稽神/巻五

 

 桂従義

池陽[1]建徳県の吏桂従義というものがおり、家人が山に入り、木を伐り、つねに歩く山路に、一つの石が崩れて倒れていた。近づいてみると、一室があり、に金漆の塗られた(はく)の牀が六張あり、(こも)(むしろ)(すすき)(ござ)はいずれも新しく、金銀が積みかさなっていた。その人は牀の上に坐し、しばらくして、(ござ)掲げて下るときに、一本の角の柄の小刀を見たので、とって懐中に入れて出た。崩れた石に塞がれるのを恐れ、物を印にし、帰ると家人を呼んでともにとることにした。ゆけば石の壁は元通りであったが、見たものはまったくなくなっていた。

 

 金精山[2]の木鶴

虔州[3]虔化県[4]の金精山は、昔、長沙王[5]の時の娘張麗英[6]が飛んで登った所で、道館[7]があった。岩は高さが数百尺、二つの木鶴[8]があり、二人の女仙が乗り、鉄鎖を岩下に懸け、脇道が通じている場所でなく、かれらがどこから来たかは分からなかった。その二羽の鶴の嘴は四時にしたがって動き、まったく誤らなかった。順義道[9]の百勝軍[10]の小将陳師粲は、(ござ)を巻き、井にすることができ[11]、跳びあがって出入りした。かつて郷里岩下で会い、求婚すると、娘は言った。「矢をこの鶴に中てられれば、すぐに結婚できましょう。」師粲は一発で中てたが、腕はすぐに力がなくなり、帰ると病臥して夢みているかのようになった。夢みると二人の女道士が牀を巡って歩くのが見え、通るたびにかならず手で師粲の目を払い、再三して去り、失明して亡くなった。射た鶴は、それから二度と動かず、もう一羽はまだ動くこと相変わらずであった。辛酉の年[12]にも、その娘はまだ生きていた。師粲の子孫は、今でもまだ兵士である。

 

(へい)を売る王老

(へい)を売る王老は、妻が亡くなり、一人娘とだけ住んでいた。王老が昼に(へい)を売る場所から家に帰ると、その娘が他の若者とともに北の扉の下で寝ていたので、王老は怒り、刀を持って追いかけた。若者は跳ねて走って逃れ、王老はたいへん怒り、その娘を殺した。若者は途中までゆくと、突然、全身に流血した。吏が怒鳴って尋ねると、答えられなかったので、捕らえて王老の住居に帰った。村人がその事を検分していると、王老は見てかれを確認したので、処刑された。

 

 桃林の粟[13]

閩王[14]ははじめ泉州刺史となったが、州の北数十里を、桃林といった。光[15]初年のある晩、村で地震があり、数百面の太鼓を鳴らすような音がした。朝になって見ると、粟が茂っていたのに、まったく一本の茎もなくなっていた。みな地を掘って探せば、すべてさかさまになって土中にあった。その年、審知[16]は晋安[17]を攻め下し、甌閩の地をすべて所有すること六十年であった。その子延義が立つにいたり、桃林の地中からふたたび太鼓の音がした。はすでに収穫され、が田にあった。朝になって見ると一本の茎もなく、地を掘って探せばやはり土中がさかさまになっていた。その年、延義は側近に殺され、王氏は滅んだ。

 

 王延政

王延政は建州[18]節度となった。延平の村人が夜に夢みたところ、人が告げた。「あなたに富を与えるから、朝に山に入って探せ。」翌日、山に入ったが、結局得るものがなかった。その晩、さらに夢みると、前のようであった。村人は言った。「朝、山に入りましたが、得るものがありませんでした。」その人は言った。「ただ求めれば、どうして得られなかろう。」そこで、翌日さらに入り、夕方、大樹の下で憩うと、一丈四方の地面だけが清浄であったので、掘ってみると、赤土を見つけたが、丹のようで、他の物はなかったので、負って帰り、牆壁を飾ったところ、煥然として好もしかった。人で聞くものはきそって高値でこの人から買うことを求めた。延政はそれを聞き、それを得て宮室を飾り、その人に牙門[19]の職を代行させた。数年して建州も敗れた。

 

 洪州[20]の樵

洪州の樵が、西山の岩石の下に入ったところ、藤がたいへん密生していた。中に一人の道姑がおり、姿色は世で、瞑目して端坐し、帔[21]を着ており、いずれも新しいようであった[22]。近づいて見ると、測れなかった[23]。あるひとが冠と髻を整えてやると、すぐに腐爛したので、人々は恐れて散じ去り、ふたたび探したが、会うことができなかった。

 

 法曹の吏

廬州に法曹の吏がおり、かつてある僧を弾劾し、不当に死に致すことにし、判決して州に上申した。その日、かれの妻女は家におり、西の窓辺で裁縫していたが、突然、二人の青衣の兵卒が、手に文書を持って厨房から出、声を荒げてその妻に「おまえの夫に言え。どうして僧を殺すのかと。」と言い、門を出て去った。妻女はみな驚き怪しみ、しばらく汗を流すと、走り出て見たが、その門には鍵がかかっており、かたく閉ざされること元の通りであった。吏が帰ると、くわしく語った。吏はたいへん恐れ、翌日その文書を盗み取ろうとしたが、すでに間に合わなかった。結局その僧を殺してしまった。死んだ日、すぐに道で遇い、あれこれ祈り謝したが、一月あまりして死んだ。

 

