稽神録/巻四
陶俊
江南吉州刺史張曜卿に従僕がおり、陶俊といい、性質は謹直であった。従軍して江西を征した時、飛石に中たったことがあり、腰と足の病があったので、つねに杖をついていた。張は舟を広陵の江口[1]で守るように命じたので、白沙市中にゆき、雨を酒肆で避けた。ともに立っているものはたいへん多かったが、二人の書生が前を通ると、俊だけを顧みてともに言った。「この人はよい心だから、病を治してあげよう。」すぐに俊を呼び、二つの丸薬を与えて言った。「これを服すればすぐに治る。」そして去り、後に舟に帰って呑んだ。しばらくして、腹がたいへん痛むのを覚えたが、まもなく痛みは止み、病もすべて癒えた。篙を操り、纜を扱えば、もっとも軽やかであるのを覚え、白沙城を去ること八十里であったが、一日で戻り、労と思わなかった。後に二人の書生を探したが、結局ふたたび会わなかった。
延陵[2]の村人の妻
延陵霊宝観[3]の道人謝及損は、近県の村人であった。妻を失ったものがおり、及損を招いて法事をさせた。妻が死んで半月すると、突然、棺を推して呼ぶのが聞こえたので、人々はみな驚いて逃げた。その夫が棺を開いて見ると、起きて坐した。まもなく癒え、言った。「舅姑に召されてゆきましたが、『わたしのところには人がいないから、炊事させよう。』と言っていました。その住まいはたいへん閑静清潔でしたが、水がないことが難点でした。ある日見ますと溝の水がたいへん清うございましたので、とって漉して送りますと、姑はそれを見、たいへん怒って言いました。『おまえがこのように不潔だとは知らなかった。おまえは必要ない。』そして追って帰らせ、門を走り出て蘇ったのでございます。」今なお恙ない。
趙某の妻
丁亥の年[4]、浙西の典客吏趙某は、妻が死ぬと、十日足らずで葬ろうとしたが、妻が突然大声で叫んで活きかえり、言った。「一人の下役に捕らえられ、鶴林門[5]にゆきますと、中に役所がありました。侍衛は厳粛で、官吏で政務を尋ねるものおよび囚人を連れて集まるものはたいへん多うございました。吏はわたしを連れて入り、庭にゆきますと、堂上に一人の緑衣、一人の白衣のものが並んで坐しており、緑衣のものは吏に言いました。『間違えたな。この人ではない。いそいで送れ。』白衣のものは言いました。『すでにこちらに来るように促したのだから、送る必要はない。』緑衣のものは従いませんでした。しばらく質問しあいますと、緑衣のものは吏を怒鳴って送らせました。吏はわたしを連れて疾駆し、路に出、一つの橋を通りますと、数十人が橋を修理しておりましたが、その板には釘があり、吏はそれをもつて走り、釘で足を傷つけました。痛かったので大声で叫び、活きかえったのでございます。」足を見るとほんとうに傷ついていた。まもなく隣家の女房は亡くなり、ふたたび蘇らなかった。
建業の婦人
近年、建業に婦人がおり、背に瘤を生じたが、大きさは数斗ほどであった。嚢の中に物があり、繭か粟のようでたいへん多く、歩くと音がした。つねに市場で乞食し、みずから言うには、田舎の女で、義理の姉妹たちと別々に蚕を養ったことがあるが、自分だけ連年損失があったので、その義姉の繭を盗んで焼いたところ、まもなく背にこの瘡を患い、だんだんこの瘤となったということであった。衣で掩うと、すぐに息が詰まり、つねに露出させればよかったが、重くて嚢を負っているかのようであった。
広陵の男
広陵に男がおり、市場で乞食し、馬糞を見るたびに、すぐに採って食らっていた。みずから言った。「以前、人のために馬を世話していたが、物ぐさで夜起きられなかった。その主人はつねにみずから検査し、槽に草がないのを見ると、責めたてたので、烏梅餅[6]をとって馬に食べさせたが、馬は歯が痛み、食らえなくなり、死んでしまった。」その後、病を患い、馬糞を見るとかならず涎を流して食らおうとしたが、食らうと烏梅の味とまさに同じく、まったく悪臭がないのであった。
施汴
廬州の営田[7]の下役施汴は、かつて権勢を恃み、民田数十頃を奪った。その持ち主はその耕夫となったが、訴えることはできなかった。数年して汴が亡くなると、その田の持ち主の家に一頭の牛が生まれたが、腹の下に白い毛があり、数寸四方で、生長するとやや駁となり、年が明けないうちに「施汴」の字となり、点画に欠けはなかった。道士邵修黙はみずからそれを見た。
朱慶源
婺源の尉朱慶源は、辞任して家に帰ったばかりであった。豫章の豊城におり、庭の地面はたいへん高く乾いていたが、突然、蓮が一本生えた。その家は驚き恐れ、あれこれ祓ったが、蓮は生えてやまなかったので、堤を築き、水を堰きとめて沼とすると、やがて大きな池となり、芡荷[8]がさかんに茂った。その年、慶源は南豊[9]の知事を授かり、三年後、入って[10]大理評事[11]となった。
