巻一

宋州の狂僧

太祖が周に仕えていた時、まだ宋州の節鉞[1]を受けていなかった。時に狂僧が(はじきゆみ)を携え、荊棘の中を走り、人を振りかえって言った。「この地から天子が出よう。」さらに顕徳[2]末年、一人の青巾白衫のものが、中書政事堂[3]に登った。吏はかれの頬を打ち、言った。「おまえは何ものだ。こちらに来ようとするとは。」その人は言った。「宋州の官家(うえさま)[4]がわたしを遣わしてきて現宰相の范質[5]を捕らえさせるのだ。」質は言った。「心を病んでいるだけだ。尋ねるに足りない。」そして怒鳴って去らせた。その後、太祖はほんとうに帰徳軍節度使から禅譲を受け、宋州を昇格して応天府にし、後に南郡と号した。(一名南京という。事は国史に詳しい。)

 

黒殺神が降ること

開宝[6]年間、神が鳳翔府[7]の平民張守真の家に降り、みずから「玄天大聖玉帝輔臣」と称した。その声は嬰児のもので、はっきり聞きわけられ、遠近の民で祈り祭るものが大勢いた。太祖は京師に召し、宮廷で醮[8]を設けた。すると降って語った。「天上に宮闕が完成し、玉鎖[9]が開き、十月二十日に陛下は天に帰られよう。」藝祖[10]は懇願した。「死ぬことはもとより恐れないが、残念なのは幽州、并州を併合していないことだ。数年を延ばし、二州を恢復するのを待ってから、去っても遅くはあるまい。」神は言った。「晋王[11]には仁心があり、[12]が属しています。陛下は天にあっても、おのずから位がございます。」(時に太宗は晋で王となり、開封の尹であった。)太祖は左軍[13]に繋ぐように命じ、験がなければ罪しようとしていた。その後、事は神のお告げの通りになった。太宗は践祚すると、守真を得度して道士にし、さらに紫袍を賜い、廟を[14]の太平鎮に営ませた。神位[15]の順序、殿舎の規模は、すべて神によって授けられた。なお黒殺を尊び、翊聖と号した。仁宗朝になり、守真に追謚して伝真大法師とした。事は『翊聖別伝』[16]に見える。

 

来和天尊

刑部尚書楊公礪[17]が員外郎であった時、つねに人が引導するのを夢みたが、人はこう言っていた。「来和天尊にお目通りしろ。」天尊に会うと、年はたいへん若く、慈悲深い姿は氷玉のようであった。楊公が伏して目通りすると、天尊はたいへん手厚く慰藉した。目ざめると、そのわけが分からなかった。後に章聖皇帝[18]が東宮で徳を養い、神州を治めた時、楊は幕僚となったが、はじめて目通りして帰ると、子弟たちに言った。「わたしは先ほど皇太子に目通りしたが、わたしが以前夢みた来和天尊の姿であった」事は礪の本伝にある。

 

楽学士

楽学士史は、景徳[19]末年、西都留台御史となった。かつて一人の男を夢みたが、冠服を備え、帝命で召しにきたと称した。同行すること十余里で、にわかに壮麗な宮闕が見えたが、ほとんど人の世のものでなかった。そこで使者に尋ねると、言った。「こちらが帝所[20]だ。」謁見すると、帝は言った。「おまえの主君が後継ぎを求めているから、わたしが選んでやる。ひとまずこちらで待て。」まもなく、一人の男を導いてきたが、気色は純朴で、よく酔っているありさまに似ていた。帝は言った。「中原で後継ぎを求めているから、おまえがゆけ。辞してはならぬ。」すぐ頓首して許しを求めること再三であった。帝は言った。「ゆけ。好きなようにしろ。」そこで承諾して去った。傍らで拱立しているものが史に言った。「あれは南岳の赤脚李仙人[21]で、酒に酔っているのだ。」帝はいそいで史を前に呼び、言った。「先ほど見たのは、ご主君の後継ぎだ。」目ざめるとそれを覚えておいた。その後、ひそかにそのことを知らせ、くわしく夢を述べ、言った。「宮中でまもなく甲観[22]の慶事がございましょう。」翌年、神文[23]が生まれた。安退居士劉易がこのことを記した。

 

司馬待制[24]

故天章閣待制司馬公池[25]は、乾興[26]年間、職官で光山県[27]を治め、任期満了し、吏部で考績せられた。時に章聖[28]が臨御していた。ある晩、夢みると便殿[29]で引見せられたが、黼座[30]を仰ぎ見ると、容貌がたいへん幼かった。目ざめると、ひそかに近親者に語り、改官[31]の日はまさに遠いと思った[32]。銓司[33]は質して占い、お告げを得ようとした[34]。たまたま真宗が不予で、神文が皇太子で監国[35]しており、資善堂[36]で引見したので、睿姿[37]を仰ぎ見たが、すべて夢の通りであった。事は龐相国が撰した『司馬公神道碑』に見える。

 

