稽神/巻二

 

 

 紫石

晋安[1]に東山があり、樵の陳某は、つねに山中で紫の光が天を照らすのを見ていた。久しく窺うと、一頭の大きな鹿が現れ、光を口から出していた。(あみ)を設けて捕え、その腹を裂くと、一つの紫の石を得たが、円くて輝く珠のようであった。そこで珍蔵し、家はそれから富んだ。その孫にいたると、奢侈放肆で酒を好み、酔ってその珠を玩び、石がどうして神となれようと思い、打ち砕いたが、家はそれから貧しくなった。

 

 楊邁

司農卿楊邁は、若くして狩猟を好んでいた。みずから言うには、長安にいた時、鷹を野に放ったが、はるかに見ると草の中で一匹の兔が跳ねており、鷹もそれをみずから見、すぐに興奮して攻撃しにいった。ゆくと、何もいなかった。鷹を収めて(ゆごて)に載せ、ゆくこと数十、その場所を振り返ると、またその兔が見えた。ふたたび攻撃したが、やはりみつからず、このようにすること三たびであった。すぐに草を切って探すように命じたところ、兔の骨一揃いを得たが、そもそも兔の幽鬼だったのであった。

 

 舒州[2]の人

舒州である人が灊山[3]に入り、大蛇を見、打ち殺した。見ると足があったので、たいへんおかしいと思い、背負って出、人に示そうとした。路で県吏数人に会い、告げた。「わたしはこの蛇を殺しましたが四足がございます。」吏たちには見えず、言った。「蛇はどこにいる。」言った。「あなたの前にございますのに、なぜ見えないのでございましょう。」すぐに蛇を地に棄てると、見えた。しかしこの蛇を背負ってきたものには、まったく見えなくなったので、人々は(あやかし)だと思い、棄てた。按ずるに、この蛇は生きてはみずからその姿を隠せず、死んで人に姿を隠すことができたのだが、この理には究明できないものがある。

 

 賈潭

兵部尚書賈潭が言うには、かれの知人が嶺南節度使となり、一つの橘を手に入れたが、その大きさは升ほどであった。献上しようとしたが、監軍中使[4]は尋常の物でないので、かるがるしく進上できないと思った。そこで針を取り、かるくその蒂の下を刺したところ、蠕蠕として動くものがあった。そこで破ると、中に一匹の小さな赤い蛇がおり、長さは数寸であった。

 

 姚景

寿州節度使姚景は、子供の頃、濠州節度使劉金に仕え、で働いていた。金が兵卒の身なりで中にゆき[5]、景が寝ているのを見たところ、二匹の小さな赤蛇が景の顔で戯れ、両鼻の中に出入りしていた。しばらくして、景が目ざめると、蛇は見えなくなった。金はそれからにわかに寵愛抜擢を加え、娘をめあわしたので、結局大官になった。

 

 王稔

寿州節度使王稔は、辞職して揚都に帰り、統軍[6]となり、広間に坐し、客と語っていた。すると突然小さな赤い蛇が、屋根から地に落ち、稔に向かって蟠った。稔は器で掩わせ、しばらくして、開いてみると、一匹の蝙蝠が飛び去った。その年、稔は平章事を加えられた。

 

 安陸[7]の人

安陸の人で姓を毛というものは、よく毒蛇を食らい、酒で飲んでいた。かつて斉安[8]に旅し、豫章[9]にゆき、つねに蛇を市で弄び、食を乞い、生計を立て、十余年を重ねていた。薪を売るものがおり、鄱陽[10]から来、培山[11]の麓に宿り、夢みると老父が言った。「一匹の蛇を江西の蛇つかい毛生に届けてくれ。」そして豫章観にいって門を歩き、薪を売り、尽きようとすると、一匹の蛇、蒼白の色のものが、船の舷に蟠り、触れても動かなかった。薪はまさに以前の夢を思い返し、すぐに市に持ってゆき、毛生を訪ね、それを与えた。毛が弄ぼうとし、手にとるとすぐにその指を咬んだので、毛は大声で叫んで転倒し、亡くなった。しばらくするとすぐに腐敗し、蛇も所在が知れなくなった。

 

虎を食らうこと

建安山中の人で粟を種えるものは、みな小屋を高樹に構え、虎を防いでいた。かつて一人がおり、小屋に登っていると、一頭の虎が見えたが、頭を垂らし、尾を垂らし、過ぎ去るのがたいへん速かった。まもなく一頭の獣、虎のようでやや小さいものが、前の虎を追って去った。すると竹林の中で咆哮が地を震わし、しばらくすると寂然とした。翌日見にゆくと、その虎は食らわれてほぼ尽きており、わずかな骨が残っているばかりであった。

