玉簫女両世姻縁雑劇
喬夢符撰
第一折
（老旦が卜児に扮して登場、詩）少年歌ひ舞ひたる老いにし身、喜び笑まへば常に生ぜり満面の春。臙粉はあに価なき宝ならんや。郎君はもとより情があれば。
老いぼれは許氏、夫は姓を韓といい、この洛陽城の人。不幸にも夫ははやくに亡くなって、字は玉簫という、妓女をしている、一人の実の娘がいるだけ。わたしの娘は管絃、歌舞、書画、琴棋、すべてに精通しており、そのうえ美人で、聡明だ。娘を目にする嫖客は、みんな娘を愛してくれる。ただ娘には欠点がある、生まれつき、酸えた黄色い菜[1]を喰らうのが好きなのだ。今は一人の秀才と馴染んでいるが、西川は成都のもので、ほんとうに睦み合い、あつあつだ。今日は向かいの王媽媽の誕生日だから、わたしは娘に手巾を送りにゆかせようとし、半日休みをとらせたのだが、娘はいっかなゆこうとはせず、あの秀才とひたすらいっしょにいようとしている。わたしがゆかねばならぬわい。（退場）
（末が韋皋に扮し、旦が扮した玉簫、梅香を連れてともに登場、詩）桂を折れる手[2]を学び、閑花[3]を惜しめる人となる。巫峡の台[4]に夢を見て、襄王の病の身とぞなりにける[5]。
わたしは姓は韋、名は皋、字は武成ともうし、原籍は西川成都の人。幼いときから儒学を学び、群書を博覧しているが、いかんせん、生まれつき、女と酒をひどく好んで、忘れ去ることができない。先年、遊学したためにこの地に至り、さいわいに韓玉簫姐さんに気に入られ、かりそめの夫婦になった。おたがいに赤心をもって付き合い、白首になることを誓ったのだが、あのひとの母親は少々邪魔だ。今日、あのひとの母親はいないから、姐さんとしばらく気晴らしするとしよう。
（正旦）解元さま、王媽媽に手巾を渡しにゆこうと思ったのですが、来るのが遅れ、あなたをお待たせするのを恐れて、母親をわたしのかわりにゆかせたのです。
（末）姐さんのご厚意に大いに感謝いたします。
（正旦）梅香や、お酒を用意し、わたしと韋さまで何杯か飲むことにしましょう。
（梅香）お酒はこちらでございます。
（正旦がお酌をする。末）姐さん、さきにこの杯を飲むがいい。
（正旦）解元さまと飲むことにいたしましょう。
（末）つまらぬ口でつまらぬ話をいたしましょう[6]。姐さんのような玉の質、花の容、清らかな歌、妙なる舞は、歌妓の中でほんとうにまれなものです。
（正旦）解元さま。わたくしの衣食は、いつになったら終わりますやら。（唱う）
【仙呂点絳唇】雲の鬢、花の鈿、舞ふ裙、歌ふ扇を、わたしは恋ふる心なし。怕るるは、春まさに酣なるに、ひたすら人に軽んぜられんことぞかし。
【混江龍】わたくしは尋常の行院と異なれば、わたくしをひたすら麗春園[7]に住ましむ。眉と眼で虚りの脾を売りて、席の上、尊の前にて和やかな気を散じたり。玉を撃ち、金を敲くを学ぶこと三百段[8]、つねに撩雲撥雨[9]すること二十年。この家の風を、願はくは天下の眼識あるものの見ることなきを。夫と婦の仲睦まじきことを得ば、旦末の双つながらに全きよりもはるかに勝らん[10]。
（末）姐さんのような花の貌、清らかな声の人さえも、楽しくないなら、姐さんの万分の一にも及ばぬ、年老いた妓たちは、どのようにして衣食を求めているのでしょうか。
（正旦が唱う）
【油葫蘆】かの落ち目なる猱児は銭を求めず[11]、かのものたちは、みなあやまちて天を怨めり。あきらかに知る、かの乾村沙たちは玉の天仙となることをいかで得べけん。野の鴛鴦[12]はきよろきよろとして黄金殿[13]にあることはなし。この木鸚哥[14]はむつつりとして仙音院[15]に住まひして、紅を腮に搽りなば赤馬猴[16]に似て、黒き手を伸ばしなば通臂猿[17]にぞ似たりける。紫檀の槽[18]を抱けども『昭君怨』[19]を弾くを得ず、鳳凰の簫[20]は『鷓鴣天』[21]を吹くを得ず。
【天下楽】ああ。秦楼に管弦を列ぬるに懶しといふべけん。
（言う）三杯お酒を飲みますと、
（唱う）掻かれて偏ける髻は見るに得堪へず。荷葉を纏ひ、褐袖[22]の肩を垂るるが如きなり[23]。
（末）そのようなありさまで、もし嫖客から「しばらく歌い舞ってくれ」と言われたら、かれらはどうするのでしょうか。
（正旦）かれらは「わたしは酔うて、歌い舞うことができなくなりました」と言うことでしょう。もしも再三求められれば
（唱う）幾声か狗沁歌を吼え、半辺にて鶏爪風を起こすべし[24]。
（言う）宴が果てる時になると、一つよいことがございます。
（末）どのようなよいことがあるのです。
（正旦が唱う）羊の骨を掴みつつ一目散。
（末）かれらはとるに足らぬものたち。姐さんのように美貌で名声があるひとに、嫖客たちはどのようにして近付くのでしょう。
（正旦）自慢ではございませぬが、郎君たちは来られても、やすやすとわたくしに近付こうとはなさいませぬ。
（末）それはどういうことですか[25]。
（正旦）嫖客たちはわたくしのところに来れば、
（唱う）
【那吒令】一面か半面を見ば[26]、茶の船、米の船を棄て、一拳か半拳を触れば[27]、山田水田を毀ち、一年か半年を経ば、南の園と北の園を売りつべし。かのものらをして、翡翠の楼に白玉を飾らしめ、鴛鴦の殿に黄金を積ましめ、桃源[28]の流るる水に珍珠をぞ綴らしむべき。
【鵲踏枝】かのものたちはわたくしの蹁躚と舞ひたるを見ば、玉の嬋娟と見なすべし。一つの鼻に沙糖を塗られ、両つの口の角に涎を流すべし[29]。あのやうな花木瓜[30]の長安の少年たちは、身の程知らずなることを考へず[31]。
（末）お姐さん、嫖客たちがあなたの家に来ることは、ほんとうに大変なことなのですね。
（正旦）嫖客たちがわたしの家に来ることは、大変なことであるばかりでなく、さらに酷い目に遭うことがございます。
