睽車志

第一巻

宣政年間、長安の人で、牛を野に放牧している者がいたが、しばしばその牛を見失った。探すと、牛はとある場所に臥していたが、茂っている牧草は肥えて軟らかく、一丈四方の内側は普通の草と異なっているのであった。その後、その場所を探す、かならず牛が見つかった。ある日、大雪が降ったが、牛の臥していた所だけは雪が積もっていなかったので、驚いて掘ったところ、深さ二丈ばかりのところで、「開元祭地j」と刻んである石の匣を得た。開くと、j[1]を得た。形は今出来のようであったが、白色の美玉で、その中の約一寸四方は新しい粟の色であった[2]。(大資鄭公億年が三事を語った)

 

長安城に近い官道の側に、大きな古い塚があったが、当行[3]人がつねに往来していたので、その塚だけはながく保たれ、壊されなかった。建炎初年に賊寇が乱を起こしたとき、ある人が発いたところ、多くの古銅[4]鐘鼎の類を得たが、款識[5]を調べると、すべて三代[6]の物であった。塚には隧道、窟室が設けられ、土は堅くて石のよう、周囲にはすべて人物侍衛の姿が刻まれており、その冠服は、男は襆頭[7]、女は段紒[8]の衣、いずれもェ袖[9]で、今の作りにかなり似ているが、やや異なっていた。そこで数千年前の冠服がすでにこのようなものであったことが分かった。

 

宣和年間、林霊素希世[10]が寵幸せられ、しばしば召されて禁中に入り、便殿[11]で坐を賜わっていた。ある日、霊素はにわかに起きると階下に走ってゆき、言った。「九華安妃[12]がいらっしゃいます。玉清[13]の上真[14]におわします。」まもなく、中宮[15]が来た。霊素は殿下で再拝した。その後、さらに言った。「神霄[16]の某夫人がいらっしゃいます。」その後、貴嬪[17]が来た。霊素は言った。「仙班の中におわしながら、臣たちとつらなり、拝礼なさるべきではございません。」長揖して坐すると、にわかに驚いて見て叫んだ。「こちらではなぜ妖魅の匂いがするのだ。」ときに露台の妓の李師師は宮禁に出入りしていたが[18]、言いおわると師師が来た。霊素は目を怒らし、袂を捲り、すぐに起ち、御炉の火箸を取り、追いかけて撃とうとした。李師師は内侍に救われて免れることができた。霊素は言った。「あのものを殺したとき、屍に孤の尾がなければ、臣は陛下を欺いたかどで誅せられるに甘んじましょう。」上は笑って従わなかった。

 

林霊素は不遇であったとき、落魄して身を慎まなかった。かつて旗亭で酒をつけにし、ながいこと代金を払わなかった。その人が催促すると、霊素は策が尽き、すぐに手を挙げ、みずからの顔を摩った。左頬はすでに枯骨髑髏になっており、残りの半面はもとのままであった。霊素はその人に言った。「わたしに催促してやまなければ、さらに右頬を摩るぞ。」その人は驚き恐れ、請求をやめた。(韓亜卿知丞談)

 

左賁は字を文といい、道術を知っており、京師に遊び、段氏に頼っていたが、たいへん尊重されていた。段氏の母が病むと、賁は拝章[19]を作って祈福[20]し、乙夜に羽衣を着て壇上に伏し、五鼓にはじめて蘇ったが、愴然としてしばらく喜ばなかった。段氏がたいへん恐れ、問いただすと、賁は言った。「ご隠居さまは苦しまれることはございません。三日で癒え、禄算[21]はまだ長うございます。」段は尋ねた。「先生はなぜ喜ばれなかったのでしょう。」賁は言った。「ちょうど金闕[22]を出たとき、突然先師に会い、つよく招かれました。すでに断ることはできず、五日後に去ることになっております。わたしはもともと世に留まってひろく利益を施そうと思っていましたが、今は志を遂げられないため、楽しまないのでございます。」その後、段の母は期日通りに病が癒えた。二日後、賁は亡くなった。段氏は悲しみ、棺衾を調えて納めた。賁の兄は都にいたので、段は葬儀屋数人に命じ、棺を担いで送らせることにしたが、かれらは棺を挙げると、ことわってゆこうとせず、言った。「お棺にはご遺骸はございますまい。わたしたちはながくこの商売をしておりますが、人が肥えているか瘠せているか、大きいか小さいか、亡くなって長いか短いかは、お棺を挙げればすぐに分かります。今このお棺はたいへん軽うございますから、きっと偽って他の物を運んでいるに相違ございません。あちらにゆけば問いただされるかもしれません。」段はかれと約した。「厄介ごとが起こったら、わたしがみずから対応しよう。」到着すると、兄は本当に疑ったので、開いてみると、衣衾があるばかりであった。段が事情を話すと、屍解したことを悟った。(紫微王舎人稽中が二事を語った)

 

孟通判は、密州[23]の人であった。青社[24]で郡丞[25]となり、任期満了して郷里に帰り、もともと神仙長生の説を慕っていた。ある日、道士がかれに会ったが、古い綿入れはぼろぼろ、白癬(しらくも)はめちゃめちゃで、孟に言った。「公は道を好んでいらっしゃるので、公にお会いしにきました。以前青州『度人経』を刷って施されたとき、わたしはかつて軸を受けましたが、公はよく覚えていらっしゃいますか。」文書の御軸をとって見ると、本当に以前施したものであった。さらに言った。「わたしは水銀を焼いて白金にすることができますから、お授けください。」孟は言った。「さようなことは願いません。」そこで言った。「どうしてもほしくないなら、とりあえずご覧ください。」みずから腰のお金数百を取り、孟の従者を顧み、水銀を買ってこさせ、鼎に満たし、熱した炭を巡らし、帯の間の薬剤を解いてその中に投じ、まもなく、取って傾けると、本当に白金になっていた。後日、ふたたび来ると、言った。「わたしは公とお別れしにきました。ちょうどよい茶を得ましたから、いっしょに飲みましょう。」懐を探り、建茶[26]一塊を出したが、ぼろ布で包まれており、蝨とその卵が着いていた。孟は難色を示し、茶器がないことを理由に辞した。道士は紙を取って包むと槌で砕き、炉の中の銀の釜を顧みると水を取って煮、二つの杯に分けて注ぎ、孟に揖し、捧げて啜った。孟はとても熱いことを理由に辞した。しばらくすると、今度はすでに冷めたと言い、しばらくしたら温めて飲もうと言った。道士は怒った。「本当に嫌なのか。」茶を取って零し、揖しないで起ったが、孟はそれでも門まで送った。帰って見ると茶を零した地面はすべて金になっており、その杯および釜の茶に浸された処は裏表がすべて金になっていたので、はじめてかれが異人であったことを知った。すぐに追いかけて探したが、すでに所在を失っていた。

