巻六

王少保[1]

少保王公明は、開宝[2]八年乙亥に秘書少監[3]州刺史を拝命した。時に王師[4]は金陵を討伐しており、公は軍を率い、豫章に入り、市は(みせ)を移さなかった[5]。戊寅の年なり、交代し、宿舎[6]を移った。衣のものが目通りしにきたので、招いて坐させると、こう言った。「公は兵を率い、州に入り、解任されるまで、一人も殺さず、恩恵が物に及ぶことは大であり、陰騭保護を垂れ、窮まることがありませんでした。」袖から一通の青い紙、朱の篆書数幅を出し、言った。「後日、舟が大孤山[7]につくと、[8]が目通りしに来、かならず知れましょう。」門を出ると、すぐ見えなくなった。大孤山にゆくと、ほんとうに衣の吏が来た。公はたいへん喜び、すぐに召して会い、篆文を示した。すると言った。「紙と筆を所望します。本当の字に変えましょう。」それはまさに烏犀丸[9]の処方で、書きおわると去った。公はそのことを神秘的だとし、処方に従って調合し、服すればすべて効いた。盛太尉は太保の孫の女婿で、衣がみずから書いた本を得た。さかんに病が起こっていたが、服するとやはり癒えた。

 

范参政

文正范公仲淹[10]は、字を希文といい、天聖年間、兼職で陳州の通判をしていた。時に郡守の太夫人が病気となったので、道士を召し、奏章[11]祈祷させ、祭壇を母屋に築いた。郡守は公を召してそのことに関わらせた。公はひそかに笑って言った。「凡俗の小人が、章を帝に奏することができましょうか。郡守さまは太夫人を、あれこれ安心させようとしているだけだ。」その後、さらに道士に言った。「仲淹(わたし)の将来の吉凶は、知れるか。」道士は言った。「はい。天曹[12]にいってお尋ねしましょう。」その後、笏を執り、章を持ち、祭壇に伏し、乙夜から四鼓になると、凝然として動かなくなった。その体を摩ってみれば、硬直していた。五更近くに、手足がかすかに動き、すぐにで助けて牀に坐させ、茶と薬を飲ませた。しばらくすると、郡守に言った。「太夫人さまをお祝いいたします。まだ六年の寿命があり、苦しみ悲しむに足りません。」さらに言った。「公は禄と寿がたいへん盛んでございます。かならず政府に入られましょう。」郡守は尋ねた。「今晩の奏章は、なんとも長かったな。」道士は言った。「天閽[13]を出ますとすぐに、来年の進士の春榜[14]の掲示があり、見るものが道に並んでおり、出られませんでしたので、留まっていたのでございます。」公はますます嘘だと思い、尋ねた。「元は何という姓ですか。」「姓は王で、名は二文字、下の一字が墨塗りになっており、傍らに一字を注してありましたが、遠くて見わけられませんでした。」その後、郡守の母の病苦は治まった。翌年の春榜で、状元は王拱寿であったが、御筆で「拱辰」に改めた。公は初めて道士に神通力があったことに感嘆した。このことは畢国傅仲達、陳著作之方[15]が言うのを聞いた

 

麦道録[16]

麦道録はもともと宦官で、かつて入供奉官[17]の勾当[18]で材場[19]に務めていた。ある日、西水門[20]を出ると、乞食が汴河で死んでおり、岸の傍らに敗れた(むしろ)と短い杖があった。時にまさに大雪であったが、かれの体だけには積もっていなかった。麦は驚き、衫と褲、麻履、古頭巾を買い、空き地に埋めてやった。後日、鄜延に使いし、薄坂の北のある宿駅にゆくと、一人の貧民が門にきて面会を請い、さらに言った。「かつてご恩を受けましたので、お礼を申しにまいりました。」麦が召して会い、そのわけを尋ねると、言った。「頭の先から踵まで、すべてあなたが賜ったものでございます。」麦はしばらく罔然とすると、はじめて乞食を埋めたことを思い出した。そこで招いて坐してともに語り、側近を遠ざけたところ、しばらくして去った。麦が帰京し、発掘したところ、席と杖があるだけであった。麦は官位を棄てて道士となり、左街道録[21]となり、年は九十余で亡くなった。朱左蔵允中に聞いた。

