第四巻

姚大夫安礼はかつて夕方に駅舎に宿ったが、しもべたちはすでに寝ていた。ときに夏の夜で、熱くて寝られなかったので、ひとり起きると、(ついたて)の後ろを散歩していた。すると庭で簌簌と音がしたので、(ついたて)の隙間から窺うと、一人の叟がおり、白髪は皤然として、素衣に冠を頂き、身長はわずか一尺ばかり、杖をついてゆっくり歩き、頭を挙げて月を見、手を額に当てていた。姚ははじめは神だと思い、息を潜めて驚かそうとしなかった。にわかに蜣螂[1]が飛んできてその前を過ぎると、叟はすぐに杖をあげ、一打ちして地に落とし、俯いて拾うと裂いて食らった。そこで、姚は剣を抜いて追い、庁の側の回廊の後ろに回り、堆肥のなかに駆けこんで消えた。そこで剣を挿して印をつけた。翌朝、しもべに命じて発かせたところ、白い(ハリネズミ)[2]のたいへん大きなものを得た。傍らには古い鉄の茶托[3]、火箸それぞれ一つがあったが、そもそもその冠と杖であった。そこで殺した。駅舎は古い(あやかし)が多かったが、それからは絶えた(陳襄仲謨が二事を語った)

 

張無尽の子龍図公は、家が義興[4]城外にあった。ゆえあってしもべを遣わし、県城に入らせたが、舟でゆくこと数里で、日が没しようとした。見ると一人の女が岸を歩いており、手に油罌[5]を提げ、舟に向かってきた。しもべがよく見ると、家で昔はしためをしていた招喜であったが、名を呼んでも応えず、ますます速く去っていった。舟を停めて追いついたとき、まさにかれがすでに死んでいることに気づき、尋ねた。「今どこに住んでいるのだ。」女は遠い岸の側の古い木を指して言った。「あちらにおります。」さらに尋ねた。「油を求めて何に使うのだ。」「わたしは全身が傷ついて裂けていますが、この(あぶら)で潤すと、痛みがすこし癒やされるのでございます。」そしてしもべに言った。「郭門[6]の外の精舎の老僧は、戒律をきびしく守り、ただ日々『金光明経』を誦えています。わたしのために十部を誦え、冥福を祈ることを求めれば、すぐに往生いたします。」しもべはその言葉通りに、僧を訪ねて経を誦えさせた。帰るときに例の場所を過ぎ、木を撃って呼ぶと、にわかに白衣の叟が木の穴中から出てきて、言った。「招喜は経を誦えていただき、すでに転生しました。今度はわたしのために十部を誦えてくだされ。」しもべがかれに何ものなのかを問おうとすると、突然ふたたび見えなくなった。後日、ふたたび僧を訪ねて経を誦えさせたが、「木中老人」として回向した。

 

宋左蔵睍[7]が言った。家はもともと漳州[8]にあったが、邸宅に畑があった。塀の角には古い塚があり、整地のために掘ったところ、石の墓誌を得たが、「州知事李公の墓」と題していた。石を重ねて蔵にしており、棺には朽ちた骨が一体あったが、他の物はなかった。棺の側には、石で乳母が嬰児を抱いて乳を飲ませているさまを彫刻してあったが、それが何なのかは分からなかった。

 

士人李武錫は病になり、背骨の間だけが痛くて我慢できなかった。百薬で治療したが効かず、そのようにして数十年が過ぎていた。のちにその父を改葬するため、棺を易えてその骸を移したところ、背骨の関節の間に大きな白い虫がいた。弾いて除いたところ、それから背の痛みはにわかに癒えた。大任承務談)

 

宗室の趙伯琯が明州[9]の小溪[10]におり、遊侠で義気を尚び、たいへん大きな邸宅を建てた。かつて夕方に(たにがわ)の辺を歩いていたところ、(もののけ)がその宅門から出るのを見たが、それは熏籠[11]で、ひとりでよたよた進み、ゆっくりとその前を過ぎた。驚いて顧みると、いそいで進み、水に入って没した。にわかに伯琯は死んだ。(張漢卿省幹談)

 

常州[12]華厳寺の僧道良は、知庫[13]をすること数年、横領したものが多かったが、にわかに病に臥して危篤となった。長老の道素が夜に夢みたところ、道良が来て言った。「しばらく近くの村に養生しにゆきます。」朝になると道良がすでに亡くなったことが知らされた。にわかに、近くの荘園で牛が夜に犢を生んだが片目を病んでいたことが報告されたが、道良はもともと眇であったので、みな驚き訝った。後日、道素は近くの荘園を巡視し、犢を捕らえて見たところ、犢は道素を見て涙を落とした。素は言った。「おまえは知庫か。業報はこのようなものなのだから、わたしに従って寺に帰り、(いしうす)をひき、麺を作り、人々に供し、宿債を償え。」犢はすぐに肩輿に従ってゆき、駆りたてる必要はなかった。寺に来ると、日々小麦粉二石を作った。一定の仕事量があり、主人がひそかに量を増やしても、犢は一定の仕事量に到達するとすぐに止まってしまい、追いたてても進まなかった。ある人が知庫良公と呼んで慰労すると、涙を落とした。童僕がいって道良の名を罵った。「長老さまのものを盗んだ泥棒め[14]。」すると目を怒らして突進し、人力では制することができなかった。平素は僧の食事を食らわせていたが、酸豏[15]が出されると、一度に五十個を食らうのであった。僧従簡はみずからその事を見たと言った。