後苑[38]の亭

嘉祐[39]末年、仁宗が後苑に一つの亭を建て、その扁額に「迎曙亭」と題した。まもなく、神文は天下を棄て[40]、英宗が位を継いだが、亭の名はどうして偶然のものであろうか。昔、漢の昭帝の時、上林[41]の柳の葉が虫食いで「公孫病已立つ。」の字となった[42]。霍光は昌邑[43]を廃すると、太子の孫を立てたが[44]、それが宣帝で、ほんとうに名は病已であった。唐の宣宗の晩年、長安の子供が布を疊んで水に浸し、日に向かって捩り、それを「抜暈」といったが、懿宗[45]はほんとうに鄆王からついで立った[46]。今を古と比べると、事はほんとうに符合している。古語に「(けん)(じやく)(さは)ぎて(かう)(じん)いたり[47](くわ)(くわ)()えて(しゆ)(しよく)()[48]。」とある。これは小さいことでも、大きな道理を悟れる[49]ことをいっている。まして王者が興る時、どうして最初の兆がなかろう。珍しいことである。

 

衡山[50]の僧

嘉祐八年三月、衡山県の僧某が湘潭に来て勤めをした[51]。終わると、衡山に帰ろうとし、途中、宿に泊まった。突然、夢みて道をゆくと、車乗戈甲、旌麾[52]儀衛が、地を去ること一丈あまり、空を踏んで北へ去っていった。僧が路傍に臥していると、まもなくして過ぎたので、ふたたび進んだ。さらに数台に遇うと、怒鳴られた。「上さまの車駕を犯すな。」僧は弁解して[53]免れ、尋ねた。「どんなお役人さまでしょうか。」「新しい天子が即位されるので、南岳の神さまが職を受けにゆくのだ。」僧は目ざめると、翌日、衡山にゆき、夢みたことを県知事に告げた。知事は僧を戒めて言った。「秘密にし、みだりに言うな。」数日後、仁宗[54]の遺詔が来、その夢みた晩を考えれば、正月二十九日であった。『金匱』に「武王が殷紂に勝った時、大雪は平地で一尺に満ち、夜明けに車馬が軍門に来、ゆくのに轍の迹がなかった。太公は言った。『これは四海の神及び河伯[55]が職を受けにきたのでございます。』そこで祭ると、まとめて去った[56]。」というのは、これとまさに似ている。李時明が言った。

 

南岳真人

龐相国籍[57]は致仕し、京師に住んでいた。嘉祐八年春三月、公は病となり、下旬になり、病が革まった。ある日、気息奄奄としたので、家人は集まって泣いたが、数刻すると生き帰った。翌日、紙と筆を命じ、側近くのものを遠ざけ、手ずから書き、密封し、その子に奏聞させた。家人はみなひさしく病んでぼんやりし、字を書く時に謹まなかったと言い、おさえて奏聞しなかった。公が薨じてから、開いてみると、こうあった。死んだ当初、人が導いて玉皇に朝見させた。ある大殿の庭に入り、行列したが、龐は下列にいた。拝し終わると、一人の男が玉皇の詔を伝えて言った。「龐某はひとまず帰らせろ。南岳真人とともに来るのを待て。」殿門を出ると、さらに人が先導し、言った。「南岳真人に会うべきだ。」さらにある殿庭にゆき、班に列なると、龐は前列にいた。簾を巻き終わり、拝し、じっくり見ると、仁宗皇帝であった。時に神文はひさしく不予で、龐は蘇ると、体調の小康を覚え、さらに聖躬[58]も通常の膳に復したことを聞き、ひそかに喜んで、お聞かせしようとした。三月二十七日、龐は薨じた。一日後、仁廟は上仙した。進士の時済が教院[59]の住持恵節から聞いた。

 

会聖宮

会聖宮は洛都の東八十里の臨仙橋[60]にあり、祖宗[61]の神御[62]があった。嘉祐八年三月二十九日、昼が過ぎ、宮の傍らの人が見ると王者の羽衛が道中に列なり、最後に二人が赭袍を着、蓋を張り、馬に乗って相次いで宮の前に来、見えなくなった。翌日、宮門は大きく開き、諸々の殿門の錠前は鍵がないのに開いたので、管理人はたいへん驚いた。まもなく、仁廟が上仙したことを聞いた。

 

曹門謡

天聖[63]末年及び明道[64]年間、京師の市井坊巷の人々は、物の善美なものは、「曹門好」といい、物の高く大きいものは、「曹門高」といった。老人、壮丁、少年、幼児、すべてそう言った。景祐[65]初年、神文は曹王[66]の孫娘[67]を詔冊[68]によって皇后とした。曹王は国の功臣の冠たるもので、珪爵[69]つらなること三代であったが、宸極[70]と結婚し、外戚の尊位におり、高く好ましいといえた。王は藝祖[71]を輔けて天下を定め、蜀[72]を下し、[73]平らげ、醜虜[74]に抗し、強敵を破り、百万の人々を率い、一人もみだりに殺さなかった[75]のだから、後裔が振興しているのは当然である。唐の郭尚父[76]は功が天下を覆い、官位は人臣を極め、奢侈は人欲を窮め、寿命は耆艾[77]に登った。人は、報応は、まだ十分でないといったが、曖[78]の娘[79]が憲宗[80]の元妃[81]となり、七朝[82]経、五たび母后の尊位にあり[83]、人君は子孫の礼を執るにいたり、唐の史臣は「子儀の社稷の功は滅びず、さらに福を懿安[84]に積んだ」[85]と言った。曹氏の余烈[86]は、これに近い。

 