 劉存

劉存は舒州[24]刺史となり、儒生の霍某を招き、団練[25]判官[26]とした。たいへん信任せられていたが、後に側近はかれを讒言し、罪をでっちあげて獄に下し[27]、殺すことを求めた。[28]は冤罪であることを知り[29]、捕らえて揚都に送らせ、存はかれを獄で縊った。その後、存は鄂州節度使に遷ったが、霍の友人が舒州におり、夢みると、霍が素服して司命祠[30]の中から出てき、拍手し、大笑いして言った。「わたしの罪は雪がれる。」まもなく、存は軍を率い、湖南を征した。霍の表兄馬鄴は州刺史となったが、夜に斉安城[31]の門を叩くものがおり、言った。「舒州の霍判官がゆこうとなさっていますが、軍前で馬が病んでいますので、知事さまから馬をお借りします。」城を守るものがそのことを告げると、鄴は嘆じた。「劉公は不当に霍生を殺したのだから、今この人がゆけば、どうして禍がなかろう。」そして馬数頭を描き、焼いて祭った。数日して、存は戦に敗れて死んだ[32]

 

 袁州の

袁州の事参軍[33]の王某が、ある盗賊に判決した後、恩赦があった。王は盗賊の罪が重く、許せなかったので、先に殺してから、恩赦を発表した。辞官して帰り、新[34]にいたると、邑客馮氏は卮酒を調え、王を招いて明日くるようにと求めた。僧院に泊まると、盗人が現れ、言った。「わたしはたしかに死ぬべき罪だったが、恩赦があったのに、どうして王命に逆らい、わたしを殺した。わたしは今から役所に願うことができる。おまえは明日馮家にゆくのか。ゆかなくてもよいぞ。」そう言うと消えた。寺僧にはかれが人と語っているのだけが見え、その他は見えなかった。翌日酒を飲んでいると、にわかに亡くなった。

 

 劉璠

将軍の劉璠は、性質が剛直勇敢で、法に坐して海陵[35]に移った。郡守褚仁規はかれを嫌い、かれが謀叛していると誣告したので、詔により、海陵の市で殺されることになった。璠は死ぬ時、監刑[36]に言った。「妻子に告げてくれ。紙と筆をたくさん棺の中に置け、訴えるからと。」数年後、仁規は入朝し、舟を済灘江口[37]に泊めたが、夜半に岸の上で連呼するのが聞こえた。「褚仁規、おまえは死ぬべきであることが分かっているか。」舟人は驚いて起き、岸の上を見たが人はいなかった。仁規は側近に言った。「おまえはこの声を知っているか。まさに劉璠だ。」酒食で祭るように命じた。仁規は都にゆき、残虐であったことにより下獄した。獄吏が夜に夢みると一人の男、長く大きな(いれずみ)面のものが、後ろに二十余人を従え、獄に来て、仁規を連れて去った。目ざめると、仁規にその男のことをいてやると、胸を打って嘆じた。「わたしはきっと死のう。その男はまさに劉璠だ。」その日、中使[38]が来、獄中で縊れた。

 

 

浙西の軍校[39]景は、辛酉の年[40]、石頭城の僧院で斎食を設けた。その晩、設けると、突然婦女の泣く声がたいへん哀しく、はじめは遠く、だんだん近く、まもなく斎筵[41]の中にあった。景は院僧に告げて言った。「わたしは近年従軍して豫章を攻め破り、一人の婦人を得たが、たいへん姿色があった。まもなくその夫が贖うことを求めたが、将軍の命令は、厳格にせよ、許してはならぬというものだった。わたしはすぐに殺したが、後にたいへん遺憾に思い、今、法事を設けているのは、まさにこのためだ。」すぐに僧とともにゆくと、婦人がいた。僧が祈ってやると、婦人は言った。「わたしは景から命をとります。その他のことは知りません。」すぐに進んで追いかけた。景はいそいで逃げ、仏殿に上ると、大声で叫んで言った。「命をお返しします。」そして転落して亡くなった。

 

 周宝

周宝は浙西節度使となり、城隍廟を修理し、鶴林門にゆき、古墓を見つけた。棺櫝は腐ろうとしていたが、開くと、一人の娘がおり、顔は生きているようで、鉛粉[42]衣服はまったく腐っていなかった。墓の管理人[43]はそのことを告げ、宝はみずからそれを見た。あるひとは言った。「これはかつて霊薬を食らい、開く時を待っていたものに違いない。開けばそれが解化[44]の時だ。」宝はすぐに改葬を命じた。その車は音楽で送り、宝と僚は城に登って眺めた。ゆくこと数里で、紫雲が車の上を掩い、人々はみな一人の娘が車の中から出、紫雲の上に坐し、冉冉としてしばらくすると消えるのを見た。棺を開けば空になっていた。

 

