包待制三勘蝴蝶夢雑劇
関漢卿撰
楔子
（外が孛老に扮し、正旦とともに冲末の扮した王大、王二、丑の扮した王三を連れて登場、詩）月は十五を過ぎたれば光少なく、人は中年に到らば万事休せん。児孫にはおのづから児孫の福有り、児孫のために憂ふるなかれ。
わたしは姓を王といい、この開封府中牟県の者。五人家族で、こちらはわが妻、三人の子供を生んだが、農家の仕事をしようとはせず、ひたすら書を読み、字を書いている。息子よ、いつになったら出世するのだ。
（王大）お父さま、お母さま、農家の仕事をすることに、どのような良いことがございましょう。わたくしは一挙に龍虎榜[1]に記され、十年で、身は鳳凰池[2]に到りましょう。
（孛老が旦とともに言う）良い子だ、良い子だ。
（王二）お父さま、お母さま、わたくしは、十年窓の下にあり、人に訪問されることとてございませんでしたから、一挙に名を成し、天下に知られることでしょう。
（孛老と旦が言う）良い子だ、良い子だ。
（王三）父上、母下。
（孛老）馬鹿者め。何が母下だ。
（王三）幼いときに、お父さまが上、お母さまが下になり、同じ寝床で眠られているのを見たのでございます。
（孛老）こいつめ。
（王大）お父さま、お母さま、昔から「文章は身を立つべし」と申します。これは書を読むことが良いということではございますまいか。
（孛老）息子よ、おまえの申す通りだ。
（正旦）お爺さん、そうは仰いますが、息子のために、ながく身を立てるための策を、お探しになるべきでしょう。（唱う）
【仙呂賞花時】文章は身を立つべしと言ふなかれ。今、家の貧しきをいかにぞすべき。寂しき窓の下にあり、苦しみに耐へたることも徒にして、愚かなる人には陰で笑はれぬ。おそらくは、嘘にして真にはあらざらん[3]。
【幺篇】衣衫を敬ふのみにして、人を敬ふことぞなき。わが言葉にはかねてより偏りはなし。三人の子は春になりても、合格すとは限るまじ[4]、おしなべて龍門を跳ぶことをいかで得べけん。（ともに退場）
第一折
（孛老が登場、言う）三人の息子のために、この大通りに来て、紙と筆を買い、歩き疲れた。ちょっと坐って休むとしよう。
（浄が葛彪に扮して登場、詩）権勢を持ち、妄りに用ゐ、官府に見えど、廉耻を抱かず。貧民どもと同じなら、かれらとともに帽子を帯ぶべし。
わたしは葛彪、権勢のある家の者、人を打ち殺したとても、命を償うことはなく、牢屋に入るだけのこと。本日は何事もなし、通りへ遊びにゆくとしよう。（孛老にぶつかり、言う）この老いぼれは何者だ、わたしの馬に突き当たるとは。この老いぼれを殴ってやろう。（打つ。孛老が死に、退場）
（葛彪）この老いぼれは、死んだ振りをし、わたしを騙しているのだな。恐くもないわい。家の軒から瓦が落ちたようなもの。どこへなりとも訴えるがよい。
（副末が地方に扮して登場、言う）王大、王二、王三は、家におるのか。
（王大兄弟が登場、言う）何を叫んでらっしゃるのです。
（地方）わしは地方じゃ。誰かがおまえたちの父上を大通りで打ち殺したぞ。
（王大兄弟）本当ですか。お母さま、大変です。（哭く）
（王三）何ということ[5]、親爺が打ち殺されたとは。母上、はやく来てください。
（正旦が登場、言う）息子や、どうして大騒ぎしているのかえ。
（王三）誰かが父上さまを打ち殺したのです。
（正旦）ああ。いったいどういうことなのだ。（唱う）
【仙呂点絳唇】二たび三たび、をかしなことを、じつくりと考える。歩けば咽んで、声はか細く、両脇に翼を生ぜざることぞ恨めしき。
【混江龍】わが夫は天に負きしことぞなき。人殺しをば捕まへて、処罰を乞ふべし。かれは身に病も持たず、公私の罪を何ら犯ししこともなし。わが軟弱なる夫にもしものことあらば、かの権勢に倚り掛かる悪人と裁判すべし。あたふたと六街を過ぎ、三市を通り、ひたすらに頬を掻き、耳を抓みて、涙を拭ひ、目脂を擦れり。
（歩き、死体を見て哭き、唱う）
【油葫蘆】傷つきし処は一面痣だらけ、すでに骸を横たへり。かねてより財産のなきことを憂へたまへど、昨日にありては今日死することを知るなく、今日は明日のことを知るなし。血まみれになり、身は汚れ、四肢はだらりとして冷えて、黄ばみたる顔色は金紙に似たれば、ひとしきりむなしく叫べり。
【天下楽】生き返ることはなければ、ひどく慌てつ。わが財産のことを思へば、明日出棺せん時は、一束[6]の紙銭さへなかるべし。三人の子をむなしく並べば、これぞまさしく、貧しき家に、孝行なる子の現はるるなり。
（王大兄弟）母上さま、人はみな葛彪が父上を打ち殺したと言っております。わたしはこれからあいつを訪ね、役所へと連れてゆき、命を償わせることにいたしましょう。（退場）
（正旦が唱う）
【那吒令】かのものはもともとは太学[7]に居り、殿試に合格せしものなれば、かのものの拳でたちまち死なんとは、などか思はん。本日は大通りにて、骸を検することとなりたり。かのものが現職の役人で、われらが貧しき儒者ならんとも、訴状を出ださずばならず。
（葛彪が登場、言う）わたしは葛彪、何杯か酒を飲み、いささか酔うたぞ。とりあえず家へ帰るとしよう。
