巻八

明参政[1]

明参政鎬[2]は、器量識見は優れ、才学は豊かであった。進士に合格し、台閣[3]に出入りし、幾たびも要職を経ていた。慶暦年間、京尹[4]から大政に参与した。まもなく、疽が背に発し、使者を遣わし、岱宗を祭り、神助を祈らせた。使者は馳せ、岳廟にゆき、祭りおわると、その夜、廟に宿った。睡眠中にたいへん魘されたので、従者が呼んで目ざめさせると、言った。「夢みると、神がわたしを呼んだ。宮殿の庭に立ち、見ると百余人が一人の枷を負ったものを擁しており、じっくり見ると参政さまだった。その後、杖で背を二十回うち、追い出した、わたしは思わず大声で叫んだのだ。」そして走って帰った。明はすでに憔悴していたが、使者を召し、祭りの夜、夢の中で何を見たかを尋ねたので、くわしく事情を述べた。明は言った。「そうか。」さらに言うには、明は病みはじめの数日は、錯乱しているようであった。郎官[5]の某人がおり、明の同年の進士で、もともと情誼が篤かった。が召してこさせると、言った。「どうして会いにこなかった。」郎官は言った。「参政になり、しばらく薬を服する休暇をとったが、ほんとうに病に罹っていようとは思わなかった[6]」明は言った。「頭のない幽鬼が語るのを見たことがあるか。」郎官はたいへん驚き、言った。「もしや朝飯を食べていないのか。」「すでに食べた。」さらに言った。「もしや湯薬を飲んでいないのか。」「すでに何度も飲んだ[7]。」「それならば、その言葉はどういうことか。」明は言った。「同年を召してこのことを言おうとしたのだ。」そして言った。「来い。聞くことができる。」郎官に聞かせたところ、遊蜂(ミツバチ)蒼蝿(クロバエ)が地下で鳴いているかのようであった。明は言った。「言葉は胸の中から出ている。以前、妖賊が甘陵を占拠した時、朝命を奉じて征討した。外の包囲を固め、攻具を設置し、旦夕のうちに平らげることになっていた。ところが文相国が安撫しに来、坐して功を治めようとした。ほんとうに腹が立ったので、数人をみだりに殺した。今実際に怨みをわたしに訴えている。病はもしや助からないか。」数日して亡くなった。そもそも「三代将となることは、道家の忌むことである」とは[8]、攻城野戦が、玉石を分かちがたいことをいうのである[9]。明は私憤によって罪のないものを殺し、死にそうになるほど祟られ、子孫が埋没して振るわなかったのは当然であった。

 

徐学士

熙寧[10]年間、徐学士禧[11]ははじめて職を受け、中書[12]で官となり、公務を学ぶことになり、豫章[13]から親に侍し[14]闕下(みやこ)にいった。舟でゆき、彭蠡湖[15]に宿り、夜明けに出発し、はやく南康軍[16]に着くことを期していた。にわかに水面から白い霧が四方に起き、はじめは風が起こったかと心配し、舟人にはやく棹さすように促した。四五里足らずで、霧がやや晴れると、二隻の朱漆を塗った万斛の巨艦が見え、旌旗は赫奕[17]、櫓を漕ぐものは肅として騒がず、去ること百余丈で、東南へいった。二三里足らずで、さらにみると、朱の艦があり、金碧[18]をまじえ、幡斾(はた)もっとも鮮明で、やはり追って去った。まもなく、今度は二隻の白い艦にあったが、甲士[19]数千を載せ、戈戟は森として連なり、三隻の舟を尾けていった。徐の舟人はそれを見ると、俯いて正視しようとしなかった。しかしその船を望めば遠くてますます小さく、対岸に達すると、いずれも一つの(くつ)のようであった。宮庭湖廟[20]に関しては、『水経』[21]はくわしくその霊妙さを載せている。近頃伝えるには、小さい龍がその中に出入りしていることが多いそうだが、もしや霊異か。徐学士が以前語った。

 

魚中丞

中丞[22]魚公周詢[23]は、天聖[24]四年、進士甲等[25]に合格した。はじめ大理評事[26]を拝命し、済州金県を治めた。書閤[27]で昼寝したことがあったが、閤を守る老卒が入って報告しようとすると、黒ヘビが榻に蟠っており、頭を擡げ、頭巾を被り、怒鳴る声はたいへん激しかった。卒は走り出、侍吏を呼んでともに見たところ、熟睡して目ざめていなかった。後に御史中丞にいたって亡くなった。張都官居方が言った。

 

祖龍図[28]

祖龍図無擇[29]は、合格するとすぐに、斉州通判の副官となった[30]一年あまりして、休暇をとって蔡州に帰り、葬儀を営むことができ、事が終わると復任した。その後、春に官物[31]を調べて見たが、禹城県[32]で石河灘[33]を過ぎた時、沙の中から一片の石を見つけた。上に数十字があり、かれの亡父を葬った墓誌であった。人を遣わし、墳墓見させると、一抔[34]の欠損もなかったが、結局その由来はわからなかった。范郎中徽の言葉である。

 

尚寺丞[35]

