睽車志

第二巻

武翼大夫[1]焦仲は四明[2]に住んでいたが、生来殺生を好み、日々射撃、鷹狩、狗を使った猟を楽しみにし、殺したものは記すにたえないほどであった。邸宅をあらたに営み、引っ越したところ、寝室で大蛇がのたくり、辮髪のように絡み合い、殺してもなおそのままであった。家には三男二女がいた。長子は嗣昌といい、すでに進士となっていたが、突然精神病になり、朝晩嘆いて泣き、亡くなった父母のことが思われると言った。妻は言った。「堂上に坐していらっしゃるのがご両親ですのに、どうしてそんなに狂ってしまわれたのですか。」嗣昌は憤然として言った。「このものたちはわたしの父母を殺した者だ、殺して復讐したくてたまらないが、ともに住むことはできぬのだ。」日々その妻を引いて外に出た。禁止することはできず、外に住むのに任せた。嗣昌は結局気がふれて死んでしまった。次男、末子は数年足らずで相次いで亡くなった。年に、仲は妻さえも失い、暮らしはますます落ちぶれた。孑然として一身のみが、長寿を受け、健啖頑強で、あいかわらず殺生を好んでいた。仏経にいう、魔力に守られているものではあるまいか[3]

 

楊虞仲は、眉州[4]の人、丁丑の王榜[5]で甲科及第し、官位もはやく昇進し、蜀郡[6]を治めた。それより前のこと、普州楽至県[7]の臨水精舎[8]で、住職が夜に夢みたところ、貴人が馬に跨って入ってき、言った。「わたしは山の神だ。今しばらく戻ってきたが、まもなくふたたび帰ってゆくのだ。」目ざめると、金堂県[9]の尉の令狐習が病身を車に乗せてやってき、二三日して亡くなった。習の父のヒは家におり、はじめ習が病んだことを聞かなかったが、ある晩に夢みたところ、習が檄によって帰ってきたので[10]、たいへん喜び、すぐに門で迎え、馬を下りると、揖して「わたしは不孝で、お父さま、お母さまに最後までお仕えすることができませんでした。今は眉山の楊氏の子となり、名は虞仲ともうしますが、二十三年後にふたたび直言[11]で甲科に合格し、今の世で達官となりましょう。」と言い、別れて去った。父は驚いて目ざめた。その日、訃報が届き、ヒはたいへん悲しんだ。後日、眉山の楊氏を探して訪ねたところ、本当にその年に子を生んでいた。長じるに及び、虞仲と名乗ったが、及第した年は、まさに習の死後二十三年であった。提刑[12]の何習の墓碑を作り、その事をたいへんくわしく述べた。虞仲が遂寧[13]で補佐官をしていた日、令狐氏が訴訟のために、他郡から遂寧に送られてきたが、冤罪を晴らせないことを心配し、墓碑の拓本を虞仲賓によって届けた。虞仲はその事をも隠したが、蜀の人には知っている者が多かった。いとこの沈作肅はその墓碑を記して贈ってくれた。

 

忠湣李公若水[14]は、宣和壬寅に大名の元城[15]の尉[16]となったところ、村民が手紙を持ってきて「関大王[17]が書かれました。」と言った。公はたいへん驚き、その封緘を見ると言った。「手紙には『元城県尉李尚書殿。漢前将軍関雲長押』とあるな。」村民にどこから得たかを問いただすと、言った。「夜に夢みましたところ、金甲の将軍がわたしに告げました。『おまえは明日県庁にゆくとき、某地を通り、鉄冠道士に逢い、関大王の手紙を求め、李県尉に下すのだ。』目ざめると驚き、しぶしぶその言葉通りにし、本当に道士に会って手紙を得たので、届けないわけにゆかなかったのだ。」公が手紙を開くと、そこでは靖康の災禍[18]が予言されており、事は怪異に関わっていたのすぐにその手紙を焼き、その人を追いはらってふたたびともに語らず、詩を作ってこう記した。「金甲の将軍好夢を伝へ、鉄冠の道士新書を寄す。我雲長と異代を隔つ、翻つて疑ふこの事大いに荒虚(でたらめ)なるかと[19]」公はのちに本当に出世し、最後は囲城の禍を踏んだ[20]。その兆を、神が告げていたのであった。公ははじめは名を若水といい、後にあらためて今の名を賜わったのであった。その子濬淳がその事を記録して石に刻んだ。

 

紹興府庁は山にあり、林が深く茂り、しばしば怪しいことが起こった。淳熙辛丑、数人の兵卒が蓬莱閣[21]に宿直したが、夏で暑かったので、それぞれ散らばって寝ていた。真夜中、兵卒の張富という者は、紅裳の娘が冉冉と近づいてくるのを見たが、まっすぐ進んでその腹の上に坐したので、躍り上がって掴むと、たちまち見えなくなり、両手には狐の毛が満ちているばかりであった。

 

[22]、漳[23]の間に古い宿駅があり、(あやかし)が多かった。かつて士人がひとりで西の廂房に宿っていたところ、乙夜に鼠たちが梁と(せりもち)の間から壁を伝って地に下り、数をも知れなかったので、もちろんひどく驚いた。まもなく、さらに数匹の鼠が、いっしょに物を提げてきたが、それは小さい箱のようであった。地に置いて、開いたところ、すべて袍[24]、幘[25]の類であった。きそって取って服したが、さながら唐代の装束のよう、冠、(くつ)はすべて備わっていた。その後、順番に進みでて揖する動作をした。士人はもともと胆力があったので、牀を打って怒鳴った。「鼠どもめ、そのように人を騒がすつもりか。」鼠たちは驚いて避けることはなかった。士人はすぐに起きあがると、(むしろ)の下の大きな棍棒を取って乱打したが、ほどなくあやまって燈にぶつけて消してしまったが、ますます力を尽くして打ったところ、にわかに寂然とした。翌朝見ると牀の前では死んだ鼠が地に満ちていた。(揚州教官陳徳明光宗談)

 

