第一折
(冲末が劉太守に扮し、張千を連れて登場、詩)
寒蛩[1]は秋の夕に、いそがしく織を促して
戴勝[2]は春の朝に、耕作をしぞ勧めたる
人にもし家国を治むる心が無くば
虫鳥に何の心のあるかを知らず[3]
わたしは姓は劉、名は輔、字は公弼。若くして儒学を習ひ、詩書を読みたり。甲第[4]に合格してより、幾たびも抜擢を受け、このたび洛陽太守にぞ任ぜられたる。同窓の旧友に、趙汝州あり、別れて久しくなりぬれど、近ごろ手紙をわたしに寄こせり。その趣旨は、謝金蓮なる者を一見したしといへるものなり。わたしはこの地にをるものの、娘の何人なるやを知らず。
張千よ、近う寄れ。おまえに問うが、謝金蓮とは何者なのだ。
(張千)申し上げします。謝金蓮とは妓女にございます。
(太守)そうだったのか。張千よ、近う寄れ。おまえに命ずることがある。(耳打ちをする)趙秀才が来た時に、謝金蓮が人に嫁いだと言うがよい。入り口で番をして、もし来たら、報告するのだ。
(張千)承知いたしました。
(外が趙汝州に扮し登場)
(詩)
文章[5]は衆人に勝れども
風月なくばそも徒ならむ
試みに嫦娥に尋ねたまへかし
なにゆゑにことさらに少年を愛したるやと[6]
わたくしは姓は趙、名は汝州。同窓の旧友の劉公弼は、洛陽で太守をしている。まず一通の手紙をば、兄に寄せ、謝金蓮に会いたいむねを伝えよう。今日はこの地にやってきた。こちらが兄じゃの私邸だな。門番よ、取り次いでくれ。弟の趙汝州が訪ねてきたとな。
(張千が取り次ぎをし、言う)知事さまにお知らせ申し上げまする。趙汝州さまが入り口にいらっしゃいます。
(太守)呼んでくれ。
(張千)お入りください。(会う)
(太守)弟よ、別れて以来久しいな。掛けるがよいぞ。
(趙汝州)滅相もございませぬ。
(太守)張千よ、酒を並べて、弟に一杯飲ませ、旅の苦労をねぎらうのだ。
(趙汝州)兄上、お酒をいただくには及びませぬ。先日手紙で、謝金蓮に一目会いたいともうしましたが、兄上はどのように思われますか。
(太守)張千よ、謝金蓮を呼び、弟に会わせるのだ。
(張千)知事さまはご存じございますまいが、謝金蓮はとうに嫁いでしまいました。
(趙汝州)かようにご縁がなかったとは。それならば、わたしはおいとまいたしましょう。
(太守)弟よ、わたしのために来たのではなかったのか。とりあえず行くのはやめよ。張千よ、裏の花園の書斎を片付け、弟を泊まらせよ。ゆっくりと酒肴を並べ、弟と話しをしよう。(退場)
(張千が趙汝州を連れて裏庭に至る)
(趙汝州)ああ、わたしが来たのは、ほかでもない謝金蓮に会おうとしたため。嫁いだものとは思わなかった、兄じゃはわたしを書斎に泊めたが、何も面白いことはない。日は暮れたから、張千よ、灯りを点せ。
(張千)灯りはこちらにございます。お酒とご飯を用意しました。どうか若さまゆっくりと夕飯をお召しください。わたくしは戻らせていただきます。(退場)
(趙汝州)張千は戻っていった。何杯か一人で飲むことにしよう。
(正旦が謝金蓮に扮し、梅香を連れて登場、言う)わたくしは謝金蓮。知事さまのご命を奉じ、仮装して王同知さまの娘となって、裏の花園に赴いて趙秀才をからかおう。梅香や、ここはどこだえ。
(梅香)太守さまのお屋敷の花園にございます。
(正旦)梅香や、行こう。今いつ頃だえ。
(梅香)お嬢さま、今は初更にございます。
(正旦)美しい花だねえ。(唱う)