（唱う）
【寄生草】流し眼をしてかのものたちに近寄らば、三魂[32]を喪はしむべし。策略を用ゐなば、かのものたちは八歩の遠きに棄てられん[33]。今や浪包嘍は煙花の選に入り難く[34]、哨禽児はいかでか鶯花の伝に入るべき[35]。嫖客を賺きて桃の花片を索むることなし[36]、がらがらと脳天に天を震はす雷を受け、ひようひようと胸元に幾たびか連珠の箭[37]をぞ中てられん。
（末）姐さん、どうしてこんなに恐ろしいのでしょうか。
（正旦）会われていないわたしの母はもっと恐ろしゅうございます。（唱う）
【幺篇】わが母を空しき寨に投ずるものとな想ひたまひそ[38]。大いにお金を使ふをつねに待ち望み[39]、あたかも老いたる妖精の蟠桃宴[40]を騒がしたるがごとくせん。かの巧みなる舌により、森羅殿[41]をば騒がして、黄桑棒[42]を引きながら、まつすぐに悲田院へと揮ひゆくべし[43]。藕池に並頭の蓮[44]を折り、泥窩に双飛の燕[45]を押し殺すべし。
（言う）梅香や、熱燗を持ってきておくれ。もう一度韋さまにお酌いたしましょう。
（末）姐さんからはたくさんのご厚意を承けました。ほんとうにもう飲めませぬ。
（正旦）解元さま、すばらしい機会ですから、いずれにしても、もう何杯か飲まれてください。（唱う）
【得勝楽】羅の袖を巻き、香はしき醪を勧めり。学士さま、ごゆるりとなさいまし。これぞまさしく、清らかな泉を醸し、朝になり新たに温め[46]、ただ金の盞に蓮の垂るるまで飲めるなり[47]。
（卜児が登場、咳をする）
（正旦が唱う）
【酔中天】三百遍まで騒ぐとも、九千年[48]結婚するよりほかはなからん。茶飯を求めなば選び調へ、衣服を求めなば一揃ひ換へて着せしめ、遣手婆のおんみの願ひに叶はざることぞなかりし。おんみのために銅斗[49]のごとき財産を積み、渡らしめたりけるに、日々お怒りの表情をなされたり[50]。
（卜児）娘や、母さんは話があるのだ。
（正旦が唱う）なにゆゑぞ、われをかやうに焦らしめたる
（末）お母さん、どのようなお話でしょう。
（卜児）韋さま、婆あめが余計なことを申すわけではございませぬが、おんみはひどく志気のないお方です。今、朝廷は触文を出し、賢者を招き、人材を選ばれています。向かいの王大姐の家の張姐夫や、お隣の李二姐の家の趙姐夫は、みな受験しにゆきましたのに、おんみは今でもわたしの家にとぐろを巻いていらっしゃるだけ。わたしはおんみをすこしも気に入ってはおりませぬ。ひとえにおんみが醋の瓶であるからにございます[51]。もしも他人が官職を求めれば、向かいや隣はいささかそわそわするというのに、わたしの家はさばさばとしています[52]。事情を知っているものはおんみに志気がないと言い、事情を知っていぬものはわたしの家がおんみの出世を遅らせていると申しましょう。
（末が旦に言う）姐さん、お母さんはわたしを追い払おうとしている。
（正旦）解元さま、ご安心くださいまし。わたしがこちらにおりますから、あのひとにとりあうことはございませぬ。
（末）わたしはこちらにおりますが、長居するのはほんとうに難しいことでしょう。これを機会にこの家を離れた方が、かえって外見が良いでしょう。
（正旦）解元さま、どうしてわたしを棄てて去られるのでしょうか。
（末）男子には、身を立てて名を揚げる時があります。黄榜[53]が賢者を招いているのなら、ゆかなかればなりませぬ。官職を得られれば、姐さん、おんみは夫人県君[54]ですぞ。
（正旦）解元さまがゆかれるのなら、わたくしはおんみのために旅費を調え、さらに十里の長亭にゆき、一杯を餞しましょう。
（旦が悲しむ）ああ、天よ。お金を愛する母ゆえに、人と別れてしまうとは。（送る、唱う）
【後庭花】今日は汴河の辺にて画船に凭れ、明日は天津橋[55]にて杜鵑を聞かん。もつとも苦しき相思病、きはめて高き離恨天[56]。わたしの涙はむなしく漣漣、いとも淋しき花間の鶯燕[57]。東風に散る楡莢の銭と、春愁を鎖す楊柳の煙。過ぎゆく雁の前に腸を断ち、落つる日の辺にて魂を銷す。苦しめること懨懨として恨みをいかで語るべき、焦りたること煎煎として情は悲し。（悲しみ、唱う）
【青歌児】ああ天よ。人はこの離亭[58]にて、離亭にて、宴を開き、酒と愁は、いかでか、いかでか、呑みくだすべき。凶悪な母親は酷きことをぞしたるなる。情緒は綿綿、柳の畔、花の辺、月の下、星の前にて、枕をともにして眠り、手を携へて肩に凭れんことを想へり。暮の雨の亭の軒を離れて、落つる日の山川を望みたり。雕鞍に問ふ。いづれの日かこれ帰年にて、われとおみとのふたたび会ふべき。
（末）姐さん、ご安心なさい。わたしは行って、官位を得たら、すぐにおんみを迎えにきましょう。
（正旦）解元さま。官職を得られましたら、わたしをお棄てになりませぬよう。
（末）姐さんを棄てはしませぬ。
（正旦が唱う）
【賺煞】あきらかに天は闊ければ雁書は遅きことならん。げに日は近く長安は遥かなるべし[59]。おそらくわれは官誥[60]を受くる縁分にあらざらん。ただ願はくは日辺[61]にて一挙に名を成したまはんことを。
（言う）手紙を寄せられ、
（末）姐さん、指を折り、数えましたが、三年足らずで、戻ってきましょう。
（正旦が唱う）ただ願はくは、三年にて、人と月との団圓ならんを。われをして東風につねに倚り、断たれし弦に泣かしむることなかれ[64]。京師帝輦を恋はれ、ほかに夫人宅眷を求められ、われらの好しき姻縁をば、悪しき姻縁とななしたまひそ。（退場）
第二折
（正旦が病となり、梅香が介添えをして登場）韋秀才さまが去られてから、すでに数年、杳として音信はない。わらわは秀才さまを思うて病となった。痛くも痒くもないのだが、お茶もご飯も摂ることはなく、相思病にひどく苦しめられている。
