稽神/

 

  朱拯

[1]の玉山[2]の主簿朱拯が試験に赴き、揚都[3]に着いた。夢みて官署に入ると、堂上に一人の紫衣のものが正坐しており、傍らに一人の緑衣のものがいた。紫衣のものは起きると拯に揖して言った。「十千銭を下さるべきでございます。」拯が拝して許諾すると、目ざめた。まもなく、安福[4]の県令に補せられた。ゆくと、城隍神に謁見したが、廟宇の神像はすべて夢の通りであった。その神座の後ろは、屋は漏れ、梁は壊れていた。拯は嘆じた。「十千とはもしやこのことか。」すぐに私財で修理したところ、費用はその数の通りであった。

 

 韋建

江南の戎帥[5]韋建は、統軍から武昌節度使に除せられた。ゆこうとし、夢みると一人の朱衣の人と、従者数十人が韋のところに来て言った。「聞けばおんみは鄂渚[6]を鎮守しようとしているそうだが、わたしが住む場所がある。建物は崩れ、風雨を凌げていないが、公でなければわたしのために修理できない。」韋は許諾した。鎮[7]にいたるにおよび、訪ねると、宋無忌[8]の廟であり、その像を見ると、まさに夢の中で見たものであったので、その廟を新らしくした。祭祀するとしばしば霊験があった。

 

 鄭就

寿春の肉屋鄭就は、家がいたって貧しかったが、かつて夢みると一人の男が、みずから廉頗と称し、就に言った。「村の東で地を掘り、わたしの宝剣を得れば、おまえは富むが、旧業は改められない。」就がその言葉通りにすると、ほんとうに見つかり、翌年富んだ。後にその事を漏らしたので、剣を失った。

 

 董昌[9]

董昌が不遇であった時、山陰県の老人が偽って昌に言った。「今、大王は善政を人に及ぼしていらっしゃいます。万の帝が越を治め、兆庶(たみくさ)(さいわい)することを願います。三十年前、すでに謡言があり、まさに今日に合っていますので、お祝いしにまいりました。その言葉はこのようなものでございました。『聖人の姓を知ろうとすれば、千里に草青青たり。聖人の名を知ろうとすれば、日が曰の上に生ずる[10]。』」昌はこれを得てたいへん喜び、読んで言った。「天命はすでにわたしに属しており、天子となれよう。」そして老人に百の(かとり)を贈り、さらにかれの賦税を免じた。まずは道士朱思遠に命じ、祭壇を建て、上帝を祭らせたところ、とある晩、言った[11]。「天符[12]が函の中に降り、碧紙に朱書がなされているが、その文は人には理解できない。」思遠は言った。「天命は董氏を興隆させるはずでございます。」さらに王守貞というものがおり、俗に王百藝といい、たいへん器用であった。生祠[13]を建てた時、姿を雕刻し、宮嬪を塑像・絵画にし、兵衛[14]を設け、ありさまは鬼神のようであったが、すべて百藝が造ったものであった。妖しいことを行う[15]際は、もっとも百藝の幻惑の術を盛んにした。昌はつねに言った。「わたしは『兔子(うさぎ)金牀[16]に上る』と聞いたが、わたしのことを予言しているのだ。わたしは卯年生まれだが、来年は卯年で、二月二日も卯で、まさに卯年卯月卯日だ。さらに卯の刻であるはずで、万世の基業は、この時にあるのがよかろう。」乾寧[17]二年二月二日、軍俗[18]数万人を率い、袞冕[19]儀衛[20]を僭用し、子城[21]の門楼に登り、域内で赦免を行い、あらためて羅平国と偽号し、年号を天冊とし、みずから聖人と称した。そして官僚将校等に命じて、聖人万と叫ばせ、俯いて「××」と言わせた。それが終わると、さらに舞蹈しようとしたが[22]、昌は何度も止め、言った。「おんみらは多くの言葉を言えるが、朕は頭を圧されて痛くてどうしようもない。」そもそも職人が作った平天冠[23]がやや重かったので、この言葉があったのであった。時人でそれを聞くものはみな大いに笑った。

 

 熊博

熊博は、もともと建安の津吏[24]であった。岸が崩れて一つの古墓が出てきたが、藤蔓がその棺に纏いついており、傍らに(いし)(ぶみ)があって言った。「陥ろうとして陥らず藤に縛られ、落ちようとして落ちず沙に()かれ、五百年後に熊博に遇う。」博は平光寺の僧を使って募金して葬ってやった。博は後に建州刺史にいたった。

 

 彭城の仏寺

国初、楊汀がみずから言った。天祐の初年、彭城[25]の仏寺で避暑していたときのこと、雨雹はまさに激しかったが、突然大きな音が地を震わしたので、走っていって門の下を見ると、一つの大きな雹が街に落ちており、その高さと広さは寺楼に等しく、地に入ること一丈あまりであった。まもなく、雨が止めば、熱風と烈日で、一月で雹は消えつくした。

 

 欧陽氏

広陵の孔目吏[26]欧陽某は、決定寺[27]の前に住んでいた。かれの妻は若くして兵乱に遭い、父母とはぐれていたが、その時[28]老父が門に来、かれの妻に告げさせた。「わたしはおまえの父だ。」妻はかれが貧窮しているのを見ると、喜ばず、拒絶した。父はさらにその名および内外の親族のことをたいへんくわしく語ったが、妻は聞かなかった。さらに言った。「わたしは遠くから来、今は帰るところがない。このようなわけなので、ひとまず家に身を寄せることはできるか。」妻はやはり従わず、夫が宥めても、承知しなかった。父はそこでいった。「去れ。わたしはおまえを訴えよう。」左右のものたちは公訴[29]と思い、やはり意に介さなかった。翌日の昼、暴風雨が南から来、霹靂が欧陽氏の家に入り、その妻を中庭に引いてゆき、撃ち殺した。洪水は地を平らかにして深さは数尺[30]、隣人はみな押し流されてみずからを保てなかった。数日後、欧陽家の人が后土廟の神座の前にゆき、一通の手紙を見つけたが、まさに老父が娘を訴えた文であった。

 

 廬山の油売り

廬山の麓の油売りは、母を養ってたいへん孝順恭敬であったが、にわかに雷に撃ち殺された。その母は、みずからに罪なかったので、日々九天使者[31]の祠で号泣し、そのわけを知ることを願った。ある晩、夢みると、緋衣の人が告げた。「おまえの子はつねに魚の膏を油の中に混ぜ、多くの利を求めていた。それに廟の斎醮でつねにその油を用い、悪臭に燻され、神仙は降らなかった。かれが撃ち殺されたのは当然だ。」母はその事を知ると、やめた[32]

 