 

楊道人

楊道人は、どこの人か分からない。郢[22]の京山県[23]、豊国[24]范頓[25]の市中に往来していた。よく子供と遊び、大寒大暑でも巾幘[26]衣裳がなく、裸であった。しかし、あるひとが衣服を贈っても、すぐに乞食に施したので、人はもっともかれを見ることを憎んだ。しばしば人の心の中の事を予知した。復州[27]の蘇繹[28]寺丞[29]が硃砂銀[30]を焼く法を会得し、試すと験があったので、見にいった。楊はすぐ進み出て言った。「渋渋たる酸硃砂、焼き尽くして水銀乾く。」[31]そしてふたたび語らなくなった。また、彭長官は、土地を探し、その母を葬ろうとしており、紙でそれを求め、幾つかの字を求めた[32]。するとただ「翻車二十五千」と書いた。その後、ほんとうに翻車村でその地を見つけ、二十五貫で買った。熙寧[33]癸丑の年、辛子儀は京山の知事となり、楊はつねに目通りしに来、衫帽を贈り、外斎[34]に宿らせた。衾と榻を設けたが、ひそかに見ると、すでにゆかで安眠していた。まもなく紙と筆を求め、横に二画を書き、一から二三四と書き終わり[35]、子儀に授けた。じっくり見ると、「四」の字であった。ほんとうに四月になると、父が亡くなった。路上の商人たちはみな言った。「かれが数箇所で死んでいるのを見たが、容貌改まっていなかった。」熙寧七年、范頓の富豪張絳の家で亡くなり、棺を買い、市の傍らに埋めてやった。市民朱如玉はまさに京師を旅していた。その日、楊が訪ねてきたが、一言も交わさなかった。後に朱は都から戻り、県に申し、その墓を開くと、空の棺があるだけであった。その奇妙な事跡はたいへん多く、その一二を記せる。辛都官子京がして示した。

 

李芝

広州新会県の道士李芝は、性質は温厚寡黙、ふだんは愚者のようであった。時折両韻の詩[36]を作ったが、飄飄としていて塵俗の語がなかった。つねに史伝を読み、吐納辟穀の術をよくしていた。体はしばしば洗わなかったが、おのずと清浄で、髪には緑の光があり、立てば地に垂れた。住んでいる建物に、閂は施さなかった。県民はかれを崇め、金銭衣服を施すことは数えきれず、人がとって去っても、言わなかった。召して祠醮[37]を設けさせると、一夜に数箇所で現れることがあった。至和年間に虎の害が多かったが、芝は策を持ち、山に入り、一月あまりして初めて出、言った。「すでに戒めた。」それから虎の害もやんだ。わたしは至和年間にみずからかれを見たが、今は屍解している。

 

