翠紅郷児女両団円雑劇
楊文奎撰
楔子
（搽旦が李氏に扮し、二浄の福童、安童とともに登場）
（搽旦の詩）人に千日の宜しきことなく、花に百日の紅きことなし。早々に策を立てねば、やがて空しくなりぬべし。
わたしは姓は李と申し、夫は姓は韓という。夫ははやくに亡くなって、わたしが生んだ二人の息子は、一人は福童、一人は安童と呼ばれている。おとうとは韓弘道、いもうとは張二嫂。天をも打たんとするほどの財産を、かれらは持っている。わたしはこれより財産分けをしようと思うが、二人の息子はいまだに妻を娶っていない。福童よ、おばさんを呼んでくるのだ。
（福童が呼ぶ）おばさま、どうぞおいでください。
（二旦が張氏に扮して登場）甥っ子や、わたしを呼んでどうしたのだえ。
（福童）母がおばさまを呼んでおります。
（二旦）それならば、行かずばなるまい。入り口にはやくも着いた。取り次ぎをしておくれ。
（福童）母上さま、おばさまがいらっしゃいました。
（搽旦）お呼びしてくれ。
（福童）おばさま、どうぞ。
（二旦が搽旦に会い、拝礼をする）おねえさま、わたくしを呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう。
（搽旦）いもうとや、掛けておくれ。わたしがあなたを呼んだのは、ほかでもない、財産を分けようとしているのです。わたしの二人の息子たちは、結婚をしておりませぬ。
（二旦）おねえさま、わたくしの勝手にはできませぬ。夫の韓二が家に来ましたら相談をいたしましょう。
（搽旦）福童や、入り口で見ていておくれ。おじさんが来たら、知らせておくれ。
（正末が韓弘道に扮し登場）わたしは蠡州白鷺村の人、姓は韓、名は義、字は弘道という。先祖は農民、蓄えた財産は万貫あまり。わたしには兄の韓弘遠があったが、とうの昔に亡くなった。兄は二人の子を遺し、長男は福童、次男は安童といわれている。二人の甥は、四歳前後の頃から父がなかったために、わたしがかれらを育て上げたが、いかんせん嫂は、性格がややひねくれている。さいわいにわが妻の張氏は賢く、わたしの年が六十路に近く、跡継ぎがないのを見ると、わたしのために妾をとった。妾は姓は李、字は春梅、今ちょうど、身籠っている。このところ、嫂と二人の甥は、心の中でまことに不愉快そうにしている。春梅が身ごもったため、快く思っていないのかも知れない。今、数人の兄弟たちと、何杯か酒を飲み、戻ってきたが、はやくも家の入り口に着いたわい。
（搽旦）財産を分けたほうが、かえってすっきりいたします。
（正末）どうしてこんなに大騒ぎしているのだろう。行ってみよう。
（福童）よかった、よかった。おじさまがいらっしゃった。
（正末が搽旦に会い、挨拶をする）ああ、朝にはお会いしませんでした[1]。おねえさん、ごきげんよう。
（搽旦が挨拶をかえす）おとうとや、お掛けなされ。
（正末）女房よ、今しがた、どうしてあんなに騒いでいたのだ。
（二旦）今、ねえさんがわたしを招かれ、財産を分けようとなさったのです。
（正末）誰がそう言ったのだ。
（二旦）ねえさんが仰ったのです。
（正末）ねえさんに尋ねてみよう。（訊ねる）ねえさん、今しがた、どうして騒いでいたのです。
（搽旦）あなたがたをお呼びしたのは、財産を分けようと思ったからです。樹が大きければ枝分かれするのは、自然の理ですから。
（正末）この財産は亡くなった兄が生きていたとき、蓄えられたものではなく、すべてわたしが苦しんで稼いだものです。ねえさんが財産を分けようとなさるのならば、二人の甥に尋ねてみましょう。福童よ、安童よ、お母さんが財産を分けようとなさっているが、おまえたち二人はいかに思うておるのだ。
（福童）わたしたち二人は妻を娶ってはおりませぬから、財産分けをしたほうがかえってすっきりいたします。[2]
（正末）おまえたち母と子は、談合したに相違あるまい。まことにわたしの手に負えぬわい。土地の社長[3]を呼んできてくれ。
（福童）心得ました。門を出た。社長はご在宅ですか。
（社長が登場、詞）年寄りは、遅く起き、早く臥すもの。悪人は善人を嫌へども[4]、軟き蒸餅[5]はかへつて宜し。
わたしはこの土地の社長。入り口で誰かが叫んでいるから門を開けるとしよう。若者よ、わたしを呼んで何の用事だ。
（福童）わたしのおじが財産を分けようとしておりますので、まっすぐに社長を呼びにきたのです。わたしの家の財産は、誰が稼いだものだと思し召されますか。
（社長）おじうえの韓二どのであろう。
（福童）社長さん、わたしのおじに会われたときに、財産は韓大が稼いだものだと仰れば、羊頭打旋餅[6]を買い、ご馳走をいたしましょう。あなたがわたしに財産を少ししか分け与えねば、あなたもわたしの性格はご存じでしょう。
（社長）心得た。入り口にやってきた。取り次いでくれ。
（福童が報せる）社長を呼んでまいりました。
（正末）お呼びしてくれ。
（福童）お入りください。
（社長が会う）ごきげんよう。
（正末が挨拶を返す）社長さん、お掛け下さい。
（社長）わたくしを呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう。
（正末）お呼びしたのは、ほかでもない、嫂と二人の甥が、分家しようとしているのです。わたくしの財産のことは、社長もよくご存じでしょう。百姓は、いささかの土地建物、牛羊家畜、金銀財貨があるだけですから、二つに分けて、わたくしと二人の甥がそれぞれ半分持つことにいたしましょう。社長さん、公平になさってください。
（社長）金はいかほどあるのでしょうか。
（福童）金は十塊ございます。
（社長）韓二どの、あなたは一塊を持たれて、このお子さんには九塊をおやりなされ。
（福童）銀子は十斤ございます。
（社長）韓二どの、あなたは一斤を持たれて、このお子さんには九斤をおやりなされ。
（福童）社長さん、さらに牛羊家畜、土地建物がございます。
（社長）韓二どの、あなたには必要はございますまい。みなこの二人のお子さんにやり、公平に分けさせなされ。
（正末）日を改めて社長にお礼をいたしましょう。悪く思われないでください。悪く思われないでください。
（福童が社長を送り出す）
（社長）若者よ、財産はみなそなたのものだ。羊頭薄餅[7]を食べさせてくれ。
（浄が社長を打つ）馬鹿野郎めが、羊頭薄餅などを買うひまはないわい。日を改めておまえに食わせてやるとしよう。
（社長の詩）このもののすることははなはだ良からず、財産を分くるためわたしを呼べり。羊頭薄餅は食べられず、殴られて腎臓は飛び出でんとせり。（退場）
（正末）ねえさん、財産を分けました。この家で、あなたたちは東側に、わたしたちは西側に住みましょう。
（大旦）屋敷を二つに分けましたから、あなたはわたしの家に来ず、わたしもあなたの家には行かぬようにしましょう。
（福童、安童とともに退場）
（正末）ねえさんが垣根を設けられたからには、会わないことにいたしましょう。女房よ、子供がないのは、まことに運が悪いわい。
（二旦）韓二さま、ねえさんが財産を分けようとされているのは、ほかでもない、あなたが毎日、悪い友達といっしょに、お酒を飲んで、楽しんでいらっしゃるのを見られたために、財産を分けようとなさったのです。ねえさんは影ではいつもあなたのことを飲んだくれだと罵ってらっしゃるのですよ。
（正末）財産はあの人に従って分けるがよいのだ。そのようなつまらぬことを申してどうする。
（唱う）
【仙呂賞花時】酒を貪る飲んだくれなりと論ふには及ばず、そなたのつまらぬ言種は樹を揺らす春風のごときものなり。
（言う）まことにむべなり。
（唱う）かねてより性悪しき女らは弁舌に巧みなり。一つの家は、かやうなる性悪しき女らにより、みな壊されぬ。