道州[26]の孚恵廟[27]は、たいへん霊験あらたかであった。淳熙己亥、郴の賊寇が盛んに蜂起し[28]、州境を襲撃した。郡守[29]趙公郎中汝誼[30]は郡に城池がないので、民が勝手に賊寇から逃がれるのに任せ、みずからは死守することを誓った。指使[31]の樊謹は賊のなかに入って禍福を説き従われなければ死ぬことを請い、即日殺された。賊は進んで江華[32]に到り、城を隔てること一舎[33]もなかった。公はますます憂え憤り、疲れて仮眠したところ、二人の大夫を見たが、儒衣儒冠を着けており、容貌はたいへん立派で、会いにくると、恐れるなと言った。公は孚恵の神だと思い、すぐに冠帯を整えて会いにいった。するとにわかに、燕数千羽が祠から公の朱轓[34]に従い、飛んで[35]に集まり、(あまかけ)て三つの群れになり、ふたたび集まったが、喙はすべて同じように外向きになっていた。漏刻の水が尽きて数刻で[36]、来たところを通り、方陣の形になって去った。その夜、賊は逃げた。人民で俘虜となって逃げかえった者がおり、賊が道州は法令が確実だから[37]、犯すことができないと言い、捨てて去ったことを聞かされた。郡の教官章穎[38]はその事を記して石に刻んだ。

 

貳卿[39]の周公自強は、淳熙辛丑に静江[40]から移って丹陽[41]を鎮めた。邸宅が上饒[42]にあったので、家に立ち寄ろうとした。到着前、家の番人は、真昼に鉦の音が宅堂から出るのを聞いたので、すぐに開いて見ると、音は後堂の大きな(たんす)の中から聞こえていた。(たんす)を開いて探すと、音は(ゆか)から聞こえており、しばらくすると、音はだんだん遠くなり、消えたように感ぜられた。数ヶ月後、公は亡くなった。(陳宏甫承務談)

 

提轄左帑[43]の張朝奉遜[44]は、四明[45]の人であった。昇任して常州[46]の晋陵県[47]を治め、任期満了して家族同伴で東へ帰ろうとし、夜、宜興[48]駅前に泊まった。おりしも暑く、張の子で、年は二十ばかりのものが、張とともに船の頭倉[49]で寝ていた。その夜、月は明るく昼のようであったが、四鼓過ぎに、はしためたちが突然驚いて魘されているかのようになり、闇の中で人の手が集まって(まさぐ)っているかのようだと騒ぎ、さらに船の後ろでも物を攫うような音が聞こえた。張が驚いて起き、怒鳴ると、しばらくして静かになった。すぐに船の入り口を開いて出ると舷側に立ち、船員たちを呼び寄せたが、それは盗賊かと疑っていたからであった。その後、帰って寝ようとしたところ、息子は見えず、呼んでも答えなかった。燭を明るくして探したが、見つからなかった。船外の人に問いただすと、息子が出るのをまったく見ていなかった。船を挙げて驚き、がやがやとして夜明けに至ると、対岸に船を泊めている者がおり、とおくから船員に言った。「わたしたちは夜に船の後ろで寝ていましたが、四鼓頃に、突然そちらの船の後ろに巨人十数人が現れ、探しものがあるかのようにしていました。するとにわかに長い臂、大きな手十数本が水中から出てき、ともに一人を掴んで水に入れました。」友人を水に入らせて探させたところ、その屍が見つかった。(同年陳子栄宗丞談)

 

泉司[50]の幹官[51]陳子永泳は、毎晩釈氏の法を用い、呪を誦え、食を施し、さらに尊勝呪幡[52]数枚を焚いていた。かつて鉛山[53]の駅舎に宿ったところ、夜に女が牀の前に立ったので、怒鳴ったところ、女は言った。「恐れられますな。わたしは官人に経幡[54]を求めにきただけでございます。」承諾すると、突然見えなくなった。翌日祈って焼くと、夜にまた来、拝謝して去った。(陳宏甫承務談)

 

平江[55]の張虞部[56]の家は財産に富み、邸宅はたいへん宏壮であった。張は人となりが実直で、もとより(あやかし)話を信じておらず、工事がある時は、時日を選ばなかった。かつて亭を造ったとき、地を掘ると大きな肉の塊を得たが、まったく裂いたりいだりした跡がなかった。これは俗に太[57]というもので、張はおかしいと思わず、瓦盆合[58]を取って水中に送るように命じ、基礎の上に亭を創り、太亭と名づけた。さらに、かつて客が来たとき、衣冠を取ってくるように叫んでも、答えるものがなかったが、突然、飼っている犬が首にその帽子を頂き、帯をその背に締めて出てきた。左右のものが驚くと、張はやおら犬に言った。「おまえを数年養ったが、今日はじめて人の心が分かったな。」すぐに取って服し、外に出て客に揖した。客が退くと犬はそのまま庭で死んだ。(王日章承務談)

 

秀州海塩県の漁師楊刺旗は、かつて漁船で寝ていたが、夜に夢みたところ、人に捕らえてゆかれ、その顔を刺されて旗にされ、目ざめても頬はまだ痛かった。にわかに夜が明けてきたので、すぐに起き、舷側で照らしたところ、まったく物が見えなかったが、魚や蝦が群がって水面に出、くっついて塊になった。網を擲ち、すべて捕らえたが、中にある物は鼎のような形になっており、持ちかえり、泥を洗ったところ、純金であったので、そのために富を致した。秀州の人は今でも楊刺旗家と呼んでいる。(承信郎楊伯詳談)

 

華亭の陳之方は泉司の属官となったが、赴任する前、友人に維揚の補佐官に任ぜられている者がいたので、会いにゆき、館の広間の側にとどまった。ある晩、就寝し、夢うつつでいるときに、女がきて言った。「わたしは城隍の夫人だ。今、城隍は交代して去ることになっており、次は公になるので、報せにきた。」陳は家に帰って亡くなった。(潘周翰承務が事を説いた

 