 李誠

江南の軍使[33]蘇建雄は、別荘を[34]に所有し、つねに{人[35]の李誠を行き来させて様子を見させていた。乙卯の年[36]の六月、誠は別荘から帰り、句容県の西に来た。時に盛暑の烈日のもと、傘を持ち、みずからを掩っていると、突然激しい風が起こり、沙を飛ばし、木を抜き、傘の覆いを巻いて去った。傘の柄だけを持ち、ゆくこと数十で、はげしい雷雨がやってきた。濡れることを心配していると、突然飄る蓆がかれの所に来たので、取って覆った。まもなく、雷は地を震わし、道の傍の数軒の中から、一軒の家を巻いて去り、東北に向かって去った。まもなく、雷が鳴った。家は蕩然[37]としてもはや遺っているものはなくたが、老若十余人はすべて桑林の中に集まり、一人も傷ついたものはいなかった。家の前には足跡があり、長さは三尺であった。誠はさらに西へゆくこと数里、一人の男に会うと、覆っている蓆を買うことを求めたので、すぐに与えた。さらに一里あまりゆくと一人の男に遇ったが、かれは持っている傘の柄を買うことを求めた。誠は怪しみ、言った。「この物は役に立たないのに、どうして買われる。」その人はひたすら切実に求めたが、まったくそのわけを言わず、数百ついてきたので、与えると、去った。

 

 茅山の牛

庚寅の年[38]、茅山の村の子供が牛を牧し、着ていた汗衫を洗い、草の上に曝して仮眠した。目ざめると、失われており[39]、一人の隣家の子だけが傍らにいたので、盗み去ったと思い、騒ぎ争った。隣家の子の父はそれを見ると、怒った。「倅を生んだが盗人となってしまった。おまえなど必要ないわい。」すぐに水中に投げこむと、隣家の子は匍匐して水から出、天に叫び、怨みを訴えてやまなかった。さらに投げこもうとすると、まもなく、雷雨がにわかに来、その牛を撃ち殺し、汗衫が牛の口から吐き出されたので、子供は許された。

 

 番禺の村娘

庚申の年[40]、番禺の村に老婆がおり、娘とともに畑へ食事を運んでいた。すると突然雲雨が暗くなり、晴れると、娘がいなくなっていた。老婆が号泣し、探し求めると、隣人はいっしょに探したが、見つけられなかった。一月あまり後、昼なのにふたたび雲雨が暗くなり、晴れると、庭に宴が設けられており、鹿脯、乾魚、果実、酒、(ひしお)があり、たいへん豊富であった。そこへ娘が盛装してやってきた。老婆が驚喜して抱くと、娘がみずから言うには、雷師[41]に娶られ、ある石室にゆこうとしており、親族はたいへん多く、婚姻の礼は、すべて人の世のようだということであった。帰れば、後日ふたたび戻れないということであった。老婆は尋ねた。「雷郎には会えるのか。」言った。「できません。」数晩留まると、ある晩、ふたたび風雨が暗くなり、見られなくなった。

 

 江西の村の老婆                                   

江西の村で雷鳴があり、一人の老婆が電火に焼かれ、片腕はすべて損なわれた。その後、空中で叫んで言った。「間違えた。」すぐに一つの瓶を落としたが、瓶には薬があり、(あぶら)のようであった。そして言った。「これを塗れば、すぐに癒えよう。」その言葉通りに、塗るとすぐに癒えた。家人はともにこれは神丹だと語り、取って隠そうとしたが、数人がいっしょにその瓶を挙げようとしても動かせなかった。まもなく、ふたたび雷雨があり、取って去った。さらに一人の村人も撃ち殺されたが、空中で人が叫んで言った。「間違えた。すぐに蚯蚓を採り、搗き砕いて臍に塗れば、癒えよう。」言われた通りに塗ると蘇った。

 

 甘露寺[42]

道士の范可保は、夏にひとり浙西の甘露寺に遊び、殿舎の裏門を出、北軒[43]に登ろうとした。すると突然男が、古い褐衣を着、かれの傍らから入って来、肩帔[44]が触れた。范はもともと清潔を好んでいたので、新しい服が汚れるのを恐れ、心のなかで喜ばなかった。まもなく、一匹のの犬を引き、ふたたび肩を触れて出た。范が怒りを顔色に現すと、褐衣のものは振り返り、目を瞠ったが、その光は雷のようであったので、范ははじめて恐れた。まもなく、山麓に人が来、言った。「さきほど山上で霹靂が龍を捕らえましたが、聞かれましたか。」范はもとより知らなかった。

 

 南康県令

辛酉[45]の五月四日、使者が南康県を通過したので、県令の胡侃は県の南の蓮華館の水軒[46]で置酒した。するとにわか雨があり、南から沙を吹いて来たので、手で目を掩うと、盤の中の器物が蔌蔌[47]と音をたて、物が飛んで過ぎたようであった。しばらくして、目を開くと、食器がかすかに反っていた。その銀の酒杯と杯の舟はみな狭く長くなっていた[48]。時に、東西の影壁[49]の傍らに大きな桐の樹があったが、やはり引き抜かれ、一里先に投ぜられていた。すべてはこの風雨のためであった。つねにはるかに館中の迅雷が聞こえたが、館の中ではまったく聞こえないのであった。胡も恙なかった。

 

 犬が石に吠えること

婺源県に大きなの石があり、山から溪谷の側に落ちたが、透明で好もしかった。犬たちはそれを見ると競って吠えた。数日して、村人はその騒がしいのに堪えられず、いっしょに水中に推したが、犬はやはり水に俯いて吠えた。ますます焦り、取って砕くと、犬は吠えなくなった。

 

 甕形の石

潘祚が鄱陽の知事となった。県庁の後ろは石の城壁に連なっており[50]、その間は荒れた空き地数十畝であった[51]。祚は家に帰り、ここで月見したことがあったが、見れば城壁の下の草の中に光があり、高さは数丈、その中に荊棘は茂り、夜は歩けなかったので、すぐに弓を執り、その場所を射てしるしとした。翌日、その地を掘り、一つの甕を見つけたが、大きな腹、小さな口で、青石で塞がれていた。祚はかれの家に担いで帰るように命じ、その口を開こうとしたが、開けず、打ち砕かせると、一つの石があり、甕の形のようで、氷が凝結したもののようであった。さらに砕いて棄て、結局得るものはなかった。

 

 金蚕

右千牛[52]の兵曹[53]王文秉は、丹陽の人で、代々刻石に巧みであった。かれの祖父が浙西廉使裴璩采[54]の碑を積石[55]の下に作ったところ、一つの自然の円石を得たことがあったが、球の形のようであった。切り付けると、重なりあって殼が包んでいるようであり、切りつくすと、その大きさは拳ほどになった。壊してみると、中に一匹の蚕がおり、蠐螬[56]のようで、蠕蠕として動けたが、人は何だか知れなかったので、棄てた。数年して、浙西は乱れたので、王は出奔し、蜀下[57]にゆき、同郷人と夜に会い、青蚨を西に送り銭が帰ってきた事[58]に言及した。座中であるひとが言った。「人は富を求めようとするなら、石の中の金蚕を得て養うのがよい。宝はおのずから来よう。」その形を尋ねれば、石の中の蠐螬であった。