陳靖

陳靖は、字を唐臣といい、鉅野[87]の人であった。若くして倜儻で、気節があり、『詩』『易』に通じ、范諷、石延年、劉潜に従って遊んでいたことがあった。景祐五年、進士で特奏名[88]により三礼[89]出身[90]を得、何度も邑佐[91]となったが、いずれも有能であると評判であった。孝感[92]の令に移り、公務で郡太守に逆らうと、すぐに致仕して去り、即日舟を借りて東に下り、葉山[93]に隠居した。まもなく詔が降り、太子中允で致仕し、凶年で、家を京師に移し、薬を売って自給した。朝の公卿は多く友人で、家を訪ねるとすぐに避けて去った。あるひとが金帛を贈っても、すぐ道士、乞食に分け、蓄えなかった。その妻孔氏とともに、辟穀[94]を学んでおり、しばしば歳を経ても食らわなかった。嘉祐四年、武陵の山水の美しいことを思い、家を挙げてかの地に出た。王介甫はその行いを高尚であるとし、詩を贈り、「(きみ)武陵溪(ぶりようけい)(のぼ)らんとするを()(みず)(ひがし)より(なが)(ひと)西(にし)よりす」の句があった。武陵にいたると、高梧[95](いおり)を結び、市井に住むこと数ヶ月で、その妻を亡くした。それからは人と交わらず、門を閉ざして病と称し、香を焚き、『易』を誦えるばかりであった。六年七月十七日の亭午、にわかにその子庠に命じ、紙を備えさせ、手紙を書き、張郎中顒に送って言った。「近頃、上帝は(わたし)が平生諂いませんでしたの、地下平直司を主判させることになりました。天符が下るのを待ってすぐ赴任します。」張は時に江東の漕運を司っていたが、書を得、靖は心を病んでいると思い、返事しなかった。その日、さらにみずから一通の手紙を書いたが[96]、封緘はたいへん固く、その子を戒めていた。「張公が帰郷したら、すぐにこの手紙を授け、他人に示したりこっそり開いたりしてはいけない。わたしの言葉にたがえば、おまえは不孝だ。」その子はつつしんで所蔵した。それから多く詩歌を作ったが、すべて世俗を脱する趣意であった。七年十一月十二日平旦、その子に言った。「わたしは命数が尽きた。葬儀はすべて張秘丞[97]に頼んで司らせろ。」そういうと亡くなった。時に張秘丞顒は益陽[98]に赴任しようとしており、一日前に靖と別れたが、翌日その訃を得ると、すぐ葬式を調えてやり、耆闍山[99]の傍らに葬った。治平[100]元年七月、張仲孚が江東から帰り、その子庠は父の手紙を捧げ、号哭して献じに来た。封緘はもとの通りであった。開くと、その顛末はすべて別れを述べる言葉で、中にこうあった。「平直司はかならず失います。皇嗣を議定したためです。草草。」翌年の秋、英宗[101]が大宗正から皇子になったが、靖は六年七月にこの手紙を書いたのに、すでに「選定」という言葉があった。そこで帝王が興る時は、すべて命を天に受け、ひそかに符契[102]があり、偶然でないことが分かる。これらはみな張仲挙学士の撰した『陳靖伝』からとった。

 

醴泉観

祥符年間、京師の東南隅に醴泉が湧き、亀や蛇がその傍らに現れ、飲むものは病が癒えた。すぐにその地に祥源観を営んだ。その後、災があったので、さらに修繕を加え、改めて醴泉観と号した。熙寧[103]八年、さらに朽廃に帰したので、白亜の塗装を加えるように薦めた。工事が終わり、落成すると、教坊[104]の俳優に命じ、庭で楽を奏でさせた。その日、真武[105]の影が殿舎の屋根の火珠[106]の中に現れ、その従者、神官、斾纛(はた)の類は、眺めればすべて備わっており、京師で奔走して見物するものは数千万人であった。陳虞部開が語った。

 

賈魏公

賈魏公昌朝[107]の先徳[108]は名を注といい、棣州[109]の推官[110]をしていたことがあった。公が腹の中にいた時、ある晩、夢みると緋の衣冠のもの一人が空から降り、巨きな箱で貂[111]捧げて献じ、にわかに公が生まれた。はじめの数年は、まず公に命じて瀛幕[112]をさせ、公はしばしば膝下にあった。契丹の数十万が包囲攻撃して一月を越え、(まち)はたいへん危うかったが、(まち)を守るものは空中の神が告げるのを聞いた。「(まち)にわが国の輔相がいるから、賊を憂えるな。」数日して、(えびす)は逃れ去り、(まち)には結局憂えがなかった。公は宰相から地方官となり、節鉞を擁すること二十年になろうとし、官は侍中[113]を兼ねるに至った。それならば、貴賎、遅速の運命は、もとよりひそかに定められているのである。世の仕進に汲汲とするものは、あらゆる悪事をするが、居易[114]の理に暗いのではあるまいか。

 