（王大兄弟が登場、言う）あいつが悪者。捕まえろ。（捕まえ、言う）父を打ち殺したのはおまえか。
（葛彪）その通りだ。おまえらなんぞ恐くはないぞ。
（正旦が唱う）
【鵲踏枝】役所に行きて争はん。国戚皇親、玉葉金枝[8]はもちろんのこと、たとひ陛下のお子であらうと、人を打ち殺したならば、裁判せずばなりませぬ。
（王大兄弟が葛彪を打ち殺す。兄弟）この悪者は、酔うて立てない振りをしている。
（正旦）わたしが尋ねてみるとしよう。（尋ね、言う）お兄さん、うちのお爺さんはどうしてあなたにぶつかって、あなたに打ち殺されたのでしょう。どうして酔うて倒れた振りをし、立たれぬのです。これで済むわけはございませぬよ。起きてください。起きてください。ああ。おまえたち兄弟は、ほんとうにこの人を、殴り殺してしまったのだよ。
（王三）これはよかった。わたくしは手を触れておりませぬ。
（正旦）どうしよう。
（唱う）
【寄生草】よく考へて事をなすべし。これはいかなる存念ぞ。なんぢら三人は、いままで悪しき行ひはなく、なんぢら三人が葛彪を打ち殺ししは正しきも、なんぢら三人は刑罰を受くる事件を起こせり。清風と明月の二人のつまらぬ者のため[9]、玉堂と金馬の三学士らは葬り去らるべし[10]。
（葛彪を指さし、唱う）
【金盞児】想えば、なんぢもよくよく考ふべきなりき。悪行をかやうに逞しうせしも、権勢があり、財産があるを恃むに過ぎざりき。大通りにて好漢を装へど、なんぢも血だまりの中に、屍を横たへんとは誰か思ひし。これぞまさしく「将軍の箭に中たるは、人を射し時にぞ似たる」[11]。
（王大兄弟）この件は裁判せねばなりませぬ。ただ、われらにはお金がないので、何を使ったものでしょう。
（正旦が唱う）
【酔中天】われらは日ごと一瓢の飲、一箪の食を、数双の箸、数本の匙で食らへり[12]。裁判でお金を使ふ時となりなば、つまらぬ文を質入れするよりほかなからん[13]。
（言う）そのようにしてもだめだろう。
（唱う）死すべきならば、本日すぐに死すべきなり。人をば殺めたりしかど、孝行の名声を手にすべし。
（浄が下役に扮して登場、言う）逃がすな。この人殺しを捕まえろ。
（正旦が唱う）
【金盞児】苦しんで、涙は絲絲たり。この災は天より至れり。縦へ横へと引きずらるるを、いかでか避くることを得ん。一方で、こはばりし爺さんを安置して、一方で、眼を見張りつつ子らを送れり。幸ひを重ねて受くる日はなきも、災ひの並んで来たる時あることを悟るべし。
（下役）殺人は大変なこと、お上のもとへ行くとしよう。
（正旦が悲しみ、言う）息子や。（唱う）
【後庭花】龍門に跳び、桂枝を折るを思ふことなし。爺さんのため、必ずや横死を遂ぐべし。かねてより、人の命は償はるべきものなれば、天公の私情を容るることはなからん。
（言う）息子や。
（唱う）はからずも嘆息し、幾たびか見る。今やなんぢは捕らへられ、法廷に行き、自供を取られ、脳箍を嵌められ、拶子をぞ掛けられん。その時は、痛みにいかで得耐ふべき。
【柳葉児】かならずや、すみやかに自白して、死罪を免るることなからん。
（言う）息子や。
（唱う）実父のために、恨みを雪げば、ただちに冥府へ赴かん。われもまた、甘んじて児を埋めたる郭巨のごとくふるまはん。
（従者）はやくお上の所へ行くのだ。
（正旦）息子や、このような事になってしまって、どうしたらよいだろう。
（王大兄弟）母上、どうしたらよいのでしょうか。
（正旦が唱う）
【賺煞】なにゆゑぞ、詩書を読ませて、経史をぞ習はしめたる。孟母の三たび家を換へ、子を教へしに学ばんとすればなり。金榜に名を記すことを得ず、罪状札に名を記さるることとなりたり。想へば、これもやむを得ずしてなししことなり。しつかりと事情を調べ、聖上に上奏をせば、一人が処刑せらるるにすぎず。王家の宗祀は断たるることなく、われら一家が根絶やしとなることはあるまじ。（ともに退場）
第二折
（張千が従者を連れ、排衙[14]し、怒鳴る）役所にありては人馬の平安ならんことを。ああ。
（外が包待制に扮して登場、詩）冬冬と衙鼓は響きて、公吏は両脇に並べり。閻王の生死殿、東岳の摂魂台。
わたしは姓は包、名は拯、字は希文ともうし、廬州金斗郡四望郷老児村の者。官は龍図閣待制学士を拝し、開封府府尹を授けられている。本日は登庁し、朝の仕事をしているところ。張千よ、司房に命じ、書き判をすべき文書があれば、持ってきて書き判をさせてくれ。
（張千）六房の下役たちよ、書き判すべき文書はあるか。（内がはいという）
（張千）どうしてはやく言わぬのだ。おまえに尋ねてよかったわい。酸棗県より馬盗人の趙頑驢めを護送してまいりました。
（包待制）連れてきてくれ。（従者が犯人を護送して、跪かせる）
（包待制）行枷[15]を外せ。若者よ、そのほうが趙頑驢か。そのほうが馬を盗んだのか。
（犯人）わたしが馬を盗んだのです。
（包待制）張千よ、長枷を掛けて、死囚牢へと入れるのだ。（護送されて退場）