 

紹興辛未の、四明の豪商が海に浮かんでゆき、十余日で、とある山の麓に到った。連日の風涛で、進めなかった。商人は上陸し、散歩したが、まったく住民はおら道はきわめて高峻であった。攀じ登り、絶頂に至ると梵宮(てら)があった。(あお)い瓦の建物は大きく、多く、金字の匾額の字は読めなかった。商人はそこで遊んだが、闃然として人がおらず、丈室[16]では僧がひとり禅榻に坐しているばかりであった。商人が進んで挨拶すると、僧は起きあがり、迎えて坐した。商人は言った。「舟がひさしく風に阻まれておりますので、お坊さま五百人に食事をとらせ、ご加護をお願いしようと思います。」僧は言った。「かしこまりました。」翌日を約束の日とした。商人は舟に帰り、約束通りにゆくと、僧堂はすでに(くつ)でいっぱいであったが、どこから来たかは分からなかった。斎食が終わると、僧は商人を引いて小さい軒に入り、香を焚き、茶をいれた。見ると窓の外の竹数本は、幹と葉が()のようであった。商人がつよく一二本を求めると、言った。「中国に持ってかえれば、珍しく見えましょう。」僧はみずから立ちあがると一本を切って与えた。商人は持ってかえり、すぐに追い風を得たので、舟の先頭でその竹を切って杖にしたが[17]刀で削るたびに、かならず刃から光がでるので、ますます驚いた。すすんでとある国に着き、たまたまその杖を提げて岸に登った。老叟はそれを見ると、驚いた。「どこから手に入れた。(かたみ)の真と換えてくれ。」商人はその金を貪って与えた。叟は言った。「君は普陀落伽山にいったのだ。これは観音の座の後ろにある旃檀林の紫竹[18]だ。」商人ははじめて驚き悔やみ、舟に帰ると、切れ端を取って珍蔵した。ひさしく病んで医薬の効かない者がいたが、切れ端をとって煎じて湯薬にして飲むとかならず癒えた。(陳仲謨知録談)

 

程泳之沂[19]は平江崑山の宰となり、任期満了し、その弟鉅は府の監倉[20]で、その家族をつれて居住していた。ある日、泳之が妻と向かいあって食事していると、突然髑髏が空から几案に落ちてきたので、家中が驚いた。泳之は祭文を作って埋めた。数日足らずで、泳の妻は病み、病は日に日に劇しくなった。ある晩、幽霊に憑かれ、こう語った。「わたしは李貫だ。おまえは以前わたしの妻であったが、ひどく嫉妬深かった。三人のはしためが懐妊したが、いずれも手ずから殺した。今、わたしに跡取りがないのは、もっぱらおまえのせいだ。わたしが死んだあと、資産が多かったのに、わたしのために盛大に仏事を行って追悼せず、有り金すべてを、再婚の資金にしたな。わたしはすでに冥府に訴えたぞ。おまえを放ってはおかないぞ。」妻は意識を失った。幽霊を祓うのに長けた道士がいたので、見せたところ、道士は紙を取り、密呪を誦えて童子に見せた[21]。童子は恐れた。「庭に人がおり、袍を着、笏を持って立ち、傍らに三人の娘がいますが、みなざんばら髪で血を流し、庭で一人の婦人を掴み、たいへんきびしく鞭うっています。」程が見ると本当にそうであり、鞭うちに遭っているのは妻であった。道士は言った。「すでに冥府に捕らえられていますから、手遅れです[22]。」程が弟子にすこし正気づいたら口訣を誦えるようにと懇願すると[23]、道士はさらに法書篆文を作って焼いた[24]。童子はさらに見ると、言った。「鞭うつ者はすでに鞭うつのをやめました。」程がすぐに入ってその妻を見ると、本当にだんだんと意識が戻り、話せるようになり、尋ねると、以前、李貫に嫁いで妻になり、本当にかつてはしためを殺したので、訴えられたと言った。そこで程に頼んで篋中の品々を集めさせたところ、すべて貫の遺品であったので、売って僧に食事を与えることができた。その後、亡くなった。(陳監倉鉅談)

 