【仙呂点絳唇】
先ほどは茂れる花が目に満てど
落紅[7]ははやくも飛べり
春に淋しく
苔の径をそつと歩めば
香は凌波の襪にしぞなじみたる[8]
【混江龍】
夕陽は西に沈みゆき
黄昏に塒に遅れし鴉は鳴けり[9]
庭いつぱいの花月を見れば
幾縷かの煙霞あり
暮雨はことさら杏の蕊を潤して
春風は花を揚げざる処なし
わが裙は翡翠を引き
鞋は鴛鴦をぞ繍れる
この低き荼靡棚を過ぎ
花の曲径をば穿ち[10]
草の平沙に接するを見る[11]
(趙汝州)先ほどは何杯か飲んだから、そぞろ歩きし、花を見にゆくとしよう。
(正旦が趙を見、言う)美しい秀才だ。梅香や、いつか嫁いでゆくときは、あのように美しい秀才に嫁ぐとしよう。
(梅香)理由なくあのような秀才に嫁がれてどうなさいます。あの方に何の取り柄がございましょう。
(正旦)この小娘め、何を言うのだ。(唱う)
【油葫蘆】
かねてより、秀才たちを羨めり
秀才たちはひとへに愛ほし
書と剣を学ぶのがかれらの仕事
秀才たちは寒窓の下にて十年苦しみを受けたれど
やがてかれらは才を顕し、合格すべし
秀才たちは礼義を習ひ
問答をしぞ学びたる
ああ
これからは生意気なことをな言ひそ
秀才たちが出世をするはかなはじなどと
(梅香)秀才たちはいつになったら栄達できるのでしょうか。
(正旦が唱う)
【天下楽】
なんぢは橋に題したる漢司馬を知ることぞなき[12]
わたしはまことに怒りを発せり
是と非とを心の中で考へよかし
なんぢはまことに礼儀なく
ひたすらに抗へるなり
梅香や、殴られしことを憶えてゐるがよし。
(梅香)お嬢さま、人に嫁がれようというのに、理由なく立腹なされ、わたしを打とうとなさるとは。わたくしにいかなる罪がございましょうや。
(正旦)この小娘め、誰が怒っているだって。
(梅香)お嬢さまが怒っていらっしゃるのです。
(正旦が唱う)
【那吒令】
この小娘は尋ぬれば
礼儀を知らず
この小娘は話をすれば
口答へせり
この小娘は使つてみれば
すぐに聾や唖の真似をす
あばずれは 罵るに堪ふ
減らず口をばたたくのは、もうやめよかし
(梅香)わたくしが何を言ったとおっしゃるのです。
(正旦が唱う)
【鵲踏技】
おまへは謙虚ならずして
賢くもなし
汚れて美しからざる顔をぶすつとさせて
醜き顔はまことに蝋渣にぞ似たる
性格のかくまでも強情なりとは
(言う)梅香や、おまえは秀才さまたちの事を知らない。わたしの話を聴くがいい。
(唱う)
【寄生草】
初めより話をすれば
試みに聴くがよし
呉融の八韻賦[13]には昔から勝る人なく
杜甫の五言詩には世の人が驚けり
李白の手紙一通は南蛮をしぞ脅かしたる[14]
秀才は雲居に上る路なしとなれは言へども
文官が筆を執り、天下を治むることを知るなし
(趙汝州が驚いて旦を見、言う)ああ、すばらしい娘だなあ。どこの人なのだろう。何とか一言話せればよいのだが。
(正旦が唱う)
【後庭花】
美しき書生を訪ねてゆかんと思へど
悪しき梅香に見られんことを怕れたり
こちらは思ひを伝へんとしたれども
あちらは落花に示さんとする言葉なし[15]
いかんせん わたしは娘
話の種になることをせば
いたく周りの人々にしぞ笑はれん
(趙汝州)お聴きしますが、娘さんはどちらのお方で、お名前は何とおっしゃるのです。
(正旦が唱う)
【金盞児】
この秀才は、げにもさばけたお方にて
わたしに素性を問ひたまふ
わたしの住処は東にありて