（唱う）かのものどもはかやうなる財産分けの口実を探し出だせり。わたしにもしも息子があらば、かやうなる目に遭ふことぞなかるべき。
（唱う）ああ、これは子のなきわれの行き着く果てぞ。（二旦とともに退場）
第一折
（搽旦が福童、安童とともに登場）
（搽旦）事の心に掛かるにあらず、心に掛くる人ぞ乱るる。わたしの二人の息子らは、財産分けをしたものの[8]、おとうとに李春梅という妾があって、身籠っている。もしも娘が産まれたらそれまでなのだが、もしも息子が生まれたら、財産は、すべてその子のものとなる。わたしの二人の息子らは、むざむざ一生苦労して、この財産を得ただけだ。今日は臘月の十五日、いもうとの誕生日、わたしはこれから、いもうとを呼んできて、何杯かお酒を飲ませて、二言三言唆そう。いもうとが、李春梅を追い出させるか、離婚させるかしてくれるなら、財産はみな二人の息子のものとなり、平生の願いは満たされるであろう。
（福童）母上の仰る通りにございます。
（搽旦）息子や、隣からおばさんを呼んできてくれ。
（福童）心得ました。おばさま、ご在宅ですか。
（二旦が登場）呼ばれているのはどなたでしょう。門を開け、見るとしよう。甥っ子や、どうしたのだえ。
（福童）母が来てくださいとのことです。
（二旦）韓二さま、お隣のねえさんがわたしを呼んでらっしゃいます。留守番をしていてください。わたしは行ってまいりましょう。
（二旦がやってくる）
（福童が報せる）母上さま、おばさまがいらっしゃいました。
（搽旦）お呼びしてくれ。
（福童）おばさま、お入り下さいまし。
（二旦が会う）おねえさま、わたくしを呼ばれましたは何のご用でございましょう。
（搽旦）今日はあなたの誕生日。ですからあなたをお招きし、お祝いのお酒を飲んでもらうのです。
（二旦）ご馳走をしていただくわけにはまいりませぬ。
（搽旦が酒を注ぐ）息子や、お酒をもっておいで。いもうとや、一杯飲み干しておくれ。
（二旦）おねえさまも一杯お飲みくださいまし。わたくしはもう結構です。
（搽旦が嘘を言う）いもうとや、わたしは話しをしてもいいかえ。
（二旦）おねえさま、何のお話しでございましょう、仰ってくださいまし。
（搽旦）おとうとは先だって春梅を娶りましたが、今、春梅は身籠っています。おとうとはこう言いました。「もしも娘が生まれたらまあいいが、もしも息子が生まれたら、妻に竈の火を焚かせ、水汲みをさせ、漿を運ばせ、雌犬二疋といっしょに眠らせようと思っているのだ」と。わたしはこの話を聞いて、今までずっと不満に思っていたのです。わたしがもしも話さなければ、耐え難い苦しみに遭っていらしたことでしょう。あなたとは姉妹の誼があるのでお知らせするのです。自分でよく考えてください。
（二旦）おねえさま、お酒はもう結構でございます。日を改めて、お礼の宴を設けましょう。帰らせていただきます。（別れる）この門を出るとしよう。今、ねえさんの話を聴いて、怒りのあまり酔いもすっかり醒めてしまった。わたしは今から家に行き、このようなことがないなら、何も言わぬが、このようなことがあるなら、韓二め、そなたら二人をただではすまさぬ。（退場）
（搽旦）いもうとはいってしまった。息子や、安心するがいい、いずれにしても春梅は追い出され、財産はすべておまえのものになろう。何もすることがないから、奥の間へお酒を飲みにゆくとしよう。（ともに退場）
（正末が搽旦、春梅ととともに登場）
（正末）今日は臘月の十五日、女房の誕生日。女房はお隣の二人の甥と嫂に、呼ばれていったが、きっと祝いの酒であろう。李氏よ、女房が来る前に、先にそなたと何杯か酒を飲もうぞ。今は冬、紛紛と大雪が降り、その上、こんなに激しい風が吹いている。「風と雪とは飲み屋の天気」とはよくぞ申したものじゃ
（唱う）
【仙呂点絳唇】いと凄まじき風は吹き、雪花は舞ひ落ち、天地に漲り、高低を弁ずることなし。一片の瓊瑶の積もれるがごと。
【混江龍】麗しき春にあらずや。さなくば、梨花はなにゆゑぞ乱れ落ち、満空に飛ぶ。この雪は、陶学士の茶竈に供され、党太尉の宴席を装はん[9]。この雪に、梅見の客は三径[10]を尋ねあぐみて、魚釣る翁も蓑を羽織りて帰らざるを得ず。幸ひに太平の世に会ひて、今まさに豊作の年に遇ひたり。新たに醸しし白き酒、旧くから塩漬けにせし肥えたる鶏あり。ただひとり炉に凭れ酒を斟ぎ、馴染みたる友もなければ、気を易くして、何十たびも飲みつづけ、玉の緒の絶ゆるまで瓦盆[11]のほとりに醉はんとぞせる。ひたすら竹籬茅舍[12]を守り、画閣朱房[13]を願ふことなし。
（二旦が登場）表の間へとやってきた。韓弘道の姿が見えぬが、この寝室にいるのだろう。（聴く）おやまあ酒を飲んでいる。ひとまず中に入らずに、何を喋るか聴くとしよう。
（春梅）ねえさん[14]は、あなたが家にいるときは、わたしを大事にしてくれますが、あなたが家にいないときは、わたしを打つか、罵るかなさいます。このような苦しみを受け、どうしたら宜しいのでしょう。
（二旦）あのあばずれは、ちょうどわたしの話しをしている。
（正末）李氏よ、そなたが話さねば、気付かなかったぞ。そなたとともに杯を取り、話をしよう。
（唱う）
【油葫蘆】わたしはみずから瀲灔たる杯を高く捧げり。李氏よ、わたしはそなたに口を酸くして勧めたきことがあり。われらの家の事共を、そよさまに知らすは許さぬ。
（言う）わたしは思うが、これからは、
（唱う）和やかに睦まじうして、嘆きつつ争ふなかれ。
（春梅）毎日殴られ、罵られ、耐えられませぬ。
（二旦）よく言うね。わたしがおまえを殴っただって。
（正末）わしの言うことに従え、
（唱う）あいつが上に立たんとしなば、そなたは腰を低うせよかし[15]。一片の至誠の心を抱きなば、かならずや現れいづる日もあらん。是と非とを争ふなかれ。
（言う）あいつが優れてそなたが劣り、あいつが善くてそなたが悪いことになっても、わしにむかって話さんでくれ。
（唱う）
【天下楽】「道行く人の口は碑にぞ似たる」とはよくぞ申せり。わしは今、六十路に近し。財産は持ちたれど、わが眼の前に後継ぎは一人さへなし。
（言う）李氏よ、わしはそなたに、ずいぶんと気を使ったのだぞ。
（唱う）わたしはひそかに神に祈れり。
（言う）男であろうと女であろうと、
（唱う）眼を楽しまするものを得ば[16]、心肝のごとくそなたを重んじん。
（二旦）この馬鹿ものは無礼なり。心肝のようにあいつを重んじるとは。
（呼ぶ）開けてください。開けてください。
（正末が門を開ける）ああ、女房がやってきた。
（二旦）このじじい、あばずれのために、わたしのことを、さんざんに言っていましたね。わたしは売女を打つとしましょう。
（正末が唱う）
【那吒令】門に入り、騒ぎ出し、あれこれ何をか争へる。隣近所がこれを聴きなば、あれやこれやと噂せん。この女房は愚かにて、まことに悪しきことをせり。
（二旦が春梅を打つ）売女を殴ることにしよう。
（正末）女房よ、手荒なまねはやめるのだ。
（唱う）にはかに顔を赤らめて、たちまちに髷を引きたり。
（二旦）殴ってもどうということはありません。
（正末）女房よ、手荒なまねはやめるのだ。
（唱う）手を休めずに、続けて三十たびまで打てり。
【鵲踏枝】ああ。汝は悪者にして、まことに物分かりが悪し。
（二旦が叫ぶ）ああ、韓弘道にはほんとうに腹が立つ
（正末が唱う）何ごとぞ、喚きたて、声を涸らして、わけもなく恥を晒せる。何ゆゑぞ三従四德に従ふことなき。わしもまたそなたをさんざん甘やかすべきではなかりき。
