稽神/巻六

 

 李攻

天祐初年、舒州の倉官李攻がみずから言うには、若い時に病んで幽鬼を見たことがあり、人のために禍福を言うと中たることが多いということであった。淮南の大将張[1]は、廃立の権を專らにし、威勢は中外に振るっていた。攻は当時灊山[2]の司命真君廟に泊まり、翌日、道士崔綽然ら数人とともに城に入ろうとしたが、廟から数里で、突然同行者を路傍にとどめ、みずからは大樹に隠れて窺い、しばらくしていった。綽然は言った。「また幽鬼を見たのか。」「以前一人の男を見たが、桎梏はたいへん厳しく、吏卒数十人に守られ、廟に向かって去っていった。これはきっと真君にされたのだ。意気はなおあったが、すでに逃れられない。」あるひとが誰かと尋ねると、しばらくして言った。「張だ。」聞いたものはみな恐れ、ともに秘した。一月足らずでが誅せられたことを聞いた。李宗が開元寺を造り、文武の僧道を寺の中に大勢集めたが、それが終わると、攻はさらに綽然に言った。「先ほど座中で客が二人の吏にかたく捕らえられて去った。ながくはあるまい。」その衣服と容貌を言えば、団練巡官の陳絳であった。数か月しないうちに絳はにわかに病み、亡くなった。道士邵修黙、崔の弟はいずれもみずからそれを見た。

 

 趙瑜

明経[3]趙瑜は、魯の人で、何度受験しても及第せず、たいへん困窮して太山に旅し、岳廟に死ぬことを祈った。門を出ようとすると、突然小吏が後ろから来た。「判官さまが呼ばれています。」そこでついていった。たちまち広間にゆくと、簾の中に人がいて言った。「重んずるものは生命なのに、なぜ死ぬことを求める。」「わたしは[4]応じ、何度も受験しましたが及第せず、退隠するにも帰農する資金がなく、貧困と病気に陥り、仕事もございませんので、死ぬことを祈ったのです。」しばらくして、簾の中で帳簿をするのが聞こえそれがおわると言った。「おまえはいたって薄命で、名誉と食禄にはいずれも縁がない。家を買うことはできず、家を買えば貧しくなる。」瑜は拝謝して出、門外にゆくと、空中に大きな桐葉が飄りながら瑜のところに来たが、巴豆丸[5]の処方がその上に書かれており、人の世の処方と同じであった。瑜はそこで前の長水知事[6]と称し、夷門[7]で薬を売り、その薬を買って服するものは、病がすっかり癒えたので、利を得ることはたいへん多かった。道士李徳陽はみずからその桐の葉を見たが、すでに十余年たっているのに、なお新たに折ったもののようであった。

 

 袁州[8]の老父

袁州の村に老父がおり、性質は謹厚で、郷里で推戴され、家もたいへん富んでいた。ある日、紫衣の若者が現れたが、車乗従僕はたいへん多く、かれの家に来て食事を求めた。老父はすぐに招き入れ、たいへん豊富に食事を設け、あまねく従者にまで及んだ。老父は前で食事に侍しながら、長吏[9]朝使[10]が県を巡行する時は、宿所があるはずだが、これは何ものかと思い、神色はたいへん訝しげになった。若者はそれに気づくと、言った。「わたしをお疑いですが、わたしも隠しはいたしません。仰山の神なのです。」父は悚然として再拝した。「仰山には日々祭祀が奉られていますのに、どうして食事をお求めですか。」神は言った。「人がわたしを祀る時は、みなわたしに従い、福を求めるのだが、わたしの力でもたらせないことがある。その人が福を受けるべきでないなら、わたしは享けようとしない。あなたは長者なので、あなたに従い、食を求めたのだ。」食らいおわると辞譲して去り、見えなくなった。

 

 朱廷禹

江南の[11]朱廷禹が、親しいものに語った。海に浮かび、風に遇い、舟は覆ろうとすること数回であった。水先案内人が言うには、これは海神が求めるものがあるので、すぐに舟の中に載せてあるものをとり、水中に捨てるとよいということであった。物が尽きようとすると、一人の黄衣婦人が現れたが、容色は世であった。舟に乗ってきたが、四人の青衣の兵卒が船に棹差しており、いずれも朱髪[12]で、容貌はたいへん恐ろしかった。婦人はすぐに船に乗り、こちらによい鬘があったらくれないかと尋ねたが、その人は慌て怖れて思い出せず、物はすでになくなったと言った。婦人は言った。「船の後ろの壁に掛けてある篋の中にある。」。言った通り、それが見つかった。船の屋根の上に干肉があり、婦人はそれをとって四人の兵卒に食らわせたが、その手は鳥の爪であった。鬘を持って去ると、舟は陸に着いた。廷禹がさらにその親しいものに言うには、江西から広陵にいった時のこと、十子を連れ、馬当[13]にゆき、舟を泊め、岸に上がり、夕景色を眺め[14]、船に帰ると、子がいなくなっており、あまねく探し、林の中で見つけたが、すでに(こけ)のようであった。翌日、癒え、語るには、人に召されて去り、教えを受け、指を吹いて長嘯すると、山の鳥数十百羽が声に応えてすぐに来、彩やかな羽[15]は珍しく、人で知っているものはいなかった。それから東へ下ったが、しばしば嘯くと、鳥たちはかならず来た。白沙[16]に来ると、入ってこようとしなくなった。ひろく医者を探して治療させ、しばらくすると癒えた。

