第六巻

塩官[1]上管場[2]に亭[3]鄔守興という者がいた。紹興十八年夏の旱魃[4]のとき、田の苗はすべて枯れたので、隣人たちはみな県官に訴えて免れようとした。守興は言った。「わたしは旱魃のために訴えることは、天を訴えることだと聞いている。それにわたしの家は二[5]ともに折塩[6]なのだから、どうして訴える必要があろう。」そこでひとり名を列ねなかった。翌年の夏にまた大旱魃となり、村すっかり干上がったが、守興の田だけはしばしば雨を得、その年はそこだけ実り、収穫は例年に倍していた。(曹元裕省乾談)

 

成忠郎[7]の張、靖康年間に禁旅[8]に属し。都城が陥落すると、みな敗れて盗人になった。しばしば金州[9]の山寺を通ると、僧侶たちはすでに隠れて避けていたが、僧房の後ろで女が談笑する声が聞こえた。怪しんで探したところ、大蛇が数匹蟠っており、驚いて見ていると、にわかに所在を失った。(光州[10]知事趙謙之が四事を説いた)

 

邵彪大夫[11]が及第する前、夢みたところ、黄衣の男春榜[12]を持って来たので、欣然として取って見ると、榜の背に自分の姓名があり、下に「龍」の字を注してあった。目ざめるとみずから謎を解き、首席合格間違いなしだと思っていた[13]。翌春に及第し、出仕を待っていたが[14]、一年あまりで耳が(つんぼ)になったので、「龍」とは聾のことをいっていたのだと悟った[15]

 

宣和年間の元夕、州庁の西の酒楼に道人が来、酒を求めて痛飲したが、まったく銭を持っておらず、去るときに筆を取って詩を壁に題した。「たまたま皇都に至り月華を玩び、笙歌我を留めて流霞に酔はしむ。君に勧む俗世を悲しむことを須ゐず、天上人間ただ一家なり。」そこで懐を探り、薬一匕(ひとさじ)ばかりを取り、杯を拭うとすぐに金になったので、酒代を払った。翌日、都下に喧伝された。禁中ではそれを聞くと、金十両でその杯を買っていった。

 

奉直大夫[16]銭璘は、乾道丙戌に臨安の補佐官に任ぜられたが、かつて夢みたところ、色の衣冠の偉丈夫が「わたしは土宿[17]だ。」と言っていた。かれは銭をしばらくじっと見ると、「一軍で十分だ。」と言った。銭は目ざめるとその夢のことを語り、軍[18](とりで)を得るはずだと言っていたが、にわかに病んで亡くなった。銭は張氏と再婚していたが、張氏は嫉妬深く、仕事せず、有り金を傾けて二人の娘を嫁がせ、家産を蕩尽したため、葬式ができなくなってしまった。葉夢錫丞相[19]が命を奉じて朱方[20]を餉軍[21]したとき、その子説之が葉のもとに窮状を告げにゆき葉は無為軍[22]の銭綱[23]に命じて、水[24]資金数百千を得て葬儀を終えたので[25]、はじめて「一軍」の話の通りになった

 

呂仲発顕謨が安吉[26]の知事であった時、県庁の庭園に大きな杏一株があり、十月に突然花が四開いたが、すべて薔薇で、あまり杏に似ていなかった。それから呂は劉恭甫[27]枢密[28]の招きに従い、年を越えないうちに、およそ四たび進級したが、これも花の瑞応であった。(仲発がみずから語った)

 

平江[29]の凌知県は邸宅を桑林巷[30]に建てたが、すこぶる壮麗で(あやかし)が多く、門しばしばひとりでに開閉し、瓦礫が擲たれたりすることもあった。その後、病気になったので、値下げして売った。閻太尉が買って住んだが、(あやかし)はもとのままであった。人はみな化物屋敷だと言い、転売しようとしても売れなかった。おりしもお上が武憲[31]の官署を創っていたので、壊してその材木を売り、総管[32]の開兆[33]がその地を得た。そこには銀杏の樹があり、大きさは数抱えあり、枝と幹は鬱として茂り、地面をたいへん広く覆っていた。開は(あやかし)がそこを拠りどころにしていることを疑い、伐って除き、さらにその根の下を掘ったところ、遺骸一体を得たが、四肢はすべて揃っていたので、湖中に捨てた。今はまた邸宅になっているが(あやかし)はふたたび現れてはいない。(許昇助教談)

