第六巻
塩官[1]上管場[2]に亭戸[3]の鄔守興という者がいた。紹興十八年夏の旱魃[4]のとき、田の苗はすべて枯れたので、隣人たちはみな県官に訴えて税を免れようとした。守興は言った。「わたしは旱魃のために訴えることは、天を訴えることだと聞いている。それにわたしの家は二税[5]がともに折塩[6]なのだから、どうして訴える必要があろう。」そこでひとり名を列ねなかった。翌年の夏にまた大旱魃となり、村はすっかり干上がったが、守興の田だけはしばしば雨を得、その年はそこだけ実り、収穫は例年に倍していた。(曹元裕省乾談)
成忠郎[7]の張玨は、靖康年間に禁旅[8]に属し。都城が陥落すると、みな敗れて盗人になった。しばしば金州[9]の山寺を通ると、僧侶たちはすでに隠れて避けていたが、僧房の後ろで女が談笑する声が聞こえた。怪しんで探したところ、大蛇が数匹蟠っており、驚いて見ていると、にわかに所在を失った。(光州[10]知事趙謙之が四事を説いた)
邵彪大夫[11]が及第する前、夢みたところ、黄衣の男が春榜[12]を持って来たので、欣然として取って見ると、榜の背に自分の姓名があり、下に「龍」の字を注してあった。目ざめるとみずから謎を解き、首席合格間違いなしだと思っていた[13]。翌春に及第し、出仕を待っていたが[14]、一年あまりで耳が聵になったので、「龍」とは聾のことをいっていたのだと悟った[15]。
宣和年間の元夕、州庁の西の酒楼に道人が来、酒を求めて痛飲したが、まったく銭を持っておらず、去るときに筆を取って詩を壁に題した。「たまたま皇都に至り月華を玩び、笙歌我を留めて流霞に酔はしむ。君に勧む俗世を悲しむことを須ゐず、天上人間ただ一家なり。」そこで懐を探り、薬一匕ばかりを取り、杯を拭うとすぐに黄金になったので、酒代を払った。翌日、都下に喧伝された。禁中ではそれを聞くと、金十両でその杯を買っていった。
奉直大夫[16]銭璘は、乾道丙戌に臨安の補佐官に任ぜられたが、かつて夢みたところ、黄色の衣冠の偉丈夫が「わたしは土宿[17]だ。」と言っていた。かれは銭をしばらくじっと見ると、「一軍で十分だ。」と言った。銭は目ざめるとその夢のことを語り、軍[18]の塁を得るはずだと言っていたが、にわかに病んで亡くなった。銭は張氏と再婚していたが、張氏は嫉妬深く、仕事せず、有り金を傾けて二人の娘を嫁がせ、家産を蕩尽したため、葬式ができなくなってしまった。葉夢錫丞相[19]が命を奉じて朱方[20]を餉軍[21]したとき、その子説之が葉のもとに窮状を告げにゆき、葉は無為軍[22]の銭綱[23]に命じて、水運[24]の資金数百千を得て葬儀を終えたので[25]、はじめて「一軍」の話の通りになった。
呂仲発顕謨が安吉[26]の知事であった時、県庁の庭園に大きな杏一株があり、十月に突然花が四朶開いたが、すべて薔薇で、あまり杏に似ていなかった。それから呂は劉恭甫[27]枢密[28]の招きに従い、年を越えないうちに、およそ四たび進級したが、これも花の瑞応であった。(仲発がみずから語った)
平江[29]の凌知県は邸宅を桑林巷[30]に建てたが、すこぶる壮麗で怪が多く、門戸がしばしばひとりでに開閉し、瓦礫が擲たれたりすることもあった。その後、病気になったので、値下げして売った。閻太尉が買って住んだが、怪はもとのままであった。人はみな化物屋敷だと言い、転売しようとしても売れなかった。おりしもお上が武憲[31]の官署を創っていたので、壊してその材木を売り、総管[32]の開兆[33]がその地を得た。そこには銀杏の樹があり、大きさは数抱えあり、枝と幹は鬱として茂り、地面をたいへん広く覆っていた。開は怪がそこを拠りどころにしていることを疑い、伐って除き、さらにその根の下を掘ったところ、遺骸一体を得たが、四肢はすべて揃っていたので、湖中に捨てた。今はまた邸宅になっているが怪はふたたび現れてはいない。(許昇助教談)