 

 僧徳林

浙西の僧徳林は、若い時、舒州[17]に旅したところ、路傍で一人の男が鋤を担ぎ、方丈の地を治し、付近数十里に住人は見えず、尋ねると、答えた。「近年、舒州の桐城[18]から、こちらに来てにわかに痞疾[19]を得、ゆけず、草の中に臥し、すこし目ざめると、すでに暗く、四方を望めば人煙がなく、虎や豹が吼えているばかりであったので、かならず死ぬと思った。まもなく一人の男が現れたが、部従[20]の大将のようで、こちらに来て馬から降り、胡牀に拠って坐し、しばらくすると、二人の兵卒を召して言った。『よくこの人を守り、明日、桐城県に送ってゆけ。』そして馬に乗って去り、突然見えなくなり、ただ二人の兵卒がいるばかりであった。すぐにむりに起きて尋ねると、答えた。『あれは茅将軍で、毎晩外に出て虎を狩り、あなたが傷つけられることを心配したので、あなたを護らせたのだ。』さらに尋ねようとしたが、疲れたのでさらに臥した。目ざめるとすでに日が出ており、二人の兵卒は見えなくなっていたので、すぐに出発したが、たいへん身軽に思われ、病がないもののようであった。桐城にゆくと、まもなく病が癒えたので、会った処に祠を建てて祀った。」徳林は舒州に上ること十年、帰れば、村落はすべて茅将軍祠を建てていた。

 

 司馬正彜

司馬正彜は、はじめ小吏となり、溧水道中を旅したが、ゆくての宿まではなお遠く、たいへん飢渇し、悲嘆していた。まもなく、新しい藁屋数間が見え、一人の婦人だけが客を迎え、飲食を設けてくれたが、たいへん豊富清潔であった。正彜が謝すると、婦人は言った。「都にゆけばよい粉臙脂がございますから、それをお恵みください。」正彜は承諾した。建業にゆき、その知人が溧水にゆくのにあい、粉臙脂をその女に贈るように頼み、くわしくその場所を告げた。ゆくと、宿は見えず、神女廟があったので、贈り物を置いて去った。正彜は後に溧水知事になった。言い伝えでは、しばしば遇うものがいたそうだが、その詳細は分からない。

 

 劉宣

戊寅の年[21](師)は越を征し、臨安で敗れ、副将劉宣は、傷が重かったので死人の中に臥していた。夜になり、官吏数人が帳簿を持って来、あまねく死者を閲し陳のところに来、扶け起こして見、言った。「この男は違う。」引き出すこと十余、路傍に置いて去った。翌日、賊が退き、宣は帰れた。宣は肥満し色白で(ふくべ)のようであった。はじめ地に伏していた時、越人はかれの尻の肉を切ったが、宣は動こうとしなかった。後に傷は癒えたが、肉は再生せず、臀は片方が小さく、十余年で亡くなった。

 

 

徐三誨は撫州の事参軍[22]であり、その部下の奴僕魯は、郡の田舎もので、年は若く、たいへん色白であった。父母が城外におり、数か月に一度休暇をとり、十日帰ると戻ってきた。ある日、帰ってゆくと、一月あまり戻らなかったので、三誨は吏を遣わし、その家にいって召させた。家人は言った。「ながいこと戻っておりません。」そこで手分けして探した。さらに一月あまりすると、深い山の中にいるのが見つかったが、黄衣履を引きずって(はじきゆみ)を挟んで遊んでおり、他の若者数人と衣服は同じく、捕まえようとしたが捕まらなかった。魯家は富んでいたので、人を募り、草叢に潜んで窺わせた。数日すると、ほんとうに捕らえたが、若者たちはみな逃げた。帰って事情を尋ねると、言った。「山中に石氏というものがおりますが、その家は王公のようで、わたしを受け入れ、婿にしたのでございます。」他にはいうことがなく、留まること数日で、ふたたび消え去った。さらに山中を探し、かれを捕らえ、このようにすること三たびであった。後に、ある日、去り、見られなくなった。石氏の住居を探したが見つけられなかった。この山は臨川の人が採石する所であり、そもそも石の神なのであった。

 