（二旦）韓二さま、わたしはまじめに申しましょう。片方を棄て、片方に就かれてください。かれを愛していらっしゃるならわたしを離婚し、わたしを愛していらっしゃるなら、かれを離婚してくださいまし。
（正末）よくもまあ、ぬけぬけと、さようなことを申したものだ。
（唱う）
【寄生草】かやうに嫉むことなかれ、さやうに聞き分けなくするなかれ。皮球灯[17]は何らの大いなる罪を犯ししことなし。ああ、鬼精霊[18]は生者[19]を邪魔せり。酒飲みのこのわしはそなたの拖刀の計[20]を知りたることぞなき。恐らくは、李春梅がそなたの燕鶯期[21]を奪ひたるがため、やつてきて、黄桑棒[22]もて鴛鴦会[23]を打ち散らしたるならん。
（言う）女房よ、掛けてくれ。今日はそなたの誕生日、わしはそなたに詫びを言い、一杯捧げることにしようぞ。
（二旦）馬鹿な亭主のお酒を飲んだら、わたしに従い、春梅を離婚してくださいまし。
（正末）分かったぞ[24]。隣の二人の甥っ子と嫂がそなたを呼んで、一言二言唆したから、家に来て喧嘩を売っているのであろう。他人の言葉は信じずに、わたしの話を聴くがよい。わしらは子供を自ら養い、穀物は自ら種えなければならぬ[25]。他人の言葉を信じるな。女房よ、ひとまず一杯干してくれ。
（二旦が杯を放る）お酒などいただきませぬ。今すぐに春梅を離婚してくださいまし。
（春梅）韓二さま、このように騒がれないよう、わたしを離婚してください。
（正末）馬鹿ものめ、わしらがこちらで話しているとき、そなたは来るな。ねえさん[26]がどうしておまえを娶らせたのか知っているのか。このわしが六十路に近く、子がないために、そなたを探してきたのだぞ。ねえさんが他人の言葉を信じこみ、おまえを追い出し、この家を絶えさせるはずがあるまい。女房よ、他人の言葉を信じずに、とにかく一杯干すがよい。
（二旦）持っていかれてくださいまし。飲んでも仕方ありませぬ。善いは善い、悪いは悪いということにしてください[27]。わたくしの七、八人の弟たちは、狼か虎のようです。わたしが今から自殺をすれば、弟たちは、城内へ訴えにいき、あなたの皮をも剥ぐことでしょう。わたくしは死んでもあいつを離婚していただきたいと思います。
（正末）女房よ、自殺はやめろ。ああ、わたしは男であるというのに、事ここに到っては、にっちもさっちもいかぬわい。離婚しようと思っても、先の望みは断たれてしまう[28]、離婚しまいと思っても、女房は死ぬの生きるのと言っている。もしものことがあったときには、わが数人の義弟たちは、狼か虎のよう、城内に行き、韓弘道が妾のために女房を追いつめて殺したと訴えられれば、わたしの命もおしまいだ。離婚をするにしくはあるまい。ただ、紙、墨、筆、硯がないが、どうしよう。
（二旦）こちらは靴の型紙と、模様を描くための筆です[29]。今すぐに書かれてください。書かれないなら、自殺しますよ。
（正末が書く）書き上げた。妻よ、あいつに渡しておくれ。
（二旦）夫が嫁を離縁するのでございます。女房が妾を離縁するのではございません。もしも役所に告訴されたら、わたしが罪を受けましょう。渡すならあなたが渡してくださいまし。渡さないならわたしは自殺いたしますよ。
（正末）女房よ、わたしが渡せばいいのだろう。春梅や、わたしの手には負えぬわい。さあ、いけ、いけ。
（春梅）門を出て、三行半を手にとって、人にも嫁ぐことはなく、表通りや裏町で、ひたすら乞食をして暮らそう。韓弘道さま、御身のせいでまことに苦しゅうございます。（退場）
（正末）女房よ、わしは屋敷の表と裏へ見回りにいってくる。
（二旦）李春梅を追いかけてゆかれるのでしょう。
（正末）ああ、もう離婚したというのに、わたしがかれを追いかけたとて仕方あるまい。（背を向ける）左の屋敷の小者たち[30]、誰か李春梅を目にしたか。家に引き取った者があるなら、たくさんのお金をやろうぞ。
（内）遠くへ行ってしまわれました。
（正末）遠くへ行ってしまったか。本当に悲しいことだ。
（二旦）韓二さま、あなたは哭いてらっしゃいませんか。
（正末）こんなに年をとったから、すこし泪が出やすくなってな[31]。
（二旦が冷笑する）ずいぶんはやく、そのような病気になられたものですね。
（正末）女房よ、わしは一言話していいか。
（二旦）李春梅を追いかけようと仰るのでしょう。
（正末）李春梅を探して、戻ってこさせたら、わしらの家には住まわせず、百姓の家に仮住まいさせ、男か女が産まれたら、その時ふたたび追い出したとて遅くはあるまい。
（二旦）どうしてそうなさるのでしょう。
（正末）わたしは家が絶えるのを怕れているのだ。
（二旦）二人の甥がいるというのに、何を怕れてらっしゃるのです。
（正末）二人はいずれも孝行者ではないからな。
（唱う）
【賺煞尾】ああ、やんぬるかな、汝は今や、夫の言葉に従はざれば、やがてかならず甥たちに酷き目に遭はされん。かれらは悪しき心にて、わが財産を呑まんとしたり。汝もよくよく考ふべきなり。わしの言葉はすべて誠実ぞ。話をすれば悲しくなりて、蹙めたる愁眉は損はれんとせり。江の真中に船を出しなば、水漏れを繕はんとも遅からん。ただ今は、着るもの、喰らふものあれど、やがては頼る子のなき身とぞ相成らん[32]。女房よ、汝は得をしたれども、かへつて損をしたるらん。（退場）
第二折
（外が兪循礼に扮し、旦の王氏とともに登場）
（兪循礼の詩）耕す牛に宵越しの食糧はなく、倉の鼠にあり余る食糧があり。万事はすでに定められ、浮生はむなしく忙はし。
わたしは新荘店の者、姓は兪、名は循礼という。夫と妻の二人家族で、女房は王氏ともうす。女房は弟があり、四村の近くで[33]、家畜の世話をしているために、人々はかれを王獣医と呼んでいる。わたしは今や、天にも届かん財産と、果てもなき田畑があるものの、いかんせん男児女児には恵まれぬ。さいわいに、天と地はわたしを憐れと思し召し、今、わが妻は身籠っている、十ヶ月たったから、もうすぐ出産するだろう。城内に何軒かお金を貸した家があるが、小者らが取り立てをしてこなかったので、これよりみずから行かねばならぬ。妻よ、そなたに言い含めるが、行ってから、もしも息子が生まれたら、厩から風より速い馬を選んで、小者らを城内へ報せに来させ、わたしが家に着いたらば、羊を殺し、酒を造って、祝いの大宴会をしよう。もしも娘が生まれたら、葬りさって話しをするな。妻よ、わたしは言い含めたぞ。小者らよ、驢馬に鞍を置け。城内へ、借金の取り立てにいくとしよう。（退場）
（旦）員外さまはお金の取り立てにいかれた。男の子でも、女の子でもあなたのものでございますのに、男の子なら告げ知らせ、女の子なら葬り去れとは。ああ天よ。なんとか男の子を産んで、員外さまのお心に適えばよいが。小者たち、途中では、員外さまによくお仕えし、はやめに帰ってきておくれ。（退場）
（李春梅が登場）わらわは李春梅、韓二さまには離縁され、追い出されたが、腹には子がいる。昼はこの四村の近くで乞食をし、晩は見回り小屋[34]で休む。日も暮れたから、見回り小屋に休みにいこう。どうして急にお腹が痛くなったのだろう。おそらく子供が産まれるのだろう。
（丑が王獣医に扮し、捩鼻木[35]を持って登場）わたしは新荘店の者、姓は王。四村の近くで家畜を診察しているために、人はわたしを王獣医と呼ぶ。夫婦二人で、男児も女児もまったくおらぬ。近ごろわたしの女房に、一人息子が生まれたが、残念ながら、生まれてすぐに死んでしまった。女房はほんとうに悲しんでいる。わたしは子供を授かる定めにないのであろう[36]。悲しんで何になろうぞ。わたしの姉は、兪循礼に嫁入りし、天にも届く財産を持ちながら、男児も女児もなかったが、身籠って、一人の女の子を産んだ。わたしの義兄はお金を取り立てにいくため、門を出る時、姉にむかって、もしも娘が産まれたら、葬り去って話をするな、もしも息子が生まれたら、馬を飛ばして知らせにこいと言ったとか。わたしの義兄は、腹を痛めていないから、知らぬのだろうが、母たるものは同じ腹から生まれたものは、男も女も区別はしない。東の村で何頭か家畜を診、何杯か酒を飲み、帰るとしよう。老人たちはこう言った。「王獣医さん、行く手には幽霊がいますから、お急ぎなされ」と。わたしは言った。「どこに幽霊がいるものか」。日ももう暮れた。口では強がりを言ったが、脚をいささか早めよう。（歩く）