司勲外郎[36]の尚公霖[37]は、祥符[38]末年に殿中丞[39]で夔州[40]巫山県[41]を治めた。尉に李某というものがおり、山東の人で、すこぶる才幹があったが、ある日、病んだ。尚はかれが憔悴していることを聞き、日々慰問しにいった。そして言った。「万一助からなければ、後事を告げろ。」尉は言った。「どうか老母と幼女を託させてください。公がもし仁愛憐憫を垂れてくだされば、わたしは死んでも、結草[42]の義を忘れようとはいたしません。」尚は泫然として憐れんだ。死ぬと、俸給を出し、その母及び骨箱を郷里に送り返し、その娘を士族に嫁がせた。ある晩、夢みると、李は昔のままで、拝して泣いて言った。「わたしは陰官に懇願し、今回、公の子になれましたので、お礼いたします。」その月に邑君は妊娠した。翌年、免職となり、流れに沿い、都に赴いたが、難所に遭うと、尉が岸の上で指示しているのがぼんやり見えた。荊渚に着こうとし、さらに夢みたところ、李が報せた。「わたしは明日産まれますが、府庁からかならず一つの盒子を送って来ますので、お収めになるべきでございます。」翌日、ほんとうに一人の男子を生んだ。府尹は盒子に粟米を蓄え、尚に贈り、言った。「邑君がお子さまを生まれたとか、お粥の材料になさってください。」そこで頴と名づけ、合児といった。頴は性質は純朴篤実で、行動に敏で、学問に篤く、官位は大理丞[43]に至った。張稚圭が言った。

 

高舜臣

大名府の進士高舜臣が言ったことがある。かれのいとこは祥符年間に衙校[44]をし、兵卒数百人を率い、西山で木を伐らせた。ある日、山に入って監督し、道に迷ったが、楽の音が一斉に山の谷間に起こるのを聞いた。声を辿って見ると、婦人数十人がおり、衣服は麗しく、笙竽を執り、磐石の上で宴会していた。席にいるものは、高を召し、その傍らに坐させ、酒肴を与え、言った。「あなたの妻になりとうございますが、いかがでしょうか。」高はひたすら恥じて断った。するとさらに言った。「今から寨にお帰りなさい。後からまいりましょう。」その夜、ほんとうにいった。高も恍然としてわけが分からなかった。それから夜になるとすぐに来た、部屋の帳帟[45]枕褥の具が設置せられ、夜が明けるとなくなっており、このようにすることが一月に及んだ。役兵[46]は材木をとることが終わると、高とともに帰った。高の父母はそれを聞き、たいへん驚いた。「この子は石妖木魅に惑わされた。」そしてすぐに東の回廊に住んだ。家人が見れば、装具、寝具、衣冠の類はすべてすでに設置されていた。高氏の家人もまれにその顔を見たが、ある時はその冠珮[47]を見、ある時はその裙襦[48]を見るだけであった。家族はともに憂え恐れ、しばらくして禍を致すことを心配し、巫覡[49]を召し、符水調伏の術をととのえた。娘は笑って高に言った。「わたしはどうして人を害する妖怪であろう。どうして深く疑われる。」儼然[50]としてまったく振り返らず、高氏の家もどうしようもなかった。半年して、高氏は客を集め、牛を調理して食事にし、娘はそれを見てたいへん驚いた。「わたしはあなたが積善の家でございますので、巾櫛に侍することを願い、あなたの家に(さいわい)しようともしていましたが、このように暴悪だとは思いませんでした。あなたの家はもとよりとどまるべきでございませんから、すぐにわたしを送り返してください。」高がその父母に申すと、かれらは聞いてたいへん喜び、すぐにその子に命じて西山から数舎[51]のところまで送らせた。その夜は来ず、高もそれ以上進んでゆこうとせず、ただ山を望んで嘆いて帰った。高氏の子はそれでも恙なかった。大名の進士陳倫は神怪を語ってこれに言及したが、やはり本当だと思わなかった[52]。治平初年、わたしは大名で兵を率いたが、進士王・もそのことを言い、陳の言うこととまさに同じであった。舜臣は後に何度も推恩[53]に挙げられ、州の長史を得た。

 

王慶

諸司副使[54]王慶は、皇祐年間、派遣されて豊州を治めた。性質は凶暴で、残刻で恩情が少なかった。ある日赴任し、突然めまいを覚え、痛みは忍べなかった。その頭を摩ると、二本の角が生じており、わずか二寸ばかりであった。数日大声で叫んで死んだ。

 

李顓というものがおり、景□初年に進士に及第し、性質は豪放で慎みがなかった。邢州観察[55]の推官[56]となり、疫病になって死んだ。納棺すると、その頭頂の髪は珠のようで[57]、二本の角があり、長さは一寸あまりであった。左蔵[58]朱允中、大邑の主簿王綱が言った。

 

