巻二

盛枢密

枢密使文肅盛公度[1]は起居注[2]を編修していた時、病に罹って死んだが、体はなお温かかったので、家人は納棺しようとしなかった。夜が明けると蘇り、語るには、初めは人に追捕せられ、畑の中をゆくかのようで、気候は鬱陶しく、雨が降ろうとしているかのようであった。しばらくすると、ある役所に入ったが、主人は古の諸侯の服を着ており、起きて公を迎え、ひとまず姓名が同じなの誤って追捕したことを告げ、すぐ公に帰るように命じた。その後、また畑の中にゆき、はるかに眺めると数人がいたが、すべて旧知のようであった。追いかけて見ると、故相国沈公義倫[3]であった。かれは喜んで盛に揖して言った。「学士どのが帰られることはよく分かっております。わたしのために家のものにお話しください。汚い靴下にたいへん苦しめられていますと。」草草に別れて去った。盛は意識が戻り、病気もだんだん癒えた。そして冥土で頼まれたことを沈の遺児に語ったところ、その遺児は泣いたが、「汚い靴下」の意味は分からなかった。喪が明け、相公の霊榻[4]を撤去したところ、神座の横木にぼろぼろの靴下があった。その由来を極めれば、通夜した老卒[5]の物であり、たまたまこちらに持ってき、朝起きてそれを忘れ、なくなったと思ったので、それ以上探さなかったのであった。文肅公が言った。

 

余尚書

余尚書靖[6]は、韶州[7]曲江の人で、天聖[8]元年、進士に合格し、さらに抜萃[9]に合格した。はじめ曲江から朝廷に挙げられることを求めようとし、同郡の進士劉某とともに行った。劉はすでに四たび計偕[10]に関わっていた。洲頭駅[11]にゆくと、祠があり、すこぶる霊験があった。余は劉に言った。「足下と万里に立身を求めるのだから、神に助けを求めてはどうだろう。」そして劉を連れ、紙銭と美酒で祠に祈り、夢の中で吉凶を示すことを願った。その晩、余が夢みると、神が召して言った。「公は禄がたいへん厚く、幾つかのに貯え、官位は尚書に到り、秦亭[12]で亡くなりましょう。劉某は福が薄く、禄は六斗あるだけだ。」公は謝して退き、目ざめた。その後、清華[13]に出入りし、声望は赫然としていた。途中、免職に遇って年を重ね、その後、工部尚書に至った。つねに近親者に言った。「関中の任には、けっして赴こうとしない。」広州をやめると、烏江にいたって病になり、金陵に入り、医者にかかった。秦淮に舟を泊め、病を推して亭に登り、その扁額を見ると「秦淮亭」とあった。公は不愉快になり、数日して薨じた。劉某は、幾度も試験に落第し、南方に転任となり、尉を代理し、十日を過ぎただけで亡くなった。李供備[14]時亮[15]が言った。

 

郎侍郎

郎侍郎簡は致仕した年、宮闕に赴き、さらに一郡を求めてその後で引退しようとした。途次、奔牛[16]で、堰に泊まった。時に盛暑で、月影は澄明であったので、従者をすべて寝かせ、船の入り口を開いて黙って坐していた。乙夜、岸の傍らで人が語った。「倅が明日こちらを通るから、どうかおまえたちは力を尽くして船を引いてくれ。倅は幼いから、驚き恐れるだろう。」郎はたいへん訝り、岸に上がって四方を振りかえると、人々はすべてぐっすり寝ており、牛たちだけが屋下に臥していた。翌日、郎が舟を留めて伺うと、にわかに監簿[17]と称するものが現れたが、年はようやく弱冠(はたち)で、こちらを通りかかったのであった。船が堰に及ぶと、牛たちは怒鳴ったり打ったりするのを待たず、風のように旋回し、まもなく堰を過ぎた。郎は太息して言った。「わたしは今まで官職を歴任民を統治し、みずから不当な仕打ちはしなかったと思っている。年老いようとしているのにどうしてさらに王事[18]に励めようか。」[19]すぐに上奏して老いたことを告げ、南のかた余杭[20]に帰った。牛の子は氏名が伝わっていないが、郎が隠してやったのであった。陳節推[21]之方が筆で示した。

 

劉密学[22]