 

紹興丁卯の秋、枢密の沈公が臨安で教授[34]をしていたとき、漕檄[35]によって括蒼[36]で考査した。貢院に入ると[37]、朱衣のもの六人が堂に坐して会議している夢を見た。当時、考査のために来ている者がすでに六人いた。わたしも檄を受けて考査することになったが、ひとり遅れて、来ていなかった。沈は同僚にその夢のことを語り、「郭簿[38]はきっと来ないだろう。」と言った。わたしが訪ねてゆくと、みな夢に験がなかったと言った。まもなく同僚の龍游[39]県丞の親戚に受験する者がおり、挙子たちが紛紛と騒いだため、県丞は不安になり、嫌疑を避け、試験を待たないで会場を出た。考査したのは六人だけであった。

 

常熟県[40]破山寺[41]の僧堂は、唐朝があらたに建てたもので、柱には雷神の書がおよそ三か処あった。昔人が伝える謝仙火[42]の類である。中の一つの柱は、字がもっとも端正ではっきりと書かれており、「溪火田[43]()る」とあった。都合五字であり、上の一字は貝と力からなり、字書にないものであった。字はすべて隸書で、逆さに書かれており、木に食い込むこと三分、彫刻らしくなかったが、それぞれ地面から一丈あまりで、旧説に身長三尺というのと異なっていた[44]

 

劉先生は、河朔[45]の人で、年は六十あまり、衡岳[46]紫蓋峰[47]の麓に住んでいた。ときおり衡山県の市場に出、人の後をつけて銭を乞い、塩酪[48]を買ってすぐに帰り、尽きるとまた外出するのであった。日々竹籃をひっさげ、中に大小の筆、棕櫚の箒、麻の払子を幾つか貯え、あまねく方々の寺廟に遊び、神仏の塑像を掃除し、鼻耳の穴に塵土があると、すぐに筆で取りだすのを常とし、周囲百里の人々はみなかれをよく知っていた。県市の富豪が衲袍を贈ると、劉は欣謝して去った。数日後に見ると、元通り褐衣を着ていた。尋ねると、こう言った。「わたしはあなたに煩わされそうになりました。わたしは普段外出するとき、庵の門を閉ざさず、帰ってきて寝るときも、門を閉ざしていませんでした。袍を手に入れた後は、着ないで外出するときは、心配になりますので、錠前を買い、外出するときは戸締りするようになりました。着て外出するときは、夜に帰るとしっかり戸締りして盗賊に備えています。数日営々とし、自由にすることができません。今日はたまたま市場に着てゆきましたが、突然、一着の袍のために、このように気を使うのは、とてもおかしいと悟り、ちょうど一人の男が前を通っていましたので、すぐに袍をいで与えました。わたしの心は安らかになり、それ以上心配することはなくなりました。ああ、わたしはあなたに煩わされそうになりました。」かつて上封[49]にゆき、帰り路で雨に遭ったが、道端の塚に穴があいていたので、入って避けた。昏暮になると、就寝した。夜半になろうとするとき、目ざめたが、雨は止んでおり、月が穴に射して明るく、中は照らされてはっきりと見え、(れんが)(しきがわら)は輝いていた。壁ごとに白骨一体があったが、頂から足までがすべて揃っており、ほかには一物もなかった。劉が起きあがり、すこし近づいて見ると、白骨はにわかに起きあがり、いそいで進みでて劉を抱いた。劉が力を尽くして撃つと、ばらばらになって地に落ち、ふたたび動かなかった。劉は外出するとつねに人々にこの怪異を語った。あるひとは言った。「それは(あやかし)ではありません。劉さんは真気[50]が盛んですから、枯骨をくっつけることができたのです。」今、子供が鶏の羽を抜いて、懐に置き、指で上下に引くと、すぐに動くが、羽がすこしでも折れるとすぐに動かなくなるのも、この類である[51]

 