深き村、曠き野は誇るにたらず
紅杏の樹に掩はれて
碧桃の花に隠れり
山の前 五六里の
林の外に二三の家あり
(趙汝州)娘さん、いったいどちらの方なのです。
(正旦)王同知の娘です。今晩は花を見るため、太守さまの花園に来て、はからずも秀才さまにお会いしました。お尋ねしますが、秀才さまのお名前は何とおっしゃいます。
(趙汝州)太守の従弟の趙汝州です。こちらにいらっしゃったからには、わたくしの書斎に来られて、幾杯か飲まれれば、よろしいでしょう。
(正旦)それならば、一緒にお話ししにゆきましょう。(書斎に入る)
(趙汝州)娘さん、むさ苦しいのがお嫌でなければ、一杯干されてくださいまし。
(正旦)秀才さまが飲まれませ。
(趙汝州)こちらに来てくだされたのは、ありがたいこと。もう何杯か飲まれてください。
(正旦が唱う)
【醉中天】
にこにことして流霞[16]を捧げど
わたくしはもぢもぢとしてなどか答へん
前世と今生 いかなる縁のあるかを知らず
花の枝のもとにて会へり
劉郎[17]はいたく喜び
玉真[18]もいまだ嫁がず
(趙汝州)娘さん、今宵は幸い会うことができましたが、いつになったらまた会えるやら。別れることはほんとうに辛いこと。
(正旦)明日の晩、一樽の酒、一瓶の花を、秀才さまへの返礼といたしましょう。
(趙汝州)明日の晩、ひたすらお待ちしております。
(正旦が唱う)
【賺煞】
今や二更はうち過ぎて
初更は果てて[21]
香風は颯颯として白粉をせし顔を撲ちたり
夜は静まり、帰り来たれば路は滑らか
露しげく、紗衣を潤す
ああ、解元さま
幾朶かの梨花
一片の銀河の彩霞を隔つるを見る
書生のおんみと話に耽り
まことに興が乗りたれば
明月の誰が家に落ちしかを知ることぞなき
(退場)
(趙汝州)ありがたい。娘には会うことができ、明晩ふたたび会うことを約束されたぞ。もし来たら、お酒を数杯いっしょに飲んで、春の思いをいささか増して、すぐあの人を押し倒そう。娘さん、あなたは苦しい思いをしますよ。(退場)
第二折
(趙汝州が登場し、言う)わたしは趙汝州。昨日の晩に、王同知家の娘に遇い、今晩ふたたび来ることを約束された。もう日は暮れたが、なぜ来ぬのだろう。
(正旦が梅香と一緒に花を捧げて登場、言う)梅香や、一樽の酒、一瓶の花をもち、秀才さまに返礼しにゆくことにしよう。
(梅香)ごいっしょにまいりましょう。
(正旦)風は清らか、月は明るく、本当に良い気候だねえ(唱う)
【南呂一枝花】
花の梢に月高く
院宇に人静かなり
才子の約を憐れめば
明るき月をいたく憎めり
恐ろしいのを我慢して
こつそり花の径を通り
人が来て、犬が驚くのを恐れ
花陰をぬき足で行き
柳影に身を潜め待つ
【梁州第七】
この花陰と柳影を離れぬことは
繍をせし帳の中で寂しくするよりはるかにまされり
才ある人はすこしも俗なる心なし
謝東山[22]の後裔や
杜工部の門生や
潘安仁の顔貌や
曹子建の才能と比べてみれば
かのひとは才貌がともに優れり
海誓と山盟[23]は交はさざれども
かのひとは、かのひとは、かのひとはげにも数多の美しさあり
わたくしは、わたくしは、わたくしは十分のまことをもつて
おそらくは、おそらくは、おそらくは結婚を成就せん
この良宵と美景に対し
玉繊[24]は幾たびも羅衣を整へ
繍鞋を露は冷たく湿せり
園池を巡り、小亭に過ぎれども
などかしばらく停まることのあるべきや
