楔子

(冲末が李孝先に扮して登場。詩)

心には傷みあり

寝ても覚めても介添へを受く

加ふるに家は貧しく

門前に聞く取り立ての声

わたしは姓は李、名は孝先、原籍は襄陽の者。幼い時より父母はなく、儒学を学ぶも成就せず、商人(あきんど)となる。元手がないため、居士さまから二つの銀子を借りうけて、商いをしたものの、運悪く元手と利益を失って、返済できなくなってしまった。このあいだ、県庁の前を通ったところ、中で縛られ、吊るされ、殴られて、十数余人が取り立てを受けていた。進み出て、事情を訊くと、下役は、お金持ちから借金をした人たちが、お金を返せないために、殴られ懲らしめられているのだと言っていた。それを聞くと、わたしのように、居士さまに返すお金を持たない者は、告訴されたら、苦しみに耐えられまいと考えた。わたしは恐れ、心配し、病となり、起き上がることができなくなり、家で病に臥しているのだ。今では天は遥かに遠く、地に入るには近いから、もうすぐ死んでしまうであろう。(退場)

(正末が龐居士に扮した浄を引きつれ登場)わしはこの襄陽の者、姓は龐、名は蘊、字は道玄。四人家族だ。妻は蕭氏、娘は霊兆、息子は鳳毛。四人とも仏法僧の三宝を敬っている。わしらは今まで幾人も善知識[1]に会い、馬祖師、石頭和尚、百杖禅師は、わしら三人が娘の霊兆に及ばぬことを証された。この娘は性根(しょうこん)が大いに好しく、見性(けんしょう)[2]が明らかなのだ。先祖代々、蓄えてきた財産は、一万貫余りある。わしには李孝先という旧友がいる。去年、わしから二つの銀を借り、他の土地へ商いをしにいった。元本と利息で四つになるはずだ。ところが彼は運が拙く、元手をすって、家で病になっているとか。小者よ、孝先さんの証文と、二つの銀子を手に持って、孝先さんを訪ねてみよう。

(小者)かしこまりました。(歩く)話していると、はやくも着いたぞ。孝先さん、いらっしゃいますか。

(李孝先が登場)入り口にいらっしゃるのはどなたでしょうか。

(正末)わたしです。

(李孝先が驚く)あれ。龐居士さまが来られましたか。中にお掛けくださいまし。(見える)龐居士さま、わたくしは(いたつき)の身となってり、ご挨拶することができませぬ。

(正末)ご病気はいかがですかな。

(李孝先)居士さま、もうじき死んでしまいましょう。

(正末)孝先どの、よい医者を呼び、治療させられましたかな。

(李孝先)お金がないため、良い医者を呼ぶことができませぬ。

(正末)孝先どの、ご病気は、どのような症状でしょうか。

(李孝先)居士さま、わたくしの病を当ててみてくださいまし。

(正末)おやおや、わたしに病を当てさせるとは。仰る通りにいたしましょう。風寒[3]と暑湿[4]ではございませぬか。

(李孝先)違います。

(正末)飢飽[5]労役[6]ではございませぬか。

(李孝先)それも違います。

(正末)憂愁思慮ではございませぬか。

(李孝先が哭く)分かってくださるお方はわたしの心の友です。まさに憂愁思慮から生じたものなのです。

(正末)ああ。孝先さん、どのような心配がおありなのです。

(李孝先)ご存知なければ、わたくしの話をお聴きくださいまし。先年二つの銀子をお借りし、商いをいたしましたが、思いがけなく元手と利益をすってしまい、故郷(ふるさと)に戻りましても、居士さまにご返済することができませぬ。県の役所を通りましたら、中には吊るされ、縛られ、殴られている人がいました。事情を尋ねましたところが、お金持ちからお金を借りて、返せぬために、訴えられて、殴られて、取り立てられているのだということでした。わたくしはそれを聞き、びっくりしました。居士さまは、そのようなお方ではありますまいが、もしも役所に告訴され、銀子を取り立てられましたらば、わたくしは本を読む人間ですので、あのように殴られるのには耐えられませぬ。ですから憂えて病となり、だんだん重くなったのでございます。

(正末が背を向けていう)このわしは善いことをしているものと思うていたが、悪いことをしていたとは思いもよらなかったわい。わしの家には借金をした人たちの証文がたくさんあるが、李孝先さんと同じことなら、悪行に悪行を加えることになりはしまいか。家に行き、昔や今の借金の証文をみな焼こう。小者よ、ぜひともここに持ってきてくれ[7]。小者よ、孝先さんの証文を持ってきてくれ。(小者が証文を渡す)(返事)孝先さん、これはあなたの署名でしょうか。

(李孝先)居士さま、左様にございます。

(正末が引き裂く)この証文は引き裂いて、灯を点し、焼くことといたしましょう。元本利息の四つの銀は、取り立てはいたしませぬ。小者よ、二つの銀を持ってきてくれ。孝先さん、こちらの銀子はさしあげますが、ご気分はいかが相成りましたかな。

(李孝先)居士さま、元本利息の四つの銀を、取り立てられず、二つの銀をくださるとは。心の中から、病が消えたかのようでございます。

(正末)それはよかった。わたくしは恨みとそれに対する報いが消えることのみを願っています[8]

(李孝先)居士さまは銀子を請求なさらぬばかりか、二つの銀子を下さいました。この世では居士さまにお礼をするはかないませぬが、来世では、驢馬となり、馬となりして、ご恩返しをいたしましょう。居士さま、あなたはまことにご立派なお方です。

(正末)孝先さん、あなたにさしあげたのですから、さようなことを仰ることはございませぬ。(唱う)

【仙呂賞花時】

金銭に拘らぬ者こそ立派な(をのこ)なれ

今より後はおんみの心に苦しみを受けしめじ

(いたつき)のお体を養はるべし

(李孝先)居士さまに銀子をお借りていたところ、取り立てられず、二つの銀をいただきましたが、ご恩には、いずれかならず報いましょう。

(正末が唱う)この銀は喜んでさしあげしもの。

(李孝先)わたくしはとにかく申し訳ないのです。

(正末)あなたにさしあげたのですから、

(唱う)貰ひしことを気に掛けそ

(退場)

(李孝先)居士さまは行かれてしまった。ゆるゆると病を治し、ご恩返しを考えよう。

(詩)

かつて黄色き雀さへ

(くわん)もて恩義に報いしといふ[9]

人が鳥にも及ばずば

世に顔向けは叶ふまじ

(退場)

 

第一折

(正末が老旦卜児、正旦霊兆、子役鳳毛、小者を連れて登場)(詩)

貪嗔痴妄(どんしんちまう)の思ひを断ち切り

戒定慧圓(かいぢやうゑをん)[10]の明を保たん

無明火[11]を消してより

修行して身は軽きこと鶴のごと

おまえたち母子(おやこ)は近く寄り、このわしが仏法を説くのを聞け。仏はこの世の衆生は、仏の心を持ってはいるが、財貨を貪り賄賂を好めば、仏や祖師になることは、かなわぬだろうと説かれている。仏は財貨を貪って、賄賂を好む人々を、子供が刀の切先の蜜を嘗めるようなもの、甘い味を貪れば、舌を切ろうとのたもうている。(歌う)

【仙呂点絳唇】

汚れたる世の人の道をば

この我も究めしことあり

つねに思へり

富を追ひ、貧しきを避くれども

富の天より定められしを思ふことなし

【混江龍】

ある人は発憤し

文武を学び、(いさをし)を立てんと思へり

武藝を学ぶも南山で虎を射しものには及ばず[12]

文藝を学ぶも西に狩をして麒麟を捕へたることは嘆くにたへたり[13]

麒麟を捕らへし魯の国は、夫子の聖なることを知るなし

虎を射れども覇陵では、誰か昔の将軍なりやと尋ぬべき[14]

一身に英気を持つも(あだ)にして

むなしく苦しむ

会ひしときには四頭だての高き車に乗りたれど

たちまちに枯れ草の荒れ墓となる

財産を棄て

閑適の身を楽しまんとし

ある時は琴を爪弾き

酒杯を()たび巡らさん

何ゆゑに一生を静かに過ごし金銭を惜しむことなき

十年(ととせ)の富はしよせん十年(ととせ)運命(さだめ)に過ぎず

運の去るのは

風の灯火(ともし)を揺らすがごとく

天の浮雲(ふうん)を散らすがごとし

(言う)小者よ、昨日証文を焼けといったが、もう忘れたのか。たくさんの箪笥のなかの証文をみな運んできて、草の束で周りを囲み、火を点けて焼いてくれ。

(孝先)かしこまりました。(焼く)

(卜児)居士さま、何ゆえにこの証文を焼かれるのです。

(正末)女房よ、わたしには考えがあるのだから、尋ねるな。

(外が曾信実に扮して登場。詩)

中和[15]正直 天台[16]を治め

本日は勅命を受け、遣はされたり

神さまは天にまさずと誰かいはんや

稲妻の音はいづかたより来たる

わしは天界の増福神。玉帝さまにお目通りして帰る途中で、下界の煙と焔とが、まっすぐに九霄を衝くのを眼にした。雲を掻き分け、見てみれば、襄陽の龐居士が、昔と今の貸し金の証文を、ことごとく燃やしているが、どういうつもりなのだろう。雲を下ろして、白衣の秀士に姿を変えて、尋ねてみよう。居士どのはご在宅かな。

(小者)何のご用でございましょうか。主人は家で念仏を唱えておりますが。

(曾)秀士が尋ねてきましたと取り次いでくれ。(小者が取り次ぎをする)

(正末)お客がきたなら、女房よ、奥へさがっているがよい。

(卜児が霊兆、鳳毛とともに退場)(小者が外に出て曾を招いて会わせる)

(正末)菲才なわたしのことを思われ、わざわざご来駕たまわりまして。

(曾)かねてより居士さまの令名は承っておりましたので、わざわざ訪ねてまいったのです。

(正末)もったいない。もったいない。お掛けくだされ。小者よ、お茶をもってこい。先生の故郷はどちらでございましょうか。

(曾)西洛の者で、姓は曾、名は信実にございます。たまたまこの地に遊学し、居士さまのお宅の前で火が燃えているのを見たのでございます。焼かれているのは何でございましょう。