張白

張白は字を白といい、みずから白雲子と称し、清河[38]の人であった。性質は冷静で、博学能文、二度進士に挙げられたが落第していた。たまたま親が亡くなると、泣いてひとりごちた。「禄は親を養うためのものだが、今、親は間にあわなかった。禄を求めても仕方ない。」そして辟穀して食らわず、養気[39]全神[40]を事とし、道家の書はすべて研究した。開宝年間、南のかた荊渚[41]に遊んだ。時に同人の韓可玭が通守[42]をしており、招聘してたいへん喜んだ。たまたま朝廷が江[43]討伐し、軍府[44]は多事であったので、儒服を脱ぎ、道士となった。武陵[45]にゆき、龍興観[46]に寓した。郡守劉公侍郎墀、監兵[47]張延福は深く礼遇を加えた。かつて四角い鏡を張に贈って言った。「収めておけば、邪を避けることができる。」白は隠棲韜晦し、日々耽溺を事とし、傲然として親しめなかった。しばしば街中に入り、罵れば、きびしく人の秘密を突いていることが多かったので、人々はみな驚いた。風雪苦寒に遭えば、氷を割って深く入り、水中に安坐し、しばらくしてはじめて出てきた。衣襦は湿っていたが、気は蒸すこと炊ぎのようで、指顧の間に、すべて乾いた。人と遊ぶ時は、仰ぎ見てまっすぐに立ち、強い若者数人に力を尽くして推したり引いたりさせたが、すこしも休まなかった。さらにある時は、仰臥し片足を伸ばし、三四人で挙げさせたが、人々は顔を紅潮させるばかりで、その足は動かなかった。ふだん崔氏の酒肆で飲んだが、崔はその代金を求めなかった。家人はつねに言った。「あの道士が来れば、酒飲みが集まってくるからな。」その壁にこう題したことがあった。「武陵溪畔崔家(ぶりようけいはんさいけ)(さけ)地上(ちじやう)にまさになかるべく天上(てんじやう)にあり。南来(なんらい)道士一斗(だうしいつと)()み、()して白雲(はくうん)(しん)(どう)(くち)にあり。」それから買うものはさらに倍した。南岳の道士唐允昇、魏応時も当時の有道の士であった。その人柄を慕い、つねにともに遊んだ。白は天才敏贍[48]で、思いは湧く泉のようで、数日で『武陵春色詩』三百首を賦したが、すべて「武陵春色の(うち)」を題にしていた。ある日、病と称し、すぐに観主に語った。「わたしはもとより助からない。くれぐれもわたしの屍を焚くな。同郷の人々が尋ねてこようからな。」そう言うと絶命したが身体は潤いがあり、異香は部屋に満ちていた。城じゅうの士女は、見物して日を重ね、棺を買ってやり、西門外に葬った。一年後、監兵は辞職帰郷したが、その僕は揚州開明橋で白に遇った。白は尋ねた。「四角い鏡はあるか。主人に話してやれ。あの鏡もながくはとどまらないと。」僕が帰ってくわしく言うと、張は驚いた。「かれは死んでひさしいのに、おまえはどうして見た。」鏡を探し、じっくり見ると、すぐに砕けた。さらに鼎[49]奏官[50]余安は、公務で揚州にいったが、やはり白が大きな葫蘆を携えて薬を売っているのに会った。白はすぐに安を召し、酒肆で飲み、武陵の旧遊について話した。数日して、安が別れを告げると、白は言った。「崔家に感謝の手紙を届けてくれ。」余が帰り、手紙を送ると、崔氏はそれを見、たいへん驚いた。埋めた棺をすぐに掘ると、すでに空であった。白は『護命経』[51]に注し、微旨を究めた。さらに『指玄篇』[52]の五七言の雑詩[53]を著し[54]、唐、魏[55]は集めて『丹台』と名づけ、いずれも世に伝えられている。おおむね神仙のことは、伝記に見えるが、白が屍解したことなどは、耳目で接したことであり、年月はあまり遠くなかった。今、建物で祭っているが[56]、人々は仰ぎみているばかりでなく、さらに永遠に伝えようとしているのである。これらはすべて柳応辰職方[57]が撰した『祠堂記略』に述べられている。

 

静長官

静長官は、真定の人で、明経に合格した。欲が少なく、道家の修攝[58]のことを好んでいた。ある日、妻子を棄て、名山に遊び、数年帰らなかった。天聖年間、亡父は親戚杜獲とともに、向知古に磁州慕容太保の邸で会った。燭を燃やすとすぐ、門を叩くことすこぶるはげしく、開く、静であった。縕袍[59]p絛[60]、布巾芒屩[61]、腕をとってたいへん喜んだ。その行っていたところを尋ねると、言った。「別れてから、山水の間を放浪し、本当に素志に叶っていた。今、真定に帰り、妻子に会おうとしているが、諸君がたまたまこちらにいるのを聞いたので、会いにきた。」飲むと、静は言った。「昔語りは楽しいが、酒が薄くて飲めぬから、薬で酒の味をよくしよう。」小さい嚢の中から薬を出したが、一粒の弾丸のようで、瓶に投じ、口を掩った。しばらくして飲むと、香りは極めて醇烈[62]であった。夜が四鼓に達すると、人々はみな酩酊して寝た。鷄が鳴くと、静はひとり僕夫に言った。「人々が起きたら、わたしがひとまず真定に帰ったと報せろ。」夜が明けると、ともに静の薬の霊妙さに感嘆した。すぐに強健なしもべを真定に走らせ、その家に尋ねさせると、言った。「しばらく帰りません。」わたしが前年、都に寓した時、医助教[63]の靳襲というものがいたが、その家ではつねに一つの榻に帷を掛け、枕と蓐はたいへん清らかにしていた。人がその理由を尋ねると、言った。「静長官を待っているのです。静さまは今、嵩少[64]の間に隠れ、年にあるいは一度、あるいは二度来るのです。」靳氏は神仙としてかれに仕えているのであった。かつて方書[65]を靳に授け、それから医術はひろく行われ、家産は数千万となった。静は今年百越えているが、容貌四五十の人のようで、都の人には知っているものが多い。