ある士人が三衢[25]の仏寺に寓居していたところ、突然、娘が夜その部屋に入ってきた、どこから来たかと尋ねると、家が近くにあると言った。その姓氏を問いただすと、すぐには答えず、「慕ってまいりましたのに、なぜお疑いになるのでしょう。」と言った。士人は惑わされた。それから毎晩来たので、ひたすら問いただしたが、けっして語らなかった。一月あまりして、士人がふたたび問いただすと、娘は言った。「自分からお話ししようとしておりますから、訝らないでください。わたしは、本当は人ではございませんが、幽霊でもございません。わたしは数代前の郡の副官馬公の第×女で、幼名は絢娘といい、官署で死に、こちらに埋葬されました。あなたがいらっしゃる隣の空き部屋がそれでございます。しかしいずれ蘇り、寝所にながく接することになっており、今、体はすでに蘇っています。あなたが斧、鍤を用意し、夜にひそかに棺を開けるときは、わたしは中からお助けしましょう。しかし棺が開くと、力を施せなくなり、然として熟睡しているかのようになってしまいます。あなたは耳に近づいてわたしの幼名と排行を連呼すれば、かすかに目を開くはずですから、すぐに抱えて臥榻にゆかせ、美酒を飲ませ、安眠させ、目ざめれば蘇ります。申したことに従ってくださいますなら、蘇る日は、あなたの賜物でございますから、終生箕帚を奉ずることを誓いましょう。」士人がその言葉通りにすると、本当に蘇り、言った。「こちらにいることはできません。」衾を抜け、腕を執り、士人に旅装を整えさせ[26]ともに逃げさり、湖湘の間を転々とし、数年で二子を生んだ。その後、馬補佐官が三衢に来てこの女を改葬しようとしたところ、仮埋葬が壊されており、棺は空で中身がなかったので、おおいに驚いてお上に知らせ、寺僧をすべて捕らえて質したが、事情が分からなかった。馬は、盗人に金帛を発いて取られたのなら、屍がなくなるはずはないと疑った。ある僧が、数年前に士人が隣にしばらく住んでいたこと、別れを告げないで去ったことを思い出した。探すと、湖湘の間で見つけた。士人は以前独身だったのに、妻子がいることを訝り、娶った相手について尋ねると、馬氏の娘だと言った。そこで士人を捕らえ、妻を娶った事情問うた。女は言った。「わたしの手紙を父に届けてください。すでに身を人に委ねましたから、お父さま、お母さまはご心配なさらないでくださいと。」父が手紙を得たところ、本当にその亡女の手紙であったので、老僕に会いにゆかせると、娘が出てきてともに語り、家人のことをあれこれ問うたが、一つの誤りもなかった。士人はいささかの顛末を述べたが、棺を開いたことは隠した。馬もその怪異に関わっていることを憎み、それ以上問いつめず、その娘に会うことを忌み、ただ人を遣わして慰問させただけであった。(盧県丞連徳広が二事を語った)

 

待制[27]の盧知原[28]が某州を治めていた時、ある軍卒の妻が子を生み、一年足らずで死んだ。埋葬すると、かならず夜に帰ってきてその子に乳を与え、卒が語りかけても、返事しなかった。さらに「死者と生者は路を異にしているのに、生きている子が亡者の乳を飲むのは、よくないだろう。」と言っても、やはり返事しなかった。このようにして毎晩来たので、卒は恐れかつ訝った。「本当に亡妻だとは限るまい。怪物の仕業かも知れないし、除かなければかならず倅を害しよう。」そこでひそかに刃を(むしろ)の下に置いておいた。その夜ふたたび来たので、刃を挙げて切りつけたところ、すぐに消えた。翌朝、卒が臥して起きないでいると、門を叩く者があった。出迎えたところ、それは捕吏で、すぐにかれを捕らえて言った。「おまえは人を殺したな。」血の足跡があったので蔵から辿り[29]、まっすぐ妻の墓にゆくと、屍が塚の上に臥しており、腰に刃を受け、血を流して倒れていた。卒は本当に人を殺していないと言ったが、屍の容貌衣服を見ると、亡妻さながらであった。そこでみずから事情を語り、隣人は妻が本当に病死であったこと、葬って久しくなろうとしていることを証してやった。そこで塚を発いて調べると、棺は空しく何もなかった。待制の子連がみずからわたしに話してくれ、さらに言った。「この事件はちょうど盧公が州知事を辞める時のことだが、後の知事がどう判決したかは分からない。」

 

蘇州崑山慧聚寺[30]の僧如遠は、医術を善くし、贈り物をたくさん受けて富を致し、戒律を守らなかった。ある日のこと、寒食節だったので県人陳監倉襄は裹蒸[31]百個を作り、半分を送ったが、遠が器を開いて包を解いたところ[32]、すべて泥の塊になっていた。にわかに遠は亡くなった。(陳仲謨談)

 