僧十朋
劉建封が豫章に来寇した時のこと、僧十朋とかれの徒弟は分寧[12]に逃げ、澄心僧院[13]に泊まった。初更に窓の外に光があり、見ると高さと広さが数尺の丸い火で、中に金の車があり、火とともに進み、ごろごろと音をたてた。十朋がはじめ恐れていると、その主人は言った。「数年見ている。毎晩かならず西堂の西北隅の地中から出、堂を巡ること数周で、ふたたびそこに消える。禍福をなさないので、掘って見るものはいない。」
宜春の人
天祐のはじめ、ある人が宜春の空家に泊まった。戦争の後で、郷村は荒れ果てていた。堂の西の屋梁の上に小窓があり、外は荒れた空地[14]数十畝であった。日が暮れると窓の外に正方形の物があらわれ、下から上り、まもなくその窓をすべて覆った。その人が弓を挽いて射ると、すぐに落ちた。時にすでに夜で、すぐには見られず、翌朝探すと、西へ百余歩のところに、四角の杉の木の板があり、一本の矢を帯びていたが、まさに昨日射たものであった。
朱従本
李遇は宣武節度使[15]となり、軍政を大将の朱従本に委ねていた。その家は厩でサルを飼っていたが、圉人が夜起きて馬に秣をやっていると、驢馬のような物が見えた。黒くて毛があったが、手足はいずれも人のようで、地に蹲ってサルを食らい、人を見るとサルを棄てたが、すでにその半分を食らっていた。翌年、族誅に遭った。宣城の古老はいった。「郡ではつねにこの怪がおり、軍城[16]の変事があるたびに、この物はかならず出、出れば城じゅうが臭くなる。田頵が敗れようとした時、街中に出、夜回りは見ても迫ろうとしなかったが、一月で禍が及んだ。」
周本
信州[17]の刺史周本は、揚都[18]で入覲[19]し、宿に泊まっていた、私諱[20]の日、ひとり外斎[21]に宿り、提灯を掛けて寝た。寝つかないうちに、部屋の中で劃然[22]と音がした。見ると火鉢が冉冉として上っており、まっすぐ屋根にいたり、しばらくして下ったが、飛ぶ灰は勃然としていた。翌日、部屋中で埃が物を覆っていたが、他に怪事はなかった。
薛老峰
福州城内に烏石山[23]があった。山には大きな峰があり、「薛老峰」の三字が彫られていた。癸卯の年、ある晩激しい風雨があったが、山上で数千人が騒いでいる声のようであった。朝になれば、薛老峰が倒立し、峰の字が上になっていた。城内の石碑はすべて転側していたが、その年、閩は亡んだ。
王慎辞
江南の通事舎人[24]王慎辞は、別荘を広陵城の西に持っていた。慎辞は親戚友人とそこで宴遊したことがあった。ある日、突然その岡の形が気に入り、嘆じた。「わたしは死ねばきっとこちらに葬られよう。」その夜、村で犬が吠えるのが聞こえたので、あるひとが起きてみると、慎辞が単騎でそこを徘徊しており、迫って見ると、見えなくなった。それから毎晩かならず来た。一月あまりで慎辞は亡くなり、その地に葬られた。
姚氏
東州静海軍[25]の姚氏は、徒党を率い、海魚を捕え、歲貢[26]に充てていた。時に夜になろうとしていたが、漁獲がたいへん少なかったので、嘆いていると、突然、網に男を捕らえた。黒い色で、全身に長い毛があり、拱手して立ち、尋ねても応えなかった。水先案内人は言った。「これはいわゆる海人で、見ればかならず災がございますから、殺してその厄を封ずる[27]ことを願います。」姚は言った。「これは神霊だから、殺せば不吉だ。」そして放って祈った。「わたしのために多くの魚たちをもたらして闕職[28]の罪を免れさせることができれば、神であると信じよう。」毛人は水上に退き、数十歩して沈んだ。翌日、魚をたくさん捕らえ、例年に倍していた。
彭顒
宣州[29]塩鉄院[30]の官彭顒は、数か月病み、恍惚として楽しまなかったことがあった。おもての広間に出るたびに、かならず俳優楽工数十人を見たが、身長はいずれも数寸で、合奏し、百戯[31]を演じ、朱紫は目を眩ました。顒はしばらくそれを見、笑ったり憤ったりしたが、どうしようもなく、他人には見えなかった。後に顒の病が癒えると、それ以上見えなくなった。十余年後に亡くなった。
呂師造
呂師造は池州刺史となり、大いに税を取りたてた。かつて娘を揚都に嫁がせたが、持参金はたいへん厚く、家人に送らせた。晚に竹筱江[32]に泊まると、岸の上に突然一人の道士が現れたが、様子は狂人のようであった。行き来して走り、突然舟に跳び込み、まっすぐ舟を通り過ぎたが、その通る所では、火がすぐにはげしく起こり、さらに後ろの船に登れば、やはり火が着いた。載せてあるものは、すべて灰燼となった。一人のばあやは髪が一尺余り[33]、人と船はまったく損害がなかった。道士もそれ以上現れなかった。
崔彦章
