稽神/巻三

彦成

軍吏の徐彦成、木を買うことを業としていた。丁亥の年[1]、信州[2]の汭口場[3]にいったが、買える木がなかったので、しばらく舟を泊めていた。一日が暮れると、一人の若者が二人のしもべを従え、岸辺を往来し、人を訪ねて会えないもののようであった。彦成はそこで舟に招き入れ、酒席を設けてやり、賓礼[4]した。若者はたいへん有り難がり、去ろうとすると、感謝して言った。「ここから数里の別荘に住んでおりますが、ご来臨いただけましょうか。」彦成承諾した。翌日いったが、進むこと一里あまりで、しもべと馬が迎えに来た。まもなく豪邸に着いたが、建物はたいへん豪華であった。若者は出てきて客を招きいれたが、酒食は豊富であり、しばらく逗留した。彦成こちらに久しくとどまっているが買える木がないと言うと、若者はいった。「わたしは木を山の中に持っておりますから、明日出させましょう。」一二日とどまると、ほんとうに杉の木がたくさん来たが、良質廉価であったので、引き渡しが終わると、別れを告げにいった。すると若者はさらに大きな杉板四枚を出し、言った。「前の木はお売りしましたが、今これをさしあげましょう。ゆけば高値で売れましょう。」彦成帰り、秦淮にゆくとすぐ、たまたま[5]が亡くなり、杉板を買い、棺を作り、材木のもっとも珍しいものを求めたので、銭数十万を得た。彦成たくさん骨董を買い、ふたたび汭口にゆき、若者に酬い、さらに市で交易し、三たび往復し、多くの利を得た。一年をおき、ふたたびゆくと、村落は元通りであったが、見たものはまったくなかった。村人に尋ねたが、知っているものはいなかった

 

 周潔

霍邱[6]の知事周潔は、甲辰の年辞任し、淮上を旅していた。時に人民はたいへん飢え、宿屋はなくなろうとしており、投宿する場所はなかった。高いところに登って眺めれば、はるかに村落の煙火が見えたので、走ってゆくと、ある田舎家にたどりついた。門を叩き、しばらくすると、一人の娘が出て門で迎え、宿を求めていることを告げると、娘は言った。「家族は飢え、老若はみな病み、お客をお招きするすべがないことを恥じております。中堂に留まってお休みになればようございましょう。」そこで入ると、娘は前に侍立した。まもなく、その妹がさらに出て来、女に隠れて立ったが、その顔は見えなかった。潔は自分で食べものを用意していたので、(へい)二枚を取り、二人の娘に与えると、持って部屋に入ったが、門を閉ざして聴くと、悄として人の声がなかった。潔はまさに竦然として恐れ、朝になると去ろうとし、二人の娘を呼んで別れを告げたが、まったく答えがなかった。そこで壊して入ったところ、積もった屍が部屋に満ち、いずれも干からびて朽ちようとしていたが、娘だけは死んで十日足らずであった。その妹は面目がすでに干からびていたが、二つの(へい)はまだ胸の上に置かれていた。潔は後にすべてかれらを埋めてやった。

 

 楊副使

壬午の年[7]、広陵瓜州の市中に人がおり、果実を買おうとしてたいへん急いでいた。あるひとが用途を尋ねると、言った。「わたしの長官は明日上奏するのだ。」長官とは誰かと尋ねると、言った。「楊副使だ。」官署がどこにあるかと尋ねると、金山の東だと言った。そして去り、ふたたび訪ねられなかった。時に浙西に楊副使がおり、召されて揚都にゆき、船が金山にいたると、ゆえなくして沈んだ。

 

 

広陵の雲寺の僧楚は、かつて中山の商人章某と親しくしていた。章が死ぬと楚は法事を設け、経を誦えてやった。数か月して、突然市中で章に会った。楚は食事していなかったので、章はすぐにかれを料理屋に招き入れ、胡餅[8]を買ってやり、ともに食らった。楚は尋ねた。「死んだのに、どうしてこちらにいられよう。」章は言った。「そうなのだが、わたしはまだ免れていない小さな罪があるので、今死んで揚州の掠剩鬼となっているのだ。」さらに何を掠剩というかと尋ねると、言った。「商人の利益は、すべて額が決まっており、額を越え、それを得ると余分を奪われるが、わたしは奪ってそれを所有できるのだ。今、人の世にわたしたちのようなものはたいへん多い。」そして通行人の男女を指し、某人某人はみなそれだと言った。まもなく一人の僧が前を通ると、さらに言った。「この僧もそうだ。」そして召して来、ともにしばらく語ったが、僧は楚を見もしなかった。まもなく、ともに南へゆき、一人の婦人が花を売っているのに遇うと、章は言った。「この女の花も幽鬼が買うもので、花も幽鬼が用いるものだが、人の世では用いるものがいない。」章はすぐに数銭を出して買い、楚に贈って言った。「この花を見て笑うものは、すべて幽鬼だ。」すぐに別れを告げて去った。その花は紅色で好もしかったが、たいへん重く、楚もぼんやりとして帰った。路ゆく人には花を見て大笑いするものがいた。寺の北門に着くと、幽鬼とともに遊んだが、これ以上幽鬼の物を持っているのはよくないとひそかに思った。すぐに花を(どぶ)に擲つと水が撥ねる音がした。帰ると同院の人がかれの顔色がたいへんおかしいことに気づき、急病になったと思い、競って湯薬を持ってきて救うと、しばらくして恢復し、そのわけを語った。そしていっしょにその花を調べると、一本の死人の手であったが、楚はそれでも恙なかった。