 

 鞭牛

京口[12]の住人がに外出し、江上の石公山の麓を見ると、二頭の青牛がおり、腹は青く、背は赤く、水浜でたわむれていた。一人の白衣の老翁、身長三丈ばかりのものが、その傍らで鞭を執っていた。しばらくすると、翁は振りかえって人を見、すぐに二頭の牛を鞭うって水に入らせ、翁はすぐに跳躍して上り、にわかに長くなり、片足を挙げてすぐに石公山頂に上り、ふたたび見えなかった。

 

 王姥

広陵に王姥がおり、病むこと数日、突然その子に言った。「わたしは死ねばきっと西溪の浩家に生まれて牛の子となろう。探してわたしを贖うべきだ。腹の下に王の字があるのがわたしだ。」まもなく、亡くなった。西溪は、海陵[13]の西の地名であった。そこの民の浩家に、牛が生まれたが、腹に白い毛があり、王の字となっていた。その子は探してこれを見つけ、束帛[14]で贖って帰った。

 

 陳璋

淮南統軍[15]の陳璋は、平章事[16]を加えられ、朝廷で官職を拝命した。李昪が時に政務を執っていたが、璋に言った。「わたしは公のもとに賀しにゆき、さらに一人の女婿を公の家に求めましょう。公はさきに帰られませ。わたしはまいりましょう。」璋は一頭の赤驥[17]を馳せて去ったが、途中、馬が転んで落ちた。まもなく、昪が来たので、璋は病を推して出た。昪は坐してまもなくすぐに去った。璋は馬を呼んで責めて言った。「わたしは今日官を拝し、さらに縁談を持ちかけられたが、おまえはそのためにわたしを落とした[18]。畜生め。おまえを殺すに忍びないから、引いて去らせ、秣を与えず、餓死させよう。」この晩、圉人(うまかい)はひそかに秣を与えたが、馬は見るだけで、朝まで秣を食らわなかった。このようにして日を重ねたので、圉人(うまかい)はそのことを告げた。璋はさらに呼んで責めて言った。「すでに罪を知っているなら、おまえを赦そう。」馬は跳躍して去り、この晩、元通り飲食した。璋は後に地方に出て宣城を鎮守し、辞職帰郷して薨じたが、一月のうちに、馬も悲しみ鳴いて死んだ。

 

 宗嗣

軍使宗嗣というものがいた。かつて某府の吏がかれから銭二十万を借り、月々利息を計算していた。一年たつと返そうとしなくなり、求めても得ることはできなかった。宗嗣は怒り、召して責めて言った。「わたしが前世でおまえに負債があるなら、今から返そう。おまえがわたしに負債があるなら、驢馬となってわたしに返すべきだ。」証文を焼いて追い払った。翌年、宗嗣がひとり広間に坐し、ふと見ると、吏が白衣で入ってきて言った。「債務を返済しにまいりました。」宗嗣は言った。「すでに証文を焼いたから、もはや償う必要はない。」吏は答えず、すぐにに入ったが、まもなく、人が、馬が白い子馬を生んだことを報せた。吏の家にいって尋ねさせると、言った。「死んですでに一日です。」駒が生長し、売ると、まさに負債の金額を得た。

 

 孫漢威

江南の神武軍使孫漢威は、に馬を持っていたが、夜ごとかならず尾から光を放ち、そのありさまは火を散らすかのようであった。馬たちは驚き嘶き、漢威は(あやかし)だと思い、剣を抜いて斬ったが、数か月して盧州刺吏に除せられた。

 

 唐道襲

王建[19]は洛[20]で帝と称し、その寵臣唐道襲は枢密使となった。夏に家におり、たまたま大雨となったが、かれが飼っている猫が檐溜[21]の下で水に戯れていた。道襲がそれを見ていると、だんだんと長くなり、まもなく前足が檐に達したが、突然雷と雹がはげしく来、龍に化して去った。

 

酢を売るもの 

建康[22]酢を売るもの某がおり、一匹の猫を飼っていたが、とてもしなやかで、たいへん可愛がっていた。辛亥の年[23]六月、猫は死んだが、某は捨てるに忍びず、なおも席の側に置いていた。数日すると、臭くなったので、やむをえず、持ってゆき、秦淮に棄てた。水に入ると、猫は活きかえった。某は下りて救おうとしたが、溺れ死に、猫は岸に上がって逃げた。金烏鋪の吏が捕らえ[24]、縛って鋪に鎖し、その扉に鍵を掛けた。出て官司に申告し、その猫を証拠としようとした。帰れば、すでに縄を断ち、壁を齧って去っており、ふたたび見えなかった。