孫翰林

慶暦年間、楊翰偉[59]は郡知事として堂上に坐していた時[60]、一人の老婆を見たが、蓬鬢敝衣で、すぐに子の部屋に入った。どこにゆくかを尋ねたが、答えなかった。まもなくまた出てき、語った。「若さまがわたしを来させたのでございます。老いぼれは勝手なことをしようとはいたしません。」にわかに側近を呼んで追わせ、奥の間を出、すぐに見えなくなった。そこで子の妻を召して質すと、言った。「老婆が言うには、明日若さまがわたしの部屋で宴会なさろうとしているということでしたので、そのでたらめを責めますと、すぐに走り出ました。」家を挙げて驚いた。翌日、邸内に濃霧が立ちこめ、子の部屋はもっともひどく、口と鼻を刺激し、近づけなかった。門扉は開けなかった。しばらくすると、談笑歌管[61]の音が聞こえた。辰の刻から申の刻になると、暗い霧はだんだん晴れたので、戸を開けて入り、事情を尋ねた。すると言った[62]。「一人の若者がわたしとたのしく飲み、食器は美しく、宴席は華やか、飲食と音楽は、いずれも精美でございます。わたしも自身が楊氏の妻であることを忘れました。」しかし精神はすこぶる異常であった。すぐ劉捉鬼というものを召し、鎮めさせたが、やまなかった。翰林の孫郎中がもっぱら符禁[63]を司っていることを聞いたので、すぐに見させると、言った。「この幽鬼は廟の東南三十里におり、神になろうとしている。どうしてこのようなことをしようとするのだ。」そして二つの符を書き、妻の寝室の入り口に持ってきた。さらに言った。「わたしが今日宅に来たことをしれば、明日はきっと来ないが、さらに一日したらかならず来よう。かれの夫及び下女二三人に守らせるべきだ。幽鬼が妻の部屋に入れなければ、外で変事があるはずだが、これは誘い出そうとしているのだ。出れば治せない。」一日後、ほんとうに来、暗い霧は初めの通りだったが、子の部屋に入らなかった。まもなく郡知事は急病になり、妻は走って会いにゆこうとしたが、制して出られなくした。まもなく、霧気は散じ、郡知事もまたもとに戻った。孫はそこで楊公のために静かな邸宅を借り、祭壇を設けて奏章[64]すると、それからふたたび来なくなった。孫は言った。「すでに海上の石室に囚われた。」慶州の察推[65]張偉がかつて言った。

 

遵は、興国軍[66]に住み、性質は放縦、すこぶる書を知り、丹青をよくし、人の形神を伝え、その妙を尽くしていた。母に仕えて篤孝、およそ絵の代金を得れば、自分の蓄えとすることはせず、親を養った後は、すべて母に与えていた。慶暦[67]年間、遵は突然病に罹って死んだが、およそ三日しても、胸はまだ温かかったので、母は納棺しようとしなかった。その晩、遵は蘇ったが、家人が扶けて坐させ、尋ねてもまったく語らなかった。にわかに紙と筆を求め、一人の顔を描いた。しばらくすると語るには、はじめある公府に入ったが、廊廡は静かで、すべて簾を垂らしていた。門番が取り次いだ。「興国軍の遵を今追いたててまいりました。」ある吏が遵に尋ねた。「おまえが遵か。」遵は言った。「はい。」進みでて吏に言った。「(わたし)は過ちはございませんのに、どうして捕らえられたのです。」吏は言った。「おまえは寿命が尽き、こちらにきたのだ。」遵ははじめて死んだことを知り、号哭して拝して言った。「母は老い、兄弟はございませんので、母の最期を看取ることを願います。」吏は言った。「それは伝えるわけにはゆかぬ。」遵は拝して泣いてやまなかった。吏はその誠意を悲しみ、言った。「主人が来るのを待ち、自分で告げろ。」しばらくして、両廡に吏が喧然とすると、言った。「来られた。」一人の吏が堂に上り、簾が巻かれ[68]、東北の隅の開き、朱吏[69]数人が先導していた。見ると一人の紫衣金帯のものが堂に上って坐していた。吏たち百人ちかくが階下に列なり、挨拶が終わると、分かれて諸々の部局に入った。すると数十人の枷を掛けられたもの、頭を露わにしたものが連れられ、紫衣のものの前に来、尋ねおわると駆って出した。その後、遵を呼び、郷里と姓名を尋ねた。遵は号哭叩頭して拝して言った。「思いみますに、母は老い、兄弟はございませんから、遵が死ねば、母はかならず餓死しましょう。どうか母の最期を看取らせてください。」遵は階に叩頭し、額の血は地に注いだ。紫衣のものは左右を振り返り、帳簿を求めて見、しばらくすると言った。「おまえの母親は寿命はまだ十余年あり、思うにおまえはいたって孝だから、母の最期を看取るのを許そう。」紫衣のものは筆でその帳簿に注し、側近に命じてはやく奏覆[70]させた。遵は拝礼して退出した。すると、またかれを呼び、階の側桁俯いているように命じ、尋ねた。「おまえは人の世で、人のために似顔絵を描いていたのは、ほんとうか。」遵は言った。「愚昧無能で、わずかにその形を描くだけでございます[71]。」するとさらに言った。「おまえはわたしを知っているか。」遵は言った。「凡眼にどうして神儀[72]が分かりましょう。」「わたしは人の世のいわゆる崔府君だ。おまえはじっくりわたしの顔を見、人の世に帰って描け。だが、くれぐれもたくさん描くな。描いたものが似ていれば、おそらく人の世で非常に祭祀され、かえってわたしの心をくらますだろう[73]。記憶して忘れるな。」その後、遵は興国で、三枚描き、一枚は地蔵院に描き[74]、二枚は好事家に取られた。その後十年して、母は天寿を全うした。葬り、喪が明けると、遵はある日あまねく親戚に別れを告げ、大いに酔うこと数日で亡くなった。前の進士朱光復は興国軍に遊んだことがあるので、くわしくそのことを知っていた。

 