(梅香)お嬢さま、夜も更けました。ゆっくりとまいりましょう。
(正旦が唱う)
【隔尾】
緑の径をいそがしく走るのはなにゆゑぞ
藍橋に着くのが遅れ 尾生を溺らせんことを恐るればなり
窃玉と偸香[25]をせんとする心ははやり
画屏は寂しく
宝鼎に香は消えたり
かの人は鴛鴦枕[26]に倚りて待つらむ
(梅香)お嬢さま、もう着きました。ごいっしょにまいりましょう。
(趙汝州があわてて迎え、言う)娘さん、来られましたね。
(正旦)秀才さま、何のお礼もございませぬが、一樽の酒、一瓶の花を、返礼といたしましょう。
(趙汝州)娘さん、長いことお待ちもうしておりました。
(正旦)梅香や、おまえはひとまず戻るがいい。母さまに尋ねられたら、ごまかすのだよ。
(梅香)かしこまりました。ひとまず戻るといたしましょう。(退場)
(正旦)秀才さま、この花をご存じですか。
(趙汝州)娘さん、この花は何の花ですか。
(正旦)当ててみてご覧なさい。
(趙汝州)海棠でしょう。
(正旦が唱う)
【哭皇天】
海棠ならば
杜子美には詩興なし[27]
(趙汝州)桃でしょう。
(正旦が唱う)
桃花なら
(趙汝州)石榴でしょう。
(正旦が唱う)
石榴の花は夏に咲くもの
いまはまだ清明の前
(趙汝州)山茶花でしょう。
(正旦が唱う)
山茶花ならば
晩冬ならむ
(趙汝州)剌梅[30]でしょう。
(正旦が唱う)
剌梅の花は開きしばかりにて盛りにあらず
(趙汝州)碧桃でしょう。
(正旦が唱う)
碧桃ならば
いづこにか求むべき 牆外は誰が家ぞ 鳳吹の声[31]
(趙汝州)わたくしはもう当てられませぬ。
(正旦が唱う)
御身をぞむざむざと弄びたる
申し上ぐれば、悟りたまはん
【烏夜啼】
これぞ一朶の紅梨の花
枯れたる杏と推するなかれ[32]
佳人の顔の火照りのかすかに醒むるがごとし
三春に花の権柄を独占し
枝葉は青青
色は熒熒[33]
四季牡丹亭はいふまでもなく[34]
さらに黄花の径をな過ぎたまひそね
この花と灯は
相称ひたり
灯光は輝きて
花影は軽やかなり
(趙汝州)娘さん、このような美しい花があるのですから、詩を作られてはいかがでしょう。
(正旦)紅梨花ならば、詩を一首作りました。
(趙汝州)娘さん、お読みください、
(正旦が詩を読み、言う)
本分は天然の白雪香[35]
誰か知るべき 今日あつく化粧せんとは[36]
秋千のある院落に溶溶たる月
見るを羞づ 海棠に紅脂の寝ぬるを[37]
(趙汝州)すばらしい。すばらしい。わたしも一首作りましたよ。(詩を読む仕草、言う)
氷肌玉骨の胎を換へ[38]
丹心[39]は奇すしき香りを吐き出だしたり
言ふなかれ 武陵溪畔の人
ただ恐る 夭桃のあへて開かざるをと[40]
(正旦)まことに優れた才をお持ちにございます。(唱う)
【賀新郎】
詩句を聴き たちまちに驚けり
さいはひにこの方の心は聡く
才調ぞ清く正しき
二つのことは敬ふに足り
風流な俊英の名にぞ恥ぢざる
詩は花と酒とを詠はん
美しき花は玉のごとくに軟かく
酒の色は氷のごとくに清らなり
世の花、酒と詩人の興
酒を注げば 金瀲灩[41]
花を列べば 玉娉婷[42]
(趙汝州)美しき花、旨き酒、麗しき宵、知音は相遇ひ、まことに宜し。
(正旦が唱う)
【四塊玉】
灯の光をかきたて
花瓶をば正しく移せり[43]
燭の下、花の前にて言ひ含むべし
ただ願ふ 灯の消えず
花の凋まず
人の独りとなることなきを