 

 陳守規

将軍陳守規は、かつて罪を得て、信州に流され、公館に寓居した。公館はもともと不吉で、守規が来ると、すぐに幽鬼が昼に現れた。奇形怪、変化は迅速であった。守規はもともと剛勇であったので、みずから弓矢や刀を持ってともに闘った。しばらくすると、空中で語って言った。「わたしたち鬼神は人と雑居しようとしませんが、お心が堅いのでしたら、兄事することを願います。宜しいでしょうか。」守規は承諾した。それからつねに言葉を交わし、吉凶があればかならず先に報せ、飲食を求めたときに与えれば、かならず金品を得た。しばらくすると、たいへんうっとうしくなったので、方士に頼み、手ずから章疏[9]を書き、上帝に奏聞させた。翌日、幽鬼は大いに罵って言った。「わたしはおまえと兄弟になったのに、なぜ上書してわたしを訴えた。大丈夫の交わりがこのようであってよいのか。」守規は言った。「そんなことがあるはずがない。」するとすぐに空中から章疏が擲たれたが、紙と墨は以前のままであった。鬼はさらに言った。「おまえはわたしの住まいを目当てにし、わたしにとどまるところがなくなると思っていよう。わたしは今から蜀川にゆくが、こちらに劣らないぞ。」それからは来なくなった

 

 広陵の商人

広陵で、ある商人が(はく)の木で牀を造り、什物は百余件、造りはたいへん精密であった。その費用はすでに二十万で、載せて建康にゆき、売って利を求めた。[10]に着くと、かすかに風が起こったので、山麓に泊まった。まもなく、大舟が現れたが、その中は空で、篙工[11]三人が乗っているだけ、やはりその側に泊まった。商人は訝り、これはきっと群盜だ、夜を窺い、掠奪しようとしているのだとともに語った。前の浦はすでに遠く、風もますますはげしくなり、逃げて避ける場所がなかったので、夜になるとすぐにともに岸に上がり、深い林の中に避けた。まもなく、風雨と雷電が舟を掩い、岸の上には星と月が皎然としていた。まもなく、雨は止み、雲は散じ、見ると大船がやや進んで去ったので、舟の中に帰ったが、載せてあった柏の牀と什器はすべて見えず、ほかの物はすべてあった。巨舟はまだ東岸にいたが、人が叫んで言った。「恨むな。代金をお払いしよう。」商人は載せてあるものを失い、広陵に帰った。家にゆくとすでに人が銭三十万を贈り、置いて去っており、その人に尋ねると、まさに瓜泊まった翌日であった。

 

 浦城[12]の人

浦城の人が、若くして旅路で死んだ。家に金一斤があったが、かれの妻はそれを隠し、その姑に知らせなかった。翌年、突然、夜に門を叩き、号泣して帰ってきた。かれの母は驚き、ともに哀慟し、言った。「本当に死んだのか。」「実はすでに死んでいますが、不満な事がございますので、しばらく帰ってきたのです。」母の膝に坐し、話すありさまは生きているかのようであったが、手足は冷たく水のようであった。そして起きて刀を握り、その妻を責めて言った。「わたしは死に、金があったのに、どうして母さんに与えずに隠した。」すぐに殺そうとすると、その母は言った。「おまえはすでに死んでいるから、おまえの妻を殺せば、きっとわたしが殺したと言われよう。」そこで泣いて母に辞して去り、さらにみずから刀を提げてその妻を送り、実家に帰らせた。夜が明けると、門に達し、数十歩で、突然見えなくなった。

 

 劉道士

廬山の道士劉某は、南岳に遊ぼうとした。宜春を出ると、ある田舎屋に泊まった。その主人はいたって貧しく、さらに一子を喪い、納棺するすべがなかった。晩になると、突然一人の男子が哭きながら来、ひたすら胸を打って叫んで言った。「惜しい。惜しい。」劉が出てみると、顔面は白雪のようで、両髻を結ったもので、すぐにその家に入り、屍を負って去り、行方が知れなくなった。

 

 清源[13]の都将[14]

清源の人楊某は、本郡の防遏[15]の営の副将となった。豪邸を西郭[16]に持ち、早朝、役所に赴いて帰らなかった。家人が食事していると、突然一羽の鵝鳥が紙銭を負って門から入り、すぐに西郭の家に来た。家人は言った。「この鵝鳥は神祠の中から来たのか。」その奴隷に追わせ、奴隷が部屋に入ると、一人の双髻白髯の老翁がいたので、家人は驚き逃げないものはなかった。某が帰ってそれを聞き、怒って杖を持って打つと、幽鬼は四隅に出没し、たちまち変化し、杖は中たらなかった。某はますます怒り、言った。「食事がおわったら打ち殺しにこよう。」幽鬼は腰を曲げて進み、「承知した。」と言った。楊には娘二人がおり、長女は厨房に入り、肉を切って食らおうとしたが、肉が(まないた)に落ちると、かならず消え去った。女は刀を取り、父に話した。すると(まないた)の下から一本の大きな黒い毛の手が現れ、言った。「切ってくれ。」娘は逃げ、気しそうになり、病となった。次女が大甕の中から塩を取ると、一匹のサルが甕からにわかに出、娘の背に上った。娘が堂前に走ってゆくと、また消え、次女も病となった。そこで(かんなぎ)を召し、祭壇を立て、治療したが、鬼も祭壇を立て、術を施し、巫よりも強盛であったので、巫は制圧することができず、やはり恐れて去った。まもなく、二人の娘および妻はいずれも亡くなった。後によく魔法を施すものがおり、名を明教といい、読経してやることを願った。ある晩、鬼は某を唾し罵って去り、その後はこなくなった。某はその年にやはり亡くなった。

