稽神/補遺

 

 李漢雄

李漢雄は、かつて欽州の刺史となり、郡をやめ、池州[1]に住み、風角[2][3]の奇術に優れ、兵によって殺されるとみずから言っていた。天祐丙子の年、浙西に遊び、はじめて役所に入って嘆じた。「役所の気候[4]はたいへん悪い。兵乱があるはずで、期日は遠くない、わたしはすぐに帰らなければならない。」会うと、府公[5]はかれをあつく待遇し、留まること十日、すぐに去れなかった。ある日、晩に宿屋を出、四顧して嘆じた。「禍は明日にある。わたしは留まれない。」翌朝、府に入って辞し、客間の中に坐し、しばらくして言った。「禍がまもなく来る。すぐに出ればまだよいかもしれない。」そして府を出て門にゆくと、将軍周交[6]が乱を起こすのに遭い、門下で殺害された。

 

 高安村の小児

高安村の人に子供がおり、畑で働いていた時、人に殺されたが、下手人は見つからなかった。翌年の命日になると、家人は斎食を設けてやった。その日、村の子がおり、まさにその子供に会うと、子供は言った。「ぼくは××家の死んだ子だ。今日、家人が斎食を設けているから、いっしょに食べにゆこうか。」村の子はすぐにその家についてゆき、ともに霊牀に坐し、食べものが来るとかならず食らったが、家人には見えなかった。しばらくして、かれの舅が後から来、霊牀に向かって泣くと、子はすぐに指さして言った。「この人がぼくを殺したんだ。会うのは嫌だ。」そして去った。子が去ると、家人は村の子が霊牀の上に坐しているのを見、みなたいへん驚き、そのわけを尋ねると、子はくわしく語り、さらにかれの舅が殺したと言ったので、捕らえて役所に送り、罪に服させた。

 

 

建陽県の[7]陳は、性質が剛狷[8]で度量は広く[9]なかった。県吏十人に誣告され、棄市に坐した。翌年の命日になると、家では斎食を設けてやった。妻は哭しおわると、ひとり霊前で嘆じて言った。「あなたは平生剛直で称えられていましたの、今回、非業の死を遂げました。来年、精魂は何と寂しいことでしょうか[10]。」その晩、すぐにを夢みると、は言った。「わたしはまったく死んだことを知らなかった。さきほど□□□□おまえが言うのを聞き、はじめてはっと気づいた。このようなことならば、わたしは仇に報いるべきだが、官署はにわかに入れるものではない。おまえは明日わたしのために県に入り、冤罪を訴えろ。わたしはそれにしたがおう。」翌日、妻は言われた通りにゆき、門を出るとすぐにが剣を執って従うのを見た。県庁にゆき、一人の(かたき)吏に橋の上で会ったが、が剣でその頭を撃つと、吏はすぐに転倒して死んだ。門に入ると、はすぐに官署にゆき、次々に打った。中たるものはみな死に、十人のうち八人を殺した。二人の吏は臨川に逃げてゆき、免れることができた。の家は蓋竹にあり、人はつねにかれを見ていたので、祠を建て、陳府君廟と号し、今でもその霊異を伝えている。

 

 鍾遵

江南の大理評事[11]鍾遵は、南平王伝[12]の孫で、官職を歴任して収賄していた。水部[13]員外郎孫岳はふだんからその事を知っており、要人に密告し[14]、法に触れ、獄に下った。赦免にあって除名せられ、遵は事が赦免の前にあったし、さらにかれの祖父はかつて鉄券[15]を賜わり、子孫二人の死を恕されていたので、さらに宮闕にいって訴えた。事は所轄の役所に下されたが、大理は収賄の罪状はっきり奏したので、棄市せられた。刑に臨んで、あるひとが酒を与えたが、遵は飲まず、言った。「わたしは地下に訴えるので、酔わせるのはよくない。」遵が死んで一月あまりして、岳が客と坐していると、小さな青い蛇が棟の間から出てきた。岳は見て驚いて言った。「鍾評事だ。鍾評事だ。」顔色を変えて入り、病み、翌日死んだ。

 

 魯思郾の娘

臣魯思郾は、娘が生まれて十七年になっていた。ある日、鏡に臨んで化粧しようとし、鏡の中をふと見ると、一人の女が、披髪徒跣し、一人の嬰児を抱いており、振り返れば後ろにいたので、恐れて倒れ、しばらくして意識が戻った。それから毎日つねに見、しばらくすると、その家人もみな見た。思郾がみずからそのわけを尋ねると、答えた。「わたしは揚子県の村人の娘で、去年、建昌の事某が用事で揚子に来、わたしを招いて側室にしましたが、娘さんはまさにかれの正妻でした。一年あまりしてこの子を生み、その後、事は近県に出、娘さんはわたしとこの子を井戸に投じ、石で埋め、その夫を騙して言いました。「逃げさりました。」わたしが役所に訴えていましたところ、ちょうど娘さんは亡くなりました。今は後身ですが、もとより命を償うべきです。」思郾は人に命じ、建昌に馳せてゆき、事実を調べさせた。その事は老いていたがまだおり、言われた通りに井戸を掘ると、ほんとうに骸骨が見つかった。その家はあれこれ祓ったが、まったく許さなかった。その娘は後に褚氏に嫁いだが、祟りはますますはげしくなり、朝晩恐れ、亡くなるにいたった。

 

 袁弘禦

後唐の袁弘禦は雲中[16]の従事[17]となり、もっとも算術に優れていた。同僚[18]が庭の桐の樹の葉の数を計算させると、すぐにみずから起きて樹を量り、地から七尺のところを囲み、周囲の長さをとって計算し、しばらくして××枚と言った。人々は確かめられなかったので、揺らして二十二葉を去るように命じ、ふたたび計算させたところ、言った。「すでにさきほどより二十一葉少ないです。」くわしく見ると、二枚の葉はやや小さく、一枚にしか相当しなかった。節度使張敬達は二つの玉碗を持っていたが、弘禦はその幅と深さを量り、計算して言った。「この碗は来年五月十六日巳の刻に壊れるはずです。」敬達は聞いて言った。「大事に保存しているのだから、破れようか。」すぐに大きな籠に入れるように命じ、衣絮を布き、庫の中に閉ざした。期日になると、庫の屋梁は折れ、まさにその籠を圧したので、二つの碗はともに砕けた。太僕少卿薛文美同僚はみずからそれを見た。