紹興丁卯の秋、枢密の沈公が臨安で教授[34]をしていたとき、漕檄[35]によって括蒼[36]で考査した。貢院に入ると[37]、朱衣のもの六人が堂に坐して会議している夢を見た。当時、考査のために来ている者がすでに六人いた。わたしも檄を受けて考査することになったが、ひとり遅れて、来ていなかった。沈は同僚にその夢のことを語り、「郭簿[38]はきっと来ないだろう。」と言った。わたしが訪ねてゆくと、みな夢に験がなかったと言った。まもなく同僚の龍游[39]県丞の親戚に受験する者がおり、挙子たちが紛紛と騒いだため、県丞は不安になり、嫌疑を避け、試験を待たないで会場を出た。考査したのは六人だけであった。
常熟県[40]破山寺[41]の僧堂は、唐朝があらたに建てたもので、柱には雷神の書がおよそ三か処あった。昔人が伝える謝仙火[42]の類である。中の一つの柱は、字がもっとも端正ではっきりと書かれており、「溪火田[43]と作る」とあった。都合五字であり、上の一字は貝と力からなり、字書にないものであった。字はすべて隸書で、逆さに書かれており、木に食い込むこと三分、彫刻らしくなかったが、それぞれ地面から一丈あまりで、旧説に身長三尺というのと異なっていた[44]。
劉先生は、河朔[45]の人で、年は六十あまり、衡岳[46]紫蓋峰[47]の麓に住んでいた。ときおり衡山県の市場に出、人の後をつけて銭を乞い、塩酪[48]を買ってすぐに帰り、尽きるとまた外出するのであった。日々竹籃をひっさげ、中に大小の筆、棕櫚の箒、麻の払子を幾つか貯え、あまねく方々の寺廟に遊び、神仏の塑像を掃除し、鼻耳の穴に塵土があると、すぐに筆で取りだすのを常とし、周囲百里の人々はみなかれをよく知っていた。県市の富豪が衲袍を贈ると、劉は欣謝して去った。数日後に見ると、元通り褐衣を着ていた。尋ねると、こう言った。「わたしはあなたに煩わされそうになりました。わたしは普段外出するとき、庵の門を閉ざさず、帰ってきて寝るときも、門を閉ざしていませんでした。袍を手に入れた後は、着ないで外出するときは、心配になりますので、錠前を買い、外出するときは戸締りするようになりました。着て外出するときは、夜に帰るとしっかり戸締りして盗賊に備えています。数日営々とし、自由にすることができません。今日はたまたま市場に着てゆきましたが、突然、一着の袍のために、このように気を使うのは、とてもおかしいと悟り、ちょうど一人の男が前を通っていましたので、すぐに袍を脱いで与えました。わたしの心は安らかになり、それ以上心配することはなくなりました。ああ、わたしはあなたに煩わされそうになりました。」かつて上封[49]にゆき、帰り路で雨に遭ったが、道端の塚に穴があいていたので、入って避けた。昏暮になると、就寝した。夜半になろうとするとき、目ざめたが、雨は止んでおり、月が穴に射して明るく、中は照らされてはっきりと見え、甓、甃は輝いていた。壁ごとに白骨一体があったが、頂から足までがすべて揃っており、ほかには一物もなかった。劉が起きあがり、すこし近づいて見ると、白骨はにわかに起きあがり、いそいで進みでて劉を抱いた。劉が力を尽くして撃つと、ばらばらになって地に落ち、ふたたび動かなかった。劉は外出するとつねに人々にこの怪異を語った。あるひとは言った。「それは怪ではありません。劉さんは真気[50]が盛んですから、枯骨をくっつけることができたのです。」今、子供が鶏の羽を抜いて、懐に置き、指で上下に引くと、すぐに動くが、羽がすこしでも折れるとすぐに動かなくなるのも、この類である[51]。