 張鋋

張鋋は、県令を歴任し、廉直で称えられていた。後に彭沢の知事となり、県宅にいったが、堂の裏に神祠があった。祠の前には巨木が林をなし、烏鳶[23]野禽は、群れてその上にくい、糞が堂内に積もっていたが、人はその神を畏れていたので、犯そうとしなかった。鋋はたいへん嫌に思い、巫祝に命じて神に言わせた。「治めている土地の神は、県署を清潔にして、住人に奉ずるべきで、なぜこのように不潔にさせるのか。三日以内にすべて鳥たちを追いはらうべきだ。さもなければわたしは廟を焼き、樹を伐ろう。」二日すると、数羽の大きな鶚が奮撃して来、すべて壊した。さらに一日すると、大雨となり、糞はすべて浄められた。それから、住居は清潔となった。

 

 潯陽の県吏

庚寅の年[24]、江西節度使徐知諌は、銭百万で廬山使者廟を修理した。潯陽の知事は一人の吏を遣わし、その事を主管させた。この吏はかつて城に入り、一人の画工を召してともにゆき、画工は丹彩[25]、雑物を担いでいた。城を出るとすぐ、吏はぼんやりとして酔っているかのようになり、みずから衣帯を解いて地に投じた。画工は吏が酔っているのだと思い、あとをつけた。まもなくさらに衣服を脱ぎ、帽子を棄て、山中にゆくと、裸になろうとするにいたった。廟に近づくと、(たにがわ)の水の中に一人の兵卒がおり、青衣白韋[26]は膝を掩い、吏が来ると捕らえた。画工は救って言った。「それは酔漢です。」兵卒は怒った。「次から次へと偽って、誰が知れよう[27]。」捕らえ、水中に坐した。画工はかれが人でないことを悟り、廟の中に走ってゆき、人に告げたところ、人はきそって見にいったが、兵卒はすでに見えず、その吏はまだ水中に坐し、すでに死んでいた。そしてその出納簿を閲すればすでに半分以上を横領していた。進士謝岳はそれを見た。

 

 朱元吉

烏江の県令朱元吉が、知っていることを語った。舟を浮かべ、采石[28]にいったが、風に遭い、同行の数隻の舟はすべて沈んだ。某は溺れたが、水が見えなくなり、道は人の世のようで、その人は駆けて東へゆき、東岸の山麓にゆくことができた。そこには大きな役所があり、門外には壊れた船の板が積まれて丘のようになっており、さらに人々が溺れたものの財物を運んで庫にたくさん入れていた。門に入ると、堂上に官人がおり、あまねく溺れたものを召し、帳簿を閲して尋問していた。某にいたった時だけ言った。「この人は来るべきでないから、送り出させてよい。」、吏はすぐに引いて去った。さらに舟の所にゆくと、舟の中の財物もすべて返されていた。怳然[29]としてみずから知らず、水を出るとすでに西岸の沙の上にいった。船じゅうがもとのままで、濡れもなかった。

 

 酒売りの王氏

建康江寧県庁の裏に、酒売りの王氏がおり、正直と称えられていた。癸卯の年の二月既望の夜、店員が外の閉じようとしていると、突然、朱衣のもの数人と、たいへん多くの従僕が、突然、前に来、怒鳴って言った。「門を開け。わたしはしばらくこちらで休もう。」店員が走ってその主人に告げると、その主人は言った。「出迎えろ。」するとすでに入って坐していた。主人はそこでたいへんきちんと酒食を設け、さらに従者たちを労ったので、客はたいへん感謝した。まもなく、しもべが細い縄百千丈を持ち、さらに一人が杙数百本を持ち、進みでて申し、囲みを布くことを願うと、紫衣はこれを得た。すぐに出し、地に打ちつけ、縄をその上に縛り、街の人家をあまねく囲ませた。しばらくして言った。「事は終わった。」紫衣は起き、戸外にゆき、従者はこの店も囲みの中にあると申した。紫衣の相は言った。「主人は待つことがたいへん厚く、この一店を空しくできるか。」みな言った。「同じ家、どうしてできなかろう。」すぐに杙を移して、囲みの外に店を出すように命じ。主人を顧みて言った。「これでお礼しました。」そして去り、突然見えなくなった。顧みると縄とすでになかった。まもなく、巡使[30]欧陽進が夜回りして店の前に来、尋ねた。「どうして深夜に門を開いている。それに燈燭を消していないのは、どうしてだ。」主人はくわしく見たものを告げたが、進は信じず、捕らえて獄に下し、妖言のかどで罪しようとした。一日して、江寧は大火となり、朱雀橋から西の鳳台山[31]にゆき、住人は焼かれて尽きそうになった。この店の四隣はすべて灰燼となったが、王氏はひとり免れた。

 

 鮑回

鮑回は、深い山に入って猟したことがあったが、見ると一人の若者が裸で大樹の下に臥し、毛髪は地に垂れていた。回が射ようとすると、若者は言った。「わたしは山の神で、あなたを避けるのが間に合わなかった。わたしを殺すな。富貴は致せよう。」回が刃でその口を刺すと、血がすべて逆流したので、そのまま殺した。まもなく回は亡くなった。