（包待制）わたしは疲れた、張千よ、そのほうと六房の下役たちは、大騒ぎしてはならぬぞ。わたしはしばらく休むとしよう。
（張千）属官たちの高位の者も下位の者も、両脇の回廊の下役たちも、大騒ぎするのはやめよ。大人さまがお休みだからな。
（包が机に伏して眠り、夢を見て、言う）わたしは公事に心を砕き、眠ることなし。ぶらぶらと遊覧しよう。開封府庁の後ろにきたぞ。小さな角門があるから、この門を推し開けて、見てみよう、これはきれいな花園だ。百花は爛漫、春の景色は麗らかだ。花の茂みに、軒の尖った亭があり、蜘蛛の巣が張られているぞ。花から蝶が飛んできて、折しも網に掛かったところだ。
（詩）包拯がひそかに心を傷ませば、蝶は飛び来る。人間に生き死にあるは言ふまでもなきことなれど、草虫にもまた思ひがけなき災ぞある。
ああ、蠢いているものにはすべて佛性がある。大きな蝶が飛んできて、この蝶を救い出したぞ。ああ、また小さな蝶がきて、網に掛かった。大きな蝶はきっと助けに来るだろう。……まことにおかしい。大きな蝶は二三回、花の茂みの上を飛ぶだけで、小さな蝶を救わずに、そのまま飛んでいってしまった。聖人は「惻隠の心、人みなこれあり」という。おまえが救わないのなら、わしが救ってやるとしよう。（放つ）
（張千）ああ、お昼になった。
（包待制が目覚め、詩）草虫や蝴蝶の命は瞬く間なり。たちまちに夢は覚め、張千は昼を報せり。
張千よ、審問すべき罪人があるのなら、連れてきて審問をするとしよう。
（張千）両房の下役たちよ、審問すべき罪人があるのなら、審問するから護送してこい。（内が答える）
（張千）中牟県より犯人を護送してまいりました。三人の兄弟が、罪のない、葛彪を打ち殺したのでございます。
（包待制）小県の人民が、罪なき人を打ち殺すとは。護送してきたか。
（張千）護送してまいりました。
（包待制）歩くたび棍棒で打ち、法廷に上げるのだ。
（護送官が王大兄弟を護送して登場、正旦が随って登場、唱う）
【南呂一枝花】人情のなき御史台に送られしかと思ひきや、そもそもこれは法を扱ふ開封府。いまだに出世することのなき、三たりの若き秀士らを、むざむざと調べを受くる死刑囚とす。わたしは悲しみ、心の恐れを抑ふるを得ず。まことに賊の胆は震へり。罪をひそかに自白するやうに言ひ、小さき県の官員や下役たちと異なれり。
【梁州第七】この開封府において、王法は清く正しく施され、中牟県の頭の惚けた役人どもとは異なれり。トントンと階下に昇衙鼓が響けば、びつくりし、手脚は震へ、大胆に振る舞ふことはかなはずに、驚きて、魂は飛び、歩いてわたしの力は尽きたり。この裁判は、尋常のものと異なり、中んづく拷問を受く。ああ、老いし夫は骸を横たへて、さらに母子は牢に繋がる。ああ、兄弟は、刃を受けて誅せらるべし。わたしははやくも恐れ戦き、この塀に耳をそばだて、こつそりと窺ひたれど、かやうなるお役所を見しことはなし。本日は、法廷で、禍と福、いづれが真で、いづれが偽りなるかを定むることとせん。
（正旦が衆とともに役人に会い、跪く）
（張千）おもてを上げよ。
（包待制）張千よ、行枷を外し、あの護送官を帰らせよ。（枷を外す）
（王三）母上、兄上、まいりましょう。
（包待制）どこへ行くのだ。ここはそなたの中牟県とは違うのだ。張千よ、この三人の若者は人を打ち殺した者たちだが、あの婆さんは何者なのだ。証人か、さもなくば、この若者と親戚だろう。婆さん、二人はそなたとどのような関係なのだ。
（正旦）長男にございます。
（包待制）この若者は。
（正旦）三番目の息子です。
（包待制）黙れ。そなたはきちんとしたしつけなどしておらぬわい。想うに昔、孟母は子供を教育するとき、必ず隣りの人を択んだ。陶母[16]は子供を教育するとき、髪を剪り、賓客をもてなした。陳母[17]は子供を教育するとき、紫衣を着け、銀帯を締めさせた。そなたは子供を教育し、罪科のない人を殴り殺させた。本当のことをきちんと話すのだ。
（正旦が唱う）
【賀新郎】息子らは、万千の死罪にあたる罪人にして、情理において許し難きも、わが息子らの殺人は恕すべきなり。われらは貧しき民草なれば、知事さま、なにとぞ息子らにお味方をされたまへかし。三人は、幼きときより書を学び、経典にのみ従ひて、礼義を習へり。謀議を凝らし、人を損なはざりしかど、あれやこれやと殴られて弁明し難し。「三人あらば大事はならず、六つの耳では謀議はなせず」[18]といふを聞かずや。
（包待制）打たねば白状せぬつもりだな。張千よ、力いっぱい打ってくれ。
（正旦が悲しみ、唱う）
【隔尾】息子らは徒、流、絞、斬の蕭何の律を犯ししかば、恭、倹、温、良、孔聖の書を読みしも徒なり。殴られて全身は見るにぞ耐へざる。打たるれば筋は傷つき、骨は動きて、痛きこと、頭を懸けられ、股を刺さるるにぞ似たる。父母に慈しまるれば、かやうなる苦しみを受けしことなし。
（包待制）三人には、かならず頭がいるはずだ、先に打ち殺したのは誰だ。
（王大）母とは関わりございませぬ。二人の弟とも関わりはございませぬ。わたくしが打ち殺したのでございます。