 

率子廉

衡岳の道士率子廉は、落魄して特別な能力はなく、酒を嗜み、性質は凶悪で、事理に通じていないことが多かった。言葉で人を辱めやすく、人もかれと交わることが少なかったので、「牛」と呼ばれていた[66]。山の魏閣[67]に住み、景色はたいへん幽邃で、子廉は懶惰で、汚穢が積もって清掃を加えなくなることを致し、そのため景趣は埋没し、殿宇は崩れた。旅人はその場所がらわしく人物が愚かなので、やはりゆくことがまれであった。故礼部侍郎王公祐[68]は、中書舎人で潭州[69]の太守となり、立夏、命令して祝融を祭ろうとした。衡岳にゆき、仏寺道廟はほとんどあまねく遊覧し、いわゆる魏閣を訪ねた。道士たちは壊れているので見るに足りないことを告げたが、王公はどうしても一見しようとした。ゆけば、子廉はなお寝ているかのようであった。王公がかれの部屋に入り、側近が呼んで探すと、子廉は酔いが醒めておらず、おもむろに榻を降り、目を拭いて王公を見、しばらくすると言った。「深山の道士は、酒に遇うとすぐに酔います。どうか罪と思われますな。」側近はみな股慄したが、王公は欣然として逆らわなかった。その応答の言葉はたいへん粗野であったが、風采は自若としていた。王公は驚き、乗り物に載せてともに郡に帰り、日々ともに酒を飲み、待遇はたいへん厚かったが、人々はどうしてそうするのか分からなかった。時折、辞して山に帰り、また魏閣にとどまることさらに半年であった。しかし王公は慰問してしばしば山にゆき、また詩を作り、二章を寄せた。ある日、突然、人に言った。「遠くへゆこうと思いますので、舎人に一別しなければなりません。」即日扁舟で潭州に下り、王公に目通りし、言った。「行くところがございましょうから、先に別れを告げにきました。」公は言った。「どこへゆく。」すると言った。「とどまるところは決まっていません。一念のおもむくところに従い、翩然としてすぐにゆきます。おそらくその時は別れを告げられませんので、あらかじめこうしているのでございます。」王公が留めてともに飲むと、二日して、辞して魏閣に帰った。着いた日、手紙を書いて衡山観主李公に別れを告げ、沐浴、盛装し、香を焚き、笏を執り、中堂で屍解して去った。聞くものは驚いた。李は棺を買い、あつく葬ってやった。半年近くして、衡岳寺の僧が都から来、安上門外で子廉に会ったが、こう言った。「京師を見にきてすぐ帰る。そのかみは李観主から手厚い餞別を受けた。」懐から一通の手紙を出し、僧に渡してお礼させた。李がその封を開くと、本当に子廉の手紙であった。人はみな王公の人を見る目に感嘆した[70]。張都官の子諒が言った。

 