 

 

建州の廟を、土人は「故相李回の廟だ。」と言っていた。回は降格されて建州刺史となり、後に臨川で亡くなった。亡くなった晩、建安の人はみな回が白馬に乗り、に入るのを夢み、凶報が来ると、祠を建て、代々霊験を伝えた。王延政[32]は建安におり、福州と怨みを結び、その将某に命じ、兵を率いて晋安[33]に向かわせた。新たに一振りの剣を鋳たが、たいへん鋭く、ゆくに臨み、剣を持ち、山廟に祈り、言った。「この剣で手ずから千人を殺すことを願います。」その晩、夢みると神が自分に言った[34]。「人は悪い願いを起こすべきでない。おまえを助け、おまえが人の手で死なないようにさせよう。」戦うと敗れ、側近はみな逃げ散った。追兵が及ぼうとすると、某はみずから逃れられないと思い、すぐにこの剣で自刎して死んだ。

 

 延瑫

広陵の倉官延瑫というものがおり弟が成人したので、妻を探してやろうとしていた。隣家に某嫗がおり、もともと氏の命を受けていた。ある日、人が門に来て言った。「張司空の家で呼んでいる。」ついてゆくと、正勝寺の東南にあり、邸宅はたいへん壮大であった。嫗は言った。「張さまがこちらにいらっしゃるとはまったく聞いておりませんでした。」その人は言った。「公は臨安で戦歿したので、知る人は少ないのだ。」しばらくすると分かったが、その家の調度は王公の家のように華麗であり、一人の老婆がいたが、県[35]だということであった。坐してまもなく、その娘も出てきた。老婆は嫗に言った。「聞けばあなたは家のために縁談を持ちかけているとか。わたしはこの娘を仕えさせましょう。」嫗は言った。「氏は小吏の貧しい家で、どうして貴人と結婚するべきでございましょう。」すると娘はみずから言った。「わたしは母が老い、兄弟がございませんが、家産が多いので、事を善人に托するのです。聞けば氏のご子息は孝順恭敬で仕えられるとか。どうして高貴な家を求めましょうか。」嫗は言った。「承知しました。尋ねましょう。」帰って延瑫に告げると、怪しんだので、言おうとしなかった[36]数日すると、突然、車輿数台が隣家の嫗の部屋に来た。それは張氏の娘が二人のばあやとともに来たものであり、延瑫の妻を召させ、席に酒食をたいへん豊富に調えたが、すべて張氏の調えたものであった。その娘はみずから縁談を持ちかけたが、瑫の妻は心の中で、この娘はたいへん端麗だが、年は三十余ほどだし、義弟は年が若いから、気にいるとは限らないと思った。するとその娘はすぐに言った。「夫妻はすべて前もって定まっており、義としてどうして年が不相応であることを厭うべきでございましょう。」瑫の妻は聳然[37]とし、さらに言おうとしなかった。女はすぐに紅白の羅二匹を出し、言った。「これを礼としましょう。」その他に贈り物はたいへん多かった。夜になり、隣家の嫗を迎え、ともにその家に帰り、数晩留め、嫗に言った。「わたしの家はきわめて富んでいますが、人はそれを知りません。後日、すべてさまの所有となりましょう。」部屋の中には三つの大きな戸棚があった。その戸棚は高さが屋根に達しており、開けて示すと、一つの戸棚は銀で満たされていた。さらに地を指して言った。「こちらはすべて銅銭です。」すぐに掘るように命じたが、深さ一尺余で、すぐに銅銭が充積しているのが見えた。さらにおもての広間にゆくと、庭に朱の(たてがみ)の白馬が繋がれており、傍らには一頭の豚がおり、言った。「これらはすべて礼物です。」広間の西には、さらに大廈があり、あらゆる技巧が尽くされており、言った。「これも礼物を造っているのです。」夜になると就寝したが、豚が驚く声が聞こえると、下女たちを呼んで言った。「この豚は外にいるべきでない。きっと蛇に食われよう。」嫗は言った。「蛇がどうして豚を食らうものか。」女は言った。「こちらではよくございます。」すぐにともに燭を執って見ると、ほんとうに大きな赤い蛇が地から出、その豚を巡り、さらに地に入って去ったので、救って逃れさせることができた。翌日、嫗と別れ、突然、二人の青衣を召し、左右に夾侍させ、嫗に言った。「わたしは事情があって、近くに出ます。すぐ帰ります。」すぐに青衣と空を飛んで去った。嫗がたいへん驚くと、その母は言った。「わたしの娘はしばらく天上にいって会計するのです。ただ坐していればよろしいです。」まもなく、から入ってきたが、かすかに酒の臭いがし、言った。「仙人たちが酒宴に留めましたが、わたしは媒嫗さんがこちらにいますので、固辞しましたら帰ることができました。」嫗は帰るとますます驚き、怪しんで話そうとしなかった。さらに一月あまりすると、さらに「県君の病が篤うございます」といって嫗を招いた。ゆくと、母はすでに亡くなっていた。嫗とともに葬儀にゆき、楊子県北徐氏村[38]に葬り、家中が会いにいった。徐氏[39]には娘がおり、十余ばかり、張氏は撫でて言った。「この娘は貴相があり、淮北の武将の妻となりましょう。よく育てなさい。」葬ると、さらにあつく嫗に贈りものし、家を挙げて南へ去り、行方が知れなくなった。結婚も結局成立しなかった。嫗は帰り、その旧居を訪ねたが、田舎家数間にすぎず、その村人に尋ねると、言った。「こちらに住んですでに久しゅうございますが、言い伝えでは張司空の住居だそうです。」結局その場所は見つからず、十年後、広陵は乱れたので、の弟は建業にゆき、やはり恙なかった。