天禧[23]年間、劉密学師道[24]が潭州[25]を治めていた。衡山[26]の民で、長沙で売卜しているものがおり、夜を冒して歩いていると、途中で旌旗儀衛が見え、先払いはたいへん荒々しかった。民はともに路傍に拱立し、先払いのものに尋ねた。「どちらの大官でございましょうか。」「潭州の劉密学さまが、南岳の北門侍郎を授けられ、明日、上官に挨拶されるのだ。」その夜、臣の江供奉というものも岳廟に来、香を焚き、廟に宿ったが、夢みると供帳[27]が紛紜[28]とし、新官が上官に挨拶するといっていた。見ると、劉密学であった。さらに、馬尚書亮[29]は時に京南[30]で知事となっていたが、巳午[31]の間、一人の道士が客舎に来て目通りし、言った。「侍郎さまはすでに広間に下られており、名刺を通じようとしません[32]。」道士は言った。「ほかでもない。潭州の劉密学が手紙を投じようとしているのだ。」典謁[33]は言った。「会おうとしているなら、どうしてはやく来なかった。」さらに言った。「今日、南岳北門侍郎が上奏を終えて初めて来たので、間に合わなかった。」そう言うと、道士は所在を失った。の仕事で馬が執務している時、典謁がそのことを告げた。馬はたいへん驚き、不吉だと思った。数日して、訃報が来た。考えると、道士が面会を求めた時は、劉が捐館した日であった。それより前、劉は長沙にいたが、ある日、書状を受けて宮闕に赴くと称し、すぐに舟を調え、荷物、親族を舟に移させ。さらに言った。「わたしは符印[34]を渡されていないから、今日はひとまず寺に泊まろう。」翌日、湯浴みが終わると、穿膝[35]して正寝に坐し、儼然として亡くなった。今、衡[36]、潭[37]の人々は厳粛にかれを祭り、礼すること岳神と同じである。祖舎人士衡[38]に伝があるとも聞く[39]。今書いたのは、馬運判[40][41]、辛都官子言の言葉を録したのである。

 

劉待制[42]

待制劉公G[43]は、彭城[44]の人で、清修[45]重厚[46]で、時人に称えられていた。金陵の知事から移って高密[47]の知事となったが、すでに病に罹っており、船に乗り、淮河に沿い、水車[48]の駅舎に着くと、亡くなった。それより前、駅に住む人々は、羊の群れを駆り、酒食、陳列の品を担ぎ、駅に入るものを見たが、よく見ると人はいず、このようにして日を重ねていた。劉が亡くなると、はじめて鬼神が迎えにきていたことを悟った。水車溝は海[49]、密州[50]の境界にあった。周都官之純が言った。

 

楊省副[51]

楊省副日華[52]がみずから言った。受験の日、数人の仲間とともに飲馬巷に借りた住むこと数ヶ月、とりたてて変わったことはなかった。ある日、合格発表を見て帰ったが[53]、おりしも春ですこぶる温かかったので、帯を解き、地に敷いて坐した。するとにわかに体が再三傾くのを感じ、地が動いたかと思った。奴隷たちに尋ねたが、気づいていなかった。楊は耳かきをとり、レンガの罅の中を引っかくと、長さは数寸の浅紅の糸が出てきたので、手で引いたところ、糸の色のような縑の衣があり、引くにしたがって長くなり、約一尺あまりになった。恐れて棄てると、その下で人が引いているかのように、徐々にすべて入っていった。坐していたものはたいへん驚き、発いて見ようとせず、すぐに旅邸に移った。わたしが渭州の推官[54]をしていた時、みずから楊公の話を承けた。

 

魏侍郎

刑部侍郎魏公瓘は、初め金部[55]員外郎で洪州[56]を治め、官を辞め、舟で大孤山[57]を通った。順風に乗り、帆を挙げてたいへん速かった。一人の下女が器を洗っていて水に落ち、助けるのが間に合わなかった。舟は速く、浪は湧き、たちまち十余里進んでしまった。公が嘆いてしばらくすると。女奴隷が突然昏迷狂語して前に来たが、挙止言語はいずれも溺れた下女であり、泣きながら言った。「わたしは不幸にして水に溺れたのは、ほんとうに運命が来たものですので、お怨みしません。しかし、ひさしくお側近くに従いながら、一朝にして非業の死を遂げたのですから、たいへん悲しまないことがございましょうか。もし時月朔に、草を賜い[58]、食事を備え、紙銭を外で焼き、わたしが享けられるようにしてくだされば、泉下でもお礼することを忘れません。」公と夫人はそれを聞くと惻然とし、すべてかれの願いを受け入れた。話していると、一隻の漁船が溺れた下女を載せ、櫂を漕ぎながら公の舟に来、告げた。「溺れる下女は浪が淀んだために出てき[59]、助けられましたのでお送りしてきました。」下女はもとより意識がはっきりしていて死んでおらず、女奴隷もふたたび言葉を降さなかった。都官郎中任粋が言った。