許偏頭

成都府の絵描き許偏頭は、その名を忘れたが、よく似顔絵を描き、観街[71]で画廊を開いていた。ある日、弊衣で憔悴した貧民で、四十ばかりのものが、布嚢を負いながら、許のところに来、似顔絵を描くことを求めた。許は笑って言った。「このようなありさまなのに似顔絵を描くことを求められるとは。もしやお金がないのにわたしにお頼みか。」「そうではない。あなたの筆が巧みであることを聞いたので、来ただけだ。馬鹿にするな。」すぐ布嚢を解き、道服一襲を出し、さらに一つの鹿皮の冠、白玉の簪を出し、頂いた。その鬚を引けば、すぐに黒く長くなり、美丈夫となった。許はたいへん驚き、謝った。「神仙のご降臨とは知りませんでした。前言は戯言で、ほんとうに恥ずかしゅうございます。」道人は笑って言った。「わたしの像を描き、店に置くことがおできになれば、後にしるものがいるはずだ。売ることを求めるものがいたら、千銭だけを取り、越えてはいけない。」許が命じられた通りに描き終わると、語る間もなく、嚢を携えて出ていった。許が拝謝すると、すでに見えなくなっていた。許が描いた像を店に展示すると、それを知るものがいて言った。「これは霊泉の朱真人だ。」売ることを求めるものは日に十数人、許は家産が日々増した。後に代金を貪り、絵はひとまず与えず、ごとすぐ二千銭だといった。その晩、道人を夢みると、こう言った。「おまえの福には限りがある。みだりに高値をとってはならないと戒めたのだから、わたしの言葉をゆるがせにしてはならぬ。寿命を短くしよう。」そしてその左頬を打った。目ざめると、頭は偏っており、それから許偏頭と呼びなした。慶暦年間、許は年がすでに八十余で亡くなった。朱真人とは、朱居士桃椎である。『唐書』の列伝[72]、杜光庭[73]の『列仙伝』[74]に見える。事は裴長官公願から聞いた。

 

張翰

張翰は、江陵[75]の人で、進士を業としていた。その父の前妻は三子を生んで亡くなり、父はさらに竇氏を娶った。翰は、竇氏が生んだ。竇の生月日時は、夫に不吉であったので、若くして吉日に変え、張家に嫁いだ。しばしばその夫とともに帰真観の三清殿で、子授けを祈願したが、祈祷文では歳を若くしたことを告げた。その後、数人の子を産んだが、翰の父は物故した。たまたま帰真観で火事があったが、竇はひそかに銅銭五十万を道士に与え、殿宇を修理させた。まもなく、竇も亡くなった。数年後、翰は突然神に憑かれ、手で髻を取り、鞠躬して言った。「聖語を聴け。竇氏は虚偽の年で、上真[76]を欺罔した。さらに子に尋ねず、ひそかに家産を用い、すでに冥府で取り調べを受け[77]、今は異類となっている。」事はすべて内密のことで、人々が知らないことであったが、このようなことは一つでなかった。これによって荊[78]の人はすべてそれを聞いた。ああ。娘がその年を増減して人に嫁ぎやすくするのは、罪が小さいが、みだりに神に告げれば罪が大きくなる。もっぱら家の金をとって用い、祠堂を構えたことを、子に知らせなくても、神は責め怒るのだから、理に外れて用いるならばなおさらである。

 

最終更新日:201289

括異志

中国文学

トップページ

 



[1]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/57656.htm&sa=U&ei=6G4iUNa7ApCfiQfE5YDwBQ&ved=0CBwQFjAA&usg=AFQjCNFTEw28jASCGxBphMKPRqoilBNdkw

[2]http://baike.baidu.com/view/1113211.htm

[3]http://baike.baidu.com/view/1863566.htm

[4]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE7Zdic8EZdic8B218398.htm&sa=U&ei=bW8iUJGrN6-TiQfE-4DYAQ&ved=0CB0QFjAB&usg=AFQjCNHc51ESooQpCKn1qDSQ3kRGAwKHZQ

[5]原文「市不易肆」。正史に幾つか用例あり。軍隊の統制がとれており、掠奪などが行われないので、市場に混乱が起こらないさまをいう常套句のようである。元史』卷一百四十一全居民二十萬。軍不敢私、市不易肆、不旬日河南悉定。

