく違っていらっしゃる。このことを知っていたなら、結婚をお約束してもよかった。
（正旦がななめから見て、嘆く）ああ、これぞまさしく「悔やむとも晩し」というもの。
（唱う）
【後庭花】われは幾度も結婚せんと言ひたれど、かのひとはあまんじて勘婚[49]せられず。口に任せて返事せられず。なにゆゑぞ横より人を盗み見る。われはこちらで両眉を顰むれば、かのひとは芳信をひそかに伝へんとぞすなる。面と向かひて縁談を断れど、心の中では気を引かんとす。わが叔父が怒りなば、そのときはなど忍ばめや。一声吼えば風の力は強くして、半天の煙霧を吐きて、かるく喝せばなんぢの魂を摂し、かるく触れなばなんぢの身をぞ分かつべき。見よ、かのひとは凶悪なるやならざるや。かのひとはかねてより恩情ありやあらざるや。
（柳毅）凡人のわたくしが天仙に遇うことができ、慕う心のないはずはございませぬ。ただ母親は年老いて、世話するものがおりませぬため、この縁談を断ったのです。これもまたやむを得ぬことにございます。
（正旦が唱う）
【柳葉児】秀才どの、おみをして家はあれども身を寄すること難からしめん。寡宿孤辰は得耐へざるべし[50]。なにゆゑぞおんみはみづから四海三江の悶を招きたる。おんみはまことに心は順、意は真なり。秀才どの、暮の雨、朝の雲をな愁へそね。
（洞庭君）秀才どのが戻ってゆこうとなさるなら、ささやかな宴を設け、謝意を表すことにしましょう。あちらでは楽隊に演奏をさせましょう。娘よ、秀才どのに一杯の酒をお出しするのだ。
（正旦が酒を出し、唱う）
【醋葫蘆】歓娯を共にし繍衾に伴ふことは叶はねば、殷勤に玉尊を傾けんとす。かのひとは酒杯を置いて飲まざれば、はやくも酔ふこと醺醺たらん。
（洞庭君が歌う）上天の配合は生死途あり[51]、こちらは婦となるを得ず、あちらは夫となるを得ず。腹心は涇河の隅に苦しみて、風霜は鬢に満ち、雨雪は襦を沾せり。明公に頼りて素書を届けしめ[52]、骨肉をして家を初めのごとくにぞせしめたる。ながく珍重と言ひてやむ時なからん。
（内が楽を奏でる）
（夜叉）これは『貴主還宮』[53]の楽にございます。
（正旦が唱う）『貴主還宮』は安楽なりとおんみは言ひて、かのひとを棄て、構ふことなからしめたり。ああ、今やまことに洞庭君をいたく怨める。
（銭塘君）姪よ、さらに一杯差し上げるのだ。あちらでは楽隊に演奏をさせるのだ。
（歌）大天は蒼蒼として大地は茫茫、人はおのおの志を持てどいかでか慮るを得ん[54]。狐神鼠聖は社に薄り牆に依れども、雷霆が一たび発せば、それ誰か防ぐべけんや。真人の信義に厚く、骨肉をして故郷へ還らしめしに感謝せり。徳に配せんことを願ひていづれの時にか忘るべき[55]。
（内が楽を奏でる）（夜叉が報せる）これは『銭塘破陣』の楽にございます。
（正旦が唱う）
【金菊香】これぞ『銭塘破陣』にて、楽は紛紛。半ばは湖の風に入り、半ばは雲にぞ入れるなる。筵前に幾度か聞くを得ん。
（銭塘君）秀才どの、この縁談を成就されても、恥かしいことはございませぬに。
（正旦が唱う）剣の舌と鎗の唇をば、今もなほ逞しうして、大いなる媒妁のおんみはいたくぞありがたき[56]。
（卜児）水卒よ、どこにいるのだ。宝物を持ってくるのだ。
（夜叉が小道具を捧げて登場、正旦）秀才さま、差し上げるものもとりたててございませぬが、これらの珠宝をお送りしましょう。家に帰って年老いたご母堂に差し上げてくださいますよう。ささやかであるのを厭われませぬよう。
（柳毅）たいへんありがとうございます。娘さん。
（正旦が唱う）
【浪里来煞】このささやかなる礼物を、先生よ、な拒みたまひそ。送別をせる者になど贐のなかるべき。おんみは頑固を装ひて、わたしと結婚したまふことはなかりしかば、二つ処に憔悴すべし。わたくしは龍宮で退屈し、かのひとは水村と山館で黄昏に得耐へざるべし。（退場）