 

司馬少卿

太常少卿[60]司馬公里がみずから言った。成人する前、光山県で仲父[61]の待制に侍していた。門下の客張某も年少で、同じ家で勉強し、つねに資金が足りないことを苦としていた。張はふと嘆いた。「乾汞法[62]を得て、わたしの願いを叶えたいものだ。」傍らに黥卒[63]で清掃の仕事をおこなっているものがおり、笑って言った。「秀才さまはお若いですから、世間にこのことがあるのをご存じないのでございます。」張は言った。「神仙の術は、みだりに求めることはできない。それを知らないはずはあるまい。」卒は言った。「わたしはこの術を得たことがございますので、試させてください。」張はたいへん喜び、衣を脱いで質入れし、汞と炭を買った。初夜、水銀一両を鼎に入れ、小さい瓢を出し、薬を一粒とり、芥子のように投じた。さらに小さい瓦で鼎の口を覆ったが、封泥はたいへん堅かった。焼けた炭でそれを囲み、いそいで扇いでしばらくすると、鼎に風のような音がし、傾けると白金になっていた。翌日、金工を召して見させると、言った。「これは汞銀[64]です。黥卒がこの術を会得し、時折それを売りものにしていると聞きますが、もしやこの人がしたのではございませんか。」張も秘して言わなかった。張は司言った。「そんなものでもその術を知っているなら、求めるのはもとより容易だ。ゆっくりものにすればよかろう。」それから、しばしばうまい言葉で機嫌をとった。ある日、衣服を江のほとりで洗濯することを求め、去って帰らず、行方が知れなくなった。

 

梁学士

元固[65]は、博達[66]俊偉[67]の人であった。仕官せず、史館[68]に勤め、数年で亡くなった。葬儀を行えないでいると、侍姫の玉児を借り、降霊して語った。「わたしが死んでわずか二三日で、家事がかように治まらぬとは。」さらに子弟を召して戒めて言った。「わたしの家はもとより貧しいが、まだ鉛の器数十件があるし、朝廷からはかならず贈り物があり、葬式を調えるに十分なのだから、四郎中(かれの叔父である)に頼ってはならず、祖舎人[69]にだけ頼ればよい。」家人が尋ねた。「学士さまは、今はどちらにお住まいなのです。」「現在、冥土で諌議をしており、信任は軽くない。」さらに紙と筆を求め、手紙を書き、子弟に命じて某の書を持ち、某家に返し、某家からは某に貸した書を取らせ、返すものは収めさせ、取るものは得た[70]。さらに茶を求め、いっしょに一杯飲むと、手ずから封緘記名したが、本当に梁の筆蹟であった。まもなくして去ったが、酔って目ざめたかのようで、質すとまったくしどろもどろであった。進士洪正卿が言った。

 

張郎中

張郎中景晟は、洛陽の人で、去[71]侍郎の孫であった。進士に及第し、強仕[72]を越えると、屯田郎中[73]になった。熙寧[74]四年、京師で朝会に参加[75]した。すると突然、瘍が手に生じ、痛みは我慢できなくなった。時に御医の仇鼎というものがおり、もっぱら創痏[76]を治していたので、呼んで診させると、いささかの薬を採り、その上に塗った。その後、苦しみはひどく激しくなった。仇はさらによい薬を注いだが、痛みは止まず、数日で亡くなった。憔悴した際、ただこう言った。「仇鼎がわたしを殺した。かならず冥府に訴える。あなたが招いたことではない[77]。」一月あまりして、仇が薬屋に坐していると、二人の男を見たが、一人は緋衣、一人は緑衣で、鼎の家に入り、手に令状を持ち、鼎に言った。「張郎中が出したから、対質しにゆくとよい。」仇は言った。「張郎中は疽を病んで死んだのだから、わたしと関わりない。」緋衣は言った。「命を奉じて捕らえているので、そのほかのことは知らない。」仇は逃れられないことを知り、数日命を延ばすように哀願した。二人は振りかえって言った。「三日延ばすことができる。」緋衣のものは言った。「そうではあるが、印をつけてゆこう。」そして印を出し、かれの膝の下に印をつけ、見えなくなった。印をつけたところは、すぐに腫れて爛れ、創から出るものは膏油のようで、痛みは火で焼いているかのようで、三日後に死んだ。そこで初めて分かったのだが、仇は張の懐がほんとうに豊かであることを知り、先に毒薬でその創を爛れさせ、後に本当の薬を加えて療やし、手厚く報酬を得ようとしたが、助からなくなるに至ったのであった。幽鬼が来るのは、鼎だけが見、側近くのものはただ紛紜と哭いて訴えるのが見えるだけであった。ああ。庸医が病を診る時は、薬でその病をぶりかえさせ、苦しめて後に治し、厚い謝礼を得ようとするため、殺してしまうことが多いのである。すべて張君の顕報[78]のようになれば、小人の心は革まろう。