 陳師

豫章の宿屋梅氏は、さかんに施捨し、旅客や僧道が投宿すると、まったく代価を求めなかった。一人の道士がおり、衣服はぼろぼろで、その家に泊まりに来ると、梅はあつくもてなした。ある日、梅に言った。「わたしは明日、法事を設けねばならないので、あなたに新しい磁器の碗二十および(さじ)箸を求める。あなたもくるべきだ。天宝洞[45]の前で陳師を訪ねるとよい。」梅が承諾すると、道士は碗を持ち、江を渡って去った。梅は翌日洞の前にゆき、そこの村人に尋ねたが場所が分からず、しばらくすると帰ろうとした。たまたま一つの径を見つけたが、たいへん明るく清らかで、探してみると、ほんとうに道院が見つかった。青衣の童僕が門で迎え、尋ねると、陳の住居であった。入ると道士がいたが、衣冠は華麗清潔で、招いてともに坐し、食事を調えるように命じた。まもなく、食事が来たが、一人の嬰児をじっくり蒸したものであったので、梅は恐れて食らわなかった。しばらくして、さらに食を進めたが、一匹の犬の子を蒸したものであったので、梅はやはり食らわなかった。道士は嘆息し、昨日得た碗をとり、客に贈るように命じたが、見ると金の碗であった。梅に言った。「あなたは善人だが、仙人になれない。千人参、枸杞をいずれも食べようとしなかったのは、運命だ。」別れを告げて送って言った。「これから後は二度と会えない。」

 

 陳金

陳金は、若くして兵士となり、江西節度使に属していた。劉信[46]が虔州を囲むと、金はひそかにその徒党五人とともに一つの大きな塚を発いた。棺を開くと、白髯の老人を見たが、顔は生きているかのようであり、全身は白の羅衣で、衣服はすべて新しいようであった。棺を開くとすぐに白い気が天を衝き、墓中には異常な香気があった。金だけは棺蓋の上に物があるのが見えたが、粉のようで、かすかに硫臭いがした。金はもともと棺の中の硫薬となることを聞いていたので、すぐに衣襟で掬いとり、懐にして帰った。墓の中には他に珍宝はなかったので、すぐにいっしょに閉ざして出た。陣中にゆくと、陣中の人々はみな驚いて言った。「今日はどうして香気があるのだ。」金は硫の異常を知り、朝にかならず水を汲み、服したところ尽きるにいたった。城中で僧寺に入り、たまたま寺僧と語ると、僧は言った。「それは城中の富豪の遠祖です。子孫の言い伝えでは、その先祖は道術を好んでおり、異人が硫服するように教え、寿命が尽きれば死ぬが、死後三百年で、墓が開かれ、それが解化の時であるはずだと言ったそうです。今はまさに三百年です。」すぐに連れだってふたたび見ると、棺の中は空で、衣裳だけがなお残っており、蛻のありさまのようであった。金はそれから病がなく、今は、清海軍[47]の小将[48]をしているが、年は七十余、体は枯痩で、身軽なことは相変わらずである。

 

 沈彬

呉興沈彬は、若くして道を好み、致仕して高安[49]に帰ると、つねに焚修[50]服餌[51]を事としていた。かつて都下の道観に遊ぶと、突然、空中で楽の音が聞こえた。雲の上を仰ぎ見ると、仙女数十が、冉冉として下り、観の中にゆき、あまねく像の前にゆき、香を焚き、しばらくして去った。彬は部屋の中に隠れ、出ようとせず、去ると、殿に入って見た。几案の上にはすべて残された香があったが、彬はすべてとって炉の中に置き、その後、みずから悔いて言った。「わたしは平生道を好み、今、神仙を見て拝謁できたが、仙香を得たのに食らえなかった。もしや福分がないのか。」はじめ彬はつねにその子を戒めて言った。「わたしがいる部屋は、まさに吉地[52]だから、死んだらすぐに葬ってくれ。」亡くなると、その言葉通りで、地を掘ると、自然の磚壙[53]を得たが、造りはたいへん精緻で、磚の上にはすべて呉興字があった。彬は年が八十余で亡くなった。その後、豫章に漁師がおり、生米を淵に投じて魚を捕え、しらぬまに遠くへいった。突然、石門に入ると、煥然として明朗で、ゆくこと数百白髯の翁を見、じっくり見ると、たいへん彬に似ており、いった。「こちらはおまえの来るべきところではない。はやく出るのがよかろう。」漁師はすぐに出て岸に登ったが、水に入ってすでに三日であった。古老で知るものがいて言った。「それはまさに西山天宝洞の南門だ。」

 

 梅真君[54]

汝陰の人崔景唐は、家がたいへん豊かであった。かつて道士がおり、姓は梅だとみずから言い、崔を訪ねてきたので、崔はかれを客とした。数か月して、景唐は玉案[55]を買い、寿春にゆき、節度使高審思に献じようとし、梅に言った。「先生はこちらにおとどまりください。わたしは寿春にゆき、一月して帰りますが、児や侄たちにお世話させますから、ご心配なさるには及びません。」梅は言った。「わたしは寿春のもので、一人の知りあい[56]を訪ねようとし、すでに帰ろうとしておりました。あなたは先におゆきなさい。久しくこちらにとどまり、お礼しようと思っております。お宅に水銀はございますか。」「ございます。」すぐに十両[57]を捧げると、梅は鼎の中に置き、水銀を焼き、しばらくするとすぐに銀となった。そこでそれを景唐に与えて言った。「これを旅路の食糧とし、寿春にゆかれましたら、城東にわたしの家を訪ねられればようございます。」すぐに景唐と別れて去った。景唐は寿春にゆき、すぐに城東にゆき、梅氏を訪ねたが、数日しても見つからなかった。村人はみな言った。「こちらには梅家はなく、道士もおりません。淮南の岳廟の中に梅真君像があるだけですが、もしやこれでございましょうか。」その言葉通りに尋ねると、ほんとうに梅真君であった。それから二度と遇わなかった。

 