趙三翁は名は進、字は従先といい、中牟県白沙鎮[52]の人であった。孫思邈[53]に会い、道要[54]を授けられ、十年従ったとみずから言っていた。ある日、県境の淳沢村にとどまったところ、こう言われた。「けっしてここを離れるな。天子のお召しがないならば、ゆかないように。わたしがまた来て、いっしょに帰るのを待て。」宣和壬寅の、本当に召見され、葆真宮[55]に宿泊したが、まもなく帰ることを乞うた。徽廟[56]が欲しいものを尋ねると、奏した。「臣はもともと兵役を逃れた脱走兵ですが[57]、処罰停止の証書がございませんので、発給していただきますようにお願いします。ほかにはほしいものはございません。」即日勅旨を下し、開封の尹盛章[58]に発給を命じたが、本当に年はすでに百八であった。通じていない技はなく、鬼神を使い、未来の事を知ることができ、吹いたり摩ったりすると、病痛はたちまち癒えるのであった。密県[59]堕門山[60]の道友席洞雲[61]が、家を独紇嶺瀑水潭[62]の側に築くと、その清峭[63]高爽[64]を慕い、落成するとたいへん喜び、引越したが、さまざまな(あやかし)がすべてあらわれ、一年たらずで、禍がつぎつぎに起こった。席は翁に会って事情を告げた。翁は言った。「五箭の地にいるのではあるまいか。」席は言った。「地理の言説は多いですが、五箭という言葉を聞いたことがありません。どういうことでしょうか。」翁は言った。「峰の(いただき)、嶺の背、(おか)の首、(やま)の背、土嚢[65]の口で、風門[66]に当たり、激しくてはやく飛ぶ矢のような音がするものを、風箭という峻しい(たに)、急流、滝で、石を衝き、沙を走らせ、雷のような音をたて、昼夜休まないものを、水箭という堅く、乾き、塩があり、沙があり、草木を生ぜず、泉水に潤わず、硬い鉄、腥い錫、毒虫が蟻聚し、散乱して壊壤(つちくれ)のようなものは、土箭という重なる崖、疊わる(みね)(けわ)しい壁、(けわ)しい岩、峰、(たか)(いただき)で、刃を抜き、(やいば)を集め、歯をやかし、骨を露わにし、形が仏塔のようなものは、石箭という大きな林、古い木、茂った木、草叢で、(かげ)が日を覆い、垂れた蘿、蔓る藤が、陰森肅冽として、墟墓のようなものは、木箭という。五箭の地は、住民を射て傷つけるから、みな用いられない。周囲が囲まれ[67]、景色が明媚幽邃で、形勢がゆったりとし、土壌が肥え、泉石が甘く清ければ、上地[68]であり、天星地卦[69]に一々こだわる必要はもとよりない。おまえは帰り、わたしの言葉に従い、凶から去り、吉に就けば、おのずと恙ないはずだ。」席がその教えにすべて従うと、住居[70]は安らかになった。頓保義公孺[71]という者がおり、冷疾[72]に二年苦しみ、ほとんど骨が浮き出るに至り、百薬も効かなかった。ある日、艾を焼いていると[73]、翁が通り、その病気の原因を尋ねたので、頓は事実を告げた。翁は火艾[74]を取り去らせた。おりしも盛暑だったので、部屋の三つの天窓を開かせ、日光を入れて照らし、頓を仰臥させ、艾を揉んで腹の上にあまねく布き、約十数斤を、日光で炙った。しばらくすると、熱さが臍と腹に染みとおり、我慢できないと感じ、にわかに腹が雷のように鳴り、冷気が下から漏れ、口と鼻がすべて濃い艾の匂いとなり、病は止んだ。翌日もまたそれをおこなった。このようにして一月すると、病は癒えたが、なお百二十日それをさせた。それからは病は起こらず、もとどおり壮健となった。そして言った。「これは孫真人の秘訣だ。世人は艾炷[75]を焚くことを知っているだけで、点穴[76]を知らず、むなしく痛みを忍び、気力を損なっている。日は、太陽[77]真火[78]であり、艾はすでに腹にゆきわたっているから、さらにゆっくり照射すれば、効力はきわめて大きいが、五六七月だけが最上である。秋冬の間には、艾十数斤を腹に布き、綿衣を被せ、熨斗に炭火を盛ってゆっくり温め、濃い艾の匂いがしたらやめるのは、次善だ。」その方術はつねに珍奇でありながら理に適っており、事跡はたいへん多かった。嵩山[79]の張寿昌朋父[80]がそれを記録した。