[6]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE4ZdicBCZdicA020826.htm&sa=U&ei=Si4LUPrBBI-fmQWcwLilCg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFEi5nPGzOBrmoU7XN5GILb3HPS7g行人休息宿泊する場所

[7]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/25726.htm&sa=U&ei=MXAiUPn0HseSiQfsv4HYDg&ved=0CB8QFjAA&usg=AFQjCNGMMWHx_Jrnc-v_4g9_PZyKfUNL6w

[8]ここでは一人称として用いているか。あるいは単に叙述者の頭が混乱しているのか。

[9]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1267585.htm&sa=U&ei=U3AiUKaXJc2eiAekmIGoCA&ved=0CBsQFjAA&usg=AFQjCNHS449bYVN_HPcQgDbcBfuzcSXyVw

[10]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/5465.htm&sa=U&ei=ZnAiUILxLI-kiAfs_IDoCA&ved=0CB8QFjAA&usg=AFQjCNEdsoiQz5ZFm5NK12Mt9EIZPS0VXg

[11]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicA5Zdic8F311497.htm&sa=U&ei=-JgPUMz_E6fPmAXbxYGgAQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEqc0Zew-vlaRh3KirJgBxc4g602w臣下が帝王に進言陳述する文書。

[12]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicA996316.htm&sa=U&ei=vXAiUMT0IYeTiAeV84HABQ&ved=0CCIQFjAD&usg=AFQjCNFk36aJXkZachiEfbv-dCbKt49AoA道家が称する天上の官署。

[13]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicA997689.htm

[14]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic98ZdicA5314480.htm合格者の掲示板。

[15]『睽車志』巻二に出てくる。

[16]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic81Zdic9335824.htm&sa=U&ei=NnIiUNyNKMiZiAfboICABQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHPWz5ZjcfZaNd7v_L8GjAVX9V5iQ道教の事務を担当する官員。

[17]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E4%25BE%259B%25E5%25A5%2589%25E5%25AE%2598&sa=U&ei=JjQLUM2FLOf1mAXA3ZyNCg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFuAE75QX1ud4_GHpKyYHW1OLbTIQ「入供奉官」という言葉が『宋史』に多数出てくる。宦官が担当した供奉官らしい。

[18]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic8BZdicBE77854.htm肩書き。ある公務主管理する官員。

[19]事材場のことか。製材を担当する部署。『宋史』職官志・將作監「事材場、掌計度材物、前期樸斲、以給外營造之用。」退材場という官署もある。廃材を薪にする部署。『宋史』職官志・將作監「退材場、掌受京城外退棄材木、掄其長短有差、其曲直中度者以給營造、餘備薪爨。」

[20]『東京夢華録』巻四に見える。

[21]『宋史』の用例。卷四百七十二・姦臣伝「又太學博士范致素與左街道徐知常善、知常以符水出入元符后殿、致深結之、道其平日趣向、謂非相京不足以有為。

[22]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/473823.htm&sa=U&ei=OAwjUNyuHcuUmQX9gIFA&ved=0CBsQFjAB&usg=AFQjCNFm_Cq-ajcC_gNlxwg9tlwDdjXeZA

[23]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E4%25BA%25AC%25E5%25B1%25B1%25E5%258E%25BF&sa=U&ei=T7EYUL3gE6romAWQ5IGgDA&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNEjKj8S3ZHAEBtfUwX6Y4nbNsDvkw

[24]福建路建寧府の県名。『宋史地理志参照。ただ、すぐ前に出てくる京山県と離れすぎている気がするが。

[25]地名と思われるが未詳。

[26]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicB7ZdicBE215635.htm&sa=U&ei=1jsLUK_lO8ycmQWB34mfCg&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHcnmAyN638_rXcsB-Wxd2-GOXjjg頭巾

[27]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%25A4%258D%25E5%25B7%259E&sa=U&ei=7nQiUL-TL824iAfR_oEQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNECdVKmVRjujFsXuo6D-5iDpMLYwQ