 

 蒯亮

処士蒯亮が言うには、かれの知人が額に瘤を患ったので、医者が切ってやると、一つの黒い碁石が見つかった。巨斧で撃ったが、結局壊れなかった。さらに脛に瘤を生じたものがおり、親戚の家にゆき、猛犬に咬まれ、まさにその瘤を齧られたが、中から針百余本が見つかった。すべて用いられ、病も癒えた。

 

 張易

江南の刑部郎中[19]張易は、若くして菑川[20]に住み、病が篤く、苦しみが激しくなろうとすると、ぼんやりと一人の神が見えたが、身長は数寸ばかり、枕頭に立ち、薬三丸を持って言った。「これを飲めば癒えよう。」易は受けとるとすぐに飲み二丸は口に含んだが、一丸は席に落ちて音をたてた。みずから起きて探したが、見つからなかった。家人が驚いてどうしたと尋ねたので、くわしく見たことを述べると、病はすぐに癒え、その日のうちに、里巷に出入りし、まったく苦しむことがなかった。

 

 広陵の大工

広陵に大工がおり、病のために、手足はすべて曲がって縮み、もはや斧斤を執れなかった。杖に縋って[21]乞食し、后土廟の前にゆくと、一人の道士に遇ったが、長身で色黒で、風采はたいへん異常であった。呼んでその病を尋ね、薬数丸を与えて言った。「これを服すれば治るはずだ。明日の夜明けにまたこちらで会おう。」大工は辞した。「わたしは来られません。家はここから遠く、明日、日が暮れてもなおこられません。」道士は言った。「心配するな。とにかくはやくこちらに来い。」そして別れて去った。大工は家に帰ると、その薬を食らった。まもなく、手足がたいへん痛んだが、真夜中に止み、すぐにられた。五更になって目ざめると、手足がたいへん軽く感ぜられたので、牀を下り、元通り小走りし、すぐに后土廟の前に馳せていった。しばらくすると道士が杖に縋って立ち、再拝陳謝し、道士は言った。「おまえに処方を授けるから、人の病苦を救え。大工となるな。」そして再拝して受け、その姓名住所[22]を尋ね、言った。「わたしは紫極宮におり、事があればわたしを訪ねればよい。」そして去った。大工は処方を得、用いて病を治したが、癒えないものはいなかった。紫極宮にいって訪ねたが、二度と会えなかった。後に女が久しく病み、やはり一人の道士に会い、薬を与えられて癒えたが、その容貌を言うと、やはり大工が見たものであった。広陵はその後乱れ、大工は行方が知れなくなった。

 

 郭厚

李宗は舒州[23]刺史となり、開元寺を再建した。大工が集まり、古井戸を浚おうとすると、井の中から…[24]言われた通りにこれを得、船の屋上に干し肉があり、女は取って食らった。四人の兵卒その手を見た…[25]。王寇[26]は宮闕を犯し、天下は乱れ、僧たちはわたしの路銀を利とし、わたしを殺し、この井戸に投じ、今、骸骨はこちらにございます。わたしのために李公に仰ってください。どうかわたしを葬り、お見捨てになりませぬようにと。主はそのことを宗に告げた。翌日みずから井戸端にゆき、掘らせると、ほんとうに骸骨を見つけたので、すぐに衣衾棺槨を調えてやり、祭を設けて葬った。葬る日、伍伯はふたたび地に倒れ、幽鬼の言葉を語って言った。「李公にお礼してください。幽魂はこちらにいることすでに三十年、公のご恩のおかげで、今、九州の社の命令ですでにわたしは土地の神に補せられ[27]、こちらに祭られているのです。」寺では今でも祀っている。

 

 彭虎子

彭虎子は少壮で膂力があり、鬼神はいないとつねに言っていた。母が死ぬと、俗巫は戒めた。「某日に殃煞[28]が帰ってくるはずで、また殺すものがあるから、出て避けるべきだ。」家中の女子供はすべて家を出て逃げ隠れたが、虎子はひとり留まって去らなかった。夜中に人が戸を開けて入ってき、東西の建物にいったが、人を見つけられず、次に建物にはいり、廬室[29]の中に向かってきた。虎子は慌ててなすすべがなく、牀頭に先に一甕があったが、すぐにその中に入り、板で頭を掩うと、母が板の上にいるのを感じた。ある人が尋ねた。「板の下に人がいないか。」母は言った。「いません。」連れ立って去った。

 

 馬挙

馬挙はかつて山南の奏官[30]となり、道を尋ねながら蜀に入ったが、時に兵乱の後で、僻地の路にはまったく人煙がなかった。夜にある館にゆくと、東の廊下で人の語る声がしたので、告げにゆくと、応えるものがいて言った。「中堂に牀があり|から、自分で泊まりにゆけ。」挙が中堂にゆくと、土の榻があり、火を求めると、答えた。「火はない。」席を求めると、屋を隔てて一枚の席を擲って出したが、重さは十余斤ほどであった。挙も壮士で、まったく意に介さなかった。真夜中に、(もののけ)があらわれたが、サルのようで、榻に登ってきた。鉄椎を挙げていそいで打つと、叫んで逃げた。朝になり、別れを告げると、その人は怒って去り、さらに言った。「夜、おまえがひとりでいるのを見、倅を伴いにゆかせたが、打たれて死にそうになった。」挙はその門を推したが開けず、隙から窺うと、土が積もっているだけであった。挙は後に太原の大将となり、官は淮南節度使にいたった。

 