 康氏

楊行密[58]が、揚州を平定した当初、僻遠の地で住む人は少なく[59]、煙火が接することがなかった[60]。康氏というものがおり、傭賃[61]を生業とし、一室を太平坊[62]の空家に借りていた。康は朝に出て帰らず、その晩、一子が生まれ、まさに藁を敷いていると、突然、一人の怪人が現れ、赤い顔に朱の衣冠で、門に拠って坐していた。妻は驚き怖れ、しばらくして、走って屋舎の西にゆくと、訇然[63]と音がした。康がちょうど帰り、家にゆこうとすると、路傍に突然銭五千が現れ、半分の羊[64]、樽の酒があった。久しく窺うと、通行人はいなかったので、持ち帰った。妻もその見たことを告げ、すぐに家の西に探しにゆくと、一人の金の人形が草叢に倒れていたので、やはり曳いて帰った。羊を調理し、酒を飲み、救いを得た。それから金を出し入れすれば富を得、日々豊かになり、金の人形を留めて家宝としていた。生まれた子は名を平平といい、生長すると、富豪となった。李潯というものがおり、江都の知事となり、県にゆき、新寧ゆき、豪邸を見たが、まさに平平の家であり、その父老が李にこのように語ったのであった。

 

 豫章の人

天復年間、豫章の人が家を直し、地を掘った。一つの木の戸棚を見つけ、開いたところ、金の人形十二躰を得た。それぞれ長さは数寸で、いずれも古の衣冠であった。頭には十二支を戴き、彫刻は精妙で、ほとんど人工でなかった。その家は宝として祀り、それによって福を致したが、時に戦争は収まらず、戍将[65]に掠奪され、後に死んだ場所が分からなくなった。

 

 陳浚

江南の陳浚尚書が、みずから言うには、かれの諸父(おじ)郷里よく詩を作っていたので、村人は陳白舎人といい、楽天に比していたということである。性格は気侭で、賓客を好んでいた。かつて二人の道士、一人の黄衣、一人の白衣が、かれの家にゆき、宿泊を求めた。広間に泊めると、夜分二人の客の牀が壊れ、訇然と音がし、しばらくすると、人がいなくなったかのようであった。燭をとって見ると、白衣の人が壁に臥しており、銀の人形であった。黄衣人は見えなかった。それから豊かになった。

 

 建安の村人

建安で村に住んでいる人がおり、つねに一人の若い奴隷を城市(まち)に出させていたが、家の南の大きな塚を通ると、塚の傍らにつねに一人の黄衣人がおり、かれと力比べして戯れた。かれの主人は帰るのが遅いので責めようとすると、奴隷は事実を告げたので、様子を見にいったところ、本当にそうであった。ある日、鞭を持ってゆき、草叢に伏した。若い奴隷が来ると、黄衣子供がふたたび出てきたので、すぐに起きてうったところ、すぐに倒れたが、金の子供であった。そこで持って帰ると、家は富んだ。

 

 

廬州の軍吏蔡卿は拓[66]鎮将となり、暑い夜に鎮の門外に坐して涼んでいたが、ふと見ると道の南の桑林の中に、白衣の婦人がひとり舞っており、近づいてみるとすぐに消えた。翌晩、卿は杖をついて先にゆき、草叢に伏した。しばらくすると、婦人がまた出てきて舞ったので、すぐに地に打ちおとしたが、白金一(へい)であった。さらに地を掘ると、銀数千両を得、富を致したという。

 

 岑氏

臨川の人岑氏は、山に遊び、溪水の中に、二つの白い石を見たことがあったが、大きさは蓮の実ほどで、たがいに追いかけあっていたので、捕まえて、帰ると巾箱[67]の中に置いていた。その晩、夢みると二人の白衣の美女が、みずから姉妹だと言い、側近くに侍しにきた。目ざめると、ますます二つの石が珍奇であることを悟り、つねに衣帯の中に結んでいた。後に豫章にゆくと、波斯国の人がおり、迎えて「宝をお持ちか」と尋ねた。「はい。」と言い、すぐに二つの石を出して示すと、胡人は三万を価にしてこれを得ようとした。岑は珍蔵していても実際は役に立たなかったので、銭を得るとたいへん喜び、与えると、胡人は感謝して去った。岑氏はそれから豊かになったが、その名と用途を尋ねられなかったことを恨みとしたという。

 

 建州の村人

建安の村人がおり、小舟に乗り、建溪[68]を往来し、薪を売って生計を立てていた。かつて舟を泊め、岸に上がり、薪を伐ろうとし、ふと見ると、山上から数百銭が流れくだり、やや上って探すと、かさねて数十を得た。山の中腹に達する前に、大樹の下に甕があり、高さは五六尺で、銭がその中に満ちていたが、甕はやや傾いていたので、銭が流れ出ていた。そこで推して正し、石で支え、衣襟に五百文を納めて帰った。その家人をすべて率いてすべて取りにゆこうとし、いったところ、もとの路は見つかったが、大樹を見ると、甕はなくなっていた。村人は徘徊して数日去れず、夜に夢みると人が告げた。「この銭には持ち主があり、以前甕が傾いたので、五百文で雇って正させたのだ。ふたたび得ることはできない。」

 