（春梅が叫ぶ）
（王獣医）ああ、ほんとうに幽霊がいる。捩鼻木をば取り出して、幽霊がいようといまいと、消えてなくなれ[37]。行く前に、一声怒鳴りつけるとしよう。こら。何ものぞ。
（春梅）わたしは人にございます。
（王獣医）幽霊でないのなら、おまえはどんな人間なのだ。
（春梅）わたしは乞食をしているのです。
（王獣医）男か女か。
（春梅）わたしは女にございます。
（王獣医）そちらで何をしているのだ。
（春梅）赤子を産んでいるのです。
（王獣医）乞食だったか。このようなものにも子供が産まれるのだな。産まれた子供は男か女か。
（春梅）男の子です。
（王獣医）義兄は天にも届かんばかりの財産を持っているのに、娘が産まれ、この乞食には、息子が産まれた。ああ天よ、いかなるなされようでしょう[38]。おい女、そなたの子供を人にあげてはどうだろう。
（春梅）わたしが人に差しあげようとも、欲しがる人はおりませぬ。
（王獣医）わしにくれ。
（春梅）差しあげましょう。
（王獣医）よい子だな。青々とした頭、小さい口に、高い鼻、抱いていき、こっそりと姉さんに差しあげれば、まことによかろう。たちまちにわたしは尿でずぶぬれだ。女よ、わしはいささかの粒銀を持っているから、そなたにやろう。
（春梅）男のお方、ご姓は何と仰いますか。
（王獣医）わたしの姓を尋ねておる。ああ。こいつはなかなか賢いわい。わたしに尋ねてどうするつもりだ。おまえは姓は何というのだ。
（春梅）わたくしは姓は李、字は春梅にございます。
（王獣医）この粒銀を持っていき、養生をするがよい。わしはこの子供を連れて家に行き、育て上げたら、李春梅よ、わしはおまえたち母子を団円させるかもしれないぞ。（退場）
（旦は登場）わらわは王氏、員外さまが取り立てにいってから、娘を産んだが、お知らせもしていない。弟の王獣医は、ここ何日か、わたしを尋ねてもこない。まことに悲しや。
（王獣医が登場）この子を持って、姉さんに届けにいこう。表門には行けないな。人がわたしを見るだろうから。裏門に行けば、今度はかならず年老いた執事に出くわすことだろう。わたしはかれに言い含めよう。このことは、天が知り、地が知り、そなたが知り、わしが知るのみだ、すこしでも秘密を漏らせば、姉さんにそなたを打ち殺させるぞと。まっすぐに姉のところへいくとしよう。
（旦）どなたです。
（王獣医）弟にございます。
（旦）弟や、遠慮することはない。来るがいい。
（王獣医が会う）姉さん、どちらの子供が生まれましたか。
（旦）女の子が生まれたのです。
（王獣医）男の子を差し上げましょう。
（旦）どこから持ってきたのです。
（王獣医）お姉さん、お訊ねにならないでくださいまし。義兄さんが家に来られたら、姉さんが産まれたのだと仰いまし。
（旦）それはいい、弟や、この女の子を河へなり、井戸へなり、好きな所へ棄てておくれ。（子供を抱いて退場）
（王獣医）この門を出るとしよう。姉さんは、子供を渡し、この女の子を河へなり、井戸へなり、棄てるようにと仰った。あの男の子はどんなに善くても、他人のものだが、この女の子はいかばかり悪くとも、実の姪っ子なのだから、どうして酷いことができよう。わたしは家に連れていき、女房の乳を飲ませよう。この女の子を育て上げ、婿をとり、ゆくゆくは、年老いた飲んべえ[39]の野辺送りをしてもらうとしよう。（退場）
（兪循礼が旦、子役とともに登場）
（兪循礼）日月の過ぎるのはまことにはやい。取り立てをして戻り、女房が、添添を産んでから、はやくも十三年たった。添添を授かったため、わざわざ義学堂[40]を建て、先生を招きよせ、四村の近くの子供らを、すべてこの学堂に集めて勉強させている。ほかの子供は書物を暗記できないが、わが添添は、物を覚えるのも早く、まことに賢い。わたしは心の中でたいへん喜んでいる。女房よ、一つ話があるのだが、そなたの弟王獣医は、わたしの家に来るときはいつもお酒を飲んでいる。お酒に酔えば、家に来て、喧嘩を売って、さんざん悪いことをしている。わたしはひたすらおまえの顔を立てているのだ。女房よ、時間も早いようだから、息子が食事をしおえたら、執事に命じて学堂へ送っていかせろ。
（王獣医が登場、くしゃみをする）弟の話しをすると、弟がやってくる。あの男の子を抱いてきて、姉さんに上げてから、今になるまで十三年。子供は添添と呼ばれて、生まれつき賢いために、義兄はとても喜んでいる。常日ごろ、義兄から一頭牛を借りているが、今年はふたたび牛を借りにいくことにしよう。入り口に着いたから、中に入ろう。（会う）姉さん、義兄さん、お酒があったら飲ませてください。
（兪循礼）妻よ、また醉っているわい。
（王獣医が子役を打つ）このこわっぱを殴るとしよう。
（兪循礼）ああ、息子がびっくりしておるわい。女房よ、あの飲んだくれはどうして息子を打ったのだ。
（王獣医）この恩知らずの馬鹿ものめ。
（兪循礼）この子がどうして恩知らずなのだ。雪のなかからこの子を扶け起こしたのか。
（王獣医）十三年前、わたしが抱いてやったおかげで、
（兪循礼）抱いただと。
（旦が見る）
（王獣医）姉さん、わたしがこの子を抱いてきたから、こんなに大きく育ったのです。
（兪循礼）女房よ、こいつはまたも醉っておる。
（王獣医）まいりましたは、ほかでもござらぬ。義兄さんは毎年わたしに牛をお貸しになられますから、わたしは今年も牛を借り、耕作をしたいのです。
（兪循礼）わしは以前は、牛をそなたに貸し与えたが、今年は貸してやらぬわい。
（王獣医）お待ちくだされ。はっきりと仰ってくださいまし。以前は貸してくださったのに、今年はどうして貸していただけないのです。
（兪循礼）わたしが昔、そなたに牛を貸したのは、添添が成人せずに、まだ幼かったからなのだ。添添は今では十三歳になり、男女のことも知っておる。わたしの牛を借りていき、牛が死んだり、犁が壊されたりしたら、誰に弁償してもらうのだ。そなたには息子もおらず、そなたの家は絶えるであろうぞ。[41]
（王獣医）どなたの家が絶えるですって。
（兪循礼）そなたの家が絶えるのだ。
（王獣医）あなたの家は絶えぬのですか。
（兪循礼）添添はわしの息子ぞ、どうして家が絶えるのだ。
（王獣医）誰があなたの息子なのです。
（兪循礼）添添がわしの息子だ、
（王獣医）添添があなたの息子なのですか。
（兪循礼）わしの息子に決まっておろうが。
（王獣医）添添があなたの息子であるとは知りませんでした。
（兪循礼）この飲んだくれめ、おまえは何を知っておるのだ。話をするのだ。
（五獣医が旦を見る）お姉さん、添添はあなたの息子なのですか。
（旦が慌てる）弟や、わたくしの顔に免じて、おかしなことを言わないでおくれ。
（王獣医）想えば十三年前に、わたしが抱いてきたおかげで、
（兪循礼）どのように抱いたのだ。
（王獣医）このように抱きました。
（兪循礼）そなたはあの子の実のおじ、そなたがかれを抱いたとて、大したことではあるまいに。
（兪循礼が王獣医を推す）このけだものめ、とっとと出ていき、ふたたびわしらの家には来るな。まったく腹立たしいことだ。