 

 王誗の妻

王誗は、南安県[17]大盈村[18]の人であった。妻の林氏が突然病み、幽鬼が憑き、言った。「わたしは陳九娘ですが、香花でわたしを祀れば、主人に利益がございましょう。」誗が承諾すると、林をねえさんと呼び[19]、人のために禍福を言えば中たることが多かった。半年あまりで姿を現し、腰から下が人に見えた。来たことがないものには、やはり見えず、言葉で接するだけであった。同郷人で招くものがいると、遠近を選ばず、林とともにいった。人が祭祀し、酒食を調えるだけで、陳氏はみずから神[20]を召したが、祝詞は気が利いたもので、聴くものは飽きることなく、林は拱手して坐しているだけであった。二年間で利を得ることがたいへん多かったが、ある日、突然悲しんで泣き、林に言った。「わたしは生まれるたびに人間の女となりましたが、年が適齢期に達しないで若死にしましたので、冥府に尋ねましたところ、前生でねえさんの銭十万をねこばばしましたので、主人はわたしを神とならせ、この銭を償わせ、男子に生まれて寿命を得させることにしたのです。今、お礼はすでに十分になりましたので、置酒し、別れを告げることを願います。」そしてすべてその形を現したが、容貌体質は端麗で、言辞は温和であった。殷勤に礼を言い、嗚咽して「お大事に。お大事に。」と言い、ふたたび見えなくなった。

 

 林昌業

林昌業は、漳浦[21]の人であった。典籍を博覧し、術数を精究し、性質は高雅で、人は無礼することができなかった。泉州軍事衙推[22]となったことがあったが、年が七十余の時、本郡龍溪県[23]羊額山[24]の南に隠居した。村人はかれを尊敬していた。良田数頃を持っており、(から)を舂き、米にし、車に載せて州[25]にいって売ろうとしたことがあった。人足が集まらないうちに、突然一人の男子、年は三十ばかり、髯はたいへん長いものが、林のところへ来た。林が誰かと尋ねると、かすかに笑うだけで、唯唯として答えなかった。林はかれが幽鬼であることを悟り、家人に命じて食事させ、満腹させて去らせた。翌日、突然倉で穀物を挽く音がした。見ると昨日の男子がおり、穀物を取り、挽いていた。林は尋ねた。「ご苦労なさることはございません[26]。」鬼も笑って語らなかったので、さらに豊富な食事、飯、野菜を置くしかなかった。およそ一月あまり穀物を挽くことをやめなかった。鬼はさらにみずから(とます)で量り、米五十余石を得ると、拝礼辞別して去ったが、結局一言もなく、二度と来なかった。

 

 潘襲

潘襲は建安[27]の知事となり、一人の小役人[28]を遣わし、公文を持って城外に下らせ、追跡捕縛させた。小役人は職務を引き継いだばかりで、その路を歩いたことがなかった。晩になると、路傍に藁屋があったので、門を叩き、宿を求めた。その家では、ただ一人の婦人が門で迎えて言った。「主人はおりませんし、引っ越そうとしておりますので、客人をお招きする暇がございません。」小役人が道の遠く、虎の多いことを理由に懸命に頼むと、婦人がすぐに招き入れたので、門の側で、地に(むしろ)を敷いて寝た。婦人は箱や什器の類を纏め、朝まで寝なかった。小役人は朝になると辞して去り、ゆくこと数里で持った公文を失ったことに気づき、宿処に帰って探したが、そこは一つの墳墓で、ちょうどその家の人が改葬していた。棺を開くと、(むしろ)の下から一通の文書が見つかったが、まさに失った公文であった。

 

 胡澄

池陽[29]の人胡澄は、傭耕[30]で自給していた。妻が亡くなると、役所が支給した[31]棺で葬り、その平生の服飾をすべて棺に入れた。数年後、澄がたまたま市にゆくと、店を開いて髪飾りを売っているものがおり、熟視すると妻の副葬品であったので、その人に尋ねると、言った。「ご婦人がこちらにお預けになりました。×日に取りに来ることをお約束されました。」澄が期日通りにふたたびゆくと、ほんとうに妻が代金を取って去るのを見た。澄はその後を尾け、郊外にいって追いつくと、妻は言った。「わたしは昔、葬られました時、役所が支給した棺で、骨を曝すのを免れましたが、今では役所に督責され[32]、その代金を出すすべがございませんので、これを売り、償うのでございます。」言いおわると見えなくなった。澄は僧となった。

 