 徐仲宝

徐仲宝は、長沙の人であった。住居の道の南に、大きな枯樹があり、数回抱えるほどの大きさであった。しもべがおり、その下を掃除したところ、(すな)の中から銭百余を見つけたので、仲宝に告げた。仲宝がみずからゆくと、やはり数百を得た。それから、つねに銭を探し、すぐにその下を掃除すれば、かならず得るものがあり、このようにして年を重ね、およそ数十万を得た。仲宝は後に揚都にゆき、舒城の知事を授けられた。暇な日に家人とともに坐していると、地中から突然白い気がたいへん烈しく、斜めに飛び、外に向かって去ったが、中に物があるようであった。その妻が手で攫うと、一つの玉蛺蝶を得たが、作りは精妙で、人には測り知れなかった。後に楽平の知事となると、家人はさらに厨の鼠の穴の中から銭を見つけることがたいへん多かった。仲宝がすぐに人を率いて掘らせたところ、深さ数尺で、一羽の白雀[69]が飛び出し、庭の樹に止まった。その下で銭を得ること百万銭にいたり、尽きると、白雀は去り、行方が知れなくなった。

 

 邢氏

建業に庫番がおり、姓を邢といい、家は貧しく、銭を集めて二千に満ちればかならず病んだり、なくしたりするのであった。その妻はへそくりを貯め、地中に埋めていた。ある日突然音がして虫のように地から飛び、窓を出、穿って去ったが、壁にぶつかり、地に墮ちるものがあった。翌朝見ると、すべて銭であった。その妻は邢に告げ、埋めさせ、ふたたび見ればすべてなくなっていた。邢は一つの自然石の亀を得たが、そのありさまはほんもののようで、庭の石榴の樹の下に置いた。あるひとはそれを見ていった。「これは宝物だ。」そこで巾箱の中に入れた。それからやや充足し、後にたいへん富んだ。

 

 林氏

汀州[70]に林氏がおり、その先祖は郡守となったことがあり、辞任して家に住んでいた。ある日、天から突然銭が降り、その家に充積した。林氏は衣冠を整え、天を仰いで祈って言った。「異常な事でございますから、きっとこちらに禍をなしましょう。はやくやめば、林氏の幸福でございます。」言うとすぐにやんだ。収めたものはすでに鉅万で、今でも富豪であるという。

 

 曹真

寿春の人曹真は、野外に出ていったが、ふと見ると坂の下に数千銭があり、遠くから来、飛ぶ音は鈴のようであった。真は追いかけ、小さな穴に入り、手で掬ったが、数十を得られただけであった。さらに、舒州桐城県双戍[71]で、旋風が銭を巻き、市を通り過ぎた。市の人が追いかけてその銭を攫ったところ、襟に貯えられた。風が石の城壁[72]の荊棘の中に入ると、人は入れずにとどまった。得た銭は、家に帰って見ると、普通の銭と異ならなかったので、みな亡八九といった[73]

 

木を割ると肉があったこと

建康に木工があり、木を割ったところ、木の中に肉があり、五斤ばかり、その香りは火の通った豚肉のようであった。これも理で究められないことである。

 

 合格サイカチ

泉州の文宣王廟[74]は、建物が荘厳で、学校の盛大さは、藩府[75]に冠していた。庭にサイカチの樹があり、常州人が及第しようとすると、すぐに(ひと)(さや)が生えるのが通例となっていた。梁の貞明年間[76]、突然(ふた)(さや)を生じたが、一つは半莢であり、その意味は分からなかった。その年に州人陳逖[77]が進士に及第し、仁穎[78]が学究[79]に及第したが、仁穎は恥じ、さらに進士を受験した。同光年間[80]になり、もともと生えていた半莢の後ろにさらに両莢を生じ、その年に仁穎は及第した。数年後、廟は火に焼かれ、その年[81]みずから帝号を称すると[82]、ふたたび莢を生じなくなり、今にいたっている。

 

 張懐武

南平王鍾伝[83]が江西を鎮め、道士沈太遣わし、廬山の九天使者廟[84]に祈らせた。太醮を終え、夜、廟の回廊に坐していると、突然夢みるかのようになった。見ると壁画の一人が進みでて、太揖して言った。「わたしは張懐武だ。かつて将軍であったが、上帝はわたしがいささか陰功を物に及ぼしたので、今この廟に配し、霊官とさせているのだ。」目ざめると、起きて壁画を見たが、「五百霊官」と書いてあった。太帰り、そのことを進士沈彬に語った。彬が二十年後に醴陵[85]に遊ぶと、県令陸生はかれを賓客とした。食らっていると、軍吏の許生というものが後から来、張懐武に言及した。彬が尋ねると、許は言った。「懐武は、蔡の副将某の長吏[86]でございました。最近、甲辰の年に、大飢饉がございましたが、豫章だけが豊作だと聞き、すぐに他の将官と、それぞれ部下を率いて豫章に逃げることにしました。出発しますと、両軍はやや親しまず、武昌に着きますと、諍いがはげしく起こり、日を決めて決戦しようとし、禁じても無駄でした。懐武は剣を携げ、戍楼[87]の雲[88]に上り、その徒党に言いました。『わたしがおまえと今日旅しているのは、他でもない。ひとえに命を救うためだ。どうしてささいな怒りを我慢しないで戦うのだ。戦えばかならず強いものは傷つき、弱いものは亡ぶ。このようにして、どうして父母の国を去って道路に死ぬのか。両軍が争うのは、わたしのせいだから、今おまえたちのために死ねば、両軍は一つとなり、いたずらに禍を招くことはなかろう。』そして自刎した。そこで、両軍の兵士はみな楼の下に伏して慟哭し、ともに和親した。豫章に着くと、人で逃亡するものはなかった。許はただその旧恩を覚えているだけで、霊官の事は知らず、は述べられたとおりに記してそれを明らかにした。」もしや天意は義のために死ぬ士を奮い立たせようとしたので、かすかに人に告げたのか。