大名[115]の監埽

黄河は大坯[116]から下流は、氾濫の災害が多く、岸に崩落があれば、薪と牧草[117]で塞ぎ、薄いところを補い、低いところを増し、「埽岸」といっていた。一二十里ごとに、使臣に命じて巡視させた。一度埽岸するたびに、かならず薪、茭、竹[118]、杭の類数十百万で、決潰に備えた。使臣ははじめて命を受け、すべて軍令に束縛されていた。熙寧九年、大名府元城県のある監埽の使臣が埽岸を司ると、大きなしばしば来て、岸の薪と牧草を咬み、穴をあけようとしているようであったので、弩をひきしぼって射ると、頭に中たって死んだ。その夜、夢みると、一人の緑衣のものが頭に傷を負い、監埽に言った。「おまえはわたしを殺したが、すでにお上に訴えた。」さらに一月あまりして、疽を病んで死んだ。見ると二人の使者に捕らえられたが、使者は言った。「人を殺したことがあるな。」監埽はひそかに思った。「きっと黿を殺したことだ。」ゆくことわずか百里で、ある(まち)に入った。使者は言った。「わたしは用事があり、さきにもとの役所に告げねばならぬ。おまえはひとまずこちらに留まり、よそへゆくな。」二人の使者が去ると、高閣を仰ぎ見たが、金碧が輝き、二人の神門を守っており、道士観[119]でいう龍虎君[120]というもののようであった。姓名を申し、引き入れ、その閣を仰ぎ見ると、扁額があり、「朝元の閣」と題してあった。下を見ると韓侍中稚珪[121](つくえ)に着いて坐しており、侍者は数十人、神仙の儀衛[122]のようであった。そこで再拝すると、韓は来たわけを尋ねたので、黿を殺したことを申し、言った。「堤防に決潰があれば、軍令による責めを受けねばなりません。意味なく殺したのではございません。」韓は言った。「何も罪はない。陰官[123]に遇ったら、『上清格』を調べるように頼め。」すぐ門を出ると、二人の使者が来、官府の庭に引いていった。案の定、黿を殺した事を質された。そこで答えた。「わたしは埽岸[124]を司り、河流が奔騰し、増水が尋常でない時、決潰があれば、誅せられねばなりません。黿はわたしの堤防を壊していたのですから、殺さざるを得ませんでした。どうか『上清格』[125]をお調べください。」陰官格をとって見おわると、言った。「『上清格』は『世に益がなく、人に害があれば、殺して償わない。』といっている。罪はもとより加えがとうございます。」陰官は前の使者に命じて引き出させ、ゆくこと十余里、涸れ井戸に落ちたかのようになり、目ざめた。事は劉大卿襲礼に聞いた。

 

僕射庁

陳英公執中[126]は、はじめは左正言[127]から罰せられて中允[128]になり、永州[129]の酒監理し、郡守はつねに諌官として待遇していた。暇な日には、肴膳を備え、その官署で、招きもてなした。英公は座に就き、住居をあまねく見た。ふと、檐と梁の間にしばらく注目すると、侍吏をふりかえって言った。「一つの牌が見えるか。」近くのものが見えないと答えると、郡守以下はみな「牌はない」と言った。陳は笑って他の話で紛らわした[130]。帰り、家人が怪しんで尋ねると、公は言った。「一つの金字牌を見たが、『僕射庁』の三字を書いてあった。」公はそこでますます自負した。その後、二度台府[131]の長官となり、この位に着いた。司徒で致仕したが、在任していた時、官は端揆[132]であった。進士魏泰は英公を舅祖[133]と呼んでいたので、そのことを聞けた。

 

呂枢密

呂枢密公弼[134]は、丞相申公[135]の次子であった。当初、秦国[136]が妊娠して病んでいたので、除こうとし[137]、医工[138]の陳遜に命じて薬を煮させた。おりしも初夜[139]であったが、薬が煮えようとし、二鼓になると、坐したまま仮眠した。すると突然、鼎が覆ったので、諸々の薬品をとり、磨り潰してさらに煮た。にわかに厳鼓[140]が鳴ったので、また覆ったのに気づかなかった。その後、さらに煮て、火を加えた。たいへん疲れ、榻に就くと、神を夢みたが、金の甲を着、剣を持っており、陳に怒鳴った。「胎内にいるのは、本朝の宰相だ。おまえは何者だ。毒薬を加えて害しようとするとは。」陳は恐れ震えて目ざめ、夢及び鼎が覆ったことを秦国に申し、言った。「孕まれているのは貴人で、ご病気でも、殺さないべきです。」その後、宝臣を生み、熙寧年間、枢密使から地方官となって薨じた。馬運判[141]が言うのを聞いた。

 

最終更新日:201286

括異志

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[1]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE8Zdic8AZdic82198926.htm&sa=U&ei=7Jn5T-r6JtDOmAWC-tiPBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFvtyRLPWc8txNhOTXQj1Bpm7QAiwと斧授予力のしるしとした

[2]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E6%2598%25BE%25E5%25BE%25B7&sa=U&ei=9k37T_ngMYPsmAXloYWnBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEqFCi_q-zQf2XGb3pG_sqD2lCTjQ

[3]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic94ZdicBF79365.htm&sa=U&ei=Cd_6T7eAHYuamQXEzeyTBQ&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNHbR52ZII5itmiAPcB_0VyfoP7xtw宰相の執務所

[4]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicAEZdic98312356.htm皇帝への称呼。

[5]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/164578.htm&sa=U&ei=Xd_6T_f5EMPTmAW9ptiiBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNGEheIQjeKAs0ng7rYjkH1qIKS6oQ

[6]http://baike.baidu.com/view/1113211.htm

[7]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/2737786.htm&sa=U&ei=ohwfUOLdAYWViAewrYCACw&ved=0CBoQFjAA&usg=AFQjCNFIQ-jY3x0QD3Wj5rZ3c91PlV5NyQ

[8]神霊に祈祷する祭礼。http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE9Zdic86ZdicAE.htm