 

儀真[27]の報恩[28]の長老子照がいった。紹興年間、同輩三人と行脚して湖南に至り、山谷の間を通っていたところ、道に迷った。晩に古い廃寺に至り、ともに投宿した。塀と建物は崩れ、寂として人の声がしなかったが、一室だけは戸が閉ざされており、人が中にいるかのよう、土の榻と炉だけがあり、灰でかすかな火を覆い、傍らには素焼きの()[29]が置かれ、見れば芋を煮ているのであった。僧たちは飢えていたので、食らったところ、たいへん旨かった。その後、見ると窓に貼ってあるのは淳化年間の古い綾紙[30]の度牒で、室内には幾つかの大きな甕があり、貯えてあるのは、芋であったり、栗であったり、山蕷であったりで、まったく塩や()の類はなかった。にわかに人が鍤を担い、芋、栗を負って外から帰ってきたが、ざんばら髪で、体はすべて毛、古いぼろぼろの僧衣を着ており、まっすぐ入って土の榻に坐し、客を見ても一言も交わさず、語りかけても答えなかった。夜が更けると、みな壁に寄りかかり、坐して眠った。夜明けになると、すでにその人はおらず、ただ炉の火の傍らに四つの素焼きの()が置かれているばかりであった。その一つはすでに空であったが、その人が食らって出ていったのであった。残りの三つの()はすべて芋と粟であったが、煮られてすでにくたくたになっており、客を持て成しているかのようであった。三人は食らって出、さらに岩の谷、荊の茂みの中をゆくこと二十余里で、路を見つけて帰ったのであった。

 

紹興二十八年、外舅の楊紫微と陳申公俊卿[31]はいずれも小著[32]であり、省内の同じ席におり、国史局堂の西閣にいた。その東閣は大著[33]の席であったが、当時その場所は空席になっていた。ある日の朝、省に入ると、老兵が西閣で首を吊り、梁に懸かっていたので、すぐに解くように命じたが、すでに死んでいた。二公はすぐに入ろうとせず、しばらく東の位に移った。外舅は同省の諸公に言った。「僭越にもこの位におりましたのは、たいへん厚かましいことでした。」にわかに二公がともに大著に除せられたことが知らされた。事は倉卒であったが、予兆はこのようなものであった。

 

趙汝言は字は允之といい、死んですでに数年であったが、忘れ形見の娘住子があった。淳熙乙未の冬、住子がにわかに病むと、その兄謙之は住子に親がなく、幼いことを憐れみ、たいへんよく思いやった。ある晩、夢みてとある場所にいたったところ、高い門や長い回廊には、金碧[34]が輝いており、汝言はそこで、金紫[35]の老人と向かいあって語っていた。老人が誰かと問うと、傍らに侍しているものが言った。「凌待制さまでございます。」汝言は筆を執り、詩を壁に題した。「弾指紅塵二十年、帰りきたれば瀛海[36]浩として無辺なり。夢魂相遇ふは念に随ふに因り、珍重(えがたし)前生兄弟の。」老人はついでその後ろに題した。「世に処りて論ずるなかれ幾年なるを、瀛関[37]これより塵縁を絶たん。芝階[38]雲路逍遥する処、羽蓋飛鯢鞭を用ゐず[39]。」汝言はふたたび顧みて語った。「住子はすでに恙ない。兄の思いが深く、縁が思いによって結ばれたから、兄としばらく会うことができたのだ。」謙之ははじめて住子がすでに死んだことを悟り、慟哭して目ざめた。謙之はみずからその事をたいへんくわしく伝えた。

 

淳熙庚子八月十五日平江[40]常熟県で大火があり、家屋の大半が焼け、焼け爛れて死んだ者は十余人であった。その前の晩、許浦の戍卒が府庁から冬衣を貰って帰り[41]、県庁から一舎を隔てたところに逗留した。戍将は夢で追われてとある所に至ったところ、冠服のものが殿上に坐しており、戍将を庭に呼び、言った。「明日、常熟で変事があるから、部下に乱暴をさせてはならん。」そして軍令[42]を出させた。目ざめると、驚き訝った。夜が明けると、戍卒をすべてとどめ、進めなくさせ、ひとり数人の兵卒を従えてさきに城外の塔院にとどまり、ぐずぐずとして入ろうとしないでいるうちに、にわかに火事が起こった。猛火が燃えさかっている最中に、戍卒が県に入れば、かならず消火にかこつけて掠奪し、乱暴していたことであろう。神のお告げは何と昭昭としていることか。

 

平江の俚言、旧伝、讖記[43]では「潮が唯亭[44]を過ぎると元が出る。」といわれている。また「西山の石が移れば、元が南に還る。」といわれている。淳熙庚子三月二十二日、県穹隆山[45]の大きな石が麓から移動して山の中腹に立ち、石が通ったところは草木がすべて押し倒され、はっきりと進んだ跡が確かめられた。その秋の八月十八日夜、海潮がおおいに至り、唯亭を過ぎ、城を巡って西にいった。穹隆は城の西にあり、唯亭は城の東北四十五里にある。翌年省試[46]があり、平江の[47]はことごとく落第したが、黄由だけが国学から合格し[48]、廷試の前には、みな由が首席となるだろうと噂した。その後、唱名[49]があったが、本当にそうであった。由は字は子由といい、平江の人、国学から選ばれたのは、南にかえる験であった[50]

 

承節郎[51]の孫俊民は家が震沢にあり、除夜に巨人を夢みたが、その身の丈は屋根を越え、街路をゆくとき、一方の手に牛の角を持ち、一方の手に鉄の釘と槌を持ち、孫の家を睥睨し、牛角を門に当て、釘うとうとしていた。夢の中で弁解すると、巨人は去り、その角を向かいの姚氏の家に釘うった。その春、姚氏は家を挙げて(えやみ)になり、死ぬ者が数人あった。