 陳亀範

陳亀範は、明州[31]の人で、広陵に旅し、賛善[32]の馬潜[33]に仕えていた。ある晩、にわかに亡くなり、役所にゆくと、役所の役人が文書を見て言った。「わたしは陳亀謀を追っていたのに、なぜ亀範を追うのか。」範は答えた。「わたしは本名を亀謀といい、最近、馬賛善さまに仕えていますが、馬さまが言うことを忌まれましたので[34]、一字を改めたのです。」府公は言った。「明州の帳簿をとってこい。」まもなく、一人の吏が帳簿を持ってきたが、見ると亀謀であった。そこで官署に引いてゆくと、吏は言った。「ある人があなたはすでに引退したと訴えた。あなたは帰られるべきだ。」亀範はみずから言った。「平生多難で、貧苦は極まっています。人はもとより死ぬべきであり、今こちらに来ました以上は、帰ることを願いません。」吏はつよく追い払ったので、さらに言った。「それならば、将来の窮達の事を知ることを願います。」吏で帳簿を調べてやると言った。「あなたは後日たいへんよく、富貴にいたりませんが、職禄は欠けません。」さらに寿命がどれほどか尋ねると、言った。「それはもとより言えません。」さらにどこで亡くなるかを尋ねると、言った。「揚州でもなく、鄂州でもありません。」家に送りかえし、目ざめた後に潜は二つの郡を歴任、たいへん信任せられた。潜は亡くなり、揚州に帰り、鄂州に命を奉じて使いし、帰る時、彭沢で亡くなった。

 

 馬思道

洪州の医博士馬思道は、病が篤かったが、突然ひとり嘆いて言った。「わたしは平生悪事をなした覚えがないのに、どうして女となるのでしょう。今から、条子坊の朱氏の妻の所に転生します。」その子が探して見ると、その家の妻はほんとうに妊娠し、褓をって待っており、思道が亡くなると、朱氏はほんとうに娘を生んだ。

 

 海陵の夏氏

戊戌の年[35]、海陵に城壁を築いて郡とし、人の墳墓を侵した[36]。市儈の夏氏がおり、その祖先は塩商をしたことがあり、墓は城西にあったが、夏はその祖先を改葬した。百十年で、棺を開くと白骨があるだけで、衣服器物はすべて儼然として新しいもののようで、汚損がなかった。紅錦の(かけぶとん)があり、文彩はもっとも優れていた。夏はちょうど貧しくしていたので、すべてとって売ると、人はきそって高値で買って去った。そのほかの塚は経た年は及ばなかった[37]がすべて腐敗していた。

 

 廬陵[38]の彭氏

廬陵の人彭氏が、その父を葬った時、ある術士が地を卜してやり、言った。「こちらに葬れば代々藩牧郡守となろう。」彭は従った。さらに穴を掘ると、術士は言った。「深さは九尺を過ぎてはならない。」しばらくすると、術士はしばらく他の所に憩うたので、人足が一丈あまり掘ると、たちまち白い鶴が地から出、雲の中に飛び込んだ。術士は嘆き恨んで去った。今、彭氏の子孫には県令となっているものがいる。

 

 武夷山

建州の武夷山では、風雨の晩に、人馬簫管の音が聞こえることがあった。朝になれば、棺槨が懸崖の上にあり、中に脛骨一節があったので、土人は仙人換骨函といっていた。近年ある人が深く入り、俯くと一つの函が見え、その上に「潤州[39]朝京門[40]染師張某の第三女」と題してあった。物好きはそれを記憶した。後に潤州にゆくと、ほんとうに張氏の家を見つけたが、言うには、第三女は、嫁がないで亡くなり、すでに数年であるとのことであった。そこでその墓を発けば、空の棺であった。

 

 林賛尭

丙午の年[41]、漳州の副将林賛尭が監軍[42]中使[43]を殺し、郡および保山岩を占拠して陣営とした時、地を掘り、古墓を見つけたが、棺槨はすべて腐っていた。中に一人の娘がいたが、衣服容貌はまったく生きているかのようで、全身にはまだ暖気があった。兵士はその金銀の(かんざし)(みみわ)とってその屍を棄てた。さらに一つの塚を発き、棺を開いてみると一人が披髪して面を掩い、棺の中に蹲っていた。兵士は驚き恐れ、死んだ者は数人であった。賛尭は結局誅に服した。

 

 張紹の軍卒

丙午の年[44]、江南の軍が留安[45]を囲んだが、軍政は厳肅でなく、兵士は墳墓を発掘して財物を取り、諸将は禁じなかった。監軍使[46]張匡紹が率いている兵卒二人が、城南で塚を発き、一つの椰子の実のを見つけて匡紹に献じ、言った。「わたしはこの塚を開き、棺を開くと緑衣の人を見ましたが、顔は生きているようでしたので、恐れて犯そうとしませんでした。墓の中に他に宝はなく、ただこの杯を見つけました。」営に帰ると緑衣の人がすでに某の部屋に坐しており、一日にしばしば現れたので、たいへん嫌に思った。一二日して、二人の兵卒はいずれも戦死した。

 

 谷の塚

安州[47]城南の馬谷の塚の近くに大きな塚があったが、棺槨はすでに腐っていた。ただ一つの骸骨があり、身長は三尺、旧友の左鵬はみずからそれを見た。

 

 秦進崇

周の顕徳乙卯の年、偽漣水軍使泰進崇が城を修理し、古墓を発いたが、棺槨はすべて腐っていた。古銭、割れた銅鏡数枚を見つけ、さらに一つの瓶を見つけたが、中にさらに一つの瓶があり、地に黒い文、隸字でこうあった。「一双青鳥子、飛び来る五両頭。借問す船の軽重、信を寄せて揚州にいたる。」その翌年、周師は伐ち、進崇は死んだ。

 

 陳褒

清源の人陳褒は、別荘に隠居し、窓に臨んで夜に坐していた。窓の外は広い野であったが、突然人馬の声が聞こえ、見ると、一人の女が虎に騎り、窓の下を過ぎ、すぐに西の建物入った。壁の下には先に一人の下女が臥していたが、女はすぐに細い竹の枝をとり、壁の隙間から刺した。下女は突然腹が痛み、開き、厠にいった。褒は驚き、話すのが間に合わなかった。下女は出ると、すぐに虎に攻撃されたので、すぐに進みでて救い、からくも逃れた。いうには、村ではしばしばこうした怪事があるということであった。いわゆる虎鬼であった。