 

韓侍中

侍中韓公稚珪[79]が泰州[80]を治めていた日、に臥すこと数日、冥冥として意識がなかった。突然蘇ると、側近に語った。「先ほど手で天を捧げるのを二度夢み、しらぬまに目ざめた。」その後、英宗を藩邸で輔佐し、神宗を春宮で輔佐したので、天を捧げる瑞祥はすでに慶暦[81]年間に兆していたのであった。もとより賢臣の功業は、偶然に致すものではないことが分かる。太常博士姚復が言った。

 

張職方

張職方太寧は、宿州[82]の人で、家は財に富み、進士に及第した。性来フクロウを嫌い、着任するたび、かならず側近に命を下して(はじきゆみ)を持って駆除させていた。熙寧六年、母を失い、ひとまず符離[83]の仏寺に住んだ。かつてフクロウの殿舎の魚尾にあり、三羽の雛を育て、羽翼がだんだんしっかりし、飛んで外に躍り、鳴き嘯いてやまなかった。張はみずから弾き、弾丸を中てて殺した。その後、二羽の大きなフクロウが空を巡り、鳴く声はたいへん悲しかった。翌日、張が庭をいていると、一羽のフクロウが下ってきてかれの頭巾を撃った。驚いていると、一羽のフクロウがまた掴みにきて、かれの鬢を傷つけたが、創はあまりなかった。十日あまりして爛れ、腐敗が喉に及び、死んでしまった。ああ。子の死を悲しむのは、仁である。子の仇に報いるのは、義である。だれが禽獣に仁義の心がないと言おうか。父子の言葉は、天性である。万物の霊にあり、親愛の心はその甚だしいものであるはずだ。熙寧甲寅、乙卯の年、天下は蝗害と旱魃で、父子が食らうに至ったのは、まことに禽獣にも及ばない。悲しいことである。

 

陳少卿

太常少卿陳公希明は、以前、宿州の刺史となった。広間の奥の戸はつねに閉ざされており、言い伝えでは、開けば怪物が現れるとのことであった。陳は剛直果断であったので、それを信じず、すぐに開くように命じた。ほんとうに(あやかし)たちが昼夜寝室に現れたが、陳はあまり恐れなかった。ある日、たまたま土地堂にゆくと、土偶数十躰を見、(あやかし)かと疑い、砕くように命じ、水に投じると、(あやかし)絶えた。そもそも毎年立春に、土牛[84]が出、牛は人々に割られていたが、衙卒は牛を(むち)うつ人[85]をとり、土地の祠に置いたのであった。張供備宗義が言った。

 

前の進士通は元楊公ゥと親しく、かつて夢みると、楊が名刺を投じ、みずから「龍首山人」と称していた。慶暦初年、合格すると、母を失い、服喪中に亡くなった。その後、好事家が解釈して言った。「『龍首』は、元に合格することを言っていたのだ。『山人』は、禄がないことを称していたのだ。」と。

 