 

湖妓[52]の楊韻は手ずから『法華経』を写していたが、筆を執るときは、かならずさきに精進物を食べ、沐浴して衣を換えていた。その後、病死した。死んだ夜、その母が夢みたところ、韻が別れにきてこう言った。「お経の力により、今すぐに烏程県庁の吏の蔡家に往生して娘になります。」そのとき蔡の妻は孕んでいたが、その晩に夢みたところ、肩輿で門に来る者があり、迎えると、それは韻で、泊まりにきたと言った。蔡の妻は目ざめると娘を生んだ。楊韻の母が後日見にくると、娘は唖然として一笑したので、人々はみな驚いた。

 

龍舒[53]の人劉観は平江許浦の監酒[54]に任ぜられていた。その子尭挙は、字を唐卿といい、嘉禾[55]の流寓試[56]を受けるため、舟を雇っていった。船員には娘があり、尭挙は娘に挑もうとした。船員はとても厳しく娘を守っており、隙に乗じるすべがなかった。引試[57]になると、船員はかれが棘闈[58]に厳重に閉ざされ、とりたてて心配はないので、日々市場に出て交易した。しかし、試験問題は、ちょうど唐卿が個人的に勉強していたものであったので、試験はうまくゆき、試験場を出るのはたいへんはやく、両場[59]のときになってもそうであったので、船員の娘と密会を叶えることができた。観夫婦がある晩に夢みたところ、衣の二人がやおら来て、合格を報告した。「婿どのは首席合格です。」観がその掲示を見にゆこうとすると、傍らの一人が突然つれさった。「劉尭挙は近頃悪辣な事をしたから、天符[60]により殿挙とする[61]。」目ざめてからその夢のことを語りあったところ、同じであったので、すこぶる驚いた。すぐに拆巻[62]となったが、尭挙は雑犯によって不合格となり[63]、主文[64]はみなその文を嘆き惜しんだ。帰ったあと、観は夢のことを語り、かれが最近何をしたかを問いただしたが、隠して言おうとしなかった。次の試験では本当に舒[65]で首席合格となったが、今でも及第していない。(国伝姚行可談)

 

衢州[66]江山の毛知録は、かつて夢みて冥土に入ったところ、吏に引かれてとある場所に至ったが、そこは役所のようで、両廡[67]はいずれも大きな建物、銅銭を貯えて中に満たし、それぞれ官名を標識にしていた。問うと、言った。「これは俸禄だ。」毛がその俸録を見ると、吏が指した場所にはお金五百余千が積んであり、言った。「これはおまえの俸禄だ。位は丞郡にいたるだろう。」さらに傍らを見ると別に十二千を積んであり、「饒州徳興の某人の俸」と題してあった。毛はのちに徽州の[68]となったが、おりしも賊寇が蜂起し、州の補佐官が逃げさったので、毛が補佐官を代理し、二ヶ月で賊が来て殺された。徳興の某人は、のちに及第し、尉を授けられたが、着任して一ヶ月で亡くなった。(劉運使文伯談)

 

信州[69]の小児科医蔡助教は、隣家で失火があったとき、すぐに消したので、事をお上に知らせなかった。後日、蔡が州の役人にたまたまそのことを話したところ、郡官は言った。「これは懲らさないわけにはゆかん。」すぐに州の将軍に知らせ、その隣人を捕らえさせ、数日拘留し、鞭うって帰らせた。隣人は拘留中に疫病に罹り、帰るとすぐにその家族に伝染し、一月足らずで、一家はすべて死んでしまった。数年後、蔡が厠へゆこうとすると、突然隣人が追いかけてきて殴ったので、すぐに病になって死んだ。その郷里の人で、仕事があって臨安にいった者が、蔡を街路で見たが、頭をあらわにしており、二人の黄衣の男によって北へ追いたてられていった。人が進みでて慰問すると、蔡は「わたしは事件で捕らえられ、棘寺[70]にゆこうとしています。」と言い、匆匆として別れた。郷里の人は帰り、はじめて蔡がすでに亡くなったことを知ったが、蔡に会った日は蔡が死んだ日であった。(周済美左司談)

 

大参[71]の王公子明[72]が貴くなる前、補佐官の空きを待っていた。夫人はかつて人から運使[73]恭人[74]と呼ばれる夢を見、喜んで公に語り、公もみずからが監司[75]になることを喜んだ。のちに本当に浙漕[76]になったが、夫人は死んだ。その後、公は政府にのぼったが、以前の夢は夫人が運使の妻となるにとどまることを神が告げていたのだとはじめて悟った。(補佐官の談)

 

文学[77]楊良能邦礼の妻である華亭の鄭氏が里帰りしたときのこと、ちょうどその家のおおおばを改葬していたが、棺を開くと、儼然として朽ちておらず、その面貌を見ると鄭氏とすこしも異ならなかった。その死んだ年を計算すると、鄭氏が生まれた年であった。人々はみな驚いた。鄭氏はたいへん嫌に思い、病に罹り、ほどなく亡くなった。(楊良能談)

 

宗室の士紆は、宣和年間、男子がいなかったので、毎年誕生日に千道斎[78]をして跡取りを得ることを祈願していた。ある日、座席が決まると、突然乞食が騒いで中に入れてくれと頼んだ。士紆は乞食受けいれたが、坐していたものたちは乞食と並ぼうとせず、下座に着いた。食らいおわると、人々はみな散じていったが、乞食はひとりとどまってうろうろしていた。士紆が揖してともに語ると、乞食は「何をお求めでしょうか。」と尋ねた。事情を告げると、乞食は「たやすい事でございます。」と言った。士紆は食器の片づけを監督しており、じっくり歓談するひまがなかった。乞食は別れを告げ、翌日来ることを約すると、懐を探り、薬七粒を出し、「薬をお飲みなさい。」と言い、士紆に飲ませようとした。邑君[79](ついたて)の間からそれを眺めていたが、叫んで止めた。乞食は笑って去った。士紆が薬を握って奥にゆき、邑君が手を開かせて見たところ、朱色で呂の字が書かれており、数日消えなかった。(王正舎人が二事を語った)

 