[9]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic8EZdic89218353.htm&sa=U&ei=sOP6T4SyC6rwmAWlmoCbBQ&ved=0CBgQFjAC&usg=AFQjCNHt-xOUdykkxMwi525B2-RghpkMjw錠前の美称。

[10]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE8Zdic89ZdicBA202229.htm&sa=U&ei=fSf6T9ztF6SPmQWx4pClBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEkntq2I9NYX1bd1PBzRlI9gcswww文徳のある祖先。ここでは宋の太祖のこと。開宝九年歿。

[11]http://baike.baidu.com/view/225842.htm

[12]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic8EZdic86283776.htm&sa=U&ei=fnv6T43kFYPMmAXb99WxBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNE26QxZNRBJg9LEyk1pOb0RrFObww帝王の継承の順序。帝位の相承は天象の運行と順序が対応しているとされた。

[13]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5ZdicB7ZdicA626310.htm&sa=U&ei=Iij6T46QK6v5mAXRn_iwBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFazOdagpO4vNWWGefcZZsz1O5Rvw漢典に適当な語釈なし。未詳。

[14]http://baike.baidu.com/view/2746574.htm

[15]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA5Zdic9E165889.htm&sa=U&ei=tXf6T6WzNK_KmAW67_CQBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFlyRIgw1diKyvKPWVL-Yh6nSxKbQ祭祀のけられる位牌。平も宗あるいは祠堂に祭られている。

[16]未詳

[17]『宋史』卷二百八十七に伝がある。

[18]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%25AE%258B%25E7%259C%259F%25E5%25AE%2597&sa=U&ei=miMfUL6CK4SViAfpjoGYBg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFChnVgOqHu_d2Cw4RtlDykXzZpFg應符稽古神功讓徳文明武定章聖元孝皇帝

[19]http://baike.baidu.com/view/1113406.htm

[20]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicB8Zdic9D117264.htm&sa=U&ei=2Cn6T5vCM6_umAWanuWEBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEvyOqYOOJc1uTLn1OBIZMNHi4c9g天帝あるいは天子居住する場所。

[21]http://baike.baidu.com/view/664036.htm

[22]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic94ZdicB2183167.htm&sa=U&ei=9yr6T8KmB-H6mAXnmf2hBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFEkDfekQKYLb-pel513XNrAsCMbg代の楼名。第一ともいう。皇太子の居所。後にひろく太子さす。

[23]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%25AE%258B%25E4%25BB%2581%25E5%25AE%2597&sa=U&ei=giUfUN3CMYSaiQfWh4GoCg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHGDf3W6t5nxfWeH_BCLPPACYakqw:體天法道極功全徳神文聖武睿哲明孝皇帝。

[24]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicBEZdic85109495.htm&sa=U&ei=CuwAUPOfFtDSmAWJ79XrCQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHPrQGmEvVZqdOSQUKb99J8AAVf2w官名。

[25]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/2335507.htm&sa=U&ei=JoX6T6PrDZDsmAXKvpGYBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNE5n5DFOXxDFiNc9_0iWAuwyktA3g

[26]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E4%25B9%25BE%25E5%2585%25B4&sa=U&ei=Dov6T9yQO-7MmAWJ6qWiCA&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNFWgAftzEo_o6FzrdKvokSSBWnYVw

[27]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/96574.htm&sa=U&ei=KYv6T5GRGKT4mAXHhPylBQ&ved=0CBcQFjAB&usg=AFQjCNFXIpxLVCX_1WQzGGdIZgzlg2r_mg

[28]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E7%9C%9F%E5%AE%97謚号應符稽古神功讓徳文明武定章聖元孝皇帝

[29]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBEZdicBF19872.htm&sa=U&ei=biv6T8v3EOLEmQXi6aGoBQ&ved=0CBUQFjAB&usg=AFQjCNFEhOwIzdRN4q_oIKpr7gtNuidC5g正殿以外の殿、帝王が休息消するところ

[30]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/19/ZdicE9ZdicBBZdicBC72883.htm&sa=U&ei=T5D5T_qzMKT0mAX1kpzXBg&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNE__QkEV8Cbepa9xfGzeJCyNT1hvA帝座。天子の座後に黼扆(ついたて)をけるので、かくいう。

[31]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic94ZdicB9313978.htm&sa=U&ei=vFv7T5zGFer1mAWE5oyRBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFMKDE08bScd3lTGyD3wGBFzgkTmA昇進任する制度。

[32]原文「時章聖臨御、一夕、夢引對於便殿、仰視黼座、甚幼沖。即覺、竊語交親、以謂改官之期方遠。」。ここの部分、なぜ「以謂改官之期方遠。」という結論になるのかが未詳。とりあえずこう訳す。

[33]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9Zdic93ZdicA8265209.htm&sa=U&ei=bJD5T9PKCo2HmQXD-eSOBQ&ved=0CBcQFjAC&usg=AFQjCNFN3gH7Oij5jRnnuEO-yxwm91vaRA授することを主管する官署。

[34]原文「銓司既質成課,將取旨」。未詳。とりあえずこう訳す。

[35]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9BZdic91183299.htm&sa=U&ei=lCz6T8-zO6GDmQXc-82EBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNH9rLYkPVigZFNVyWR1tuXvB-x2xA君主ができないため臣あるいは近摂政すること

[36]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1128263.htm&sa=U&ei=Ua_6T8_jK4iCmQW2jvWDBQ&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNHJ5_C0Q7-sAQrTrt6Xfg6Cc6PCoQ宋の皇子の読書