郭延卿

    郭延卿は、洛陽の人で、若くして文章徳行によって同郷人に称えられ、呂公蒙正[86]、張公斉賢[87]は及第する前、いずれもかれに師友[88]として仕えていた。太平興国[89]年間、陳搏[90]が華州[91]から召された。搏はもともと人の見立てをすることで天下に有名で、西洛[92]を通ると、三人はみな目通りした。搏は靴をさかさまに履いて[93]迎え、呂を見て言った。「先輩は元に及第し、官位は宰相に至られるはずです。張先輩は、科名は軍中[94]にございますが[95]、福禄はながく、呂さまに勝っていらっしゃいます。」しかしまったく延卿のことを言わなかった。そこで二人はともに言った。「郭さんの文章徳行は、同郷人が推輓していますから、どうかご覧になってください。」搏は言った。「もとより知っております。たいへんようございます。」そして草草に別れ去った。搏は門まで送り、張、呂を振りかえって言った。「お二人は今晩また訪ねてきてください。」時間になってゆくと、搏は言った。「お二人の前途を、わたしはもとよりすでに申しておりますが、惜しいことに延卿さまは禄が薄うございます。呂さまが相となれば、はじめて一命を受けましょう。張さまが相となれば、職官を得るはずでございます。」その後、呂はほんとうに元に合格し、相となると、延卿を薦め、校書郎[96]として試用された[97]。張が相となると、ますます郭が意を得ていないことを思い、ある晩、その子宗誨に語った。「わたしのために上奏文を作り、郭延卿を京官[98]に薦めろ。」翌日、謁見すると、にわかに上奏文求めた。宗誨は上奏文を起草したが、あやまって「京」の字を「職」の字に書いた。批准され、命が降ると、職官は、すべて搏の言った通りであった。進士魏泰はそれを陸修撰[99]経に聞き、その顛末をたいへんくわしく語った。

 

最終更新日:20171220

括異志

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[1]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/332116.htm&sa=U&ei=v68fULbQDLGiiAeA5oCwDA&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHr-yhIrtXFyyOBn911chIbVc3v7g

[2]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8ZdicB5ZdicB7238142.htm&sa=U&ei=BwkFUKS7BsqRiQe7koSyCA&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGOyqhXG_qaji30HephT4Lr_lZjFg皇帝の言行

[3]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E6%25B2%2588%25E5%2580%25AB&sa=U&ei=-9cfUOzMCMu8iAfsmIDwDg&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNG0OQbqar0trRv8YVaafzWTMeBX4Q

[4]未詳だが、霊牀であろう。屍体を置く台。

[5]この「卒」は隷卒のことであろう。下役。

[6]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/220929.htm&sa=U&ei=MLIfUIqDLO6yiQfjmoGQDg&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNFC_lyo-8wM5TXlaPBk5hgXDL6VHg

[7]http://www.google.com/url?q=http://wapbaike.baidu.com/view/741468.htm%3Fssid%3D%26uid%3Dbk_1342560337_941%26st%3D1%26hold%3D%26reforce%3D%26bd_page_type%3D1%26pu%3D%26from%3D%26ext%3D%26statwiki%3D1&sa=U&ei=rNATUJ2gEem1iQex_oHQBg&ved=0CCQQFjAF&usg=AFQjCNFbmGcYCx_bS2Tx_jQ-PhVxtinhFQ

[8]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/539150.htm&sa=U&ei=FE4FUJCREImImQW0tfhC&ved=0CBsQFjAD&usg=AFQjCNGVDgtgR8GTVyjUWl-ynVe07X469A

[9]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic8BZdic946623.htm&sa=U&ei=tpgEUIy0N4jdmAXnpbTRBg&ved=0CDEQFjAE&usg=AFQjCNFIjLVoVdbJP7EZQHzZXAlzChX_1A科挙の科目の一つ。漢典は「唐代のもの」と説くが、宋代でも継続していた。『宋史』選舉志・舉遺逸附「惟吏部設宏詞、拔萃、平判等科如舊制。」。

[10]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE8ZdicAEZdicA1261190.htm会試

[11]『宋史』地理志・韶州「乳源。乾道二年、析曲江之崇信、樂昌依化、於洲頭津置析曲江之崇信樂昌依化洲頭津置

[12]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/3190221.htm&sa=U&ei=c04FUP63DY75mAWIkKBD&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNFbDMn5u6rzTfCF4lrjyRjNRFPpfw秦人の発祥地今の甘粛省天水市清水県東北秦亭鋪郷(秦亭)。

[13]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6ZdicB8Zdic85299634.htm&sa=U&ei=tgoFUITlAeaZiAeZpP3eCA&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFb4Cv5qRK9EILn3y5S5KkeuDbxcg清高顕貴の人。

[14]官名と思われるが未詳。『宋史』に「供備庫使」という官職が多数見える。おそらくこれであろう。

[15]http://baike.baidu.com/view/5214477.htm#1

[16]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/412851.htm&sa=U&ei=t7QfUPKBFIaciAf4uIHgAQ&ved=0CCMQFjAF&usg=AFQjCNFYoGOYYFklt_aI-aGnuxk7TVFaBA

[17]原文同じ。未詳。か。

[18]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE7Zdic8EZdic8B132923.htm&sa=U&ei=Xg4FUO7TB-aZiAeZpP3eCA&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHCCcytDFPceQMagyYLB52TgTdxcQ王命により派遣された公務。