 王攀

高郵県の医者王攀は、郷里でその長者に推されていた。つねに広陵の城東に往来し、数か月ごとにかならず一度県に泊まっていた[33]。みずから翌日県に赴くべきだと思い、その晩すぐに東水門を出ようとし、夜に小舟を浮かべ、朝になると着いた。その後、親戚友人と酒家で飲み、知らぬまに大いに酔い、あやまって参佐門[34]を出、田舎家に投宿した。朝になるとやや酒が醒め、東の壁に燈があってあまり明るくなく、仰ぎ見ると家が常宿でないことを知った。そこでひとり嘆じた。「わたしは明日県にゆくべきだが、今どこにいるのだ。」しばらくすると、その中から靴を引きずる音が聞こえた。ある婦人が壁を隔てて尋ねた。「お客さまはどちらへゆこうとなさっています。」そこで、起きて感謝して言った。「高郵にゆこうとしておりますが、酔って誤ってこちらに来ました。」婦人は言った。「こちらは高郵への道ではございません。わたしは人に命じて城東までお送りさせますから、ご心配なさいますな。」そして一人の村の子供が来、ついて来、難所を経るたびに子供はかならず手でかれの足を捧げて過ぎた。夜が明けると、城東の常宿に着き、別れを告げて去り、攀はその襦[35]を解いて贈ろうとしたが、子供は受けず、むりに与えると持ち去った。その後、宿に入り、衣を換え、ふたたび見るとその襦が腰の下に置かれていた。すぐにまた宿処に探しにゆくと、一つの古墓があるばかりで、人家がなかった。

 

 鄭守澄

広陵の副将鄭守澄は、新たに一人の若い下女を買った。十日して、夜に門を叩くものがおり、こう言った。「お宅は下女を買われたが、その名簿がこちらにある。留めるのはよくない[36]。」門を開いて見たが何も見えなかったので、怪しんだ。数日して広陵で疫病が大流行し、下女は突然病み、結局死んだ。その後、守澄も病んで亡くなり、弔問客数人もつぎつぎに感染し、みな亡くなった。甲寅の年の春のことであった。

 

 劉騭

洪州[37]高安の人劉騭は、若くして乱に遭った。糞掃という姉がおり、将軍孫金に捕らえられていた。烏頭という妹がおり、生まれて十七年で亡くなっていた。亡くなった三、孫金は常州団練副使となったが、糞掃はその正妻に従い、大将の陳氏で宴会したとき、烏頭がいるのを見た。どこから来たかと尋ねると、言った。「近頃、人に虜にされて岳州に来、劉老夫婦の娘となり、北から来た兵士任某に嫁ぎました。任はまさに陳さまが率いている兵卒でございますので、陳さまに従い、こちらにいるのでございます。」そこでその家に手紙を送った。騭は時に県の小役人となっており、数年後、用事があって都にゆき、[38]に会いにいった。宿屋に泊まり、翌日、まず孫金に会い、すぐに任のいる陣中にいった。あらかじめ童僕を遣わして窺わせると、ちょうど庭内掃除しており、こう言った。「わたしの兄が来ましょう。」しもべが門を叩いてしばらくすると、誰かと尋ねたので、言った。「高安[39]の劉家から遣わされてきました。」すると言った。「お兄さまは名を騭といい、髯の多いかたではございませんか。昨日の晩に来られるはずでございましたが、どうして遅れられたのでしょう。」[40]すぐにみずから営門[41]を出て迎えた。容貌は元通りで、見ると悲しんで泣き、わずかな違いもまったくなかった。まもなく、孫金はその甥たちを遣わし、酒食を任の家に持ってこさせ、しばらく宴会、談話した。烏頭は言った。「今日、二兄[42]が来たので、わたしが人であることを証せました。今まで子供たちはいつもわたしを幽鬼と呼んでいました。」任もかれの挙止は軽やかで、針仕事は速く、つねに朝まで夜鍋し、人でいっしょに仕事するものがいれば、飲食がきっと冷たくなるのを待って食らうと言った。騭はそこで密かに尋ねた。「おまえは昔死んだのに、どうしてこちらに来られた。」「お兄さま、そのようにお尋ねにならないでください。会えなくなりましょう。」騭は言おうとしなくなった。しばらくすると、任が亡くなったので、兵士羅氏に再婚した。江州の陳承昭は高安制置使[43]となり、騭を召し、その事を尋ね、墓を発いて見させた。墓は米嶺[44]にあり、省みる人がいなくなり、数十年であった。木を伐り、路を開いてゆくと、墓の上に穴があり、大きさは碗ほどで、それを測ればたいへん深かった。人々は恐れて開こうとせず、ともに大樹の下に退いて坐し、その事を上申書にし、承昭に申した。この年、烏頭が病んだので、騭が見舞いにゆくと、言った。「近頃同郷人百十余人が、刀を持ち、剣を執り、わたしの顔面に中てようとしました。わたしが大いに責め罵り、つよく拒むと退き、大樹の下に坐し、文書を作って去りましたが、今でも全身はまだ痛みます。」はつねに墓の中に出入りしていたことを知った。そのためやはり恐れて上申書にした。羅は後に晋王の城砦に移った。顕徳五年、周が淮南の地を有したとき、羅は攻撃されて所在が知れなくなった。時に年は六十二であった。

 