 

最終更新日:2009年4月27日

睽車志

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[1]http://baike。baidu。com/view/279599。htm

http://mapsgooglecom/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B5%99%E6%B1%9F%E7%9C%81%E5%98%89%E5%85%B4%E5%B8%82%E6%B5%B7%E5%AE%81%E5%B8%82%E7%9B%90%E5%AE%98%E9%95%87&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[2]未詳。

[3]古代塩戸の一唐乾元元年(七百五十八年)第五gが法を定め、製塩民を特殊籍に編成し役を免れさせ、もっぱらを作らせた。煮る場所を亭称するため、こういう。宋代京、河北、両浙、淮南、福建、広南の海塩産地で、もっぱら指向政府から資本金を受けとってを生産し、に納めていた塩戸をいう

http://www。zdic。net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBAZdicAD100755。htm

[4]『宋史』巻三十・紹興十八年「是夏、浙東西、淮南、江東旱。」。

[5]両税法による夏と秋の税金のこと。

http://ja。wikipedia。org/wiki/%E4%B8%A1%E7%A8%8E%E6%B3%95

[6]未詳。『宋史』における用例:『宋史』巻三十九・嘉定四年「夏四月甲申、禁両浙、福建州県科折塩酒。己丑、以曦没官田租代輸関外四州旱傷秋丙午、賜黒風峒名曰效忠。戊申、出庫銭瘞疫死者貧民。是月、四川制置大使司置安辺司以経制蛮事、命成都路提刑李、潼川路安撫許奕共領之。

『宋史』巻一百八十三・塩下「康定元年、淮南提点刑獄郭維言、川峡素不銀、而募人以銀易塩、又塩酒場主者亦以銀折課、故販者趨京師及陝西市銀以帰、而官得銀復輦置京師、公私労費。請聴入銀京師榷貨務或陝西並辺州軍、給券受塩於川峡、或以折塩課、願入銭、二千当銀一両。」詔行之。既而入銀陝西者少、議塩百斤加二十斤予之、并募入中鳳翔、永興。会西方用兵、軍食不足、又詔入芻粟並辺、俟有備而止。芻粟估高、塩直賎、商賈利之、西方既無事、猶入中如故。夔州転運使蒋賁以為入中十余年、費夔塩計直二十余万緡、今陝西用池塩之利、軍儲有備、請如初。詔許之。」。

文脈からして、税として納める塩のことであろう。旱魃だと塩の生産には好都合ということなのであろう。

[7]低級の武官名。http://bike。baidu。com/view/1083708。html?tp=2_01

[8]http://www。zdic。net/cd/ci/13/ZdicE7ZdicA6Zdic81315934。htm

[9]『宋史』巻八十五・京西路「金州、上、安康郡、乾徳五年、改昭化軍節度。崇寧三万九千六百三十六、口六万五千六百七十四。貢麩金、麝香、枳殼実、杜仲、白膠香、檗。県五:西城、下。洵陽、中。乾徳四年、廃淯陽県入焉。漢陰、中。石泉、下。平利。下。熙寧六年、省為鎮、入西城。元祐復。」。

[10]『宋史』巻八十八・淮南西路「光州、上、弋陽郡、光山軍節度。本軍事州。宣和元年、賜軍額。紹興二十八年、避金太子光瑛諱、改蒋州。嘉熙元年、兵乱、徙治金剛台、尋復故。崇寧一万二千二百六十八、口一十五万六千四百六十。貢石斛、葛布。県四:定城、上。固始、望。光山、中下。同上避諱、改期思、尋復故。仙居。中下。南渡無。」。

[11]未詳。グーグル検索結果:

http://wwwgooglecom/search?q=%E9%82%B5%E5%BD%AA&hl=zh-CN&lr=&sa=2

[12]合格の掲示板。は科挙の最終試験である殿試のこと。

http://wwwzdicnet/cd/ci/9/ZdicE6Zdic98ZdicA5314480htm

[13]原文「謂必応龍首之選」。状元首あるいは龍頭と称した

http://wwwzdicnet/cd/ci/5/ZdicE9ZdicBEZdic99344994htm

[14]原文「来春登第、乃在行間。」。「行間」が未詳。とりあえずこう訳す。

http://www。zdic。net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicA1Zdic8C302373。htm