 

 濠州の井

戊子の年[59]は、大旱魃であった。濠州の酒肆の前に、大きな井があり、塞がれて久しかった。その時、酒家が井戸掘りの陶老を招くと、職人父子で応募するものがあり[60]、子が先に入り、鍤に倚りかかって死んだ。その父はついで下りたが、やはり亡くなった。見るものは垣のようで、さらに入ろうとしなかった。縄を引き、屍を出し、それ以上掘らなかった。

 

 鶏井

江夏の林主簿は、残虐で賭博を好んでいた。一人娘をたいへん愛していたが、娘は鶏を食らうことを好んだので、里胥[61]は日々二羽の鶏を供していた。ある日、鶏を殺そうとすると、鶏が逃げたので、娘はみずから追いかけた。鶏が家の北の枯れ井戸の中に入ると、娘も井に入り、見えなくなった。林はみずからゆき、やはり井に入って出てこなかった。まもなく、井の中から黒い気があがり、炊ぎのようであった。その家のものはひたすら井に臨んで泣き、入ろうとするものはいなかった。ある肉屋が入って見ることを願ったが、大きな釜に、湯が沸き、火が燃えており、ある人がかれの足を阻んで言った。「あなたとは関わりない。」入れずに出た。しばらくすると、気はだんだんと収まった。の中にはただ鶏の骨が一揃い、人の骨が二揃いあっただけであった。このことを古老が語るのをしばしば聞いたが、それがいつの年かは分からなかった。

 

 軍井

建州[62]に魏使君の邸宅があり、兵乱の後に焼けて壊れ、軍営となっていた。大きな井があり、塞がれていた。壬子の年、軍士が浚ったが、入った二人はいずれも亡くなり、屍も見つからなかった。一人がさらに入ることを願い、言った。「縄でわたしを吊るし、わたしがいそいで縄を引いたら、すぐに出してくれ。」入り、しばらくすると、突然、その縄をたいへんいそいで引いたので、すぐに出すと、顔色は痴呆のようであった。しばらくして癒えると、言った。「井に入ると、城郭、郷村[63]には、人物がたいへん多かった。その主は李将軍といい、事務は忙しく、官署はたいへん大きかったので、恐れてすぐに出ようとした。」結局二人の屍は見つからなかった。建州留後[64]の朱斥は、命を奉じてこの井を鎮めたことがあった。

 

 金華の知事

王祝従の子某は[65]、金華の知事となり、私邸を県城の中に築いた。夏、にわか雨がはげしく来ると、水が突然東南の隅に走っていったが、漏卮[66]に酒を灌ぐかのようで、まもなく尽きた。その地は井となり、深さは測りしれなかった。縄を用い、石に縋りながら測ると、数十丈で底に達し、一つの新しい饅頭(マントウ)を得て出たが、人の世で食らっているものと、いささかの違いもなかった。

 

 徐善

江南の偽中書舎人徐善は、幼くして孤児となり、豫章に住んでいた。楊が豫章に寇した時、善の妹は一人の軍校に捕らえられ、世が定まると、軍校は善に求めて礼物を送って婚約することを願った。善はもとより旧家で、兵士と結婚するべきでなくたので、かたく承知しなかった。そしてむりに結納を贈られても、すべて投げ棄て、白刃で臨まれても、恐れなかったが、虜にしてゆかれてしまった。善はすぐに揚都にゆき、の楊渥に面会を求めて訴えた。ときに渥は位を継いだばかりで、藩服[67]の役所はたいへんおごそかであった。王者を僭称し、布衣遊士[68]は、まる一年一見することもできなかった。善が白沙[69]にいってまもなく、渥が夜夢みると人が来て言った。「江西の秀才徐善が、おんみに会いに来ようとし、今、白沙の逆旅にいる。その人は良士で、申していない事があるから、厚遇しろ。」渥は朝すぐに騎馬を遣わして迎えさせた。来ると、礼遇をたいへん厚くし、言おうとしていることを尋ねたので、善はくわしくその妹の事を申した。渥はすぐに贖って、徐氏に帰らせることを命じた。ときに歙州刺史陶雅はそれを聞いて珍しいこととし、招いて従事とした。

 

 何致雍

何致雍は、商人の子であったが、幼くして俊英で学問を好んでいた。かつてその叔父に従い、舟を皖口[70]に泊めた。その叔父は夜に一人の男を夢みたが、官吏のようで、馬に乗り、数人のしもべを従え、岸辺を行き来し、船や人の数をあまねく閲していたさらに一人が後ろから呼んで言った。「何僕射がこちらにいるから、驚かせるな。」。すると「承知しました。」と答え、驚かそうとしなかった。目ざめると、あまねく隣の舟の人に尋ねたが、まったく何姓のものはいず、舟を移して深い浦の中に入った。翌日、激しい風涛があり、泊まっていた舟はすべて沈み、何氏だけが残った。叔父は致雍に言った。「わたしは家が貧しく、老いてもいるから、『何僕射』とはきっとおまえだ。くれぐれも自愛しろ。」致雍は後に知遇を受けて湖南節度判官となった。おりしも楚王殷[71]はみずから尊号を称し、致雍を部侍郎、翰林学士にした。致雍はみずから宰相となるはずだと思っていたが、師表の任にあった。後に楚王希範[72]がついで立ち、さらに帝号を去り[73]、致雍を節度判官、検校僕射にした。在任中に亡くなった。

 

 郭仁表

の春坊[74]の吏郭仁表は、冶城[75]の北に住んでいた。甲寅の年、病を得て宿痾となり、突然、一人の道士夢みたが、金花[76]紫帔[77]を着け、一人の小童を従え、門から入り、その堂上に坐した。仁表はじめあまり敬わず、病がいつ治るかを尋ねたところ、道士は顔色を厳しくして言った。「ひどくなることはあろう。」目ざめると、病は激しくなった。数晩で、さらに夢みると道士が来たので、叩頭して謝罪した。しばらくすると、道士は顔色が穏やかになり、紙と筆を求めた。仁表は処方を作ろうとしているのだと思い、すぐに跪いて捧げ持った。道士は書いて与えたが、その言葉にこうあった。「(へう)(ふう)(ばう)()()()すべし、(つる)(さう)(もん)[78](のぞ)みて(はね)(をさ)めて()[79]。わが(みち)(そう)まさに()るべし、万物(ばんぶつ)(さき)しばしばここにあり、これを(おこな)(あた)はずして(なに)()さんと(ほつ)する。」[80]夢の中でその意味が分からず、尋ねようとすると、童子は手を振って言った。「いけません。」そこで拝謝した。道士は西北から去り、そのため病は癒えた。