 舒州[45]の軍吏

王hが舒州の刺史となった。軍吏の方某というものがいたが、その家に突然幽鬼が下り、みずから言った。「姓は杜といい、年は二十、広陵の富豪の子で、通津橋[46]の西に住んでいます。前生であなたに銭十万を借りています。今回、冥府はわたしを神としましたので、債務を償いましょう。」人のために禍福を占うと、その言葉は多く中たった。方は家が貧しかったので、鎮将となることを求めると告げ、幽鬼に尋ねた。「わたしが求めているものは得られるか。」幽鬼は言った。「分かりました。尋ねましょう。」しばらくして来ていった。「きっと得られましょう。その鎮の名の一字は正方形ですが、他は知れません。」その後、双港の鎮将を得たので、その言葉は験がないと思い、赴任しないでいると、hが突然方に言った。「さきほど軍牒[47]を得たが、軍中が一人を来させ、双港鎮将とするので、今おまえを口の鎮将にしよう。」結局、言葉通りになった。一年あまりすると、幽鬼は突然言った。「あなたへの債務は十分お返ししました。」別れを告げて去り、寂然とした。方は後に広陵にゆき、杜氏を訪ね、その子弟のことを尋ねると、言った。「わたしの第二子は、近年突然病んで痴人のようになりましたが、一年あまり経ち、今は癒えました。」

 

 田頵

宣州節度の田頵が、乱を起こそうとした。ある日の夕方、赤色の鳥が現れたが、雉のようで大きく、尾に火の光があり、星を散らしたかようであり、外から飛び込み、戟門[48]に止まって見えなくなった。翌日、屋敷ではげしく火が起こり、官署はすべてなくなり、鎧兜と武器だけが残った。頵が資金援助して挙兵したが、翌年敗れた。

 

 鍾伝[49]

南平王鍾伝は、江西におり、衙門の吏孔知譲が新たに邸宅を造ったが、昼間、一つの星が庭に落ちた。知譲はたいへん嫌に思い、外地の軍務を掌ることを求めてその邸宅を空き家にした。一年あまりして御史中丞薛昭緯が左遷されて豫章[50]に来、傳はこの邸宅を得て住み、後にそこで亡くなった。

 

 頓金

袁州刺史の頓金は、刺史をやめ、都に帰る時、ある人が紫の風呂敷に物を包み、門まで贈りにきた。開いて見れば白の襴衫[51]で、すぐにその人を追えばいなくなっていた。その年、金は亡くなった。

 

 宋氏

江西の軍吏[52]宋氏は、木を買うために星子江[53]にいったことがあった。見ると水辺に人物が騒いで集まっており、漁師が大きな黿(すっぽん)を捕らえていた。黿(すっぽん)は宋を見るとしばしば振り返ったので、宋はすぐに千文で贖い、江に放った。数年後、舟を龍沙[54]に泊めると、突然一人のしもべが来た。「××長史[55]がお呼びです。」宋は恍然としてなに長史か分からず、ともにゆき、まもなく着くと、一人の長官が出迎えてともに坐した。「今でもご記憶でしょうか。」宋が本当に知らないと思っていると、さらに言った。「星子江で黿(すっぽん)を放たれたことをご記憶でしょうか。」「はい。」「わたしはまさに黿(すっぽん)でございます。以前、罪を犯しましたので、帝は罰して水族となるように命じたのです。漁師に苦しめられ、ご恩がなければすでに骨が朽ちていたことでしょう。今では九江の長となれております。お招きしたのはお礼するためでございます。お子さんの××さまは、溺死する定めで、名簿がこちらにございます。数日後、烏山神将が廬山に参拝し、使者がゆく時はかならず烈しい風雨を利用しますので、お子さんはこの時に亡くなるはずです。今、一人姓名がまったく同じで、やはり溺死するはずのものがおり、わずかに早いだけですから、わたしは捕らえて代わりにしましょう。お子さんははやく岸に上がり、避けて隠れるべきであり、そうしなければ逃れられません。」宋は陳謝して出たが、知らぬまにすでに波止場にいた。数日して、ほんとうに風涛の災害があり、死ぬものはたいへん多かったが、宋氏の子は免れた。

 

 史氏の娘

溧水[56]五壇村[57]の人史氏の娘は、田植えして疲れ、樹の下に休息していた。すると(もののけ)が現れたが、鱗、角、爪、(けづめ)は恐ろしく、来て娘の上に跨った。その後、身ごもり、一尾の鯉魚を生んだので、盆の中で養った。数日するとますます生長したので、投金P[58]に置いた。まもなく、人が草を刈り、誤ってその尾を断つと、魚はすぐに興奮して去り、風雨がそれに従い、太湖に入ってやんだ。それでも家はだんだん富んだ。その後、娘が亡くなると、寒食のたびにその魚はかならず魚たちを従え、墓の前に来たが、今では閏年のたびに来るだけである。漁師李黒獺は、つねに長江で網を張っていたが、突然一人の嬰児を得た。身長は三尺ばかり、網に纏われ、十日しても解けなかった。ある道士がそれを見て言った。「鉄汁[59]を取って注ぐとよい。」その言葉通りに解いた。嬰児は口鼻眉髪は絵のようで、肩がなく、口にはまだ酒の臭いがあったので、人々は恐れ、ふたたび江に投じた。

 

 漁師

近頃、ある漁師が馬当山[60]麓に舟を泊めた。月は明るく、風は微かであった。見ると一匹の大黿(すっぽん)が水から出、まっすぐに山頂に上り、首を伸ばして四方を眺めた。まもなく、江水の中から一艘の彩舟[61]が湧き出てきたが、十余人が集まり、酒を飲み、舞妓や調度はたいへん華やかであった。誕生祝いしてしばらくすると、上流から巨艦が下って来、櫓の音は座中を振るわし、彩舟は沈み、前の黿(すっぽん)も水に下り、岸辺に達しないで死んだ。思うに水神はこの黿(すっぽん)を遣わして偵察させたが、巨艦が来るのに気づかなかったので、殺したのであろう。