（梅香）姐さん、湯薬を召されまし。
（正旦）おまえは知らないのだろうが、わたしの病は湯薬で治せるものではないのだよ。
（卜児が登場）娘や、おまえはどんな病気になって、どうしてこんなに窶れたのだえ。わたしはうちが年ごとに栄えることを願っていたのに。娘や、おまえはどうして日ごとに衰えてゆくのだえ。わたしは誰に頼って暮らせばいいのだえ。娘や、とにかくもうすこし頑張るのだよ。
（正旦）お母さま、騒がれないでくださいまし。話をなさらないでください。わたくしは眠りますから。（旦が眠り、目醒める。）梅香や、しばらく眠りたかったのに、何が目を醒まさせたのだろう。
（梅香）姐さん、この窓の前にある花の影でないならば、あの楼の外にいる鶯の声でございましょう。
（正旦が唱う）
【商調集賢賓】紗窓を隔てて日は高く花の影を弄び、いづこにか流鶯の囀るを聴く。半衾の幽夢ははかなく、一枕の春酲こそ懶けれ。遊絲[65]の竹塢桃渓を飛びたるを趁ひ、蝴蝶の月榭風亭[66]にふたたび来るに隨へり。覚めたる時は翠雲十二屏[67]に倚り、墜つる露、飛ぶ蛍にぞ似たりける[68]。寸腸[69]は千万に結ぼれて、二声三声の長き嘆きとなるのみならん。
【逍遥楽】身心はなほ定まらず。危楼にあまねく倚りて、長安を望めども帝京を見ず。薄情者はいづこにありや。おそらくは金屋[70]と銀屏[71]を恋へるらん。想ひ想ふに、わたしへの誠はなきに、海山の誓[72]をむなしく説きしなり。げにも関河は遠くして、歳月は流るるが如くして、魚雁には頼るかたなし。
（梅香）姐さん、そのようにご退屈なら、管弦をお持ちしますから、吹いたり弾いたりして、気晴らしをなさいまし。（旦を介添えし、小道具を看る）
（旦が長嘆する）あちらへ持っていっておくれ。（唱う）
【尚京馬】ゆく雁と、弦の断たれて瑶の筝をば横たへたるは見るに得堪へず[73]。鳳の声は残はれ、玉笙は冷え、獣面に香は消え、翠の鼎[74]は閑かなり。半ば掩はれたる門はひつそりとして、腸を断たれし人は涙とともに夢初めて醒む。
（卜児が登場）娘や、具合はどうなのだえ。
（正旦が唱う）
【梧葉児】火に燎かれたるがごとくに身は熱く、錐に剜られたるがごとくに額は疼き、やうやくに、身は窶れたり。この幾日か食事をば吃はんとせず、眠れどもはなはだしくは寧らかならず。
（卜児）医者を呼び、おまえの脈を診させれば、どんな病気かわかるだろう。
（正旦が唱う）この脈を診ば、寝食を廃せしための病なるべし。
（卜児）梅香や、姐さんをよく世話しておくれ。わたしは下から湯薬を持ってこよう。（退場）
（梅香）姐さん、なぜそのように韋さまのことをお想いなのでございましょう。
（正旦）ほんとうにあなたには隠せませんね。あのかたの人物と才学を、想わずにいられないのです。（唱う）
【醋葫蘆】かのひとの容貌を見ればまことに麗しく、衣冠はとりわけ整へり。風流、洒脱、聡明で、一篇の小曲を唱ひなば調べは清し。温かき情もて、人の命を陥れ、人の魂をぞ引きよする。
【金菊香】かのひとの錦心と繍腹[75]の才能を想ひなば、わたくしは月下と花前になどてか情を動かさざるべき。口に任せてささやかな曲を作り上ぐれば、げに雪を剪り氷を裁つがごときなり[76]。惺しきものは昔より惺しきものを惜しむなり。
（梅香）韋さまがかように音曲に通じていらっしゃるのなら、姐さんがあのかたを想われるのも道理です。
（正旦）あのかたをおまえはまだ見ていないのに、わたしと同じように愛しく思っているね。（唱う）
【浪里来】もしもわたしがほかの院にて簫を吹きなば、かのひとは切々として簾下にて待ちたまふべし。星の移ろひ、斗[77]の転る二三更、門に入り来たりたまはば、画堂に春はおのづと生ぜん。きつくわたしを抱きしめて、睦まじうして、愛しみ、懇ろにしたまはん。
（言う）解元さま、お姿を想い起こせば、とても悩ましゅうございます。（唱う）
【後庭花】かのひとを想ひつつ、薔薇を捏ぬれば花の露こそ清しけれ[78]、臙脂を点じたりぬれば紅の蝋燭は冷え、心は花朶を整ふるに耐へ[79]、手は蛾眉を描くに慣れたり。髪を梳き、顔を洗ひて玉の肩にし憑りたれば、鴛鴦の頚を交ふるにぞ似たる。今になり、玉の肌骨は九分痩せて、粉の香は半ば失せたり。いたづらに秋水[80]の漲りたるをじつと見て、雲鬢を整ふる情なし。ごつごつとしていたく痩せ、懨懨として装ひを成すことぞなき。
（卜児が登場）娘や、すこし湯水を作ってきたから、何口か飲むがいい。
（正旦）お母さま。どのような食事であろうと、わたしは食べられなくなりました。病はますます重くなったと思われます。一幅の絹を持ってきてください。みずから影身図を描き、秀才さまにお送りしましょう。（小道具にむかって絵を描き、唱う）
【金菊香】幾たびか筆を落として、描かんとつとめたれども、いかんせん、悲しみたれば描き得ず。頬の涙は粉を潤して、顔色はなく、鬢は乱れて、釵は傾き、わたしの眼皮と眉黛ははつきりとせず[81]。
（言う）さらに一首の詞を作りましたから、いっしょに持っていってください。詞の名は『長相思』といいます。
（詞）長き思ひに短き思ひ、長短の思ひ、楊柳の枝[82]、腸を断つ千万の絲。生きては思ひ、死しては思ひ、生くるも死ぬるも思ひの了る時はなく、断腸の詞を君に寄せたり。
梅香、鏡を持ってきてわたくしを映しておくれ。近頃の顔はこの絵の顔とは違っているだろう。（鏡を見て長嘆し、唱う）
【柳葉児】菱花の妝鏡[83]はまことに寂し。ひとり見て、ひとり心を傷ませり。一片の志誠の心を氷綃[84]の画布に描けり。この一篇の相思令を、多情[85]に寄せなば、人は窶れて丹青に異なりたりと言ひねかし。
（卜児に言う）お母さま、旅費を持ってきて、人に頼んで、わたくしの真容と詞を持たせ、京師へ韋秀才さまを探しにゆかせてくださいまし。