蔡純誠通判はある僧と親しかったが、かれは高僧であった。突然、蔡を招く手紙を得たので、いったところ、僧はすでに趺坐して亡くなっていた。それに先だち、僧は小さい盒子に封印してその弟子に頼んだ。「蔡さんはたいへん貧乏だ。この盒子の中にはわたしの衣鉢金[80]二両があるから、来たら与えろ。」蔡が来、泣いて嘆くと、僧はふたたび目を開き、しばらく語り、こう言った。「道人が香を焚きにきますが、常人ではありませんから、ついてゆけば、運がよくなるはずです。」そう言うと目を閉じて長逝した。にわかに本当に道士が来たので、蔡が進みでて揖すると、道士は香を焚いてすぐに去った。蔡はついてゆき、とても遠くまでゆくと、道士は尋ねた。「ついてきて何をお求めなのですか。」蔡はもともと寒病[81]に苦しんでおり、どうしても癒えないことを述べた。道士がかれの両手を握ると、まもなく、焼いたかのように熱くなった。蔡は言った。「今、全身が温かくなりましたが、脳だけはまだ冷たいです[82]。」そこでさらに手でその脳を温めると、すぐに温かくなった。そこで蔡に言った。「わたしについてくる必要はありません。」着ている布袍を蔡に贈って言った。「某年月日に、岳陽楼の前で、三百七十銭でこれを買いました。」そう言うと、長揖して別れさった。蔡はその袍を受けとった。他年、蔡はわけあって山東のある郡の茶店にゆくと、ふたたび道士に会ったが、道士はかれを見るとたいへん喜び、袖から釣竿を出し、布と糸を縒って釣糸にし、笑って地に擲ち、やおら引くと、大きな鯉を得た。飲み屋にひっさげてゆき、膾にして食らうと去った。

 

興の楊礼承務[83]の母の県主[84]はもともと尼の法安と仲が良かった。安[85]はかつて夜に青蓮花を夢みた。その娘は蓮師といい、子供のときから口にはつねに蓮の花の香がしたが、生まれて四で夭折したので、焼いたところ、その骨は顱から足にいたるまですべて繋がっていて、持ち上げても折れなかった。(楊礼承務が三事を語った)

 

湖州妙喜村民の相二十は、もともと狡猾で、郷里に害をしていた。年が五十のとき、していることを突然悔い、刻苦勉励し、日々仏号[86]をとなえ、数年間、すこしもやめなかった。とある日、もともと交際していたものたちをあまねく訪ね、みずから言うには、積みかさねた悪業がいたって重いので、身を焼いて懺悔するとのことであった。それぞれに薪数束を求め、十日たらずで、薪数百束を得、高さ二丈ばかりに積んだ。紙の庵をその頂に構え、日を決めてみずからを焼いた。見物人が取り囲んでいたが、村人はなお恐れ、火をつけてやろうとしなかった。相は口に炬を咥え、庵で合掌端坐し、炬で四方を燃やした。まもなく、煙と炎が押しよせ、指が焼け落ちたが、凝然として動かなかった。

 

臨安の下竺[87]の式道士は、苦行懺悔して年を重ね、火鏊[88]を像の前に置き、昼夜読経して巡り、疲れるとすぐに指を鏊に触れて目ざめるのであった。年には、両の手に四本の指が残っているだけであった。たいへん大きな懺堂[89]を建てたが、(たるき)を架し、(しきがわら)を敷くたびに、かならず大悲神呪[90]を七遍となえるのであった。建炎年間、(えびす)が来ると、薪をその下に積んで焼いたが、薪が尽きても建物は燃えず、それ以上焼けることはなかった。

 

岳侯[91]の死後、臨安西溪寨の将軍の子弟が紫姑神[92]を招こうとしたところ、岳侯がくだり、その名を大書した。人々はみな驚き、その花押は生前の真跡さながらであると思った。さらに絶句を書いた。「中原を経略すること二十秋、(いさを)多く(あやまち)少なきもすべては酬いられず。丹心石に似るも今誰にか訴へん、遊魂むなしく九州に遍し。」丞相秦公[93]はそれを聞いて嫌に思い、その仲間を捕らえて懲らしめた。流罪になったものは数人あり、死んだものがあった。(左司周済美談)

 

皇甫坦はみずから数百歳の人だといい、人の吉凶を語ればしばしば験があった。かつて道院[94]に住んでいたとき、ある人が訪ねたところ、ちょうど外出していた。その人はもともと皇甫坦と親しかったので、とどまって待つことにした。門の封印を開くと、ただ一つの榻が蕭然としてあり、(ござ)の下を探したところ半臂[95]を得たが、鮮血が淋漓としていたので、驚き恐れて外に出た。そこへにわかに坦が来、会うとたいへん喜び、童子を顧みて言った。「風が冷たいから、(ござ)の下からわたしの寝間着をとってこい。」童子がすぐに半臂を取ってくると、坦は客に着せた。衣はたいへん清潔で、まったく血がなかった。

人のために字を書くことを好んだが、やはり験が多かった。汪国正遠猷は、及第したとき、すでに壮室[96]を越えていたが、子がないことを憂えとしており、字を坦に求めたところ、「湧」の字を書いた。その後、汪は江の簿[97]授かり、赴任して男子を生んだので、「湧」の字が江の下の男であったことを悟った。ある士人が省試に赴いたとき、坦は「落」の字を書いて与えたので、士人は楽しまなかった。合格発表になると第二十三名であったので、その字を見たところ、草かんむりは二つの十であり、そのさんずいは点ではなく三の字であり、各の字は右払いが点となっており、名の字であった。(汪遠国正談)

 

李知己は永嘉の教官に任ぜられていた。官署には楼があったが、怪がいるので住むことができず、瓦礫が擲たれたり、嘆息吟詠の声が聞こえたりしていた。家人は恐れ、正視しようとしなかったが、知己が家にいるときだけは寂然としていた。ある日、郡庠[98]で季試[99]があったが、教官は直舎に宿るのが慣例であった[100]。知己は怪が騒ぐことをあらかじめ心配し、几案筆硯を楼上に置き、紙数幅を綴じてその表に題し、怪にどこから来たかを問い、その後ろに返事を書かせることにした。そしてすぐに灰をその下に撒き、鍵を掛け、厳重に封印して出た。二日後に帰り、その家を訪ねたところ、怪事はふたたび起こらなかった。鍵を開いて灰を見ると、凝然として足跡がないのに、案の上の紙にはびっしりと字が書かれていた。みずからいうには、姓は石氏で、昔、兄に従って永嘉の幕僚に赴き、郡に到らないで溺死し、今まで二十年、魂は漂って帰らず、たまたまこの楼が空っぽなのを見、しばらくここに身を寄せているが、祟るつもりはない、近頃、媒酌が城南の洪秀才のために縁談を持ちかけ、かれに嫁ぐことになったので、もうこちらにはとどまらないということであった。字体は纖弱で、本当に女子の筆跡であった。文辞は数百言で、纚纚[101]として条理があった。知己も敬い、驚いた。後日、たまたま城南の忠義廟にゆくと、そこの神像に本当に洪秀才があったが、義兵として賊寇を阻んで国事のために死んだ者であった。(永嘉陳韶美談)