 

最終更新日:2012627

稽神録

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[1]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/4015459.htm&sa=U&ei=7TvpT4nBO62VmQXquaD6DQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHfxi9MuNpMezDA70Q0zXIJvtzciQ

[2]道家七十二福地の一つ。

[3]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/804512.htm&sa=U&ei=mm3lT8ajGYPSmAWYpZmdCw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNG6qbSgBzlRlMGTWAlCYSmS-CnPBQ

[4]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/3048692.htm&sa=U&ei=w23lT6buDMbhmAWos6z3Cg&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHbIM0uFjo1ePnmK6O6JBatK-ed0A

[5]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/84522.htm&sa=U&ei=WzzpT5-YLM32mAWL96H_DQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNFBKy5Yq28GGoBgn1re7NHwrBUlFw

[6]『全隋詩』張麗英石鼓歌』序「『金精山』云、漢時張芒女名英、面有奇光、不照、但扇如焉。沙王呉芮其異兵来聘。女年十五、芮来乃登此山、仰披髪、覆于石鼓之下、人之死。芮使人往之、忽紫雲鬱起、遂失女所在、石上留歌一首。

[7]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic81Zdic93235609.htm&sa=U&ei=fW7lT5uoJoekmQXFlNCNCw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEFgG4PQoMyXuXvvYqgJ4ARdGJsQA

[8]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic9CZdicA862662.htm&sa=U&ei=UwnnT93mIK6hmQXnl8nuCg&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHEovhAOs457zIkAmD4xnpzD0k-wg木製の

[9]未詳。順義軍のことか。正史の用例:『舊五代史』華h伝「莊宗入洛、h來覲、詔改耀州為順義軍、復以h鎮之、加推忠向義功臣。」。

[10]正史の用例:『旧五代史』太祖本紀「虔州本支郡也、兵甚、自得韶州益強大、升為百勝軍使。」。

[11]原文「能巻簟為井」。未詳。とりあえずこう訳す。

[12]宋の建隆二年

[13]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7ZdicA6ZdicBE190872.htm&sa=U&ei=S3flT6uYF8rvmAWr0-CRCw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHyZvt8Df1WSVeb0TeWH4YB_h2G8w穀類作物の総称

[14]『太平広記』には、この後に、「審知」の二字がある。王審知に関してはこちら

[15]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%95%9F

[16]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/24903.htm&sa=U&ei=-XTlT8rII-nEmAXUoqyKCw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHXiSUklosKWIfelkfIEF6k-sezzg

[17]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/74904.htm&sa=U&ei=dHXlT9LXAu3qmAWyntCDCw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGIpb9ZQCMZTMsDjqtVAilHvTjh0g

[18]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/816993.htm&sa=U&ei=tm_pT6-xC5DsmAXnhPSNDg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFxl406IetXNno3oqi4QxuJFNMxaA

[19]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE7Zdic89Zdic9934691.htm&sa=U&ei=O4LlT8fcIef1mAWOifWFCw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEiiDfdtpeqypt1NyqGvFz5FMTMlA武将、将軍。

[20]http://baike.baidu.com/view/473641.htm#1

[21]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/71504.htm&sa=U&ei=wJHmT7uwO4bLmAWP28T0Cg&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNGpVHl8nko011lTsFegfREJwen5Dw袈裟状の衣服

[22]原文「衣帔皆如新。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[23]原文「近觀之、不能測。」。「不能測」が未詳。とりあえずこう訳す。

[24]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/898705.htm&sa=U&ei=XUbqT4TOKIbwmAXX2_3yAg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEaesHtNEmgI-Ws_1r99c5ukv8EIg安徽省の州名。

[25]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic9BZdicA2115787.htm&sa=U&ei=z43pT6_hNIGemQWH4amgDg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEFTOd44PJ7DUaMy4ynZOJ6NSLpgA団練は、宋代から民国初年まで、正規軍の外に、地域で壮丁をび、訓練加えた地主の武装組織

[26]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic88ZdicA4322935.htm唐代度使、察使、防御使が判官を置いた。地方官の僚属で、政事を理した。宋は唐制に沿い、団練、宣、制置、運、常平使も判官を置した。

[27]この部分に「白使府」という句があるが、まったく未詳。

[28]劉存は楊行密の部将であり、「帥」とは楊行密を指していよう。五代十国の南呉の実質的建国者。

[29]原文「帥知其冤」。後ろとのつながりが未詳。とりあえずこう訳す。

[30]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8FZdicB889368.htm&sa=U&ei=yXDpT9jdH8X6mAXi362CDg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNG65uFShT-yGvRUwr52xIlWeTlt3A運命の神、また竈神とも。

[31]黄州の称。

[32]『新五代史』楚世家「行密遣將劉存等攻杜洪、圍鄂州、殷遣秦暉、許コ勳以舟兵救之、已而杜洪敗死、存等遂攻殷。殷遣暉拒於上流、偏將璠以舟三百伏瀏陽口。存等屢戰不勝、乃致書於殷以求和、殷欲許之、暉曰、淮人多詐、將怠我師、不可信。急擊之、存等退走、璠以瀏陽舟截江合擊、大敗之、劉存及陳知新戰死、暉取岳州。」