 

 閻居敬

新安の人閻居敬は、住居が山水(やまみず)に侵され、家が壊れるのを恐れ、榻を外に移して寝た。夢みると一人の黒衣の人が言った。「あなたは水を避けてこちらにおり、わたしも水を避けてこちらに来た。あなたに何の障りがあろう。それなのにわたしをこのように追いたてるとは、たいへん不快だ。」居敬は目ざめたが、そのわけが分からなかった。その夜、三たび夢みたので、居敬は言った。「もしやわたしはこちらにとどまるべきでないのか。」そこで牀を移すように命じると、牀の一匹の亀を圧していたので、敷居の外に放って去らせた。

 

 池州[62]の民

池州の民楊氏は鮓[63]を売ることを生業としていた。鯉十尾を調理し、子に見張らせたことがあったが、煮えようとすると、突然、釜の中で再三命乞いするのが聞こえた。子は驚き恐れ、走って親に告げたので、親がいってみると、釜の中にはもはや一尾の魚もなく、探し出せなかった。一年すると、飼犬がつねに敷居の下をい、吠えること数日であったので、その家人は言った。「去年の鯉がもしやこちらにいるのか。」すぐに撤去してみると、亀十匹を捕らえた。水中に送ると、家も恙なかった。

 

 李宗

李宗は楚州刺史となった。州に尼がおり、市場を歩いていると、突然、地に坐し、推しても動かせず、食らわず語らずに日を重ねた。役所がそのことを告げると、宗は武士に命じて扶け起こさせ、その地を掘ると大きな亀を見つけたが、体長は数尺、長江に送ると、その尼は癒えた。

 

 漁師の妻

瓜村に漁師の妻がおり、労痩[64]の病を得、伝染し、死ぬものは数人であった。あるひとが言うには、病人を生きながら棺に入れ、釘うちし、棄てれば、その病は絶てるとのことであった。まもなく、その娘は病んだので、すぐに生きながら棺に入れ、釘うちし、江に流した。金山につくと、漁師がそれを見て怪しみ、岸に引いてゆき、開いてみると、娘はまだ活きていたので、漁舎[65]に置き、鰻の漬物を多く手に入れて食らわせた[66]。しばらくすると病は癒え、漁師の妻となり、今になってもなお恙ない。

 

 陳寨

陳寨は、泉州[67]晋江[68](かんなぎ)であった。禁呪の術を善くし、人のために病を治せば効果があることが多かった。[69]の宿屋の蘇猛は、その子が狂疾となったが、人は療やせなかったので、陳に願いにいった。陳が来ると、蘇氏の子はかれを見、戟手して大声で罵った。寨は言った。「この病は心臓に入っています。」そして祭壇を堂内に立て、盗み見ないように戒め、夜になると蘇氏の子を二つに裂き、堂の東の壁に懸け、その心臓は北の檐の下に懸けた。寨が堂中で術を施していると、懸けてあった心臓は犬に食らわれてしまった。寨は見つけられず、驚き恐れ、刀を持ち、地に転がり、門を出て去った。主人は知らず、かれが術を施していると思った。まもなく、心臓を持って入ってくると、病人の腹に入れ、披髪してつづけて怒鳴ると、その腹は合わさった。蘇氏の子は目ざめると、ひたすら「遞鋪[70]。遞鋪。」と連呼したが、家人はわけがわからなかった。その日、家を去ること十里で、駅吏が手に官文書を持ったまま、路傍で死んだ。そもそも、南中[71]の駅路には二十里ごとに一つの遞鋪が置かれており、吏は符牒[72]を持ち、順番に伝達するが、前方の遞鋪に近づこうとすると、かならず連呼して知らせるのであった。寨は駅吏の心臓をとって蘇氏を活かしたのであり、蘇は元通り癒えた。

 

最終更新日:2023917

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[1]唐の天成二年。九百二十七年 

[2]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/473756.htm&sa=U&ei=_Z7hT8j-NeTPmAWf6-TcAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHwfURtZjwSky_8H6SDnKDcb-1Khw 

[3] 未詳。正史の用例:『宋史』 潘良貴伝「語徹于外、當國者指為狂率、黜監信州汭口排岸。」

[4]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5ZdicAEZdicBE41726.htm&sa=U&ei=apnUT_yYPMX6mAXF2rz8Ag&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGM3PE0cX4Mc8SsPsSeZm5IZ49ISg の礼で相待すること。

[5] 十国南呉の将帥と思われるが未詳。

[6]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/457777.htm&sa=U&ei=J-XfT5-zLcqVmQXGpOj5DA&ved=0CBcQFjAB&usg=AFQjCNH1n-kj9phENKgCpkNp8qjSnDuHFQ 

[7]梁の龍徳二年、順義二年 

[8]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8Zdic83ZdicA1158680.htm&sa=U&ei=LuffT82TNOeNmQWklqH5DA&ved=0CBsQFjAB&usg=AFQjCNFSVMgk8f7KJpdmH7hAF4BM9JgnJw  http://www.google.com/search?q=%E8%83%A1%E9%A4%85&hl=zh-CN&gbv=2&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi 

[9]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicABZdicA0174276.htm&sa=U&ei=A63WT6LnK8jPmAWYpJWeAw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNH89C2mwQiFXJiffcIZBClwU9ynYg 臣下君上進呈する