(正末)ご存知ございますまいが、友人にとても貧しい李孝先という者がおり、去年、わたしから二つの銀子を借り受けて、よそへ商いしにゆきました。ところが元手と利益をすっかり失って、返済ができなくなり、家で憂えて、病気になってしまいました。わたしは、故郷にわたしから借金をしたものがたくさんいるが、みな李孝先のようになったら、悪行に悪行を重ねることになりはしまいかと考えまして、昔や今の貸し金の証文を、みな焼いて、怨みに怨みで報いることを断とうと思っているのです。

(曾)ああ。居士さま、お金は人の胆であり、宝は富の苗にございます。君子が交わりますときは、徳を心といたしましょうが、小人が交わるときは、宝を友といたします。

(詩)

世の人が喜ぶものは金銭と

功を立てて家の名を揚ぐることなり

袋の中にお金がなくば

腹いつぱいの文才も貧しきを救ふことなし

(正末)仏の言葉を聞きなされ。無常迅速、生死事大。今の世の人々は、

(歌う)

【油葫蘆】

限りある時、限りある身を思ふことなく

お金のために齷齪したり

今、金持ちは富を求めて貧しきを求むることなし

(曾)貧しい人が身を寄せてきたら、彼らはお金をやるのだろうか。

(正末が歌う)

貧しき友と日毎付き合ふこともなく

日々金持ちと親しくす

(言う)さらにかような人がおります。

(歌う)

金のなきとき恨みを感じ

金のあるとき恩を思はず

(曾)友達が来たときに、彼らは持て成すのでしょうか。

(正末が歌う)

旧友がまつすぐに訪ねこんとも

(言う)本当は家にいるのに、人を出し、おりません、おりませんと言わせることでございましょう。

(歌う)

ひねもす母屋を出づることなし

(曾)家でかようにごまかしましょうが、大通りで出逢ったときはいかがでしょう。

(正末)街中で、ある人が、その者に出逢ったときに、「わたくしは何度も伺いましたのに、会うことができませんでした」と言いますと、その者は、ある人を知っているのに、馬の上で身をかがめ、「あなたを存じ上げませぬ」ということでしょう。

(歌う)

【天下楽】

その者は見知らぬ人のごとく見ん

(曾)思うにかような者たちは、話題とするに足りませぬ。

(正末)たくさんお話しするようなことでもござらぬ。貧しい者を救おうとするわたしの心は、ほかの人よりまじめなものでございます。

(曾)居士さまのお考えとは、いかなるものでございましょう。

(正末が歌う)

すべての銅銭(ぜに)を人に喜捨して

すべての銀子を分け与へえぬことを恨めり

(曾)たくさんの貸し金の証文をすべて焼くのは、本当に惜しいことです。

(正末)「あらゆるものを持ちゆくことは叶はねど、(ごう)のみぞ身に隨はん」と申します。先生、(歌う)

この古き証文は千百錠のものばかり 数錠のものはあるまじ[17]

(曾)居士さまは間違ってらっしゃいます。昨今の人々は、お金がなければ動きませぬ。金持ちは珍しい錦に軽い紗を着けて、香しく甘いものを食べ、貧しい人は身には破れた衣を纏い、口にはまずいご飯を食べます。

(詩)

金なくば君子でさへも苛められ

金あらば田舎者さへ優れたりとぞ褒められん

父母兄弟に顧みられず

情の絶ゆるはただ金のため

(正末)先生は故事をご存じのお方です。昔から今までに、数文のお金のために、死んだのは一人だけではございません。くだくだしいのがお嫌でなければ、話をお聞ききくださりませ。お話をしてさしあげましょう。

(歌う)

【那令】

金持ちの欧明は渡し場で[18]

龍君[19]と海神に出会ひたりにき

金持ちの元載[20]客人(まらうど)をもてなすに

玄宗陛下に倣ひたりにき

金持ちの梁冀[21]は民を虐げて

一門が滅びたりにき

われは今隠退し

世を逃れんとし

悪業の身に隨ふを免るることを望めり

(曾)居士さま、それは違います。お宅の富は、ご先祖さまが残されたものでなければ、ご自身が稼がれたものでございます。遁世なさる必要はございませぬ。それは大きな過ちにございます。

(正末)先生、さらにろくでもない小人がおり、臘月の三十日(みそか)の晩に、香、灯明、花、果物をお供えし、「金よ、わしらの家に来い」と申します。彼らは邪気に満ちております。

(歌う)

【鵲踏枝】

かの財神を祭らんとするは誰そ

我はかの悪魔をぞ送らんとせる

身に纏ひつく財宝と金銀は

人の死にたる家を弔う(まらうど)のごと

貧しき家に喜捨をして

善因を積むにしくなし

(曾)居士さま。聖人がこのようにのたもうています。「富貴は人の欲するもの、貧賎は人の忌むもの」[22]と。居士さまは別の考えで、世の人と異なっているのではございますまい。魯褒[23]の『銭神論』を聞かれたことはございませぬか。

(正末)存じませぬので、お聞かせください。

(曾)金銭は陰陽を備えております。親しめば兄の如く、字は孔方ともうします[24]。徳行がないのに尊く、権勢がないのに偉く、金門を開け、紫闥[25]に入り、危ういものを安らかにし、死せるものを生かしめ、尊いものを卑しくし、生きているものを死なせます。それゆえに、紛争はお金がなければ勝てませぬし、幽閉からはお金がなければ抜け出せず、冤恨はお金がなければ解けはせず、名声はお金がなければ立つことはございませぬ。都の貴族、世の名士たちは、わが兄[26]を慈しみ、やむことがございませぬ。わたしの手をとり、始終抱きます。昨今の人々は、お金のことしか考えませぬ。

(詩)

金谷の豪奢なる石崇に

人のため奴隷となりし貧しき梁鴻

古よりの文章は消えつくすとも

今なほ孔方兄を語れり

(正末が歌う)

【寄生草】

富を極めば災厄のもととなり

財が多くば禍事(まがごと)のもととなるべし

昨今の人々は 銀の(ほら)にて銀の(こやま)を守りつつ()

銭を貸しえぬことを恨めり[27]

(合掌する)南無阿弥陀仏。

(歌う)

禅榻で難しき禅機[28]を悟るにしくはなし

郭況[29]が銅銭を鋳造したる炉を壊し

魯褒の『銭神論』をしぞ引きちぎるべき

【六幺序】

金銭は

乾坤の(かたち)に過ぎず[30]

鋳られたる字は整へり

金銭は

何ぞ云々するに足らんや

金銭は

仁なる人を仁なからしめ

恩ある人を恩なからしめ

千百のお金を使へば隣人を買ふことを得ん[31]

金銭は

佳人の心を動かして 麗しき才子を恋はしめ

九烈と三真[32]を曇らしむ

金銭は

実の兄弟の情を断つ

金銭は

墓となる山を買ひ得ず

美邸の暮らしを養ひ得ず[33]

【幺篇】

慇勤にせんとしたるは

銭あればなり

銭が集まれば兄のごとくし

銭なくば逃ぐるがごとくす

銭はもとより根のなきもの

銭はもとより神さまぞ[34]

とどのつまりは身を養ふや失ふや

金銭は

多くの人を害したり

その昔 宣帝は君となり

疏傅[35]を臣とす

彼らは漢の元勲にして

千金を賜ひ、餞別となし

青門[36]の外に設けし帳は雲のごときなり

(曾)後にどうなったのでしょうか。

(正末が歌う)

故郷に着けばみな惜しみなく分け与へたり

この物語は二人の賢者の伝にあり

末永く伝はれり

(曾)居士さまとお話しするのは、十年書物を読むのにも勝ります。居士さまはかように財を疎んじ義を重んじられ、高い才、大きな徳をお持ちです。今日はお別れいたしますが、そのうちお会いいたしましょう。

(正末)小者よ、一餅(いっぺい)[37]の金を持ってきてくれ。

(小者)かしこまりました。

(正末)鞍と轡のある馬を用意してくれ。

(小者)用意いたしました。

(正末)先生、一餅の金は先生の旅費とし、馬は先生の脚としましょう。

(曾)居士さま、わたくしは徳を慕って参ったもの、お金のために来たのではございませぬ。かように手厚い贈り物を受けるなどとんでもないこと。頂くわけには参りませぬ。

(正末)お受けください。

(曾)頂くわけには参りませぬ。たとい頂いたとしても、使うことができませぬ。二十年後に、居士さまとまたお会いしましょう。

(正末)二十年後に先生はご存命でございましょうが、わたしは死んでおりましょう。

(曾)居士さまの陰徳はいとも大きなものですから、かならずや福と命を伸ばされましょう。(別れる)あの人は功を積み、仁を施しているのに、神はどうして少しも報いないのだろう。「善には善の報いあり、悪には悪の報いあり。報はれざるは、時がいまだに至らねばなり」ともうします。

(詩)

狡猾に神を欺くことなかれ

(まがごと)(さきはひ)は影のごとくに隨はん

善悪かならず報いあり

あるは遅速の違ひのみ

(退場)

(正末)ああ。遅くなった。小者よ、香を焚こう。

(小者)かしこまりました。

(正末)ここはわたしの油屋だ。香をもて、南無阿弥陀仏。ここはわたしの粉屋だぞ、香をもて。

(小者)香はこちらにございます。

(正末)南無阿弥陀仏。ここはわたしの臼屋だな。

(浄が粉挽きに扮して登場、粉を篩いながら、歌う)