[15]「龍」と「聾」は同音。

[16]『宋史』巻一百六十九・紹興以後階官「朝議大夫以上係卿、監。奉直大夫、大観新置。

朝請大夫。朝散大夫」。

[17]土星。http://wwwzdicnet/cd/ci/3/ZdicE5Zdic9CZdic9F319918htm

[18] 「軍」は中国宋代の行政区画名。府、州、とともに路に属する。

http://wwwzdicnet/zd/zi/ZdicE5Zdic86Zdic9Bhtm

[19]『宋史』巻三百八十四・葉衡「葉衡字夢錫、婺州金華人。紹興十八年進士第、調福州寧徳簿、攝尉。以獲塩寇改秩、知臨安府於潜県。版積弊、富民多隠漏、貧弱困於陪輸、衡定為九等、自五以下除其籍、而均其額於上之四等、貧者頓蘇。科為期限榜県門、俾里正諭民、不遣一吏而賦自足。災、蝗不入境。治為諸邑最。郡以政績聞、即召對、上曰、聞卿作県有法。遣還任。」。

グーグル検索結果:

http://wwwgooglecom/search?hl=zh-CN&q=%E8%91%89%E5%A4%A2%E9%8C%AB&lr=&aq=f&oq

[20]春秋呉の地名。治所は今の江丹徒南。

http://wwwzdicnet/cd/ci/6/ZdicE6Zdic9CZdicB1127010htm

[21]軍隊発給することhttp://www。zdic。net/cd/ci/9/ZdicE9ZdicA5ZdicB7342694。htm

[22]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E7%84%A1%E7%82%BA&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

「軍」は中国宋代の行政区画名。府、州、とともに路に属する。

http://wwwzdicnet/zd/zi/ZdicE5Zdic86Zdic9Bhtm

『宋史』巻八十八・淮南西路 「無為軍、同下州。太平興国三年、以廬州県無為鎮建為軍、以、廬江二県来属。建炎二年、入于金、尋復。景定三年、升県為鎮軍。崇寧六万一百三十八、口一十一万二千一百九十九。貢絹。県三:無為、望。熙寧三年、析、廬江二県地置県。、望。至道二年、移治郭下。紹興五年廃、六年、復。十一年、隸廬州、十二年、復来属。景定三年升軍、属沿江制置使司。廬江。望。有崑山礬場。

[23]銭幣を分けて送する小集団

http://www。zdic。net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic92ZdicB1275872。htm

[24]原文「水脚」。水路の運輸費用。http://wwwzdicnet/cd/ci/4/ZdicE6ZdicB0ZdicB468203htm

[25] 原文「乃俾部無為軍銭綱、得水資数百千以畢葬事」。「部」が未詳。衍字か。

[26]グーグルアース:

http://mapsgooglecom/maps?hl=zh-CN&q=%E5%AE%89%E5%90%89&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[27]未詳。グーグル検索結果:

http://wwwgooglecom/search?hl=zh-CN&q=%E5%8A%89%E6%81%AD%E7%94%AB&lr=&aq=f&oq=

[28]枢密使の略称http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic9EZdicA2286964。htm

http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic9EZdicA285324。htm

[29]『宋史』巻八十八・両浙路「平江府、望、郡。太平興国三年、改平江軍節度。本蘇州、政和三年、升為府。紹興初、節制許浦軍。崇寧一十五万二千八百二十一、口四十四万八千三百一十二。貢葛、蛇床子、白石脂、花席。県六:、望。長洲、望。崑山、望。常熟、望。江、緊。嘉定。上。嘉定十五年、析崑山県置、以年為名。」。

[30]未詳。

[31]未詳。上級の武官か。

[32]官名。地方の高級軍官。http://wwwzdicnet/cd/ci/9/ZdicE6Zdic80ZdicBB338029htm

[33]未詳。

[34]学官名。宋代、各路の州、学に教授が置かれ、学校課試等の事を掌管し、提督学事司の下に位した。http://wwwzdicnet/cd/ci/11/ZdicE6Zdic95Zdic99307901htm

[35]原文同じ。未詳。『宋史』における用例:

『宋史』巻三百七十四・胡銓「胡銓字邦衡、廬陵人。建炎二年、高宗策士淮海、銓因御題問、治道本天、天道本民、答云、湯、武聴民而興、桀、紂聴天而亡。今陛下起干戈鋒鏑間、外乱訌、而策臣数十条、皆質之天、不聴於民。又謂、今宰相非晏殊、枢密、参政非韓g、杜衍、范仲淹。策万余言、高宗見而異之、将冠之多士、有忌其直者、移置第五。授撫州軍事判官、未上、会隆祐太后避兵贛州、金人躡之、銓以漕檄攝本州幕、募丁助官軍捍禦、第賞転承直郎。丁父憂、従先王蕭楚学春秋。

『宋史』巻四百三十三・程大昌「会行中外更迭之制、力請郡、遂出知泉州。汀州賊沈師作乱、戍将蕭統領与戦死、閩部大震。漕檄統制裴師武討之。師武以未得帥符不行、大昌手書趣之曰、事急矣、有如帥責君、可持吾書自解。当是時、賊謀攻城、而先使諜者衷甲縦火為応。会師武軍至、復得諜者、賊遂散去。遷知建寧府。光宗嗣位、徙知明州、尋奉祠。紹熙五年、請老、以龍図閣学士致仕。慶元元年、卒、年七十三、謚文簡。

漕司の命令か。漕司は税催徴糧の出管理し、上供及び漕運等の事を理する官署或いは官

http://wwwzdicnet/cd/ci/14/ZdicE6ZdicBCZdic95220659htm

[36]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B5%99%E6%B1%9F%E7%9C%81%E5%8F%B0%E5%B7%9E%E5%B8%82%E4%B8%B4%E6%B5%B7%E5%B8%82%E6%8B%AC%E8%8B%8D%E9%95%87&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[37]原文「既入院」。「院」が未詳。とりあえずこう訳す。貢院は科挙の試験場。

[38]『睽車志』の作者郭彖を指している。「簿」は主簿のことか。ただ、郭彖が主簿をしたことがあるかについては未詳。

http://baikebaiducom/view/57937htm

[39]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B5%99%E6%B1%9F%E7%9C%81%E8%A1%A2%E5%B7%9E%E5%B8%82%E9%BE%99%E6%B8%B8%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[40]グーグルアース:

http://mapsgooglecom/maps?hl=zh-CN&q=%E5%B8%B8%E7%86%9F&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[41]現在の福寺http://baike。baidu。com/view/162686。htm

http://baikebaiducom/view/438489htm

[42]」とも。雷部の神の名。火を司る。

http://wwwzdicnet/cd/ci/12/ZdicE8ZdicB0ZdicA2256301htm

[43]http://wwwzdicnet/cd/ci/4/ZdicE7Zdic81ZdicAB146921htm

[44]たとえば、『夷丙志』巻七では雷神の姿を「三尺、面及肉色皆青。首上加、如世、乃肉之、与」と述べている。http://baikebaiducom/view/121797htm

[45]ひろく黄河以北の地区を指す。

http://wwwzdicnet/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB2ZdicB3317431htm

[46]南岳衡山。http://wwwzdicnet/cd/ci/16/ZdicE8ZdicA1ZdicA1121193htm

[47]『南岳小』「紫蓋峰、去地高四千五百丈九尺。其形嵯峨、有似麾蓋、因以名。上有仙 
人池、七真、下有蓋院基、王氏 」。

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[48]と乳酪。http://wwwzdicnet/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9BZdic90181079htm

[49]寺名。

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[50]元気。また、正の気。http://wwwzdicnet/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9CZdic9F24679htm

[51]原文「今児童抜鶏羽置之懐、以手指上下引之、隨応、羽稍折断即不応、亦此類也。」。この部分、「応」の意味と前の部分とのつながりが未詳。とりあえずこう訳す。

[52]グーグルアース:

http://mapsgooglecom/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8D%97%E7%9C%81%E9%83%91%E5%B7%9E%E5%B8%82%E4%B8%AD%E7%89%9F%E5%8E%BF%E7%99%BD%E6%B2%99%E9%95%87&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[53]唐代の道士。http://baikebaiducom/view/22427htm