（王二）知事さま、母とは関わりございませぬ。兄、弟とも関わりはございませぬ。わたくしが打ち殺したのでございます。
（王三）知事さま、母とは関わりございませぬ。二人の兄とも関わりはございませぬ。かれが腹痛で死んだのです。わたしとも関わりはございませぬ。
（正旦）三人の息子とは関わりはございませぬ、皇族の葛彪がわたしの夫を打ち殺しましたので、我慢できずに、一時の怒りに任せて争い、打ち殺したのでございます。本当はわたしなのです。
（包待制）馬鹿者どもめ、次から次へと自白をしおって。おそらくつるんでおるのだろう。一人に命を償わせねばならないぞ。張千よ、しっかり打つのだ。
（正旦が唱う）
【闘蝦蟇】静かにて、救ふ人なし、眼を睜り、むざむざと苦しみを受く。息子らはかれにむかひて白状すべし。知事さまの御前にて申し上ぐべし。葛彪は人を侮り、わが亭主をぞ打ち殺したる。これよりわたしを牢へと入らしめば、下役は虎狼のごとく、知事さまも怒りを発せん。麻槌[19] 脳箍[20]や、さまざまな拷問は言ふに及ばず、とめどなく数限りなき尋問をされ[21]、殴られて、総身は血にぞ汚るべき。長男が不平を鳴らさば、官府は有無を言はせざるべし。次男が地獄の責め苦を受けば、痛みをいかで堪ふべき。三男がさらに激しく殴られば、わたしはひどく気に掛けん。こちらとあちらで心配し、眼を合はせ、行きつ来つして、哭き喚きたり。待制龍図にひどく打たれぬ。げに「児孫には児孫の福あり」[22]。呼吸し難く、息も絶へ絶へ、短く長く溜息をつき、愁ふる心は火のごとく、雨の涙は珠にぞ似たる。
（包待制）届いた書類を見てみよう。（見て、言う）中牟県の知事はまことに惚けている。この文書には、王大、王二、王三が、罪のない人葛彪を、打ち殺したと書いてある。この県に下役はおらぬのか。この三人の若者たちには、きっと諱があるはずだ。たといなくとも、幼名があるはずだ。婆さん、そなたの長男は何ともうすか。
（正旦）金和と呼ばれておりまする。
（包待制）次男は何ともうすのか。
（正旦）鉄和と呼ばれておりまする。
（包待制）三男は。
（正旦）石和と呼ばれておりまする。
（王三）尚にございます。
（包待制）何が「尚」だ。
（王三）石和尚です[23]。
（包待制）ああ、人を打ち殺したのも尤もだ。庶民の者がこのような剛き名を付けるとは。おそらくは金和が打ち殺したのだろう。
（正旦が唱う）
【牧羊関】金を溶かすは易きことなり。
（包待制）おそらくは石和が打ち殺したのだろう。
（正旦が唱う）こちらは石にございますから、どうして嘘でございましょう。[24]
（包待制）おそらくは鉄和が打ち殺したのだろう。
（正旦が唱う）鉄は炉のごときお上の法に耐へられず。[25]
（包待制）このならず者どもを打て。
（正旦が唱う）息子らはならず者ではございませぬ。まことに不満にございます。
（包待制）張千よ、「人を殺せば命を償い、金を借りたら金を還せ」といわれておるぞ。あの長男を、引き出して、命を償わせるとしよう。
（正旦が唱う）眼を睜れども救ふは難く、押されつつ階を下りたり。互ひを見るは難しく、いかにせんともよきことはなし。
（言う）包待制さまはまことに惚けてらっしゃる。
（包待制）長男に命を償わせようと思うが、婆さんは何をもうしておるのだ。
（張千）あの婆さんは、枷のへりをしっかり掴み、包さまが惚けていると申しております。
（包待制）あの婆さんが、わたしが惚けていると言うなら、連れてきてくれ。
（正旦が跪く）
（包待制）そのほうの長男に命を償わせようというに、なぜわしが惚けているなどと申すのだ。
（正旦）大人さまが惚けているなどとは申しておりませぬ。ただ、わが息子は孝行で、もしも息子が殺されましたら、わたしはだれにも養ってもらえませぬ。
（包待制）母親は長男が孝行であると言い、隣人たちも保証している、これはわたしが間違っていた。長男は残して親を養わせ、張千よ、次男に命を償わせよう。
（正旦が唱う）
【隔尾】一方で長男のことが気に掛かり、一方で次男のことで肺腑を痛ます。命を償はせるといふなら、息子は残され、わたしを殺したまへかし。このやうに凶悪なれど、訴ふるところとてなし、枷のへりをばしつかり掴み、不平を叫べり。
（言う）包待制さまはまことに惚けてらっしゃる。
（包待制）またなにゆえに大騒ぎしているのだ。
（張千）あの婆さんは、また知事さまが惚けていると申しております。
（包待制）つれてきてくれ。
（正旦が跪く）
（包待制）婆さんよ、そのほうの次男に命を償わせるのに、なぜまたわしが惚けているなどと申すのだ。
（正旦）知事さまが惚けているなどとどうして申せましょう。ただ、次男はやりくりに長け、次男が命を償えば、わたしはだれにも養ってもらえませぬ。
（包待制）長男に命を償わせようとすると、かれは孝行であるといい、次男に命を償わせようとすると、かれはやりくり上手だという。それなら誰に命を償わせるというのだ。
（王三が自ら枷を帯びる）
（包待制）そのほう、何をいたしておるのだ。
（王三）長男も命を償うことはなく、次男も命を償わぬなら、わたしが命を償うことはあきらかでしょう。はやく裁きをして下さいまし。