趙三翁は名は進、字は従先といい、中牟県白沙鎮[52]の人であった。孫思邈[53]に会い、道要[54]を授けられ、十年従ったとみずから言っていた。ある日、県境の淳沢村にとどまったところ、こう言われた。「けっしてここを離れるな。天子のお召しがないならば、ゆかないように。わたしがまた来て、いっしょに帰るのを待て。」宣和壬寅の歳、本当に召見され、葆真宮[55]に宿泊したが、まもなく帰ることを乞うた。徽廟[56]が欲しいものを尋ねると、奏した。「臣はもともと兵役を逃れた脱走兵ですが[57]、処罰停止の証書がございませんので、発給していただきますようにお願いします。ほかにはほしいものはございません。」即日勅旨を下し、開封の尹盛章[58]に発給を命じたが、本当に年はすでに百八歳であった。通じていない技はなく、鬼神を使い、未来の事を知ることができ、吹いたり摩ったりすると、病痛はたちまち癒えるのであった。密県[59]堕門山[60]の道友席洞雲[61]が、家を独紇嶺瀑水潭[62]の側に築くと、その清峭[63]高爽[64]を慕い、落成するとたいへん喜び、引越したが、さまざまな怪がすべてあらわれ、一年たらずで、禍がつぎつぎに起こった。席は翁に会って事情を告げた。翁は言った。「五箭の地にいるのではあるまいか。」席は言った。「地理の言説は多いですが、五箭という言葉を聞いたことがありません。どういうことでしょうか。」翁は言った。「峰の顛、嶺の背、陵の首、隴の背、土嚢[65]の口で、風門[66]に当たり、激しくてはやく飛ぶ矢のような音がするものを、風箭という。峻しい溪、急流、滝で、石を衝き、沙を走らせ、雷のような音をたて、昼夜休まないものを、水箭という。堅く、乾き、塩があり、沙があり、草木を生ぜず、泉水に潤わず、硬い鉄、腥い錫、毒虫が蟻聚し、散乱して壊壤のようなものは、土箭という。重なる崖、疊わる巘、峻しい壁、巉しい岩、鋭い峰、峭い岫で、刃を抜き、鍔を集め、歯を聳やかし、骨を露わにし、形が仏塔のようなものは、石箭という。大きな林、古い木、茂った木、草叢で、翳が日を覆い、垂れた蘿、蔓る藤が、陰森肅冽として、墟墓のようなものは、木箭という。五箭の地は、住民を射て傷つけるから、みな用いられない。周囲が囲まれ[67]、景色が明媚幽邃で、形勢がゆったりとし、土壌が肥え、泉石が甘く清ければ、上地[68]であり、天星地卦[69]に一々こだわる必要はもとよりない。おまえは帰り、わたしの言葉に従い、凶から去り、吉に就けば、おのずと恙ないはずだ。」席がその教えにすべて従うと、住居[70]は安らかになった。頓保義公孺[71]という者がおり、冷疾[72]に二年苦しみ、ほとんど骨が浮き出るに至り、百薬も効かなかった。ある日、艾を焼いていると[73]、翁が通り、その病気の原因を尋ねたので、頓は事実を告げた。翁は火艾[74]を取り去らせた。おりしも盛暑だったので、部屋の三つの天窓を開かせ、日光を入れて照らし、頓を仰臥させ、艾を揉んで腹の上にあまねく布き、約十数斤を、日光で炙った。しばらくすると、熱さが臍と腹に染みとおり、我慢できないと感じ、にわかに腹が雷のように鳴り、冷気が下から漏れ、口と鼻がすべて濃い艾の匂いとなり、病は止んだ。翌日もまたそれをおこなった。このようにして一月すると、病は癒えたが、なお百二十日それをさせた。それからは病は起こらず、もとどおり壮健となった。そして言った。「これは孫真人の秘訣だ。世人は艾炷[75]を焚くことを知っているだけで、点穴[76]を知らず、むなしく痛みを忍び、気力を損なっている。日は、太陽[77]真火[78]であり、艾はすでに腹にゆきわたっているから、さらにゆっくり照射すれば、効力はきわめて大きいが、五六七月だけが最上である。秋冬の間には、艾十数斤を腹に布き、綿衣を被せ、熨斗に炭火を盛ってゆっくり温め、濃い艾の匂いがしたらやめるのは、次善だ。」その方術はつねに珍奇でありながら理に適っており、事跡はたいへん多かった。嵩山[79]の張寿昌朋父[80]がそれを記録した。
最終更新日:2009年4月27日
[2]未詳。