[19]このコメントと、前で述べられていたこととの脈絡が未詳。

[20]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/10435.htm&sa=U&ei=sLUfUNLaCdGbiQfw4IDIBg&ved=0CCYQFjAB&usg=AFQjCNECHmWpa4Lp3VT-xFcfxo4XNwvFdA

[21]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE8Zdic8AZdic82232900.htm度推官」の略称。度使属官、勘

[22]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5ZdicAFZdic86119850.htm&sa=U&ei=8GAFUKOrGevPmAX_tNRD&ved=0CBUQFjAB&usg=AFQjCNERIDVLdcoRobeaLfkhapoitvCkQw枢密直学士簡称

[23]http://baike.baidu.com/view/719700.htm

[24]『宋史』に伝はないが名前は何箇所かに見える。

[25]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/802756.htm&sa=U&ei=GLYfUPizIuWtiAe-qYEI&ved=0CBkQFjAA&usg=AFQjCNEfK423ejXD5Ojzpo1rI5_E0TdF8g

[26]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/10017.htm&sa=U&ei=KbYfUNjBLMediAeC-4GACQ&ved=0CCEQFjAB&usg=AFQjCNEH_evreFMJN9xGL8QlKWqZfzE6iw

[27]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBEZdic9B87820.htm宴会用の帷、用具、食等の物

[28]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicBAZdicB767733.htm&sa=U&ei=BsAIUOKNAY-fmQWcwLilCg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEEOzEFxz4YumceulUmPtLgrz2A6gんなさま

[29]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1116211.htm&sa=U&ei=xLYfUInTHu2TiQfSh4H4DQ&ved=0CBwQFjAB&usg=AFQjCNFHuOVipTsC3SnWjDbcGUKrmRoQ0A工部尚書

[30]荊南に同じいと思われる。こちらで「京南」を検索すると、『宋史』の中で、「荊南」を「京南」と表記した用例が複数見られることが分かる。

[31]巳の刻と午の刻。

[32]原文「侍郎已下廳、不敢通刺。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[33]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic85ZdicB824143.htm&sa=U&ei=HAANUJvFOKf0mAWN15D9CQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNFIHlwuM4N49qMps1bczyP00-w8ag取り次ぎ役

[34]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicACZdicA6186606.htm&sa=U&ei=fyoFUOTgAqPYmAW36fFC&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEkUwoUCoPjdJ_69Ghpjt_Q43AORA印信等憑物の総称

[35]芦芽穿膝」という言葉があり、気功の一種で、気を膝に巡らせることらしい。

[36]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/802754.htm&sa=U&ei=L9kfUKLkAY-diAegxICwCw&ved=0CB4QFjAA&usg=AFQjCNGUXJWpc5TCEjHPzNbfRaUAj24FmQ

[37]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/802756.htm&sa=U&ei=SNkfUMTbFJSciQeexYCICA&ved=0CBkQFjAA&usg=AFQjCNG7FEN6MqjBwlPvCedSjD3v7jOY1g

[38]http://www.google.com/url?q=http://www.hudong.com/wiki/%25E7%25A5%2596%25E5%25A3%25AB%25E8%25A1%25A1&sa=U&ei=-sAIUOGyHcfRmAX14OSJCg&ved=0CBoQFjAB&usg=AFQjCNHOmlwfyWYszpm4DKZBu1a_Y67LjA起居舎人。

[39]原文「或聞祖舎人士衡有傳。」。未詳。劉師道の伝を祖士衡が書いているということか。

[40]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicBFZdic9051067.htm転運使発運使の下にけられた判官。転運判官、運判官の称。

[41]http://www.google.com/url?q=http://webgis.sinica.edu.tw/bsgis/detail.php%3Fid%3D457%26s_topic%3D&sa=U&ei=5bkfULWND6bBiQeJ2YDABA&ved=0CBUQFjAB&usg=AFQjCNHRcp93aIfE6kDlVr6odhG1AA9rfQ

[42]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicBEZdic85109495.htm官名

[43]宋史』卷三百四に伝がある。

[44]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/22969.htm&sa=U&ei=pbofULTQCaqXiQfZp4GACw&ved=0CCYQFjAB&usg=AFQjCNGyox2ymqPRZ1kYXUKCpXX8KUkK3g

[45]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6ZdicB8Zdic85325041.htm&sa=U&ei=JysFUNyvNJCXmQX0r71D&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFqdnwwYpYcYR24t0a0HG24NdusRQ操行が美しいこと。