饒州刺史崔彦章は、客を城東に送り、宴していたところ、突然一台の小さな車が現れた。その色は金のようで、高さは尺余、席を巡って進み、探しものがあるかのようで、彦章のところに来ると止まり、進まなくなった。すると彦章はすぐに倒れ、ともに州に帰って亡くなった。
潤州[34]の気
戊子の年[35]、潤州に虹のような気があり、五彩は目を奪った。頭があり、驢馬のようで、長さは数十丈、広間を巡って立ち、進むこと三周で消えた。占うものは言った。「広間で哭く声があろうが、州府の禍ではない。」まもなく、その国[36]の太后[37]が亡くなり、この堂で葬儀が行われた。
黄極
甲午の年[38]、江西の館駅巡官黄極の嫁が男を生んだが、一つの頭に二つの身が背中合わせになっており、四手四足であった。建昌の民家で牛が生まれ、つねに一本の足ごとに一本の足がさらに出ていたので、江中に投じた。翌日、水上に浮かんだ。南昌新義里[39]で地が陥没したが、長さは数十歩、広いところは数丈、狭いところは七八尺であった。その年、節度使徐知詢が亡くなった。
熊
軍吏熊は、建康[40]長楽坡[41]の東に住んでいた。かつて日が暮れた時のこと、屋根の上に二つの物が見えたが、大きさは卵ほどで、赤くて光があり、往来して追い掛けあっていた。家人は驚き恐れたが、勇敢な親客[42]がおり、屋根に登って捕らえた。その一つを捕らえたが、渚ハ[43]を被せ、鶏卵の殼を包んだものであった。鑢に掛けて焼くと、臭いは数里に漂った。もう一つは逃げ去り、ふたたび来なかったが、家は恙なかった。
王建封
江南の軍使王建封は、驕奢であった。豪邸を淮水の南に築き、暇な日に街に臨み、窓辺に坐していた。見ると一人の老婆が若い女を連れて前を通った。衣服は襤褸だが姿色は絶世であった。建封が呼んで尋ねると、言った。「孤独貧乏で頼るものがなく、乞食してこちらに来ました。」建封は言った。「わたしが娘さんを娶り、終生あなたをお世話すればよろしいでしょうか。」嫗は欣然としていた。建封はすぐに招き入れ、新しい衣二襲をとって着るように命じた。嫗および娘が古着を脱ぐと、いずれも地上で凝血と化した。一月して建封は誅せられた。
広陵の士人
広陵に士人がおり、かつて提灯を掛けてひとり寝ていた。ある晩、真夜中になって坐していると、突然、双髻で青衣の娘が現れた。姿質はたいへん麗しく、かれの足元で熟睡した。某は妖物であることを悟り、恐れて近づこうとせず、元通り寝ていると、朝になって消えた。門戸はまだ閉ざされていた。それから毎晩かならず来た。ある術士が護符を書いてやり、かれ[44]の髻の中に施した。夜半寝たふりをして待っていると、案の定、門から入り、まっすぐきて髻の中から護符をとり、燈下で見てかすかに笑い、それがおわるとふたたび髻の中に置いてやり、牀に登って寝、恐れることがなかった。後に、玉笥山[45]に道士がおり、符禁[46]が霊妙であると聞いたので、訪ねていった。夜になると舟に乗り、長旅に出た。途次豫章、暑い夜、月影の下で舟を進め、時にたいへん暑く、船じゅうが窓を開いて寝ていたが、真夜中、ふと見ると、また牀の後ろで寝ていた。某はすぐにこっそりと起き、いそいでその手足を捉え、江中に投じたところ、紞然[47]と音がし、それから来なくなった。
黄仁浚
舒州[48]の司士参軍[49]黄仁浚が、みずから言うには、五十歲で隴州汧陽[50]の主簿をやめ、鳳翔[51]にいったそうである。文殊寺[52]があり、寺中に土偶数十体があったが、突然自然に揺れ動き、酔った人のありさまのようであった。しばらくしてもやまず、傍で見るものは垣のようになり、官司はそれを禁じたが、今になってもその応験はない。
孫徳遵
舒州都虞候孫徳遵の家で、寝室の鉄の灯架が突然ひとりでに揺れ動いたが、人が揺らしているかのようであった。翌日になり、下女がたまたま灯架の所にゆくと、突然地に倒れ、亡くなった。
木が文を成すこと
梁の開平二年、その将李思安[53]に命じて潞州を攻めさせ、壷口関[54]に布陣した。木を伐り、柵を造ろうとし、一本の大木を割ったところ、木の中に隸書六字で「天十四載石進」と書かれていた。思安が上申すると、群臣はみな賀し、十四年できっと遠夷が入貢しようと思った[55]。司天少監[56]徐鴻独は親しいものに言った。「昔から一字を年号とするものはなく、上天の符命[57]が闕文であるはずもございません。わたしは丙申の年に石氏がこの地の王となるのだと思います。『四』の字の中の二つの縦棒を移して、『天』の字の左右に置けば『丙』の字になります。『四』の外の囲みを『十』の字に移して貫けば、まさに『申』の字になります。」後に丙申の年になり、晋の高祖が石姓で并州[58]に起こったが、鴻の言った通りであった。