牛よおまへが歩まぬならば

わしはすぐさま殴つてやるぞ

(正末)小者よ、誰がこの歌をうたっているのだ。心の中はかならずや楽しかろう。出てこさせ、尋ねてみよう。

(小者)粉挽きよ、出てまいれ。旦那さまがお呼びだぞ。

(粉挽き)参りましたよ。どなたがわたしをお呼びです。

(正末)粉挽きよ、わしがおまえを呼んだのだ。

(粉挽き)何のご用でございましょう。粉を篩うのが遅れます。

(正末)さきほど歌をうたっていたが、心の中はきっと楽しいことだろう。こころみに話してみよ。

(粉挽き)旦那さま、歌っていたと仰いますが、楽しくなどはございませぬ。わたくしどもは苦しみを受けております。わたくしは旦那さまから二分の工賃をいただきました。わたくしは朝起きて、麦を選び、麦を選んだら麦を()り、麦を簸ったら麦を研ぎ、麦を研いだら麦を干し、麦を干したら粉を挽き、粉を挽いたら粉を篩い、粉を篩ったら麩を洗い、麩を洗ったら家畜を放ち、眠れば仕事が遅れますので、歌をうたっているのです。旦那さま、わたくしは楽しんでなどおりませぬ。古い墓場で鈴を鳴らして、死体のような自分自身を騙しているにすぎませぬ。[38]

(正末)ああ。知らなんだ。おまえに訊くのはほかでもない、何ゆえに目の上を二本の棒で支えているのだ。[39]

(粉挽き)旦那さま、何ゆえに二本の棒で目の上を支えているかとお尋ねですが、昼はひたすら仕事をし、晩には居眠りし、仕事を遅らすことを恐れて、二本の棒で支えております。わたくしは苦しみを受けているのです。

(正末)粉挽きよ、わしが棒をとってやるのは、どうだ。

(粉挽き)まことに愉快でございます。

(正末)今日から、粉屋、油屋、臼屋を畳み、ふたたび開いてはならぬ。

(粉挽き)旦那さま、この臼屋を開かねば、ほかに商いすることができませぬ。あなたの家を離れてしまえば、凍えて死ぬか、飢え死にしましょう。旦那さま、憐れと思うてくださりまし。

(正末)粉挽きよ、わしには考えがあるのだ。小者よ、一つの銀子を持ってきてくれ。粉挽きよ、これを見てくれ。

(粉挽き)こちらは何というものでしょうか。

(正末)粉挽きよ、これは銀子というものだ。

(粉挽き)聞いてばかりで見たことはございませなんだ。旦那さま、何をなさるお積もりでしょう。

(正末)銀子は食べることもでき、着ることもできるのだ。

(粉挽きが銀子を噛む)これが食べられるのですか。あれえ。歯に当たった。

(正末)粉挽きよ、食べることも、着ることもできると言うたは、それを砕いて、食べものと着るものを買えということだ。

(粉挽き)ああ。両替して食べるものと着るものを買うのですか。旦那さま、どうしてわたしに銀子をくださるのでしょうか。

(正末)粉挽きよ、銀子をやるのは、ほかでもない、昼は商いをし、晩によく眠らせてやるためだ。

(粉挽き)旦那さま、銀子をくださいましたのは、よく眠ることができるようにするためなのだということが、分かりました。

(正末が歌う)

【酔扶帰】

何ゆゑぞ憐れみて

一錠の真白なる銀を賜ひし

(粉挽き)旦那さま、何ゆえに銀子をくださったのですか。

(正末)三年粉を篩った恩に報いるのだ。

(粉挽き)旦那さま、どうぞお許しくださいまし。昨日は旦那さまに隠れて盗みを働いて、二升の麦をくすねました。大通りで占ってもらったところ、占い師はわたくしが今年の今月今日の今、金持ちになり、思わぬお金を手にするだろうと言いました。旦那さまがわたしを呼ばれて、銀子をくださるだろうとは思っておりませんでした。あの占い師はよく当たるものにございます。

(正末)その者も当てることができたのだ、粉挽きのおまえに運がめぐってくるのを[40]

(粉挽き)旦那さま、わたしに銀子を下さいましたが、何の仕事をいたしましょう。

(正末が歌う)

商ひをする

元手とさせん

(粉挽き)旦那さま、どうもありがとうございます、わたくしはもうこれ以上粉挽きはいたしませぬ。

(正末)ああ。粉挽きよ、わしはもう辛い仕事はさせまいぞ。

(粉挽き)銀子、銀子と耳にしておりましたが、目にしたことはございませなんだ。これが銀子というものですか。

(正末が歌う)

【賺煞】

ひそかに思ひ

たちまち笑ふ

この銭のため、我々はひたすらに罪人(つみびと)のごと弄ばれたり[41]

万丈の大波に身を踊らせて

振り向けば別天地なり

俗人のむなしく百余の金銀を積みたるも

三陽[42]の洞裏の春を買ひえぬことは嘆かはし[43]

(言う)この金は、その昔、使おうと思ったときは、

(歌う)

一分たりとも使はんとせず

(言う)本日、金を与えようとするときは、

(歌う)

千金なりともなどか惜しまん

(言う)世の人々は、財貨を貪り、賄賂を好む。「苦海は果てなきものなれど、振り向けばそこが岸なり」。すみやかに善縁を結ぶべきだ。

(歌う)

我らは死すべきものなれど

死すべきことを誰か知るべき[44]

(小者とともに退場)

(粉挽き)皆さん、臼屋の器具はすべてお渡しいたしました。わたしは家に帰ります。ご老人が銀子をくださいましたので、家でぐっすり眠れましょう。銀子など見たことはなかったが、これが銀子か。話していると、家に着いたぞ。この小屋は、行くときは縄で閉じたが、今日戻ってきてみるとまだ縄で閉じてある。縄を解き、入り口を推し開ける。中に入って、入り口を閉める。ためしに銀子を見てみると、やはり銀子だ。しかしこの穴蔵で、どこに置いたらよいだろう。懐に押し込んで、しっかり持てば、懐に銀子があるとは誰も思わぬことだろう。お役所の宵の太鼓が聞こえているぞ。ああ。もう一更だ。龐居士さまは、ぐっすり眠らせてやろうと仰ったから、ためしに眠ってみるとしよう。(鼾をかき、叫ぶ)何ゆえに大きな通りにおまえの歩く場所があり、わたしの歩く場所がないのか。公道をおまえが歩いているのなら、わたしも歩こう。何ゆえに肩を寄せ、手を伸ばすのだ。わたしの懐で何を探っているのだ。わたしの銀子を奪いとり、どこへ行くのだ。その銀子は誰のものだ。龐居士さまがわたしにくれたものなのだぞ。銀子をどこへ持っていくのだ。銀子をはやく返してくれ。(転ぶ)ぺっ。夢か。銀子を見てみよう、まだあるぞ。懐に銀子を入れていたために、人が奪いにくる夢を見てしまったわい。どこに置いたらよいだろう。銀子を竃に置くとしよう。灰を掻く。この竃では長いこと火を焚いていなかった。銀子を(うず)め、灰を掛ければ、竃の中に銀子があるとは分かるまい。お役所の宵の太鼓が聞こえているぞ。ああ。もう二更だ。居士さまは、ぐっすり眠らせてやろうと仰っていた。(眠る)かくも激しい風だから、灯りを点し、火を弄ぶのはまかりならぬ。わしが話しをしたのに聞かず、紙に火を点してどこに持っていくのだ。まだ消さぬのか。おや。あいつはどこへ行くのだろう。どうして藁の山に棄てるのだ。ああ。大変だ、藁の山に火が着いて、家に燃え移り、家もすっかり焼けてしまった。近所の皆さん、火消しさん、総甲さん、麻搭、鳶口で火を消してください[45]。水桶を集め、麻搭で水を掛け[46]、鳶口を掛け、みんなで力いっぱい引っぱる。(倒れる)ぺっ。また夢か。銀子を見てみよう。(銀子を手にとり見る)まだあるぞ。竃の中に置いていたら、銀子が焼ける夢を見た。どこに置いたらよいだろう。水甕の中に入れれば、誰も水甕に銀子があるとは気付くまい。蓋[47]を開けよう。(銀子を入れる)ぽとん、賊がいない時はもちろん、賊がいても、水甕に銀子があるとは思うまい。お役所の宵の太鼓が聞こえているぞ。ああ。三更だ。龐居士さまは、わしをぐっすり眠らせてくださると仰っていた。(眠る)ああ。空は曇りで、味噌甕に蓋をして、干してある麦を蔵へと入れねばならぬ。東南に雲が出はじめ、話していると霧雨が降ってきた。ああ。大雨だ。大変だ。水が溢れて、山から水がやってきた。ほんとうに大雨だ。水に漬かってきたぞ。ああ。大水で家が流された。ほんとうに大雨だ。泳がなければ、泳がなければ[48]、犬かきをし、観音泳ぎをし[49]、立ち泳ぎをし、さかさで蛙泳ぎをする。(倒れていう)ぺっ。また夢か。銀子を見れば、まだあるぞ。水甕に置いたから、水がきた夢を見たのだ。この銀子は、どこに置いたらよいだろう。門框の下に置き、土で埋めよう。賊が来ぬ時はもちろん、賊が来たとて、銀子が門框の下に埋められていることは分かるまい。お役所の宵の太鼓が聞こえるぞ。四更になったぞ。龐居士さまが、銀子を与え、ぐっすり眠らせてやろうと仰っていた。(眠り、呼ぶ)ああ。来た。来た。こんなにたくさん人がいるぞ。鍬を持ち、どこへ行くのだろう。家を建て、煉瓦を作るわけでもないのに、何をしにきたのだろう。なぜ門框を掘るのです。話しても聞いてくれない。さらに掘り、わたしの銀子を掘り出した。泥棒。泥棒。ああ。刀でわしを斬り殺したぞ。ああ。槍を持ちわたしを刺すのか。銀子を持ってどこへ行くのだ。(倒れる)ぺっ。また夢か。お役所の宵の太鼓が聞こえるぞ。(五更の太鼓が鳴り、鶏が鳴く)ああ。夜が明けたぞ。結構なことだなあ。一晩中眠れなかったぞ。ためしに銀子を見てみると、まだあるわい。おい羅和よ、考えてみろ。水甕の中にこの銀子を置いたら、水浸しになる夢を見た。懐に入れたら、人に奪われる夢を見た。竃に埋めたら、火で焼かれる夢を見た。門框の下に埋めたら、人が掘り、刀で切りつけ、槍で刺される夢を見た。一つの銀子で一晩中眠れなかった。龐居士さまのお家には、大小の箱や箪笥にたくさんの銀子がある。あの方は福徳がある方なので、銀子を持っていることができるのだろう。羅和よ、おまえは麦を簸り、麦を選り分け、麦を研ぎ、篩に掛けて、粉を挽く身分なのだ。この銀子を持ち、外に出て、この門を閉め[50]、龐居士さまに銀子を返してくるとしよう。(退場)