（包待制）それもよかろう、張千よ、その若者を外に出し、命を償わせるとしよう。（推して転がす）
（包待制）婆さんよ、三男が命を償うのはよいか。
（正旦）そうですね。「三人がともに歩めば、若者が苦しみを受くべし」と申しますから、三男が命を償うことにするのが宜しいでしょう。
（包待制）このわしは惚けているか。
（正旦）知事さまは、惚けていらっしゃいませぬ。
（包待制）黙れ。張千よ、連れ戻せ。婆さんに騙されるところであった。そのほうは継母であろう。若者二人は、そのほうの実の子に相違あるまいが、この若者は、そのほうが養っている義理の子で、可愛くないから、命を償わせるのであろう。婆さん、本当のことを申せば、わしには考えることがあるが、嘘を申せば、許しはせぬぞ。
（正旦）三人はみなわたくしの息子です。これ以上、何を申せと仰るのです。
（包待制）本当のことを言わぬなら、張千よ、打て。
（正旦）長男、次男、三男よ、話しをするが、仲違いしてはいけないよ。
（包待制）長男は、そのほうの実の子か。
（正旦が唱う）
【牧羊関】まことの子にはあらざれど、乳で育みたりしなり。
（包待制）次男はどうだ。
（正旦が唱う）かやうに幼なかりしとき、わたしが育て上げしなり。
（包待制）末っ子は。
（正旦が悲しみ、唱う）これはわがまことの子なり。二人にとりてわたしは継母。
（包待制）婆さんよ、こちらへ来るのだ。それは違うぞ。先妻の子供に命の償いをさせ、実の子を残して養われればよかろう。
（正旦）知事さま、それは違います。
（唱う）先妻の子に命をし償はしめば、まことに悪しき継母となりぬべし。嫉み深き、悪しき女[26]の真似をせば、賢き魯義姑[27]に会ふを恥づべし。
（包待制）婆さん、そなたは今でもかれらに慕われているが、いったい誰が打ち殺したのだ。
（正旦が唱う）
【紅芍薬】総身が口とならんとも、いかでか申し開くべき。げに口のなき瓢箪のごときなり。打たるれば、皮は綻び、肉は破れて、膚は傷つき、鮮血はどろどろとして、あたかも活地獄のごとし。三人の子らはみな殺されん。おんみらは、役人同士で身内のごとく庇ひあひ、皇族ならばなほさらのこと。
（悲しみ、唱う）
【菩薩梁州】長男は罪人として誅せられ、次男は死生の路を異にし、三男は身は地獄に帰らば、わが老いの身はむなしく残らん。長男は孝行にして情を弁へ、次男は留まり家を切り盛り、三男は何も言はずに、命を償ひにゆくべし。諺にかくいへり。「三人がともに歩かば、若者が苦しみを受くべし」と。はや大声で叫ぶに及ばず。
（包待制）この婆さんの言うことを聴き、「良き商人は多くの物を持ちたれど、持たぬがごとくし、君子は盛んな徳を持てども、顔は愚なるがごとくす」ということが分かったぞ。この事件では、母親は大いに賢く、子供らは至って孝行。母は陶、孟に等しく[28]、子は曾、閔[29]に異ならぬ。先ほどわしは昼寝して、夢で蝴蝶が蜘蛛の巣に掛かるのを見た。大きな蝶が来て救い、二番目の蝶も同じであった。その後で、小さな蝶も網に掛かったが、大きな蝶は見ても救わず、飛び去った。このわしは、惻隠の心を持って、小さな蝶を救って網から離れさせた。天はあらかじめ事情を知らせ、三男の命を救わせようとしたのだ。
（詞）先ほどわたしは、法に従い、罪の軽重を定めたが[30]、ほかにこの裁判があろうとは思わなかった[31]。罪のない人を殺せば、ただではすまぬ。刑罰を軽くできぬのは、言うに及ばぬ。まず長男を、仕置場に送ろうとしたところ、孝行で親によく仕えているとのことだった。その後で、次男に刀を食らわせようとしたところ、今度は家計を切り盛りし、日々の費用を充たしているとのことだった。最も若い子供を処刑しようとすると、婆さんは喜んで、その子を犠牲にしようとした。先妻の子を憐れんで、実の子を憐れまぬとは。かような三従四徳には、褒美を与え、貞烈賢達には、俸禄を請求しよう。ふと気が着いたが、天はわたしの魂をあらかじめ驚かしたのだ。蜘蛛の巣を悲しんでいた蝶三匹は、訴えることのできない母子と同じだ。いくたびも継母が実の子を棄てようとしたことは[32]、昼に見た、蝴蝶の夢の通りだわい。張千よ、人々を死囚牢へと下すのだ。
（正旦が慌てて進み出て引っ張り、唱う）
【水仙子】前後より押され掴まれ、われはそなたと枷の端をば掴みつつ、声高に不平を鳴らせり。眼を睜れば、往く路あるも帰る路なく、よきことはなし。ここで死ぬるをいかんせん。いづれにしても従ひゆきて、いづれにしても引きとめて、衣をきつく掴むのみ。
（張千が旦を推し、三人を護送して退場）
（正旦が唱う）
【黄鍾尾】包龍図さまは常日頃、清く正しきお裁きをなされども、今日はまことに愚かなるお役人ぶり。御身はむなしく黄堂[33]に坐し、虎符[34]を帯び、栄華を楽しみ、俸禄を請ひたまひたり。息子らは、濡れ衣を着せられて、わけも分からず、獄へと下されぬ。わたしは死にものぐるひになりて、みだりに振る舞はんとせり。都堂[35]に告げて、省部[36]に訴へ、皇城に往き[37]、怨鼓[38]を鳴らし、鑾輿に見え、だしぬけに訴へん。愚かな婆が今古を唱ふも[39]、味方する人もなければ、ただ死に処を求むるにしくはなし。独りぼつちになることはなく、往くところなく、いたく悲しみ、哭きわめきつつ、活きながら苦しみを受くるにまさらん。（退場）