[10]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic93Zdic9C188598.htm&sa=U&ei=j8DVT5mmM-b0mAW4mvj6Ag&ved=0CB4QFjAC&usg=AFQjCNHgjYl5asdECu1mlW7GAjZmEFIdHw 地名。江 六合の 南にある

[11]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE7ZdicAFZdic99219368.htm&sa=U&ei=k7PWT4IEqsqYBfH-8JUD&ved=0CBUQFjAB&usg=AFQjCNGV-EiBd6NwwFdk_C091Khi63RUew 棹をさす水夫。

[12]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/190726.htm&sa=U&ei=0ujfT7b7JaeOmQWgsK2WDQ&ved=0CBcQFjAB&usg=AFQjCNEbYG4_RaKMKx1fTZ-WoXnL1ShKlw 

[13]『新五代史』閩世家「李景以泉州為清源軍」。泉州のこと。

[14]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic83ZdicBD44532.htm&sa=U&ei=LTjVT9PvOaXhmAXq8fWJAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNH4qS0gV-Dw_FmMufy4MPcnaXkF1A 唐 五代 兵官の名。

[15] 防遏使という官職があるようである。正史の用例:『舊五代史』李彝超伝「彝超、仁福之次子也。本州左都押牙、防遏使

[16] 未詳だが、城の西側であろう。

[17]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/8167.htm&sa=U&ei=G6HgT7zWMoiDmQX5usWiDQ&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNE-4gbKNu10aE58CrzjBZJuCW09WQ 

[18]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/2553280.htm%3FgoodTagLemma&sa=U&ei=OqHgT5DwBMuUmQXXkYiaDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNE21K-F1UjJpI3-01mGXb3YMwXA7Q 

[19] 主語は幽鬼であろう。

[20] 原文「神名」。未詳。とりあえずこう訳す。

[21]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/44140.htm&sa=U&ei=gfnfT7W7GLCbmQXT0KWJDQ&ved=0CBwQFjAB&usg=AFQjCNF8I6II8-cequffVWb5h86xcC6BKA 

[22]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8ZdicA1Zdic99112777.htm&sa=U&ei=b1DVT6akArH5mAXHq-H4Ag&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNF0zYg4zelZM1SxpB5-McGe0ACabg 官名。 代、節度観察団練諸使の下属官吏。

[23]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh-hant/%25E9%25BE%258D%25E6%25BA%25AA&sa=U&ei=gqHgT4H9LOiTmQXO-tGbDQ&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNEve3cpf6nP9C7CwHcFTwGthPcvSA 

[24] 未詳

[25] これは泉州を指していよう。

[26] 原文「無故辛苦」。未詳。とりあえずこう訳す。

[27] 曽慥『類説』は「晋安令」に作る。五代、宋のときは建安という地名はなく、晋安という地名はあるので、こちらのほうがよいかもしれない。

[28] http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic89Zdic8B327017.htm 官府で役を担任する小吏。

[29]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/4015459.htm&sa=U&ei=H_7fT_rmKaromAWf46WfDQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNGYe-MQgw7LVxEc5b6nfHqOxKxy0w 

[30]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE4ZdicBDZdicA320674.htm&sa=U&ei=_WnVT7iTBqzimAXWpMT8Ag&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHGoxR6EQD_3nCLEIpfHI-XForYfQ  傭畊 とも。雇われて地主のためにすこと

[31] 原文「官給」。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicAEZdic98128109.htm&sa=U&ei=GWrVT-a9J6H-mAXJ9qn0Ag&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNE7Zbmd9D0Xci1LBZT85zsTqTeFlQ 漢典に適当な語釈なし。訳文の意と解す。

[32] 原文「然至今為所司督責」。「所司」が未詳。人の世の役所が死者を督責するのはおかしい。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic89Zdic80167809.htm&sa=U&ei=3cbdT6aBDqzwmAWR1cWBAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEKP-0LKZdejh_xfQJj4GRKVlAAuQ 

[33] 原文「數月輒一直縣」。直縣」が未詳。とりあえずこう訳す。 

[34] 未詳。正史の用例:『舊唐書』高駢伝「呂用之由參佐門遁走。」

[35]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E8%A5%A6&gbv=2&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi  http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/354886.htm&sa=U&ei=v__fT9fXOdDwmAWa99ScDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFuvkz5IC-VLugru2O9rAtjNV9b_A 短衣

[36]原文「君家納婢、其名籍在此。不可留也」。 この発言、意味不明。脱文があるか。

[37]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/473641.htm&sa=U&ei=sAHgT53qF8ffmAXc1sCMDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEoQ-kMNFiuNiJaiABvwcOpsURnpQ 

[38]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6ZdicAFZdic97324028.htm&sa=U&ei=HwLgT6WsMYPjmAWfzLigDQ&ved=0CBcQFjAB&usg=AFQjCNHs3LFB3KLOj8EWWNix7O78U2d5dw 常州。

[39]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/331317.htm&sa=U&ei=suXVT9u-MavNmAWg2rX9Ag&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNH81RCyhhhdY39sww1vwblOfQZuZQ 

[40] これが誰のせりふなのか未詳。

[41]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE8Zdic90ZdicA5166319.htm&sa=U&ei=KubVT_fIOI2ZmQWvlpWQAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNF_B159ecnaSevMXzd60q2XWqbEsw 軍営

[42] 原文同じ。劉騭は二番目の兄という設定なのか。

[43]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/57248.htm&sa=U&ei=TBLgT7nVFoPSmAXhwvmlDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHgiQe5UCmttUWMukVS7goWpp2Btg 