閩中の士人が華亭[59]にいた。趙通判[60]という者が烏程[61]におり、士人を幕客にすることを約していたが、ながいことゆけなかった。士人がたまたま散歩して岳祠[62]にゆくと、女がゆっくり歩いており、しもべが小さな青蓋[63]を持ち、さらに香合、背子[64]を提げてその後ろに従い、殿堂、回廊にあまねくゆき、拝して香を焚き、事を終えると出てきた。士人が数十ついてゆくと、女は振り向いて士人に何という姓かを問うた。士人は姓を告げると、さらに女の姓氏を問うたが、女は答えず、笑いながら、持っている扇を示した。おもてには「書廿七」の三字があった。士人は娼家の姓と排行かと疑ったが、書という姓の者はいないことを怪しみ、じっくり話さないでいるうちに、女はすぐにしもべが持っている銅絲の香合を取って士人に授け、先に進んでいった。さらに一里ばかりついてゆくと、寺に入ったが、人が多く、突然女の所在を見失った。数日後、趙通判がしもべと馬を遣わし、手紙を持って迎えにこさせたが、まさに二十七日の手紙であった。士人は驚いた。書斎にゆくと、いつも貰った香合を愛玩し、几上に置いていた。はしためはしばしば書斎に子供たちを見にきたが、じっくり香合を見るたび、趙の亡妻の棺に入れたゆかりの品にたいへん似ていたので、奥に告げた。通判が取って調べてみると、ほんとうにそうであったので、手に入れた由来を士人に問うた。はじめは隠していたが、再三尋ねると、くわしく以前あったことを話した。通判が女の服飾容貌問うたところ、寺に埋葬した亡妻であった。しばらく悲しむと、すぐに葬儀を挙行することを相談した。墓を開いて見たところ、棺の側に小さい穴があったが、指が入るだけであった。

 

淳熙庚子夏四月、湖州[65]烏程の岳祠で籙醮[66]開かれた。西殿の鴟吻[67]に蛇がおり、上に絡みついていた。法師葉は十四日の夜に拝章[68]して人々に言い、一二日かならず風雷の異変があると言った。ときに連日の晴天で、空は澄み、一すじの雲も飛んでいなかったので、人々は、その言葉には験があるまいと思った。十六日の暮夜になると、濃い雲が鬱勃として起こり、まもなく空を覆い、迅雷烈風のなか、雨と雹がこもごも降り、雹は大きな弾丸のよう、屋根瓦は砕けた。人々はみな凛然[69]としたが、しばらくすると静まった。祭壇、供具、旗幡の類は、儼然としてもとのままで、すこしも濡れていなかった。乙夜には雲は収まり、月は明るくなったが、見ると、鴟吻と蛇はいずれも所在を失っていた。翌日、郊外を訪ねたところ、まったく風雹の乱れはなかった。そもそも、そのときに迅雷疾風があったのは、わずか数百歩の区間であった。

 

平江の士人王大卞は家が貧しかったが、かれが亡くなると、その友の周逸卿は平素の友人たちをひきいて金を集め、仏事をして追善してやった[70]。翌日、逸卿はわけあって城を出ることになり、その家にしっかり鍵を鎖すように頼んだ。初夜[71]、外の門が轟然とひとりでに開き、人がまっすぐ入ってきたかのようであった。そして連呼するには、「逸卿どの、大卞がお礼を言いにきました。」家人が驚いてすぐに出て見ると、門がすでに開いているばかりで、闃として他のものはなかった。

 

平江の潘択可は、崇寧五年に舎法貢[72]のため入京した。到着する前、夜に夢みたところ、褐衣を着て車三十輌を引き、その弟端夫は緑衣を着てその後ろに従っていた。政和三年に到り、択可は上舎[73]として任官した。三十年後、端夫ははじめて恩科[74]に合格した。そこで車三十輌を引いていたのは、三十載のことであったことを悟った。

 

平江の人王亨正は牛の炙り肉を嗜んでいたが、突然瘧を半年病み、百薬も効果がなかった。沈鬱な気持ちで、夢みたところ、黄衣の男が告げた。「おまえは牛を食らわなければ生きるが、さらに食らえば死ぬだろう。」目ざめてから、もう食らわないことを誓うと、病もすぐに癒えた。

 

京師に道人で鄭姓のものがおり、銅鈴を持ち、終日街で揺らして鳴らし、銭を乞い、食費にし、ほかは貧しいものに分け与え、「鄭揺鈴」と呼ばれていた。宣和末年、突然ゆるゆると南のかた維揚[75]に来、あいかわらず鈴を揺らして銭を乞い、夜は逆旅に宿った。しばらくすると、主人に言った。「わたしは死のうとしておりますが、身の回りの衣物はすべて棺に置いて焼いてくださいますようにお願いします。」その後、本当に死ぬと、主人はその言葉通りにし、棺を担いで城を出たが、担ぐ者はだんだん軽いと感じた。さらに、数十以上はなれたところで鈴の音が聞こえているかのようであった。まもなく鈴の音はだんだん遠くなり、棺はますます軽くなり、屍がなくなったかのようであった。焼き場に到り、蓋を開いて見ると、ただ一本の竹杖があるばかりであった。

 

[76]檀丘村の人陳布袋は、大工を生業とし、その妻の家は震沢[77]にあった。淳熙辛丑、わけあってその姑に会いにいったが、到着間際、路で知り合いの金大郎という者に会い、揖して通りすぎた。陳はそれより前、金大郎が死んですでに一月あまりだと聞いていたので、ひそかに怪しみ、妻の家にいってその真偽を問おうとした[78]。門に入り、その姑を拝し、さらにその妻の祖先を拝したところ、臥して起きられなくなり、扶けおこしたときはすでに人事不省となっていた。担いで榻の上に横たえると、手足は引きつり、縛られているのよう、二時(ふたとき)して目ざめると、はじめて路で金に逢ったことを語った。まさに拝礼して起きようとしていたとき、金が突然外から入ってき、まっすぐその頚を引いた[79]。すぐに意識が昏然とし、人に掴まれたかのようになった。東のかた海岸の山の頂にいったところ、金が某日に某事をするのを見たかと尋ねられたので、金とはまったく関わりがないからなにも知らないと答えた。傍らに人がおり、文書を持って広げて見ると、「間違えた。」と言った。そしてすぐに陳を捕らえ、ほかの山の頂に投じたので、みずから路を探して帰った。臨安から徳清[80]を経たが、通った街衢では人物はふだんと異ならなかった。潯溪[81]に至るには震沢から十八里、見ると岳祠があった。たいへん大きく、真北を向いており、門外の路は平らで幅は七八丈、入る者は紛紛としていたが、出る者はまったくなかった。いずれも知人の、最近亡くなった者たちだったが、しばしば見えた。潯溪にはもともと岳廟がなかったので、心の中でひとり怪しんだ。門に入ると、欄干はすべて純鉄であった。ある人が怒鳴った。「おまえは留まってはならん。」すぐに路を通って東に帰り、市場の橋を通った後、金に会ったが、頭をあらわにしており、人にたいへんはやく追い立てられていた。陳は尋ねた。「なぜこのようにあわただしくしているのだ。」金は歩きながら答えた。「急な事件で捕らえられ、答弁するだけだ[82]。」陳はゆるゆると家に至ったが、とても険しい高い山を過ぎたかのよう、誰かに後ろへ推し倒されて目ざめた。(沈梭省幹が二事を説いた)