劉徳妙

宝元[75]年間、夏英公[76]は陝西路の安撫[77]招討使[78]となり、鄜畤[79]に駐兵した。かつて属吏に言った。以前、知制誥[80]から出て安陸郡を守った時、劉徳妙という女を捕らえたが、事を語ればすこぶる中たっていたので、呼んで尋ねた。「おまえはどんな能力があり、丁晋公[81]に知られた。」劉は言った。「わたしはもともと捧日軍[82]の営婦[83]でございました。外出し、親戚の家にゆき、汴河のほとりの柳の陰に憩ったことがありました。すると突然一人の男が頭巾と紫袍で、自分に近づいて坐し、言いました。『扶溝県[84]録事、用事があって府にゆこうとしていたが、水に溺れて死んだ。陰官[85]に訴えると、生き返らせてくれた。ゆけば体は腐っていたが、まだ人の世にいられるので、今、あなたに憑こうとしている。わたしは人の兆していない吉凶を知れ、言うことには験があるから、人はかならずおまえを可愛がり、感謝しよう。おまえがわたしに仕えれば、これによって報いよう。』わたしは恐れて答えようとしませんでした。帰りますと、幽鬼もついてきましたが、他人には見えませんでした。夫も信じませんでしたが、夫婦はいずれも寒熱のように吐瀉しましたので、やむをえず仕えました。初めは火伍[86]の中の人が占いにきましたが、すべて験がありました。まもなく里巷のものたちはみな知り、その後、公卿の家から召されることが相次ぎました。晋公は営婦が卿相の家に出入りすることを望まず、得度させて女冠[87]としました。丁公が南に遷りますと、わたしも連坐してこの郡に配属されました[88]。ほんとうに他の術はなく、心に兆しさえすれば、幽鬼がそれを知るのです。」夏は言った。「わたしの心に一事があるが、おまえは知っているか。」劉は言った。「知っております。たださきに書かれて表面を糊されてから、はじめて申しましょう。」某[89]は時に家が貧しいのに苦しみ、高官に益州を治めさせてくれることを求めようとしていた。そこで側近を遠ざけ、書きおわると封じて(つくえ)に置いた。劉が言ったことは書いたことの通りで、さらに言った。「事は叶いません。」その後、ほんとうにそうなった。わたしは雕陰[90]で酒を専売した時、くわしくその話を聞いた。

 

道士

景祐[91]年間、利州[92]の道士某は、妖幻[93]及び符禁の術をよくしていた。利州の富民には、求めたものを与えないものがいたが、すぐに密室に祭壇を作り、大きな桶を前に置き、披髪し、剣を持ち、その鬼神を駆り、桶に入らせ、石で覆うと、その人は病むのであった。その後、符水あるいは祠醮[94]をするので、財貨で謝すると、石を除き、その人は癒えるのであった。市井に籠餅[95]及びさまざまな肉を売るものがおり、求めるとすぐ癒え、そうしないと白い鳩に化して飛び去ったり、すぐに蛆が湧いたりしたので、利州の人はみな神としてかれを恐れた。一人の僧を怒ったことがあり、野外で会うと、法術をなして怒鳴った。僧の足は根が生えたかのようになり、手も挙げられなくなったので、ほしいままに鞭うった。僧はひそかにお上に訴え、お上は賊たちに命じて捕らえさせた。さきに犬と彘の血を注ぐと、術は施せなくなった。判決があり、市で斬られた。

 

寇莱公[96]

寇忠愍は合格すると、大理評事を授けられ、帰州[97]巴東県[98]を治めた。時に唐郎中渭方が郡を治めており、夕に夢みると「宰相が来た。」と告げた。唐は考えたが、宰相で地方官となる[99]ものを聞いたことがなかった。朝、執務していると、疆吏[100]が寇廷評[101]の入県したことを報せた。唐公は驚き、郡を出て迎え、その風采が秀偉であるのを見ると、公輔[102]として待遇し、さらに子供たちを出して羅拝させた。唐はあらたに(したぐら)(たづな)を飾り、広間の近くに持ってきていた。寇が帰ると、その子拯がその父に申した。「先ほど寇さまがしばしばこれを目にしていましたから、すぐおくるべきでございます。」寇は案の定、牙校[103]に尋ねた。「誰がわたしがこれをほしがっていることに気づいた。」そこで答えた。「十四の秀才でございます。」その後、つとめてよい噂をひろめてやり、拯は孫漢公[104]榜で等甲[105]で名をなした。

 

魏進士

建州の進士魏某は、たいへん文才[106]があり、行いは穏やかで、家もすこぶる豊かであった。天聖年間、しばしば郷試に合格して首席となった。計偕[107]に関わり、夢みると緋衣の人が、仲間にかれを捕らえて棄市するように命じた。はじめはかならず科第に合格すると思っていたが、その後、春闈[108]に合格せず、およそ三たび挙げられてすべてそうであった。後に帰郷した時、近所の若者の受け答えが不遜であったので、平手うちにしたところ、すぐに地に倒れて死んでしまった。警卒[109]はかれを捕らえて役所に送った。時に裴郎中がその郡の太守をしており、かれの学行が人々に推戴されていることを聞き、法を枉げ、許そうとし、全郡の官吏も口利きした。しかし魏は郡守に申して言った。「わたしは人を殺しましたから、命を償いますのが務めでございます。知事さまを煩わせようといたしません。わたしは三たび薦書[110]に関わりましたが、かならず緋衣の人が仲間に命じ、捕らえられて市に赴き、処刑されるのを夢みました。今、知事さまは姓を裴とおっしゃり、緋衣でございます。わたしは偶然手のひらで、人を死に致しましたから、刑死するのは前世の定めでございます。」刑しようとすると、一郡の士庶はみな嘆き惜しんだ。管師復が言った。

 