 

孫機仲郎中紹遠[102]の父元善价は平江におり、かつて仕事があって市場を訪ねた、籠餅[103]を売っている者を見たところ、亡くなったしもべであった。孫は自分が白昼に幽霊を見ているのかと疑い、唾したところ、しもべはすぐに進みでて拝礼した。「ご主人さま、さようになさらないでください。売れなくなってしまいます。」孫は尋ねた。「おまえはすでに死んだのに、なぜここにいる。」しもべは孫を人がいない処につれてゆき、言った。「寿命は尽きていませんでしたが、薬を誤飲して死んだため、冥府に入れられず魂は漂い、ゆく場所がございませんので、こうして暮らしております。今、街でわたしのようなものは千人になろうとしており、お屋敷の広官人の乳母もそうでございます。お信じにならないのでしたら、今晩はもうお子さまといっしょに寝させないようになさい。あのものは怏怏として楽しまないことでしょう。あのものが熟睡しましたら、楊枝の炭火をとって醋に漬け[104]、その体を焼けば、かならず異変がございましょう。」孫はたいへん驚き、帰ってその話の通りに焼いたところ、突然青い煙が衣服の間から出、にわかに煙が絶えると、乳母はすでに所在を失い、衣服は蝉の蛻のようになっていた。広官人とは、機仲の弟紹祖、字は文仲という者であった。(張判院良臣漢卿が四事を語った)

 

支提長老善秀がいった。その郷里に狩猟を生業とする人がいたが、その妻が昼寝していると、突然牀の前の地が裂けた。深さは測りしれず、俯くと城郭屋宇が見えた。恍惚としていると、身はそこに落ち、殿庭[105]に至った。仰ぎ望むと王がその上に坐していたが、左右のものはすべて牛頭阿傍[106]であった。主人は大きな刀でその手足を断つように命じ、心肺を裂いて懸け、踵から頂まで細かく鑢に掛け、血肉を泥のようにし、捏ね合わせて団子にしたが、業風[107]が吹くと、にわかにふたたび人となるのであった。その身が悲惨な目に遭っているとき、その識神[108]は傍らにあり、屠[109]苦痛は名したがいものであった。目ざめると、身は榻の上にあり、しばらくするとはじめて話せるようになったが、全身の余痛は、一日を経て収まった。その後、年を越しても、半年たっても、見るのはかならずこのようなありさまで、その苦しみは耐えがたかった。ある日また同じ光景を見たところ、殿上の人が言った。「善秀長老にお願いしにゆき、懺悔すれば罪を滅ぼせるぞ[110]。」そこでその言葉通りに秀に会い、事情を語った。秀は『破地獄真言』を誦えさせ、くわしく演説懺滌[111]してやり、その後はふたたび以前の光景を見ることはなく、やはり平穏に死んだ。

 

成忠郎[112]の傅霖は、淳熙庚子に臨安の監[113]に任ぜられた。かつて北関[114]に新たな倉を建てることを建議し、民家八十余軒を接収し、屋宇を破壊したため、老若は流離し、怨嗟が沸きおこった。当初、霖が夜に書閣[115]に坐し、建議の利点を説く草稿を書いていたとき[116]、突然その姉の婿林路分の家の、二人の亡くなった下女が前を歩いて、すぐに宅堂に赴いた。まさに驚いていたとき、その妻および娘は寝ていたので、いそいで呼びおこし、尋ねたところ、「いましがたその下女が外から来、お嬢さまのためにとりもちをしましょうと言いました。」言った。その娘に尋ねると、夢は符合していたので、たいへん嫌に思った。その後、その娘は病んだ。倉は建ったが土地はじめじめしており、あるひとが、以前しばしば水没の禍があったと言ったので、霖はますます憂え恐れた。そして床版を高くし、地から二尺としたが、費用は数えきれなかった。さらに大きな水車の設備を整えようとしたが[117]、お上には余裕の資金がなかった。その家はもともと富んでいたが、妻に五百緡を求めたところ[118]、妻は拒んで与えなかった。霖は窮迫し、刃で自殺しようとしたが、救われて死ななかった。医者が桑の皮でその傷を縫合し、薬を塗ったところ、癒えはしたものの、頷と頚が強ばって伸びず、俯いたままで、仰ぎ見ることはできなかった。心は悲しみ、精神病になったので、祠禄を請うて帰った[119]

 

最終更新日:2009年4月16日

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[1]j。玉器の一種。画像検索結果:http://images。google。com/images?hl=zh-CN&q=%E7%8E%89%E7%90%AE&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[2]原文「而其中方寸許作新粟色」。「新粟色」が未詳。熟していない粟か。だとすれば黄緑色か。

[3]官府の仕事に応じる工匠。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicBDZdic93223998。htm

[4]古代の器。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8FZdicA4209673。htm

[5]鼎彝器に刻された文字。漢典:

http://www。zdic。net/cd/ci/12/ZdicE6ZdicACZdicBE287775。htm

[6]夏、商、周。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic89323254。htm

[7]頭巾の一種。百度百科:http://baike。baidu。com/view/1557366。html

画像検索結果:http://images。google。com/images?hl=zh-CN&q=%E8%A5%86%E9%A0%AD&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[8]原文同じ。まったく未詳。「段」は緞子であろうが。

[9]未詳だが、字義からして大きな袖であろう。

[10]北宋の道士。百度百科:http://baike。baidu。com/view/222948。htm?func=retitle

[11]正殿以外の殿、帝王の休息消する場所。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBEZdicBF19872。htm

[12]道教の女仙の一つ。雲笈七籤巻九十七に見える。参照:http://www。guoxue。com/zibu/dao/yun7/yj7_099。htm

[13]道家三清境の一つ、元始天尊の居所。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic8EZdic89218319。htm