 

 貝禧

義興[40]の人貝禧は、県の[41]となった乾寧[42]甲寅十月、菱瀆[43]の別荘に泊まり、夜分、突然、門を叩くのが聞こえ、人馬の声がたいへん多く、出て見ると、一人の緑衣のものが書簡を取り、西に面して立っており、従者は百余人であった。禧が衣を整えて出迎えると、みずから言った。「わたしは姓を周といい、殷が名です。」すぐに招き入れて坐し、来意を尋ねると、言った。「わたしは冥府の南曹判官ですが、王命を奉じてあなたを召し、北曹の判官にするのです。」禧がたいへん驚いていると、殷はおもむろに言った。「これは陰府の要職で、これになることは容易ではございません。断られますな。」まもなく従者が牀褥、食案[44]、帷幕を持ってき、調度はすべて置かれ、酒食をさしで食らった。しばらくすると、一人の吏が駆け込んでき、判官が来たと申した。さらに一人の緑衣のものが、書簡を執り、二人の従者が箱を捧げて従っていた。箱の中も緑の衣であった。殷は禧に揖して言った。「あなたに賜い、同時にお呼びするように命ぜられました。」すぐに緑の衣を禧のために着せてやった。着座してともに飲み、五更になろうとすると、言った。「王命により、留まれません。」すぐにともにゆこうとしたので、禧は言った。「こちらは家から遠くございませんから、しばらく帰り、別れを告げられましょうか。」みな言った。「今はもう死んでいらっしゃるのですから、さらに帰っても、どうして家人と接することができましょう。」そして門を出ると周殷はそれぞれ一頭の馬に乗ったが、その速さは風が水上ゆくかのようであった。夜になり、ある村に宿泊したところ、宿には酒食が調えられていたが住人はなく、燈燭が設けられていたが帷幔を隔てているかのようで、言った。「すでに二千余里進みました。」朝になり、さらにゆき、しばらくすると、ある(まち)に着いたが、門衛はいかめしかった。周殷は先に入ると、出てきて禧を招き、およそ三つの門を経たが、左右の吏卒はみな走ってきて拝礼した。さらにある門に入ると、真北の大殿に簾が垂れており、禧は小走りして参謁したが、すべて人の世と同じであった。出ると、周殷は禧に言った。「この役所は官が欠けて多年で、邸宅官署はすべて修理せねばなりませんので、あなたはしばらくわたしの家に留まってようございます。」すぐに殿門から東へゆくと、一里ばかりで、豪邸があった。禧は東の庁に泊まった。まもなく、同僚三十余人ばかりが、みな謁見慶賀しにきた。宴を設け、宴が終わると、酔って臥した。晩になると、あまねく諸官庁にゆき、報謝した。さらに朱衣の吏がおり、王命により銭帛車馬をもたらし、贈り物はたいへん豊富であった。翌日、周は禧に言った。「執務できます。」さらにともに王殿の東北に向かうと、豪邸があり、調度はたいへん荘厳であり、禧を中にとどめた。典吏[45]がおり、八十余人ばかり、参上して働くことを願った[46]。庁の南には、空屋数十間があり、それが役所で、帳簿がその中に充積していた。庁の北には、別室二間があり、几案および幾つかの戸棚があり、いずれも宝玉で飾ってあった。周は金の鍵を禧に授けて言った。「この戸棚の帳簿はもっとも秘密重要で、鍵を管理する時はつねにみずから管理するべきでございます。かるがるしく人に任せてはなりません。」周が去り、禧が開いて見ると、書冊が積み重なっていた。いずれも四方一尺余で、最初の一冊をとると、金字でその上に、「陜州」の字を題してあった。その中の字はたいへん細密で、じっくり見ると見られたが、すべて世人の名簿であった。禧はその家の事を知ろうとし、さらに戸棚を開き、常州の帳簿を見つけ、かれの家の帳簿を閲すると、自身および家人の代々の名はたいへん詳細で、すでに死んだ者は墨で抹消されていた。晩になると、周殷判官がまた来て言った。「王はあなたの寿命が尽きていないので、しばらくあなたを帰らせます。寿命が尽きたらまたこの職につかれるべきでございます。」禧はすぐに金の鍵を周に返した。禧は帳簿を閲した当初は、すべてその家人および自分の禍福寿夭の事を記憶していたが、帰ろうとするとぼんやりとしてすべて忘れた。まもなく、官吏がともに来、周殷に別れを告げ、二人は送り返した。翌日の夜に菱瀆村にゆき、部屋に入ると、自分が牀の上に臥しているのを見、周殷と禧はそれぞれ就寝し、まもなく目ざめ、日が正午の時に、側近くのものに尋ねると、言った。「死んでほぼ半日です。」、冥府ではすでに四日がたっていた。禧はすぐに癒え、まったく常人のようになり、すこしも異状がなかった。さらに四十余年して亡くなった。