 

江の蠡沢村[83]の人朱三は、子があって年は十三四、応天寺[84]の僧子孚の坊に雇われて行童[85]をしていた。淳熙戊戌九月、孚が市に近い張湾橋の家にいって仏事を行ったとき、朱童は門の外に立っていたが、子供たちが水中で(たにし)(どぶがい)を拾っていたので、ついていった。すると突然、白衣の人に呼ばれたので、ともに歩き、池の辺にいった。いっしょに地上に坐すると、白衣の人は泥を取って団子にし、むりに飲ませ、さらに泥で鼻と耳を塞いだため、朱童は人事不省になった。まもなく誰かがかれの背中を殴り、泥はすべて出たと感じたので、目を開いたところ、金甲の人がおり、犬に跨らせたが、犬はたいへんはやく南に向かっているかのようであった、まもなく家に着くと、犬は跳びさり、朱童は倒れて籬の間に臥していた。家では呻き声を聞き、出て見るとたいへん驚いたが、どこから来たかは分からなかったので、問いただしたところ、話すことができなかった。そこで担いで帰ったところ、しばらくするとようやく目ざめ、事件のことを語った。その家では、ふだんから、真武をたいへんうやうやしく信仰していたので、ひそかに護ってくれたのかと疑った。

 

沈蒙老博士は、はじめは太学率履斎[86]の学生であった。朝起きて手洗い洗面を終えると、盆の水はまだ温かいのに、突然牡丹の花の形に変わり、枝葉は扶疏[87]とし、萼には蕊があり、さながら絵のようであった。翌年同じ建物で合格した者は十余人であった。(蒙老孫樗が四事を説いた

 

開徳府にある士人の家の、水を貯える磁器の甕の腹に、突然(きのこ)が生じ、隠然[88]として出、根を張ってたいへん固く、触っても落ちなかった。数日で大きさは人の手ほどになり、光沢はY然として、本当に芝草であった。陶器は硬く滑らかで、物を生じることができるものではない。(きのこ)が生じた理由を究めることはできなかった。

 

隴州汧源県[89]の庁舎でのこと、ある晩、堂の入り口が閉ざされると、突然、妓女数人が楽器を取り、庭で遊んだ。令の妻がたまたまそれを見たところ、妓女たちはみな進みでて祈った。「わたしたちはひさしく土地祠の楽妓をしておりますが、わたしたちのために『法華経』を誦え、回向し、往生させてくださいまし。」妻がそのことを令に語ったので、令は翌日、僧を招いて廟で経を誦えさせた。その夜、ふたたび以前の妓女が来、謝して去った。数日すると、さらに前のように祈りにくる者がいたので、僧を招いて廟でお経を誦えさせ、そのようにすること三たびであった。のちに令が夜にひとり閑坐していると、突然怪物が現れたが、容貌はたいへん獰猛で、進み出るとこう言った。「土地神があなたにお礼を言っている[90]。妓女は幾人もおらず、すべて往生させたら、わたしは使うものがいなくなってしまうから、禍を君の家に移すぞとな。」令が怒鳴ると、見えなくなった。その後、妓女がふたたび祈りにくることはなく、令の家も恙なかった。

 

滄州[91]に女がおり、食事せず、日々水を数杯飲むだけであったが、年が四十五六になっても、顔はつやつやしていた。人々が食事しないわけを問うと、みずから言うには、幼いときに母が病で牀に臥していたが、家に父兄はいなかったので、日々果物を市場で売り、数十銭を稼いで母を養っていたということであった。おりしも凶年、穀物は貴く、食物は不足していた。そこで天を仰いで祈った。「今日得たものでは二人を活かすに足りません。天よ、憐れんでください。水を飲めば飢えないようにしてくださるなら、得たものはみな母に捧げましょう。」井戸に臨んで一杯を飲んだところ、本当に飢えなくなった。それからは食らおうとも思わなくなった。さらに数年して母が亡くなったが、時に食らわないことすでに三十年であった。

 

執政府の候兵[92]任章は、かつて軽い病によって、突然人事不省になったが、一日後に目ざめた。そしてみずから語るには、はじめ二人の男を見たが、下役に似ており、令状を持ってきて捕らえてゆかれた。山野を数十里ゆくと、大きな城門に入り、役所に着き、引かれて庭に立った。王が殿上に坐していたが、姓名郷里問うと、吏を叱りつけた。「間違えたな。」そして任章を引いて地獄の数か処を見させ、罪を受けている者を指し示して言った。「これらはすべて不忠不孝で、良心に背き、物に危害を与えた者たちだ。」その後、ふたたび引かれて城を出たが、以前通ったところではないようであった。市中の街路を通ると、人と幽霊が入り混じっており、知りあいの者がいたので、語りかけたが、聞いていないかのようであった。にわかに崖の穴を出ると、家に送ってゆかれた。門に入ると自分が榻に臥しているのが見えた。捕らえにきた者はさきに人をその傍らに留めて見守らせていたが、その人は送ってきたものを迎えるとこう言った。「帰ったか。わたしは長いこと見守っていて、とても腹が空いたので、すでにその心臓の半分を食らってしまったが、どうしよう。」ぼんやりとしていると、推されて榻の上に倒れ、蘇った。それからは病が癒えたものの、つねに不安で恐ろしく、物忘れしたり取り乱したりし、正気を失ったかのようであった。しばらくして、夜に出てゆくと、途中で道人が目を瞠り、かれを見て言った。「おまえは心臓の半分を失っている。わたしが治してやろう。」牛の心臓を買わせ、それがくると道人は半分を切り取り、祈り、食らわせた。章はにわかに心が安らかになったと感じ、それ以上は驚いたり怯えたりしなかった。道人に姓氏を問うと、怒った。「わたしは牛心道人だが、尋ねてどうする。」礼を受けずに去った。章は人ごみの中に追っていったが、所在を失った。(右史趙舎人談)