[14]真仙。漢典:http://www。zdicnet/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8A5959htm

[15]皇后の居住する。皇后をもさす。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD332967。htm

林霊素が劉貴妃(安妃劉氏)を「九華玉真安妃」とし、神霄帝君の左にその像を描いていたことは『宋史』に見える。『宋史』巻二百四十三・劉貴妃「妃天資警悟、解迎意合旨、雅善塗飾、制一服、外間即傚之。林霊素以技進、目為九華玉真安妃、肖其像于神霄帝君之左。」。貴妃は皇后ではないが。

[16]原文「神霄某夫人来」。「神霄」は道教九天の最も高いものをいう。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA5Zdic9E326331。htm

ただ、ここでは前注に見られる「神霄帝君」を指すか。ただし、「神霄帝君」については未詳。

[17]ひろく妃嬪を指す。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/9/ZdicE8ZdicB4ZdicB5240874。htm

[18]原文「時露台妓李師師者出入宮禁」。「露台」は宮中で歌舞を演ずるために設けられた舞台。

李師師は宋の徽宗に寵愛されたという名妓で、正史には登場しないが、俗文学に出てくることで有名。

「露台妓」は未詳だが、露台で歌舞する妓女のことか。

[19]鬼神への祈祷文。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic8BZdic9C136460。htm

[20]神に福を賜うことを求めること

漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/7/ZdicE6ZdicB1Zdic8212197。htm

[21]人生で定められている福禄運命。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/12/ZdicE7ZdicA6Zdic84184594。htm

[22]天上の黄金、仙人あるいは天帝の居所。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic87Zdic91274260。htm

[23]山東省の州名。百度百科:http://baike。baidu。com/view/419352。htm

[24]青州のこと。の山北部一の故地。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic9DZdic92259203。htm

[25]原文「丞郡青社」。「丞郡」は未詳。郡丞になることか。「郡丞」は郡守の副。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/9/ZdicE9Zdic83ZdicA1245438。htm

[26]福建省建溪一する名茶。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicBBZdicBA101994。htm

[27]真州のこと。『新校本宋史』巻八十八・淮南東路「真州、望、軍事。本上州。乾徳三年、升為建安軍。至道二年、以揚州之六合来属。大中祥符六年、為真州。大観元年、升為望。政和七年、賜郡名曰儀真。」。

真州する百度百科記述:http://baikebaidu。com/view/610274。htm

現在の儀徴。儀徴の地図検索結果:http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E4%BB%AA%E5%BE%81&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[28]未詳だが、真州にあった恩光孝禅寺のことであろう。後に天寧万寿禅寺と改名した。天寧万寿禅寺・天寧塔の画像検索結果:http://images。google。com/images?hl=zh-CN&q=%E5%A4%A9%E5%AE%81%E4%B8%87%E5%AF%BF%E7%A6%85%E5%AF%BA%20%E5%A4%A9%E5%AE%81%E5%A1%94&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[29]酒を入れる器。漢典:http://www。zdic。net/zd/zi/ZdicE7ZdicBCZdicB6。htm

[30]模様つきの紙であろう。公文書などに用いられたようである。『宋史』巻一百六十三・吏部にくわしい記載がある。

[31]『宋史』巻三百八十三に伝がある。参照:http://baike。baidu。com/view/215286。htm

[32]著作佐郎。『宋史』巻一百六十四・秘書省・序言「秘書省監少監丞各一人、監掌古今経籍図書、国史実、天文数之事、少監為之貳、而丞参領之。其属有五、著作郎一人、著作佐郎二人、掌修纂日秘書郎二人、掌集賢院、史館、昭文館、秘閣図籍、以甲、乙、丙、丁為部、各分其類。校書郎四人、正字二人、掌校典籍、判正訛謬、各以其職隸於長貳。」。

[33]著作郎。官名。三国魏明帝が始めて置き、中省に属し、国史の纂を掌った。その属官に著作佐郎(後に佐著作郎とも称した。)正字などがあった。晋元康中改めて秘省に属し、大著作と称せられた。唐代は著作局を主管し、やはり秘省に属した。宋元もそれに因ったが、宋には別に国史院があったので、著作郎「日(日の)等を匯編するのに参与するだけであった。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/11/ZdicE8Zdic91Zdic97203335。htm

[34]金と玉。また、金黄と碧の色。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic87Zdic91261533。htm

[35]金印紫。黄金の印章と印を縛る紫色の綬帯漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic87Zdic91273696。htm

[36]大海。漢典:http://www。zdicnet/cd/ci/19/ZdicE7Zdic80Zdic9B221385htm

[37]原文同じ。未詳。「瀛閬」の誤りか。瀛閬」は瀛洲と閬苑。神仙の住陸亀『奉和美公四詠次韻』「何由振玉衣、一瀛閬。」。

[38]未詳だが、霊芝の生えた、仙宮のきざはしであろう。

[39]原文「羽蓋飛鯢不用鞭」。羽蓋は鳥のを飾りにした車蓋。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/6/ZdicE7ZdicBEZdicBD204582。htm

飛鯢」は未詳。「不用鞭」は鞭を用いる必要がないほど速いということであろう。「快不用鞭催」という慣用句がある。

[40]蘇州のこと。常熟はその属県。『宋史』巻八十八・両浙路「平江府、望、郡。太平興国三年、改平江軍節度。本蘇州、政和三年、升為府。紹興初、節制許浦軍。崇寧一十五万二千八百二十一、口四十四万八千三百一十二。貢葛、蛇床子、白石脂、花席。県六、、望。長洲、望。崑山、望。常熟、望。江、緊。嘉定。上。嘉定十五年、析崑山県置、以年為名。」。

[41]原文「許浦戍卒自府請冬衣還」。許浦は平江府の砦の名。『宋史』巻一百九十二・兵三「安吉州七砦管界、安吉、秀塞、呂小幽嶺、下塘、北豪、皋塘。

平江府八砦江、長、許浦、福山、白茅、江湾、楊林、角頭。常州五砦管界、小河、馬跡、香蘭、分界。」。

戍卒は砦を守る兵士。「請冬衣」は未詳。とりあえずこう訳す。宋代、公務員には春用冬用の衣服が支給されていた。『宋史』に用例多数。

[42]命令を受け入れた後に書く保証書。任務を完成できなかったときは、厳しい処分を受けることを願っていることを示す。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic86Zdic9B337009。htm