（包待制）張千よ、近う寄れ。…このようにせよ。
（張千）宜しいのでございましょうか。
（包待制）馬鹿者め、わしの言葉に宜しいも、宜しくないもあるものか。
（詩）聖明の君をお扶けし、清風をとこしへに広めんとせり。これらの裁きを行はずんば、南衙開封府に坐するわけにはゆかず。（ともに退場）
第三折
（張千が李万とともに登場、詩）手に執るは無情の法律、懐に持つは涙の滴のごとき銭。朝には狼虎の路を歩みて、夜には死骸とともに眠れり。
わたしは張千。王大、王二、王三を死囚牢へと下したが、三人を出してきてくれ。
（王大、王二が登場、言う）お兄さん、どうか憐れと思われてくださいまし。
（張千）枷を外して[40]、殺威捧[41]にて三たび打つ。（三回打ち、言う）三男はどこにいるのだ。
（王三が登場、言う）わたくしは参りましたよ。
（張千）李万よ、押床[42]を担いできて、この滾肚索[43]できつく縛るのだ。（引く、三人が叫ぶ）
（張千）李万よ、家へ帰って食事するのだ。わしが見ていることにしよう。提牢官が来ることだろう。
（李万が退場）
（正旦が登場、言う）三人の息子らは、死囚牢へと下された。余ったスープやご飯をもらい、息子たちに食べさせてやるとしよう。
（唱う）
【正宮端正好】遥かに望む死囚牢、折しも離るる悲田院[44]、半歩たりともぐづぐづせんと思ふことなし。家々を、乞食して、訪ねつくして、いささかのあまりご飯と雑麺[45]をしぞ求めたる。
【滾繍球】わが子はもともと状元となり、琴堂[46]に坐し、俸禄を請はんと思へば、かやうなる刑に遭ひたることぞなき。「五刑に属する三千の刑」[47]を犯ししこともなし。わたくしは、食らふことなく、着ることもなく、地を焼きて臥し、地を炙りつつ寝ぬるがごとき、貧しさに耐へしことなし。陳婆婆[48]の諺に従はば、金玉の貴きを求むることなく、子や孫のすべて賢く、刻苦することを望めり[49]。
（牢の入り口に行き、言う）こちらは牢の入り口だ。この呼び鈴を揺らすとしよう。
（張千）提牢官が来たのだろう。この門を開け、呼び鈴を揺らしているのが誰なのか見るとしよう。
（正旦）わたくしです。
（張が打ち、言う）この婆めが。ここはおまえの家なのか。どうして来たのだ。
（正旦）三人の息子のためにご飯を運んできたのです。
（張千）灯油代も、付け届けもないとはな。わしらにとって、死刑囚は飯の種だぞ。金があるなら持ってきて使わせろ。
（正旦）お兄さん、どうか憐れと思うてくだされ。爺さんは打ち殺されて、三人の息子も死囚牢におります。わたくしは朝、食事をすれば、夕飯はなく、表通りや裏町で、乞食をし、残りのスープ、余りのご飯をいただいて、息子の飢えを満たしております。お兄さん、どうか憐れと思うてくだされ。（唱う）
【倘秀才】貰ひたる余りご飯をふたたび温め、繕ひし破れ襖を裏返しにして身に着けり。
（言う）お兄さん、この旧い服をさしあげましょう。
（唱う）この旧い褐袖[50]を、とりあえず付け届けだということにしてくださいまし。
（張千）ほしいとも思わぬわい。
（正旦が唱う）お兄さん、お世話をされて、息子らを憐れんで下さいまし。
（張千）罪はもう定まったから、救えぬわい。
（正旦が唱う）
【脱布衫】いかんせん、家の暮らしが気に掛かり、何をするにも言葉はいらいら。あれやこれやと息子を思ひ、幾たびも堪ふれど雨の涙は漣漣たり。
【酔太平】罪を責められ、まことに不満。わたしはここで悲しみて、天を怨めり。お兄さん、どうか憐れと思はれよ。かれらは眼をくるくると動かして、手と脚をぶるぶると戦かせたり。三人を救はんとして、わが喉咽は叫んで破れ、怒りのあまり前へ後ろへ倒れたり。
（張千）おまえを入れて、この門を閉めるとしよう。
（正旦が中に入って会い、言う）わたしの息子や。（悲しむ）
（王大）母上さま、なにゆえいらっしゃったのです。
（正旦）ご飯を運んできたのだよ。
（正旦が張千にむかって）お兄さん、息子にご飯を食べさせてくだされば宜しいですのに。
（張千）おまえには手がないのか。おい婆さん、息子に食事をとらせるのだ。
（正旦が王大、王二に食事をとらせ、唱う）
【笑和尚】わたくしは、二三歩進み、次々に食事を勧めり。一匙一匙みな掬ひ、なんぢらは、飢ゑを充たして、喉咽を潤す。
（王三）お母さま、わたしも少しいただきましょう。
（正旦が唱う）石和尚、いづれにしても、一口一口、すぐに呑むべし。
（旦がご飯を傾け、言う）長男や、ここに焼餅がある、おまえがお食べ、石和には見せてはならぬ。次男や、こちらに焼餅がある。おまえがお食べ、石和には見せてはならぬ。
（唱う）