 

 支戩

江左に支戩というものがおり、余干[47]の人で、代々小吏であったが、戩になると、かれだけは学問を好み、文を作り、ひそかにみずからを秀才と称していた。正月の望月の夜、民間では飯箕をとり、衣服をつけ、箸を挿して觜にし、盤にいれた粉に字を書かせて卜させた[48]。戩は家人がそれをしているのを見ると、すぐに戯れて祈った。「支秀才が後日どんな官になるかを卜することを願います。」すると粉に書いて「司空」の字のようになった。さらに戩はかつて夢みて冥府にゆき、名簿をすべて閲し自分の籍にいたって言った。「司空になる。年は五十余だ。」、他人の帳簿は記憶できず、その友人鄭元枢が貧賎で官職がなく、年は四十八であることを記憶しているばかりであった。元枢は後に浙西廉使[49]に住み[50]、徐知諌は賓礼し、執政に薦めようとし、ゆくこと一日で、にわかに病んで亡くなり、実年四十八であった。戩は後に金陵観察判官、検校司空[51]となったが、ひたすらこのことを親戚友人に話した。在任中に亡くなり、年は五十一であった。

 

[52]食らう下女

臨川の士人唐遇は使っている下女を虐げ、下女はその凶悪さに堪えず、山に逃げ込んだ。しばらくすると、食糧が尽き、たいへん飢え、水辺に坐したが、見ると野草の枝葉が好もしかったので、すぐに抜き取り、水中で濯ぎ、根ごと食らったところ、たいへんうまかった。それからつねに食らい、しばらくすると飢えなくなり、さらに身軽になった。夜、大樹の下に憩い、草の中に獣が走るのを聞き、虎と思って恐れ、樹の杪に上って生きることができると思ったが、そう思っていると、身はすでに樹の杪にあった。朝になると今度は平地に下るべきだと思ったが、今度はたちまち下っていた。それから、意のおもむく所があれば、身はかならず飄然としてそこへいった。ある時は一つの峰からもう一つの峰の頂にゆき、飛ぶ鳥のようであった。数年して、かれの家人は薪を伐っている時にかれを見、その主人に告げたが、捕えさせようとしても捕らえられなかった。ある日、かれに壁の下で遇った。すぐに網で三面を囲むと、まもなく山頂に上がった。主人も驚き、どうしても捕らえようとした。あるひとが言った。「この下女に、どうして仙骨[53]があろう。霊薬を得てそれを食らっただけにすぎない。たくさんの食べもので試し、その五味を多くし、たいへん香ばしくさせ、かれが往来する路に置き、食らうかを見よう。」ほんとうにその言葉通りに、食らいに来、食らいおわるとさらに遠く去れず、捕らえられた。くわしくそのわけを述べ、その食らった草の形を尋ねれば、まさに精であった。さらに探させたが、見つからず、その下女も数年して亡くなった。

 

 豫章の人

豫章の人は茸を食することを好み、姑蕈[54]は、もっとも美味であった。ある民家で建物を直した時、この茸を調理して職人に食らわせた。職人で厨房の屋根に登り、瓦を葺いたものがいたが、下を見ると人がいず、ただ釜の中で物を煮ており、盆で掩いてあった。まもなく小さな幽鬼が裸で釜を巡って走り、突然釜の中に身を投げた。まもなく、主人が茸を並べたが、職人だけは食らわず、その理由も言わなかった。日が暮れると、その茸を食らったものはみな亡くなった。

最終更新日:201271

稽神録

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[1] これと同一人物であろう。『舊五代史』楊渥伝「行密卒、渥遂襲偽位、自稱王、委軍政於大將張。渥性猜忍、不能御下。天祐五年六月、渥為所殺、將納款於梁、遂自稱留後、委別將徐握兵權。居無何、復殺、立行密次子渭為主。