柳翁
天祐年間、饒州[59]に柳翁がおり、つねに小舟に乗り、鄱陽江で釣していたが、その住居と妻子を知らず、飲食するところも見なかった。水族の類と山川の深遠なところも、すべて知っていた。およそ鄱陽の人で漁や釣りするものは、みなかれに尋ねてからいった。呂師造は刺史となり、城を修理し、濠を掘鑿したが、城の北にゆけば雨がふり、工事が終われば晴れた。あるひとが柳翁に尋ねると、翁は言った。「この下は龍穴[60]で、その土を震わして動かせば龍は不安となって穴を出、龍が出れば雨が降るのです。掘ってやまなければ、きっとその穴にたどり着きますが、霖雨が禍をなしましょう。」深さ数丈になると、ほんとうに大木が見つかったが、長さは数丈、たがいに重なり合い、数十重に累積し、その下は霧気が人を衝き、入れなかった。そしてその上の木にはすべて腥い涎が纏いついていた、彫刻はきちんとしており、人力によって致されたものでなかった。それからほんとうに霖雨が禍をなした。呂氏の子供たちが鄱陽江で魚を網でとろうとし、柳翁を召して尋ねると、翁は南岸の一か処を指し、言った。「今日はこちらにだけ魚がいますが、一匹の小さな龍がいます。」子供たちは信じず、網すると、ほんとうにたくさん捕らえた。舟の中で瓦盆[61]に貯えたが、中に一匹の鱓魚がおり、長さは一二尺、両目は澄明で、二つの長い鬚があり、盆を巡ってゆくと、魚たちはみな従った。北岸に着こうとすると、所在を失った。柳翁は最後はどこで死んだか分からなかった。
李禅
李禅は、楚州刺史承嗣の末子であった。広陵延平里の豪邸に住み、昼に庭先で寝ていると、突然白い蝙蝠が庭を巡って飛んだので、童僕たちは帚で撲ったが、みな中てられなかった。しばらくすると飛んで中庭の門を出たが、撲っても中たらず、飛び出て外門の外にゆくと、見えなくなった。その年、禅の妻が亡くなったが、輀車が出入りした路は、まさに白い蝙蝠が飛翔していた所であった。
蚓瘡
天祐年間、浙西で慈和寺[62]を再建したが、土地を区画するのがおわると、つねに蚯蚓に穴を穿たれたので、仕事するものは憂えていた[63]。一人の僧が石灰で掩うように教えると、それから事は落着したが、蚯蚓を殺すこと無数であった。まもなくその僧は病み、全身が癢くなり、日々指爪が長いものを見つけて搔かせなければならなくなり、瘡となるにいたった。瘡の中からはかならず死んだ蚯蚓一匹が見つかり、数百千匹になろうとすると、肉が尽き、骨に達して死んだ。
蜂余
廬陵[64]で、ある人が受験しにいった。夜になり、ある田舎家にゆき、宿を求めると、老翁が出てき、客を見て言った。「わたしの家は狭く、人は多いですが、お一人さまならよろしいでしょう。」そこでその家にとどまった。部屋は百余間あったが、たいへん狭かった。しばらくして、空腹を告げると、翁は言った。「わたしの家は貧しく、食らうものは野菜だけです。」すぐに客をもてなしたが、食べればたいへん甘美で、普通の野菜と異なっていた。就寝するとただ訌訌[65]たる音が聞こえた。暁になり、目ざめると、身は畑に臥しており、傍らに大きな蜂の巣があった。客はつねに風疾を患っていたが[66]、それからは癒えた。そもそも蜂を食らった余力であった[67]。
熊廼
信州に板山[68]があった。川と谷は深く長く、板をとる場所であったので[69]、そういわれていた。州の人熊廼は、以前その仲間とともに山に入り、木を伐った。かれの弟は西から追ったが、日暮れになっても兄に追いつかなかった。ふと見ると、兵士が露払いして東から来、呼び声はたいへんはげしかったので、弟は恐れ、草叢に伏した。まもなく旗幟と戈甲が、絡繹として来た。路傍にはほかにも通行人がいたが、その露払いを犯すものはかならず戮せられた。陣中にゆくと、一人の大将のようなものがおり、西に馳せていった。まだ遠いと思い[70]、出発しようとし、暁になるとはじめて兄に会い、くわしく見たことを語った。人々はみな言った。「巡邏する所ではない。西にゆけば溪はきわめて険しく、ゆくものがないから、そんな人がいるわけがない。」すぐにともに探し、十余里ばかりゆくと、溪を隔ててまだ旌旗が紛若[71]とし、囲みを設け、狩猟しているありさまのようであるのが見えた。仲間で勇気のあるものがはるかに怒鳴ると、突然見えなくなった。近づいて見ると、人はみな樹の葉、馬はみな大きな蟻で、取って砕けば、すべて血があった。庭に貯え、火で焼くと、まもなく消え尽くし、みな哭いた[72]。廼もその後足に腫瘍を患い、甕より太くなり、その痛みに耐えられず、一ヶ月して亡くなった。
劉威