 

第二折

(正末が卜児、霊兆、鳳毛、小者を率いて登場)

(卜児)居士さま、思えばあなたはその昔、たくさんの善行を施され、たくさんの陰徳を積まれましたが、そのうちわれら母娘にも善いことがございましょうか。

(正末)女房よ、それは間違いだ。「爺さんが作ったものは、爺さんが手に入れる。婆さんが作ったものは、婆さんが手に入れる。十人が山に上るに、おのおのが力を尽くす」といわれておるぞ。豊かな世には逢い難く、み仏の教えには遇い難いもの。もしも遇えたら、南無阿弥陀仏、自分を省みなければならないぞ。

(唱う)

【中呂粉蝶児】

今日の風俗は

太平にして、簫鼓を奏づるにこそよからめ

軽薄な輩あり

誠実な心なく

篤実の行ひなきも

みな文雅なる振りをせり

(卜児)高き頭巾に立派な帯[51](あざな)を持ってはおりますが、お腹の中は分かりませんね[52]

(正末が唱う)

(あざな)を持つも

衣冠文物[53]とは何か尋ぬべし

(卜児)居士さま、才人と呼ばれている人たちは、いかがでしょうか。

(正末が唱う)

【酔春風】

驕り高ぶる者たちが才ある人と呼ばれたり

(卜児)古を好むといわれる人々は、いかがでしょうか。

(正末が唱う)

老成したる振りをする者たちが古を好むとぞ言はれたる

(卜児)居士さまは孤児(みなしご)寡婦(やもめ)を憐れみ、年老いた人を敬い、貧しい人を憐れんでらっしゃいますが、世にも稀なることにございます。

(正末が唱う)

財を疎んじ義を重んずる者は幾人(いくたり)あるべきや

この城内では

このわしのみぞ

かねてより力を尽くし相助けたる

病の者を見しときは

心を尽くして養生せしめ

貧しき者を見しときは

有り金をはたきて助けり

(卜児)居士さま、今、あの高い楼の上では、笛を吹き、太鼓を叩き、歌い舞い、酒を呑み、楽しんでおりますが、士大夫たちを持て成しているのでございましょう。

(正末)女房よ、あの方たちを持て成すことは、無駄ではないのだ。

(唱う)

【紅繍鞋】

幾たびも、東閣[54]を開き名儒を持て成せり

ともすれば、西楼に宴を催し 妓女(あそびめ)たちと楽しまんとす

(言う)あの者たちは人を呼び、お茶を飲ませる時さえも、算盤をはじいておるのだ。

(唱う)

茶托を持ちつつ人の心をひそかに計れり

つねに愚かな振りをして顔を振り向け

話をするにかこつけて体を捩じれり

(言う)貧しい友が来たときは、頭が破けてしまうほど叩頭するが、

(唱う)

五百銭もて持て成しをすることはなし

(粉挽き)わたしは羅和だ。ここはもう龐居士さまの家の入り口。来訪を告げる必要はない。このまま中に入るとしよう。(会う)

(正末)粉挽きよ、何ゆえに慌てておるのだ。ぐっすりと眠れただろう。

(粉挽き)眠ってはおりませぬ。一晩中眠られず、今晩も眠れないことでしょう。

(正末)何ゆえに一晩眠れなかったのだ。

(粉挽き)こちらの銀子を頂いて、わが家に持っていったのですが、置き場所がありませんでした。懐に入れますと、人が奪いにくる夢を見て、竃の中に置きますと、火で焼かれる夢を見ました。水甕に置きますと、水浸しになる夢を見て、敷居の下に置きますと、鍬で掘り、刀で斬られる夢を見ました。この銀子一つのために、夜通し眠れませんでした。居士さまのお屋敷の箱や箪笥にいっぱいの無数の銀子は、すこしも問題ございますまい。居士さまは福徳があり、銀子をお持ちになるにはふさわしいお方。わたくしは麦を()り、麦を選り、麦を研ぎ、麦を干し、篩に掛けて、粉を挽く定めですから、銀子を持つにふさわしくございませぬ。旦那さま、「肋骨を敲いて髄を取ろうとする」[55]ということがお分かりになりますか。

(正末)粉挽きよ、どういうことだ。

(粉挽き)骨の中まで何もございませぬのです[56]。この銀子はお返しし、欲しがりはいたしません。

(正末)粉挽きよ、おまえに一つの銀子をやったが、一晩眠れなかったのか。我が家の蔵は金銀財宝ばかりだが、おまえと同じことになったら、どうしたものか。

(唱う)

【迎仙客】

ああ

銀子よ

おまへは腹が減りしとき すぐ食らふことはかなはず

寒きときには すぐ着るものとなることもなし

かやうに重く、冷たくて

げにやげに一塊の幸ひぞかし[57]

(言う)銀子は、わたしの前では、

(唱う)

数千年でも使ひ尽くせず

数万年でも使ひ尽くせぬほどなるに[58]

何ゆゑにおんみの前にとどまることなき

(言う)粉挽きに銀をやったが、一晩眠れず、銀を持つ福分がないと言い、返してきた。

(唱う)

ああ

この銀子は

前世にて定められしもの

(粉挽き)旦那さま、少しずつ使わせてくださいまし。

(正末)小者よ、銀子を一両持ってきて羅和に与えよ。使いきったら、また取りにくるがよい。

(粉挽き)旦那さま、多くを求めはいたしませぬ。まず一銭の銀子をください。担ぎ棒を買い、大きな商いをしにいきましょう。

(正末)大きな商いとは何だ。

(粉挽き)妓館へ行って幇間になるのです。(退場)

(正末)遅くなった。女房よ、先に休め。家のあちこちで香を焚いてくる。

(卜児)かしこまりました。(霊兆、鳳毛とともに退場)

(正末が香を焚き、歩く)粉屋にきた。(念仏する)油屋にきた。(念仏する)馬小屋の入り口にきた。(奥で驢馬、馬、牛が話をしている)

(正末)何者がかように話しているのだろう。聞いてみよう。

(驢馬)馬さんや、どうしてやってきたのだね。

(馬)龐居士さまから十五両、銀子を借りたが、返せずに、死んだ後、馬になり、埋め合わせしているのだよ。驢馬さん、あんたはどうなんだい。

(驢馬)龐居士さまから十両の銀子を借りたが、返せずに、死んだ後、驢馬になり、臼挽きをしているのだ。牛さん、あんたはどうなんだい。

(牛)知らないか。生きていたとき、龐居士さまから十両の銀子を借りたが、元本利息二十両を、返さなかったものだから、今、一頭の牛になり、埋め合わせしているのだよ。

(正末がびっくりする)ああ。びっくりした。良いことをしたと思っていたのに、恩が仇となり、来世の債務になっていたとは。(唱う)

【酔高歌】

鰥寡孤独を養ひて

貧寒困苦を救ひしことも徒なりき

(なんぴと)か厩にてひそひそと話せると思ひしが

静かに聴けば我をして恐れしめたり

【満庭芳】

ああ

かれらがすべて我の仇人、債権者なりしとは[59]

もともとは、(まがごと)を除きて(さち)()ゑんとせしに

木に縋り、魚を求めたりしとは

(言う)龐居士よ、おまえは仏を念じておろう[60]

(唱う)

いかほどの罪業により奥深き畜舎にぞある

このわれは思はず輾転反側したり

(言う)銀子をあなたに差し上げましたが、悪い気持ちはなかったのです。

(唱う)

お金を差し上げ 虎狼のごとくなさしめんとぞしたるなる

ああ

落ちぶれて馬、驢馬になることを望みしことぞなかりける

(念仏する。唱う)

かれらの輪廻の路を見る

これぞまさしく冥府なり

(言う)銀子を借りたが、返せずに、今では驢馬や馬となり、埋め合わせをしているとは。

(念仏し、唱う)

ああ

応報の空事にあらざることを悟りたり

(呼ぶ)女房よ、霊兆よ、鳳毛よ、みんな来るのだ。

(卜児が一緒に登場)居士さま、何ゆえかように慌てて叫んでらっしゃるのです。

(正末)今しがたあちこちで焼香をしていたところ、牛馬の話しを聞いたのだ。牛はわしから二十両の銀子を借りたが、返せずに、牛になり、埋め合わせをしているのだと言っていた。馬はわしから十五両の銀子を借りたが、返せずに、馬になり、埋め合わせをしているのだと言っていた。驢馬はわしから十両の銀子を借りたが、返せずに、驢馬になり、埋め合わせをしているのだと言っていた。女房よ、もともとは善いことをしていたに、恩が仇となり、来世の債務になっていたとは思わなかった。

(卜児)ああ。このような果報があるとは思いもよりませんでした。

(正末)女房よ、これからは、あらゆることは、このわしに従うのだ。小者よ、財産と証文をすべて運んできておくれ。

(小者)かしこまりました。すべて運んでまいりましょう。

(正末)灯りを点けて、みな燃やし、もう金を貸したりはするまいぞ。

(卜児)ああ。居士さま、証文をみな焼かれますとは、いかなるお積もりなのでしょう。

(正末)女房よ、おまえは分かっておらぬのだ。

(唱う)

【石榴花】

証文を焼くはなぜかと申したれども

「君子が初めを断つ」ことをしぞ聞きたらん[61]

(卜児)ああ。居士さま、お金があるのが宜しいのです。

(正末が唱う)

金貸しをせしときは悪気などなし

現世の負債が

来世で取り立てらるるとは思ひもよらず

祖師さまにより西方に導かれ

迷ひの路を抜け出づることを望めり

(言う)焼いてしまえ。焼いてしまえ。

(卜児)居士さま、残しておかれてくださいまし。焼かれてはなりませぬ。

(正末が唱う)