[3]古代塩戸の一種。唐乾元元年(七百五十八年)第五gが塩法を定め、製塩民戸を特殊戸籍に編成し、雑役を免れさせ、もっぱら官塩を作らせた。塩を煮る場所を亭場と称するため、こういう。宋代京東、河北、両浙、淮南、福建、広南の海塩産地で、もっぱら指向政府から資本金を受けとって正塩を生産し、公に納めていた塩戸をいう。
[4]『宋史』巻三十・紹興十八年「是夏、浙東西、淮南、江東旱。」。
[5]両税法による夏と秋の税金のこと。
[6]未詳。『宋史』における用例:『宋史』巻三十九・嘉定四年「夏四月甲申、禁両浙、福建州県科折塩酒。己丑、以呉曦没官田租代輸関外四州旱傷秋税。丙午、賜黒風峒名曰效忠。戊申、出內庫銭瘞疫死者貧民。是月、四川制置大使司置安辺司以経制蛮事、命成都路提刑李埴、潼川路安撫許奕共領之。」
『宋史』巻一百八十三・塩下「康定元年、淮南提点刑獄郭維言、川峡素不産銀、而募人以銀易塩、又塩酒場主者亦以銀折歳課、故販者趨京師及陝西市銀以帰、而官得銀復輦置京師、公私労費。請聴入銀京師榷貨務或陝西並辺州軍、給券受塩於川峡、或以折塩酒歳課、願入銭、二千当銀一両。」詔行之。既而入銀陝西者少、議塩百斤加二十斤予之、并募入中鳳翔、永興。会西方用兵、軍食不足、又詔入芻粟並辺、俟有備而止。芻粟虚估高、塩直賎、商賈利之、西方既無事、猶入中如故。夔州転運使蒋賁以為入中十余年、虚費夔塩計直二十余万緡、今陝西用池塩之利、軍儲有備、請如初。詔許之。」。
文脈からして、税として納める塩のことであろう。旱魃だと塩の生産には好都合ということなのであろう。
[9]『宋史』巻八十五・京西路「金州、上、安康郡、乾徳五年、改昭化軍節度。崇寧戸三万九千六百三十六、口六万五千六百七十四。貢麩金、麝香、枳殼実、杜仲、白膠香、黄檗。県五:西城、下。洵陽、中。乾徳四年、廃淯陽県入焉。漢陰、中。石泉、下。平利。下。熙寧六年、省為鎮、入西城。元祐復。」。
[10]『宋史』巻八十八・淮南西路「光州、上、弋陽郡、光山軍節度。本軍事州。宣和元年、賜軍額。紹興二十八年、避金太子光瑛諱、改蒋州。嘉熙元年、兵乱、徙治金剛台、尋復故。崇寧戸一万二千二百六十八、口一十五万六千四百六十。貢石斛、葛布。県四:定城、上。固始、望。光山、中下。同上避諱、改期思、尋復故。仙居。中下。南渡無。」。
[12]春試合格の掲示板。春試は科挙の最終試験である殿試のこと。
[13]原文「謂必応龍首之選」。科挙で状元を龍首あるいは龍頭と称した。
[14]原文「来春登第、乃在行間。」。「行間」が未詳。とりあえずこう訳す。
[15]「龍」と「聾」は同音。
[16]『宋史』巻一百六十九・紹興以後階官「朝議大夫以上係卿、監。奉直大夫、大観新置。
朝請大夫。朝散大夫」。
[18] 「軍」は中国宋代の行政区画名。府、州、監とともに路に属する。
[19]『宋史』巻三百八十四・葉衡「葉衡字夢錫、婺州金華人。紹興十八年進士第、調福州寧徳簿、攝尉。以獲塩寇改秩、知臨安府於潜県。戸版積弊、富民多隠漏、貧弱困於陪輸、衡定為九等、自五以下除其籍、而均其額於上之四等、貧者頓蘇。徵科為期限榜県門、俾里正諭民、不遣一吏而賦自足。歳災、蝗不入境。治為諸邑最。郡以政績聞、即召對、上曰、聞卿作県有法。遣還任。」。
グーグル検索結果:
http://www。google。com/search?hl=zh-CN&q=%E8%91%89%E5%A4%A2%E9%8C%AB&lr=&aq=f&oq
[20]春秋時代呉の地名。治所は今の江蘇省丹徒県の東南。
[22]グーグルアース:
http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E7%84%A1%E7%82%BA&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
「軍」は中国宋代の行政区画名。府、州、監とともに路に属する。