丁卯の年[73]、廬州刺史劉威が移って江西を鎮めることになったが、離任すると、郡で大火があり、虞候[74]の吏が巡察すると、火はたいへん激しく、しばしば火を持ち、夜に歩くものがおり、捕えようとしたが捕まらなかった。あるひとが射ると死んだので、近づいて見ると、棺材の板、腐った木、腐った帚の類であった。州の人はますます恐れ、数か月して張宗を除して廬州刺史とすると、火災は止んだ。
馬希範[75]
楚王馬希範が長沙城を修理し、濠を開きおわると、突然物が現れた。長さは十丈あまりで、頭、尾、手、足がなく、ありさまは土山のようで、北の岸から出、水上を游泳した。しばらくすると南の岸に入って消えたが、出たところ、入ったところには、いずれも痕跡がなかった。あるひとはそれを土龍[76]と言った。まもなく、馬氏は滅んだ。
最終更新日:2012年6月23日
[1]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6ZdicB1Zdic9F318805.htm&sa=U&ei=B6rhT52UBqWNmQX1kIH2Aw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGX3BTfoI65Ps_KIVIu-e2UA_SlrQ 江水が他の川と合流するところ。
[2] http://baike.baidu.com/view/79775.htm 江陰のことhttp://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/7864.htm&sa=U&ei=yvrkT42WPIGDmQW5va2BCw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFc3IYKMCKRTN4b78DzTRPq8PIaGg
[3] 未詳
[4]唐の天成二年
[6] 未詳だが、烏梅を餡にした餅であろう。
[7]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE8Zdic90ZdicA5170672.htm&sa=U&ei=34nkT_LIH4uVmQWy8_WWCw&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNHLotbT9_FE7RaWJcerPK6KyYOgLw 屯田
[8] http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE8Zdic8AZdicA1.htm http://www.google.com/search?q=%E8%8A%A1&hl=zh-CN&gbv=2&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi
[9]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/112092.htm&sa=U&ei=scPhT5bjM8fWmAWMxKnvAw&ved=0CBcQFjAB&usg=AFQjCNHTMoDF59FS-HdJS-FZ36tpTiLwLw
[10] 「中央に入って」ということか。
[11]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicAFZdic84253158.htm&sa=U&ei=PcLhT52RK6PKmQW0u43VAw&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNH459moUmVCGniJaKh2LF1xhbb8pw 職官名。
[12]http://www.google.com/url?q=http://gan.wikipedia.org/wiki/%25E5%2588%2586%25E5%25AF%25A7&sa=U&ei=H8jhT6-cFOqTmQWbibnyAw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNFB8ZecK36SfBE02cvuhvep6n4P5g
[13]未詳。
[14]原文「外隙荒數十畝」。「隙荒」が未詳。とりあえずこう訳す。漢典に適当な語釈なし。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic9AZdic99267381.htm&sa=U&ei=ylHMT_yEFqWYmQXe4fCHDw&ved=0CBoQFjAC&usg=AFQjCNH4cKaNuAycIaFCAdFQAOe3bA65Ig