右に左にわしの邪魔をす

この金は

わしの護身符でもあるまいに

(卜児)居士さま、いずれにしてもこの証文を焼かれてはなりませぬ。

(正末が唱う)

【闘鵪鶉】

駟馬の追ひ難きことをば聞かざるや[62]

一言はすでに出でたり

(言う)女房よ、おまえの心はわしの心と違っておるのじゃ。

(卜児)わたくしの心がどうしてあなたの心と違っていましょう。

(正末が唱う)

このわしは財産を捨て去ることを(ほり)せども

いましは火坑を守らんとせり

(言う)焼いてしまえ、焼いてしまえ。

(卜児)居士さま、とりあえず焼くのはおやめくださいまし。

(正末が唱う)

何ゆゑにあれこれろくでもなきことを申したる

(言う)女房よ、おまえは仏を念じておるのか。

(唱う)

楽しくて余りあることとは何ぞ

このわしは心静かに暮らしなば

平素の願ひは満たされん

(卜児)居士さま、とりあえずこの証文を焼くのはおやめくださいまし。わたくしの話をお聞きくださいまし。わたくしたちはこのように年老いておりますが、子供らはいずれも幼く、成人すれば、お金が必要となりましょう。焼くのはおやめくださいまし。

(正末)何ゆえにまだかような心を持っておるのだ。

(卜児)居士さま、わたくしの考えは間違っておりませぬ。とにかく焼くのはおやめください。

(正末)女房よ、どうしてもこの証文を焼かないと言うのだな。小者よ、箪笥の金を担いでこい。箪笥の真珠を担いでこい。箪笥の銀子を担いでこい。

(小者)かしこまりました。箪笥の金、箪笥の銀、箪笥の真珠、みなございます。

(正末)女房よ、霊兆よ、鳳毛よ、見ているか。

(卜児)居士さま、見ておりますよ。どのような考えをお持ちなのです。

(正末が唱う)

【上小楼】

我らが蔵はいふまでもなく[63]

財産も限りなきもの

あるべき金銀財宝は

整理して

一箇所に置く

なんぢら母娘はそれらを見

それらを守りて

半歩たりとも離れんとせず

死ぬるときいつしよに持ちてゆけるものでもあるまいに

(卜児)居士さま、お考えください。娘はいまだ嫁には行かず、息子はいまだ嫁を娶っておりませぬ。この財産は一日で築いたものではございませぬ。たくさんの財産は、やはり惜しむべき物にございます。子や孫に残されましたら、宜しいではございませぬか。

(正末)女房よ、おまえはわしを金持ちにし、わしが金持ちになったら、鳳毛を金持ちにさせるだろう。鳳毛が生んだ子供も、金持ちになれば、我が家は代々金持ちということになる。おまえに聞くが、貧乏人は誰にしてもらうつもりなのだ。

(唱う)

【幺篇】

三代にわたる財産はなく

二代にわたる幸福はなし

日は中すれば暗くなり

月は満つれば欠くるもの

すべては元に戻るもの

かならずや己を養ふ活路があらん

(卜児)証文をみな焼かれたら、生きていく手立てなどございませぬ。

(正末が念仏を唱え、唱う)

一家して仏門の済度を待たん。

(言う)女房よ、あらゆることはわしに従え。わが(いえ)(しもべ)たちには、身請けの文書と、銀子を二十両与え、それぞれを故郷に帰らせ、父母(ちちはは)に仕えさせよう。我が家の牛、羊、驢馬、騾馬、馬は、それぞれの首に札を掛け、居士が放ったと書き、人々が捕らえぬようにするとしよう。鹿門山の向こう側、水、草がある場所で、自由に生活させるとしよう。我が家には十隻の大船(おおぶね)と、百隻の小船がある。わが(いえ)の金銀財宝、骨董玉器を、小船で大船へと運び、わしら一家は明日になったら東海に行き、船を沈めることとしよう。

(卜児)居士さま、仰るとおりに、牛や羊をみな放ち、家中の者たちに身請けの文書を与えましょう。ただ一つだけ、わたくしの申す通りにして下さい。船は残してくださいまし。財産を載せ、沈めたりせず、商いをさせてくださいませんか。

(正末が唱う)

【耍孩児】

おまへはわしの万余の元手で商人となり

州、府を巡り 利益を得んとしたるなり

船に乗り 棹さして 江湖を渡り

馬に乗り 昼夜馳駆せんとせり

このわしは妻を棄て 旅の宿にてさすらひの人となり

財産を棄て 塵埃の中 護送夫とならんと思へり[64]

寂しさに夢は二つの地を巡り 楽しみもなく

遥けき道になどか耐ふべき

まして風雨の冷たきことはなほさらぞ

(卜児)居士さまは、わたくしたちの錦のような財産を、海に沈めるおつもりですが、やがて子供が成人したら、どうすれば宜しいのでしょう。わたくしの申す通りに、お金を残しておかれて下さい。

(正末が唱う)

【二煞】

「鷦鷯は深き林に巣くへども一枝にすぎず

(もぐら)は黄河の水を飲めども腹を満たすに過ぎず」[65]とぞ古人は言へる

万頃の田を持つも一日に食らへる(ぞく)は三升を過ぐることなし

目を瞠り 利に向かひ 衣食を求むることのあらめや[66]

手を休め 算盤でわが歳を数ふべし

山のごと金玉(きんぎょく)を掻き集むれど

家長のわしは気が気ではなく

妻や子供は喜べり

(卜児)居士さま、財産を棄ててしまうと仰いますが、子供らが後々いかに暮らすかもお考えくださいまし。

(正末が唱う)

【煞尾】

酒色財気の自供書を取り[67]

生老病死に赦状を求めん[68]

「子孫に子孫の幸せあり」といふを聞かずや

げにかやうなる仕事はできず

この家を守るは難く

この苦しみは耐へ難し

(ともに退場)

 

第三折

(外が龍神に扮し水卒を率いて登場。詩)

羲皇[69]は八卦乾坤を定めたまひて

上帝はなほも輔弼の臣を求めつ

雲雨風雷は我のみ用ゐ

水底(みなそこ)で龍神となる

わが父の産みし七子は

銀脊広勝龍、銅脊沙龍、鉄脊陀龍、九尾赤龍、獠牙火龍、沈世悪龍

わしは長子の金脊徳勝龍

毘沙門のため九曜[70]を刀利山[71]にて退けて

三本の矢で(いさを)を成せば[72]

天の符節を奉り

玉帝さまの勅命により

東海龍王の位をば加へられたり

今、襄陽に

龐居士といふ人がゐて

財産を大海に沈めんとせり

このわしは上帝さまの勅令を受けてをらねば

財産を収めんとするわけにはゆかず

巡海夜叉よ

龐居士が来たりなば

船を支へよ

(正末が卜児、霊調、鳳毛、小者を引きつれ登場)

小者よ、家の金銀、珍宝を、すべて大船に運んだか。

(小者)旦那さま、すべて船に運びました。

(正末)女房、霊兆、鳳毛よ、東の海へ船を沈めに行くとしようぞ。

(詩)

世の人は金宝を重んずれども

われは刹那の静寂を愛したるなり

大金に人の心は乱さるれども

静寂ならばまさに真如の性を見るべし

(ともに行く)

(正末が唱う)

【越調闘鵪鶉】

千百頃の良き田を棄てて

金の枷をぞ自ら解ける

一万余錠の財貨を沈め

玉の鎖をにはかに解けり

玳瑁、珊瑚、硨磲、琥珀

汝は初め、生まるべきところに生まれ

今、来たるべきところに来たれり

(言う)おまえがなくても、

(唱う)

もう天北の行商になるまいぞ

江南の商人にもなるまいぞ

【紫花児序】

愁はしき更籌[73]漏箭[74]

暮れの太鼓に明けの鐘

倦みたるものは紫陌の黄塵

光陰は迅速なれば

計画を決め

あらかじめ手を打たぬわけにはゆかず

一寸の心田に掛碍(けいげ)なからしめ

大道を世の人は解することなし

西風に帆を揚げて

蓬莱の三島に送るを願へり

(言う)女房よ、海の水を見よ。水の()の船を見よ。船上の金銀と財宝に関しては、喩えがあるぞ。

(卜児)何に喩えられるのでしょうか。

(正末が唱う)

【天浄紗】

花はまさしく咲くときに風に衰へ

月はやうやく円かなるとき雲に埋もれり

汚れたる世を抜け出でざるは

まことに愚なり

(言う)あの船の上にあるものは、金銀財宝ではないのだ。

(唱う)

船いつぱいの禍ぞかし

(言う)女房よ、はやくも海岸に着いたぞ。

(卜児)あの船に積まれているのはすべて金銀財宝です。居士さま、おんみも大胆なお方ですね。

(正末が唱う)

【鬼三台】

われが大胆なるにはあらず

金宝を船中(ふねじゆう)に積み

俗世を抜け出で、自由にならんとしたるのみ

(卜児)居士さま、おんみは年をとられていますが、子供は若うございますよ。

(正末が唱う)

(なんぢ)白髪(しらが)のわしを嘆くも

わしは今、楽しく思へり

風の力は柔らかに、水は横たひ、天地は狭し[75]

帆の影はしつかりとして、白波の立てるを呑めり[76]

これぞまさしく、王勃[77]の洪都[78]に赴く(さきはひ)ならん

(卜児)居士さま、海岸で船を沈めるのを見ている人が、大勢おります。

(正末)君子たちよ、このわしの考えは、他の人々とは違うのだ。

(唱う)

【紫花児序】

この我は、小船に乗りて五湖に浮かびし越范蠡に異なれり

送窮船[79]を万頃の波に(ほふ)りし晋石崇に異なれり

筏を浮かべ九曜星台を探りし漢張騫に異なれり[80]

(言う)見よ。

(唱う)

ただ見る、水の天に接して混元の流れを注ぐを[81]

ただ見る、天の水に連なり塵なきを

何ゆゑぞ、喜びの頬に満ちたる

水晶宮の龍王のお救ひを待つ[82]