[33]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/59521.htm&sa=U&ei=q3HpT5LXK-rUmAWXzPyXDg&ved=0CB0QFjAD&usg=AFQjCNEaRApC1aJQAtbywCjhOqsXXmyVMQ官名

[34]http://www.google.com/url?q=http://wapbaike.baidu.com/view/25282.htm%3Fuid%3Dbk_1338521796_478%26ssid%3D%26bd_page_type%3D1%26st%3D1%26titleid%3D1%26bk_fr%3Dview_next&sa=U&ei=7XHpT7iMC6ffmAWjkLicDg&ved=0CBsQFjAD&usg=AFQjCNERg8fFJk8xlxVErA1LNZOoEobA-A

[35]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/940068.htm&sa=U&ei=DXLpT7azFuaimQW2t-WXDg&ved=0CBcQFjAB&usg=AFQjCNGS5lG6ITgm1Tz1ys5tNO-poaMnrg

[36]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9BZdic91174172.htm&sa=U&ei=KXLpT8uOL5D3mAWOuqGGDg&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEFeutjV_fqJBYhsY28axlrbvJWog監斬http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9BZdic91183298.htm死刑行を督するもの。

[37]未詳。江口は長江と他の川の合流点。

[38]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD332903.htm&sa=U&ei=qhnnT-3sAeuJmQWl8KCDCw&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNHggNR0OtYS2C4G18pYy3OWzVaadQ中が派遣した使者。多く宦官をさす。

[39]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic86Zdic9B337034.htm&sa=U&ei=dnLpT_vMGuHWmAXL342kDg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNF5Mwl2W_QutQA9vAuq5-ssUh9XZQ助のぜられた官。

[40]『太平広記』丁酉に作る。辛酉は宋の建隆二年、丁酉は南唐の昇元元年。

[41]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6Zdic96Zdic8B53560.htm&sa=U&ei=95HnT6vzNuSTmQW81fH5Cg&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNES2inlrddkMb3Z0pJQENfkpSJEhg法事をするける宴席。

[42]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic93Zdic85274849.htm&sa=U&ei=2q_lT93JKa_ImAXpgamICw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNF8RMBos0COhyaXnR2KVEX_XhGSlA白粉、また、それを塗った美貌。

[43]原文「掌墓」。未詳。とりあえずこう訳す。

[44]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8ZdicA7ZdicA3249739.htm&sa=U&ei=q7DlT9HVDtGVmQX2hMSUCw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNE5rZGjDZAfIbtyRxtLWg1lUxHyDw解脱化。肉身を捨て、修行成道することをさす。

[45]未詳

[46]http://baike.baidu.com/view/888253.htm#sub6554088

[47]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1034403.htm&sa=U&ei=tXTpT-rbH4bymAWWp7WMDg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGcn6Hu4NisUjPt-s6XtCYEkMR0yw

[48]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicB0Zdic8F85013.htm&sa=U&ei=Q0joT4ulDKjmmAWg0qj3Cg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEqGGJgEkTXKfpb_FbyPYtl5NVQuw位が低い武官。

[49]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/245652.htm&sa=U&ei=IV_oT5avBYbjmAXAioGYCw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFadR5yjWrQ6MN8ps3EoEnr-VUeiQ

[50]http://www.google.co.jp/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7Zdic84Zdic9A164627.htm&sa=U&ei=Z8LnT_zIKOrKmQWP55ybCw&ved=0CBIQFjAA&usg=AFQjCNHJnEm9fm7huus69WRr5M8AiSc9FA焚香修行すること。ひろく修行さす

[51]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic9CZdic8D223103.htm&sa=U&ei=kUnoT-KCEqPkmAWYgeGLCw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEmsx4PbqSxjGFtoj_-7YJKyXJKjQ服食すること。道家の生延年

[52]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic89309608.htm&sa=U&ei=toDpT7jIIKrKmQXi7dGDDg&ved=0CBwQFjAB&usg=AFQjCNG6JUoSMg_SoY1FUgxlUxQ7n5mNoA水がよい墓地をさす

[53]未詳だが、磚の敷かれた穴であろう。ただ、「自然磚壙」というのが未詳。

[54]未詳

[55]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic8EZdic89331215.htm&sa=U&ei=1RHpT92WHqjFmAWLsb2eDg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGg0Pak6R6bmlXPlrrEpsr3rsGyew(ぎょく)の足のある

[56]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBAZdicB2242561.htm&sa=U&ei=jWPoT_uqIsXOmAXko62UCw&ved=0CBwQFjAC&usg=AFQjCNEgSnbOJMYtmAMz0P5w80E_bhBHXg戚朋友。

[57]ここでの両は重さの単位。水銀十両。

[58]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/109681.htm&sa=U&ei=3vHnT9q7LOTkmAXX_7yJCw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNE5HI-Z9wxYbSVQOVlk4ZHaT6SQKg

[59]原文「遠方居人稀少」。「遠方」が未詳。とりあえずこう訳す。都から離れているということか。

[60]原文「煙火不接」。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic83Zdic9F57203.htm&sa=U&ei=AfLnT7zmGu_PmAXHtNGOCw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHK0VFcubenbcBQbuzNenxM8LQRbg「煙火」は炊煙。またひろく人煙をさす。人煙が稀だということか。