[28]未詳

[29]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicAFZdicBA33188.htm&sa=U&ei=HnUiUMaIEc-hiAfVtIHYBA&ved=0CBoQFjAB&usg=AFQjCNFvBdvyzO53lym6fFSjWsjXkxn-DQ官署中の佐吏。

[30]未詳だが、煉丹術によって硃砂から作られる銀であろう。

[31]原文「澀澀酸硃砂、燒盡水銀乾。」。含意未詳。質の悪い硃砂からは水銀しかできないということか。

[32]原文「以紙干之、乞數字。」。未詳。とりあえずこう訳す。文脈からして、紙にお告げを書いてくれるように願ったのであろう。

[33]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E7%2586%2599%25E5%25AE%2581&sa=U&ei=_HUiUOKAHOaWiQeb1IC4DA&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEXGGuCE5zjPNDkFRvC0k3-6FHV1w

[34]未詳だが、表にある書斎であろう。

[35]原文「作二畫、自一二三四書訖」。「自一二三四書訖」が未詳だが、後ろの「じっくり見ると、『四』の字であった。」という記述から判断して、横棒を二つ書いた後、縦棒を四本書いたということなのであろう。とりあえずこう訳す。

[36]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE4ZdicB8ZdicA47341.htm&sa=U&ei=sj4LULWyAsnEmAWT1YyGCg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFLKUi1IdYf7EQx3SnYoa-qizjNWw詩体の一。一首の中で平仄両韻をふむもの。

[37]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA5ZdicA0175779.htm&sa=U&ei=RUELUM7KJurkmAWcqZ2MCg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHR_FhbMt7TSkLo-DuhtmxCFUu7-g道徒が壇を設けて祈祷すること。

[38]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/71169.htm&sa=U&ei=DQ4jUNLZA8GImQXpk4DYBQ&ved=0CB8QFjAA&usg=AFQjCNG66sLIFcfUUMr4z8WxnhDnoc-0fg

[39]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5Zdic85ZdicBB59690.htm&sa=U&ei=unYiUPrCGM-ViQfir4DQAg&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNFWSXI74QQB7JBCiHfOgc0TGwiIOA道家が気すること。

[40]未詳だが、神気を健全に保つことであろう。

[41]グーグル検索結果『宋史』にも用例が多い。未詳だが、荊州にある水辺の地名であろう。

[42]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic80Zdic9A40308.htm&sa=U&ei=RqQPUKLbGYXRmAWw9IHIBA&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHmhgFu4aXhYcXM8TZZ3cUaYOTHeg官名

[43]呉越のことか。五代十国の一つ。未詳。

[44]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic86Zdic9B209295.htm&sa=U&ei=KSoOUKaIN8jOmAW7rYCoBg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEa21aNt24mGlHkZUADoqVQsvr51A将帥の官署。

[45]http://baike.baidu.com/view/741669.htm#sub8058633

[46]「龍興観」のグーグル検索結果、「武陵」「龍興観」のグーグル検結果。『宋史』の用例。卷四百六十一・蘇澄隱伝「蘇澄隱字棲真、真定人。為道士、住龍興觀、得養生之術、年八十餘不衰老。」。ただし、これが武陵の龍興観であるかは未詳。

[47]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9BZdic91190419.htm&sa=U&ei=63kiUIDmHKuZiQf3rYCwBQ&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNG-ubs1yA776y_Ds_DdpTXuk8bGKg軍隊監督する官員

[48]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic95Zdic8F297837.htm&sa=U&ei=9kIHUMuSN6eriAfaw42KBA&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNEaXUfmCZQI5tFEPI-hNpbsX6fqYg敏捷かつ豊富であること。

[49]http://baike.baidu.com/view/3021620.htm

[50]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/4707463.htm&sa=U&ei=r3wiUM6nCLGUiQfG-YCgBw&ved=0CCMQFjAB&usg=AFQjCNEN24bgN4uLIo0IqE9NTE2-GbsqjQ

[51]太上昇元消災護命妙経』か。未詳。

[52]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/6408160.htm&sa=U&ei=9XwiUL3ABc6yiQeMqoHQBw&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNGXln8j3FXcyNWljcldST_rQ0YiNw