（柳毅）本日は神さまに別れを告げて、わが家に戻ってゆきましょう。
（銭塘君）もう一度来られますなら、会うことができましょう。このたび会われたことをお忘れなきように。
（柳毅の詩）龍王さまの良縁を結ぶを約束せんとせられしことに感ぜり。いかんせん衰老の両親あるを。前世の縁の薄からずんば、年若き佳人をいかで得棄つべき。（退場）
（洞庭君）柳毅はいってしまった。こういうことなら－本日は結婚が成就することはなかったが－後日また機会をとらえて、あのひとの大恩に報いよう。
（銭塘君）兄上の仰ることはご尤もです。わたしがさきほどむりに媒妁しようとしたのはよくないことにございました。これからはやんわりとあのひとの結婚を成就しましょう。まさに、「姻縁、姻縁、事は偶然には非ず」、こたびはうまくゆきませなんだが、ひとまず三年待つことといたしましょう。（ともに退場）
第四折
（登場）柳毅の母じゃ。倅が官職を求めにいってから、音信はまったくなく、老いぼれはとても心配。ああ、倅はいつになったら戻ってくるのやら。
（柳毅が登場）わたしは柳毅。洞庭湖から戻ってきて、はやくもわが家の入り口に到着だ。取り次ぐ人がいないから[57]、そのまま入ってゆくとしよう。（入って会う）母上、倅が戻りましたよ。
（卜児）倅や、家に戻ったか。いったいどんな官職を得たのだえ。
（柳毅）母上、わたしは落第し、東へと帰ろうといたしましたが、涇河の岸で、龍女三娘がわたしに手紙を届けるようにいいましたので、洞庭湖にゆき、龍王に会いました。龍王は手紙の趣旨を見、わたしを招いて婿にしようとしましたが、わたしがかたく断りますと、宝物を持ってきて礼をしました。それゆえに長いこと暇取って、お世話することがかないませんでした。母上、お咎めになられませぬよう。
（卜児）これも仕方のないことだ。そなたが去った後、わたしは日がなそなたを思うていたのだが、近頃、そなたのために縁談を調えたのだ。范陽の盧氏の女だ。本日は吉日だから、すぐに嫁入りさせるとしよう。結婚の期日を遅らせてはならぬ。
（柳毅）母上のご命には、負くわけにはまいりませぬ。ただ、以前、龍女三娘はわたしを招いて婿にしようといたしました。わたしは承諾しませんでしたが、心の中にはあのひとのことがあり、他人を娶るに忍びませぬ。
（卜児）息子や、それはいけないよ。とにかくわたしに従うのだよ。
（正旦が媒妁とともに登場）わたしは龍女三娘だ。そのむかし柳秀才に命を助けていただいたため、一心にかれに報いようとしている。父母はわたしを憐れと思い、わたしを盧氏の娘にし、柳秀才の妻とすることとなされた。今日があろうとは思いもよらぬことであった。（唱う）
【双調新水令】誰か思はん。並頭蓮の情は断たれて藕絲は長く[58]、われに波をぞ逐はしむる。これぞまさしく「相逢ふも話すことなく、見えずば物思へる」なる。玉を惜しみ香を憐れむことはなく[59]、かのひとの依怙地な性はなほ強し。
（内が楽を奏でる）
（正旦）これは何の響でしょうか。
（媒妁）結婚の楽隊にございます。
（正旦が唱う）
【駐馬聴】高々と熒煌ける画燭を点し、雲となり、雨となり、洞房に会はんと言へり。仙音の嘹亮たるをじつくりと聴く。わたくしは幾そたび愁へつつ華堂に到りし。平湖十里の芰荷[60]の香を離れ、かのひとの禹門[61]三月桃花の浪を誰か思はん。
（言う）柳毅さま、どうかわたしをお認めください。
（唱う）情は惨しみ、おんみの熱き心腸もこのことを見破れず、
（媒妁が入ってきて報せる、柳毅が結婚し、母を拝する）
（柳が旦を見て驚く）ああ、新婦の顔がなぜ龍女三娘と同じなのだ。
（媒妁に尋ねる）娘さんはどちらの盧氏にございましょう。
（媒妁）范陽の盧氏にございます。
（正旦が唱う）