 

 朱氏の子

広陵の朱氏に子がおり、家柄は貴く、性来牛を食らうことを好み、殺すことは数えきれなかった。かつて夏に、一頭の牛を殺そうとしたが、その母は止めて言った。「このように暑いし[48]、おまえはすでに酔っているから、幾らも食べられまい。殺してはいけない。」子は牛に向かって言った。「わたしにお辞儀すれば、赦してやろう。」牛はすぐに垂らしてお辞儀したが、朱はかえって怒った。「畜生になぜ人の言うことがわかるのだ。」すぐに殺した。数日して、病み、つねにこの牛に祟られ、牛の声となって死んだ。

 

 張某の妻

晋州[49]神山県[50]の民張某の妻は、突然、一人の男を夢みたが、褐衣を着、腰と腹はたいへん細く、迫って淫し、双方が接して去った。その後、妊娠したが、生肉を食らうことを好み、つねに満腹せぬことを恨みとし、唇を舐め、歯を咬んで怒り、性質はますます凶暴になった。半年して、二匹の狼の子を生み、生まれるとすぐに走ったので、その父はいそいで撃ち殺した。妻は病んでぼんやりとし、一年あまりして回復した。村人は狼母といった。

 

 張謹

道士張謹は、符法[51]を好み、苦学したが学業成就しなかった。かつて旅して華陰[52]の市にゆくと、瓜を売るものがいたので、買って食らった。傍らに老人がいたが、謹はかれの飢色に気づき、取って贈ると、百余を食らった。謹はかれが尋常でないことを悟り、ますます敬った。去ろうとすると、謹に言った。「わたしは土地の神だが、お心に感謝しているので、お礼しよう。」そして一編の書を出して言った。「これは狐魅を禁ずる術だから、つとめて行うべきだ。」謹が受けとると、老人も見えなくなった。その日、近県の村に宿ると、その家で娘が泣き叫んでおり、様子は狂人のようであった。主人に尋ねると、答えた。「家に娘がおりますが、近頃、狂疾となり、が暮れるたびにかならず盛装し、胡郎を呼んでこいというのです。治療するのでなければ、どうしようもございません。」謹はすぐに護符を書いてやり、檐と間に施した。その日の晩、檐の上で泣き罵って言った。「どこの道士だ。他人の家の事に関わるとは。いそいで去るべきだ。」謹は怒鳴りつけた。しばらくすると、大声で言った。「わたしは奴隷となろう。」そして寂然とした。謹がさらに数枚の護符を書くと、病はすぐに癒えた。主人は絹数十匹を贈って感謝した。謹はひとりで旅していたので、重い持ちものを得ると従僕を必要とした。数日たつと、突然二人の奴隷が謹のところに来、徳児、帰宝という、以前崔氏に事えていたが、崔は地方官となったので、捨てられたとみずから称した。今、身を寄せるところがないので 、側近くに侍することを願うとのことであった。謹が受けいれると、二人の奴隷はいずれも誠実有能で、もっとも信頼できた。謹は東にゆく時、書嚢、符法、通行手形、衣服は、すべて帰宝に担がせた。関所に着こうとすると、帰宝は突然大声で罵って言った。「わしを奴隷とするのは、おまえの親父を使役するようなものだ。」そして疾走した。謹は驚き怒り、追いかけたが、帰宝の進むさまは風のようで、たちまち見えなくなった。その後、徳児も見えなくなり、持ち物はすべて失われた。時に秦隴[53]で兵乱があり、関禁[54]は厳しかったので、旅人はゆくのに通行証がなければ、すべて刑戮せられていた。そこで東にゆこうとせず、主人のところに戻り、くわしく告げると、主人は怒った。「どうしてそんな事があろう。満足せずにさらにわたしを煩わすのか。」そこで田夫の家に止まったが、まったく提供するものがなかったので、耕夫となり、ともに働くことを願い、昼に耕し、夜に休んだ。疲労が極まり、大樹の下に憩い、仰ぎ見ると二人の子供がおり、言った。「わたしたちは徳児、帰宝だ。おまえは奴隷となって苦しいか。」さらに言った。「この符法は、わたしが書いた。失ってすでに久しかったが、今ふたたび得たことを喜んでいる。わたしはどうしておまえに情がなかろうか。[55]」荷物を擲って返していった。「すぐに帰れ。村人はおまえが護符を書くのを待っている。」すぐに大笑いして去った。謹は荷物を得、ふたたび主人のところにゆくと、主人ははじめて驚き、さらに絹数匹を贈ったので、去ることができた。それからは護符を書くのをやめた

 

 合肥の富豪

合肥の富豪劉某は、鶏を食らうことを好み、鶏を殺すたびに、かならず先に両足を切り、木の戸棚に置き、血が滴りつくせば調理し、悪臭を除けると思っていた。某は後に病み、鬢に瘡を生じた。癒えると、さらに小鶏の足が瘡の痕に生じ、櫛けずるたびにかならずその足を傷つけ、傷つけるとすぐに流血が顔を掩い、終日痛んだ。このようにして年を重ね、傷つかない日はなく、結局そのために亡くなった。

 

 平固の人

処州平固の人がその親戚の家を尋ね、宿泊したところ、夜分、寝室の中で人が語る声がし、おもむろに起きて聞くと、ガチョウたちが語っていた。「明朝主人はわたしを殺そうとするから、よく子供たちを見ろ。」話はたいへんくわしかった。夜が明けると、客は辞して去り、主人は言った。「わたしはたいへん肥えたガチョウがいるから、召しあがっていただきましょう。」客がくわしく告げると、主人は家を挙げてさらにガチョウを食らわなくなった。まもなく、村を挙げて食らわなくなった。

 

 海陵の闘うガチョウ

乙卯の年[56]、海陵郡の西の村で、二羽のガチョウが空中で闘い、しばらくして地に落ちた。その大きさは五六尺ばかり、両足は驢馬の蹄のようで、村人で殺して食らったものはみな亡くなった。翌年、兵は海陵を陥れた。