（王獣医が門を出る）この門を出るとしよう。義兄さん、あなたはほんとうに酷い方。牛一頭を、貸されないならまだしものこと、わたしの家が絶えるといって罵られるとは。あなたの家は絶えないのですか。王獣医よ、毒を喰らわば、皿までだ。四村の近くや、關廂[42]の内と外とを歩きまわって、十三年前の李春梅を探すとしよう。手を執って、引っ張ってきて「李春梅、これが添添、そなたの子だぞ」と言うとしよう。義兄さんの家が絶えるのか、わたしの家が絶えるのか見ているがいい。（退場）
（兪循礼）女房よ、あいつはまたもこのわしを怒らせたわい。
（旦）員外さま、わたくしの顔を立て、争われないで下さいまし。
（兪循礼）女房よ、さんざん酷いことを言われたが、わしはおまえの顔を立てよう。執事に命じて息子を学堂へと送らせよう。（ともに退場）
（正末が病気になる、二旦が介添えをして登場）
（二旦）お爺さん、みんなわたしが悪かったのです。しっかりなさってくださいまし。嫂の言葉を信じ、李春梅を離婚させるべきではございませんでした。男児か女児が産まれていれば、このように悲しまれずにすみましたのに。
（正末）婆さんや、今になり後悔しても、遅すぎるわい。二人の甥には、酷い目に遭わされたわい。（唱う）
【南呂一枝花】今やわが南の田圃を抵当に入れ、中庭の麦をば喰らひつくしたり。貸し金の取りたてにゆかんともせず。婆さんや、今やわたしの財産はみな使ひ果たされぬ。話せばおぼえず嘆き悲しむ。わたしは今や年老いて、後継ぎはなく、望子台[43]をば得建てぬことぞ恨めしき。鬱然と甍を連ぬる大厦をば建てしかど、今では徒と相成りぬ。ああ天よ、いずれの時にか、にぎやかに、萱堂[44]で彩衣して戯るることを得べけん[45]。
（二旦）すべてわたしが悪いのです。
（正末が唱う）
【梁州第七】何ゆゑぞ、徐卿の二人の子[46]を信じ、王氏の三つの槐[47]をば切り倒したる。歳寒になりて後、松柏を知る[48]。二人は愚かなる者にして、軽薄なる者たちを伴ひて、日ごとに女と酒を貪り、お金を浪費し、面と向かひてわたしを罵り、弱きわれらを虐げり。半年に満たずして、財産はすつかり減りぬ。正しき言葉でかのものたちを戒むれども、すこしも取り合ふことぞなき。かのものたちはかく言へり、わたしが死なば、かのものたちは縁があれば相続せんと。かのものたちは思ひのままに悪しきことをし、手に触るるものは質に入れ、手に執るものは売り払ひ、自ら用ゐ、人からは借金をせん[49]。これからは、なほ改むることなくば、婆さんや、かれらをわが家に来させぬやうにするほかなからん。
（王獣医が登場）お義兄さん。ああ、あなたはまことに酷いお方じゃ。わたしが牛を借りようとしたときに、貸されるなら貸し、貸されないのならそれでよいのに、わたしの家が絶えると罵り、むざむざと酷い目に遭わされた。白鷺村韓弘道兄じゃの家から、わたしは十錠借りている、元本利息は二十錠だ。この世でお金を還さなければ、あの世では人になれまい。元本利息を還しにいこう｡話していると、はやくも入り口に着いたぞ。
（王獣医が二旦に会う）おばさま、ごきげんよう。
（二旦）獣医さん、どこからいらっしゃったのです。
（王獣医）まっすぐやってきたのです。
（正末）婆さんや、入り口にいるのは誰だ。
（二旦）王獣医です。
（正末）あいつか、こちらへ通すがよいぞ。
（王獣医が正末に会う）おじさん、どうなされたのです。
（正末）わたしは病になったのだ。
（王獣医）おじさん、どうかお咎めになられませぬよう。ご病気であると分かっておりましたらば、わたしはとうにおじさんに会いにきていたことでしょう。
（正末）そなたはどこに行っていたのだ。
（王獣医）おじさんは、ご存知ございますまいが、義兄兪循礼に牛を借りようとしたのです。貸すのなら貸し、貸さないのならそれでよいのに、わたしの家が絶えるといって罵ったのです。
（二旦）おにいさん、そのようなことを言ってはいけません。おじさんは、まさに子供がないために、気が塞ぎ、病気になってしまったのです。
（王獣医）ああ。このお爺さんも子供がないのか。おじさん、わたしは十錠のお金をお借りしております。元本利息は二十錠、お金を還しにまいりましたよ。
（正末）他の人の借金を、どれだけ免除したか分からん。そなたの額は、大したことはないであろう。婆さんや、甥っ子の一枚の証文を探しだしたら、元本と利息はもちろん、証文も甥っ子に還すとしよう。この金を家への旅費にするがいい。
（王獣医）おじさま、冗談を仰らないでくださいまし。
（正末）お若い方、冗談を言ってはおらぬ。
（王獣医）ほんとうですか。おじさん、おばさん、ありがとうございます。（背を向ける）義兄さん、あなたはまことに酷い方。このお爺さんは、赤の他人であるというのに、元本利息二十錠を、わたしに求められることもなく、証文さえもくださった。あなたはわたしの義兄であるのに、牛をわたしに貸そうとはせず、わたしの家が絶えるといって罵った。王獣医よ、十三年前、子供をこのお爺さんに差しあげたのは、ほんとうによかったわい。義兄さん、あなたはまことに酷い方（振り返る）おじさま、元本利息を求められずに、すべてわたしに還されるのなら、わたしはお金を持っていき、一瓶の酒を買ってきて、おじさまと何杯か飲むとしましょう。
（正末）買わずとも、わたしの家には酒がある。婆さんや、熱燗をつけてきて、甥っ子に飲ませておくれ。
（福童、安童が登場）弟よ、おじさまは病気になって、われら二人は財産を使いはたしてしまったわい。おじさまにお金を貰って使えばまことによかろうぞ。入り口に着いたから、まっすぐ入ってゆくとしよう。（会う）甥っ子がまっすぐにおじさまをお訪ねし、お金を頂き、使おうとしておりますよ。
（正末）こちらにはお客さまがいらっしゃるのだ。（唱う）
【牧羊關】こいつはわざと人に聞こえるやうにして、門に入り、騒ぎ立てたり。ぐてんぐてんに酒を飲み、だらしなき姿にて、歩けずに東に倒れ、西に傾く。ああ。かれはしつかりと立ちてをられず、天は寛く、地は窄し[50]。
（福童）おじさま、現金をお持ちでないなら、遠い昔と近ごろの借金の証文を持ってきて、われら二人に取り立てにいかせてください。
（王獣医が口で証文を引き裂く）
（福童）おまえは何を慌てているのだ。
（正末が唱う）そのかみの貸し金は、わしがみずから貸したるものぞ、本日は証文を要求し、汝が財産とせんとせり。このわしは七十三、八十四になりたれど
（言う）ああ、馬鹿ものどもめが。
（唱う）なんぢらをさんざんに甘やかしたり。
（福童）おじさま、あなたが死んだら、この財産はすべてわたしたち二人のものです。
（正末が唱う）
【哭皇天】このものは凶悪にして、心は蜂か蠍のごとく、荒淫の心は並外れたるもの。かれら二人のろくでなし、恥をさらせばかものは恨むべきなり。ひたすらにわたしの家で、わたしの家で金をねだれり。このわしの三年五年で、みるみる衰へ、ひそかに蓄へたる金もはやなくなりしことを知るべし。なんぢら二人のならず者らは、われらに害を与へたり。たちまちに大騒ぎして、あれこれ悪さをせんとせり。婆さんや、家には二つの箪笥に入った証文がある。鍵を開けずに、みな担ぎだしてくれ。
（二旦が人に担ぎ出させる）
（正末が唱う）
【烏夜啼】持っていき、堂前で晒すに及ばず、はっきりと検分をする必要もなし。小者たち、草を箪笥にかぶせたら、灯りを持ってきておくれ。
（唱う）ただ一本の火もてすべてを灰にせん。
（言う）焼くのだ、焼くのだ。
（唱う）二人ともさつさと階より離れ、身の振り方を決めよかし。わたくしは劉員外[51]の、義を重んじて財を軽んじたることに学ばんとせり。わたくしは龐居士[52]の、来世の債権を棄てたることに学ばんとせり。わたくしの宿世の縁を、天界に引き渡すべし。[53]