[2]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%25A4%25A9%25E6%259F%25B1%25E5%25B1%25B1&sa=U&ei=Iv3qT6_DOq6CmQXX3ZDEAg&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHnOtLzw__2xqgMYRWvFl36KaY6tA 

[3]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic98Zdic8E35087.htm&sa=U&ei=PYHvT7j9EtCgiQe4s6GIDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHLe2E7kvkrn9CO8YWo7i7Us79DBw  隋の煬帝士二科を置き経義で採用した者を明とし詩賦で採用した者を士とした。

[4]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB9ZdicA145097.htm&sa=U&ei=b4HvT8CnGYaSiAeo4MWHDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEDk1Iu0X-infQrkyfaVXnYVHfXSg 唐 で、士を受験する時、州から薦挙されたものを、 「薦」 と称した。

[5] 薬効についてはこち を参照。

[6] 原文「稱前長水令」。「長水令」が未詳。母が病んだ時、医者に人肉でしか救えないといわれ、みずからの肉を母親に食べさせ、後に長水の令となった友貞 と関係あるかどうか未詳。

[7]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicA4ZdicB7102188.htm&sa=U&ei=CATrT8OcBMrZmAWe47zEAg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGoA5VZ10YuvVmHsinuqrPq6zMEeQ 大梁 )の称。

[8]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/51452.htm&sa=U&ei=DtHvT8PLPOPUmAW8_LznDQ&ved=0CBwQFjAB&usg=AFQjCNGzkZlATCsezE---TIG8amJYzF-ww 

[9] http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE9Zdic95ZdicBF262043.htm 州県長官の佐。

[10] http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6Zdic9CZdic9D223307.htm 朝廷が派遣した使者。

[11]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic86Zdic8510796.htm&sa=U&ei=6oXvT-7FNsSjiQf7meGqDQ&ved=0CBgQFjAC&usg=AFQjCNEGbNdIOAQNEkEBjt2tkeh97PcSPw 宦官

[12]未詳だが、豚のような牙であろう。

[13]これか。『宋史』五行志・毛蟲之孽「淳熙二年、江州馬當山羣狐掠人。」

[14] 原文「登岸」。「」が未詳。とりあえずこう訳す。

[15] 原文「彩毛」。未詳。とりあえずこう訳す。『太平広記』は「毛彩」に作るが、いずれにしても未詳。

[16]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic99ZdicBD191307.htm&sa=U&ei=5ebFT67eNMWhiAeKvu38Ag&ved=0CBoQFjAB&usg=AFQjCNEE9AXnk5N26wExTzpKFdaJBrS6IQ『新五代史』世家「四年、溥至白沙 舟師、徐來見、以 白沙為迎鑾鎮。」『宋史』地理志四・淮南路・東路・真州「縣二:揚子、中。本揚州永正縣之白沙鎮、南唐改為 迎鑾鎮」。鎮名。

[17]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/898705.htm&sa=U&ei=AD_tT8rROqipiAem8piaDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHt0iKiBKymaFO0c7OxMTPzO2SQfQ 

[18]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/50146.htm&sa=U&ei=CYnvT7rZOsaYiAe9z-GJDQ&ved=0CCUQFjAC&usg=AFQjCNExuS9lGq-g2wF25cRzQcwYUOh3OQ 

[19] http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7Zdic97Zdic9E167063.htm 腹内に鬱結した病。

[20] http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic83ZdicA844983.htm 

[21]梁の貞明四年、天祐十五年。

[22] http://baike.baidu.com/view/59521.htm#1 

[23]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB9Zdic8C159104.htm&sa=U&ei=O43rT7CKIqTGmAWx4IXwAg&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEhmP_xae7HIBP9pLfGRb2mkMxD-g カラスとタカ。いずれも食を

[24]唐の長興元年、太和二年。

[25]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicB9292632.htm&sa=U&ei=Kp7rT--nAszUmAWilcjeAg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGKnTYu8ukFT65_aSkLI2aAu3U7pg 朱の色彩。

[26] 未詳だが、白いなめし皮であろう。

[27] 原文「交交加加、誰能得會。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[28]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/10245.htm&sa=U&ei=RuLvT9z1MqrnmAXHhMjaDQ&ved=0CBwQFjAB&usg=AFQjCNHQ0JBuOsqVmPpFVsgHNK7mDwXTaw  http://www.google.com/search?q=%E9%87%87%E7%9F%B3%E7%A3%AF&hl=zh-CN&gbv=2&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi 

[29]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic80ZdicB3178436.htm&sa=U&ei=dMPrT5uAI4PXmAXo_ejyAg&ved=0CBUQFjAB&usg=AFQjCNFb6Ba1F9_R3diM3-0rhewS3iCbgw 失意のさま、惆悵のさま。