 

 王嶼

の鄂帥[81]王嶼は、若くして小将[82]となり、従軍して潁州を囲んだ。夜に夢みると道士が告げた。「朝に流星が地に墜ちるが、避けられれば、将相にいたろう。」翌日、大軍が城を攻めたが、城中では矢石が雨のようであった。嶼は剣を執り、柵に倚って督戦していたが、まもなく飛石[83]がまさにその柵に中たり、嶼に達した。鎧甲の半分はすっかり粉砕されたが、嶼は傷つかなかった。そこで嘆じた。「流星とはまさにこのことをいうか。」それから自負し、結局大官になった。

 

 謝諤

進士謝諤[84]は、南康[85]に住んでいたが、家の前に溪谷があり、つねに遊ぶ場所であった。諤は子供の時に、夢みて溪谷で水浴したところ、ある人が珠一器を贈り、言った。「おんみはこれを飲めば明悟[86]しよう。」諤はその大きいものは呑めないと思い、すぐに細かいものを六十余粒飲んだ成長すると、上手に詩を作った。進士裴[87]はそのよいもの六十余篇を選んでやり、世に広まった。

 

 崔万安

江南の司農少卿崔万安は、広陵を分掌していた。脾泄[88]に苦しみ、たいへん疲弊したことがあった。かれの家人は后土祠に祈った。その晩、万安は一人の婦人を夢みたが、珠珥[89]に珠履[90]、衣は五重で、すべて貝や玉を編んで作ったものであった。婦人は万安に言った。「この病は治せますから、今、処方を与えましょう。青木香(せいもっこう)[91]肉豆(にくずく)[92]を取って等分し、棗の肉を丸薬にし、二十丸を呑みくだしなさい[93]。」さらに言った。「この薬はたいへん体を熱くするが、平癒すればすぐに収まろう。」その言葉通りに服すると、癒えた。

 

 江南の李令

江南に李令という者がおり、大県を歴任し、假秩[94]の評事[95]にいたったが、世が乱れて年老い、もはや仕官する意思もなくなったので、家を広陵法雲寺[96]の西に築き、終焉の計を立てていた。草の束を頭に加え、口に一刀を含み、両手にそれぞれ一刀を持ち、水に入ってゆくのを夢みたことがあったので、心の中でたいへん怪しんでいた。まもなく、孫儒[97]が広陵を陥れ、儒の部将李瓊が法雲寺に駐兵し、つねに李令の家にとどまり、令に父事した。儒が死ぬと、宣城の副将馬殷、劉建封らが人々を率いて南へ走り、瓊は令に強いてともにゆかせた。殷が湖南を占拠すると、瓊は桂管観察使[98]となり、令を用いて荔浦の知事としたので、前の夢は験があった[99]

 

 毛貞輔

の毛貞輔は、県令を歴任し、応選[100]のために広陵にいった。日を呑む夢を見、目ざめると、腹はまだ熱かった。侍御史楊廷式に尋ねると、楊は言った。「この夢はいたって重大なもので、あなたにふさわしいものではない。あなたに関していえば、赤烏[101]の場官[102]を得るはずだ。」ほんとうにその言葉通りになった。

 

 陸洎

江南の陸洎は常州刺史となったが、赴任することができず、淮南副使となった。性質は温雅重厚で、時人はかれを尊敬していた。副使李承嗣は、かれともっとも親しかった。乙丑の年[103]の九月、承嗣が客たちとともに尋ねると、洎は従容として言った。「来年のこの月に諸君とお別れしなければなりません。」承嗣がそのわけを尋ねると、答えた。「わたしは以前夢みましたが、人に一騎で召されてゆき、大明寺[104]の西数里ばかりに止まりました。ある豪邸にゆきますと、陽明府と題していました。門に入り、西序を通り[105]、さらに東から大門に向かい馬を降り、一室に入りました。しばらくすると、吏は階の下に引いてゆきました。門の中には二人の緑衣の吏がおり、一つの案[106]を捧げており、案の上には書状がありました。一人の紫衣のものが笏を執り、書状を取り、述べました。『洎は三世人となり、つねに孝行し、功業が成就したので、この官職を受けるべきだ。陽明府侍郎に封じ、九州都監の事務を決裁させることができる。来年九月十七日、本官[107]が上奏する。』さらに騎馬で送りかえし、奄然として目ざめました。天命はすでに定まっており、改められません。」客たちはみな黙然とした。翌年の九月になると、日々その起居に侍させた。十六日になると、承嗣はふたたび以前の客とともに待った。客は言った。「明日、着任なさるはずですのに、今、どうして恙ないのです。」洎は言った。「府ではすでに準備していますから、明日ゆかなければなりません。」承嗣は言った。「以前は長者であったのであなたを敬いましたが、今は(あやかし)に近いのではございませんか。」は言った。「あなたはわたしと縁があるから、後日きっと隣人となるはずだ。」承嗣は黙然として去った。翌日亡くなり、茱萸湾[108]に葬られた。承嗣は後に楚州刺史となり、亡くなり、洎の墓の北に葬られた。

 

 周延翰

江南の太子校書[109]周延翰は、生来道教を好み、大いに服餌[110]の修行をしていた。かつて夢みると、神人が一巻の書を示したが、道家の経のようであった。その文はいずれも七字で句をなしていたが、憶えているのは、その末句に「紫髯[111]の伴に丹砂あり」とあったことだけであった。延翰は目ざめるとひとり喜び、きっと丹砂の効験を得ようと思った。後に建業で職に就き、亡くなり、大帝[112]陵の側に葬られたが、妻子はなく、一人の下女がいるだけで、その名を丹砂といった。

 

 王瞻

虔化[113]の県令王瞻は、辞任して建業に帰り、舟を秦淮[114]に泊めたところ、はげしく病んだ。夢みると朱衣の吏が書状を持ってきて言った。「おまえは命運がすでに尽きているから、今、お召しを受けよ。」瞻は言った。「ご命を断ろうとはいたしませんが、舟は狭うございますので、お許しください。上陸し、卜居することができれば、障りはございません。」吏は許諾し、五日を期限とし、言った。「期日になったら、朝に来よう。」目ざめると、牀から下りられたので、みずから外に出て家を借り、葬具を調えた。その子に哭踴[115]の礼節を教え、六親を招き、別れを告げた。期日になると、榻に登って安臥し、払暁に亡くなった。

 