 

鎮江の士人(その姓名は伝わっていない。)の妻は嫉妬深く、妾を買っても容認できず、つねに凌虐を加えていた。妾は耐えられず、しばしば首を吊ろうとしたので、士人は心配していた。仕事で金陵にゆくことになったときは、その妻にねんごろに言い含めて去った。家を去ってわずか二日で、突然真夜中に、枕頭で切切たる声が聞こえた。その姿は見えなかったが、妾ですが自殺しましたとみずから語り、経を誦えて追善するようにと懇願した。士人は大いに憂え恐れ、すぐにしもべを帰らせ、妾のために計らってやることにした。しもべが帰り、家からの便りを得たが、妾は恙なかった。幽霊がふたたび夜にやってきたとき、士人はその嘘を問いただし、奏章[93]して懲らしめようとした。幽霊は哀願した。「本当は妾ではございませんが、ご心配が切実でございましたので、それに乗じて追善[94]されることを望んでいたのでございます。これからは二度と出ようといたしませんから、どうか懲らしめないでください。すでにこちらに来た以上、ひとりでは戻れませんから、ひとまずお供し、あなたさまがお帰りになるのを待たねばなりません。」そこで許してやると、それからは静かにしていた。士人は仕事を終えて帰ろうとし、親戚友人十人に、ともに鍾山に遊ぶことを約した。士人はさきに到着し、僧房に憩うて待っていた。すると突然、ふたたび幽霊が語るのが聞こえたので、士人が怒鳴ると、幽霊はこう言った。「祟ろうとしているのではございません。すこしお知らせすることがございます。九人の客人はみなすでに山の麓にいらしています。その中の何番目のかたは騾馬に乗り、何番目のかたは白馬に乗っていられますが、このお二人は後日貴人になられましょう。」どうして分かるのかと問うと、言った。「お二人が遇った幽霊はみな道を避けましたが、ほかはそうではございませんから。」二人のうち、一人は葉審言枢密[95]であったが、当時は小役人になったばかりであった。

 

紹興甲寅七月十四日、県光福[96]の雅宜山[97]の一村夫は、ゆえあってひそかにその母を怨み、梟獍[98]の心を萌し、刃を懐にし、(さかだる)を提げ、母とともに近くの村にゆき、親戚に会うことにした。途中、母を呼び、草を敷いて飲み、酔っているのに乗じて親殺ししようとした。ときに天は晴れていたが、黒雲がにわかに起こり、雷鳴が轟き、その子を道端で撃ち殺した。母ははじめは気づかなかったが、息子が衣の中に刃を懐いているのを怪しみ、その謀を知り、はじめてそのことを告げたのであった。さらに長洲県[99]北原村の農夫謝三二は、その母を敬わず、ともすれば反抗的なことを言っていた。乾道庚寅夏五月、雨が晴れたので、田の水を放出しようとした。母を罵って外に出、田にゆくと、激しい雷に打ち殺された。(範公懋徳老承務が九事を説いた)

 

紹興五年六月に大きな雷電があり、無錫蘇村の民家が用いている秤がすべて門外の大きな樹の梢に掛かり、旅人はみなそれを見た。そもそもその家はつねにその(おもり)を軽くしたり重くしたりしていたのであった[100]

 

紹興三年癸丑八月五日、平江長洲県で地震があり、西北の方角から来、樹林はすべて揺れ動いた。父老。元祐九年九月二十一日もこのようであった。さらに紹興十三年癸亥三月十五日清明には、大雪が一尺に満ちた。

 

熙寧年間、ある人が泗州盱眙[101]の令を授かり、みずから雍観と名を改めたいと述べた。ときに王荊公[102]が国務を担当していたが、その名が意味不明であることを怪しみ、名を改めたわけを問うたところ、ある人はこう答えた。「夢の中で神がこのように告げたのでございます。もともと自分もその意味を存じません。」のちにその人は赴任したが、ある日、州城から県に帰るとき[103]、吏卒を従えて浮橋を通っていたところ、突然激しい風が起こり、その衣の裾が膨らみ、みな淮水に沈んだ。その後、従者が救助したのでみな助かったが、令だけは見つからなかった。事が朝廷に知らされると、荊公は言った。「以前この人がゆえなく名を改めたとき、『雍観』の二字には出典があるかもしれないと疑った。そのため『山海経』を閲したところそれが水官の名であることを知り[104]、水難があること心配していたが、今、本当にそうなってしまった。」その後、県の属官のあるものが夢みたところ、雍観は供回りがたいへん豪勢で、淮水の岸を往来していたので、死んで水官になったのかと疑った。

 

常熟県の東北百余里は、地名を塗松[105]といい、陸姓の人がおり、肉屋を生業としていた。隆興初年、牛を繋ぎ、刃を下すと、牛は力を振り絞って縄を切り刃を負ったまま逃げた。陸が追うこと数里に及ぶと、牛は振りかえり、角で陸の腹に触れ、腸を突き破って殺した。

 

銭仲耕郎中佃は江西漕に任ぜられ、部下を率いて村落に宿ったところ、青衣のもの数百人が悲しんで泣き、命乞いしているのを夢みた。翌日、蛙を売る者を見たので、夢のことを悟り、買って放ち、籠を傾けて出したところ、その数は夢と違いがなかった。