魚、鼈、蝦、蟹が押し寄せて

万丈の波風の

険しさは百尺の楼台のごと

(卜児)居士さま、波風が激しくなってまいりました、船はますます高いところに漂っています。

(正末)考えがある。小者よ、大船の底にお碗大の穴を穿てば、かならず沈むことであろう。

(小者)かしこまりました。

(鑿で穴をあける)旦那さま、この船の底に穴をあけました。

(正末)何ゆえに沈まぬのだ。風も収まり、波も平らぎ、どうしたらいいだろう。

(唱う)

【凭欄人】

天つ果てには残んの霞が幾筋か

水は空に照り映えて、鮮やかな霞のごとし

今まさに船は岸辺に沿ひつつ動き

煙波の風に旅人を送るに勝れり

(言う)女房よ、この船がどうしても沈まないのは、まことにおかしい。

(唱う)

【寨児令】

白波は山の並ぶがごときなりしに

風波と雲霧の穏やかなるをいかんせん

羽を積み、船を沈めんとするわけにもあらじ

金銀が軽しといふや

心の中で疑へり

【幺篇】

何ゆゑに海蔵に沈まざるやと

(言う)この船はなぜ沈まぬのだろう。女房よ、分かったぞ。

(唱う)

これはもとより浮世の財産

ともに天にぞ祈るべき

岸に近づき蒼苔(あおごけ)に跪く

(言う)女房、霊兆、鳳毛よ、やってきて拝むのじゃ。

(唱う)

拝めや拝め

月が上つて海門[83]の開くまで。

(外が天使に扮して登場する)東海龍王よ、上帝さまは命を下され、龐居士の財産を、みな龍宮の海蔵に収めよとのこと。

(龍神)かしこまりました。雷公電母、風伯雨師よ、波を起こして、あれらの船を覆し、龐居士の財産を収めるのだ。

(水卒)かしこまりました。みな収めましょう。

(龍神)玉帝さまにご報告いたします。

(詩)

水卒を引き連れて、波を掻き分け

神通力を表はして、もとの姿を現せり

龐居士の財産を

みな龍宮の海蔵に収めんとせり

(水卒とともに退場)

(正末が唱う)

【金蕉葉】

雷の響きを聞けば、魂は消えうせて

四人は驚き、顔色を失へり

雲は涌き、空中で揺れ動く

千百の軍鼓の乱れ打たるるがごと

【調笑令】

かねてより、かやうな目には遭ひしことなし[84]

夜もすがら、西風の懐に染むるがごとし

息子と幼き娘とはびつくりし、愁へをいかんともしえず

進み出づるもなどか阻まん

黒雲が日を覆ひ

あつといふ間にあたりは暗き(つちふり)となる

【禿厮児】

空いつぱいの真赤な稲妻

雷に壁は震へて崩れ落ちたり

軽やかに進み出で海岸を踏む

(卜児が引張る)居士さま、どうかお下がりくださいまし。

(正末)女房よ、何を恐れているのだ。

(唱う)

今もなほ、悪しき思ひを抱きたるとは[85]

哀れなるかな

(言う)まことに強い風だ。

(唱う)

【聖薬王】

風に吹かれて(かうべ)を擡ぐることはかなはず

風に吹かれて目を開くることもかなはず

(言う)龍王さま、何ゆえにかように怒ってらっしゃるのです。

(唱う)

山に入り、白雲の涌き出づるわけにもあらじ

やうやくに風の力は衰へて

雲はたちまち広がれり

錦の帆の船もろともに財貨を沈め

行つたきり戻らぬやうになされかし

(卜児)居士さま、財産はすっかり海に沈みました。これから帰ってゆきますが、何を路銀といたしましょう。

(正末)女房よ、おまえには隠していたが、わしには一つ技能があるのだ。

(卜児)何がおできになるのです。

(正末)笊を編むことができるのだ。鹿門山のはずれには竹があるから、鳳毛に伐ってこさせて、毎日(とお)の笊を編み、霊兆に売らせれば、粥を食うことができようぞ。

(卜児)「大甕の油をこぼし、道沿いに胡麻を拾う」とはまさにこのこと。

(正末が唱う)

【収尾】

このわしが誤ちて来世の貸しを作りしことは知らぬ人なし

このわしは、千年万年、名を残さんと思ひたり

わが身を滅ぼす金銭を、北斗星より高くまで集むとも

(言う)女房、霊兆、鳳毛よ、振り返り、見てみるがよい。

(唱う)

東海を(うづ)むることはかなふまじ。(ともに退場)

 

第四折

(外が丹霞禅師に扮して登場。詩)

釈迦は拈花し、本当の心を示し

微笑(ほほえみ)を含みて迦葉(かせふ)は知音に会へり[86]

法灯を受け継ぎて、千古に伝へ

朗朗たる光明は今に至れり

わしは襄陽雲岩寺の長老にして、法名を丹霞という者。幼きときより満腹の文を学びて、功名を得ようとしたが、途中で馬祖禅師さまに会い、「秀才どの、どこへ行かれる」と尋ねられた。「試験を受けに行くのです」と答えると、祖師は言われた。「秀才どの、試験を受けに行かれるよりも、仏の教えを受けられるほうが宜しいですよ」。わしはその言葉を聞くと、はっと悟って、落髪し、俗世を棄てて出家したのだ。まず馬祖さまの弟子となり、後に石塔和尚について、たくさんの公案を得たものの、いまだに悟ってはおらぬ。この襄陽には龐居士という人がいる。彼には娘の霊兆がおり、大変な別嬪だ。毎日寺の門前で笊を売れども、売り切れぬので、このわしが買っている。知らぬ間に、笊を三部屋分買ってしまった。そろそろあの娘が来るはずだ。

(霊兆が登場)わらわは霊兆。父上さまが船を沈めてからというもの、鹿門山に引っ越した。父上さまは笊を編むことができ、一日にわたしに十の笊を、大通りで売らせている。今、この笊を買う人はない。父上さまのお食事を、どうしたらよいだろう。まず雲岩寺の山門へ売りにゆこう。例の和尚がまた笊を買うだろう。

(禅師が出てくる)そろそろあの娘がくるはずだ。

(霊兆を見る)娘さん、こんにちは。

(霊兆が答える)こんにちは。

(禅師)娘さん、この笊は売れなかったのですね。

(霊兆)お坊さま、売りきれませんでした。

(禅師)笊を買おうと思いますが、お金がないので、方丈にきてくださいませぬか。

(霊兆)お坊さま、あなたは出家をされた方、何事もなさいますまい。ご一緒にまいりましょう。(一緒に方丈についてゆく)

(禅師)ちょっとからかってやるとしよう。分かるだろうか。(念じる)老いた和尚が合掌をいたします。娘さん、ご自分でお考え下さいまし[87]

(霊兆が背を向ける)無礼な和尚め、このわたくしをからかっている。話さなければそれでよし、これ以上喋ったら、言い返してやることにしよう。

(禅師)聞きとれていないようだな。もっと大声で唱えてみよう。老いた和尚が合掌いたします。娘さん、ご自分でお考え下さいまし。

(霊兆)二つのことをお聴きください、承知していただけるなら、いっしょに楽しむこととしましょう。

(禅師)二つのことはもちろんのこと、十のことでも承知しましょう。出家した者にも妨げはございませぬ。

(霊兆)あなたはお経を枕にし、比丘と楽しみ、仏を地に敷き、袈裟で掩えり。[88]

(禅師)南無阿弥陀仏。法門を損なはば、世間には汚名を残し、阿鼻に堕ち、罪多からん。

(霊兆)参禅し、じつくりと真理を追い求むべきなり。何ゆゑぞ真の仏を目にするも昂然として拝むことなき。

(禅師)悟りを得るは拾ひ上げ、置くにぞ似たる[89]。み仏を拝むもいかでか甲斐あらむ。

(合唱して拝礼する。霊兆が禅師の頭を打つ)敲けば六根清浄たり。この笊で苦海を掬へり。

(禅師)色即是空、空即是色。

(霊兆が退場)

(禅師)南無阿弥陀仏。わが師が点化してくださらねば、どうなっていただろう。わが師は一日笊を売られず、ご両親は門辺(かどべ)にて食事を待てり。今この百文を道に置き、わが師に拾っていただくのは、どうだろう。

(詩)

先ほどは凡心がかすかに動き

一面の黒雲に掩はれり

点化する真言がなかりせば

阿鼻地獄へと落ちにけむ

(退場)

(霊兆がふたたび登場)わらわは雲岩寺を離れ、丹霞長老を度脱して後、一つも笊を売っていないが、両親の食べ物をどうすればよいだろう。ああ、道端に誰かが百文銭を置いてある、持ってゆかねば、父上の食事は遅れることだろう。持っていこうと思うのだが、良心に背いて利を得るわけにはゆかぬ。(呻吟する)十把の笊を道端に置き、人がお金を探しにきたら、笊を売ったのと同じことになるようにしよう。世の人よこの笊をかるく見ることなかれ。

(詩)

翠の竹の柔らかき()を選び

これを編みたり

世を救ふ菩提の心をつねに持ち

苦海に行きてねんごろに波を掬はん

(退場)

(正末が卜児、鳳毛を挽いて登場)

(詩)

息子は娶らず

娘は嫁がず

一家団欒

しばし語るも財産はなし

わが家の財産、金銀、財宝を

東の海に沈めし後に

鹿門山にやつてきて庵を結び

修行をするは

()にも楽しきことぞかし

(唱う)

【双調新水令】

静中に祖師さまの禅を悟るに誰か勝らん

雪の山にて心を養ひ、修練すべし

大いなる天は水に似

広々と海は果てなし

わが財産を沈めし日より

わしはこの言葉を千遍唱へたり[90]

(霊兆が登場)わらわは霊兆、百文きっかり銅銭を持ち、お父さまに会いにゆこう。(会う)