[15]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/Category:%25E5%25AE%25A3%25E6%25AD%25A6%25E8%25BB%258D%25E7%25AF%2580%25E5%25BA%25A6%25E4%25BD%25BF&sa=U&ei=1ezkT7DlEYjNmQWppOGYCw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGG9Lyhk6U89A9cINgBqTI3cehU5g
[16] ここでの軍は行政区画の名。宋代の行政区画名。府、州、監とともに路に属する http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE5Zdic86Zdic9B.htm
[17]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/473756.htm&sa=U&ei=Le3kT5XJCLHvmAXlvPyUCw&ved=0CCIQFjAD&usg=AFQjCNH__4E94BhoIBegQ2oGlb-dVPDrOQ
[18]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic89ZdicAC138108.htm&sa=U&ei=Qu3kT9iDEObumAXN_9yWCw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNELjPM8qOOXfi4u7KqA34xRv4oUIw 揚州
[19]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE5Zdic85ZdicA584626.htm&sa=U&ei=T-3kT9PPLaeOmQXZk5GOCw&ved=0CBUQFjAB&usg=AFQjCNER-2eYCuFHBLIaks6n7mL4vvRzuA 地方官員が入朝して帝王に進見すること。
[20]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicA7Zdic81162631.htm&sa=U&ei=QNLhT5biDMnimAXUse3NAw&ved=0CCEQFjAD&usg=AFQjCNG3gxda4m5LfmJ2WQRCqrZypUjS5Q 漢典に適当な語釈なし。親の命日など、私的な忌日であろう。
[21] 未詳だが、おもての書斎であろう。
[22]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic88Zdic9229672.htm&sa=U&ei=ftLhT7zoCqL-mAWsosjMAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNE6T-avrFlO7lzD0cBs27zLu9A4mg 擬音語
[24]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic80Zdic9A46800.htm&sa=U&ei=Ge7kT5izHvDEmQW6iY3-Cg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHTJnuzaHGDa2o-TA6j1LlsaVoBrg 官名
[25]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1034410.htm&sa=U&ei=Ku7kT5nRA4SbmQXo9-mMCw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHomYdOA-RneLX6jXX2r4sm8kWltw
[26]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicB2Zdic81284457.htm&sa=U&ei=Oe7kT4OQGMXOmAXko62UCw&ved=0CBgQFjAC&usg=AFQjCNF6YDc4JfN9tvw0zf2q29qvVn3yyg 毎年朝廷に進献する礼品。
[27] 原文「塞咎」。http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE5ZdicA1Zdic9E32359.htm 漢典に適当な語釈なし。訳文の意と解す。