 

 海陵の人

海陵県の東では住民は多くは雁を捕えることを生業としており、つねに一羽の雁を飼い、その六翮[57]を除いて囮にしていた。ある日、雁たちが辺塞に帰る時、雁の囮は突然人語して主人に言った。「わたしはあなたに十分銭を償ったから、わたしを放って帰らせろ。」そして空に騰がって去った。この人は二度と雁を捕えなかった。

 

 広陵の若者

広陵に若者が一羽の鸜[58]飼い、たいへん愛していたが、檻に入れること八十日で、死んだので、小さな棺に入れ、野に埋めようとした。城門にゆき、門番が開いてみると、人の片手であった。捕らえられて吏に拘禁されたが、およそ八十日して、ふたたび死んだ鸜なったので、許しを得た。

 

 染屋

広陵に染屋がおり、九曲池[59]の南に住んでいた。夢みると、一人の白衣の若者が寄寓することを求めたので、答えた。「わたしの家は狭く、あなたを受けいれるに足りません。」そして厨房に入った。その晩、家を挙げて夢み、日が出ると、厨房で一匹の白い鱉を見つけたが、幅は一尺余、両目は金のようであった。その人は紫極宮道士李棲一の所に送ってゆき、水中に置いたところ、色は金のよう、目は丹のようになったが、水から出れば元通り白くなった。棲一は測り知ることができず、ふたたび池の中に送ると、見えなくなった。

 

 海辺の人

近頃、海辺の人がおり、魚扈[60]の中に生きものを見つけたが、それは人の片手で、掌の中に顔があり、七竅はすべて備わり、動けるが語れなかった。しばらく回覧すると、あるひとが言った。「これは神霊だから、殺すべきでない。」その人が水上に放置すると、その生きものは水に浮かんで去り、数十ばかりすると、突然数回大笑いし、跳ねて水に沈んだ。

 

 契丹

盧文進[61]は、幽州[62]の人で、南にゆき、范陽王に封ぜられた。かつて言うには、契丹に陥り、しばしばさらに塞で射猟し、軍糧に供したが、真昼に猟していると、突然天が暗くなり、星々が粲然とした。人々はみな恐れ、蛮人を捕らえて尋ねると、いわゆる「笪卻日」[63]であった。この地では尋常のことで、回復すると思っていた。まもなく明るくなったが、日はまだ(ひる)であった。さらに言うには、つねに無定河[64]で人の頭骨一つを見たが、大きさは柱ほどで、長さは七尺ばかりだということであった。

 

 楊蘧

王賛[65]は、中朝の名士であった。弘農の楊蘧というものがおり、かつて嶺外[66]にゆき、楊朔[67]荔浦[68]の山水を見、心のなかでつねに愛慕し、称賛してやまなかった。蘧はかつて賛の門下に出入りし、すこし会った時[69]、おもわず言葉に表した。「侍郎さまは楊朔荔浦の山水を見られましたか。」賛は言った。「人を唇が綻び歯が落ちるほど殴ったことがないので、どうして見られよう。」そして大笑いした、これは嶺外の地には、流罪にされるのでなければゆかないことをいっていたのであった。

 

 洞中で道士が対局すること

婺源[70]の公山の二洞には[71]、穴があり、井戸のようであった。咸通末年、鄭道士が縄で吊るされて百余丈下ると、傍らに光があったので、見にゆくと、路は窮まり、水に阻まれた。岸を隔てて花木があり、二人の道士が対局していたが、一人の童子に命じ、船に棹差してこさせ、尋ねさせた。「渡ろうとしているのか。」「帰る。」と答えると、童子は舟に帰って去った。鄭はふたたび吊られて出た。翌日、井戸の中では石筍が入り口を塞いでおり、それから入るものはいなくなった。

 

 波間の女

謝仲宣は西江に舟を浮かべたが、見ると一人の女が波間に沈み、腰から下は魚であった。人が魚に化したか、魚が人に化したか分からなかった。

 

菱を採り蛟に遇うこと

晋の曲阿の民謝盛は[72]、船に乗り、湖に入り、菱を採っていたが、見ると一匹の蛟が船に向かってきた。盛は(さすまた)で殺し、恐れて家に帰った。数年後、ひどい(ひでり)になった。盛が湖にいてゆき、見ると、以前の(さすまた)地にあったので、拾いとったところ、突然胸が痛み、家に帰って亡くなった。

 

 北斗君主簿

許攸が夢みると、烏衣の叟が漆塗りの案[73]を捧げてきたが、六通の文書があり、拝跪して言った。「府君は北斗君となろう。陳康は主簿となろう。」目ざめると、康が突然会いに来た。攸が告げると、康は言った。「わたしは道師[74]で、死ねば社公[75]となるに過ぎませんが、今、北斗主簿を得たのは、ありがたいことです[76]。」翌年の同じ日に死んだ。

 

 楊祐が頭痛を患うこと

楊祐はつねに頭痛を患っていった。医者が治そうとすると、祐は言った。「わたしは生まれて三日目に、頭を北の向けていた。風が項を吹くのを覚え、心の中でたいへん嫌に思ったが、語れなかった。病根は深いので、治せない。」

 

 鄭玄の老いぼれ

王輔嗣[77]は『易』に註したが、鄭玄のことを老いぼれで、たいへん面白みがないと笑っていた[78]。夜がふけると突然おもての楼閣[79]屐を履く音がし、まもなく入ってき、みずから鄭玄だといって言った。「おまえは年が若いのに、どうして文句を穿鑿しているのに、みだりに老いぼれを譏る。」そう言うと去り、輔嗣はにわかに亡くなった。

 

魑魅と光を争うことを恥じること[80]

康が燈下で琴を弾くと、突然一人の男、身長一丈あまり、黒い単衣に革帯をつけ、康はじっくり見ると、火を吹き消して言った。「魑魅と光を争うことを恥じる。」

 