 

 建康の人

建康の人が魚を食らい、魚の頭を地に捨てた。するとまもなく、壁の下の地の穴の中から、人が馬に乗ってきたが、鎧甲は輝き、身長は一尺に満たず、手に長い(ほこ)[25]を執り、すぐに魚の頭を刺し、馳せて穴に入ってゆき、このようにすること再三であった。すぐに地を掘って探したところ、数匹の大きな鼠と、魚の頭があるのを見た。箸一本があるだけで、まったく甲馬の姿は見えなかった。まもなくその人は亡くなった。

 

 盧嵩

太廟の斎郎[26]盧嵩の住居で釜が鳴った。竈の下に鼠がおり、人の哭く声のようであった。竈を祀ったところ、竈に五匹の大鼠がおり、それぞれ方色[27]のようで、祀られている物をすべて食らうと、ふたたび竈の中に入った。その年、嵩は選ばれて興化の尉に補せられ、結局怪しいことはなかった。

 

 柴再用

龍武統軍[28]柴再用は、かつて広間で、(つくえ)に凭れてひとり坐していると、突然、鼠が庭に走ってゆき、再用に向かって拱手して立ち、拝揖[29]しようとしているかのようであった。再用は怒り、左右を呼んだが、左右はみな来なかった。すぐにみずから起きて追うと、鼠は去り、庁の屋梁が折れ、坐していた床几はすべて圧され、粉砕された。再用は後に盧鄂宣三鎮節度使となって亡くなった。

 

 蘇長史

蘇長史は京口に卜居しようとしたが、この邸宅はもともと不吉であったので、妻子はやめるように諌めた。蘇はいった。「おまえがこの邸宅を嫌に思うなら、わたしはひとりで住もう。」はじめて宿った晩、三十余人の男がいたが、いずれも身長は一尺余り、道士の冠、褐を着て蘇に会いにきた。「こちらはわたしたちが住む場所だ。あなたはとにかくはやく去れ。さもなければ禍が及ぼう。」蘇が怒り、杖を持って追うと、みな家の裏の竹林の中に駆け込んで消えた。すぐにその場所を掘ると、白鼠三十余匹が見つかったので、すべて殺した。宅はさらに不吉でなくなった。

 

 盧枢

侍御史盧枢が言った。かれの親は建州刺史となり、暑い夜にひとり寝室におり、中庭で月見したことがあったが、出て、ふと聞くと、堂の西の階下で、人の談笑する声がしたようであった。抜き足して窺えば、七八人の白衣の男で、身長は一尺に満たず、男女がいっしょに坐して酒を飲み、几席や什器はすべて備わっていたが小さかった。酒を酌み交わしてしばらくすると、座中の一人が言った。「今晩はたいへん楽しいが、白老が来ようとしている。どうしよう。」そして嘆いた。まもなく、座中のものはみな暗渠の中に突入し[30]、見えなくなった。数日後、州知事をやめたが、新任者の家に猫がおり[31]、白老といい、来ると、白老は堂の西の階の地中から鼠七八匹を見付け、すべて殺した。

 

 豫章の中官[32]

天福[33]甲子の年、豫章の住人で市場の近くのものがおり、夜、街で数十人の語る声のようなものが、市場に去るのをつねに聞いたが、近づけば人がいず、このようにして夜を重ねていた。人々はみな恐れ、夜、寝られなかった。まもなく、詔して閹官をすべて誅したが、豫章で殺されたものはおよそ五十余人で、駆られて市に向かい、集まって語り騒がしく、以前に聞いたもののようであった。

 

 青州の客

朱梁の時に青州に商人がおり、海に浮かび、風に遭い、漂流してある場所に着いた。はるかに望めば山川と城郭があった。水先案内人は言った。「最近、風に遭うものが、こちらに来たことはございません。鬼国がこちらにあると聞いていますが、もしやこれでしょうか。」まもなく、舟が岸に着いたので、上陸し、城に向かっていった。その住宅田は、すべて中国のようであったので、人に会えば揖したが、人はみな応えなかった。城にゆくと、門を守るものがおり、揖しても応えなかった。城に入れば、家屋と人物は多く、その王宮にゆけば、大宴会の最中で、群臣で宴に侍するものは数十人、その衣冠器用、絲竹調度の類は、多くは中国のようであった。客は昇殿するので、俯いて王座に迫り、窺った。まもなく、王は病んだので、左右のものが扶けて帰り、すぐに巫を召して示すと、巫は言った。「陽地の人がこちらに来、陽気が人に迫りましたので、王は病まれたのでございます。その人はたまたま来ただけで、祟りをなす心がございませんから、飲食車馬を与えて謝絶して追い払えば、宜しいでしょう。」すぐに酒食を調え、別室に座を設け、王およびその群臣が祀りに来[34]、客は(つくえ)に凭れて食らった。まもなくしもべが馬を御してきたので、客も馬に乗って帰った。岸にゆき、舟に上ると、国人は見えなくなった。さらに追い風に遭って帰ることができた。時に賀徳倹が青州節度となり、魏博節度楊思厚と親戚であったので、客を魏に遣わし、くわしく思厚のために語らせた。魏の人范宣古はみずからその事を聞き、きてわたしのために語った。