徳州の民

徳州徳平県の民某乙は、父子数人で田を耕し、大いに励み、家はすこぶる豊かであった。かれの弟はもともと貧しく、傭人となり、母を養ったが、兄は親を援助したことがなかった。慶暦年間、あらたに瓦屋[111]三楹を構え、住居の前後に柳数百株を植えてあったが、枝は両手で抱えるほどであった。ある晩、はげしい雷電があり、野叉[112]数頭が追い、その家を巡り、柳を折り、すべて葉が落ち、牙は屋瓦を撃った。翌日見ると、完全な瓦は一つもなく、泥濘の中に足跡があり、長さ二尺あまり、柳の幹[113]はすべて長さ三四尺であったが、皮はすべて剥がれ滑らかで削ったかのようになっていた。遠近の住民たちはみなそれを採取所蔵した。わたしはかつてみずから平原にいったが、人はこのように言っており、かれが折った柳の枝も見た。

 

最終更新日:2012810

括異志

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[1]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic8FZdic8230298.htm&sa=U&ei=3rUjUNyBJ6qGmQXsjIHYBg&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNF9Y9p63bLrBpBCCOC-VxcmcOmoyg

[2]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E6%2598%258E%25E9%258E%25AC&sa=U&ei=97UjULr4NaXUmAWE_4GgDw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNH3H0E6hUrPyP1EoLVPLouheekd5Q

[3]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8FZdicB0334722.htm&sa=U&ei=PrUHUJepLJDUmAXZz93FAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFVOHifw1_lmnEOYSfkG5-vuQKVwgひろく中央政府機構さす。

[4]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBAZdicAC25632.htm&sa=U&ei=WLUHUL21MeXumAXaxq2hAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFQxOVnyTYn4YL_kMWwh0yjlYyPSg京兆尹。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBAZdicAC25635.htmの地方

[5]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic83Zdic8E51024.htm侍郎、郎中等の

[6]原文「比為參政、暫請服藥假、不意實抱疾耳」。「請服藥假」が未詳。病気の養生と称して休暇をとることをいうか。『宋史』に用例なし。

[7]原文「已屢進矣。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[8]原文「夫為將三世、道家所忌。」。『後漢書』耿弇傳「三世為將、道家所忌、(史記曰、秦使王翦の孫王離擊趙。或曰:「王離秦の名將、舉の必矣。」客曰:「不然。夫將三代必敗、を其殺伐多也、其後受其不祥。」)而耿氏累葉を功名自終。」

[9]原文「謂攻城野戰、玉石難分耳。」。未詳。とりあえずこう訳す。戦争では悪いものも善いものもみな殺しにしてしまうことを言っているか。

[10]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E7%2586%2599%25E5%25AE%2581&sa=U&ei=lLcjUL7zA5D5mAWo5YDYCA&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNE-X1-fIvAWVIu1AYXl-_q-qpbgOg

[11]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%25BE%2590%25E7%25A6%25A7_(%25E5%258C%2597%25E5%25AE%258B)&sa=U&ei=GkMaUK-bCMrXmAXnzYGoDw&ved=0CBcQFjAB&usg=AFQjCNGqANxYsSK91Pcf_kS0YpW7EZKTeQ

[12]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD304364.htm官署名。唐代の中省、宋代の政事堂も「中」と称せられた。

[13]http://baike.baidu.com/view/170115.htm

[14]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBEZdic8D87723.htm&sa=U&ei=-LYHUMbkGa2VmQWv4qikAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHFV6T_QFy-kRtAih4IdKTBLoNwVQ父母の世話をすること。

[15]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/999280.htm&sa=U&ei=lbgjUKH9EKX0mAXuk4HYBw&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNHDj_WOWXyeXusgPGxoRRIrfR6apQ

[16]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/4469891.htm&sa=U&ei=t7gjUMq_C6mLmQXN7IDYDQ&ved=0CBgQFjAA&usg=AFQjCNH6sgvzOjouk-8hbCzjjGcP3h5ymw

[17]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE8ZdicB5ZdicAB38821.htm&sa=U&ei=x7gjULjKA4nymAWH6IH4Dg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNGQdGUnmoYgMrHhaFcn81ZmMulTBg赫のさま。美盛のさま。

[18]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic87Zdic91261533.htm金と玉。金黄と碧

[19]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic94ZdicB2181232.htm&sa=U&ei=hKMOUOCfIazQmAW46YDwBg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGNxCQ_IdvX_C18hQV33aPCpuu0UQ甲を着た士。ひろく兵士をさす。

[20]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicAEZdicAB118241.htm彭蠡湖の別称。湖の旁の山の下にあるがあるのでかくいう。

[21]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E6%25B0%25B4%25E7%25BB%258F&sa=U&ei=V7sjUN2qNvCMmQXw3oCABA&ved=0CBwQFjAB&usg=AFQjCNF1F0KYBDiLC1s4kW7d35-XbeAhCw

[22]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD332849.htm&sa=U&ei=arsjUIPROuHwmAWM04HADQ&ved=0CCgQFjAD&usg=AFQjCNFcxR7mkfvATSFSYuLUnR3Y5f8agQ御史台の官。

[23]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E9%25AD%259A%25E5%2591%25A8%25E8%25A9%25A2&sa=U&ei=nbsjUPMSkOyYBerDgOgK&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGylfPyUVOi5dTKsAcKV7m4GEk9rg

[24]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%25A4%25A9%25E5%259C%25A3&sa=U&ei=trsjULPYH4HkmAWT4YHYAQ&ved=0CBgQFjAA&usg=AFQjCNHL1_46Vy6zyrlP6qs4-cpjviPa4Q

[25]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic94ZdicB2178772.htm&sa=U&ei=zbsjUMCKCaPYmAXK4YDQBg&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNHYWhiksnxlDE6XAghR9tfCL2UNbQ第一等