[30]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicB7ZdicA1243663.htm&sa=U&ei=M4zvT5jSPMywiQeix937DA&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGH65OgCUBbOJsAWX-YTAWP8cco4g 官名。

[31]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/5866728.htm%3FfromTaglist&sa=U&ei=RozvT-z1OI-jiAeyvbSVDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHC6xdygmP3HdQ9VL_7lActNQILqA 南京市の地名、古地名。中華門内西南隅にある凰台がここにあるので名づけられた。

[32]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/125751.htm&sa=U&ei=XIzvT42hE4yZiAeFzp33DA&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHQ2Qk_Kv3lyZPVAtSdhWZSpsnBiA 

[33]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/74904.htm&sa=U&ei=o4zvT64hqZmIB-b2mJkN&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGWpsdoz3RoG00Yj6ltc0s48gypnQ 

[34] 原文「其夕夢神謂己曰」。「己」がおかしい

[35]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic8EZdicBF207413.htm&sa=U&ei=olXtT_6gDLHzmAXBr-HaDQ&ved=0CBwQFjAE&usg=AFQjCNFCXiIDc22Nv-FYtQzjNiS15FGrTQ 封号。 すでにこの称があった。宋では 庶子、少卿、司、郎中、京府少尹、赤令等の官の妻が 「君」 に封ぜられた。

[36] 原文「歸以告延瑫,異之,未敢言。」。「異之」の主語は延瑫、「未敢言」の主語は嫗で、縁談を切り出すことをしようとしなかったと解す。

[37]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8Zdic80ZdicB8174114.htm&sa=U&ei=WEnuT9CHH8mjiQfYxp36DA&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEX8scUrDSB4vWqH95aZRUgELoFvQ 驚くさま、訝るさま、畏れ敬むさま。

[38] 原文「葬於楊子縣北徐氏村中」。「楊子縣北・徐氏村」か「楊子縣・北徐氏村」が未詳だが、おそらく前者であろう。

[39] 前に登場せず未詳。「徐氏村」に住んでいる徐家の娘ということか。

[40]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E7%25BE%25A9%25E8%2588%2588&sa=U&ei=C63uT9HBOISDmQWYzbDPDQ&ved=0CCMQFjAG&usg=AFQjCNHa4kHwiq3K7r-KCAgCW4zWhChPpg 

[41]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB9ZdicA1244176.htm&sa=U&ei=-_TqT-CyHoPMmAW76vj0Ag&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHqRE4hoxzY-MUUB8afGtC5PJA4vw 吏。

[42]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1107359.htm&sa=U&ei=JeXvT-6JLamEmQWJmbXPDQ&ved=0CB0QFjAC&usg=AFQjCNFo0TCSMoP4nQU0TudoVxFF3Hq77g 

[43]http://maps.google.com/maps?q=%E8%8F%B1%E6%B8%8E%E6%9D%91&hl=zh-CN&gbv=2&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl 

[44]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9ZdicA3Zdic9F75635.htm&sa=U&ei=F6XuT_LJOoPomAW-ksjXDQ&ved=0CBkQFjAD&usg=AFQjCNGsHhiNb47DVdV8GMFgoQb6i7T0Tg 菜をめる時に用いる木

[45]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic85ZdicB823950.htm&sa=U&ei=kbHtT-WQPOXEmAXvtYTADQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNH1wEZhL9qcNAjTG17SGWraH8YzSg  主管の官吏。

[46] 原文「參請給使」。「參請」が未詳。とりあえずこう訳す。漢典  に適当な語釈なし。

[47]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/10046.htm&sa=U&ei=YMfvT8L5NIKkmQWkntHHDQ&ved=0CB8QFjAC&usg=AFQjCNHmPZfNXs868DlHoQ10f9Wot3nb1Q 

[48] 原文「會正月望夜、時俗取飯箕衣之衣服、插箸為觜、使畫盤粉以卜。」。未詳。とりあえずこう訳す。「飯箕」が未詳。「取飯箕衣之」も未詳。「插箸為觜、使畫盤粉以卜」は後世の扶乩 のようなことをするのであろう。

[49]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE5ZdicBBZdic89123129.htm&sa=U&ei=ujbuT-PfL8mtiAer77CsDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHIXZE2v9ebwPfDDkgPwTzM6SkFEQ 官名。廉使

[50] 原文「元樞後居浙西廉使」。「居」が未詳だが、文字通り住んでいたか、食客のような立場で身を置いていたのであろう。

[51]検校司空は官名。『五代史』などに用例多数。司空に関してはこちら 。

[52]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9ZdicBBZdic84316609.htm&sa=U&ei=OEjuT4_qKOnYigfmzcSvDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFObAngnUZD_QwCIxHx7MXekqmA8g 草名。画像検索結果 

[53]仙人となる資質http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicBBZdic9918393.htm 

[54] 漢典 はここの用例を載せているが、いずれにしてもキノコの一種であろう。

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