（言う）焼くのだ、焼くのだ。
（唱う）お金を焼いて、罪業を消滅するにしくはなし。証文も焼けて、お金もなくなれり。はやくゆけ、はやくゆけ。
（福童）かれはわれらにお金を与えようとせぬわい。われら二人は家に行こう。（退場）
（王獣医）おじさん、あの二人とはどういうご関係ですか。
（正末）二人はわたしの甥なのだ。
（王獣医）おじさん、わたくしはおじさんを咎めませぬが、おばさんはお咎めもうしあげまする。
（正末）なぜおばさんを咎めるのだ。
（王獣医）おばさまがおじさんのため、そば近く仕えるものを娶らせて、男児か女児が産まれていれば、二人の甥に酷い目に遭わされなかったことでしょう。
（正末）甥っ子や、昔はいたのだ。
（王獣医）どちらへいってしまったのです。
（正末）おまえに話して聴かせよう。（唱う）
【賀新郎】わたしは昔、女を娶れり。
（王獣医）その人とおばさまは、仲が良かったのでしょうか。
（正末が唱う）話が合はずなりぬれば、かれを家より追ひ出だしたり。
（王獣医）それからどのくらいになりますか。
（正末が唱う）すでに十三年になる。
（王獣医）その人はまだ生きていましょうか。
（正末が唱う）去つたきり、大海に石の沈めるかのごとし。
（王獣医）おじさん、どうか特徴をお教えください。
（正末が唱う）生まれつきずんぐりとして不器量なりき。
（王獣医）幾つでしょうか。
（正末が唱う）三十歳になりぬらむ。
（王獣医）何を持っていたのでしょう[54]。
（正末が唱う）半年の胎児を宿したるのみなりき。
（王獣医）人に行方を探させましたか。
（正末が唱う）今となりては「和尚もあれば鉢盂もあり」[55]といふことはなし。
（王獣医）幼名はなんと呼ばれていましたか。
（正末が唱う）春梅のことを日ごとに尋ぬれど消息はなし。
（王獣医）その人はおそらく生きているでしょう。
（正末が唱う）ああ、かのものは「趙杲の曾哀を送る」がごとし。[56]
（獣医があくびをする）
（正末）おにいさん、もしやどこかで李春梅を見たのでしょうか。
（王獣医）見ておりませぬ。わたしはあくびをしたのです。
（正末）お酒を出して、飲んでいただくことにしましょう。
（王獣医）おばさま、わたしは尿をしてまいります。
（二旦）この人は。
（王獣医）この門を出るとしよう。（小便をする）お義兄さん、ああ、あなたはまことに酷い方。添添よ、お父さんが見つかったぞ。わたしは話しにいくとしよう。絶えるのはあなたの家か、わたしの家かと。（行って旦に見える）おばさま、わたしは尿をして、濡れました。
（二旦）この人は。
（王獣医）おじさま、わたしはおばさまに一人の子供を差しあげましょう。
（正末）おそらく酔われているのであろう。
（王獣医）わたしが醉うているですって。お酒は飲んでおりますが、頭はしっかりしておりますよ。十三年前のお話しを聴きましたので、おばさまに一人の子供を差しあげるのです。
（正末）婆さんや、この人は十三年前の話をなさるが、わたしは耳が遠いから、婆さんが聴いてくれ。
（王獣医）おじさん、わたくしは十三年前、四村の近くへ、家畜を診察しにいきましたが、老人たちはこう言いました。「王獣医さん、日も暮れたから、家に行くのはおやめなされ。この先二十里の見回り小屋には幽霊がいるからね」、わたくしは言いました。「わたしは人にございます。幽霊を怕れはしませぬ」。二十里の見回り小屋に行きますと、哭き声が聴こえましたので、わたくしはこう思いました。「ああ。ほんとうに幽霊がいるのだろうか」。わたしは捩鼻木を持ち、一声誰かと大声を上げますと、かれはこう言いました。「わたしは乞食をしているのです」。わたくしは言いました。「そなたは男かそれとも女か」。かれはこう言いました。「わたしは女にございます。こちらで子供が産まれたのです」。
（正末）おにいさん、それは男の子だったかそれとも女の子だったか。
（王獣医）産屋がございませんでしたので、わたしは入りませんでした。[57]
（正末）おにいさんにお酒を飲ませてあげましょう。
（王獣医）わたしはかれに尋ねました。「産んだのは男か女か」。かれはこう言いました。「男の子です」。わたくしは言いました。「人にあげてはどうだろう」。かれはこう言いました。「あげようとしても、欲しがる人はおりませぬ」。わたくしは言いました。「わたしが貰おう」。わたしはかれにいささかの粒銀をやり、かれは子供をくれました。わたしがかれに姓名と年齢を尋ねたところ、かれは苗字は李といって、春梅と呼ばれている、年は二十歳と言いました。わたくしは子供を抱いて家に行き、新荘店にいる義兄兪循礼の子供としました。成長する十三になり、毎日勉強しにいくときに、お宅の前を通っています。幼名は添添といい、お子さんにございます。
（正末が王獣医の手を咬む）おにいさん、嘘を仰らないでください。ほんとうですか。
（王獣医）ああ、あなたの指を咬みなされ。
（正末が唱う）
【罵玉郎】聴きおはり、九分の憂へは、十分の愉しみとぞなりぬ。
（王獣医）お爺さん、ご夫婦でお喜びなさいまし。
（正末が唱う）覚えず春は目に満ちて、喜びは頬に満ち、東風に道の辺の垂楊の蕩ふがごと。
（王獣医）お爺さん、跡取りが見つかりましたね。
（正末が唱う）一片の心は、跡取りのことを想ひたり。
（王獣医）義を重んじて、財を軽んじるあなたのご恩に報いましょう。
（正末が唱う）はからずも貴きお客に出逢ひたり。
（王獣医）おじさん、これもまた天の計らい。
（正末が唱う）わたしは両手でいそがしく額を撫でり。
（王獣医）これもまた、苦しみが尽き、楽しみが来たということでしょう。
（正末が唱う）
【感皇恩】天よ、これぞまさしく苦しみは尽き、楽しみの来たるなり。
（王獣医）定められているものは、手に入り、定められていないものは、手に入らぬもの。
（正末が唱う）まことにこれは定めなり。
（王獣医）わたくしが言わなかったら、あなたは気付かなかったでしょう。
（正末が唱う）心知りたる友のなんぢが秘密を漏らし、わが若き子は天より降れり。白頭叟は、天の定めに従はん。婆さんや、鶏をとくとく裁き、うま酒をしきりに斟げかし。
（王獣医）お酒はもう結構です、いただけませぬ。
（正末）酒をもて。
（唱う）足下とともに相祝ひ、ともに喜び、愁へを解かん。
【采茶歌】老いぼれが、息子を認めば、
（王獣医）お爺さん、枯れた樹がふたたび春に出逢うかのよう。
（正末が唱う）お兄さん、わたくしは枯れし樹にふたたび花の咲くがごと。去りし息子は青霄の外にあるかと思ひしに、はからずも、洛陽の花と酒とは一時に来たれり[58]。
（正末）小者たち、二頭の鞍つきの馬を牽いてきてくれ。
（王獣医）一頭だけで結構です。わたくしとおばさんはいっしょに乗るといたしましょう。
（正末）わたくしをご覧ください[59]、母子を団円させるのもあなたなら、母子を団円させぬのもあなたです。（跪く）
（王獣医）おじさん、どうぞお起ちください。お顔が擦れてしまいましょう。
（正末）お兄さん、わたしたち父子を団円させてくれたら、城内に行き、腕のいい絵師を呼び、お姿を描き、子子孫孫、親子代々、兄さんを供養させてもやりすぎにはならないでしょう。
（王獣医）おじさん、腕のいい絵師がいようと、わたくしの醜い顔は描けますまい。
（正末）お兄さん、気を付けて。（唱う）
【黄鍾尾】御身が麒麟の児を抱き、息子の連環寨[60]を突き破らんことを望みたり。婆さんや、わたしはそなたが鶯雛[61]を引き、韓侯の戦場を飛び出づることを望めり[62]。想へばわたしは老いさらばへて、憂へしために鬚と鬢とは白くなり、身寄りなき身も哀れむべきなり。