[43]予言を記した書。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/19/ZdicE8ZdicB0ZdicB6260448。htm

[44]蘇州東郊の地名。グーグル検索結果:http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&lr=&q=%E8%8B%8F%E5%B7%9E%E5%94%AF%E4%BA%AD&revid=39042265&ei=bY2WSd-YPJDM6gO7g6GHCQ&resnum=0&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[45]百度百科:http://baike。baidu。com/view/2282。htm

画像検索結果:http://images。google。com/images?hl=zh-CN&q=%E7%A9%B9%E9%9A%86%E5%B1%B1&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

グーグルアース:http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E7%A9%B9%E9%9A%86%E5%B1%B1&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=il

[46]唐宋代に省礼部により主宰行された試験。礼部試とも、後に会試と称した。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/9/ZdicE7Zdic9CZdic81179494。htm

[47]未詳だが、国子監生のことであろう。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicB2Zdic81284457。htm

[48]原文「唯由以国学解中選」。由に関しては以下を参照。州呉巷の人だが、原籍は福建莆田涵街の人。太学生から状元となった後、紹興府通判となる。百度百科:http://baike。baidu。com/view/309366。html

国学」は太学のこと。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic9BZdicBD346370。htm

中選」は合格のこと。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD304487。htm

」はまったく未詳。

[49]殿試の後、皇帝が名を呼んで及第した士を召見すること。参照:http://www。zdic。net/cd/ci/11/ZdicE5Zdic94ZdicB1314200。htm

[50]原文「而用国学発薦、南帰之験也」。未詳。とりあえずこう訳す。発薦は合格のこと。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8FZdic9163501。htm

[51]宋代の武官名。百度百科:http://bike。baidu。com/view/1072254。htm

[52]未詳。

[53]安徽省の旧県名。位置はおおむね今の安徽省舒城高祖五年に県を置いた。唐の元二十三年に舒城県を設けた百度百科:http://baike。baidu。com/view/375240。htm

グーグルアース:http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E8%88%92%E5%9F%8E%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[54]造酒を督する官吏。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9BZdic91227380。htm

[55]嘉興府のこと。『宋史』巻八十八・両浙路「嘉興府、本秀州、軍事。政和七年、賜郡名曰嘉禾。」。

[56]南宋時代、異民族に征服された北方から南方に流寓した士人を対象に、南方で行われた文官登用試験。参照:http://qkzz。net/magazine/1004-2229/2007/05/1047942_2。htm

[57]身元の保証を受け、受験すること漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicBCZdic95125518。htm

[58]棘囲。科挙の試験場。参照:http://www。zdic。net/cd/ci/12/ZdicE6ZdicA3Zdic98288673。htm

[59]科挙の試験は初、二、三の三回に分けて行われ、これを三場といった。ここでは、三場をさすか。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8914956。htm

[60]天廷の命。参照:http://www。zdic。net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicA997117。htm

[61]の試験で、文理が誤っていたり規則違反、不正などをしたことにより、罰として数回の受験を停止されること。参照:http://www。zdic。net/cd/ci/13/ZdicE6ZdicAEZdicBF161484。htm

[62]試験答案の弥封を開くこと。参照:http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic8BZdic86136823。htm

弥封は試験官が情実を加えるのを防ぐために、答案の受験者の名の上に貼られる紙。参照:http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicBCZdicA5125324。htm

[63]原文「尭挙以雑犯見黜」。雑犯は雑律に違反すること。雑犯は「人命」「詐欺」などのような範疇に納めきれない、種種雑多な犯罪をあつめて一つの範疇にしたもの。

[64]試験官。漢典:http://wwwzdicnet/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB8ZdicBB5617htm

[65]舒城県。龍舒に同じ。百度百科:http://baike。baidu。com/view/375240。htm

[66]百度百科:http://baike。baidu。com/view/7760。htm

グーグルアース:http://maps。google。com/maps?hl=zh-CN&q=%E8%A1%A2%E5%B7%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[67]正殿の前、左右両脇にある建物であろう。

[68]。官名。参照:http://baikebaiducom/view/1065892html

[69]江西省州名。『宋史』江南東路「信州、上、上饒郡、軍事。崇寧一十五万四千三百六十四、口三十三万四千九十七。貢蜜、葛粉、水晶器。県六、上饒、望。玉山、望。弋陽、望。淳化五年、升弋陽之宝豊場為県。景徳元年、廃宝豊県為鎮、康定中復、慶三年又廃。貴溪、望。鉛山、中。開宝八年平江南、以鉛山直属京、後還隸。永豊。中。旧永豊鎮、隸上饒、熙寧七年為県。」。

百度百科:http://baikebaiducom/view/473756htm

グーグルアースhttp://mapsgooglecom/maps?hl=zh-CN&q=%E4%BF%A1%E5%B7%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[70]大理寺の称。大理寺を司る官署。参照:http://www。zdicnet/cd/ci/12/ZdicE6ZdicA3Zdic98136726htm

[71]参政の称。宋代参知政事の略称、副宰相。参照:http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic8FZdic8230298。htm

[72]王旦。百度百科:http://baike。baidu。com/view/60068。htm

[73]官名。水運使、運使、運使等の称。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicBFZdic9051077。htm

[74]婦の封号の一つ。宋徽宗政和三年に定められ、中散大夫から中大夫の妻が恭人に封ぜられた。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/10/ZdicE6Zdic81ZdicAD166073。htm

[75]察のを負っている官吏。以後の司隷校尉と州県を督察する刺史、転動使、按察使、布政使などを司と通称した。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9BZdic91174171。htm

[76]両浙漕司。両浙は浙と浙西の合称。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/7/ZdicE4ZdicB8ZdicA47281。htm

漕司は「漕運司」とも。管理税賦を催徴し粮を出納し、朝廷への年貢と漕運などの事を処理する官署あるいは官北宋は運司と称し南宋は漕司と称した。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/14/ZdicE6ZdicBCZdic95220659。htm

[77]儒生。またひろく学のある人を指す。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic96Zdic87301669。htm

[78]道斎は斎食を食べること。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic81Zdic9350986。htm

「千道斎」は未詳だが、文脈からして、千人に斎食をふるまう行為か。」

[79]君、女子の封号。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/7/ZdicE9Zdic82Zdic91245018。htm