 

 周元枢

周元枢は、睢陽の人で、平盧[35]掌書記[36]となった。臨淄の官舎に住み、ある晩、寝ようとすると、突然、車馬輜重がたいへん多く現れ、門を叩き、吏が報せて言った。「李司空が謁見を待っております。」元枢は親戚知人にこうした人はいないと思い、きっと郷里の耆旧で自分が知っていなかったものだとひそかに思い、出て会った。席を勧めてどこから来たかを尋ねると、言った。「わたしは新たに引っ越してこちらに来たが、とどまる場所がないので、あなたの邸宅を求めるのがよいのだ。」元枢は驚いて言った。「どうしてこちらに来られました。」「こちらはわたしの旧宅なのだ。」元枢は言った。「わたしは属官としてこちらに来ましたが、言い伝えでは書記の公署ということでした。いつこちらに住まわれました。」言った。「隋の開皇年間に住んだのだ。」元枢は言った。「それならば、あなたはきっと幽霊でしょう。」言った。「そうだ。冥府はわたしが廟をこちらに建てることを許したので、あなたが移ってゆくことを願うのだ。」元枢は承知せず、言った。「人は鬼と接するべきではございません。もしやわたしが死のうとしているので、あなたがわたしを訪ねることができるのでしょうか。そうはいっても、理としてこの邸宅をあなたに授けるべきではございません。わたしは死んでもかならずあなたと争いましょう。」そして妻子を召して言った。「わたしが死んだら、かならず紙と筆をたくさん棺に置け。李さんと争うから。」すぐに酒を調え、ともに飲み、酌み交わすこと数百杯で、辞色はますます激しくなった。客は去ろうとしたが、さらに留めると、しばらくして、一人のしもべが来た。「司空の周書記は、木石[37]の人でございますから、どうして論難しあい、みずから苦しみを得ることができましょう。」客は辞謝して去り、門から送り出し、突然見えなくなった。元枢は恙なかった。

 

 朱延寿

寿州[38]刺史朱延寿は、晩年、部屋の中で浴し、窺い見ると窓の外に二人がおり、いずれも青面朱髪で青衣を着、手に文書を持っていた。一人は言った。「わたしは命を受けて捕らえにきた。」一人が言った。「わたしも命を受けて捕らえにきた。」一人はさらに言った。「わたしは前に命を受けている。」延寿がそこで侍者を呼び、二人はすぐに消えた。侍者が来ると、外に誰がいるか尋ねたが、いずれも人はいないと言った。まもなく殺された。

 

 秦進忠

天祐丙子の年、浙西の兵士周交が乱を起こし、大将秦進忠、張胤らおよそ十余人を殺した。進忠は若い時、一人の若い奴隷に怒り、刃で心臓を貫き、殺して埋めたことがあった。晩年、つねにこの奴隷が心臓を捧げて立っているのを見たが、はじめは百離れたところにおり、だんだんと近づいてきた。その日、出ようとすると、馬前におり、左右はみなかれを見た。屋敷に入ると乱兵に遭い、胸を傷つけられて亡くなった。張胤は一月あまり前につねにかれの姓名を呼ぶ者を聞いたが、声はたいへん清越で、やはりだんだんと近づいてきた。その日は真向かいにいるようであったが、府に入ると斃れた。

 

 望江[39]の李令[40]