[54]道教の要http://wwwzdicnet/cd/ci/12/ZdicE9Zdic81Zdic9350853htm

[55]『東京夢華録』第二巻・朱雀門外街巷「出朱雀門東壁、亦人家。東去大街、麦稭巷、元楼、余皆妓館、至保康門街。其御街東朱雀門外、西通新門瓦子以南殺猪巷、亦妓館。以南東西両教坊、余皆居民或茶坊。街心市井、至夜尤盛。過龍津橋南去、路心又設朱漆杈子、如前。東劉廉訪宅、以南太学、国子監。過太学、又有横街、乃太学南門。街南熟薬恵民南局。以南五里許、皆民居。又東去横大街、乃五嶽観後門。大街約半里許、乃看街亭、尋常車駕行幸、登亭観馬騎於此。東至貢院、什物庫、礼部、貢院車営務、草場。街南葆真宮、直至蔡河雲騎橋。

[56]北宋皇帝佶の号が徽宗であるため宋人は徽宗「徽「と称していた。

http://baikebaiducom/view/1569475html

[57]原文「臣本帰兵、去役」。宋洪『夷支志丁·三翁』「(趙三翁黄河兵、避役亡命、遇思邈林、授以道要。

[58]盛章、字は季文、朱勔の一派。籍、履は不。蘇州、真定府を治めたことがある。政和四年から政和八年(千百十四−千百十八)の、王革と交替で数回封府尹に任ぜられた。

http://www。google。com/search?hl=zh-CN&q=%E7%9B%9B%E7%AB%A0%E3%80%80%E9%96%8B%E5%B0%81&lr=

http://bbs。guoxue。com/viewthread。php?tid=456365

続資治通』巻第九十二にも名が見える。

http://wwwguoxuecom/shibu/xzztj/content/xtj_092htm

[59]グーグルアース:http://mapsgooglecom/maps?hl=zh-CN&q=%E6%B2%B3%E5%8D%97%E5%AF%86%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[60]未詳。

[61]未詳。

[62]未詳。

[63]挺抜。http://wwwzdicnet/cd/ci/11/ZdicE6ZdicB8Zdic85325101htm

[64]高大敞。http://wwwzdicnet/cd/ci/10/ZdicE9ZdicABZdic9852315htm

[65]洞穴。http://wwwzdicnet/cd/ci/3/ZdicE5Zdic9CZdic9F319976htm

[66]の出入http://wwwzdicnet/cd/ci/4/ZdicE9ZdicA3Zdic8E69459htm

[67]原文「迴環紆抱」。「紆抱」が未詳。とりあえずこう訳す。

[68]肥沃な土地。http://www。zdic。net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8A3912。htm

[69]原文同じ。天星は星。http://wwwzdicnet/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicA934290htm地卦は未詳。「天星地卦」は星回りや風水かと思われるが未詳。

[70]http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicB1Zdic85134184。htm

[71]『宋史』巻一百六十九・紹興以後階官「成忠郎、保義郎、承節郎、承信郎以上為小使臣。」

[72]未詳。体が冷える病気か。グーグル検索結果:

http://www。google。com/search?hl=zh-CN&q=%E8%8B%A6%E5%86%B7%E7%96%BE&lr=&aq=f&oq=

[73]原文「一日方灼艾」。「灼艾」は灸を据えることであろう。

[74]もぐさ。http://wwwzdicnet/cd/ci/4/ZdicE7Zdic81ZdicAB162648htm

[75]もぐさhttp://wwwzdicnet/cd/ci/5/ZdicE8Zdic89ZdicBE234270htm

[76]灸をすえる穴に墨で点を施すこと。ここでは灸をすえる穴をよく選ぶことであろう。

http://www。zdic。net/cd/ci/9/ZdicE7Zdic82ZdicB947263。htm

[77]旺盛な陽気。http://wwwzdicnet/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicAA295860htm

[78]http://wwwzdicnet/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9CZdic9F24605htm

[79]山名。http://wwwzdicnet/cd/ci/13/ZdicE5ZdicB5ZdicA9113647htm

http://baikebaiducom/view/4314htm

グーグルアース:

http://mapsgooglecom/maps?q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8D%97%E7%9C%81%E9%83%91%E5%B7%9E%E5%B8%82%E7%99%BB%E5%B0%81%E5%B8%82%E5%B5%A9%E5%B1%B1&hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[80]未詳。

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