[26]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicAFZdic84253158.htm官名。大理寺に属する。

[27]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB9ZdicA6283932.htm&sa=U&ei=O5oLUJ7rEaHkmAWRzIj9CQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGm1i9jRtZtFC1IqUaN72uH4totjw書閣http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB9ZdicA6283933.htm&sa=U&ei=z5sLUOPTCazQmAWsjs39CQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFdOGXCootp0vqIthJBcAQ6tvdlcg籍を收藏する場所。

[28]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE9ZdicBEZdic99345163.htm&sa=U&ei=fLwjUI-sD4ahmQW5w4Aw&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNHcnfBu1q2Ug7xosrWiE83z4XH6XA龍図閣学士の略称。

[29]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/235804.htm&sa=U&ei=obwjULWlE-vwmAXszIHwAQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHsGWJT6v6t8Pi4IXnN-e4BY7Wd-g

[30]原文「倅通齊州」。「倅通」が未詳。「通齊州」という地名はない。「倅通齊州」は「倅通・齊州」と区切れるのであろう。齊州に関してはこちら 。「倅通」は「通倅 」のことではないか。なお、「通倅」に関する漢典の語釈はややおかしく、「通倅」は通判の副官の意であろうと思う。

[31]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicAEZdic98216805.htm&sa=U&ei=ws0HUNvEEuLvmAWWosXIAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEHHhbN5O9kj55XF9RPM-HxKelEcg官家の物品、財産、公物。

[32]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E7%25A6%25B9%25E5%259F%258E%25E5%258E%25BF&sa=U&ei=BL0jUK-WHumMmQXgl4HgDQ&ved=0CB0QFjAA&usg=AFQjCNGPn2O7TlEWqHNhn_99FBTMzrXrVw

[33]未詳

[34]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE4ZdicB8Zdic8032954.htm&sa=U&ei=NL0jUOXvPLHzmAW8mYC4CA&ved=0CBwQFjAB&usg=AFQjCNERlXud7TylTRLGQ593Q0xj38WSIg「抔」は手で捧げること。一抔は手で捧げられるほどの分量。それほどの欠損もなかったということ。

[35]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicAFZdicBA33188.htm&sa=U&ei=pL0jULrsIKramAWK-4DIAw&ved=0CBsQFjAB&usg=AFQjCNFopsw8dl0_vE39Yce5jHcV608eUQ官署の佐吏。

[36]『宋史』職官志・吏部・司勳郎中員外郎「司勳 郎中 員外郎  參掌勳賞之事。」

[37]未詳

[38]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/841441.htm&sa=U&ei=Nb4jUIWtF82KmQXv44CIAw&ved=0CBgQFjAA&usg=AFQjCNHGpS40max4iq5PfjHrvzSYb8TkxA

[39]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1395251.htm&sa=U&ei=i0YaUI2kL6GhmQW1kIDQAQ&ved=0CBwQFjAA&usg=AFQjCNF1mgDDu8OvsuPlcvfl7zsCeJ8tgA官名。

[40]http://baike.baidu.com/view/802700.htm

[41]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/668201.htm&sa=U&ei=fb4jUM27JO_vmAXkh4GgDQ&ved=0CBsQFjAB&usg=AFQjCNHBanHRnG-L2O1W4iAtGDHJDvB0hw

[42]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicBBZdic93337247.htm厚恩を受けたため、死んでもいること。

[43]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/989631.htm&sa=U&ei=5r4jUPSrGsrXmAWYg4HADw&ved=0CBgQFjAA&usg=AFQjCNGIX7dg8aAoq3xTnsfFLwGgHzf1XA

[44]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8ZdicA1Zdic99121025.htm&sa=U&ei=ss8HUNqEO6yWmQWRjJnRAw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEdQR-qLSMSy0KJaoHrAgQ77wpjmQ低級の武官。

[45]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5ZdicB8Zdic90117356.htm幕。

[46]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5ZdicBDZdicB9119957.htm&sa=U&ei=pp8LUMjWGafYmAX5lOGICg&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNHnWJh4KwEaDi-v75Sy9w3jY3vlmw役にする兵士。

[47]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5Zdic86ZdicA026073.htm&sa=U&ei=HyMRUPX_NKX6mAXq3oDYCw&ved=0CBcQFjAB&usg=AFQjCNEoPN4V20-P7EpXCuU6DGneHtW8GA女用の帽子と佩

[48]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE8ZdicA3Zdic99201015.htm&sa=U&ei=MCMRUJ3UL6n6mAWciIGYDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFi0XO7ehLHyl1x_e9XT4Qqi2BfqA裙子と短

[49]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5ZdicB7ZdicAB95564.htm&sa=U&ei=SKQOUMeSBaHPmAWH84HQCw&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNHhjbbKhCSoGzxSZBbmlsyX-CPy_w女巫と男巫。

[50]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBFZdicA891508.htm厳粛荘重のありさま

[51]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE8Zdic88Zdic8D.htm一舎は三十里

[52]主語は筆者

[53]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic8EZdicA8327851.htm&sa=U&ei=NdEHUISVGIjamAXVoIDAAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEyl89_MwSGcERsrVxtYuMKRrpCUQ帝王が臣下に封、恩典を示すこと。