 鄭公場で銀を採ること

饒州[81]の鄭公場は、銀を採る所で、山には(たにがわ)があり、底が出ていた。天祐末年、銀夫[82]十余人が、澗に沿って地下道を穿ち、数入れば、空闊明朗であった。山頂に穴があり、天窓のようで、日光が下に照り、楼閣には四つの柱があり、石はすべて白銀であった。銀を採るものがふたたび出、斧を持ち、入って切りとろうとすると、まもなく山が崩れ、入ったものはみな圧死した。まもなく、流血が(たにがわ)から出、数日ず、それから入ろうとするものはいなくなった。

 

 李白の旧宅の酒[83]

滄州に李巡官がおり、洛陽の空家に住んでいた。その子が夜に書を読んでいると、p衣で肥えて短躯の人が酒気を帯び、闥を排して入ってきた。その子が恐れて逃げると、p衣の人は怒った。「李白さえわたしと友となったのに、おまえはなにものだ。」その子はかれが神仙かと疑い、再拝して延坐すると、p衣はいった。「酒を持っているから、おまえと飲もう。」そして席帽に酒を盛って数杯にいたった。かれの父はから窺い見、妖怪だと思い、磚を擲つと、p衣のものは逃げた。その帽を見ると、であった。翌日、糞土の中から一つを見つけた。古老は李翰林の旧宅だといった。

 

 老猿が女を盗むこと

晋州[84]の含山[85]に妖鬼がおり、女を盗むことを好んでいた。かつてある士人が含山にゆき、夜にその妻とはぐれ、朝になって探した。深い山に入ると、一つの大きな石に、五六人の女がともに坐しており、尋ねた。「どうしてこちらに来られました。」くわしくそのわけを語ると、女は言った。「ご夫人は昨晩こちらに来られ、石室の中にいらっしゃいます。わたしたちはみな盗まれることを経験しています。将軍は人を盗んでこちらに来、ともに容彭[86]の術を行い、十日ごとに一度試しますが、(ねりぎぬ)を奪いとり、その身および手足にあまねく纏いつけ、術を施し、運気[87]しますと、練はすべて断裂するのです。一度試すごとにかならず一疋を増し、明日は五疋になります。あなたは明朝こちらにきて窺い、わたしたちは六七疋をいそいでかれの身に纏いつけますから、あなたが来られましたら、すぐにいっしょに殺して宜しゅうございましょうか。」その人は期日通りにゆくと、一人の男は容貌がたいへん恐ろしく、女たちは(ねりぎぬ)でかれを縛っていたので、六疋になるとまっすぐ進んで格闘し、殺したが、一匹の老猿であった。その妻を得、女たちみな出られ、その(あやかし)えた

 

 凶宅で銀を掘ること

寿州の大将趙璘のことである。その州に凶宅があり、人は住もうとしなかった。璘はいって住み、ひとり中堂を占めていたが、夜に(もののけ)が牀を推して言った。「わたしたちはすでに久しくこちらにおり、あなたに圧され、たいへん不快だ。あなたはすぐに去ればよい。」鬼はともにその牀を庭に移し、璘も安眠した。翌日、堂上の牀を置いた処で埋蔵銀を掘りあて、宅は安らかになった。

 

 紫薇宮[88]の題壁

建業に占いするものがおり、突然、紫薇宮に題壁して言った。「昨日朝天して[89]紫薇を過ぎ、玉壇[90]風冷たく杏花稀なり。碧桃われに(ちか)しみ消息を伝へ、何事ぞ人間さらにかへらざる。」それから足跡をったが、人々はみなかれが昇天したのだといった。

 

最終更新日:201278

稽神録

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[1]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/54646.htm&sa=U&ei=LSL5T_PMAab3mAXNoamdBQ&ved=0CBwQFjAB&usg=AFQjCNGy49MWGqqo_7f8ssqyebgh4b1RbA

[2]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9ZdicA2ZdicA8349516.htm&sa=U&ei=QSL5T8u2GOygmQWik_SIBQ&ved=0CBkQFjAB&usg=AFQjCNHWARANucS4ykNENYVI8KeG9k5H2A占卜名。

[3]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic8EZdicA8222287.htm&sa=U&ei=VCL5T6LkBKKKmQWl6sSYBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFwXgZ2PwjY3k3oUDXpHjA90Ec46g推命術。

[4]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6ZdicB0Zdic94287459.htm&sa=U&ei=vR32T8fGKM6dmQWP9eixBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNF0fRBTXYr008jO6812OIQ-2XNUPQ雲気等の化。

[5]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicBAZdic9C122799.htm&sa=U&ei=uSL5T5O8J8uOmQWBopCvBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEn0lkyTSoXEozgzWHPNcIdPR0UVA唐、五代の度使、察使の称。

[6]未詳

[7]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE9Zdic8CZdicB2273363.htm&sa=U&ei=-yL5T9_IBsyVmQXDkoGHBQ&ved=0CB8QFjAF&usg=AFQjCNE2d1uHa1egvG_sdNNyQ0HDt8RqyA官名。

[8]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic88Zdic9A88914.htm&sa=U&ei=Ws70T5yvCcTwmAWWmcSlBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEN8ruDX6YqSa8aARk4GjR9LMNS7w正狷介。

[9]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5ZdicAEZdicB9125766.htm&sa=U&ei=ec70T-iGI6_5mAXaopGsBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNF7I7fyYGK4JIfSVeZ63qqfMf2JBQ気量が大きく、寛容であること。

[10]原文「君平生以剛直稱、今枉死、逾年精魂何寂然耶。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[11]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicAFZdic84253158.htm&sa=U&ei=jyP5T5aGGYnGmAXKrtCXBQ&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNEQRg226JRH14I92l4-wcC6hgZMwg官名。

[12]http://baike.baidu.com/view/228447.htm#2

[13]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6ZdicB0ZdicB4323605.htm&sa=U&ei=0CP5T_KLI-HomAX-3JmVBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNF6ie6KgLyQeSeUtp2Hd2HNPqAtpw官名。