望江の李令は、辞官して舒州に住んでいたが、二子がおり、たいへん聡明であった。令は酒を飲み、晩に帰ったことがあったが、家から数百、二子が迎えに来、すぐにともに捕らえて殴った。令は驚き怒り大声で叫んだが、遠方で人はなく、気づくものはいなかった。歩きながら殴り、家に着こうとすると、二子はいずれも走り去った。門に入ると、二子はさらに堂下で迎え、尋ねるといずれも言った。「門を出ておりません」。一月あまり後、令はさらに親しいものの家で酒を飲み、くわしくその事を申し、宿泊を願って帰ろうとしなかった。しかしその子はその父が晩に帰ってさらに殴られることを恐れ、すぐにともに迎えにゆき、途中までくると、その父に会い怒られた。「どうして晩に外出した。」すぐに従者に打たせた。苦しんで許しを得た。令は翌日帰り、ますますその事に驚いた。数か月足らずで、父子はいずれも亡くなった。州の人は言った。「わが舒州には山鬼がおり、よくこの禍をなしますが、そもそも黎邱[41]の徒でございます。」

 

 建康の楽人

建康に楽人がおり、日が暮れて市にゆくと、二人のしもべが「陸判官さまがお召しだ」と言ったので、ついていった。ある豪邸にゆくと、調度はたいへん荘厳で、賓客十余人は、いずれもいける口であった。ただ酒を飲んで食を設けず、酒も楽人に及ばず、払暁で散じたので、楽人はたいへん疲れ、門外の牀に臥した。目ざめると、草叢におり、傍らに大きな塚があり、その村人に尋ねると、陸判官の塚だと言い伝えられているということであったが、いつの人か分からなかった。

 

 廷譲

建康の吏廷譲は、かつて親戚の家で酒を飲み、夜になって散会した。あまり酔わなかったが身が浮いたかのようで、飄飄として進み、みずからを抑えられず[42]、ゆくこと十数里、ある豪邸にいたれば、寂然として人がいなかった。堂前に小さな部屋があり、部屋の中に牀があり、廷譲はたいへん苦しみ、床上で寝た。目ざめると、蒋山[43]の前の草叢におり、重なる城や濠を越えていたのであった。そして恍惚として病を得たが、一年あまりして癒えた。

 

 張瑗

江南の[44]張瑗は、日暮れに建康の新橋[45]を通り、にわかに一人の美しい婦人を見たが、衣をはだけ、凶悪な様子で走っていた。瑗がたいへん訝り、じっくり見ると、婦人は突然振り返り、旋風に化して瑗を撲った。瑗は馬が倒れて顔を傷つけ、一月あまりで恢復した。はじめ馬は起きると、一本の足を挙げて跛行して帰った。それからこの橋を過ぎるたび、馬はかならず片足を挙げて歩いたが、他の怪しい禍もなかった。

 

 婺源の軍人の妻

丁酉の年[46]、婺源建威軍の人が、妻に死なれて再婚した。その後、妻は前妻の子をたいへんはげしく虐待し、夫は抑えられなかった。ある日、突然亡妻が門から入り、大いに後妻を怒って言った。「人はみな死ぬが、母子の情がある。それなのにわたしの娘をこのように虐げるのか。わたしは地下の役所に訴えよう。わたしに十日を与え、わたしがおまえを教え、おまえが改めなければ、きっとおまえを殺せよう。」夫妻はいずれも恐れ、再拝し、すぐに酒を調えて飲ませてあげた。すぐに親族郎党隣人を召して尋ねさせると、言葉を述べること常のようであった。他人はその声を聞くだけであったが、夫妻だけは見えた。夜になり、榻をほかの部屋に設けてやると、夫はいっしょに寝ようとしたが、許さなかった。満十日で、去ろうとし、さらにその後妻を責め罵ったが、言葉はたいへん切実であった。家を挙げて親族ともに墓に送ってゆくこと百、言った。「皆さんはとどまってようございます。」さらに殷勤と辞訣して去った。(はく)の林の中に及ぼうとすると、入り、人はみなそれを見たが、衣服容色は平生のようで、墓に達して消えた。建威軍使[47]汪延昌がこのように言った。

 

 陳徳遇

辛亥の年[48]、江南の偽右蔵庫官陳居譲、字を徳遇というものが、庫の中に宿直していた。その妻は家におり、五更のはじめに突然二人の吏を夢みたが、かれらは手に文書を執り、門から入り、尋ねた。「こちらは陳徳遇の家か。」言った。「はい。」「徳遇はどこにいる。」言った。「庫の中にいます。」吏が去ろうとすると、妻は追って叫んだ。「夫は字を徳遇といい、衣庫官を掌る陳徳遇というものがおり、家は近くの東曲にございます。」二人の吏は顔を見合わせて笑って言った。「間違えるところだった。」そして去った。その日徳遇は朝起きて厠にゆき、病になったとみずから言い、帰って臥し、しばらくして亡くなった。二人はともに冶城[49]の西に住んでいた。

 