（卜児）王小二さん、どこにいますか。
（丑が王小二に扮し登場）わたしは王小二。お母さん、わたしを呼ばれてどうされました。
（卜児）娘はあなたにお願いし、京師に行って、韋秀才を捜させようとしています。ゆくことができますか。
（小二）天下の路を、わたしはすべて歩いたことがございます。
（卜児が引き合わせ、旦が言い含める）小二兄さん、京師に行ったら、しっかり韋秀才さまをお捜しし、わたしの思いをお伝えください。（唱う）
【浪里来】おんみはいへり。橋に題せしものに信義の行ひはなく[86]、車に駕せしものに確たる成果はなしと[87]。わたくしはかの漢相如[88]を敬ひて、多く逆らふことぞなき[89]。わたくしは卓文君の上稍はあるも四星のなきがごとくして[90]、むなしく天に叫べども応ふるものなし。秀才さま。「頭を挙ぐれば三尺に神明あり」[91]といふを聞かれしことなきや。
（小二）お姐さん、ご養生なさいまし、京師に行って韋秀才さまをお捜しし、あのかたといっしょに戻ってまいりましょう。
（正旦が悲しむ）来たとしても、会うことはできないでしょう。（唱う）
【高過随調煞】物思ふ人は短籌を食ひ[92]、情ある人は大いに薄情なりき。かのひとは、三年と言ひしも、今まで五年戻りたまはず。げにわれをして、天は遠く、地に入るに近くして[93]、残んの命は風前の灯の似くさせたり。
（言う）小二兄さん、
（唱う）汝がかの虧心の短命に見えんときは、わが霊は洛陽城を飛び出でつべし。（死ぬ、退場）
（卜児）玉簫は死んでしまった。高いところに土地を選んで、木を切って、棺を作り、埋めねばなるまい。娘や、おまえのせいでほんとうに淋しいよ。（退場）
第三折
（末が軍装で卒子を率いて登場、詩）万里のかなたに功名を立て、錦を衣つつ帰れども、往年の心事にはなはだ違ひたり。月の明に簫を吹く侶を独り憶へど[94]、秦楼[95]に声は断え鳳はすでに飛びたり。
わたしは韋皋ともうすもの。玉簫姐さんと別れて、都に行って、一挙状元に及第し、聖恩を蒙って、翰林院編修の職に任命された。のちに吐蕃が叛いたために、某は国家のために辺境で功績を立てようとして、兵を率いて西征し、一戦で西夏を征した。さらに聖恩を蒙って鎮西大元帥を加えられ、吐蕃を鎮守し、辺疆を安んじている。官職を得てから今日に至るまで、はや十八年。想えばわたしはそのむかし玉簫と別れるときに話しをし、二年以内に会うことを約束していた。当初は王命により遠征し、手紙を寄せる暇がなかった。鎮守する時になると、ようやく人を遣わして、かれら母子を迎えにゆかせた。（顔を掩って悲しむ）だが玉簫は、わたしのことを心配し、病気になって、臥せたきり起き上がることはなく、その母親も所在が知れなくなっていた。それがしは玉簫との誼を思い、今でも妻を娶っていない。日夜憂えて、知らぬ間に鬢髪は斑白になってしまった。この駟馬香車、五花官誥を、いったい誰に享受させよう。このたびは、聖恩により、軍を率いて帰朝することとなり、荊州を通り掛かった。節度使の張延賞はそれがしの往年の同学の友人だから、訪ねなければならぬわい。前軍に伝えよ。荊州めざして進発せよと。
（卜児が登場）老いぼれは韓媽媽だ。玉簫が死んだ後、玉簫がみずから描いた真容を持ち、京師へ韋秀才さまを尋ねていった。だが秀才さまは試験を受けて、官職を得て、朝廷の御諚を蒙り、兵を率いて、西のかた吐蕃へ出征されていた。わたしはあちらへ秀才さまを尋ねにゆこうとしたのだが、一つには路が遠いし、二つには戦のために騒がしかった。それにわたしは老いた婦人で、旅の苦労に耐えられぬので、ゆかなかったのだ。今、聞けば、あのかたは、軍を率いて帰朝したとか、わたしは軍門にゆき、あのかたに会わねばならない。お兄さん、すみませんが、元帥さまにお知らせください。韓媽媽がお会いしにまいりましたと。
（卒子が取り次ぐ）
（末）お母さん、あなたはどちらにいたのです。
（卜児）千辛万苦は、一言で尽くせるものではございませぬ。娘が遺した真容がございますから、御覧になってくださいまし。
（末が小道具にむかって悲しむ）お姐さん、おんみのせいでとても悲しい。お母さんは、軍中に留まられませ。わたしは帰朝いたしましたら、終生養ってさしあげましょう。（いっしょに退場）
（外が張延賞に扮し、卒子を率いて登場、詩）文を閲して武を握りつつ、荊襄を鎮めたり。地に立ちて、天を擎ふる棟梁となる。宝剣を磨き来たれば江水白く、錦袍に漂ひ出づるは漢宮の香[96]。
老いぼれは姓は張、名は権、字は延賞といい、原籍は西川の人。幼くして儒学を習い、兵書を読んで、若年にしてたちまちに名を成した。陛下はわたしの人物を御覧になり、太平公主[97]さまを降嫁させ、官職は虞部尚書[98]を拝命した。その後に、辺地が不穏となったため、出でて荊襄節度使となり、くわえて西川を治めた。幼名は玉簫という義女がおり、もともとは妓館の人で、管絃と歌舞を善くして、智慧があり、聡明である。わが家で宴を開いたり、親しく貴い賓客を迎えるときには、出てこさせ、お酌させるが、みな酔うて倒れてしまう。このたびは、鎮西大元帥の韋皋が、詔を蒙って、軍を率いて帰還して、この地を通り掛かっている。このものは、若いときの同学の友人なのだが、それがしに一日の長がある。韋皋は現在、城外に駐留しており、晩に老いぼれを訪ねてくるとか。わたしはすでに人を遣わし、迎えにゆかせた。大いに夜宴を開かねばならぬわい。弟が来た時、すぐに玉簫を出し、お酌させ、十数年の久闊を叙するとしよう。左右のものよ、韋元帥どのが来られたら、わたしに報せよ。