[14]原文「密縱於權要」。「縱」が未詳。とりあえずこう訳す。

[15]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic93Zdic81341286.htmhttp://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic93Zdic81277123.htm皇帝が功臣に授け、代々某享受させた証書。

[16]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/432674.htm&sa=U&ei=eiT5T_OhJcnLmAXkpZyoBQ&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNF4GBMbwE7eZuiPPjkkOK2kV9zbCA

[17]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicBBZdic8E284342.htm&sa=U&ei=kST5T7GlEqSLmQX4j9SRBQ&ved=0CCEQFjAD&usg=AFQjCNEwgRyD9UnAq4NG4WBZ7U1F6GI6_Q官名。

[18]原文「同府」。未詳。とりあえずこう訳す。

[19]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic83Zdic8E321515.htm&sa=U&ei=xCT5T6OrH832mAWurqSJBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHEk5H990g0qNJalYqRkM3PpPqcDg官名。

[20]http://baike.baidu.com/view/3705449.htm#2

[21]原文「扶踴」。未詳。とりあえずこう訳す。

[22]原文「名居」。未詳。とりあえずこう訳す。

[23]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/898705.htm&sa=U&ei=zSX5T9_bNISDmQWuudyTBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGOi0lhA6hM_kWBZXQuKCM2-LxVvA安徽省の州名。

[24]脱文がある。

[25]脱文がある。

[26]未詳

[27]原文「今九州社令已補我為土地之神」。「九州社令」が未詳。とりあえずこう訳す。

[28]未詳だが、禍をもたらす神であろう。

[29]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5ZdicBAZdic90119286.htm&sa=U&ei=HLL3T5mEJ8fmmAWr1JGyBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEOuVGIvaX44tk8ocyFC1O-RBzfOQ漢典に適当な語釈なし。http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5ZdicBAZdic90284922.htm墳墓の近くに服喪のために建てる小屋を「塚」というが、廬室も服喪のための部屋ではないか。

[30]原文同じ。まったく未詳。

[31]http://baike.baidu.com/view/1302576.htm

[32]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE8ZdicB5Zdic9E241269.htm&sa=U&ei=J8v3T-WSHc_RmAXxuMmCBQ&ved=0CBgQFjAC&usg=AFQjCNHT-hjRxx_EeRPctk21w0Gaun15uA官名。善大夫」の略称。

[33]未詳

[34]原文「馬公諱言」。http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicAEZdicB3338239.htm諱言」はむことがあって言おうとしないこと馬潜の父親の諱に「謀」という字が使われていたものか。

[35]晋の天福三年、南唐の昇元二年。

[36]原文「城海陵縣為郡、侵人塚墓。」。「城海陵縣為郡」が未詳。とりあえずこう訳す。「侵人塚墓」は城壁を造るために民間の墓を撤去したのであろう。

[37]百十年を経た墓に

[38]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/866703.htm&sa=U&ei=Myj5T7b_MOv0mAW-z_SYBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNE-C8yExMokZ-qR2ZWxsYJz2yKFgA

[39]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/159878.htm&sa=U&ei=lyj5T7_6AY7ymAWu59yBBQ&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNELdFQAu-h-aCKfyWMu-sWKOIOD3A

[40]未詳

[41]晋の開運三年、南唐の保大四年

[42]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9BZdic91190427.htm&sa=U&ei=WCn5T_fTIOHXmAXW0vCMBQ&ved=0CBsQFjAD&usg=AFQjCNE6VNppchImJ1f2S7n1hr5zhQSDVA軍隊監督する官

[43]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD332903.htm&sa=U&ei=PSn5T_bUFY6dmQWx0uCIBQ&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNEhIIfVoCCRCufBzHLihVZwKz0yEQ中が派出した使者。多くは宦官を指す。

[44]南唐の保大四年

[45]正史にこうした地名なし。未詳。

[46]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1120378.htm&sa=U&ei=Rjr5T9q4OsXtmAXP6OyoBQ&ved=0CBoQFjAD&usg=AFQjCNGfrPBoPt23bz-33MY-7Lm8230uNw

[47]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/2026788.htm&sa=U&ei=ECr5T926IsidmQWtueWRBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFH70q2LTOAwmBOrtV1A3AwjqfciA

[48]「暑いから屠った牛もすぐに腐ってしまおう」という含みがあろう。

[49]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/20373.htm&sa=U&ei=SSr5T9mJMcfRmAWFscWVBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNE6GdM3ob_sfNh10xuSc0F_wHaP7A

[50]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E7%25A5%259E%25E5%25B1%25B1%25E7%25B8%25A3&sa=U&ei=Xir5T4GTGueOmQX4xPCaBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGRX1k6S6nTAccRAgoH-Tp2DbAv3Q

[51]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicACZdicA6186612.htm&sa=U&ei=Bub3T8WuKceKmQWPs9yCBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHIyiuvESo9PgMdklp9HBCLJUqkgQ

[52]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/3245383.htm&sa=U&ei=lCr5T_vqFufxmAWVp6WoBQ&ved=0CBwQFjAB&usg=AFQjCNHd8vlosoFLkqrbuHJdd-6BMsgCjQ

[53]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicA7ZdicA6224696.htm&sa=U&ei=sSr5T-yMBKHamAWxt5GoBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFGzKR-VFqRuRdBxP8Q2cLd_QK81A西、甘

[54]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic85ZdicB3252929.htm&sa=U&ei=yir5T_LfKKb_mAXTweCrBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHs_Zy_iBA5O68ZKQ2r1YbGChHHnQ漢典に適当な語釈なし。関所での取り締まりのことであろう。

[55]原文「此符法、我之書也。失之已久、今喜再獲、吾豈無情於汝乎。」。訳はこれでよいのだろうが、話全体の中での脈絡が未詳。また、この文の中の「失之已久、今喜再獲」の句の前後との脈絡も未詳。

[56]乙卯、周顕徳二年。

[57]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85ZdicAD23746.htm&sa=U&ei=ggH0T6fHCO_wmAXGs5CbBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEc0DLWpwP36As2G-bDULmyJ8C00gの両翼。