[46]原文「檢重」。未詳。とりあえずこう訳す。

[47]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/5671.htm&sa=U&ei=krsfUIWhGKjeigfv3IHYBg&ved=0CCUQFjAB&usg=AFQjCNHJVTFnWp_7B00BH33Uhv-T5aI7Xw

[48]後ろに出てくる水車溝に同じいであろう。

[49]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/429004.htm&sa=U&ei=QiwFUJyRB-WMmQW-ldVD&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFJwftUEN82FBnFM7kvoJNFbHTjNw

[50]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/419352.htm&sa=U&ei=VCwFUNrnCMeHmQWakfxC&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNE7HmmosoaGBgXjDCQ4FR23NnuVsg

[51]省の副使

[52]未詳

[53]原文「一日探榜歸」。「探榜」が未詳。とりあえずこう訳す。

[54]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/59731.htm&sa=U&ei=FL0fUNOBM7G0iQflo4GgBA&ved=0CBkQFjAA&usg=AFQjCNHHeFcdNFyy0HjfefvrnbmWwdXTTg官名

[55]『宋史』職官志・「尚書置都拘轄司、總領外財賦之數、凡錢穀帳籍、長貳選吏鈎考。其屬三:曰度支、曰金部、曰倉部。」

[56]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/473641.htm&sa=U&ei=5ssfULqaI6yTiQfQyoGgCw&ved=0CB4QFjAA&usg=AFQjCNE_rL3ne7tEVXp8mixw4BNBGwB2Cw

[57]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/25726.htm&sa=U&ei=9ssfUMj7N7CXiAeGiIDoDQ&ved=0CB4QFjAA&usg=AFQjCNFFuhWScnozUJNy5wvKrl68eu8Eow

[58]原文「賜草」。未詳。とりあえずこう訳す。

[59]原文「溺婢為浪泊而出」。未詳。とりあえずこう訳す。

[60]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/339143.htm&sa=U&ei=zMwfUMyaAseSiQfsv4HYDg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNFvn07gARGNcfRopLVKIilBQIrICA

[61]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE4ZdicBBZdicB24245.htm&sa=U&ei=Lc8EUL-GE420iQfYh_TYCA&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFu37DKvcjmFJIVpsTBYl5A2nBeTAの大弟。

[62]煉丹術の一種と思われるが未詳。グーグル検索結果こちら(『混元八景真經』乾汞坤鉛下乘三品出身大功章)には「乾汞者,父之精,坤鉛者,母之氣。二氣暗合,陰陽交會機宜,奪造化成人。又父者,木也;精者,火也;母者,金也;氣者,水也。」とあるが、いずれにしても「乾汞法」とは何なのかは分からない。

[63]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/20/ZdicE9ZdicBBZdicA554543.htm&sa=U&ei=-AEAUMfENMKHrAeh9qCdBg&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNG_6eMRwkpjyGiWnNRb3YY07EYOFg逃亡防止のために顔に刺青された兵士。

[64]未詳だが、水銀であろう。

[65]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E6%25A2%2581%25E5%259B%25BA&sa=U&ei=kOkFUO6sOcHUigeX7oTWCA&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEbkPjPJK67UMYBzpeazY5TDsl3TA

[66]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE5Zdic8DZdic9A17344.htm博学通達。

[67]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBFZdic8A14649.htm卓異壮美。

[68]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8FZdicB2214306.htm&sa=U&ei=HnAFUP3VJcXhmAWczMVC&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGTwljcL-MgvONE6c4mpurnftcubg官修する官署名。

[69]前にも出てくる。起居舎人。http://www.hudong.com/wiki/%E7%A5%96%E5%A3%AB%E8%A1%A1なぜここでいきなりこの人物に言及するのか未詳。ただ、梁固と祖士衡は同時代人。祖士衡は宋真宗大中祥符元年(一〇〇八)戊申科、梁固は宋真宗大中祥符二年(一〇〇九)己酉科の合格者。  http://www.tqxz.com/zgts_readme.asp?id=130

[70]原文「於某家取所借某書、還者收、取者得。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[71]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%25BC%25A0%25E5%258E%25BB%25E5%258D%258E&sa=U&ei=esEIUKC_OufxmAWLq_mcCg&ved=0CBoQFjAC&usg=AFQjCNFVONj7oF6vITuakd6mHMWa7kcOMQ

[72]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE5ZdicBCZdicBA129053.htm「彊仕」とも。四十の代称。