 広陵の吏人

広陵の吏は姓を趙といい、暑い時にひとり部屋で寝ていた。夜にふと見ると、大きな衣の男が門から入り、小さな黄衣の男七八人を従え、独り言を言った[50]。「あちこち探していなかったが、こちらにいたか。」怒鳴って立たせ、言った。「いってよい。」一人の衣の男は進んで申して言った。「寿命が尽きておりませんので、すぐにはゆけません。そのことを記すすべがあればようございます。」大きい男はすぐに懐を探って印を出し、その左腕にしるしをつけて去った。朝になって見ると、印文が肉に着いていたが、字は古篆のようであった。その下を識別すると、右は「先」の字のようで、左は「記之」のようであったが、その上は知れなかった。趙は後に死んだ場所が分からなくなった

 

 田達誠

廬陵[51]に商人田達誠というものがおり、財産に富み、大いに救恤を務めとしていた。邸宅を新城[52]に築いたが、夜に戸を叩くものがおり、近づいてみると人がいず、このようなことが再三であった。そこで怒鳴って「人か幽鬼か」と尋ねると、しばらくして答えた。「実は人ではない。龍泉[53]に住むと、家が洪水に流されたので、あなたの家に寄寓することを求めているのだ。家を直しおわれば去ろう。」達誠は承知しないで言った。「人がどうして幽鬼とともに住めよう。」「しばらく寄寓するだけで、あなたに害を与えない。それにあなたは義気が郷里聞こえているので、告げたのだ。」達誠は承知した。すると言った。「わたしをどこに泊める。」達誠は言った。「広間があるだけだ。」すぐに辞謝して去った。数日してさらに来、言った。「わたしの家はすでに広間に移ってきた。あなたの賓客の邪魔もしないが、厳しく家の人に火の用心させるのがよい。万一不測の事態があれば、わたしたちがしたことだと言う人がいるはずだ。」達誠もその広間をしくして引き渡した。達誠が以前詩を作ると、幽鬼は突然空中で言った。「あなたは詩が作れるのか。わたしも好んだことがあるので、唱和できる。」達誠はすぐに酒を調え、紙と筆を前に置き、あらゆることを談論した。人々が見ると、酒と紙と筆は儼然として動かなかったが、しばらくそっぽをむいてみると、酒はすでに尽き、字はすでに紙に着いているのであった。都合数十篇は、いずれも趣きがあり、筆跡は勁健で柳体[54]であった。あるひとがかれの姓名を尋ねると、言った。「わたしが言えば、主人に益がなかろうが、詩に託することができる。」そして詩を賦して言った。「天然(てんねん)にしてわれとまた(れい)(つう)[55]、また(じん)(かん)(こと)(おな)じからず。わが(いへ)(しん)姓名(せいめい)()らんと(やう)せば、(だい)()(なん)(とう)一段(いちだん)(こう)。」人々は理解できなかった。ある日、さらに告げた。「わたしの末っ子は、樟樹神女と結婚し、×日に式を挙げる。またあなたの後堂を三日借りようと思うが、あなたの恩恵を全うすることは、できるか[56]。」達誠はまたその堂をしくし、幕で掩った。三日して、さらに謝して言った。「わたしの事は終わったので、この堂をお返ししよう。ご主人のご恩は、最高のものであったといえる。しかし、貴宅のばあや某は百回笞うつとよい。」達誠が辞謝し、すぐに下女を召し、数回笞うつと、幽鬼は言った。「かれに過ちを知らせれば、とどまれよう。」達誠は徐ろにその下女に尋ねると、言うには、幕に穴をあけて盗み見たことがあるが、賓客の男女、食膳花燭は、人の世と異ならなかったということであった。一年あまり後、辞謝して去った。達誠は用事で広陵にゆき、しばらくしても帰らなかったので、その家のものが咎めると、幽鬼はさらに来ていった。「あなたの家は主人を咎めるか。わたしが調べよう。」翌日帰り、言った。「ご主人は揚州におり、たいへん恙なく、帰るはずだ。新たに一人の妾を娶り、かれとともに寝ていたので、わたしはその帳の後ろを焼いていたずらした[57]。」大笑いして去った。達誠が帰ってきた時、その事を尋ねるとすべて同じであった。後に龍泉にゆき、その家を訪ねたが、結局みつからなかった。

 

最終更新日:202087

稽神録

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[1]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/3027174.htm&sa=U&ei=YgHUT-HeO_HomAW_xNmiAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEPi5TGFIzg6M2JQYajElfd_W1Ivw

[2]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/898705.htm&sa=U&ei=fETUT6iYIajSmAXrh42cAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEOf83KsE_TrNUibf8lLvyJEgR8Uw安徽省の州名。