http://www。zdic。net/zd/zi/ZdicE5Zdic86Zdic9B。htm
『宋史』巻八十八・淮南西路 「無為軍、同下州。太平興国三年、以廬州巣県無為鎮建為軍、以巣、廬江二県来属。建炎二年、入于金、尋復。景定三年、升巣県為鎮巣軍。崇寧戸六万一百三十八、口一十一万二千一百九十九。貢絹。県三:無為、望。熙寧三年、析巣、廬江二県地置県。巣、望。至道二年、移治郭下。紹興五年廃、六年、復。十一年、隸廬州、十二年、復来属。景定三年升軍、属沿江制置使司。廬江。望。有崑山礬場。」
[24]原文「水脚」。水路の運輸費用。http://www。zdic。net/cd/ci/4/ZdicE6ZdicB0ZdicB468203。htm
[25] 原文「乃俾部無為軍銭綱、得水腳資数百千以畢葬事」。「部」が未詳。衍字か。
[26]グーグルアース:
http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E5%AE%89%E5%90%89&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
[29]『宋史』巻八十八・両浙路「平江府、望、呉郡。太平興国三年、改平江軍節度。本蘇州、政和三年、升為府。紹興初、節制許浦軍。崇寧戸一十五万二千八百二十一、口四十四万八千三百一十二。貢葛、蛇床子、白石脂、花席。県六:呉、望。長洲、望。崑山、望。常熟、望。呉江、緊。嘉定。上。嘉定十五年、析崑山県置、以年為名。」。
[30]未詳。
[31]未詳。上級の武官か。
[33]未詳。
[34]学官名。宋代、各路の州、県学に教授が置かれ、学校課試等の事を掌管し、提督学事司の下に位した。http://www。zdic。net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic95Zdic99307901。htm
[35]原文同じ。未詳。『宋史』における用例:
『宋史』巻三百七十四・胡銓「胡銓字邦衡、廬陵人。建炎二年、高宗策士淮海、銓因御題問、治道本天、天道本民、答云、湯、武聴民而興、桀、紂聴天而亡。今陛下起干戈鋒鏑間、外乱內訌、而策臣数十条、皆質之天、不聴於民。又謂、今宰相非晏殊、枢密、参政非韓g、杜衍、范仲淹。策万余言、高宗見而異之、将冠之多士、有忌其直者、移置第五。授撫州軍事判官、未上、会隆祐太后避兵贛州、金人躡之、銓以漕檄攝本州幕、募鄉丁助官軍捍禦、第賞転承直郎。丁父憂、従鄉先王蕭楚学春秋。」
『宋史』巻四百三十三・程大昌「会行中外更迭之制、力請郡、遂出知泉州。汀州賊沈師作乱、戍将蕭統領与戦死、閩部大震。漕檄統制裴師武討之。師武以未得帥符不行、大昌手書趣之曰、事急矣、有如帥責君、可持吾書自解。当是時、賊謀攻城、而先使諜者衷甲縦火為內応。会師武軍至、復得諜者、賊遂散去。遷知建寧府。光宗嗣位、徙知明州、尋奉祠。紹熙五年、請老、以龍図閣学士致仕。慶元元年、卒、年七十三、謚文簡。」
漕司の命令か。漕司は税賦の催徴、銭糧の出納を管理し、上供及び漕運等の事を弁理する官署或いは官員。
[36]グーグルアース:
[37]原文「既入院」。「院」が未詳。とりあえずこう訳す。貢院は科挙の試験場。
[38]『睽車志』の作者郭彖を指している。「簿」は主簿のことか。ただ、郭彖が主簿をしたことがあるかについては未詳。
[39]グーグルアース:
[40]グーグルアース:
http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E5%B8%B8%E7%86%9F&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
[42]「謝僊」とも。雷部の神の名。火を司る。