【叨叨令】いささかの残りのスープ、余りたるご飯を貰へば、重羅の麺[51]などあるべうもなし。なんぢは堂食[52]、玉酒[53]、瓊林宴[54]を想ふことなし。昔を想へば、長き枷をば掛けられて、中牟県を出でたれば、木綿の衣を身に着けて、黄金殿に登るとは思ひもよらず。まことに苦しや。典獄さま、どうか便宜を与へたまへかし。
（言う）長男よ、わたしは帰るが、何か言うことはあるかえ。
（王大）母上さま、家に『論語』がございますから、お売りになって、父上のため、紙銭を買って焼かれて下さい。
（正旦）次男よ、何か言うことはあるかえ。
（王二）母上さま、わたくしは『孟子』を持っておりますから、お売りになって、父上のため、法事をなさってくださいまし。
（王三が哭いて言う）わたくしは言うことはございません、あなたの頭を抱かせてください。
（正旦が外に出る）
（張千）婆さんよ、嬉しいか。
（正旦）わたしは嬉しゅうございます。
（張千が牢に入り、言う）誰が長男だ。
（王大）わたくしが長男にございます。
（張千）逃げるのだ。
（王大が出る）
（張千）婆さんよ、長男は孝行だから、釈放し、あんたを養わせるとしよう。長男に会えて、嬉しいか。
（正旦）わたしは嬉しゅうございます。
（張千）大喜びさせてやろう。（牢に入り、言う）誰が次男だ。
（王二）わたくしにございます。
（張千）立て、逃げるのだ。（出す）
（張千）婆さんよ、つぎは次男を返してやろう。やりくりをしてそなたを養うことができよう。
（正旦）お兄さん、三男は。
（張千）盆吊[55]にして、葛彪の命を償わせるとしよう。明日の朝、塀のもとに来て、死骸を確認するがよい。
（正旦が悲しみ、唱う）
【上小楼】二人の兄を放免せしめ、三男を推し出だしたり。想ふにわたしは苦きを含み、甘きを吐きて[56]、十月孕んで、三年育みたりしなり。長男と二男を刑に遭はしめば、悪しき女は善を知らずと人に言はれん。
【幺篇】なんぢはもともと、怨みをもつて怨みに報ゆることを欲せど、かへつてわが身を滅ぼせり。人を殺さば命を償ふことを聞かずや、罪を犯さば、罰せらるべきものなれば、死すとも怨むことなかれ。
（王三を見、唱う）幾たびも恋恋とせば、二つの頭に三つの顔の継母なりと人に言はれん。
（王大、王二）母上さま、弟を見捨てることはできませぬ。
（正旦）長男、次男よ、家に行こう。悲しむのはやめるのだ。
（唱う）
【快活三】なんぢら二人の天に昇るを見たれども、末の弟は黄泉路に喪べり。
（王三を見て悲しみ、唱う）身を翻せば、涙の漣漣たるに得耐へず。
（王大、王二が悲しむ）
（正旦）仕方がない。おまえたち二人を残すことにしよう、
（唱う）三男が殺されんとも、甘んじてこれを望まん。
【朝天子】息子のはなはだ若きを憐れむ。いづれの日にかまた会ふを得ん。先妻の子の身を保つことなくば、むなしく後の世の人の怨みを招かん。わたしはここで三十たびあまり地団駄を踏み、まことに苦し。明日に至らば、一刀のもと両段せられ、骸を市に横たへん。石和の顔を見ることはもはやなからん。
【尾煞】父親に一陌の紙銭[57]を焼き得ず、さらに息子は罪を受け、父と子は、見えんとせばいづれの時に見ゆべき。もしもふたたび相逢はば、夢の中にて、われら母子が団円するよりほかはなからん。
（王大、王二が随退場）
（王三）張千さん、わたくしの長兄と次兄はどこへ行ったのです。
（張千）知事さまのご命によって、長男と次男は許され、母上を養うことになったのだ。そのほうだけは葛彪のため、命を償うこととなったぞ。
（王三）二人の兄を許されて、わたしに命を償わせ、二つの枷をわたしに掛けられるのですね。わたしは明日、どのように殺されるのです。
（張千）盆吊の刑に処し、三十板の高い塀から投げ棄てるのだ。
（王三）お兄さん、わたしを投げ棄てる時は、ご用心なさってください、わたくしの腹には瘤がございますから。
（張千）もうすぐ死ぬのに、瘤のことなど気にしてどうする。
（王三が唱う）
【端正好】腹には五車の書を持てり、
（張千）なにゆえに歌い出すのだ。
（王三）曲の仕舞いにございます。
（唱う）すべて『礼記』と『周易』なり。まもなく死期は訪れん。役人、大臣となりて、栄達をせんことを望みたれども、本日は、名と利をぞうち捨てん。
【滾繍球】包待制は、牛を尋ねしものよりも楽な仕事をし[58]、父上は、子を教へたるものよりも見識少なし[59]。われら秀才は、橋に題せし人よりも五陵の豪気を持ちたることなく[60]、打たれて総身に鮮血は淋漓たり。包待制も惚けたり。令史らは知らぬふりをす。両脇に下役が居並びて、堂堂とした顔なれど、ろくでなしばかりなり。牢より塀を越えゆくは、天へと上る梯をむなしく求むるかのごとし。
（言う）張千よ
（唱う）おまえの母の汚きところを辱むべし。（退場）
（張千が随って退場）
第四折
（王三が趙頑驢の死骸を背負って登場、うつぶせにして置く）
（王大、王二が登場、言う）われらは母じゃと三男の死骸を探しにゆくところ。母上さま、お急ぎ下さい。
（正旦が登場、言う）聞けば石和は、盆吊により殺されたとか、二人の兄が死骸をとりにいったから、わたしは紙銭をいささか貰い、薪を焚いて、息子を火葬するとしよう。