[3]http://baike.baidu.com/view/7707.htm

[4]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD332903.htm&sa=U&ei=MyvHT4yrCIipiAeliZG-Dg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNHWuJdXFq0yCuuRY4e1sXlSURGRow中から派遣された使者。多くは宦官を指す。

[5]原文「金嘗卒行至」。卒行」が未詳。とりあえずこう訳す。『太平広記』は「」を「」に作る。

[6]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicBBZdic9F37977.htm&sa=U&ei=xSzHT4u-I4uZiAex2JnnDg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNEjacxWgeYaDbjazDyntYyN43FOjw官名。

[7]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/40528.htm&sa=U&ei=10zUT8H5BcqemQXY3P2IAw&ved=0CBcQFjAB&usg=AFQjCNHRgjVDDj_wwLW_znAM8mZOWC9Edwhttp://baike.baidu.com/view/40528.htm#3

[8]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/3214081.htm%3FfromTaglist&sa=U&ei=FAfUT6DOBc3LmAWulb2QAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFt6l68MZHxI5v5mj7x3ezTMwvmOA

[9]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/170115.htm&sa=U&ei=8kzUT4XWCpGimQXUicmdAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHCkMMn9E8OZ546PrVgRc2s8sDwIA

[10]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/102772.htm&sa=U&ei=ME3UT5X0D8nEmAW2uKiCAw&ved=0CB4QFjAC&usg=AFQjCNEAvBkH6IRn98WnqCMZSEw7VR2KcA

[11]『太平広記』倍」る。いずれにしても未詳。

[12]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/147284.htm&sa=U&ei=QZvIT42-EZC0iQfYtuAq&ved=0CBoQFjAB&usg=AFQjCNF3K2d68w2W8RXFvnE5CmbB53bn-A京口の地は江下流にある、北は大江に、南は峻据り、形勢要で、兵家に重んぜられている。その地は江南運河の北口で、江をぎて江淮運河と連なる。

[13]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/4196704.htm&sa=U&ei=ywfUT5ruEImOmQX6wqGRAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHjn6mJ2iTjm70EYEpfvBcgCvyLIw『太平広記』は「広陵」に作る。

[14]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic9DZdic9F327234.htm&sa=U&ei=qZ3IT67tKqTAiQfJ7cUK&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNG8hHSgEqDHYhRLH6xSCyPMUpdkNg一束に縛られた五匹の帛。礼物とする。

[15]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicBBZdic9F37977.htm&sa=U&ei=IPDRT5rML4f6mAWusoGhAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEM6LBWxp-adgPjJztFUVSodvcAiQ官名。

[16]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5ZdicB9ZdicB394651.htm&sa=U&ei=qq7IT9HMHIqjiQeR9eUb&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNHEu-I9JU00IcoP7SFoidUGPVRGhw官名。

[17]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicB5ZdicA4209188.htm&sa=U&ei=vHLJT_WCNs3HmQWgjdHsDg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNEL04nwzb7Fn0xmQvWJHXfK4oSHmAひろく駿馬さす

[18]原文「爾乃以是而墜我」。「以是」が未詳。とりあえずこう訳す。

[19]http://baike.baidu.com/view/76401.htm#sub5133835城(今河南沈丘)の人。五代十国前蜀の祖。

[20]『太平広記』は「蜀」に作る。

[21]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/17/ZdicE6ZdicAAZdic9085533.htm&sa=U&ei=ibDIT-vSNdGziQeew_QE&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNG7G466rRwUlcDHmQNUzZflyH5O7wを受ける槽。

[22]曾慥『類』は「建昌」に作る。

[23]南唐の保大九年。

[24]原文「金烏鋪吏獲之」。金烏鋪吏」が未詳。とりあえずこう訳す。曾慥『類「金吾吏」る。「烏」と「吾」は同音。金吾は武官名。五代十国や宋の時代にも置かれていた。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic87Zdic91262253.htm 「」はよくわからないが番小屋のようなものか。

[25]http://www.google.com/search?q=%E6%A7%8A&hl=zh-CN&gbv=2&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[26]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6Zdic96Zdic8B344813.htm&sa=U&ei=JbvIT5vrKqWXiAfmo5k9&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNHZ-Qr17-OqvWrMZJSp2igEVgu-4g社稷の祭祀をる小吏。

[27]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic96ZdicB9161383.htm&sa=U&ei=tLvIT_XOJcabiQe5-8AX&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNEk8R_ye4jRx_S6pnuRUnXR7Utl6g五行家がいう南西北中をあらわす青赤白K黄の色。