蜀の道には山鬼が多かった。ある小役人がはるばる上官を迎えようとしており、朋輩数人がともなっていた。日が暮れようとし、みると道端に一人の娘がおり、汲器[33]をひっさげて溪の側に立っていた。小役人は近づいて飲み物を乞い、からかった。女はまったく難色を示さず、談笑した。小役人が手を引いてその胸を摩ると、すべて青い毛で、長さは数寸、冷くて氷のようであった。小役人は驚き叫んで走ると、女は大声で笑い、汲器を提げ、やおら歩いて去った。(李仲明が司馬端行のだと言っていた。

 

辛未趙榜[34]に進士魯瑮がおり、省試[35]で答案提出を終え、門を出ようとすると、たまたま詩を題するときにあやまって違う韻[36]をふんだことに気づき、あたふたと馳せ戻ると五つの採点場で捜し求めた[37]。そのとき、答案は乱雑に山積しており、人語は喧しく、捜し求めることはできないと考え、嘆き、怨み、憂え、悲しんでいた。すると一人の老吏がそのわけを問い、こう言った。「わたしが取ってあげられます。」瑮がお金二十千を賂すると、吏はすぐに採点場に入り、答案の山の中から、一さぐりで手にとり、瑮に授けたので、その誤ちを改めた。吏は頼んだ。「謝礼金は山坊[38]の某人の家に贈ってほしい。わたしの家だ。」瑮は喜び謝して去った。三日後、その家に訪ねていったところ、某人とは、太常[39]吏人(したやく)であり、死んですでに十日たっていた。その容貌尋ねると、まさに貢院で見た人であった。瑮は驚嘆し、事情を語り、その徳に感じ、お金をその家に与えた。その後、及第した。

 

建炎年間、泉州である人が海に浮かび、暴風に遭い、漂って島に着いた。その朋輩数人が上陸したところ、花や草はとても芳しく美しかったが、まったく路がなかった。大きな林に入ってゆくと、前に溪があり、水石は清く浅かった。人々が衣を掲げて渡ると径があり、大きな谷間に入った。にわかに巨人数十人が現れたが、体はいずれも一丈あまり、耳は垂れて腹に届いていた。かれらはすぐに進みでると、数人の者を捕らえ、両手にそれぞれ一人を提げ、連れさり、山谷の深い処にゆくと、大きな鉄の籠を持ち上げて被せた。つねに巨人一人が見守り、疲れるとすぐに石の上に臥し、耳を巻いて枕にした。時折、覆いを掲げ人を捕らえては、その衣を剥ぎとり、みなで裂いて食らった。中の一人がひそかに覆いの下に穴を掘り、見張りが熟睡するたびに、力を尽くして掘った。穴が通じると逃げることができた。走って海辺にゆくと、異国の船に出くわして帰ることができた。その事を語ったが、それがどこなのかは分からなかった。(武康鄭丞咸平老談)

 

湖州武康[40]の監[41]周光は、職務のために令状を受けて府に入り、ある寺の僧堂に泊まった。毎晩聖僧の像の前では、鼠が供物果実の類を盗んで像の座の下に入っていた。ある日、隙をみて座の下を探したところ、鼠が古くて裂けた経紙を集めて巣にしており、中にあらたに生まれた鼠四匹がいたが、みな足がなく、転がって瞅瞅(ちゅうちゅう)と鳴いていた。これは経を裂き、果物を盗んだ報いであった。

 

崑山慧聚寺[42]の山の岩の中に開山響大師[43]の石像があり、前に二体の石虎があった。ある晩、突然その一体がなくなった。後日、常熟の虞山でそれを見た人がいた。石は重く、倉卒に移して置くことはできなかった。これはを経て(あやかし)になることができたのであった。

 

金陵の水夫李某の妻が言うには、一人の姉が平素ひたすら『金剛経』を誦えていたが、死んで十余年たっていた。近頃、その夫の家で骨を焼こうとし、仮埋葬の墓を開いたところ、すっかり朽ちていたが、その肝臓と心臓だけはそのまま白骨の間に残っており、すこしも損なわれていなかった。火葬にすると、ますます堅く臘のようになった。これは経を誦えていた報いであった。

 

建炎年間、方術師の周生は人が字を書くのを見、筆画を分析して吉凶を知った。車駕が明州[44]から来て杭州に駐まったときに、(えびす)の騎兵の騒ぎがあった後で、人心は不安になっていた。執政はたわむれに周生を呼び、何気なく「杭」の字を書いて示した。周は言った。「危急の報せがございましょう。虜騎が迫ろうとしています。」そしてその字を裂き、右側に一点を配して木「朮」にし、下は「兀」にした。十日たらずでほんとうに兀術[45]が南侵したことが伝えられた。趙相[46]と秦枢[47]は国政に関する意見が合わず、それぞれ引退しようとした。二公はそれぞれ「退」の字を書いて示した。周は言った。「趙さまはすぐに去られますが、秦さまはかならず留まられましょう。『日』は君の象徴であり、趙さまが書かれた退の字は『人』の字が『日』から遠く離れていますが、秦さまが書かれた『人』の字はぴったりと『日』の下につき、『日』の字の左の画が下に連なり、『人』の字の左の画がななめに貫いており、足元は固定しており、退こうとしてもできません。」その後、すべて験があった。