【夜行船】かのひとはくどくどとひたすらに行蔵[62]をしぞ尋ねたる。われら二人は涇陽に相見えたり。官人にはつきりと話さんとしたれども、肉身の人々[63]のわれを荒唐なりと言ふことを恐れつ。眼の悪しき襄王は対面すれどもなほも夢かと疑ひたまへり。
（卜児）柳官人、どうして昔のことを思われないのでしょうか。
（柳毅）娘さんとはふだんから面識がございませぬから、昔を思うことなどはございませぬ。
（正旦が微笑する）柳官人、おんみはまことにぼんやりとしていらっしゃる[64]。（唱う）
【沽美酒】わたしもかつて人奴となりて羊を飼へり。ありがたや。おんみは手紙をわたしの老いたる父母に届けて、わたしを救ひ、難を避け、災を逃がれ、故郷へ還らしめたり。毎日、眠りては思ひ、坐しては思ひ、昼も夜も悲しみに耐ふ。
【太平令】などて涇河の堤の傍を記憶したまふことのなき。
（柳毅）おんみはどなたか。
（正旦が唱う）わたくしは龍女三娘。道はざりき。わたくしの愁ふる容の、おんみの牙床[65]錦帳に伴はんとは。今日こそはめでたく、やすく、たのしけれ。ああ、ともに龍宮海蔵に帰るべし。
（柳毅）天下にかようにおかしなことがあろうとは。母上。新婦のまことの苗字は盧ではございませぬ。かれはわたしがそのむかし涇河の岸で手紙を届けた龍女三娘。盧の姓を冒しているのでございます。わたしと夫婦と成ることは、まさしく前世の姻縁にございます。
（卜児）それならば、息子や、めでたいことだねえ。
（正旦）柳官人、お尋ねしますが、そのむかし、涇河の岸で遇った時、「後日、洞庭を通る時には、どうか避けられませぬように」と仰いましたが、ほんとうにその積もりだったのですか。
（柳毅）おんみとはふだんから面識はなかったのですが、おんみのために手紙を届け、戯言を云ったのでございます。眷属となろうとは思ってもいませんでした。
（正旦が唱う）
【雁児落】恩人のおんみを忘るるわけにはゆかず、さいはひに賤妾はなほも恙無ければ、盧家と称して范陽に住み、ことさら柳氏に嫁がんとして淮上にしぞ来たるなる。
【得勝令】ああ。かならずやおみをして紫霞觴[66]にともに酔はしめ、紫游繮[67]をばともに挽くべき。
（柳毅）人の世に来られた以上は、どうしておんみの処へ還ってゆくことができましょう。
（正旦が天を指さし、言う）えい、柳官人、ご覧なされ。
（唱う）なにゆゑぞ天際に秋虹[68]の起こるを見ざる、
（言う）お義母さま、今すぐ橋にお登りください。
（唱う）藍橋に玉漿を飲むことを羨まめやは。（母を介添えする）
（唱う）おんみの萱堂を介添へし、ただ覚ゆ、両耳に波涛の響くを。はやくも扶桑を過ぎぬれば、たちまちに洞庭の湖に橘柚の香るを聞けり。
（洞庭君、夫人、銭塘君が楽隊を連れて出迎える）親家母どの、お入りください。
（洞庭君が柳毅を指さす）柳秀才どの、お喜びあれ。（旦を指さす）娘よ、喜べ。
（銭塘君が笑う）柳先生、おんみの義気はいずこにあるのでございましょう[69]。わたしの姪とご結婚なさいましたな。
（柳毅が正旦とともに拝する）大王さま、わたくしに今日があろうとは思っておりませんでした。
（正旦が唱う）
【鴛鴦尾煞】わたくしは洞庭の湖にうたてき風と浪を避け、綺羅の叢にて愚かなる張敞に遇ふを得しなり。浪は蛟綃[70]をば蘸し、雲は霓裳をしぞ鎖せる。先日は、ありがたき、信義ある先生にして、本日は、翻意することのなき新郎となりたまひたり。蘭堂と画閣に向かひ、描写は流蘇帳に在り[71]。語るとも尽くることなき星斗の文章は、みな風流の話にせられ講ぜられたり。
（洞庭君の詞）姻縁は俗世の人に基けば[72]、宿縁に根蒂ありて、除くは難し。今日、ゆくりなく夫婦と成りて、つひに初めのごとくなりたり。至誠がなくば鱗甲と称するを羞ぢ、信義があらば豚魚[73]をも感ぜしむべし。これぞまさしく、涇河の岸で三娘は恨みを訴へ、洞庭湖『柳毅伝書』を締めくくるなる。