（言う）お兄さん、婆さんと先にいかれてくださいまし。
（王獣医）おじさん、かしこまりました。
（正末が唱う）わしはこちらで、養育費をば工面せん。[63]
（言う）わしは持ち合わせはないが、
（唱う）わしはこちらで、質入れしたり、売つたりし、先方の言ふがままにし、先方の求むるがままにせん。御身は水のごとくに流れ、風のごとくに揺らぐべし。糕のごとくに固くなることなかれ[64]。婆さんや、謎を解く時のごとくに頭を使へ[65]。お兄さん、言い含めるにも及びませぬが
（言う）あちらに着いたら、
（唱う）御身の巧言令色を用ゐられよかし。
（二旦）お爺さん、わたしは罪を認めましょう。
（正末が唱う）婆さんや、そなたが罪を認めて改むることをわれは望まん。あちらに着かば、まつさきにわが子に会ひて、両の手でしつかりと抱けかし。
（唱う）ああ、くれぐれも子を抱きあげて、地に投げつくることなかれ[66]。（ともに退場）
第三折
（子役が登場）僕は兪循礼の子で、勉強をおえ、家に食事をしにいくのだが、どうして爺やが僕を迎えにこないのだろう。
（王獣医が登場）わたしは王獣医。義兄さん、あなたはまことに酷い方、わたしの家が絶えるといって罵った。このたびは、添添に、父親が見つかった。添添は韓弘道の子だったのだ。わたしは今から添添に知らせよう、お義兄さん、あなたの家が絶えるのか、わたしの家が絶えるのか見ているがいい。
（会う、子役が挨拶をする）おじさん、どこから来られたのです。
（王獣医）添添や、訊ねるが、おまえは誰の息子なのだ。
（子役）兪循礼の息子です。
（王獣医）兪循礼の息子ではなく、白鷺村韓弘道の息子なのだ。家にゆくのはやめるのだ。お父さまが鞍つきの馬に乗り、会いにこられる。（退場）
（子役が哭く）僕は韓家の子だったのですか。ひとまず家にはゆかないで、こちらで誰が来るのかを見るとしましょう、
（正末が執事に扮し登場）わたしは兪循礼さまの家の執事だ。添添坊ちゃんを迎えにゆこう。こちらには誰もいないぞ、添添坊ちゃんは、兪循礼さまの子ではなく、王獣医どのが抱いてきたのだ。このことは、わしだけが知っており、他の人はみな知らぬのだ。添添坊ちゃんは、今年十三歳になり、生まれつき、とても賢く、父親はたいへんに喜んでいるものの、事情は知らない。坊ちゃんはお勉強しにゆかれたが、わしは今から迎えにゆこう、（唱う）
【商調集賢賓】わが坊ちやまは、幼きときより志あり、いささかの腕白さもなし。おそらくは、賢き性質にて、家柄をすつかり改めんとせるなり。字を書かば美しく、対句を作らば他の者たちより適切なりき。ゆくゆくは、広寒宮にて、かならずや丹桂を折り、雷が音を発せば、春蟄を驚かすべし[67]。わたくしは、堂上の親のごとくにお世話して、世にも稀なるものなりとお褒めせり。坊ちやん、わたしはおんみをおんぶして、お家へ食事しにゆかん。
（子役が腹を立て、話さない）
（正末が唱う）
【金菊香】坊ちやんは突き、足踏みし、悲しまれたり。ああ、坊ちやん。泪を拭いて目やにを擦られ、そもなにゆゑぞ、問へども語りたまふことなき。
ああ、分かりましたよ。坊ちゃん、おそらくは先生に酷い目に遭わされたのでございましょう。
（子役）ねえ爺や、僕は兪循礼の子ではなく、韓弘道の子なのだよ。
（正末）誰がそう言ったのですか。
（子役）王獣医おじさんが言っていた。
（正末）獣医よ、ああ、そなたはとんでもないことをしてくれたわい。（唱う）
【梧葉児】聴きたれば、わたしは醉ひの醒むるがごとく、驚きてわたしの心は虚仮のやう。
（言う）坊ちゃんは、ご存知ございますまいが、王獣医は善くない人間、あのものはお父さまから牛を借りようとしましたが、お父さまがあのものにお貸しにならなかったため、怨みに思い、あなたがた父子の情を隔てるつもりなのですよ。
（唱う）わたしはとつさに、でたらめの話をし、ごまかせり。
（言う）王獣医よ、ああ。
（唱う）あのものは、道理を知らぬ悪党なるに、はしなくも、御身は言い争はんとしたまふ。あのものは平地に鍬を下さんとせるならん[68]。
（言う）ああ、坊ちゃん、あの酒飲みを信じられてはなりませぬ。
（唱う）ひたすらに勝手なことを言へるのみ。
（二旦が王獣医とともに登場）
（二旦）これはわたしの子供です。
（正末）誰の子供だと。
（二旦）わたしの息子にございます。
（正末）そなたの家の子供だと。横着なことだなあ[69]。（唱う）
【後庭花】そなたはまことに得せんとせる娘なり。
（二旦）もともとはわたしの家の息子です。
（正末）黙れ。
（唱う）そなたの言葉も爺やのわれを騙し得ず。
（二旦）子供には姓を知らせて、しきりに行き来させましょう。
（正末）何だって。
（二旦）姓を知らせて、しきりに行き来させましょう。
（正末が唱う）子供には姓を知らせて、しきりに行き来させましょうだと。さようなことを、誰が申した。
（二旦）韓弘道が言いました。
（正末が唱う）ああ、あの爺さんは機を見るに長じたる、俊傑なり[70]。このいきさつを聴きおはり、覚えずわたしは喉を詰まらせ、噎びたり。
（言う）坊ちゃん、これからどうなさいます。
（子役）わたくしは、百年[71]の時は墓穴に入れしめ、二つところで霊車を牽かん。
（正末）ああ。ほんとうに悲しいことです。
（唱う）この坊ちやんは、仰ることが優れたり。大人でも御身のごときことは得言はじ。かれは言ひたり、「百年の時は墓穴に入れしめ、二つところで霊車を牽かん」と。
【青哥児】わたしは慌て、双方のことを考ふることを得ざりき。わが姉は、十月身籠りたることはなかりしかども、坊ちやん、御身を育てたるときに、いささかも怠りしことぞなき。わたしはつねに憶えたり。そのむかし、御身の体の弱きため、潮熱[72]を発せられしとき、かのひとは錦の繃[73]、繍の藉もて、幾重にも覆はれぬ。すこしでもむづからば、揺り籃を動かして[74]、乳を飲ませて休らはせたり。休らへば、わが姉は眉を刷き、窗の外に月の傾きたるまで守れり[75]。
（言う）これもまたひとえにおんみのためでした、
（唱う）孤灯に伴ひ、長夜を明かせり。
（二旦が王獣医とともに子役を引く）
（正末が唱う）
【柳葉児】ああ、坊ちやん、御身よりほか、何らの身内もござゐませぬに、恩義の断ゆるにいかでか忍びん。「自分の産みし子は愛すべきなり」といはるるに、なにゆゑぞわれらをまつたく顧みられざる。御身はわたしを驚かしたり[76]。これから去られ、今度はいつ来られるのやら。
（二旦が子役とともに退場）
（正末が王獣医を引き止める）荘園の小者たち、兄さんと姉さんを呼んできてくれ。
（兪循礼が旦とともに登場）どういうことだ。
（正末）坊ちゃんを人が奪っていきました。
（兪循礼）誰がさように申したのだ。
（正末）王獣医どのにお尋ねください。
（兪循扎）王獣医よ、添添をどうして人に奪っていかせた。
（王獣医）韓弘道の息子ですから、かれが奪っていったのです。
（兪循礼）ほんとうにひどく腹立たしいことだ。
（兪循礼が旦とともに倒れ、正末が王獣医を捕まえる）
（王獣医）手を放せ。おまえのような両天秤、口の達者な大馬鹿ものに劣るものなし。（退場）
（正末が驚く）ああ、ああ、ああ、旦那さま、しっかりなさってくださいまし。添添坊ちゃんが来られましたよ。奥さま、しっかりなさいまし。添添坊ちゃんが来られましたよ。（唱う）
【油葫蘆】ああ。こちらでは母親がひどく怒れり。
（言う）旦那さま、しっかりなさってくださいまし。添添坊ちゃんが来ましたよ。奥さま、しっかりなさいまし。添添坊ちゃんが来ましたよ。
（唱う）あちらでは父親が倒れたり。ああ、わたしは慌て、ぶるぶると顫ふるこの手をいかでか擡ぐることを得ん。