[54]http://www.google.com/url?q=http://www.gg-art.com/dictionary/dcontent_b.php%3Fbookid%3D117%26name%3D%25BD%25D1%26columns%3D2%26bookdetailid%3D50148&sa=U&ei=oMQjUN2_KMvzmAXd84GYCA&ved=0CBsQFjAB&usg=AFQjCNFFEmJLyw8wPgHzQ7yV-P0gCsHeCg諸司使の副長官。

[55]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicA7Zdic82339176.htm官名。唐代度使を設けない区域察使を設け、「察」と略称した。州以上の官。宋代の察使は肩書きだけであった

[56]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/59731.htm&sa=U&ei=b8UjUPnENYGimQX2jIHwDA&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNFeQ0kXD9tud8OQVPDxmTUoqgt9og官名

[57]原文「其頂髪如珠」。未詳。とりあえずこう訳す。

[58]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5ZdicB7ZdicA6213284.htm&sa=U&ei=9NEHUIiNFobFmAWKsp2zAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFJzBzZ_MULs1xzUX8z2dRG6TmcBgの一つ、左にあったので、左藏と称する。宋初貢賦すべて左藏に運ばれた

[59]http://baike.baidu.com/view/108603.htm#sub6524669

[60]原文「楊翰偉郡封坐堂上」。郡封」が未詳。とりあえずこう訳す。後ろにも二箇所出てくるが訳文の意に解して問題あるまい。

[61]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE6ZdicADZdic8C157878.htm唱歌奏

[62]この主語は後ろを見るとわかるが息子の妻らしい。

[63]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicACZdicA6193378.htm符呪と禁架。

[64]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicA5Zdic8F311497.htm&sa=U&ei=eC0RUI3pOuXEmAX83YC4Aw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNESFN5XUVtN2rfuri87tUqSEi40EQ漢典に適当な語釈なし。天帝に奏上する文書であろう。

[65]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE5ZdicAFZdic9F126358.htm&sa=U&ei=uMYjUIK8HcygmQWw0YGoAQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHXy9xgE3CBdcpuW_j63LM1UFKUgg官名。察推官の略称。

[66]http://www.google.com/url?q=http://gan.wikipedia.org/wiki/%25E8%2588%2588%25E5%259C%258B%25E8%25BB%258D&sa=U&ei=4MYjULStMMKdmQXZ-4D4Cg&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNHa1TiWdQtJhpg9NgYwPXUyRdPt5g

[67]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E6%2585%25B6%25E6%259B%2586&sa=U&ei=JscjULW7LpCWmQXslYG4Ag&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNFVkzWPGyBTA_zPmWYVygdZPbxAMA

[68]原文「一吏升堂軸簾」。「軸簾」が未詳。とりあえずこう訳す。

[69]朱衣吏のことであろう。戚、大臣が外出するJの先導の吏、朱衣を着ける。

[70]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicA5Zdic8F108271.htm&sa=U&ei=v-wHUPqyAcjymAWb6ZW2Aw&ved=0CBcQFjAC&usg=AFQjCNEc6l5jW3dbpd6exMjV3qyYzC97yw帝王の質問回答すること

[71]原文「僅成其形耳」。「成其形」が未詳だが、おそらく、表面的な特徴を捉えるのが精一杯で、内面的なものまでは描けないということであろう。

[72]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA5Zdic9E174743.htm&sa=U&ei=OO0HUJ5j68qZBbm5hNQD&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHwSGqDbt9ZvSUIYZSJQnjsLdEt9A神情表。

[73]原文「返昏吾慮。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[74]原文「正一畫於地藏院」。「正」が未詳。衍字か。

[75]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/883616.htm&sa=U&ei=I8gjUJfIEuudmQWAvoHgCQ&ved=0CBkQFjAA&usg=AFQjCNEaoGXu9CtdUKXvdYR8vHPxIsdGzg

[76]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/2433871.htm&sa=U&ei=icgjUO6FEdDrmAXrz4FI&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNGsrGT_qUgxU9cj14IwsyMpnO1uAQ

[77]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%93%E7%95%A5%E5%AE%89%E6%92%AB%E4%BD%BF 経略安撫使

[78]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/205233.htm&sa=U&ei=RMgjUKbIF6bbmAW_9YCoDw&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNFHXlBdTX1tnN8EwsztrvMG9R4lLQ安撫使、招討使は大都督府の官名であるが、『宋史』には「經略安撫招討使」という言葉がしばしば見える。二つの官職を兼ねたものか。

[79]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/5210370.htm&sa=U&ei=-EokUKXFIemcmQWe24CoDg&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNFe0OtxpR60GBdeqCRg8F5hf6ZlNg 『史記』秦本紀「十年,初為鄜畤 ,用三牢。」注「【集解】徐廣曰:「鄜縣屬馮翊。」 【索隱】音敷,亦縣名。於鄜地作畤,曰 鄜畤 。故封禪書曰「秦文公夢蛇自天下屬地,其口止於鄜衍」,史敦以為神,故立畤也。 【正義】括地志云:「三畤原在岐州雍縣南二十里。封禪書云秦文公作 鄜畤 ,襄公作西畤,靈公作陽上畤,並此原上,因名也。」

[80]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE7Zdic9FZdicA5180818.htm&sa=U&ei=ZXUaULTiJ83ymAX3hoGYBg&ved=0CBsQFjAC&usg=AFQjCNEQHrb3PlwX2s0stRI2K-mZjtO5KA起草掌管する官名。

[81]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E4%25B8%2581%25E8%25B0%2593&sa=U&ei=yTYRUICQPIXdmAX9p4CwDA&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNG3NDRWM-Uu728PSN-PUog1MP1nyAなぜいきなりここで出てくるのかが未詳。脱文があるか。