（唱う）
【双調新水令】かねてより、朝早くこつそりと城を出でたることはなし、よそさまが知らば大いに騒ぐべし。一陌の紙銭を貰ひ、幾本か柴を拾へり。わたしの息子は蓆で卷かれ、椽で抬がるることはなし[61]。かくのごとくに死せんとは、誰か思はん。
（悲しみ、言う）息子や。
（唱う）
【駐馬聴】想ふになんぢは、復讐の心を持ちて、横死せし父上と分界牌[62]にて相逢はん。
（言う）もしも会ひなば、
（唱う）二人で手を打ち、かの人殺しを望郷台[63]より突き落とすべし。黒々と、空はなほ暗くして、静まりし、遥けき野、荒れたる原に、ぼんやりと人の来ることあるにぞ似たる。見終はれば驚きを添ふ。
（王大、王二が死骸を背負って登場、言う）母上はいずこにいられる。これは三男の死骸ではありますまいか。
（旦が見て悲しみ、唱う）
【夜行船】あたふたと顔を見たれば、血まみれの骸は汚れり。わたしが慌てて麻縄を解き、急いで衣帯を緩むれば、なんぢらはすみやかに進み出で介添へをせり。
【掛玉鈎】なんぢらはわたしとともに眉間を掴み、下顎を抑へたり[64]。なんぢらと高き処で魂を招かん。石和や。たちまちに息子は命を失ひて、さんざんかれに叫ぶとも、いかでかかれに見らるるを得ん。悲しみはいとど加はり、愁へをばいかんともせず。ただ哭き喚き、怨み哀しむばかりなり。
（言う）石和や
（唱う）
【沽美酒】老いたる心を奮ひ起こして、幼名をしかと呼びたり。孝行な石和はいづこぞ。母は残され、むなしく悲しみ、地を打てり。
【太平令】むなしく哭きつつ地団駄を踏み、幾そたび喚べども還らず。災は多ければ、いらいらとして耐ふるあたはず。
（言う）石和や。
（王三が登場、返事をして言う）わたくしはこちらにおります。
（正旦が唱う）あれやこれやと考ふれども、いづこより応へせしかを知ることぞなき。ああ、山川の妖怪なるにや。
（王三が登場し、言う）お母さま、わたくしがまいりましたよ。
（正旦が慌てて言う）幽霊だ。幽霊だ。
（王三）お母さま、どうか怖がらないで下さい。わたしは石和で、幽霊ではございませぬ。
（正旦が唱う）
【風入松】先に進めば、後方より追ひきたりたり。驚きて耳、頬を掻き、戦きて、急いで息子に拝礼し、壘七[65]の法事をば行はんとす。
（王三）母上さま、わたしは人にございます。
（正旦が唱う）幽霊でないのなら、どのように災いを免れたのか、はっきりと話しておくれ。
（王三）包知事さまは、馬盗人の趙頑驢めを盆吊に処し、わたくしにかれを引き出させ、わたくしを許されたのです。
（正旦が唱う）
【川撥棹】このたびの災に、命運はしばし衰へたりしかど、愁への心ははや晴れて、喜びと笑まひは頬に満ちたりき。大いなる海へと石が沈みたりしかと思ひたり[66]。
（言う）長男や、次男や、二人で何をしていたのだえ。
（唱う）そのやうなお言葉で、お咎めになりたまふことなかれ[67]。
（言う）おまえたち二人はまことにそそっかしい。このような死骸を担いできてどうする。
（唱う）
【殿前歓】息子らよ、なんぢらも眼を開くべし。何者の骸を負ひて来たりしや。柳もて貫ける魚を提げ、大いに歓びたるにもあらず、鬼神のしからしめしにもあらず[68]。かのもの[69]の死ぬるはむべなることなれど、なんぢは何ゆゑ死ぬることなかりしや。
（王三）わたしは無事にございます。包知事さまが、わたしに死骸を背負ってくるよう命じたのです。
（正旦が唱う）諺に「真面目なものはかならず残る」と言われている。間違って抬いできた、死骸をいっしょに埋めるとしよう。
（包待制が突然登場、言う）なぜまた人を打ち殺したのだ。
（正旦が慌てる）
（包待制）慌てるな。このものは、馬盗人の趙頑驢。御身のために、葛彪の命をば償わせたのだ。なんぢら一家は、宮居を望んで跪き、わしの裁きを聴くがよい。
（詞）なんぢらは、もとより天子の膝元の、優遇せられし民草なれば、国に報ゆる賢臣たるべし。長男は朝廷に赴きて任務へとあたらしめ、次男は冠帯もて身をば栄えしめ、石和は中牟県令となし、母親は賢徳夫人に封ずべし。国家は義夫と節婦を重んじ、さらに孝子と順孫を愛づ。本日は官を加へて、賞を賜へば、一家して、宮居を望み、恩徳に浴すべし。
（正旦が三人の子とともに拝謝し、言う）万歳、万歳、万万歳。（唱う）
【水仙子】九重の天より赦免状は下れば、なんぢら三人は、自供書のことをな責めそ[70]。一斉に宮居を望み、すみやかに拝礼し、聖明の君の千万載を願ふべし。こは枯れし樹に花の開くに勝るべし。膿血の責めを堪へ忍び、牢獄の災を受け尽くせども、本日は苦しみは尽き、楽しみは至りたるなり。
【鴛鴦煞】やつとのことで、濡れ衣の海を埋め尽くし、魂を惑はす寨[71]をうち出り。願はくは待制さまの三公[72]に列なりて、日に千たびも昇進したまはんことを。母は賢徳夫人[73]をば加へられ、息子は中牟県令を加へられ、一家は赦され、これよりはみな安泰なるべし。恩徳の涯なきは、とりあへず言ふに及ばず、母と子は団円し、大いにめでたし。
最終更新日：2010年11月10日