（言う）旦那さま、どうか悲しまれないでください。
（唱う）われらはまさに、やすやすと得しものを、今日やすやすと棄つるなり[77]。これもまたわれらが前世の宿業ならん。旦那さま、奥さま、しっかりなさってください。
（兪循礼が哭く）女房よ、他人の家の息子をあいつは奪っていったぞ。まことに腹立たしいことだ。
（正末）旦那さま、家に帰りましょう。（唱う）
【浪里来煞】恩徳を施すものは年老いしものにかぎらず、ああ、殴り合ひするものは心の悪しきものとは限らず[78]。
（言う）王獣医めが、そなたはまことに酷い奴。
（唱う）連枝樹のごときわれらを、なにゆゑぞたちまちに伐る。もしもわれらが悲しまずんば、心は鐵のごとくなるべし。はなはだ慈しみたることはあらざれど[79]、おそらくは、この人生で最も苦しきことは別れぞ。（ともに退場）
第四折
（兪循礼が旦とともに登場）女房よ、そなたはわしをまる十三年騙していたな。添添がわしの息子でないことが分かっていたら、わしは十三年間も育てなかったぞ。
（王獣医が登場）ああ。義兄はすこしわたしを咎めていることだろう。入り口に着いたわい。わたしはひとりで、義兄に会いにいくとしよう。お義兄さん。
（兪循礼）義弟よ、ほんとうにひどい奴だな。どうしてむごいことをしたのだ。
（王獣医）わたしとは関わりはございません。
（兪循礼）いったい誰が言ったのだ。
（王獣医）すべては酒が言い出したのです。
（兪循礼）飲むのをひかえろ。ああ、仕方ない。あいつの家の子供なら、よろこんであいつに持っていかせよう。もしもこの世で人さまの子を横取りしたら、死んであの世へ行ったとき、ますます酷い目に遭うからな。義弟よ、この八句の詩を子供に送れ。あれは賢い子供だから、詩を見れば、かならずわたしに会いにこよう。もしも来るのが早ければ、わたしに会うことができるが、もしも来るのが遅ければ、わたしは死んでしまっていよう。
（詩を渡す）義弟よ、そなたが話をせぬ時は、われら親子の情愛も断たれなかったが、そなたに話をされた時、われら親子の情愛は断たれてしまった。妻よ、いつかわしらが死ぬときに、ああ天よ、誰が喪に服する人となるであろうか。（哭く）添添や、おまえのせいで本当に悲しいわい。（ともに退場）
（王獣医）この詩を持って、韓弘道の家に送って、添添に看せるとしよう。（退場）
（正末の韓弘道が二旦、子役とともに登場）
（正末）今日があろうとは思いもよらなかったわい。息子よ、わしに一声父さんと叫ぶのだ。
（子役が叫ぶ）お父さん。
（正末）ほんとうに嬉しいぞ。
（唱う）
【双調新水令】花に夜来の雨風の激しき時に[80]、やうやく逢ふことをぞ得たる。枯れたる竹に嫩き笋が生え、老ひし樹に新しき枝が生ふるかのごときなり。じつくりと思案せば、これもまた人の力にあらずして、すなはち天の賜物ならん。
（王獣医が登場、正末に会う）おじさん、あなたは嬉しいですか。
（正末）わしはもちろん嬉しいわい。
（王獣医）あなたは嬉しいのでしょうが、今ごろ、わたしの姉と、義兄は悲しんでいることでしょう。義兄は八句の詩をお子さんに見せよともうしておりました。
（子役が詩を読む）枝を連ねし璧玉はたちまち分かれ、泪なき鐵人も消魂すべし。愁雲は新荘店に聚まりて、喜気はかの白鷺村にぞ生じたる。画閣[81]には冷暖を知る人もなく、高堂に晨昏を問ふ客ぞなき[82]。夢は回れど実の子の顔を見ず、斜めの月はかすかに明るく、独り門にぞ凭れたる。
（詞）見終ふれば両の泪は千筋下りて、覚えずわれは刀にて胸をかき乱さるるがごとし。実の父、母に会ひなば、羊を牽いて、酒を担ぎて、われを育てし父母に拝礼をして感謝せん。
（王獣医）おじさん、羊を牽いて、酒を担いで、わたしの義兄の家に行き、誼を結ぶことにしましょう。
（正末）おにいさんの仰る通り、わたしたちは息子を連れて、誼を結びにゆきましょう。（ともに退場）
（兪循礼が旦とともに登場）今になってもなぜ王獣医が来ないのだろう。
（正末が子役、二旦とともに登場）
（正末）やってきたぞ。
（兪循礼に会い、拝礼をする）親家[83]には養育のご恩を多多受けましたので、本日は、息子とともに拝礼し、感謝するためまいったのです。（杯を取る）
（唱う）
【沽美酒】高高と玉卮を捧げ、伏伏[84]と階に跪く、親家よどうか香醪を飲み干されよかし。ひとまずは辞せらるることなかれ。
（兪循礼）あなたにはお子さんがいるのですね。
（正末が唱う）ああ、もうくどくどと仰るなかれ、証人がおりまする。
【太平令】この人の泥中に刺を含む[85]も道理なり。
（兪循礼）わたしは家が絶えまする。
（正末が唱う）よけいなことを言はんとはせず、はつきりと言はんとぞせる。
（兪循礼）すべては王獣医のせいです。
（正末が唱う）とりあへず張三李四を問ふことなく[86]、われら二人の老人の死ぬるとき、この子に命じ、双方の喪に服し、祀りをさせることとせん。
（王獣医が李春梅とともに登場）
（王獣医）わたしは李春梅さんを探してきました。
（正末）誰が李春梅なのだ。
（春梅）わたくしが李春梅です。
（正末が唱う）
【七弟兄】姓と字を耳にしたれば、覚えずわたしは喜べり、吉事は天より来たるなり。夏蝉の緑楊の枝に高く噪ぎて、西風の黄花を葬り去らんとするや[87]。
【梅花酒】わたしは女の姿を見たり。かくもずんぐりしたる身に、がつしりしたる腰つきなるに、かくまでも麗しき子を産みしとは。鴉の窩に鳳凰が出で、糞の堆に霊芝が生ふるとはまさにこのことならん。天公は果たして私なきものにして、人の心をひそかに窺ひ、たちまちに男女を娶はせ、ひそかに連枝を接ぎたるならん。
（言う）春梅や、このたびは、（唱う）
【收江南】ああ、断腸の人の断腸の詞を寄するに異なり、本日は弄璋の人が弄璋の詩を詠めり。かの天はわが宗支をば絶やすことなく、一家はあたかも旱の苗の甘き雨をば得たるがごとし。
（兪循礼）お待ちくだされ。妻よ、話を変えよう。添添がこの方のものであるなら、訊ねるが、十三年前、おまえはどちらの子を産んだのだ。
（旦）わたしは女の子を産みました。
（兪循礼）今はいったいどこにいるのだ。
（旦）弟の王獣医にやりました。
（兪循礼）王獣医どの、それはよかった。わたしの娘を連れてきてくれ。
（王獣医）それはいい、一場の怨みつらみはわれより生ぜり[88]。わたしは十三年前に、四村から二十里の見回り小屋で、李春梅の子を抱いて、姉の娘と取り換えて、戻ってきました。女房は乳を与えて育て上げ、十三歳になりました。桂花と呼ばれているのがあなたの娘です。姉さん、わたしに従われ、娘の桂花を、おじさんの家の嫁にし、添添をわたしの義兄の婿にして、両家は代々切っても切れぬ親戚となられませ。百年の後、かれら夫婦に茶や酒を供えさせ、墓前にて拝礼し、掃除させ、喪に服させて、愚かしい酒飲みのわたしのことを憐れまれ、死んだ後、血筋が絶えたわたしの骨を、お墓の塀の外に葬り、正月と、毎月の十五日、注ぎつくせぬ涼漿と冷飯を[89]、血筋が絶えたわたしの骨に、一二杯供えてくれれば、年寄りの酒飲みに報いたことになりまする。
（詩）弁舌巧みなるわれを咎むるなかれ、両つの家は怨みに思ふことなかれ。このたびは、男女はふたたび団円す。お義兄さん、ああ、その昔、などわれに耕牛を借したまふことのなかりし。
（兪循礼）このものの言うことも尤もだ。天下の吉事は夫と妻の団円にまさるものなし。羊を殺し、酒を漉し、祝いの宴を設けよう。
（正末が唱う）
【尾声】やうやく息子を探しあて、さらに嫁を得、息子の慶事を成し遂げり。瓦盆のほとりに白酒を飲み、余生を過ごし、画堂の中にて、斑衣に戯れ[90]、まことに楽しき思ひをぞせん。
最終更新日：2010年11月10日