 

常熟県湖南村の富豪王翊が鵝鳥を料理し、羽を抜いて釜に入れると、鵝鳥が突然鳴いた。家人が走って知らせると、詡はおかしいと思わず、煮て食らった。数日後、疽が背にでき、病が甚だしくなったので、家人を顧みて言った。「前に二人の下役がいてわたしを捕らえようとしている。とりあえず茶を与え、先に去らせろ。」二日後、さらに言った。「役人はわたしをすぐに捕らえようとしているから、ゆかねばならない。」捕らえる者に期限はいつかと尋ね、さらにみずから「翌日だ。」と答えた。翌朝、本当に亡くなった。

 

最終更新日:2009年4月16日

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[1]『宋史』巻一百六十八・元豊以後合班之制「武翼大夫旧供備庫使」。

[2]浙江省の山名。http://www。zdic。net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic9BZdic9B88148。htm

[3]原文「豈仏経所謂魔力所持者耶」。「魔力所持者」が未詳。とりあえずこう訳す。

[4]眉山県の古称。百度百科:http://baike。baidu。com/view/862839。htm

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http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E7%9C%89%E5%B1%B1&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[5]文脈からして科挙であることは間違いないのだが、用例未詳。

[6]http://www。zdic。net/cd/ci/13/ZdicE8Zdic9CZdic80212308。htm

[7]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B9%90%E8%87%B3&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[8]未詳。

[9]百度百科:http://baikebaiducom/view/211125htm

グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E9%87%91%E5%A0%82%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[10]原文「一夕夢習檄帰」。檄」が未詳。とりあえずこう訳す。檄はつげぶみ。http://www。zdic。net/zd/zi/ZdicE6ZdicAAZdic84。htm

「縁檄」という言葉はある。グーグル検索結果:

http://www。google。com/search?hl=zh-CN&q=%E7%B7%A3%E6%AA%84&lr=

そこで検索された宋詞の用例。宋李祁『朝中措』「照江梅詞、寄任蘊明。蘊明嘗許檄載侍児見過、又於漢籍伎有目成者因以為戯郎官湖上探春回。初見照江梅。過尽竹溪流水、無人知道花開。佳人何処、江南夢遠、殊未帰来。喚取小叢教看、隔江煙雨楼台。」。

[11]直言極諌科のこと。唐代は科の外に制科があった。制科は不定期に行され、天子がみずから策問をおこない、もっぱら特殊な人財を用するのに用いた。代の挙賢良文学、孝廉方正に似している。その中で、良方正直言極科、才兼茂明於体用科がもっともよく見られ宋代もそれを踏襲した。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE7Zdic9BZdicB4289919。htm

[12]官名。提点刑公事の称、あるいは提点刑獄と称する。宋が各路に置き、所属する各州の司法、刑監察地方官吏と勧課農桑を主管する。時に公文用語で」と称し、その官署は司と称した。

百度百科:http://baike。baidu。com/view/59798。htm

[13]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E9%81%82%E5%AF%A7&lr=&um=1&ie=UTF-8&split=0&ei=bBGcScf1EYzo6QPaj8zfAw&sa=X&oi=geocode_result&resnum=1&ct=title

[14]靖康の変で殉難。百度百科:http://baike。baidu。com/view/110619。htm

[15]大名府の属県。『宋史』巻八十六・河北路「大名府、魏郡。二年、建為北京。八年、始置大名府路安撫使、統北京、澶懐%徳博浜棣、通利保順軍。熙寧以来並因之、六年、分属河北東路。崇寧一十五万五千二百五十三、口五十六万八千九百七十六。貢花紬、綿紬、平紬、紫草。県十二:元城、赤。熙寧六年、省大名県為鎮入焉。莘、畿。大名、次赤。熙寧六年、省入元城。紹聖三年復。政和六年、徙治南楽鎮。内黄、畿。成安、畿。熙寧六年、省洹水県為鎮入焉。魏、次畿。館陶、畿。熙寧五年、省永済県為鎮入焉、尋復旧。臨清、次畿。夏津、畿。清平、畿。宋初、自博州来隸。熙寧二年、又割博平県明霊砦隸焉、本県移置明霊。冠氏、畿。宗城。畿。熙寧五年、省臨清県為鎮入焉。当年復旧、尋以永済隸臨清。熙寧六年、又省経城県為鎮入焉。」。

[16]副県知事。

[17]関羽のこと。

[18]靖康の変のこと。

[19]原文「翻疑此事大荒」。「荒」は「荒」に同じ。

[20]原文「卒蹈囲城之禍」。「囲城之禍」はここでは靖康の変で首都開封が金に包囲されたこと。

[21]乾隆二年『浙江通志』巻四十五・古蹟七「『名勝志』「在州治設庁之後、呉越銭王所建、旧記云蓬莱山、正偶会稽。」。

[22]福建省。百度百科:http://baikebaidu。com/view/60402。htm

グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E9%95%BF%E6%B1%80&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[23]福建省漳浦。百度百科:http://baikebaiducom/view/44140htm

グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E6%BC%B3%E6%B5%A6&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[24]長衣の通称。百度百科:http://baike。baidu。com/view/167834。htm

[25]頭巾、冠などのかぶりもの。漢典:http://www。zdic。net/zd/zi/ZdicE5ZdicB8ZdicBB。htm

[26]百度百科:http://baike。baidu。com/view/34755。htm

グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E9%81%93%E5%B7%9E%20%E6%B9%96%E5%8D%97&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[27]未詳。

[28]原文「淳熙己亥、郴寇大作」。淳熙己亥は淳熙六年。郴は郴県で、湖南省にある。百度百科:

http://baike。baidu。com/view/1345679。htm

『宋史』には「郴寇」という言葉が見える。

グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E9%83%B4%E5%B7%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=il