 邢陶

江南の大理司直[116]邢陶は、癸卯の年[117]、夢みると人が告げた。「おまえは州刺史となろう。」その後、宣州県の知事となった。考満[118]の時、ふたたび夢みると、その人が告げた。「宣州の諸県の官人は、来春すべて変わるが、おまえには官誥[119]が来ない。」邢はたいへん嫌に思った。翌年の春になり、辞職し、帰郷した。あるひとが陶を推薦したので水部員外郎[120]となることになったが、牒[121]が下ると、所管のものがそれをなくし、再申請して二十余日、拝命しないまま亡くなった。

最終更新日:202268

稽神録

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[1]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E5%8D%81%E5%9B%BD)十国の一つ呉のこと。『稽神錄』の作者徐は、呉を滅ぼした南唐に事えていたのでこういう。

[2] http://baike.baidu.com/view/951539.htm

[3]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic89ZdicAC138108.htm&sa=U&ei=iSzCT-6PG6qriAfA9ZiqCg&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNGQ6XeqHkB035UfVLtgs2u_h52cCw

[4]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/320801.htm&sa=U&ei=N27NT_G5L-ODmQWql_muAw&ved=0CCUQFjAD&usg=AFQjCNGhSAdaOeA65M5IQHEQYLJZETOgOg

[5]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic88Zdic8E300227.htm&sa=U&ei=vcvBT86QBKrHmQWXmMi9Cg&ved=0CBsQFjAC&usg=AFQjCNGJ1Swq-PFfdTo7ksczQ5N5L9UGqg軍隊統帥

[6]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9Zdic84Zdic8245006.htm&sa=U&ei=fm7NT5S3MIjfmAXcvMzCAw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNGflIZ4htMmvWOJJeGnX-etmgyBiA鄂州

[7]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE9Zdic95Zdic87.htm

[8]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5ZdicAEZdic8B124303.htm&sa=U&ei=9LDFT9KrGPGZiQexw53lAg&ved=0CB4QFjAB&usg=AFQjCNGiwnk54PEV8fAhW2R5G6Ozb15ztw宋毋忌。張華『博物志』卷九「水石之怪爲罔象、木之怪爲罔両、土之怪爲獖羊、火之怪爲宋无忌。」http://www.zdic.net/search/?q=%E5%AE%8B%E6%AF%8B%E5%BF%8C伝説火仙。

[9]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/826385.htm&sa=U&ei=9cXJT5a8KI_NmQWO3qCaDw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNGPYWknZwPAqgYzV8cyWv4mxvf5aA董昌(?〜八百九十六)、浙江安南荘の人。唐末、義勝軍節度使に任ぜられ、両浙に割拠し、後に大越平国皇帝と自称した。

[10]原文「欲識聖人姓、千里草青青、欲知聖人名、日從曰上生」。「千里草」は「董」、「日從曰上生」は「昌」を暗示する。

[11]発話者は天帝であろう。

[12]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicA997117.htm&sa=U&ei=JBfDT9zVJKP0mAW-iNTeCg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNELCh9B1s1YIwpPF153RkhaaljlMA天の符命。

[13]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic94Zdic9F148389.htm&sa=U&ei=EnHNT_TQDKnImAWH3tSuAw&ved=0CCQQFjAF&usg=AFQjCNGdUCc4EDL33wTctZ0nsv1mOqK9Ig活人のために建立した祠

[14]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic85ZdicB517533.htm&sa=U&ei=HRnGT6nePIyciQfl76mUAw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNGaiD1aaUHt1Pq3BknOlql6ciibRw士兵と守の具。

[15]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5ZdicA6Zdic96127357.htm&sa=U&ei=FdHBT5qVD-7SmAW309nOCg&ved=0CBgQFjAB&usg=AFQjCNGJvGTaXL42cznKaP2rEBwd4thjJQ。怪の行為

[16]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic87Zdic91273755.htm&sa=U&ei=R13DT-yoN6H-mAWbsczcCg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNHavchqHevhABJOCpuSDOwYdVq-Wg尊者が坐する交椅。http://www.google.com/search?q=%E4%BA%A4%E6%A4%85&hl=zh-CN&gbv=2&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi 

[17] http://baike.baidu.com/view/1107359.htm

[18]原文同じ。未詳。軍人と一般人か。

[19]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8ZdicA1ZdicAE233377.htm&sa=U&ei=eNHBT_zyLcX4mAWMkrCzCg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNFcGX2WIRpB0_gEJeEcc3Oq7cTr5A衣と冕。帝王と高官の礼服礼冠。

[20]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicBBZdicAA21734.htm&sa=U&ei=8i7CT8CQH6SSiAfG-8G-Cg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNE26jRgzvmtlNafRZ5IX93Y5QvT0A仗と士の称。

[21]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicADZdic90311341.htm&sa=U&ei=7hfDT8i2G-uVmQXP6tW3Cg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNFiDOO09rEwLai3cA1rN4BYWy7MWw大城所属の小城、内城および附郭の甕城

[22] 主語は「官僚将校等」と解す。

[23] [23]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E5%86%A0&gbv=2&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1133906.htm&sa=U&ei=b9TNT-6XLsLImQXszcizCg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNEDEfMTw_zvMhE9h3svuyRMucMTZQ

http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5ZdicB9ZdicB3110362.htm&sa=U&ei=gtTNT-6aNLCbmQWb7LmeCg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNH0tn-v5kVaU98oHCfF-Enys6TFMg冕の俗称。

[24]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6ZdicB4ZdicA586149.htm&sa=U&ei=gtbBT6KaFsKdmQXluanRCg&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNG7OViy_GeRX1HBb8PfecIqvfQ9eQ渡口、梁を管理する官吏。

[25]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/4646010.htm&sa=U&ei=4XLNT6WwLuSgmQXZ3YyqAw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNEiYiR4rzq7kS9l3fTkF46f5AJV8A

[26]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicADZdic94127964.htm&sa=U&ei=RXPNT9j3IqP_mAWArJSlAw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNHhOWcUd53FPPJbbZdQYGP-Dl6MNAする小官吏

[27]未詳

[28] 「決守寺の前に住んでいた」時。

[29]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85ZdicAC293479.htm&sa=U&ei=KHzNT-PCM6ubmQXItJzXAw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNGuihcfszKMbYGMTxcOiz-0Eh8N6g文脈からして、人間界の役所に訴えることであろう。

[30]原文「大水平地數尺」。未詳。とりあえずこう訳す。水が数尺の深さで大地を掩ったということと解す。

[31]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE4ZdicB9Zdic9D320467.htm&sa=U&ei=RBrDT_nyMuXEmAWV-6G7Cg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNElvLS3SFGJhNjQzWokrnyIQY_Kdg「九天采使者」の略称。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE4ZdicB9Zdic9D296549.htm&sa=U&ei=znzNT-LeBcOemQXVgszCAw&ved=0CBkQFjAB&usg=AFQjCNGGIgVHOHZfnq2NMStbnzw6BWZilg道教が信奉する人の世を巡察する神仙。