(正末)霊兆よ、戻ってきたのか。

(霊兆)お父さま、戻りました。

(正末)笊は売れたか。

(霊兆)お父さま、丹霞長老を度脱したため、笊を売ってはおりませぬ。寺を出ますと、道端に、百文きっかり銅銭が残されておりました。持ってくるのはやめようと思いましたが、お父さまのお食事が遅れることが心配でした。わたくしは十把の笊を傍らに置き、人がお金を探しに来たとき、笊を売ったのと同じことになるようにいたしました。わたくしの考えは正しいでしょうか。

(正末)娘よ、それは正しいぞ。

(外が青衣の童子に扮して登場)居士どの、神さまがお呼びですぞ。

(正末)どこから来られたのでしょう。(唱う)

【沈酔東風】

これ以上、おずおずとして拒むことなし

かつてすこしもぐづぐづとせしことはなし

かねてより富みても驕らず

貧しかれども怨むことなし

(青衣)わたしのほかに、もう一人まいりました。

(正末が振り返る)

(青衣)えいっ。(退場)

(正末)どこでしょう。

(唱う)

騙されて、振り向けば、海は桑田にはやくも変はれり[91]

(奥で楽が奏でられる)

(正末)きれいな楽の音だ。

(唱う)

耳にとよもす笙や笛の()

仙楽の音は遥かなり

(見る)女房よ、金の門、玉の戸、青い瓦に瑠璃を見よ。俗世とは違っているから、天宮に違いあるまい。

(卜児)居士さま、牌の上の字をご覧ください。

(正末が唱う)

【雁児落】

はつきりと門額に書かれたり。

くつきりとこの牌に書かれたり。

牌には篆字で兜卒宮とぞ書けるなる。

額には金字で霊虚殿とぞ彫れる。

【得勝令】

ここはおそらく別世界なるべきも

われわれは五雲の車には乗らず[92]

(言う)女房よ、世の中には紅蓮華、白蓮華はあるが、青蓮華、金蓮華はない。

(唱う)

()に大液の錦のごとき蓮に似て

山青く、花は燃えんとするがごと

(言う)女房よ、見えるか。石の洞窟が半分(ひら)き、半分は閉まっておるぞ。なんじらが先に行ってみよ。

(卜児が霊兆、鳳毛とともに洞窟の入り口に行く)

(卜児)居士さま、先に洞窟の入り口にまいりました。

(正末)女房よ、このわしを騙しておるな。

(唱う)

かねてより、人に善事を施さざれば

大事なときは、先にゆくべし

堅き石をも貫くことを聞かざるや

(外が注禄神に扮して登場)龐居士よ、恐れるでない。

(正末)ああ、びっくりいたしました。

(唱う)

【喬牌児】

びつくりし、心は呆け、身は倒れ

脚の震へを抑へ得ず

顔は厳しく、体は大きく、霞の光は現れり

(注禄神)勅令を奉じてここで待っていたのだ。

(正末が唱う)

玉皇さまの御諚を奉られたるや。

(言う)いずこの貴きお方でしょうか。いかなる神にましましょうか。姓名をお告げください。

(注禄神)天界の注録神じゃ。

(正末)前世ではいかなる人でございましたか。

(注禄神)前世ではそなたから銀子を借りた李孝先じゃ。

(正末)どなたが李孝先さんでしょうか。

(注禄神)このわしが李孝先じゃ。

(正末)それはめでたい。かような宜しい職に就かれて。

(注禄神)わしに出会えて嬉しいか。

(正末)嬉しゅうございます。

(注禄神)そなたを喜ばせてやろう。会おうと思う友はいるのか。

(正末)もちろんおります。

(注禄神)えいっ。

(外が増福神に扮して登場)龐居士どの、吾輩をご存知かな。

(正末)いずこの聖者でございましょうや。いずこの神でございましょうや。御名と御姓をおっしゃってくださいまし。

(増福神)増福神じゃ。

(正末)前世ではどなたでしたか。

(増福神)二十年前、証文を焼くようにお勧めいたした曾信実にございます。

(正末が唱う)

【殿前歓】

今もなほ、俗世での(えにし)をぞ記憶せる

街中(まちなか)で二十年間苦しめり

(増福神)居士さまは今日功徳が満ちて、正果を得られ、玄元皇帝[93]さまにお目通りするのです。

(正末が唱う)

六道の輪廻に陥ることはなく

おだやかに昇天せんとす

(増福神)その昔、二十年後に、居士さまとお会いできると申しました。

(正末が唱う)

昔の言葉は記憶せり

本日はまた相逢へり

本日は

まことに平素の願ひにかなへり

まことに換骨脱胎し

火の中に(はちす)を生じたるがごと[94]

(増福神)居士さまは、凡人にあらずして、天界の賓陀羅尊者にございます。龐奥さまは、天界で幡を執る羅刹女です。鳳毛さま、あなたは善財童子です。皆さんは娘御の霊兆さまには及びませぬ。霊兆さまは南海の普陀落伽山七珍八宝寺において、元通と号されて、自在観音菩薩となられたのでございます。

(詩)

一念を過ちしため かやうなる塵縁[95]を受け

六十余年、修行せり

龐居士さまは、本日、功徳を成就したまひ

一家して正果を得られ、玄元皇帝さまに謁見したまへり

(正末が唱う)

【折桂令】

龐居士ら四聖は天に帰りゆき

俗世を抜けて、玄元皇帝さまに謁見せんとせり

苦しめる人を救ひて

財を疎んじ、義を重んじて

福を齎し、禍を消す

本日は十洲[96]の閬苑[97]で麗しき(おほとり)に乗り

三千の弱水で蒼鸞に跨がれり[98]

人の世の官員さまにお勧めいたさん

お金を愛せらるるなかれ

善事をつねに行はば

かならずや得道し、仙人たるべし

 

最終更新日:20101115

中国文学

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[1]仏教語で高僧のこと。

[2]仏教語で、己に備わった仏性を悟ること。

[3]医学用語。風邪と寒邪をいう。

[4]暑さと湿気。

[5]飢えること、食べすぎること。

[6]疲労。

[7]原文「是必提我一提児」。未詳。

[8]原文「冤冤相解」。「冤冤相報」という言葉があり、恨みに対して恨みで報いること。「冤冤相解」はこうした憎しみの連鎖を断ち切ることであろう。具体的には、人に金を貸し、無理に取り立てをし、怨まれることを避けることであろう。

[9] 『後漢書、楊震伝』引『続斉諧記』華陰黄雀「宝年九歳、時至華陰山北、見一黄雀為鴟梟所搏、墜於樹下、為螻蟻所困、宝取之以帰、置巾箱中、唯食黄花百余日、毛羽成、乃飛去、其夜有黄衣童子、向宝再拝曰、我西王母使者、君仁愛救拯、実感成済、以白環四枚与宝、令君子孫潔白、位登三事、当如此環矣」。

 

 

[10]「戒」は身を防ぎ、「定」は心の散乱するのを静め、「慧」は惑いを去り理を悟ること。「円」は未詳だが、円悟などという言葉の円で、円満に真理を悟った状態のことであろう。

[11] 欲望の炎。

[12] 漢の将軍李広が、南山で、石を虎と見間違え、射たところ、石に矢が突き刺さったという、『史記』李将軍列伝の故事を踏まえた句。

[13] 原文「習文的堪嘆西狩獲麟」。「西狩獲麟」は『春秋』の最終句。杜預の注によれば、孔子は暗君によって聖獣の麒麟が捕えられたことを悲しみ、筆を置いたと解釈されている。ここでは、文芸を学んでも、時世が宜しくないのが嘆かわしいということ。

[14] 李広が免職となり、覇陵で狩をし、夜遅く帰宅しようとしていたところ、覇陵の尉に、夜、出歩いていることを咎められたという『史記』李将軍列伝の故事を踏まえた句。

[15] 厳しくもなく、ルーズでもなく。中庸を得ていること。『荀子』王制「公平者職之衡也、中和者聴之縄也」楊倞注「中和謂寛猛得中也」。

[16] 未詳。ただ、天界の役所をいうのであろう。

[17] 原文「量這千百錠家旧文契有那的幾錠本」。未詳。

[18] 欧明という人物については未詳

[19] 龍王のこと。

[20] 唐の人。

[21] 後漢の外戚。

[22] 『論語』里仁。

[23] 晋の人。

[24] 「孔方兄」は銅銭の別名。四角い穴があいているからいう。なお、この部分、魯褒『銭神論』の忠実な引用である。

[25] 金門、紫闥はともに宮門。

[26] 孔方兄、お金のこと。

[27] 原文「恨不的那銭眼孔裏鋳造下行銭印」。未詳。「銭眼孔」は、本来銅銭の孔のことだが、銅銭の意味にも使う。「行銭」は高利貸しをすること。金を貸し、利潤の五割を取ること。『説郛』巻十一引『清尊録』「凡富人以銭委人、権其出入而取其半息謂之行銭」。ただ、「鋳造下行銭印」-「高利貸しの印を鋳造する」の意味がよく分からぬ。とりあえず、金を貸したくてたまらないの意に解釈しておく。

[28]禅僧が説法をするときに、教義を暗示する言辞、動作、事物など。

[29]後漢の人。

[30]原文「無過是乾坤象」。典拠がありそうだが未詳。また、句自体の意味も未詳。

[31]原文「費千百才買的居隣」。典拠がありそうだが未詳。

[32]九烈三真という言葉は、元曲に幾つかの用例があり、女性の節操をさす。

[33]前三句原文「這銭呵、也買不的山丘零落、養不的画屋生春」。曹植『箜篌引』「生存華屋処、零落帰山丘」に典拠あり。「画屋生春」は「華屋生存」の誤りか。

[34]原文「銭命元神」。未詳。「命」を「性」の意に解した。「元神」は神さま。

[35]疏広、疏受のこと。宣帝に使え、致仕するに際して下賜された金を、一族に分けた「二疏散金」の故事で有名。

[36]東都門のこと。『漢書』疏広伝、二疏が致仕する際の記述に、「設祖道、供帳東都門外」。

[37]「餅」は金を数える量詞。

[38]原文「你省的古墓裏揺鈴、則是和哄着我那死尸哩」。「古墓裏揺鈴」は、歇後語で、自分で自分を騙すの意。

[39]原文「你這眼上的両根棒児、為什麼支着」。目の上を棒で支えるということかと思われるが未詳。

[40]原文「輪到你那磨眼児今日合交運」。「磨眼児」がよく分からぬ。未詳。「交運」は運命が転換点を迎えること。

[41]原文「則被這銭使作的咱如同一个罪人」。未詳。金銭によって人々が翻弄されることを言ったものか。

[42]春。花咲く季節をいう。『芸文類聚』巻八引『会稽記』「三陽之辰、華卉代発」。

[43]原文「嘆濁民空攅下那万余錠金銀、却也買不得三陽也那洞裏春」。洞裏の春という言葉は『佩文韻府』引張喬詩「夜窓峯頂曙、寒澗洞裏春」に見える。

[44]原文「則咱這百年人誰識百年人」。古来、人間の寿命は百歳とされた。この句の意は、百年までしか生きられない我々だが、そのことに気がついている人は少ない、ということであろう。