[53]致が一つでなく、慣例に拘わらず、物に遇ってすぐに作ったhttp://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic9DZdic82265084.htm

[54]原文「又著『指玄篇』五七言雜詩」。未詳。とりあえずこう訳す。『指玄篇』を題材にした詩を作ったということか。

[55]唐允昇、魏応時

[56]原文「今室而祠之」。「室而祠之」という表現は『楚辞·招魂』「天地四方、多奸些、像君室、静安些。」朱熹集注「像
、蓋楚俗、人死則設其形貌於室而祠之也。」に見える。

[57]兵部の下部機関。『宋史』職官志・兵部「其屬三:曰職方、曰駕部、曰庫部。」

[58]http://www.google.co.jp/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBFZdicAE19028.htm&sa=U&ei=_NQPUPftHaffmAXK94GgBg&ved=0CBIQFjAA&usg=AFQjCNEDOKvhNpYhhtMPUmbPFAaWVAXz6Q道教の修煉摂生。

[59]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7ZdicBCZdic8A38216.htm&sa=U&ei=eX4iUJy9LKSYiAfKkoAY&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNFVY58Y0ec0haqvgSJEoN8EferRFw乱麻絮とした袍子。貧者の服。

[60]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7Zdic9AZdic82184866.htm&sa=U&ei=on4iUOWnMuWciAf0mYCwBw&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNGvSmN_ZqkFcXCfeMj4R9lk5cpXwQ「皁絛」とも黒色の絲縄

[61]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8Zdic8AZdic92201995.htm芒鞋。「芒鞵」とも。芒茎の外皮でんだ鞋。ひろく草鞋をもさす。

[62]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE9Zdic86Zdic87352846.htm&sa=U&ei=EHAHUIuIJ6rFmAXTwaS4Aw&ved=0CBsQFjAE&usg=AFQjCNG3ubXMX07E506hRuMurkGRQyNkRA味が醇厚烈であること

[63]『宋史』職官志「曰太醫、掌臣僚陳乞醫人、補充太醫助教等。」。

[64]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE5ZdicB5ZdicA9215981.htm&sa=U&ei=P38iUJ_NBO-ViQfkhoH4Ag&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNFbRNoyf-79UocAeZj_2kRHzB-egw嵩山少室山併称。嵩山にもなる

[65]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic96ZdicB9146244.htm

[66]原文「於事多不通、易辱人以言、人亦少與之接、故以牛呼焉。」。未詳。とりあえずこう訳す。また、頑固で傲慢なことを「牛気」というようである。

[67]原文「居山之魏閣」。「魏閣」が未詳。後ろにも出てくる。

[68]http://baike.baidu.com/view/203415.htm#1

[69]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/802756.htm&sa=U&ei=m4AiUNOnOq-QiQfUsIDgCw&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNG8pGrOnLzqgJSpzPQlNmuH0kBZmg

[70]原文「人皆歎王公之默識。」。「默識」が未詳。とりあえずこう訳す。漢典に適当な語釈なし。

[71]街巷名と思われるが未詳。

[72]舊唐書』卷六十五、『新唐書』卷一百九十六に出てくる。

[73]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/133342.htm&sa=U&ei=FIQiUJHkLcmPiAepoYCwBg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNE_cSI7GLzDO_I2iZJ7k_5LSdNBHw

[74]http://www.guoxue123.com/biji/tang/xzsy/002.htm

[75]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/16438.htm&sa=U&ei=qYQiUJrBDY-ViAeC2oCABQ&ved=0CB8QFjAA&usg=AFQjCNG_x5Dt5doi1MEc6M_7EAbfxeh5WA

[76]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8A5959.htm真仙。

[77]原文「已受考於陰府」。「受考」が未詳。とりあえずこう訳す。

[78]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/7427.htm&sa=U&ei=lYQiUJfKHY-ViAeC2oCABQ&ved=0CB0QFjAA&usg=AFQjCNHPQ_176aXEFlAAliFOCnfPX_iYAQ

inserted by FC2 system