[32]「号泣」するのをやめたのであろう。

[33]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic86Zdic9B38894.htm&sa=U&ei=1YPNT5CgAbGVmQW266HYAw&ved=0CB4QFjAD&usg=AFQjCNErXtD4pRA0GfUpL6kXtUDasu3v9w官名。中の賞罰を掌る。

[34]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6ZdicAFZdic97324028.htm&sa=U&ei=5oPNT8bAC6TImQWSkuzVAw&ved=0CBoQFjAB&usg=AFQjCNEMkTz0_BKifnGcrBpDscHF8PTCmQ常州一

[35]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE5Zdic82Zdic9422443.htm&sa=U&ei=wtnBT9qRDYfbmAXQo_myCg&ved=0CBgQFjAA&usg=AFQjCNGmBnxBbQEoK6lkVAGj9Z5x3bs6OA随従の佐吏、随身の下役。

[36]周の顕徳二年。

[37]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8Zdic8DZdicA1204392.htm&sa=U&ei=kYTNT4TCO-bHmQWKwo2yAw&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNGXb4ScN3eE6f0InJEsTIbv18V4Jw空寂のさま。

[38]の太和二年

[39]主語は「汗衫」。

[40]宋建隆元年

[41]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE9Zdic9BZdicB7264216.htm&sa=U&ei=5ITNT5_9A8bGmQWh7IHPAw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNEfaFs372KdQ5jpcVbXMBVtTEhUyAで雷を主管する神。

[42]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic94Zdic98177561.htm&sa=U&ei=VYXNT_O8LKrNmAXD7fWnAw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNE4Q8uUpV3WFvNfX-wLCTxMv3S0AA寺名。江江市北固山上にある。

[43]原文「北軒」。未詳だが、北固山の北側の、長江を臨む建物らしい。グーグル検索結果:

http://www.google.com/search?q=%E6%B5%99%E8%A5%BF%E3%80%80%E7%94%98%E9%9C%B2%E5%AF%BA%E3%80%80%E5%8C%97%E8%BB%92&hl=zh-CN&gbv=2&gs_l=hp.3...1078.3125.0.3281.3.3.0.0.0.0.141.391.0j3.3.0...0.0.8qp44gh8vZI&oq=%E6%B5%99%E8%A5%BF%E3%80%80%E7%94%98%E9%9C%B2%E5%AF%BA%E3%80%80%E5%8C%97%E8%BB%92&aq=f&aqi=&aql=杜牧に『寄甘露寺北』という詩があることがわかる。

[44]原文同じ。未詳。帔肩に同じいか。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicB8Zdic94215697.htm&sa=U&ei=MTTCT_yKHs-aiAeu1JWtCg&ved=0CBoQFjAB&usg=AFQjCNEU-b0TEhzVj7w2Gd02WXrygYtjVAただ、「帔肩」は「帔子」 に同じく、女が肩や背に掛ける服http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicB8Zdic94102288.htm「肩が触れた」程度の意味か。

[45]宋の建隆二年

[46]原文同じ。未詳。水辺に臨んだ高殿か。

[47]擬音語。微の声。http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE8Zdic94Zdic8C333191.htm

[48]原文「その銀酒杯與杯之舟皆狹長」。「杯之舟」が未詳。杯の、酒を入れる部分か。

[49]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE5ZdicBDZdicB1330981.htm&sa=U&ei=14fNT5qNJIrXmAWbksnOAw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNEN2FnwvMydsgbkug7kvRBXloI5fQの中あるいは屏の内にある目隠し塀。木製のものもあり、下に底座があり、移動でき、照壁、照とも称する。画像検索結果:http://www.google.com/search?q=%E5%BD%B1%E5%A3%81&hl=zh-CN&gbv=2&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[50]原文「縣治後連帶石城」。未詳。とりあえずこう訳す。

[51]原文「其中隙荒數十畝」。「其中・隙荒・數十畝」と区切るのであろうが未詳。とりあえずこう訳す。

[52]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5Zdic8DZdic839688.htm&sa=U&ei=O3HET6mWCaHhmAW5_q1W&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNHB_GcYCyyTBQP5vQ3PV9fiqNQ8kA官の千牛身、千牛の省称。千牛は刀をり、君王のために護衛する。

[53]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic85ZdicB519395.htm&sa=U&ei=WnHET4PEK-r6mAXzx5GxCg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNFUm_Z0IrFQXiL2i2SvpeHNfdC0-g兵事等を掌る官員。

[54]未詳

[55]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicA7ZdicAF186135.htm&sa=U&ei=bsHFT8jEEYmuiQerrLjtAg&ved=0CCEQFjAD&usg=AFQjCNGa4SNWPoP1h_ObRoCZRCw7CdkMxw

[56]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE8Zdic9BZdicB4196828.htm&sa=U&ei=RAbCT961OIjgmAX2_pSzCg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNGWFLHggTtLJlQ77__TqyDMcsLS2gカナブンの幼虫、さ一寸ばかり、土中におり、植物の根茎等を食する害虫。http://www.google.com/search?q=%E8%A0%90%E8%9E%AC&hl=zh-CN&gbv=2&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[57]未詳だが、四川であろう。

[58]原文「青蚨西送還錢事」。「西送」が未詳。青蚨は虫の名で母虫の血を銭に塗り、子虫の血を別の銭に塗り、一方の銭を使い、一方の銭を手元に置いておくと、使った銭が手元に戻ってくるという。これを「青蚨還錢」という。http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/4470950.htm&sa=U&ei=jcnFT8TeJeuXiQeto_H5Ag&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNFv7b8HaVri8HfR_SCyQzFksk18JA『淮南万畢術』「青蚨一名伯、或曰蒲、以其子母各等、置甕中、埋垣下、三日後ひらく之、即相従。以母血塗八十一、亦以子血塗八十一、以其更互市、置子用母、置母用子、皆自

[59]唐の天成三年

[60]原文「酒家召井工陶老、有工人父子應募者」。未詳。とりあえずこう訳す。

[61]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE9Zdic87Zdic8C242748.htm&sa=U&ei=1LfET8uDN-bOmAX27qDTCg&ved=0CBwQFjAC&usg=AFQjCNF-XmoODgDiGZEH8m2ets3zLXmg7A

[62]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/816993.htm&sa=U&ei=JYvNT921Ho7nmAXjg_GfAw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNFu6f7HzQ3JCfZWPLqtc1enMq7SPw

[63] 『廣記』は「邑廬」を「井邑」とする。http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicBAZdic958413.htm村。

[64]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic95Zdic99190145.htm&sa=U&ei=BDjCT8jAGKKKmQWGpNy_Cg&ved=0CBsQFjAC&usg=AFQjCNGF7ADKYpDIFIMdfLd_xWPW8RMW7Q名。度使の代行者。