 

吉州[48]の民家に、入定[49]している観音の絵があり、とても恭しく祀っていた。ある日、像が突然目を開いた。その家は、はじめ子供がいたずらしたのかと疑ったが、翌日見ると、またもとどおり閉じていたので、はじめておおいに驚いた。数日後、その家のしもべが突然仏堂で自縊した。(知県童士季談)

 

紹興壬午の、海陵[50]に薬を売る者がおり、牛を引いていたが、(まえあし)と腿間に人面を生じており、耳目口鼻がみな備わり、人の手が分かれ出、嬰児の腕のようであった。外兄[51]の胡元常はみずからそれを見た。

 

峡江[52]の水中に(もののけ)がおり、頭は狻猊[53]に似て足はなく、頚から下は扁平で広く、白絹のよう、べたべたとして膠のよう、馬を食らうことを好むので、土人は「馬皮婆」といっていた。馬を江で洗っている者がいると、かならず人がいないのを窺い、そのを挙げ、に巻きつけ、水に引きいれた。土人が馬を岸に繋ぐと、その(もののけ)尾を挙げて纏いつかせた。馬は繋がれていたので去ることができず、その(もののけ)はくっついたので離れることができなかった。そこで、捕らえて殺した。(李昭明仲談)

 

章思文は、福唐[54]の人で、家は代々貧しかったが、謀略によって富を致した。はじめある武臣(その姓名を忘れた。)が秀州華亭県の塩場を監督したとき、賄賂を貪り、不法なことをし、亭[55]賄賂をたくさん受け、思文を手下にし、得たものを均分することを約した。武臣は在任中で、その行跡を隠そうとしていたので、賄賂を受けると多くは思文の所に預け、信頼して疑わなかった。任期満了して引継ぎするとき、受けとりにいったが、思文はすべて横領して与えなかった。武臣は憤りに堪えず、病になって死んだ。思文は晩年にはじめて子を生み、かわいがった。しかしその子は幼くして多病であり、治療の費用は財産を尽くしても足らず、六七死んだ。思文は嘆き、身代りになれなかったことを恨んだ。棺を掩う際、悲しんで離れることができず、さらに面冪[56]を掲げて撫でようとすると、その子の顔はすでに以前の武臣の顔に変わっており、勃然と激怒していた。そこで恐れてすぐに埋めた。(趙謙之司戸談)

 