[58]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9ZdicB8ZdicB253633.htm&sa=U&ei=-yr5T5mxDeHtmAXxtpGSBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFyBCbd9tb0v-qScAMxNvoUo4laMA名。俗称八哥。画像検索結果

[59]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/2746378.htm&sa=U&ei=Niv5T6fSKMzUmAXHi_2bBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFKtk4wmZ0DRgYxBAufRaTCN2qiUQ『建康志』「(九曲池)在台城東宮城内、梁昭明太子所」。

[60]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9ZdicB1ZdicBC91430.htm&sa=U&ei=5Q70T4rPNoKdmQWc9aWRBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGS0nhD18CdeDTzPA_qNUOVSxZxmg魚滬http://www.zdic.net/search/?q=%E9%B1%BC%E6%B2%AA」とも。魚簖http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9ZdicB1ZdicBC54829.htm&sa=U&ei=wiv5T-nwE8zMmAXzo-SaBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHYcX0IFwV6SGFqs7tlVv2nX2bOww水に挿し、、捕捉に便ならしめる竹の

[61]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/879935.htm&sa=U&ei=Hiz5T9HkCKLRmAWP6eCfBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHMdYt4LUn0IEemNzKOoh9X49p-Sg

[62]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/57832.htm&sa=U&ei=LSz5T_zjHsTzmAX7_umpBQ&ved=0CBcQFjAB&usg=AFQjCNGA5sslfBvdv1hIM9xvENIMxw3nmQ

[63]原文「笪卻日」。「卻」未詳。衍字あるいは「笪日」を動詞目の語構造としてとらえ、動詞に「卻」がついているものか。http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicACZdicAA194885.htm「笪日」日食の、白昼闇夜のようになることをいう

[64]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/37327.htm&sa=U&ei=bc32T4CJDK_umAWanuWEBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNE_2AYlADQDuWapV-nAqYL3eTTXqA

[65]http://baike.baidu.com/view/203552.htm#sub7183051

[66]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicB2ZdicAD118905.htm&sa=U&ei=ZC75T6_wD6rnmAXYm7meBQ&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNH5hYfCwlCWrOWpWeABAntupsDNBg以南の地区。http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicBAZdic9412861.htm湖南、江西南部と広西、広北部の境界にある越城、都龐嶺、萌渚、大庾

[67]原文同じ。の誤り。

[68]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/395156.htm&sa=U&ei=6Lz0T5b_E8jamAW22q2QBQ&ved=0CCUQFjAD&usg=AFQjCNE0vf5Jc-BHLfEEAPuOvG3pmJhKCA

[69]原文「稍接從容」。未詳。とりあえずこう訳す。

[70]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/8339.htm&sa=U&ei=9cH0T5OhMMqimQWupNCMBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHe-V_NGEi0BIPxE_E0-xX3ZJg5Fw

[71]原文「婺源公山二洞」。未詳。とりあえずこう訳す。「公山」は鄣公山(別名大鄣山)か。

[72]原文「晉曲阿民謝盛」。曲阿はこれと思われるが「晉」が未詳。東晋のことか。とりあえずこう訳す。

[73]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE6ZdicA1Zdic88.htmものを置く足つきの台。

[74]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic81Zdic9350939.htm漢典に適当な語釈なし。「道士」と同じではないか。

[75]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicA4ZdicBE225822.htm&sa=U&ei=JjP5T_ntJMLZmAXEqbyqBQ&ved=0CBcQFjAB&usg=AFQjCNHgsQB9CGMb7JxTgSRJEgcptVOVbA土地神。

[76]原文「主為忝矣」。未詳。とりあえずこう訳す。

[77]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/2516303.htm&sa=U&ei=bzP5T63HFqXhmAXiyZmZBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEdzAob0GXPB7EIjwpKqho-YD_M9Q

[78]原文「笑鄭玄雲老奴、甚無意」。「無意」が未詳。とりあえずこう訳す。

[79]原文「外閤」。未詳。とりあえずこう訳す。「閤」は楼閣。

[80]原文「恥與魑魅爭光」。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE4ZdicBAZdic89212880.htm&sa=U&ei=KvH2T5yuJMPEmQWh_LWxBQ&ved=0CBkQFjAC&usg=AFQjCNHnow6D8ugiWnUC2yrDCR0sHWh10w爭光」は光を受けるのを争うk。

[81]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/804651.htm&sa=U&ei=fjT5T7HRD--dmQXKyaCgBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHAI1Voi6rSrl23pLAHFT4Oh1LjbQ

[82]未詳だが、銀の採掘をする鉱夫であろう。

[83]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic85Zdic9239681.htm&sa=U&ei=kTT5T__gPOqAmQXbqJmEBQ&ved=0CBUQFjAB&usg=AFQjCNFpmLJlzH25NdkJBZLShLGSywQjYA携帯用の酒器。

[84]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/20373.htm&sa=U&ei=pTT5T4n_OMj7mAWW3_WwBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHcHgq7e9Ml4-HGuUPxLZBA4Pz9ZA

[85]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/757636.htm&sa=U&ei=tTT5T4qWDIyHmQXF072xBQ&ved=0CCIQFjAB&usg=AFQjCNFc494PFHEQplz7G_N2yAYbZUPqFQ

[86]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5ZdicAEZdicB9326085.htm&sa=U&ei=MMr0T4niKqnemAXqkPybBQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNGgS-j3tDbdU_DjP0Fc0KInbrA7_w寿者の代名詞。黄帝の史官容成公との臣彭祖は、いずれも寿であったので「容彭」と併称する。

[87]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicBFZdic90340890.htm&sa=U&ei=5TT5T5q6GaTNmAWW9cmeBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGuxfPf3knRPda5qdQclvjGFdpEkw気功すること。

[88]建業にあった道観であろうが未詳。

[89]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6Zdic9CZdic9D167658.htm天帝にすること

[90]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic8EZdic89132273.htm&sa=U&ei=e8z0T6-oCcnEmAXno42SBQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGRMuYWIfwcKDy8K9JwJMJezdg-bwの美称。仙境をもさす。

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