[73]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/57766.htm&sa=U&ei=8M8fUPHPHNGViQfN74H4Aw&ved=0CBsQFjAB&usg=AFQjCNGUjHzVMbZLsI0WoFdrBnpYqeel7Q

[74]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1113497.htm&sa=U&ei=H9AfUOrlJ8uciQf6uYG4Aw&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNGh7N0Xrn_Uz0C1r6GNAx9ylkIxJw

[75]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicA5Zdic89107908.htm諸侯が春季天子に朝することをといい、秋季することをという定期的に朝会に参加することを奉朝称した。

[76]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic88Zdic9B29562.htm瘡傷、受

[77]原文「仇鼎殺我、必訴於陰府、不汝致也。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[78]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic98ZdicBE57942.htm&sa=U&ei=IZcEUO77EMqNmQX74_2wBg&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNGcutQdZn-KHpVFCLkASjmOu7tzzQ仏教らかな因果報応

[79]https://zh.wikipedia.org/zh-hans/%E9%9F%A9%E7%90%A6 韓g。

[80]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/5295.htm&sa=U&ei=3tIfUJjRGIeSiQenk4CwCw&ved=0CCYQFjAB&usg=AFQjCNHkls4xLaQKsh8R3Gq0S2PgKobIlg

[81]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E6%2585%25B6%25E6%259B%2586&sa=U&ei=BNMfUNuIGO2aiQeMo4CoBw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNFG0CDzSiTZ69aAM5mqHTqELc09-A

[82]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/52412.htm&sa=U&ei=FtMfUJmjOum5iQeyoYHgBQ&ved=0CC8QFjAC&usg=AFQjCNGDkwLkPObhdY4zSDpDK0Jeqab9Kg

[83]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1089674.htm&sa=U&ei=2QQAUJvvEcftrAfmgqSqBg&ved=0CBcQFjAB&usg=AFQjCNF18kNi18NtNe3TqCG01gh2ctFOAA

[84]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5Zdic9CZdic9F319774.htm&sa=U&ei=x_D_T-zaKsPPrQeQt-WkBg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHdHH4c-9gDGnQcg0re2sHGaX412g泥土製の牛。農暦十二月に土牛を出して陰気を除いた。後に、立春の土牛を造って耕を、春耕の始を象徴した。春牛とも。

[85]これは土牛とともに作られる、牛を鞭うつ人間の土偶であろう。『春牛図』の画像検索結果参照。

[86]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/59244.htm&sa=U&ei=rdQfUPyBNsqWiQfD24GIBg&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNG28_evViwS47r7H8cX-YlCHCqNaw

[87]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%25BC%25B5%25E9%25BD%258A%25E8%25B3%25A2&sa=U&ei=xdQfULGcJMfdigfkvIC4DA&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHi8uvJPYNhXtfbkuZkwACg9LStKQ

[88]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicB8Zdic8893383.htm&sa=U&ei=0yQEUKzZDMzvmAXw6O3qCQ&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNF_f7F3qLb-gOTj_-SvFU8D_d_S_wと朋友。ひろく教えを受けられる人をもさす。

[89]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/719696.htm&sa=U&ei=-dQfUNHIE6-4iAeM_YCgBw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNGqqzxxFMtIZ9Q2NnHJRpkmsiQpGA

[90]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/50912.htm&sa=U&ei=D9UfUPrHOpGViQfR3IDAAg&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNE71fd-9RYfKoMyLZp7-lSprfA1pw

[91]http://baike.baidu.com/view/806956.htm

[92]洛陽。都の開封からみて西にあるため。

[93]原文「摶倒履迎之」。http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic80Zdic9295250.htm倒履」は出迎えを急ぎ、靴をさかさまに履くこと。客を迎えるのに熱心であること。

[94]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicA1Zdic8C302373.htm&sa=U&ei=jQAFUOfdDYaSiAfrneSxCA&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFmTFk8TDjLZY98O54N1ebMe76q_g

[95]原文「張先輩科名雖在行間」。未詳。とりあえずこう訳す。「行間」は軍中。張斉賢経略使拝命したことをさすか。

[96]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6ZdicA0ZdicA1218626.htm&sa=U&ei=3c8TUNLVHsOoiAeD64D4Bw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHGV56ejL7uvrqA9V5KRD5uWWyvTw官名

[97]原文「得試校書郎」。未詳。とりあえずこう訳す。

[98]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBAZdicAC311750.htm中央官

[99]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBFZdicAE18999.htm官名

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