[37]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE7Zdic9DZdicBF189446.htm&sa=U&ei=piz6T8KQLOncmAW09NWkBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFmkJAbfINZPBYW6bNj2kaPeFlUjA皇帝の容姿。

[38]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic8E120372.htm&sa=U&ei=j5D5T6-lJ-uOmQXk882VBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHTVIiOV3Rs7DaWGIrFxyHnVvH2XQ屋後の花園。これはもちろん宮中のそれであろう。『宋史』には「後苑」の用例多数。

[39]http://baike.baidu.com/view/1867712.htm

[40]原文「神文棄天下」。「棄天下」はここでは崩御すること。

[41]苑名。秦の旧苑、初に荒廃し武帝再建拡張された。http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8A4406.htm

[42]この話、『漢書』五行志・草妖に見える。

[43]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/104799.htm&sa=U&ei=kS39T8nICKWNmQW7_OWuBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNFT3FblgQ4GxpG_XwJHLwNsvDFs6g昌邑王

[44]こちらを参照。

[45]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/33144.htm&sa=U&ei=oi_9T-2-CsnKmQXz1KSyBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHrMK0u0srZOBO2KDD7FK_WkulVPw

[46]この話は正史にも見える。『舊唐書』懿宗本紀「又大中末、京城小兒疊布漬水、紐之向日、謂之拔暈。帝果以鄆王即大位、以咸通為年號。

[47]『西京雑記』卷三「乾噪而行人至、蜘蛛集而百事嘉。」

[48]原文「火花燃而得酒食。」。出典未詳。

[49]原文「此言雖小、可以大。」。『文』曹冏『六代』「故曰、百足之虫、至死不僵、扶之者衆也。此言小、可以譬大。」李善注「司相如『諫獵書』「此言小、可以大。

[50]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/10017.htm&sa=U&ei=vSsfUObXJuqYiAfNq4CwBg&ved=0CCEQFjAB&usg=AFQjCNFQYjggTJPsNPaapI4jJhH2zetUYQ

[51]原文「衡山縣僧某來湘潭幹事」。「幹事」が未詳。とりあえずこう訳す。「幹事」に関する漢典の語釈

[52]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic97Zdic8C64332.htm&sa=U&ei=Y7_6T5qdE4-dmQXfpICpBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFJ5rYw6_SSY77nWJaohzb5uQu1ig

[53]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8Zdic87ZdicAA200000.htm

[54]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%25AE%258B%25E4%25BB%2581%25E5%25AE%2597&sa=U&ei=PS0AUJyNHsidmQWBwcjsCQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFnQDoFeLmcct_GOGdJgODhAUBlWA

[55]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB2ZdicB32576.htm河神。

[56]原文「因祀之、約束而去。」。「約束」が未詳。とりあえずこう訳す。

[57]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/223308.htm&sa=U&ei=O6j7T9bjLcvUmAXyjb2RBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNGHU1w_Cuq5hCc2mQ7gz_VfqAYtOA

[58]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic9CZdicA3194605.htm&sa=U&ei=bzX6T8ibJ6TomAXvyPSADg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHLzEeMu4i8_o_lXEsDPT83Bd9C0Q聖体。臣下が皇帝の身体を称する。皇帝をも指す。

[59]原文同じ。まったく未詳。正史にも用例なし。

[60]未詳

[61]帝王の祖先。http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA5Zdic96333708.htm

[62]帝王の肖像。http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA5Zdic9E326328.htm

[63]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9C%A3

[64]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E9%81%93_(%E5%8C%97%E5%AE%8B)

[65]http://zh.wikipedia.org/zh/%E6%99%AF%E7%A5%90

[66]http://baike.baidu.com/view/81814.htm真宗によって陽郡王に追封された。

[67]http://baike.baidu.com/view/330070.htm#sub5594291

[68]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicAFZdic8F242226.htm&sa=U&ei=xAn6T6vuE8WKmQXwjpWpBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFpfPpIj0ylAA2Mr084AoWVxYBpGw皇帝の文告。

[69]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic8FZdicAA143170.htm高貴の官職。

[70]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5ZdicAEZdicB8115008.htm&sa=U&ei=TcD6T7K8AsqJmQXG-aCQBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEhUS17KB5v9RlnYbALbAy2FqKBnw帝王

[71]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE8Zdic89ZdicBA202229.htm&sa=U&ei=fSf6T9ztF6SPmQWx4pClBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEkntq2I9NYX1bd1PBzRlI9gcswww文徳のある祖。ここでは宋の太祖のこと。

[72]http://baike.baidu.com/view/41034.htm

[73]http://baike.baidu.com/view/44786.htm#sub5768031

[74]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8Zdic91211153.htm&sa=U&ei=zqz7T8DgBKX8mAWtu-mcBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNE8hpLNVvetPNsJLOmdhIzlSv0vIAへの蔑称。

[75]原文「將百萬之眾,未嘗妄殺一人」。出典は『後漢書』和熹ケ皇后伝「初,太傅禹歎曰:「吾將百萬之眾,未嘗妄殺一人,其後世必有興者。」のようだが、曹彬の伝にはこうした言葉は見えない。

[76]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E9%2583%25AD%25E5%25AD%2590%25E4%25BB%25AA&sa=U&ei=azQfUJGkLK2XiAeD34CQDA&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEzr5ufiI1p0DcHKrLkgb5hvoamdQ尚父は大臣の尊称。