[44]たとえば、『夷堅丙志』巻七では雷神の姿を「長三尺許、面及肉色皆青。首上加幘、如世間幞頭、乃肉為之、与額相連」と述べている。http://baike。baidu。com/view/121797。htm
[45]ひろく黄河以北の地区を指す。
[47]『南岳小録』「紫蓋峰、去地高四千五百丈九尺。其形嵯峨、有似麾蓋、因以為名。上有仙
人池、七真閣、下有紫蓋院基、王氏薬堂。 」。
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[49]寺名。
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[51]原文「今児童抜鶏羽置之懐、以手指上下引之、隨応、羽稍折断即不応、亦此類也。」。この部分、「応」の意味と前の部分とのつながりが未詳。とりあえずこう訳す。
[52]グーグルアース:
[55]『東京夢華録』第二巻・朱雀門外街巷「出朱雀門東壁、亦人家。東去大街、麦稭巷、状元楼、余皆妓館、至保康門街。其御街東朱雀門外、西通新門瓦子以南殺猪巷、亦妓館。以南東西両教坊、余皆居民或茶坊。街心市井、至夜尤盛。過龍津橋南去、路心又設朱漆杈子、如內前。東劉廉訪宅、以南太学、国子監。過太学、又有横街、乃太学南門。街南熟薬恵民南局。以南五里許、皆民居。又東去横大街、乃五嶽観後門。大街約半里許、乃看街亭、尋常車駕行幸、登亭観馬騎於此。東至貢院、什物庫、礼部、貢院車営務、草場。街南葆真宮、直至蔡河雲騎橋。」
[56]北宋皇帝趙佶の廟号が徽宗であるため﹐宋人は徽宗を「徽廟「と称していた。
[57]原文「臣本帰兵、去役」。宋洪邁『夷堅支志丁·趙三翁』「(趙三翁)本黄河帰兵、避役亡命、遇孫思邈於棗林、授以道要。」
[58]盛章、字は季文、朱勔の一派。籍貫、履歴は不詳。蘇州、真定府を治めたことがある。政和四年から政和八年(千百十四−千百十八)の間、王革と交替で数回開封府尹に任ぜられた。
http://www。google。com/search?hl=zh-CN&q=%E7%9B%9B%E7%AB%A0%E3%80%80%E9%96%8B%E5%B0%81&lr=
http://bbs。guoxue。com/viewthread。php?tid=456365
『続資治通鑑』巻第九十二にも名が見える。
[59]グーグルアース:http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E6%B2%B3%E5%8D%97%E5%AF%86%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
[60]未詳。
[61]未詳。
[62]未詳。
[67]原文「迴環紆抱」。「紆抱」が未詳。とりあえずこう訳す。
[69]原文同じ。天星は星。http://www。zdic。net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicA934290。htm。地卦は未詳。「天星地卦」は星回りや風水かと思われるが未詳。
[71]『宋史』巻一百六十九・紹興以後階官「成忠郎、保義郎、承節郎、承信郎以上為小使臣。」
[72]未詳。体が冷える病気か。グーグル検索結果:
http://www。google。com/search?hl=zh-CN&q=%E8%8B%A6%E5%86%B7%E7%96%BE&lr=&aq=f&oq=
[73]原文「一日方灼艾」。「灼艾」は灸を据えることであろう。
[76]灸をすえる穴に墨で点を施すこと。ここでは灸をすえる穴をよく選ぶことであろう。
[79]山名。http://www。zdic。net/cd/ci/13/ZdicE5ZdicB5ZdicA9113647。htm
http://baike。baidu。com/view/4314。htm
グーグルアース:
[80]未詳。