[82]これに同じいであろう。

[83]未詳だが、軍で働く雑役婦のようなものであろう。正史の用例:『宋史』仁宗本紀・天聖元年「閏月甲午、詔裁造院女工及營婦配南北作坊者、並釋之。」。

[84]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/147043.htm&sa=U&ei=eu8HUJfiFsjamAWSnK2wAw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHxF37MVZFXRF81urkpRWHUhd3cPw

[85]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE9Zdic98ZdicB4264130.htm&sa=U&ei=kckjUK-XPM_nmAWAiYHQCQ&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNGaiXjxy736j_jSym3OCbwp84PlFg冥官。

[86]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE7Zdic81ZdicAB172949.htm&sa=U&ei=M6YLUN17seKYBdO_pZsK&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFX3w-D_BBKeuLkZHoEUYlBG3czOwひろく伍をさす五人伍、十人火。

[87]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicA5ZdicB3307377.htm&sa=U&ei=xToRUOmOGqXimAWy94GQBw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGEmwi9-FbmzeomJRLOeASjYmFZRg道士

[88]原文「編致斯郡」。「編致」が未詳。とりあえずこう訳す。

[89]原文同じ。文意が通じない。「夏」の誤りか。

[90]鄜州付近にあった城市。『史記』魏世家「五年,秦敗我龍賈軍四萬五千于雕陰」注「【集解】徐廣曰:「在上郡。」 【正義】括地志云:「彫陰 故縣在鄜州洛交縣北三十里, 彫陰故城是也。」」

[91]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E6%2599%25AF%25E7%25A5%2590&sa=U&ei=xcojUKzqEardmAXUtoDgDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGzvDQuuReZXG9gAQFBGlKrb8lfyA

[92]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/949148.htm%3Fhold%3Dredirect&sa=U&ei=-8ojUP-DEI34mAX20oG4Ag&ved=0CCkQFjAD&usg=AFQjCNE_jQc5PKk7BIzvuigvlltGf53pLA

[93]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5ZdicA6Zdic96139950.htm&sa=U&ei=L7ALUPHYNKyfmQXCxaWSCg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNG8Tbfotd5O3VtsS6rLWUN-lLdBIw怪異な幻

[94]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA5ZdicA0175779.htm道徒が祭壇を設け祈祷すること。

[95]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicACZdicBC231577.htmマントウの古称。

[96]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1498445.htm&sa=U&ei=assjUNykNajFmAXc-YGIDA&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNEv_kexLXkwc8U7JgmZB0L8lws_jg

[97]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E6%25AD%25B8%25E5%25B7%259E&sa=U&ei=fMsjUJHSNOvymAXLoIC4DA&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFkZ-eBCmdiiSU3vScUF0tBh8LsrA

[98]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%25B7%25B4%25E4%25B8%259C%25E5%258E%25BF&sa=U&ei=kssjULD2GqrumAXH6IGgDw&ved=0CBkQFjAB&usg=AFQjCNH31BoPrJt_YB1Nhz2OHRGfQVM5vw

[99]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic87ZdicBA100675.htm地方官に赴任すること

[100]http://www.zdic.net/cd/ci/19/ZdicE7Zdic96Zdic86181927.htm疆をする小吏。

[101]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicBBZdicB729963.htm&sa=U&ei=d0ARUPWhJ5CWmQXz6YCQAg&ved=0CBUQFjAB&usg=AFQjCNHmHby2yWRK2voPs7aUoTALuF_RIw廷尉平http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicBBZdicB7103230.htm官名

[102]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85ZdicAC23868.htm宰相と同類の大臣。

[103]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE7Zdic89Zdic99329753.htm&sa=U&ei=nrILUPzIJej2mAXx9piACg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHLFQDPhOo4y3lfrRBnxtjGPCPVhQ武官。

[104]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%25AD%2599%25E4%25BD%2595&sa=U&ei=SLMLUJm1I8zPmAWJhfifCg&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNG0CYFxGj-FSo4ksdgDcIY3SzYeAw

[105]未詳だが、甲等に同じで、第一等のことであろう。

[106]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicAFZdic8D250493.htm&sa=U&ei=vrMLUM76CYT0mAW2_dWlCg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHUu1nxw5wbbqYNOKHD3-EjoStVZA章の学、文学。

[107]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE8ZdicAEZdicA1261190.htm&sa=U&ei=QrQLUMDAEc6VmQXpqKn-CQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNH37OfGw5RkJ0pYwK8qTYlFwlkMbg人が上京して会試を受験すること。

[108]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic98ZdicA5292531.htm&sa=U&ei=ms0jUJDcKeLqmAW0_IHYBg&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNEcebHu_zENXucaEh9UBuLejjCBPA会試

[109]未詳だが、見回りの吏卒であろう。

[110]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8Zdic8DZdic9036315.htm&sa=U&ei=SrULUI2WN6HwmAWuz7D8CQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNF10DNsgcj1eufIlDHdrYozPvHvtQ人を推薦する文あるいは手紙。

[111]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE7Zdic93ZdicA6327942.htm&sa=U&ei=t6YOUO-jKcTmmAX9qoAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNF8PSGSPwRUcnujd_kO5b8rYL9zyg瓦葺の家

[112]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9Zdic87Zdic8E243314.htm夜叉、叉。仏多く鬼を指す。

[113]原文「棓」。未詳。とりあえずこう訳す。http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE6ZdicA3Zdic93.htm

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