[77]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8Zdic80Zdic86347605.htm&sa=U&ei=JDb6T-X-PIiOmQXmz-CHBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNF94RsXcnfRWw8oY7n2lumw8qE-VA師長。ひろく老人をもさす。

[78]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E6%9B%96

[79]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%87%BF%E5%AE%89%E7%9A%87%E5%90%8E

[80]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%2594%2590%25E5%25AE%25AA%25E5%25AE%2597&sa=U&ei=-zYAUKHmF4iEmQX8ydHrCQ&ved=0CBsQFjAB&usg=AFQjCNEBd3UQdoTyvX0UeJSKVJ7Fm_uIaA

[81]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85Zdic8325005.htm&sa=U&ei=fTcAUOenNKfPmAXMgPnrCQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNH0OkeQ0iMNJdPba52SiAweL3GW8g正妻

[82]順宗憲宗穆宗敬宗文宗武宗宣宗

[83]「郭氏一生經唐朝七代皇帝治世、其中五朝極盡尊貴、是所謂七朝五尊。」http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%87%BF%E5%AE%89%E7%9A%87%E5%90%8E

[84]http://baike.baidu.com/view/1064616.htm

[85]原文「唐史臣謂子儀社稷之功未泯,復鍾慶於懿安焉。」。『舊唐書』后妃列伝・憲宗懿安皇后郭氏「識者以為汾陽社稷之功未泯,復鍾慶於懿安焉。」。

[86]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE4ZdicBDZdic99342790.htm&sa=U&ei=-cD6T6qGHJCbmQXCktCwBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNGT-06nwMfpg2PPpomKBWmd5a2GEgされた功績、功業。

[87]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%25B7%25A8%25E9%2587%258E%25E5%258E%25BF&sa=U&ei=NTofUJfhIPGuiQe0hYGQCA&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNGQqpKTNQqP_dy1QtMPCUzT7Bwoig

[88]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic89ZdicB9147191.htm&sa=U&ei=kDkAUP6NE7HUmAXes_ztCQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNE4L1Ro3q7kYq7uFryr-FdfA1yvOA宋代科挙制度の特殊定。進士に幾度も落第した者を合格させ、「特奏名」といい、「正奏名」と区した

[89]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic891568.htm三礼は、儒家の典『周礼』、『礼』、『礼記』の合称。科挙の科目の一つに三礼科があった。

[90]「出身」は科挙合格者の身分、格、後に学歴をも指す。http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic87ZdicBA47116.htm「三礼出身」は科挙で三礼科に合格したもの。

[91]未詳だが、県の補助官員であろう。

[92]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/4716.htm&sa=U&ei=QzwfUNaFIIqYiAf97IGgDg&ved=0CBwQFjAA&usg=AFQjCNErN3fKI0GL_zjPknFtv_iWKRdT0A湖北省の県名。

[93]未詳

[94]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8ZdicBEZdic9F21795.htm&sa=U&ei=iTsfULjVE8uaiAeG_ICwBg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNGDbsvLi-K0UJDvZayXpE6zOpNsGA五穀らわないこと道教の煉術

[95]未詳

[96]主語は楊靖。

[97]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicA7Zdic98175732.htm&sa=U&ei=pbL7T-OxKarwmAWlmoCbBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHHMZrsoCsNDW9zE1Ke6qfQdvO-5A秘丞は秘書丞のこと。官名。

[98]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/14247.htm&sa=U&ei=G5f5T8eaN4bFmAWEtuGSBQ&ved=0CBUQFjAB&usg=AFQjCNH4g22-44EritV_qu2tqn0Efw5pYQ

[99]未詳

[100]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E6%25B2%25BB%25E5%25B9%25B3_(%25E5%258C%2597%25E5%25AE%258B)&sa=U&ei=27L7T4qkDsXtmAXP6OyoBQ&ved=0CCcQFjAE&usg=AFQjCNHglNObTP0X2ujedktVCbT8UimPtQ

[101]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/133719.htm&sa=U&ei=oaQAUMrzGcqciQfEwcT2Bw&ved=0CBwQFjAB&usg=AFQjCNFIQqebbU28erQdDBd75m7OvhYiBA

[102]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicACZdicA6230587.htm&sa=U&ei=_Rn6T8yTOcnUmAXsr-idBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEbk32yvGdMICN5TVzkxppD2simvQ

[103]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E7%2586%2599%25E5%25AE%2581&sa=U&ei=8bP7T6rdCtDMmAXPobSYBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHbV0ICT6w7-XmJ1cNNl52hWuo1Hg

[104]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic95Zdic99307878.htm&sa=U&ei=kGAfUPzfBY6biQed1IGICQ&ved=0CBkQFjAA&usg=AFQjCNF3IMqvYZdVHrRKk7XOYBzsP-JrCQ廷音、舞蹈、戯曲管理する官署

[105]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9CZdic9F24633.htm&sa=U&ei=Y8P6T66aMqHwmAXk4I2IBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEraplGTnhJv6s8B81uuCdnG3DREw玄武。もともと北方七宿(斗、牛、女、虚、危、室、壁)総称、北方の神名。