[80]僧侶の衣食、資財。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicA1ZdicA3303463。htm

[81]寒症に同じいか。寒症は寒邪によって引き起こされる病気。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/12/ZdicE5ZdicAFZdic92126085。htm

[82]原文「今偏体皆暖、惟脳尚冷。」。やや矛盾した言い方だが、そのまま訳す。

[83]隋唐の官名。後に地主富豪の通称として用いられた。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic89ZdicBF9134。htm

[84]皇族の女子の封号。後漢の帝女はみな公主に封ぜられた隋唐以来、王の娘も、主に封ぜられた。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic8EZdicBF38256。htm

[85]法安のことと思われる。なぜ「安」となっているのかは未詳。

[86]仏の名号。世尊、如来、瞿など。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/7/ZdicE4ZdicBDZdic9B293257。htm

[87]下天竺のこと。天竺は山峰の名。また寺名。浙江杭州市霊来峰の南にあり、上中下に分かれている。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicA9306277。htm

[88]火鏊は未詳。鏊は餅を焼くための平底の鉄鍋、鏊子あるいは鏊盤と俗称する。漢典:http://www。zdic。net/zd/zi/ZdicE9Zdic8FZdic8A。htm

鏊子の画像検索結果:http://images。google。com/images?hl=zh-CN&q=%E9%8F%8A%E5%AD%90&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[89]未詳。語義からして懺悔をするための堂宇か。白蓮懺堂というものがあり、白蓮教の宗教施設のようである。百度百科:http://baike。baidu。com/view/26722。htm

白蓮懺堂の検索結果:http://www。google。com/search?hl=zh-CN&q=%E7%99%BD%E8%93%AE%E6%87%BA%E5%A0%82&lr=

[90]大悲呪のこと。参照:http://www。fjdh。com/dabei/index。htm

[91]岳飛。

[92]神の名。子姑、坑三姑とも。妾で、正妻に嫉まれ、つねに穢い仕事をさせられていたが、正月十五日に激して死んだので、世人はその日に彼女の姿を作り、夜に厠あるいは豚小屋で迎える。南朝宋劉敬叔『異苑』巻五、南朝梁宗歳時記』に見える。一説には、姓は何、名は楣、字は卿といい、唐の寿陽刺史李景の妾で、正妻曹氏に嫉まれ、正月十五日夜、殺されたため、上帝が憐れみ神になるように命じたという。旧俗では元宵にで祀り、扶乩で迎えた。『』及び宋蘇軾『子姑神』に見える。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/12/ZdicE7ZdicB4ZdicAB202303。htm

[93]秦檜。

[94]道士の居住する場所。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic81Zdic9350922。htm

[95]短い袖あるいは袖なしの上衣。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8DZdic8A8865。htm

画像検索結果:http://images。google。com/images?hl=zh-CN&q=%E5%8D%8A%E8%87%82&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[96]男子は三十壮年と称し、また妻を娶る歳にあたることから、「壮室」と称する。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicA3ZdicAE105458。htm

[97]未詳だが、主簿であろう。主簿は代以来中央及び郡県の官署に多く置かれた、文書を主管し、事務を弁理する官。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB8ZdicBB8838。htm

[98]府学のこと。漢典:http://www。zdicnet/cd/ci/9/ZdicE9Zdic83ZdicA144466htm

[99]学校で行われる試験の一種と思われるが未詳。

[100]原文「教官例当宿直舎」。「直舎」は未詳だが、宿直所であろう。「直舎」に関しては漢典に項目が立っているが、語釈に「古代官禁中値弁事之」とある。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/8/ZdicE7Zdic9BZdicB417218。htm

ただ、『睽車志』ではあきらかに「郡庠で季試があったが」とあるので、宮中に限らず、宿直するための屋舎をいうのであろう。

[101]連綿として絶えないさま。また、秩序あるさま。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/25/ZdicE7ZdicBAZdic9A205638。htm

[102]百度百科:http://baike。baidu。com/view/213616。html

[103]饅頭の古称。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicACZdicBC231577。htm

[104]原文「取楊枝炭火醋淬之」。「楊枝炭火」はまったく未詳。楊の枝から作る炭か。「醋淬」という言葉はあり、熱した薬剤を酢に投じ、冷やしてから取り出すことだという。百度百科:http://baike。baidu。com/view/529917。html?fromTaglist

ただ、すぐ後に「その体を焼けば」とあり、つながりが未詳。

[105]殿の階の前の平地。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/13/ZdicE6ZdicAEZdicBF217299。htm

[106]「牛阿傍」とも。また「牛首阿旁」とも。の鬼卒。漢典:http://www。zdicnet/cd/ci/4/ZdicE7Zdic89Zdic9B81606htm

[107]悪業に感応して起こる猛。劫末の大災のおよび地などで吹く漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9A137216。htm

[108]仏教。心、心霊。漢典:http://wwwzdicnet/cd/ci/7/ZdicE8ZdicAFZdic86255982htm

[109]殺し皮を剥ぐこと。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/11/ZdicE5ZdicB1ZdicA0128147。htm

[110]原文「当往求善秀長老懺悔可以滅罪」。「懺悔」が未詳。とりあえずこう訳す。

[111]洗に同じ。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicBFZdic8F223885。htm

洗は仏教。心を清くし罪を悔いること。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicBFZdic8F175373。htm

[112]宋代の武官名。百度百科:http://bike。baidu。com/view/1083708。html?tp=2_01

[113]官名の略称と思われるが未詳。

[114]南宋の首都安城の北門。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8CZdic97355921。htm

[115]籍を収藏する場所。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB9ZdicA6283933。htm

[116]原文「草定建請利便」。未詳。とりあえずこう訳す。

[117]原文「又欲大営備水車骨之具」。「水車骨」が未詳。とりあえずこう訳す。竜骨車のことか。

[118]原文「乃従妻丐五百緡」。「従」がすこし変に思われるが未詳。とりあえずこう訳す。

[119]原文「請祠禄以帰」。官名。宋の制度では、大臣が退職すると、道教の宮観を管理させ、優待していることを示した。仕事はないが、肩書きによって俸禄が得られたので、「祠禄」といった。漢典:http://www。zdic。net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA5ZdicA0154950。htm

「請祠禄」は退職を請求すること。

 

 

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