（末が登場）わたしは韋皋、もう荊州に着いたから、今すぐに延賞兄じゃをお訪ねしたいが、いかんせん大事な軍務があるために、勝手に離れるわけにゆかない、兄じゃははやくも人を遣わし、迎えにきたから、夜陰に乘じて、数十騎の供を連れ、兄じゃに会いにゆくとしよう。門番よ、取り次いでくれ、韋元帥が参りましたと。
（卒子が取次ぎをして会う）
（張延賞）元帥さまにはご来臨賜わりましたに、お迎えもいたしませんで、なにとぞお許しくださいまし。
（末）しばらくお会いしませんでしたが、ふたたびお会いすることができ、幸いにございます。
（張延賞）ありがとうございます。元帥さまにはお見限りなく。酒を持て。元帥さまに一杯をさしあげましょう。（楽を奏でて酒を勧める）
（末）わたくしにどのような取り柄があって、このようにもてなしてくださるのでしょう。
（張延賞）左右のものに命じて娘を呼び出させ、お酒を勧めさせましょう。
（末）兄じゃ、酒を買い、宴を設けられたのですから、令嬢を出されて会わせられるには及びませぬ。このようななさりようは宜しくはございますまい。
（張延賞）おんみはわたしの異姓の弟、さしさわりございますまい。（旦を呼ぶ）
（正旦が玉簫に扮して登場）わらわは張玉簫。節度使の義女。堂の前で呼んでいるから、ゆかねばならぬ。どなたを款待しているのやら。結構な夜宴であること。（唱う）
【越調闘鵪鶉】翡翠の窓紗、鴛鴦の碧瓦、孔雀の金屏[99]、芙蓉の繍榻。軽綃[100]の幕を巻き、睡鴨[101]に香を焚きたり。灯を掲げ、簾を下ろし[102]、これぞまさしく南省[103]の尚書、東床[104]の駙馬。
（言う）美しいこと。（唱う）
【紫花児序】帳前の軍は朱衣、画戟[105]、門下の兵は錦帯、呉鈎[106]、坐上の客は繍帽、宮花[107]。もともとは教坊に歌ひ舞ひ、豪奢なる内苑[108]に身を寄せり。板は紅牙を並べつつ[109]、一派の簫韶[110]をば備へ、二列の美人は絵の如く、粉の面に銀の筝、玉の手に琵琶を持ちたり。
（末）兄じゃ、夜はもう更けましたから、お嬢さまを出されることはございませぬ。多くの酒肴を賜わることはございませぬ。
（張延賞）粗末な酒はお出しするには堪えませぬが、娘が出てまいりましたら、一杯を勧めさせましょう。
（正旦が入って見える）
（張延賞）こちらはそなたの叔父さんの、征西大元帥さまだ。ほかの人とは違うから、叔父さんにお酌するのだ。（楽を奏でる。旦がお酌をする）
（唱う）
【金蕉葉】かの宮燭[111]は明らかに絳蠟を焼き、わたしはこちらで繊手をもて玉斝を擎げたり。かのひとの挙止は堂々として俊雅ければ、隙あらば孜孜として見る。（見る）
（唱う）
【調笑令】このかたはいづこかで見たるがごとし。眼の霞みたりしにや。手を歯に当てて思ひ起こさんとせり。
（言う）ほんとうにおかしなことだ。
（唱う）覚えずわれは心牽かれぬ。五百年[112]の歓喜寃家ならずや。いづこの緑の楊にか馬を繋ぎし[113]。夢の中なる雲雨の巫峡にあらざるや。
（張延賞）娘よ、叔父さまにたっぷり斟いでさしあげるのだ。
（旦がお酌をする。末が首を垂れてこっそり呼ぶ）玉簫よ。
（正旦がこっそり応える）はい。
（張延賞がそれを見る）きちんとお酌もうしあげずに、何を喋っておるのだ。
（慌てて、唱う）
【小桃紅】玉階に吹き尽くす碧桃の花、げに一刻に千金の価あり。
（末がこっそりと見る）
（正旦が唱う）かのひとはこつそり斜めに目を投げかけて、わたくしを驚かし、顔をぞ紅からしめたりし。
（張延賞）さらにたっぷりお斟ぎするのだ。
（旦がお酌をし、唱う）わたしの主人は酒杯もて春風の面をぞいたく嫌はしめたる[114]。
（末がこっそり言う）娘さんはお幾つですか。誰かと婚約されていますか。
（正旦がこっそり唱う）今年で十八。婿を取つてはをりませぬ。
（末）娘さんはあのひとの実の娘さんですか。
（正旦が唱う）わたしの主人は牡丹の芽をぞ養ひし。
（張延賞）韋皋どの。おんみが道理を弁えた人だと思っておりましたので、娘にお酌をさせましたのに、どうしてからかわれるのでしょうか。わたしを誰だとお思いか。
（末）有り体にもうしあげれば、わたしにはもう亡くなった妻がおり、洛陽の角妓でした。この娘さんと幼名が同じで、顔が似ておりましたので、顔を見て情を生じ、新らしい人に逢い、昔の人を思い出したのでございます。
（正旦）ほんとうにお気の毒に。（唱う）
【鬼三台】かのひとは悲しきことを説き起こし、われもまた涙が行をなさずに下れり[115]。たちまちにわが心猿意馬[116]は呼び戻されぬ。われは一朶の麗しき洛陽の花。ああ。風流の話をあやふく露はにせんとしたるなり。
（張延賞）このようなでたらめを仰るとは。亡くなった奥さまに似ていると言い、嫁になれとは言われないとは。
（正旦が唱う）この言葉は戯言なりと仰れど戯言ならず、この公事は偽りなりと仰れど偽りならず。
（末）ほんとうに亡くなった妻に似ていたのです。口先でからかっているのではございませぬ。
（正旦が唱う）かのひと[117]は根掘り葉掘りし問ひただしたり。
（張延賞）韋皋どの、これはわたしの実の娘でございますのに、誰だと思っていらっしゃる。
（正旦が唱う）おんみは鹿を指しつつ、馬と言ひたまふ。
（末）娘さんが婚約されていないなら－わたしは妻を亡くしてからは、再婚もしておりませぬ－結婚をご承諾されたとしても、駙馬のおんみの家門を辱しめることはございますまい。
（張延賞）でたらめを仰いますな。わたしはおんみと友人ですから、妻や子を出てこさせましたのに、おんみはどうして顔を見て、情を生じられたのですか。おんみのような人間は、外は君子で内は小人、顔は人でも心は獣。いますぐおんみと絶交しましょう。
（正旦）ご主人さま、お怒りをお収めください。
（張延賞）小娘も、このものに味方するとは、ほんとうに腹立たしいこと。
（正旦が唱う）