[28] 原文同じ。未詳だが、職務不履行の意であろう。
[29]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/804680.htm&sa=U&ei=e-7kT4yEC4ahmQXtudiACw&ved=0CBwQFjAB&usg=AFQjCNFO7-Xl6qbNeZ7buVz8h4AM8InR-Q
[30]『宋史』職官志「鹽鐵院、度支院、戶部院勾覆官各一人。」
[31]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE7Zdic99ZdicBE7744.htm&sa=U&ei=StrhT9-mKsbXmAXv05XOAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHPKHKruw4MVB338YFS6U3Nqu-cFQ 楽舞雑技の総称。
[32] 未詳。
[33] 原文「一老婢髪尺余」。前後の文脈に合わない。脱文があるか。
[36] 潤州を東寺支配していたのは南呉なのでそれをさしているものと思われる。
[37] 未詳。
[38]唐の応順元年
[39] 未詳
[40] 江寧府、宋代になって建康府と改名。
[41]未詳
[42]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBAZdicB2242574.htm&sa=U&ei=wmfiT62TGeH6mAXesITqAw&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNFR-NyGNkq2Z-tzH87JupDuHucvMQ 親しい賓客。姻戚の賓客をもさす。
[43]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE7ZdicBCZdicAF38395.htm&sa=U&ei=OWniT5_bHqekmQXMtsngAw&ved=0CBcQFjAC&usg=AFQjCNEKBWAn1fsf6T73XIzYQGQecyVlmA 彩色した絹。
[44] 士人を指していよう。
[46]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicACZdicA6193378.htm&sa=U&ei=eLXjT62rIZHomAWUprGeCw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNFDquUF-yRj0bacQVLphDND6CPzDw 符呪と禁呪。
[48]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/898705.htm&sa=U&ei=dwHlT9GNAeTPmAW_u82CCw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGBeY03ZkNt8LXp0i7vcXgeq2eH6Q 安徽省の州名
[49]http://www.google.com/url?q=http://www.hudong.com/wiki/%25E5%258F%25B8%25E5%25A3%25AB%25E5%258F%2582%25E5%2586%259B&sa=U&ei=d_DkT5jfPImImQW148GACw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFtuk2E0JlPhoH8NEL4jZdbJsHV4Q
[50]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/3239327.htm%3FfromTaglist&sa=U&ei=6gDlT9PwJqz0mAWAqtCDCw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHbqqCbODxL1hZVvYFvCyg2RvA_oA
[52] 未詳
[53]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/856009.htm&sa=U&ei=d8TjT_HUIKHKmAX8sZ2cCw&ved=0CBUQFjAB&usg=AFQjCNEC8tvC131Ph9plsNPgZSJKn4Vgpg