[65]原文「王祝從子某」。「王祝從・子」か「王祝・從子」なのかが未詳。とりあえずこう訳す。

[66]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE6ZdicBCZdic8F134140.htm&sa=U&ei=8szET6jcOKaziQeo8O2lCg&ved=0CBsQFjAC&usg=AFQjCNE0PsJTJRDgHuClJ33Z4m1UFOFomw漏巵http://www.zdic.net/search/?q=%E6%BC%8F%E5%B7%B5底上に孔のある酒器。

[67]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/18/ZdicE8Zdic97ZdicA936842.htm&sa=U&ei=Os_ET8zZF-aOiAefsqGICg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNHbe9PCjJK7Lx7rw3jpCxa7R-gy1w古の九服の一つ。王畿以外の地を分けて九服とした。その封国の区域が王畿からもっとも遠いものを「藩服」と称した。

[68]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6ZdicB8ZdicB8153781.htm&sa=U&ei=9OjFT7_2Nc-aiAeerMmKAw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNG8EMa04KEniT09Z2ECbArkOXODoQひろく四方を雲遊して生計を立T文人をさす。

[69]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic99ZdicBD191307.htm&sa=U&ei=5ebFT67eNMWhiAeKvu38Ag&ved=0CBoQFjAB&usg=AFQjCNEE9AXnk5N26wExTzpKFdaJBrS6IQ『新五代史』世家「四年、溥至白沙 舟師、徐來見、以 白沙為迎鑾鎮。」『宋史』地理志四・淮南路・東路・真州「縣二:揚子、中。本揚州永正縣之白沙鎮、南唐改為 迎鑾鎮」。鎮名。

[70]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/950673.htm&sa=U&ei=YbHNT5W1N8Ww2gWXg73pAg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNE6-DsHC4IsEoeuX31gY963y7KGMQ皖口は、皖河と江の合流点。

[71] http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/84601.htm&sa=U&ei=r-nFT9DvO8GgiQfpy8CEAw&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNGClKNUkqAbS2Yfb5ciKKqOPpSLGQ

[72] http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/168930.htm&sa=U&ei=S-rFT4LXI6myiQeG_52TAw&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNFe97T1tP_jUV657dODotNL5sMDqg

[73]原文「後楚王希範嗣立、復去帝號」。南楚の君主が帝号を称したことはないはずなので、「去帝號」が未詳。とりあえずこう訳す。

[74]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic98ZdicA5314401.htm&sa=U&ei=CUPFT9KlBqi6iQfgi7mNAw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNFHk-n0XCkd6vtyLApKqiImMwwf5w太子に所属する官署の名。

[75]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/596910.htm&sa=U&ei=k0PFT_vTEKiXiQee3t33Ag&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNHTSB9kce-h6vWhFsMHBYi6h0E7Nw福州城内にあったとされる城ただ、福州十国呉版図ではないはず

[76]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic87Zdic91261692.htm&sa=U&ei=mPXFT6bVCYjZige9y8mKAw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNHwDQVPnInxm_WFvZ5-rxIxmThz4w器物衣履雕刻、刺繍してった

[77]画像検索結果:http://www.google.com/search?q=%E7%B4%AB%E5%B8%94&hl=zh-CN&gbv=2&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[78]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5ZdicB7ZdicA2217071.htm&sa=U&ei=YETFT8LYCI2TiQeZpNDzAg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNEzG9VbzrmZe4l1ZPYUYvRZ7KBpqw譙門。望楼のある城

[79]近いので翼をすぼめながら飛んでいるさまをいうのであろう。

[80]この句、後ろに「その意味が分からず」とある通り、意味不明である。

[81]軍官名であろうが未詳。正史に見える用例。『宋史』汪K伝「鄂帥田師中老而怯、立奏易之。」、李道伝「尋因大將言道與鄂帥不協、罷。」。

[82]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicB0Zdic8F85013.htm&sa=U&ei=I0jFT8z1DrGkiAfm0rCJAw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNGqbfrMZPu-d38l0wd4mjQJhQuedA武官。

[83]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE9ZdicA3Zdic9E83634.htm&sa=U&ei=S0nFT__OIM2aiQeJ9tSjAw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNG0413NKlPbtHc0OLOj3uQmdReJRQ守の具。石を大木の上に置き、機をして撃つ

[84]未詳

[85]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/122284.htm&sa=U&ei=5sHNT-L0Do75mAXOtqSoCg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNFLtGg7VDl1wzGhBSJFGDlknHY3Ew

http://baike.baidu.com/view/365365.htm#6 

[86]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic98Zdic8E322517.htm&sa=U&ei=YErFT52ECuO1iQfL44CSAw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNHdPtKrkmDcp421rPFYezURiBokww悟ること

[87]http://www.google.com/url?q=http://www.hudong.com/wiki/%25E8%25A3%25B4%25E8%25AF%25B4&sa=U&ei=dN7NT9-oE46OmQXx4ImrCg&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNEiGcAhl-D4huCgAFQEJhDgjCG4Ag

[88]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE8Zdic84ZdicBE169530.htm&sa=U&ei=xkzFT4ywIpHBiQex9KHnAg&ved=0CB0QFjAB&usg=AFQjCNGawjjO3OtClKKRDCsNedZer59PJQ中医学の病名。脾係して致される腹

[89]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic8FZdicA0133542.htm&sa=U&ei=V1rFT-WvGomdiAe2r4WbAw&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNEP5BxKX6abPNFyw33BfBbij7j8Ng珠をった耳り。

[90]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic8FZdicA0143208.htm&sa=U&ei=blrFT_rlHeWtiQeRzbD0Ag&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNFPOW5G7fHZG66rzBPpnUkA7lFx8gの履。

[91] http://baike.baidu.com/view/67112.htm#1http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E9%9D%92%E6%9C%A8%E9%A6%99&gbv=2&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wihttp://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic9DZdic92254565.htm&sa=U&ei=AsPNT6GrBa7ImAWQu-yyCg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNGudBAWd6uOCRyKelU7tFxXWNdEVA香名。蜜香、木香とも。に入できる。

[92]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/283457.htm&sa=U&ei=ilzFT_6wGI2viQf02939Ag&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNFRUnVHqpxy-P6wGVvQQHFzanAIng

http://www.google.com/search?q=%E8%82%89%E8%B1%86%E8%94%BB&hl=zh-CN&gbv=2&um=1&tbm=isch&tab=wi&oq=%E8%82%89%E8%B1%86%E8%94%BB&aq=f&aqi=g-S1&aql=&gs_l=img.3..0i24.16453.16453.0.16703.1.1.0.0.0.0.125.125.0j1.1.0...0.0.YB2eA3BFKg0

http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8Zdic82Zdic89290504.htm&sa=U&ei=VMPNT5LYBabcmAWZ_LXGCg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNEPP9UUgQbAelvtn2kZ7tS1oESlRQ