【禿厮児】かのひとを諌むれど水に瓜をば納むるがごと[118]。かのひとはわれを見ること鏡に花を観るがごと[119]。書生はもとより情性の浮つきたるものなれど、などて良家の嬌娃をからかへる。
（張延賞が怒る）このような良くない客を、招いても仕方ないわい。左右のものよ。宴席を片付けるのだ。（がやがやとする仕草[120]）
（正旦が唱う）
【聖薬王】いかで救はん。いかで抑へん。公孫弘は東閣に騒ぎ立て[121]、玳瑁の筵[122]を散ぜり。鸚鵡斝[123]を抛ちて、銀の燭と絳き籠紗[124]を踢り倒したり。
（張延賞が剣を抜く）
（正旦が唱う）三尺の剣を匣より抜き放ちたり。
（張が追いかける）好意でおんみを招いたのに、かように悪い考えを起こすとは。おんみを殺し、聖上に面奏しよう。
（正旦）ご主人さま、早まられてはなりませぬ。（唱う）
【麻郎児】このかたは今、金の戈、鉄の甲を率ゐられ、鼓吹鳴笳[125]を擁せられたり。このかたは、法を犯したまひしかど、われらには勢剣[126]と銅鍘[127]はなし。
【幺篇】なにゆゑぞ腹を立て、殺さんとしたまへる[128]。このかたに罪あらば、御階の前にて幾たびか金瓜[129]をば喰らはしむべし。このかたは百十万の軍権を掌り、奇功を建てて西夏を征服したまへり、
（末が外に出る）大小の三軍よ、屋敷を囲み、老いぼれを引きだして、屍を一万に砕くのだ。（兵士が喊声を挙げ、屋敷を囲む）
（正旦が唱う）
【絡絲娘】剣を舞はせる田文[130]のおんみが意を差たば、絶纓会の将軍[131]を怒らしむべし。
（末を見る。唱う）嫁を娶るに宴にて目配せをするものはなし。官媒に請ひて話しをすべきなり。
（張延賞が剣を持ち、切ろうとする）
（正旦）ご主人さま、お怒りを収められませ。玉簫がひとりで行って、あのものに二言三言話をし、兵馬を退散させましょう。（出ていって末に会う）。元帥さま、おんみは書を読むお方ですのに、なぜ乱暴をなさるのでしょう。
（末）老いぼれは無礼なやつだ。娘は義女であったのに、あのものは実の娘と偽った。そこにはきっと隠し事があるのだろう。わたしが求婚したときに、あのものが結婚を許さないならまだよいが、みずから剣を抜いてわたしを追いかけるとは。今すぐにあのものがわずかな草も遺せぬようにさせてやろうぞ。
（三軍が喊声を挙げ押し寄せる）
（正旦が唱う）
【東原楽】わが家に酒色はありて春は価なし。でたらめを仰るなかれ、香を生じたる玉に瑕ありと[132]。かのひと[133]の舅御は万万歳の君にして当今の駕[134]ぞ。ここはまさしく玉葉金枝[135]、宰相の衙なり。おんみはかやうに騒がしく、悪しきさまにて碧油の幢[136]の下にしぞある。
【拙魯速】文ならば周公の礼法があり、武ならば天子に代はりて伐つべし。雲の間を翔ぶ鳳に学ぶことなく、井の底に鳴ける蛙のごとくしたまふ。おんみはかやうに旗を揺らして喊声をあげ、土と沙とを巻き揚げて、ぎやあぎやあわあわあ。かやうに武威を耀かし、いかやうにせんとしたまふ。北海の尊罍を両事家となしたり[137]。おんみは悪しきありさまをひけらかせども、指弾せられなば一万回の剮とならん[138]。
（末）匹夫めはわたしをひどく辱しめたから、匹夫めを殺したあとに、帰朝して天子に面奏するとしよう。わたしにも西夏を征した功があるから、功によって罪を補うことができよう。
（正旦）元帥さま、それはなりませぬ。おんみは聖旨を奉り、吐蕃を破り、西夏を平らげ、ご帰還あそばされたのですから、功績を申告し、恩賞を受けられるべきにございます。求婚がうまくゆかないことを理由に、詔を偽って、節使を殺そうとなさるとは、誅殺されても罪は許されぬことでしょう。『周易』にこう申します。「師は出づるに律を以てし、律を失はば凶なり」[139]と。夫子はこうのたもうています。「暴虎馮河、死して悔いなき者は、吾與せず」[140]と。元帥さま、お考えくださりますよう。
（末）わたくしは不才ではありますが、娘さんに秦晋の誼[141]を成就することを求めても、あのかたを辱しめることにはなりませぬ。あのかたはどうして許してくださらなかったのでしょうか。
（正旦）元帥さまが、ほんとうに求婚をなさいますなら、朝廷へおゆきになって、上奏を受け入れていただいた後、わたくしを迎えにこられることになされば、まことに晴れがましいことで、駙馬さまも勅命に背くわけにはゆかれますまい。このことをなされずに、みだりに殺されようとするとは、間違ったお考えにございます。
（末）それもそうだ。大小の三軍よ、今すぐに囲みを解くのだ。
（正旦）まことに結構。（唱う）
【収尾】かねてより、秀才たちの色胆は、天のごとくに大なれば、小胆な文君のわたしをいたく脅かさんとしたるなり。
（張延賞）友人の面子を立てていなければ、わたしはきっとおまえを殺し、恥を雪いでいただろう。
（正旦が唱う）お怒りを収められまし。ご気性のいたく烈しき卓王孫どの。
（末）わたくしが朝廷に上奏すれば、その時はおんみをただではすましませぬぞ。（衆を連れて退場）
（正旦が唱う）お黙りなされ。むりやりに風情をせし漢の司馬[142]どの、（退場）
（張延賞）結構な客を呼んだものだな、結構な客を呼んだものだな。ほんとうに腹立たしいわい。あいつは行ったら、朝廷にきっと面奏することだろう。おまえがゆくなら、わたしもゆくぞ。みんなして上奏しよう、みんなして上奏しよう。（退場）
第四折
（卜児が登場）老いぼれは韓媽媽じゃ。韋元帥さまが言うには、張節度使の家の歌女玉簫は、わたしの家の娘と顔が瓜二つだとか。韋元帥さまは求婚がうまくゆかずに、張節度使に咎められたが、このたびは朝廷が上奏を受け入れて、張家を召して、帰京させ、この結婚を成就することとなされた。本日は、元帥さまのお指図で、わたしが娘の真容を、美人図として、駙馬の屋敷に売りにゆくこととなった。買いにくる人がいるのだろうか。（叫んで絵を売る）