[28]未詳だが、武官名であろう。正史に用例多数。

[29]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic8BZdic9C221772.htm&sa=U&ei=i73IT8-cEI6fiAej4fwq&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNHNCRBJ4Ke5BCgOqQn0B3KBamQL4Qお辞儀して揖すること。

[30]原文「坐中皆突入陰溝中」。『太平広記』は「」を「哭」に作る。

[31]原文「新政家有貓名白老」。新政」が未詳。とりあえずこう訳す。

[32]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD332922.htm&sa=U&ei=rsrIT56XLsa3iQec4YEK&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNEbYiOWkKcPbenczTygvQ11SlJbRA宦官。

[33]『太平広記』は「天復」に作る。晋の天福五年は庚子である。『広記』が天復に作るのが正しい。唐の天復四年甲子四月に改元して天祐元年となった。

[34]原文「王及其群臣來祀祝」。祀祝」が未詳。とりあえずこう訳す。

[35]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/438335.htm&sa=U&ei=0ULUT6HnA5HumAXJ86iSAw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEgA1OUdvzhE15nL5kCPcyY68eINw元七年(七百十九年)置き(今の寧朝陽)を治めた。後に、淄青(青州)に南遷した。

[36]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6Zdic8EZdic8C150133.htm&sa=U&ei=o0LUT_SKDaehmQWnzfmQAw&ved=0CBoQFjAC&usg=AFQjCNG73isbTq7gV8MF_4UixaNkTCr37A唐代の外官の一つ、景元年に置かれた。察使あるいは度使の属官でもある。宋代もこの置いた

[37]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic9CZdicA8217009.htm&sa=U&ei=cbPJT-z4O4_omAX_4pn_Dg&ved=0CBsQFjAC&usg=AFQjCNHdoV_LLNKk4uqHlgb7Twrqr_bdQgない、感情がない物の

[38]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/807077.htm&sa=U&ei=z1HUT9KLPM_RmAXQxLXzAg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFS9wUqrEMymit1UsckK5Vc3cAzig

[39]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/457601.htm&sa=U&ei=akTUT6OaMcuKmQWsyPyRAw&ved=0CCQQFjAC&usg=AFQjCNFVTwgTCvw_pcpOggtCaEZKGlgciA

[40] 李という県令。

[41]『呂氏春秋』に見える幽鬼。他人の子供に姿を変え、人を惑わすことを好んだ。http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E6%A2%81%E5%8C%97%E6%9C%89%E9%BB%8E%E4%B8%98%E9%83%A8%EF%BC%8C%E6%9C%89%E5%A5%87%E9%AC%BC%E7%84%89

[42]原文「不能自致」。『太平広記』は「自制」に作る。

[43]http://www.google.com/url?q=http://www.hudong.com/wiki/%25E8%2592%258B%25E5%25B1%25B1&sa=U&ei=6OHHT4TZBMiziQf4v_DBDg&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNFhoK-0CYhPIQeNuVh5EMnHjq0CRg

[44]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic86Zdic8510796.htm&sa=U&ei=kkbUT8KfD4XUmAWQ4bX6Ag&ved=0CBgQFjAC&usg=AFQjCNGqdYb3ZwPfJRH099DzrcXN_fczQQ宦官

[45]未詳。

[46]南唐の上元元年。

[47]未詳。これに同じいか。

[48]南唐の保大九年。

[49]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/596910.htm&sa=U&ei=DkjUT-X3J-jbmAWbrOmcAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEoG8VzzmOb_erSWt2eoDfFCxCnbQ福州城内にあったとされる城。ただ、江南の話なのに「冶城」がでてくるのはおかしい。『太平広記』は「治城」に作る。「治城」もよく分からない言葉だが、県治のある城市のことか。

[50]原文「謂己曰」。未詳。とりあえずこう

[51]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/866703.htm&sa=U&ei=fUjUT9jELeLTmAXyoPChAw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNFkJoSoH8DgwhNVKnEev_bAr2UC6w

[52]未詳

[53]http://baike.baidu.com/view/322433.htm#sub6908837

[54]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/302412.htm&sa=U&ei=U0nUT82WH62HmQXwsImTAw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNG9aKup0nLAKPbMdl_g2mNxfvZ5ZQ柳公の書体。http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E6%9F%B3%E4%BD%93&gbv=2&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[55]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7Zdic81ZdicB5342124.htm人と神霊の相通ずること。

[56]原文「復欲借君後堂三日、以終君大惠、可乎。」。「終君大惠」が未詳。とりあえずこう訳す。

[57]原文「吾燒其帳後幅以戲之耳。」。「後幅」が未詳。とりあえずこう訳す。

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