[29]府知事。

[30]未詳だが、『続資治通鑑』巻第一百四十九:

http://www。guoxue。com/shibu/xzztj/content/xtj_149。htm

『続資治通鑑』巻第百五十:

http://wwwguoxuecom/shibu/xzztj/content/xtj_150htm

などに見える。官位は「淮西総領」

趙汝誼のグーグル検索結果:

http://www。google。com/search?hl=zh-CN&q=%E8%B6%99%E6%B1%9D%E8%AA%BC&lr=

平江『淳熙舂陵図経』十巻という書名が挙げられているページがある。蘇州の人か。:

http://2006。yzcity。gov。cn/col3212/col3352/col3659/article。htm1?Id=54614

[31]宋代将あるいは州官の配下で任務に従事する低級軍官。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic8CZdic87332539。htm

[32]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E6%B1%9F%E8%8F%AF%E7%B8%A3&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[33]三十里のこと。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/1/ZdicE4ZdicB8Zdic80330431。htm

[34]の両脇の色の泥よけ。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic9CZdicB1333266。htm

[35]太守の役所の正堂。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/11/ZdicE9ZdicBBZdic8471451。htm

[36]原文「漏尽数刻」。「漏尽」は漏刻の水が尽きること。真夜中或いは明け方という。漢典:

http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE6ZdicBCZdic8F63324.htm

[37] 原文「道州号令明信」。未詳。とりあえずこう訳す。

[38]百度百科:http://baike。baidu。com/view/1513236。htm

[39]侍郎のこと。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/9/ZdicE8ZdicB4ZdicB0240723。htm

[40]府名。『宋史』巻九十参照。

[41]百度百科:http://baike。baidu。com/view/56498。htm

グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%B9%E9%98%B3&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[42]百度百科:http://baike。baidu。com/view/13664。htm

グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%8A%E9%A5%92&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[43]百度百科「」:

http://baike。baidu。com/view/39241。htm

南宋「四提」の官があり、貨務都茶雑買務雑売場、文思院、左蔵に置かれたた。提轄左帑は左蔵庫の轄。百度百科「左蔵」:

http://baike.baidu.com/view/1334101.htm

[44]朝奉は宋の朝奉郎、朝奉大夫などをいう。宋の人は「朝奉」を士人の尊称としていた。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/12/ZdicE6Zdic9CZdic9D314239。htm

[45]山名。浙江省寧波市西南にある。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic9BZdic9B88148。htm

[46]百度百科:http://baike。baidu。com/view/5198。htm

グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E5%B8%B8%E5%B7%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[47]常州府の属県。『宋史』巻八十八・両浙路「常州、望、陵郡、軍事。崇寧一十六万五千一百一十六、口二十四万六千九百九。貢白紵、紗、席。県四:晋陵、望。武進、望。宜興、望。唐義興県。太平興国初改。無錫。望。」。

[48]百度百科:http://baikebaidu。com/view/86172。htm

グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E5%AE%9C%E5%85%B4&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[49]原文のまま。未詳だが、一番よい船室であろう。

[50]未詳だが、泉州に置かれた市舶司であろう。『宋史』職官七・提挙常平茶馬市舶等職・提挙茶塩司提挙坑冶司「提挙市舶司掌蕃貨海舶征榷貿易之事、以来遠人、通遠物。元祐初、詔福建路於泉州置司。」。市舶司は対外貿易を司る官署。百度百科:

http://baike.baidu.com/view/47344.htm

[51]掌る官。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicB9ZdicB273246。htm

は北宋王安石の新法の一つ。神宗熙寧二年に行され、権力を六路財賦と茶、、酒税を主管する運使に授け、およそ朝廷が必要とする物は、すべて廉価なあるいは近い地で購入し、貯蔵して需要に備えさせた。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic9DZdic8727922。htm

[52]未詳だが、勝呪を書いた幡であろう。「尊勝呪」のグーグル検索結果:

http://www。google。com/search?hl=zh-CN&q=%E5%B0%8A%E5%8B%9D%E5%92%92&lr=

[53]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E9%93%85%E5%B1%B1&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=il

[54]未詳だが、経文を記した幡であろう。ここでは尊勝呪を書いた幡であろう。

[55]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E9%BB%84%E5%9F%AD&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[56]後部の属官。虞部侍郎。百度百科:http://baike。baidu。com/view/1336190。htm

[57]神の名。これがいる方位及びそれと相反する方位に、建築、引越し、結婚、旅行することを忌む。犯すと必ず凶であるという。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicAA295871。htm

[58]原文のまま。未詳だが、素焼きで、たらい状の器を二つ組み合わせた盒子であろう。

[59]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E5%B8%82%E5%98%89%E5%AE%9A%E5%8C%BA%E5%8D%8E%E4%BA%AD%E9%95%87&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[60]通判は官名。知府の下で糧運、家田、水利と訴訟などの事項を掌管した。百度百科:

http://baike。baidu。com/view/452770。htm

[61]浙江省の県名。湖州府の属県。『宋史』巻八十八・両浙路「湖州、上、興郡、景祐元年、升昭慶軍節度。宝慶元年、改安吉州。崇寧一十六万二千三百三十五、口三十六万一千六百九十八。貢白紵、漆器。県六:烏程、望。帰安、望。太平興国七年、析烏程地置県。安吉、望。長興、望。徳清、緊。武康。上。太平興国三年、自杭州来隸。」。百度百科:

http://baikebaiducom/view/438197htm

[62]岳王廟。百度百科:http://baikebaiducom/view/137585htm

[63]宋の制度で、宰相のであった青色の。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic9DZdic92261524。htm

『宋史』に「青蓋」の用例が見える。

[64]衣服の一。男女いずれも服するが、式は異なる。

http://images。google。com/images?hl=zh-CN&q=%E8%83%8C%E5%AD%90&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[65]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E6%B9%96%E5%B7%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[66]籙斎。道家の潔斎法の一つ。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/11/ZdicE9ZdicBBZdic84293929。htm

[67]屋根の飾り。百度百科:http://baike。baidu。com/view/362248。htm

[68]鬼神への祈祷文。漢典:

 http://wwwzdic。net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic8BZdic9C136460。htm

ただ、ここでは祈祷文を鬼神に捧げることであろう。

[69]恐れるさま。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/15/ZdicE5Zdic87Zdic9B81932。htm