[45]原文「救火麻搭火鈎」。麻搭は、棒の先に麻をつけた消火具で、これに水をつけ、鎮火に用いる。『武備志』麻搭図説「麻搭、以八尺桿繋散麻二斤、蘸泥漿、皆以蹙火」。

[46]原文「救火搭」。未詳。「搭」は「麻搭」のことであろう。麻搭で水を掛け、鎮火することを「救火搭」というか。待考。

[47]原文「蒲蓋。蒲の穂を編んで作った水甕の蓋」。

[48]前二句原文「水浮水浮、水分水浮」。「水浮」は「浮水」のことで遊泳のこと。「水分」は未詳。

[49]原文「観音浮」。未詳。王学奇主編『元曲選校注』は背泳ぎとするがその根拠は未詳。

[50]原文「拽上這門」。未詳。先ほど、「この小屋は、行くときは縄で閉じたが(這一間小房、去時節草縄児拴了去)」という記述がでてきたが、「拽」は「拴」と同じく、縄を掛けて門を閉じることであろう。

 

 

[51]原文「傲帯」。未詳。

[52]原文「不知他那肚皮裏如何」。「肚皮」は「お腹」。「肚裏有文章」―「腹の中に文章がある」などという言い回しから分かるように、中国では、腹に知識が宿るものとされていた。ここでは、彼らの教養の程度は分かりません、の意。

[53] ともに礼楽制度をいう。

[54]東閤。東向きの門。賢者を持て成す場所とされる。『漢書』公孫弘伝「弘自見為挙首、起徒歩、数年至宰相封侯、開東閤以延賢人」。

[55]原文「脇肢骨裏敲髄」。「敲」は骨を敲いて骨髄を出す動作と思われるが未詳。

[56]原文「我那骨頭裏没他的」。上の歇後語「脇肢骨裏敲髄」の種明かしの部分。表面上の意味は、肋骨には骨髄がないということ。ただし含意は未詳。自分は貧乏が骨の髄まで染み込んだ者だから、銀子を受けるに値しないという趣旨か。

[57]原文「衠則是一塊児家福」。未詳。「家」は「的」の意であろうが、この句の趣旨は、いずれにしても、前のところまでで述べてきたことと矛盾する。「幸ひぞかし」というのは反語、皮肉であろう。

[58]原文「知他消磨了那幾千年、可則更換過了幾万古」。未詳。

[59]原文「却原来都是俺冤家[人来]債主」。この論理がよく分からない。自分は現世で彼らを働かせているから、来世では彼らのために働かなければならなくなる、したがって彼らが債権者ということになる、という論理か。

[60] この台詞、龐居士が自らに言った言葉。

[61]原文「豈不聞君子可便断其初」。「君子断其初」の出典は未詳。意味は、君子は禍の原因となることを断つ、ということであろう。

[62]原文「豈不聞駟馬難追」。「一言既出、駟馬難追」という成句を踏まえた句。一度言ったことは取り返しがつかない、の意。

[63]原文「且休論咱這倉廒波務庫」。「波務」が襯字であるように思われるが、未詳。

[64]原文「抛家業塵埃中一个防送夫」。「防送夫」は護送夫。辺境を旅する人の暗喩。

[65] 『荘子』逍遥遊。

[66]原文「博个甚睜着眼去那利面上克了我的衣食」。「博个甚~」がよく分からぬ。「何の~を博せん」という意味に解釈しておく。「利面」という言葉もよく分からぬが、「利のあるところ」ということであろう。「克」は未詳。熱心に追い求めるという意味に解釈しておく。全体として、生活のためにがつがつと利益を追い求める必要はない、という方向であろう。

[67]原文「我去那酒色財気行取一紙児重招」。酒色財気は慎むべき四つの悪徳のこと。「行」は「~のもと」という意味。「一紙児」は「一枚」の意。「重招」が未詳。とりあえず自供書と訳すが、いずれにしても「重」の意味は未詳。「酒色財気の自供書をとる」ということがどういうことなのかも未詳。自分がしてきた悪行を洗いざらい述べるということか。

[68]原文「我去那生老病死行告一紙児赦書」。句全体の趣旨が未詳。生老病死の苦しみを逃れたいということか。

 

 

[69]中国伝説上の帝王伏羲のこと。八卦を作ったとされる。

[70]仏教語で、日、月、水、火、木、金、土、羅睺をいう。

[71]刀利天、忉利天。六欲天の第二。

[72]原文「三箭成功」。唐の薛仁貴が、敵と戦ったとき、矢を三発三中させ、敵を退けたという故事を踏まえた言葉。ここでは優れた軍功を立てたという意味で使っていよう。『唐書』薛仁貴伝「仁貴発三矢、輒殺三人。於是虜気懾皆降」。

[73]旧時、夜間時間を数えるのに用いた竹簽。ここでは時の流れをいっていよう。

[74]漏刻とその部品としてついている矢。これも上の更籌と同じく、時の流れをさしていよう。

[75]原文「趁着這風力軟水横天地窄」。天、地、海の中で、海が一番大きく見えることを述べたものか。未詳。

[76]原文「帆力穏影呑雪浪開」。船が安定していて、白い波を立てながら進むことをいったものか。未詳。

[77]唐の人。洪州都督の宴席に招かれ、『滕王閣序』を書いた。

[78]江西省南昌の別称。滕王閣がある。

[79]送窮は貧乏神を追い払う儀式。『歳時広記』月晦引『図経』「池陽風俗、以正月二十九日為窮九日、掃除屋室塵穢、投之水中、謂之送窮」。但、石崇が送窮船を葬ったという故事の典拠は未詳。

[80]張騫が槎で黄河を遡って天に到ったという話は、宋『歳時廣記』卷二七「得機石」引『荊楚歳時記』に見える。

[81]原文「我則見水接着天瀉混元一派」。混元は天地が分かれる前の混沌をいう。阮籍『詠懐』「混元生両儀、四象運衡璣」。この句は、天と地の交わるところから海の水が押し寄せてくるさまをいっていよう。

[82]原文「待着他水晶宮裏龍王放一会児解」。「放解」が未詳だが、おそらくは、「度脱」と同義。ここでは、龐居士が龍王に自分の財産を沈めてもらうことを、このようにいう。

[83]海門は、普通海峡のことをいうが、ここでは海蔵の門のことであると思われる。

[84]原文「我可便自来幾曾該端的便幾曾該」。未詳。

[85]原文「你還耽着鬼魂胎」。「耽着鬼魂胎」は「懐着鬼胎」に同じいと思われるが未詳。

 

 

 

[86] いわゆる拈華微笑の故事。釈迦が霊鷲山で弟子に説法しようとしたとき、梵王が金波羅華を献じた。釈迦は一言もいわず、ただその花をひねっただけなので、弟子たちはその意が解せなかったが、迦葉だけが、にっこりと笑った。それを見て釈迦は、仏法のすべてを迦葉に授けたという、『五灯会元』に見える故事をいう。

[87]原文「老和尚合掌当胸、小娘子自去分解」。未詳。私が合掌しているわけを、考えてくださいという趣旨か。

[88]原文「你着那経為枕比丘取楽、仏鋪地袈裟蒙蓋」。お経など読まず、男色に耽り、仏を地に敷き、拝もうともしないということか。未詳。

[89]原文「得悟時拈起放下」。未詳。悟りは、得られるときはいとも簡単に得られるということか。

[90]原文「我将這成道記誦千遍」。「成道」が未詳。

[91]原文「他把我賺回頭海変桑田」。「海変桑田」は『神仙伝』麻姑に見える言葉。世の変遷の激しいことの喩えとして用いられるが、ここでは、青衣の姿が消えたことの暗喩として用いられていよう。

[92]原文「俺又不曾高駕五雲軒」。「五雲軒」は五雲車、五雲輿などのこと。五色の雲に彩られた車のことであろう。曹唐『遊仙詩』「九霞裙幅五雲輿」。

[93]老子のこと。

[94] 『維摩経』仏道品に見える言葉。煩悩から解脱して清涼世界に入ることを喩える。

[95]俗世との縁をいう。

[96]仙人が住むとされる十の島。『海内十洲記』「漢武帝既聞王母説八方巨海之中有祖洲、瀛州、玄洲、炎洲、長洲、元洲、流洲、生洲、鳳麟洲、聚窟洲。有此十洲、乃人跡所稀絶処」。

[97]閬風の苑のこと。涼風は、崑崙山の頂上にあるとされる山。『楚辞』離騒「朝吾将済於白水兮、登閬風而緤馬」。王逸注「閬風、山名、在崑崙之上」。

[98]原文「跨蒼鸞弱水三千」。「弱水」は『海内十洲記』鳳麟洲に見える、鳳麟洲を取り囲んでいる海。鴻毛も浮かばぬ難所とされる。「鳳麟洲在西海之中央、地方一千五百里、洲四面有弱水繞之、鴻毛不浮、不可越也」。なお、三千は恐らくは三千丈ということ。『張生煮海』第三折に「弱水三千丈」の句が見られる。ただ、弱水がなぜ三千丈といわれるのか、その出典は未詳。

 

 

 

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