（張延賞が登場）老いぼれは張延賞。そのむかし、荊州で韋皋を招待したときに、娘玉簫を出てこさせ、お酌させたが、あのものに辱しめられてしまった。思いがけなく、あのものは軍を率いて帰朝して、このことを宮中に上奏したため、聖旨を受けて、家族を連れて帰京して、あのもののために結婚を成就することと相成った。これは聖上のお言葉で、背くわけにはゆかぬから、参内せねばならぬわい。（会う）何者が騒いでおるのだ。
（左右）絵を売る老婆にございます。
（張延賞）そのものを来させるがよい。婆さんが売っているのはどんな絵だ。
（卜児）一幅の美人図にございます。
（張延賞）持ってきて見せてみよ。（見る）ああ。ほんとうにおかしなことだ。どうしてわたしの玉簫と瓜二つなのだ。婆さん、そなたの美人図は誰が描いたのだ。
（卜児）わたくしの亡くなった娘韓玉簫が手ずから描いた真容で、夫の韋皋秀才に送ろうとしていたものにございます。わたくしは京師へ韋皋秀才を探しにきたのでございますが、人が言うには、あのかたは、兵を率いて西蕃を鎮守しているとのことにございました。わたしはこちらであのかたをお待ちしたのでございますが、すでに十八年になり、お金を使い果たしたために、これを一幅の美人図として、売ったお金を路銀にせねばならぬのでございます。
（張延賞）そうだったのか。道理で韋皋がその昔、顔を見て、情けを生じていたわけだ。
（卜児）旦那さま、今、韋皋と仰いましたか。
（張延賞）婆さんは知るまいが、その絵の美人は、わたしの養女の玉簫とそっくりなのだ。わたしは以前、荊州で韋皋を招き、わたしの娘に命じて韋皋にお酌させたが、韋皋はかくかくしかじかの無礼をはたらき、老いぼれに咎められたのだ。あのものは、このたび帰朝し、宮中に上奏するから、わたしは今日、あのものとともにこの事を面奏しようとしていたところだ。この絵をわたしに売ってくれ。どれほどのお金がいるのだ。
（卜児）わたしの婿が今、生きているのでしたら、婿のところに持ってゆこうと思います。千金でもお売りすることはできませぬ。
（張延賞）左右のものよ、この婆さんを連れてゆき、いっしょに参内するとしよう。このことは真実だろう。韋皋はわたしを騙そうとしていたのではなかったのだ。（卜児を連れて退場）
（外が唐中宗に扮し、末一人、衆を連れて登場）寡人は唐の中宗だ。昨日、征西大元帥の韋皋が帰京し、駙馬張延賞の養女玉簫が、かれの亡妻韓玉簫とそっくりであったので、結婚を成就したいと上奏した。寡人は駙馬を特別に呼び寄せて、帰朝させ、かれら両家の婚姻を成就させよう。駙馬を召し、参内させて、文武官らの面前で、寡人の裁きを聴かせねばなるまいぞ。
（内侍が召す）
（張延賞が登場）宮中のお召しを蒙り、参内し、聖駕に見えねばならぬ。（駕に見える）
（駕）駙馬どの、韋皋がそなたの家に求婚しているが、お考えはいかがであろうか。
（張延賞）陛下。わたくしの家には只今、玉簫という娘がおります。玉簫をお召しになって、かれみずからに話をさせられますように。
（駕）呼んでまいれ。
（内侍が旦を呼ぶ）
（正旦が登場）わらわは張玉簫、聖上の恩旨を蒙り、駙馬である父上とともに帰朝し、韋元帥さまと結婚を成就しようと考えている。今、宮中からお召しがきたから、聖駕に見えにゆかねばならない。（参内し、駕に見える）
（駕）玉簫よ、そのむかし、荊州の張駙馬が、なぜ韋元帥を呼んだのかもうすがよいぞ。
（正旦が唱う）
【双調新水令】かの夜は、太平公主の家[143]に夜宴を設くるにあらずして、鴻門に宴して虞姫に纏はる樊噲を招きたるのみなりき[144]。拖地錦[145]は鳳尾の旗[146]、撞門羊[147]は虎頭の牌[148]、御筆によりて差はされたる、征西夏大元帥なるを恃めり。
（駕）玉簫よ。そなたは駙馬の実の娘か。
（正旦が唱う）
【沈酔東風】玉簫は詩山曲海[149]をば習ひ、柳陌花街[150]に生ひ立てり。燕鶯[151]の集ひは日にけに忙しく、鴛鴦の社[152]は朝なさな催さる。
（駕）そなたはどうして駙馬の家に入ったのだ。
（正旦が唱う）遣り手婆はお金があれば多く売りたり[153]。王侯にして宰相のお屋敷に踏み入りたれど、「山河は改まり易し」とはいささかもいはるることなし[154]。
（駕）玉簫よ。そなたは韋皋を見分けられるか。
（正旦）お会いしたことがございますから、今でも見分けられまする。
（駕）朝臣たちの中で見分けよ。
（旦が起ち、末を見分ける）
（唱う）
【喬牌児】かのひとは、烏紗帽[155]を被り、気概あり、白象の笏を秉り、威厳あり。綽綽たる紫羅の袍は金魚[156]の帯によく似合ひ、昂昂として白玉の階に立つ。
（駕）玉簫よ、このものであろう。
（正旦が唱う）
【水仙子】この公は絶纓会[157]にて裙釵に戯れたりしことあり。
（末）わたしがどこにいただって[158]。
（正旦が唱う）細柳営にて大会戦せしこともあり[159]。
（末）わたしがどうして闘うものか[160]。
（正旦が唱う）おんみは旦那さまのお屋敷を鶯花寨[161]の似くに見たまふ。
（末）あのものが先にわたしに立腹したのだ。
（正旦が唱う）かのひとが不当なりしと仰れど、活佛さへ怒りて蓮座を下るべし。
（末）わたしは大元帥なのだから、あのものはわたしを苛めることはできまい。
（正旦が唱う）わたしはやはり役人同士で庇ひあふべし[162]、おんみは「賢を賢とし色を易ふ」[163]とはいへず[164]。
（末）わたしは好意で求婚したのに、あのひとはなぜあのようなことをしたのだ。
（正旦が唱う）それゆゑに、千里を遠しとせずして来たれり。
（駕）駙馬どの、かれら二人が申しているのは嘘か真か。