[44] 未詳

[45]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/898705.htm&sa=U&ei=8GbgT-jLD8LtmAWn7q34DA&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHLRrx_uEEUNOx_ikwEi8MdDFsGeA 

[46] 未詳

[47]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic86Zdic9B237531.htm&sa=U&ei=sInZT_WnCISuiQeSyIyqAw&ved=0CBIQFjAA&usg=AFQjCNEU8UrP0e3PLnockW2D2TlRqyqnRw 中の文

[48]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6Zdic88Zdic9F334639.htm&sa=U&ei=zw3ST5r1LoPsmAWW_-2XAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHh6t6c3SzmG9-PZCHg-U2CMqnCbg 戟を立ててとしたもの。帝王が外出、止宿するに戟を插してとしたもの

[49] http://baike.baidu.com/view/228447.htm#2  

[50]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/170115.htm&sa=U&ei=AGjgT4CeHsf7mAWJxv2SDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNF7SvK3jhsfp2W68hj-SMI5Ji1ZZA 

[51]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/17/ZdicE8ZdicA5Zdic95228091.htm&sa=U&ei=NGzgT8-qDsmAmQWJ95CYDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGMrahCEHRwkOxYYBnbrkKV6ClMtw 士人の服。画像検索結果 

[52]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic86Zdic9B209281.htm&sa=U&ei=S23gT7flA8fwmAWZpJmQDQ&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNF2ET73_59QprTA1N8xQ9ayK3q0jg ひろく中の将官佐をさす

[53] 未詳

[54]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE9ZdicBEZdic99344925.htm&sa=U&ei=lHDgT4GgKoKhmQXe4L2ODQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGpYpuxCiv3oVVwo_pRBq2gNmKo8A 江西 南昌 城北一白沙丘をいうか。

[55]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE9Zdic95ZdicBF259712.htm&sa=U&ei=fnLgT8aILYnamAW1zKSoDQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHda-nABAzAabrJt4BvkmMUVlb6nA 官名。

[56]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/54548.htm&sa=U&ei=lHbgT8P_E6qUmQXXiJCbDQ&ved=0CCQQFjAC&usg=AFQjCNFLdhjE2EhYVGmdXYu7MWtn6Z08Ig 

[57] 未詳

[58]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic8AZdic95148463.htm&sa=U&ei=5_zVT4y-AcvUmAXskZCCAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGY8bMlGiV0V4cigI_dpYW0UoKUNg  。今の名は 溧水 。江 溧陽 西北にある。

[59] 未詳。赤錆の浮いた水か。

[60] 宋史』五行志 ・毛蟲之淳熙二年、江州馬當山羣狐掠人」。

[61]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5ZdicBDZdicA9206947.htm&sa=U&ei=EwnWT567Ju-RiQejnJGkAw&ved=0CBcQFjAC&usg=AFQjCNGpsJwqTnWN1qCHzZOIA-9h9Kueww 装華麗な船。

[62]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/54646.htm&sa=U&ei=OXvgT5v2N4rXmAXNt_ChDQ&ved=0CBwQFjAB&usg=AFQjCNFlm2bKLiSdwIQ0Mjlj-NAZdAyOQA 

[63]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE9ZdicB2Zdic8A.htm&sa=U&ei=nK7UT6CBEKehmQWnzfmQAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGuYlzZJG3pslSWdK21QMm6GM1IlA 魚の塩漬

[64] 原文同じ。未詳だが、癆咳によって身が痩せることであろう。

[65]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6ZdicB8Zdic94139882.htm&sa=U&ei=koLWT72xCMPUmAWKwISAAw&ved=0CBgQFjAC&usg=AFQjCNHC6wW64cV-_j4WZ8RwFBUJw0XUDw 漁師の住処。

[66] 原文「多得鰻鮓魚以食之」。「多得鰻鮓魚」が分かりにくい。衍字があると思われるが未詳。とりあえずこう訳す。「鮓」は魚の塩漬。http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE9ZdicAEZdic93.htm 

[67]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/8154.htm&sa=U&ei=qonhT4WfDKnemAWD3fHjAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHJledzYD4bvYt4gd4LAiqQ_xqclg 

[68]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/33583.htm&sa=U&ei=xonhT9OTDsfsmAXirJXuAw&ved=0CDAQFjAJ&usg=AFQjCNHS5j89NKc0hzXwxsUtpCEb8uCT1A 

[69]澶州http://baike.baidu.com/view/1185423.htm 河南省の地名。『広記』は「漳州」に作る。 漳州は福建省の地名。http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/13823.htm&sa=U&ei=honhT-D0B6H-mAXo6bXUAw&ved=0CCMQFjAD&usg=AFQjCNFyS_kAzofmopTQX89B8_ydel2BDg 

[70]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic80Zdic92232536.htm&sa=U&ei=1oXVT5OuMO_EmQXdy-H7Ag&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNGct79ynJmE_HD2P6vrpHOqEyQisQ 

[71]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5Zdic8DZdic9717292.htm&sa=U&ei=LZHWT5D8BuHhmAXU0a2GAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHWH3sKx-VWiCmDdZyFo520RU8sMg 南方

[72]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicACZdicA6224636.htm&sa=U&ei=AYbVT7i_Fs6ZmQXClOz1Ag&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFpRnL23IhwgOMZ4VgU4EeiDafizA 公文の通称

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