[93]原文「米飲下二十丸」。「米」が未詳。衍字と解す。

[94]原文同じ。未詳。未詳。「仮の」という意味に解す。

[95]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicAFZdic84253158.htm&sa=U&ei=EWLFT9aOD4qriAejtJydAw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNHHRE3ZzlyYjAjdIFxlyrBRNR6_HA官名。は廷尉平を置き、廷尉正、廷尉とともに疑を決断することを掌らせた。魏晋はと改称し、隋は事と改め、大理寺に属した。

[96]未詳

[97]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/840452.htm&sa=U&ei=FmTFT763BdChiAedxsGIAw&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNFaZaUes5sWARHYy0yHpIUuEPu9Dg

[98]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/3481844.htm&sa=U&ei=DsTNT6aMB4X4mAXwseWMCg&ved=0CB0QFjAD&usg=AFQjCNHnO1goWE8dB84XDxcfs1XLCbkmig唐朝の行政区画。全称は桂管都防御置等使。察使一名をけた。桂州(今桂林)に在した。察使は桂州刺史を兼ね、桂、梧、、柳、富、昭、、融、古、思唐、、象十三州をした。、政の事を掌管し、戍兵千名をした。

[99]「草の束を頭に加え、口に一刀を含み、両手にそれぞれ一刀を持ち」が草冠に三つの刀で「荔」を、「水に入ってゆく」が「浦」を暗示している。

[100] http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5ZdicBAZdic94225611.htm選抜をけること

[101]文脈からして地名であろうが五代の時期にこうした地名なし。未詳。

[102]未詳だが、製塩場等に設けられた官であろう。正史(『宋史』)の用例:卷四十「夏四月丁未朔、金人犯光州中渡鎮、執榷場官盛允升殺之、遂分兵犯樊城。」、巻六十七「五年、富順監些井場官楊守忠、曲水縣民向平、蓬溪縣民蹇知密牛生二犢。」、卷一百六十一・職官志一・榷貨務都茶場「監場官二員、京選通差。」、卷一百八十五・食貨志・礬「若即河北礬地置場官買、撕J出之、罷運晉礬、則官獲淨利、無運載之勞、民資地、省犯法之弊。」卷一百八十六・食貨志・互市舶法「十二年、盱眙軍置榷場官監、與北商博易、淮西、京西、陝西榷場亦如之。」

[103]宋乾徳三年。

[104]未詳。揚州の大明寺か。

[105]原文「入門西序、復由東向大門下馬」。一連の動きが未詳。とりあえずこう訳す。西序は西の房。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicA5ZdicBF186676.htm&sa=U&ei=FOPDT5zlGM2viQfsy4iRCg&ved=0CBgQFjAB&usg=AFQjCNHaNkRRvmHgbC_mrmR01LLwfAQ1WQ

[106] http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE6ZdicA1Zdic88.htm脚のついた

[107]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE6Zdic9CZdicAC18767.htm&sa=U&ei=sOPDT-SDBeiciAfAuIiyCg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNF5y49OBkC7BM9XWFdUWnD-2gsOHw知府の自称。

[108] http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E8%8C%B1%E8%90%B8%E7%81%A3&gbv=2&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1206766.htm&sa=U&ei=Q_XPT527HNGViAeFsZGWDA&ved=0CCAQFjAB&usg=AFQjCNE0rwot3t4_sP58WC1dFpxRdqVDzw  http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E8%8C%B1%E8%90%B8%E7%81%A3&gbv=2&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi 

[109]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6ZdicA0ZdicA1296380.htm&sa=U&ei=FxTOT7CIDK7umAXjhOGNCg&ved=0CB0QFjAC&usg=AFQjCNE_KhHN7ghvanNVL1rC9Vh3X7f_Iw典籍を校勘整理することを掌る官

[110]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic9CZdic8D223103.htm&sa=U&ei=UurDT6mKLo2uiQf1lqydCg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNE9PvHtoncvSs8Sgx3QHDfIrxKyYA服食丹。道家の生延年

[111]『三国志』孫権伝「權乘駿馬越津橋得去。」注「獻帝春秋曰、張遼問降人、向有紫髯將軍、長上短下、便馬善射、是誰。降人答曰、是孫會稽。遼及樂進相遇、言不早知之、急追自得、舉軍歎恨。」

[112]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/2288.htm&sa=U&ei=tuvDT-ygKs2aiQfrwODFCg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNEI6fK_A346QQN9O3-ezHV7YoqZ9g孫権

[113]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/3048692.htm&sa=U&ei=Xe7DT62gLNGZiAfg_5S7Cg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNGPuMgjTuERaZIB23D4R_h2RUt5pg

[114]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicA7ZdicA6187165.htm&sa=U&ei=98jNT8_RIc2JmQXY1J2UCg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNFwH73Rwun5MahJma1wAxD7IWFx_w河名。秦始皇が開鑿したといわれるので、秦淮という。

[115]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic93ZdicAD88024.htm&sa=U&ei=CMnNT83qGcTvmAWTv9jDCg&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNHtKzm-M2EgLIJ8kld7dxlsfxLJGQ儀節。哭きながら足ぶみすること。

[116]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8FZdicB8101850.htm&sa=U&ei=NvPDT8nkN8esiAet5om1Cg&ved=0CCMQFjAC&usg=AFQjCNFD3DsTLOJaYER8c9Du9pX9zEDGCA官名。丞相司直を指し、西の武帝のに始めて置かれた。丞相を助けて不法を検挙した。北魏から元にかけては、廷尉に属したり、大理寺に属したりし、取調、断刑、治等を掌った。http://baike.baidu.com/view/57875.htm#2_1

[117]南唐の保大元年

[118]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8Zdic80Zdic83194438.htm&sa=U&ei=efPDT9SSOoyyiQeMp5CnCg&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNErxfUqNPQWu60nVcTrpB8x6fPTmQ官吏の考期限ちること。

[119]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicAEZdic98124368.htm&sa=U&ei=wfPDT7uIIoWuiQftovmYCg&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNFHvgadvd96rAXUs48trnJMN6vI-A皇帝の爵あるいは授官の令。

[120]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6ZdicB0ZdicB4323605.htm&sa=U&ei=bNrPT9LyL6iuiAfvmNyODA&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNFrR5itW9LZCRr48dqp1_G7CE_6Hw 水道に関わる政令を掌る官。

[121]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE7Zdic89Zdic92.htm&sa=U&ei=iv7DT8KUEOeviQe85NWTCg&ved=0CBoQFjAB&usg=AFQjCNFmtyik4ZavCij3h-0kOc2iSOJXIA原文同じ。未詳だが、辞令のようなものであろう。

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