[61]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE4ZdicBDZdicA390675.htm&sa=U&ei=S2ToT8awBer-mAX-r6yQCw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHpNAa_FZXG0sSVhZkJdsVHpymw-A人に雇われること。

[62]未詳

[63]http://www.google.com/url?q=http://www.sjkc.com.my/dictionary/zd/zi/ZdicE8ZdicA8Zdic87.htm&sa=U&ei=pofmT_vxNa2emQXxs8juCg&ved=0CCEQFjAF&usg=AFQjCNFyNoqr4Nm0uX9mPy0G4wbR2KoSGQ音がたいへん大きいこと

[64]原文「羊半」。は腔に同じ。半は胴体の半分。http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE7ZdicBEZdicAB.htm

[65]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic88Zdic8D300976.htm&sa=U&ei=NqDmT4fhC4X_mAWN7qWJCw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEKMiIeXQlVJgko-gC4YJtQofyMQg境をる将

[66]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1171311.htm&sa=U&ei=IL_mT4zmCu3RmAWW8NX2Cg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHSvs5pgGmfQ645ikoQDI9sCK_PZg

[67]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicB7ZdicBE319342.htm&sa=U&ei=HcDmT-LiKaiOmQXQqqGNCw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFkf3JGR_dzQXoc8qysIg36ZEp58Q巾を置く小箱、後にまた巻、文書等の物品を置くのにも使った。

[68]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/285835.htm&sa=U&ei=W4TpT6qVCMaDmQWBvd33DQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNF70GPglfK2YkF1UpML37CKFplXiQ

[69]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic99ZdicBD227979.htm&sa=U&ei=J8jmT6SGEY6dmQXkuqH2Cg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGheB_c0RC9VjJuRFq8noNHbem3Aw白色の雀。祥瑞。

[70]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/240013.htm&sa=U&ei=9YTpT-wV5vSYBc3PtIAO&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFFRRBq4tzHOB2tWDFa8d8AIM3cjA

[71]未詳

[72]原文「石城」。http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic9FZdicB3221362.htm漢典に適当な語釈なし。固有名詞ではなく、普通名詞であろう。

[73]原文「而皆言亡八九矣」。「亡八九」が未詳。

[74]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic96Zdic87301665.htm&sa=U&ei=UYXpT_uKOJD5mAWQx5GGDg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHdRb35d5gNqkn-eKNtNH64LfSAXw文廟。孔子廟。

[75]藩鎮に同じいと思われるが未詳。

[76]http://baike.baidu.com/view/1107556.htm#sub6207123

[77]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/306833.htm&sa=U&ei=m4XpT4OUAabumAXl2JGXDg&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEvgB_kb8tgge4d_6Q354A3j5UDzg

[78]http://www.google.com/url?q=http://www.hudong.com/wiki/%25E9%25BB%2584%25E4%25BB%2581%25E9%25A2%2596&sa=U&ei=E__nT_PiDq_qmAXmr_HxCg&ved=0CBsQFjAB&usg=AFQjCNEH4NfoM7DcWFLxFENwdXPPNXs5AA天成丁亥年(九百二十七年)の状元。

[79]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicADZdicA6284312.htmの科目名。唐代取士、明一科「学究一」の科目がr、宋代「学究」と、礼部貢挙十科の一つであった。『新唐·選挙志上』、『宋史·選挙志一』参照

[80]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/%25E5%2590%258C%25E5%2585%2589&sa=U&ei=UwHoT9C6C6_3mAXBp72WCw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGfpc3hTu8D7fI9y0ej5xf_t8EdHg九百二十三年四月から九百二十六年四月。

[81]『太平広記』ではここに「閩」の字がある。

[82]後唐の長興四年(九百三十三年)、王延帝と称し、国号を「大」とし、啓と改元とし、王鏻(王璘)と改名した。http://baike.baidu.com/view/123532.htm

[83]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/228447.htm&sa=U&ei=mAToT4nWJcnEmAXJzPT_Cg&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNE7PKPjIXhNAqpYcjqLwwzL6jr-zw

[84]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE4ZdicB9Zdic9D320467.htm&sa=U&ei=B4bpT5KtLoTkmAW87KifDg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNE9nWcCYvv97rjZKv9moQwVIsiimw「九天采使者」の略称。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE4ZdicB9Zdic9D296549.htm&sa=U&ei=K4bpT4OtKcuNmQXAhsSlDg&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNExwOsrNj0SmXEoyzDeeiAvkMgkkw道教が信奉する人の世巡察する神仙。

[85]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/14085.htm&sa=U&ei=XIbpT9iFCcXLmAWhvKyfDg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNERQFTE5WGi_H2fu9U0bovo1bhvEA

[86]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE9Zdic95ZdicBF262043.htm&sa=U&ei=b4bpT6eFNq7umAXprLj8DQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNF-ft_DNdjHBqOI4xKc8IYThRtZjQ県長官の佐をさす

[87]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic88Zdic8D300980.htm&sa=U&ei=pobpT6fDKKbWmAXMmcWeDg&ved=0CB4QFjAD&usg=AFQjCNEFUr_3oaVakirE7ZgLI5KS1mRKMg駐軍の見張り台。

[88]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicBAZdic91342048.htm&sa=U&ei=1yHpT9fAD8uImQXvmOGjDg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFTsrX3SlDmKH4s1p0bEE5ZbNlGjA攻城の城壁登るための梯。画像検索結果

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