（張延賞）陛下、朝門の外に絵を売る老婆がおり、証人とすることができましょう。
（駕）呼んでまいれ。
（内侍が卜児を召す）
（旦を見て悲しむ）玉簫や、どうしてこちらに来たのだえ。
（駕が反応する[165]）このお婆さんは、なぜすぐに玉簫であることが分かったのだ。なにゆえかように悲しんでおる。
（正旦が唱う）
【攪筝琶】文武官らはみな怪しみて、われの心は覚えずいとど疑へり。目の前にゐる婆さんは、もしや前世のお母さま。幼名をはつきりと呼び、くだくだと怨み哀しむ。緑窓[166]の前にて春夢を呼び覚ませるがごとくしたれば、われもまた雨の涙は頬に満ちたり。
（駕）お婆さん、そなたはどうしてこの娘を見てすぐにかれだと気がついたのだ。
（卜児）わたくしは一幅の絵を持っておりますが、それは娘の玉簫の真容ですので、気がついたのでございます。
（駕）持ってきて見せてみよ。（小道具を掛ける）
（衆が驚く）なぜ絵の中の美人と娘が同じ型から出たかのように似ているのだろう。
（正旦）このように珍しいことがあるとは。（唱う）
【雁児落】いづれも臙脂に桃杏の頬、金粉に芙蓉の顔。いづれも雲と為り雨と為る情にて[167]、国を傾け城を傾くる態なり。
【得勝令】一つの型より脱けたるがごと。春に痩せ、骨は崖崖[168]。
（卜児）これは娘が臨終の時、描いた真容、夫の韋秀才さまに送ろうとしたものにございます。
（正旦が唱う）これは心事を寄せたりし丹青の画布にはあらず。これぞ等身図、煙月牌[169]なり。長街に出でて、なほ風流の債を返し尽くさず[170]。幾貫か銭財を得なば、落籍せられ、自由を得べし。
（駕）玉簫よ、韋元帥の妻であるなら、どうして今でも生きていて、若いのだ。
（正旦が唱う）
【甜水令】かのひと[171]は十八年前のことにて、三千里をば隔てりといひたれど、それゆゑに弄玉[172]は転生をしたるなり[173]。
（駕）玉簫よ、死んだ後、転生し、十八になっていたのだな。おまえは若い娘だが、韋元帥は、すでに中年過ぎの男だ。おまえはかれと夫婦になろうと思うのか。
（正旦が跪く）人の命は長いものも短いものもございます。わたくしが元帥さまの先に死なぬとも限りませぬ。
（唱う）陛下には、わたしはまさにうら若く、かのひとは年老いたりと仰れど、これもみな天地のご差配なるべし。
（駕）玉簫よ、そのほうが望むなら、今すぐに元帥の夫人になるのだ。
（正旦が末を引き、駕に感謝し、唱う）
【折桂令】桃源洞の枯れし樹に花は開けり。かのひとは八輔の官員[174]。生まれつき一品の人材なるべし。
（卜児）娘や、このように、年と顔が不揃いだから、ほかに佳い花婿を求めてはどうだろう。
（正旦が唱う）かのひとは、さほどには老いたまはず。聖恩により結ばれたれば、頭が白くなるまでともに過ぐすべし。
（張延賞）わたしは貴族で宰相の家柄だ。娘のために連れ合いを求めるならば、年若い婿でなければなるまいぞ。なぜこのような老いぼれに嫁ぐのだ。
（正旦が唱う）たとひおんみが鳳台[175]に簫を吹く広成子[176]、天台[177]に流るる水の姜太公[178]ならんとも。琴瑟の和し、連理[179]の双つながらに栽ゑられ、生きては衾を同じうし、死してはともに埋めらるべきことを願へり。
（駕）韋元帥よ、いますぐ駙馬に礼を言い、岳父とするのだ。
（旦が末を引く）
（末）わたしは官は一品に居り、位は三台[180]に列なっておりますから、求婚をして遂げられぬはずはございませぬ。あのものを拝することはできませぬ。
（正旦が唱う）
【落梅風】そもこれは、そもこれは、金花誥[181]をぞひけらかしたるなりし、
（張を引き、言う）来られてください。来られてください。
（唱う）[182]玉鏡台をな壊したまひそ[183]。齏塩と黄菜の秀才なりしも[184]、温太真はさらに情性ぞ賢かりける[185]。晋明行にむかひてなどか大いに騒げる[186]。
（末）あのものは自分の家の勲功の貴いことを自慢して、老いぼれを嫌っておるわい。事がうまくゆかなければ、人々の嘲りを招くだろう。
（正旦が唱う）
【沽美酒】麟閣[187]に戦策を論ぜられ、鳳池[188]にて文才を試されぬ。
（言う）元帥さま、おんみはどうしてお怒りなのでございましょう。
（唱う）春風の門下の客よ[189]、宋弘の事の諧はざらんことの怕るべきやは[190]。ご安心なされかし。今上はおのづからお裁きをなさるべし。
（張延賞）養女をとったわたしの運が悪かった。おんみの舅となったのに、一拝もしてもらえないとは[191]。
（正旦が唱う）
【太平令】[192]これもまた、かのひとの賠銭貨を買ひぬれば、せんすべなきなり[193]。強項侯[194]のおんみの諌めを聴かざることは笑ふべし。あちらでは狼が幞頭[195]を喰らふがごとく耐へたるに[196]、こちらでは草原の球のごとくに楽しまれたり[197]。おんみらの釵を插して[198]、納采をするを求めず。おんみは脚と腰を伸ばして再拝せざることを得ず。
（旦と末がともに謝す）
（駕）結婚が成就したなら、家に帰って祝いの宴を設けるがよい。朕は宮中に帰るぞ。（退場）
（正旦が唱う）
【絡絲娘煞尾】おんみ[199]は狭き料簡で西川[200]を大いに鬧がしたりしかど[201]、東の牀に笑まひつつ腹をはだくる貴き客を招きたまへり[202]。
（張延賞）天下の喜事で、夫と妻の団円にまさるものはない。ましてや今日は両世の姻縁、三生の結婚を諧えたのだから、すぐれて人間の珍事、古今無双のできごとだ。羊を殺し、酒を造って、盛大な宴を設け、祝おうぞ。
（詩）詔もて結婚せしめ、帝都へと入らしめたれば、老いぼれは鸞の雛[203]を惜しまんとせず。男女の婚嫁は尋常のことなれど、両世の姻縁は古よりぞなき。