成都の楊道人は、もともと坊正[57]であったが、酒を嗜み、行いが善くなく、しばしば杖罰に遭っていた。かつて市場で異人に会ったが、風采が秀抜であったので、楊は日々ともに飲み、得たものはすべて飲み代になった。しばらくすると、異人は言った。「わたしに従って遊ぶことができるのか。おまえは妻子のしがらみがあるが、どうするのだ。」楊は言った。「棄てるのはた易いことでございます。」帰ると手ずから手紙を書いて妻と別れ、ふたたび(つれあい)を探して嫁がせ、数歳の一人息子は、人に与えた。後日、ふたたび異人に会うと、言った。「しがらみはもうなくなりました。」そしてみずからそのいきさつを述べた。異人は言った。「ほんとうにそうなら、わたしのゆくところに従ってゆくべきだ。」楊はつつしんで承諾して従い、さらに飲み屋で痛飲した。日が暮れると、連れだって城を出た。その夜は月が明るく昼のよう、異人は進んでいったが、つねに百歩隔たっていた。十余里ほどゆくと、前方に広大な山林の鬱蒼としているのが望まれた。草叢の中を進み、さらに数里ゆき、楊が地面を履んだところ、たいへん湿っていると感じた。その後、水が足を浸したので、大きな声で叫んだ。「路に迷って水に入ってしまいました。」異人は言った。「ひたすら進めば、苦しくないぞ。」楊がさらに進んでゆくと、水はだんだん深くなった。さらにゆくこと二里で、膝が沈み、股に及んだが、異人が進んでゆくさまは平地のときと異ならなかった。衣を脱いで深みを渡ると水は腹に及び、にわかに胸に及んだ。楊がなおも進みつづけると、水は(あご)に達したので、ふたたび大声で叫び、水が深くて進めないと言った。異人は嘆いた。「惜しいことだ。おまえはまだゆけないな。」恍惚としていると夢が醒めたかのようになり、身は城濠の橋の上にあり、異人もその傍らにいた。異人はすぐに橋の下からは小さい鉄の釜を取り、腰からは皮篋[58]を解き、贈ると言った。「おまえは訪れていないのだ。」そして長揖して去った。追うこと数百歩で、突然見えなくなった。楊はそれから発狂し、悲しんだり喜んだりし、言うことはおかしく、心を病んだ人のよう、しばしば人の吉凶を予言し、道を学ぶものがかれに従うことはますます多くなった。毎月八日、かならず貧民乞食に施ししたが、乞食は府庁の前から街路の両側に分かれて城門まで坐していた。楊は釜で粥を煮、その弟子に命じて担がせ、みずから従い、杓で粥をみずから盛ると、乞食に賜った。さらに皮篋の中から銭を取って与えたが、一人に二十文であった。乞食は都合数百人いたが、与えるものはつねに満ち足りていた。李修撰が四川都漕[59]に任ぜられたとき、官署は成都にあったが、つねに楊を招いて会い、敬っていた。子弟たちはかれに親しみ、時折たわむれにその篋を隠すと、楊は探したが、見つけられずに去った。翌日になり貧者に施ししなければならなくなると[60]、やってきて、とても熱心に探し篋を得ると、すぐに欣然と腰に着け、手で撫でると、銅銭がすでに満ちているのであった。身にはぼろぼろの衲衣を着ており、ある人が新しい衣を贈ると、すぐにそれを着、振りかえって喜び笑ったが、なおもその古い衲衣をしまうのであった。あるひとが求めても与えず、翌日見ると、ふたたびぼろぼろの衲衣を着ているのであった。新しい衣はすぐに貧しいものに施して、なくなっていた。ある日、李に会ったところ、ひとりで裏庭の舫斎[61]に坐していた。楊は左右に人がいないのを見ると、言った。「わたしは使君さま[62]に贈り物をいたしましょう。」すぐに嘔吐の動作を、洟、涎をつぎつぎに垂らし、一つの物を吐きだすと、掌で受けたが、明徹なさまは氷か玉のよう、李に飲むように命じた。李が難色を示し、ぐずぐずしていると、楊はすぐにまた自分で飲み斎の前の池の中に跳びこみ、大声で「人殺し」と数回叫んだ。李は左右に命じて介添えしてゆかせた。数か月足らずで李は亡くなった。さらに寇先生という者がおり、有道の士で、李も交際していた。ある日、寇は山居から城内にゆき、李に会おうとしたが、ちょうど外出して府庁の会議に赴いていたので[63]、子弟は招いて書斎に坐らせた。寇は突然尋ねた。「運使[64]さまが外出して公の会合に赴くときも、お宅の厨房では食料を消費しますか[65]。」子弟は言った。「はい。」寇は言った。「わたしはわざわざ一つの事を知らせにきたのです。近頃、冥府にゆき、運使さまの食簿[66]が幾ばくもないのを見ました。よくご節約なさるべきです。」子弟ははじめ信じなかったが、ほどなく李は本当に亡くなった。二事殿撰[67]の孫明仲はみずからわたしのために言った。さらに言うには、そのときにほかにも蓆子先生という者がいたが、かれがどこの人かは分からず、その姓氏も詳らかでなく、蓬頭垢面、一枚の席で身を包み、官道の側に臥していた。食物を与えると、すぐに首を伸ばし、食を取り、かならず尽くし、数日食を与えなくても飢えなかった。居場所も移さず、つねには小便するところを見なかった。かれもまた異人なのであった。(李明仲が四事を語った)

 

宣和年間、沂州[68]密州[69]に俳優がおり、二子を持ち、「鬍孩児(フーハル)」といい、年はそれぞれ六七、禿げた頭で長い鬚、ゆくところ見物人は垣根のようであった。みずから言うには、その妻が双子を生んだが、この双子は生まれながらにして髭があったということであった。俳優がどこから来たのかも分からず、のちに所在を失った。その後、(えびす)が中華を乱した。けだし人妖であろう。

 

逆亮[70]は晩年にみずから尖った靴を作ったが、先がきわめて長く取ったり踏んだりするのに便利だといって、足指が及ばないところは、「不到頭(プタオトウ)」と言った。さらに短い鞭を作ったが、その半分だけを残し、「没下鞘(メイシアシアオ)」といった。その後、盟約に負き、乱を為したが、本当にその部下に傷つけられ、長江のほとりで死んだ。

 

最終更新日:2009年4月16日

睽車志

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[1]フンコロガシ。http://baikebaiducom/view/46524htm

[2]蝟は猬に同じ。ハリネズミ。

[3]原文「旁有故鉄托」。「鉄托」が未詳。とりあえずこう訳す。

[4]宜興に同じ。『宋史』巻八十八・両浙路「常州、望、陵郡、軍事。崇寧一十六万五千一百一十六、口二十四万六千九百九。貢白紵、紗、席。県四:晋陵、望。武進、望。宜興、望。唐義興県。太平興国初改。無錫。望。」。グーグルアースhttp://mapsgooglecom/maps?hl=zh-CN&q=%E5%AE%9C%E8%88%88&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[5]油をいれる大腹小口の陶製の容器。http://wwwzdicnet/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB2ZdicB9979htm