[54]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8994391.htm&sa=U&ei=lL3jT_isBa7umAWBu8z0Cg&ved=0CBkQFjAB&usg=AFQjCNFaPVapvKYdJaPxZ_zT9mm31uqwQA
[55] 原文「以為十四年必有遠夷入貢」。どうしてそう解釈できるのか未詳。
[56]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/848855.htm&sa=U&ei=vgHlT6mvIuHXmAW3u5T7Cg&ved=0CCoQFjAF&usg=AFQjCNHR_vvC1B1rh_TcNyP6wHIAKSWzkw 司天監の属官
[57]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicACZdicA6195235.htm&sa=U&ei=EfHkT5mfHuOdmQXeqKXvCg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHvf7x4wDSYQ_2grAwNJJXzV0VsHw 上天があらかじめ帝王の受命を示す符兆。
[58]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/157362.htm&sa=U&ei=4b_jT-SVMurmmAWdzr2cCw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNGYUO4FhQzh2vYpDbDXsZsQo3zoUA
[59]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/804651.htm&sa=U&ei=U_LkT9-cGIXSmAWWkfmeCw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNGv9zkVo3m7hR9fZro6hxq8Xf6MCw
[60]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE9ZdicBEZdic9977275.htm&sa=U&ei=Z_LkT661KcjPmAXc-eGbCw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHo6KwdwnqNDobfVTKAddi94byVtw 堪輿家が山の気脈の結ぶところをいう。墓穴を作るのによい。
[62] 未詳
[63] 原文「畫地既畢、毎為蚯蚓穿穴、執事者患之。」。「為蚯蚓穿穴」が未詳。とりあえずこう訳す。寺を再建しようとして土を突き固めても、ミミズが穴を掘って土壌を柔らかくしてしまうということなのか。
[64]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/866703.htm&sa=U&ei=6gLkT4uZFaromAXf15CXCw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNFEHLE-5EiIc5kg19eaEiE3GePfJA
[66] 原文「客常患風」。「患風」が未詳。とりあえずこう訳す。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9ZdicA2ZdicA8349708.htm&sa=U&ei=M_fkT7uuHvCOmQW-rqGYCw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHOKBOtutlgRtVHNFlHWz2fm-VtXg 風疾は精神錯乱。
[67] 原文「蓋食蜂之余爾」。「食蜂之余」が未詳。とりあえずこう訳す。脱字があるか。
[68]未詳。
[69] 原文「采板之所」。「采板」が未詳。とりあえずこう訳す。
[70] 原文「度其尚遠」。未詳。とりあえずこう訳す。兄との距離がまだ遠いという趣旨か。
[71]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicBAZdicB7206299.htm&sa=U&ei=RPnkT7bhN42HmQWau5T9Cg&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNE1S7TKI-ihJd3JlPJckuXqsLGj0A 盛多のさま。
[72] 原文「眾口所哭」。未詳。とりあえずこう訳す。この一句、意味不明。
[73]宋乾徳五年