[70]原文「其友周逸卿為率平日交遊裒金作設冥仏事以薦悼之」。「薦悼」が未詳。とりあえずこう訳す。

[71]初更に同じ。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic88Zdic9D101272。htm

[72]宋の神宗の時代の人士選抜法、元豊新法の一つ。その法は太学外舎、内舎、上舎に分け、生員を三等にわけて配し、一定の年限と条件にしたがい、外舎から内舎に入らせ、ついで上舎にのぼらせた。最後は科挙の試験をおこない、個別にその出身を定め、職を授けた。舎では経書を読むのを主とし、当挙でを偏重したことの不足を補った。年間、一度挙を废しもっぱら三舎法によって人士を採用した。宣和三年、詔してこの法を廃した。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic89323306。htm

[73]漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8A16020。htm

[74]代の五代後晋の制をうけ、およそ士子が郷試に合格した後、礼部あるいは廷試で何度も合格しない者は、皇帝がみずから試験をおこなう時別に名簿を作って上奏し、特に受験をした。これは特奏名と称せられ、一般にみな合格することができたので、「恩科」と称した。漢典:

 http://wwwzdic。net/cd/ci/10/ZdicE6Zdic81ZdicA9144586。htm

[75]現在揚州西部の区名。グーグルアース:

 http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E7%B6%AD%E6%8F%9A&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

ここでは揚州のこと。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicBBZdicB4206899。htm

[76]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E5%90%B3%E6%B1%9F&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[77]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B1%9F%E8%8B%8F%E7%9C%81%E8%8B%8F%E5%B7%9E%E5%B8%82%E5%90%B4%E6%B1%9F%E5%B8%82%E9%9C%87%E6%B3%BD%E9%95%87&ie=UTF8&ct=clnk&cd=1&geocode=FUOv1wEdLNQuBw&split=0

[78]原文「欲至妻家謁其信否」。「信否」が未詳。とりあえずこう訳す。

[79]原文「直控其頚」。「控」が未詳。とりあえずこう訳す。漢典:

http://www。zdic。net/zd/zi/ZdicE6Zdic8EZdicA7。htm

[80]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E5%BE%B7%E6%B8%85&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=il

[81]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E6%B9%96%E5%B7%9E%E6%B5%94%E6%BA%AA&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[82] 原文「被急取案追攝對公事耳」。未詳。とりあえずこう訳す。

[83]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E8%A0%A1%E6%BE%A4&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[84]『呉地』「呉江県応天禅院在西南()里唐乾符二年置」。

[85]http://wwwzdicnet/cd/ci/6/ZdicE8ZdicA1Zdic8C215056htm

[86]『夢粱巻十五学校「太学有二十:扁曰「服膺」、「身」、「是」、「守」、「存心」、「允蹈」、「正」、「持志」、「性」、「率履」、「明善」、「徳」、「循理」、「中」、「信」、「果行」、「本」、「道」、「化」、「立礼」。

[87]枝葉が繁茂し広がるさま。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic89ZdicB671681。htm

[88]盛んなさま。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/11/ZdicE9Zdic9AZdic90359720。htm

http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9Zdic9AZdic90359728.htm

http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9Zdic9AZdic90341936.htm

[89]『宋史』巻八十七・陝西「隴州、上、汧陽郡、防禦。崇寧二万八千三百七十、口八万九千七百五十。貢席。県四:汧源、望。有古道銀場。熙寧八年、改秦州定邊砦為隴西鎮、隸県。」。

[90]原文「土地神謝君」。これは皮肉。土地神は神の名。百度百科:

http://baike。baidu。com/view/188975。htm

「土地神」のグーグル検索結果:

http://images。google。com/images?hl=zh-CN&q=%E5%9C%9F%E5%9C%B0%E7%A5%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[91]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E6%BB%84%E5%B7%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[92]官に侍する士兵。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic80Zdic9996700。htm

[93]原文同じ。未詳だが、神に文書で訴えることであろう。

[94]原文「故假此以覬薦抜」。http://wwwzdicnet/cd/ci/9/ZdicE8Zdic8DZdic90203901htm

[95]葉義問。審言は字。紹興三十年、同知枢密院事となる。百度百科:

http://baike。baidu。com/view/1138665。html

[96]光福鎮。グーグルアース:

http://mapsgooglecom/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B1%9F%E8%8B%8F%E7%9C%81%E8%8B%8F%E5%B7%9E%E5%B8%82%E5%90%B4%E4%B8%AD%E5%8C%BA%E5%85%89%E7%A6%8F%E9%95%87&ie=UTF8&ct=clnk&cd=1&geocode=FdBV3QEdEw0tBw&split=0

[97]未詳。

[98]漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic9EZdicAD282845。htm

[99]平江府の属県。『宋史』巻八十八・両浙路「平江府、望、郡。太平興国三年、改平江軍節度。本蘇州、政和三年、升為府。紹興初、節制許浦軍。崇寧一十五万二千八百二十一、口四十四万八千三百一十二。貢葛、蛇床子、白石脂、花席。県六:、望。長洲、望。崑山、望。常熟、望。江、緊。嘉定。上。嘉定十五年、析崑山県置、以年為名。」。

[100]原文「蓋其家軽重其手也。」。「」が未詳。とりあえずこう訳す。

[101]盱眙は泗州の属県。『宋史』巻八十八・淮南東路「泗州、上、臨淮郡。建隆二年、廃徐城県。乾徳元年、以楚州之盱眙、濠州之招信来属。

グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E7%9B%B1%E7%9C%99&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[102]王安石。国公に封ぜられた。百度百科:http://baike。baidu。com/view/2515。htm

[103]原文「一日自城還邑」。未詳。とりあえずこう訳す。

[104]漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/4/ZdicE6ZdicB0ZdicB4323571。htm

[105]グーグルアース:

http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B1%9F%E8%8B%8F%E7%9C%81%E8%8B%8F%E5%B7%9E%E5%B8%82%E5%A4%AA%E4%BB%93%E5%B8%82%E6%B6%82%E6%9D%BE&ie=UTF8&ct=clnk&cd=1&geocode=FXrX4QEdH8E3Bw&split=0

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