[6]外城のhttp://wwwzdicnet/cd/ci/10/ZdicE9Zdic83ZdicAD44230htm

[7]左蔵は国庫。ただ、ここでは官名であろう。左蔵庫使のことか。http://baikebaiducom/view/1334101htm?func=retitle

http://wwwzdicnet/cd/ci/5/ZdicE5ZdicB7ZdicA6213284htm

宋睍については未詳。

[8]グーグルアースhttp://mapsgooglecom/maps?hl=zh-CN&q=%E6%BC%B3%E5%B7%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[9]現在の寧波。http://baikebaiducom/view/1302576htm

[10]未詳。乾隆元年『浙江通志』巻十三「小溪〔寧波府志〕在県西南五十里。地名童家坂。今為沙塞。」か。

[11]香炉。http://baikebaiducom/view/188902htm

画像検索結果:http://imagesgooglecom/images?hl=zh-CN&q=%E7%86%8F%E7%AC%BC&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[12]グーグルアース:http://mapsgooglecom/maps?hl=zh-CN&q=%E5%B8%B8%E5%B7%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[13]未詳だが、庫の管理人であろう。

[14]原文「盗常住賊」。未詳。とりあえずこう訳す。http://wwwzdicnet/cd/ci/11/ZdicE5ZdicB8ZdicB833115htm

[15]酸餡に同じ。野菜入りの包子。http://wwwzdicnet/cd/ci/14/ZdicE9Zdic85ZdicB8211001htm

[16]方丈。住職の居室。http://wwwzdicnet/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8892557htm

[17]原文「就舟口裁其竹為杖」。「舟口」が未詳。とりあえずこう訳す。

[18]http://baikebaiducom/view/295637htm

画像検索結果:http://imagesgooglecom/images?hl=zh-CN&q=%E7%B4%AB%E7%AB%B9&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[19]『呉中旧事』程泳之沂、伊川先生之、知昆山

[20]未詳だが、庫を管理する役人であろう。http://wwwzdicnet/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9BZdic91183296htm

[21]原文「道士取幅紙密呪展示童子」。これは円光といわれる呪術をおこなっているのであろう。円光とは、神や鏡に呪文を掛け、そこに現れるものを子供に見せ、吉凶禍福を占う呪術。http://wwwzdicnet/cd/ci/10/ZdicE5Zdic9CZdic86346394htm

「密呪」は密教の呪文か。http://wwwgooglecom/search?hl=zh-CN&q=%E5%AF%86%E5%92%92&lr=&aq=f&oq=

[22]原文「此已為陰府所逮、疾不可為也。」。『左·成公十年』「疾不可也。在肓之上、膏之下、攻之不可、達之不及、不至焉、不可也。”

[23] 原文「程懇祈徒欲其少蘇而訣」。「徒」「訣」が未詳。とりあえずこう訳す。

[24]原文「道士復作法書篆文焚之」。「法書篆文」は未詳だが、篆字で書かれた護符の類であろう。

[25]山名。http://baikebaiducom/view/1911146htm

[26]原文「金握臂俾士人辦裝」。」が未詳。とりあえずこう訳す。

[27]官名。http://baikebaiducom/view/827274htm

[28]『宋史』巻三百七十七に伝がある。

[29]原文「視血蹤自蔵尋之」。「蔵」が未詳。とりあえずこう訳す。

[30]画像検索結果:http://imagesgooglecom/images?hl=zh-CN&q=%E6%85%A7%E8%81%9A%E5%AF%BA&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

現在の寺:

http://wwwkunshantravel/Html/lvyoujingdian/gushamingsi/264154134875832html

[31]食品名。http://baikebaiducom/view/25405html

http://wwwzdicnet/cd/ci/14/ZdicE8ZdicA3ZdicB9233633htm

画像検索結果:http://imagesgooglecom/images?hl=zh-CN&q=%E8%A3%B9%E8%92%B8&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[32]原文「遠発器食解包」。「器食」は器に入った食べ物。http://wwwzdicnet/cd/ci/16/ZdicE5Zdic99ZdicA8105506htm「解包」は、「裹蒸」を包んだ竹の皮を開くのであろう。

[33]未詳だが、水汲みの器であろう。『太平広記』巻第三百九十七・石鶏山「娥所舎汲器、化為石、形似鶏。」

[34]嘉定四年辛未建大榜のこと。建大はこの試験の状元。http://bike.baidu.com/view/1816056.html?tp=9_01

[35]宋代。科挙の中で、礼部によって挙行された試験。明清時代の会試に相当。http://bike.baidu.com/view/1147486.htm

[36]原文「偶思省題詩誤押旁韻」。「旁韻」が未詳。とりあえずこう訳す。

[37]原文「倉皇反走五幕求之」。「幕」が未詳。とりあえずこう訳す。

[38]街巷名。呉山井巷、大井巷とも。http://7214235132/search?q=cache:9Hvy5Qj2K5kJ:wwwhangtucom/whhz/hzfxl/indexhtml+%E5%90%B3%E5%B1%B1%E5%9D%8A&cd=1&hl=zh-CN&ct=clnk