[106]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE7Zdic81ZdicAB217173.htm&sa=U&ei=czf6T96CBKrYmAW56qiKBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNG5D4KJuUAVi2vwn7Bj4Yz5acIsKg珠。http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE7Zdic81ZdicAB173003.htm宝珠の一、珠石。

[107]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E8%25B3%2588%25E6%2598%258C%25E6%259C%259D&sa=U&ei=T2EfUJmICYfYigegvoGwBw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNE3OlcElG_o5nRVf2bNDTUkJXJoFA

[108]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic85Zdic88106591.htm&sa=U&ei=e8b6T9L8HImOmQXQx9CgBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHCQAaQCjwpHRLYMg1IUO3-n7AUhA人の父

[109]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/802848.htm&sa=U&ei=dWEfUMq4Ae-WiQe8oIGACQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNFmFl4As3w9RgtyzCNICb9FphDBdg

[110]http://baike.baidu.com/view/59731.htm官名

[111]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE8ZdicB2Zdic82249416.htm&sa=U&ei=ksb6T9acCuyNmQXHhsikBQ&ved=0CBwQFjAC&usg=AFQjCNH-qAf5zpiH7D2Xs8SsKGeoYuPcRg貂尾と附蝉をりにした冠冕。代、貂蝉巾とも称した。

[112]原文同じ。まったく未詳。

[113]http://baike.baidu.com/view/39138.htm

[114]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicB1Zdic85127756.htm&sa=U&ei=ijn6T_qkDK-OmQXj_7WsBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGjHmuIGfQQJwqgB7_MH9j-6HbFLA平常の情况にいること

[115]http://baike.baidu.com/view/111330.htm#sub5073016

[116]http://baike.baidu.com/view/33816.htm

[117]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE8Zdic96ZdicAA204396.htm&sa=U&ei=lhz6T9TpB83HmQWCpMiMBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEFOWStoYgp17v2ETiwXhuEo_0_5A薪柴と牧草。

[118]原文同じ。まったく未詳。

[119]未詳だが、道観のことであろう。

[120]未詳

[121]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/81834.htm&sa=U&ei=8ooAUMiAEsnKmQXClbXrCQ&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNFDp9kDhOGiUfsFPgLQNV1ygmmstw

[122]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicBBZdicAA21734.htm&sa=U&ei=kdH6T4DDEKjNmAWCyL2hBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFdLsIQ6qUVnqQgMf6HtmxqgnKL0Q仗と士の総称

[123]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE9Zdic98ZdicB4264130.htm&sa=U&ei=qUD6T7fAB83PmAXa76WlAg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNG1xSE19Lj7yinF4nqRVv64DtKqBg冥官。

[124]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5Zdic9FZdicBD87214.htm&sa=U&ei=00D6T6HyL4f6mAWfwdCwBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNH_cHiOOeihvy-8dZCOf_W7x55kXwじゃかごで築いた堤。

[125]未詳だが、上清は道家のいう三清境の一つであろう。

[126]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1008260.htm&sa=U&ei=fNL6T5XyJ67NmAXV26SfBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNE5zVwLs7ystsQ-sEzhVp0d2o1hLg

[127]http://baike.baidu.com/view/2752900.htm官名。門下省の属官。

[128]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD332783.htm&sa=U&ei=JB_6T8bvLufxmAWVp6WoBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEeYuBuvDDVyTwxBIOWb1Ib6jlzvg官名

[129]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/39062.htm&sa=U&ei=y2QfUJ3zMcW0iQeOt4GQAg&ved=0CDAQFjAC&usg=AFQjCNFUCuTFpL37Y1pKRu091d0BnfC-zw

[130]原文「陳笑而雜以他語。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[131]原文「既而兩正臺府」。http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8FZdicB0230930.htm臺府は中央政府機構。ここでは同平章事(宰相)を指していよう。陳執中は二度この官職についている。

[132]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE7ZdicABZdicAF184339.htm&sa=U&ei=-Zj5T6GaBc3PmAXa76WlAg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEQdp5OkElKnolMbg7aStVKbbqScA宰相の位。宰相は百官の首におり、国政を総攬するので、こう称する。

[133]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8Zdic88Zdic85197164.htm父のおじ。

[134]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/723559.htm&sa=U&ei=-Nf6T9v1FaL5mAXDo92dBg&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHTCvWKvXEsOQfegfCEyoQfEUEGFA

[135]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/212841.htm&sa=U&ei=P936T5jHO6aJmQWbtYyUBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNF6leo6IsdMTP2FuE77sEcJNE66gw

[136]未詳。「夫人」の隠語か。http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1658724.htm&sa=U&ei=r-76T5e1O43omAXNuMWjBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNElgpUMj7XIDVfsbbAcjrrBpOHm1A

[137]目の語は「胎児」。

[138]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic8CZdicBB211179.htm&sa=U&ei=9t36T9SDLdDMmAXPobSYBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFkvpcLwrMXW58xj9Pxtsaeuj19vw官医。後にひろく一般医生さす。

[139]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic88Zdic9D101272.htm&sa=U&ei=6iX6T-udA-XmmAW8r8mQBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFE9k4Gx3QcgjetKLqMFD870EqQxA初更

[140]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE4ZdicB8ZdicA5115945.htm&sa=U&ei=Eib6T_y4HuehmQXS69ySBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHiM-gyfJIvrXWbqsJvcCBb1IQIUAの太鼓。

[141]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicBFZdic9051067.htm転運使発運使の下にけられた判官。転運判官、運判官の称。

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