[39]太常寺。官署名。http://baikebaiducom/view/66484htm

http://wwwzdicnet/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicAA95912htm

[40]グーグルアース:http://mapsgooglecom/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B5%99%E6%B1%9F%E7%9C%81%E6%B9%96%E5%B7%9E%E5%B8%82%E5%BE%B7%E6%B8%85%E5%8E%BF%E6%AD%A6%E5%BA%B7%E9%95%87&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[41]未詳だが、税務を扱う役人であろう。

[42]画像検索結果:http://imagesgooglecom/images?hl=zh-CN&q=%E6%85%A7%E8%81%9A%E5%AF%BA&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

現在の寺。昆山鞍山にある。:

http://wwwkunshantravel/Html/lvyoujingdian/gushamingsi/264154134875832html

[43]明沈奎『重修山塔昆邑之有馬鞍山最奇、山有塔亭亭云表則益奇。按『山図序』云、梁天監十年、僧慧響開山駐錫、謀建塔廟、未詳創始竣事何歳月也。」。

[44]現在の寧波。http://baikebaiducom/view/1302576htm

[45]宗弼。金の皇族、武将。宋徽宗、宋宗を捕虜にした所で有名。http://baikebaiducom/view/81998htm

[46]趙鼎のこと。http://baikebaiducom/view/93284htm

[47]秦桧のこと。http://baikebaiducom/view/25206htm

[48]グーグルアース:http://mapsgooglecom/maps?hl=zh-CN&q=%E5%90%89%E5%B7%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[49]静坐して、雑念を起こさないこと。http://wwwzdicnet/cd/ci/2/ZdicE5Zdic85ZdicA5326145htm

[50]『宋史』巻八十八淮南東路「泰州、上、海陵郡。本團練、乾コ五年、降為軍事。建炎三年、入于金、尋復。四年、置通、泰鎮撫使。紹興十年、移治泰興沙上、時泰興隸海陵、復旧治。元領四県、紹興十二年、割泰興隸揚州。建炎四年、又以興化隸高郵軍。崇寧五万六千九百七十二、口一十一万七千二百七十四。貢隔織。県二:海陵、望。如皋。中下。開宝七年、以海陵監移治。」。

[51]従兄。また同母異父兄とも。http://wwwzdicnet/cd/ci/5/ZdicE5ZdicA4Zdic96119430htm

[52]http://baikebaiducom/view/129575htm

グーグルアース:http://mapsgooglecom/maps?hl=zh-CN&q=%E5%B3%A1%E6%B1%9F&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[53]http://baikebaiducom/view/84472htm

[54]『元史』巻六十二・福州路「福清州、下。唐析長楽八置万安県、又改福唐、又改福清。元元貞元年、升為州。」。

[55]塩戸の一宋代京、河北、両浙、淮南、福建、広南の海区で、もっぱら政府から資本を受けとり正額塩を生して公に納める塩戸をいうhttp://wwwzdicnet/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBAZdicAD100755htm

[56]顔を覆うなど。http://wwwzdicnet/cd/ci/9/ZdicE9Zdic9DZdicA275091htm

[57]街坊を管理する小吏。http://wwwzdicnet/cd/ci/7/ZdicE5Zdic9DZdic8A27939htm

[58]皮製の物入れ。http://wwwzdicnet/cd/ci/5/ZdicE7Zdic9AZdicAE192447htm

[59]官名。漕運を司る。

[60]原文「度明当施貧」。未詳。とりあえずこう訳す。

[61]未詳。川に面した書斎か。

[62]州郡長宫への尊称。http://wwwzdicnet/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBDZdicBF313560htm

[63]原文「適出赴府会」。「府会」が未詳。とりあえずこう訳す。

[64]官名。運使司運使、運使司運使の略称。http://wwwzdicnet/cd/ci/7/ZdicE8ZdicBFZdic9051077htm

[65] 原文「運使出赴公會,宅廚亦破食料否」。未詳。とりあえずこう訳す。

[66] 原文同じ。未詳。現世で食べられる食物を記した帳簿か。

[67]原文同じ。未詳。「殿撰」は宋代集英殿修撰、集殿修撰(後に右文殿修撰にまる。)の略称。http://wwwzdicnet/cd/ci/13/ZdicE6ZdicAEZdicBF161483htm

[68]http://baikebaiducom/view/596971htm

グーグルアース:http://mapsgooglecom/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B1%B1%E4%B8%9C%E7%9C%81%E5%BE%B7%E5%B7%9E%E5%B8%82%E4%B8%B4%E9%82%91%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[69]http://baikebaiducom/view/419352htm

現在の諸城:http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E8%AF%B8%E5%9F%8E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=il

[70]金の海陵王。完のこと。http://baikebaiducom/view/60107htm

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