知音がまことを保てるは
花枝のつねに花瓶にありて
灯のとりわけ明るきにぞ似たる
(浄が乳母に扮して登場、言う)わたしは王同知さまの乳母。夜も更けたが、老奥さまはお嬢さまのお姿が見えなくなったので、探しにゆけとおっしゃった。太守さまの花園にいらっしゃるだろう。(会い、言う)結構なことをなさっていますね。
(正旦)乳母が来ました。どうしたらよいでしょう。(唱う)
【罵玉郎】
仕掛けられたるからくりに、嵌まりたりしか
このやうにぷんぷんとして人情なきとは
わが母の命令を奉ずとはいへ
(乳母が趙を引き、言う)結構なことをなさっていますね。
(正旦が唱う)
何ゆゑぞしつかりとかの人の革帯を掴みたる
歩みきて喧嘩を売れり
【感皇思】
乳母や
老いたれば筋の力は衰ふるもの
われらはかならず怨みを抱き 声を揚ぐべし
わたくしはこの上陽[44]の花を賞で
長寿の酒を飲み
短檠[45]の灯を焼けり
これぞまさしく、銀河は耿耿[46]
玉露は泠泠[47]
一輪の月
千里の風
満天の星に対したるなり
【采茶歌】
われはいづれの時よりか
この書生にし伴ひし
碧桃の花の下 月は三更[48]
乳母どの[49] 邪慳になるなかれ
罪人にならんとも白状すべし
(言う)乳母さん、お願い。先に戻って。わたしはすぐに行きますから。
(乳母)お嬢さま、わたしは先に戻りますから、すぐに来られてくださいまし。遅れれば、老奥さまがご心配なさりましょう。(退場)
(正旦)秀才さま、わたくしは戻ります。
(趙汝州)娘さん、いつまた会えることでしょう。
(正旦が唱う)
【一煞】
愁ふるなかれ 衾の寒く 枕の残り 人の寂しきを
われは恐れり 秀才さまの酔ひの醒め 灯の昏く 夢の成ることなきを
佳期は露顕し 良きことはなし[50]
あたふたと蘭堂を出でたれば
四方の空は鏡を懸くるがごときなり
夜の気は人を撲ち冷やし
一片の閑雲は玉縄[51]に近うして
銀漢はむなしく澄澄[52]
(趙汝州)娘さん、戻られたとき、お母さまに叱責されたら、娘さん、わたしのために来られたのですから、わたしは安心できませぬ。娘さん、お母さまに会われたら、うまく返事をなさってください。
(正旦)秀才さま、ご安心くださいまし。(唱う)
【尾煞】
わたしは一枝の翠柳に身をぞ隠さん
(趙汝州)娘さん、気を付けてお行きなさい。
(正旦が唱う)
ここは十二の瑶台をひとり行くとは異なれり[53]
曲欄の傍らに 月の光は浄くして
白壁の傍らに 夕の風はいと激し
(言う)ああ、人が来た。
(唱う)
撲簌簌と靴底の鳴るを聴きたるのみにして
びつくりし ぶるぶる震へ 手脚は冷たし
ただ立ち止まり 眼を注げば
(言う)人ではなかった。
(唱う)
これぞまさしく 雲は裂け
月は来たりて花は影をぞ弄ぶなる
(退場)
(趙汝州)娘は去っていってしまった。先ほどはいっしょに詩詞を唱和した。これぞまさしく情があるということだ。ところが乳母がやってきて、娘を呼び戻したために、わたしは独りここに残った。娘さん、おんみのことが思われてなりませぬ。
(詩)
花と月とを媒として
佳人と唱和し、杯を交はしたれども
乳母に逼られ、戻りゆき
一天の喜びは、みな悲しみと相成りぬ
(退場)
第三折
(太守が張千を連れて登場、言う)弟の趙汝州がやってきてから、奥の花園の書斎にかれを泊まらせた。わたしはこれから郊外に行き、勧農しよう。秀才は上京し、受験するのに忙しく、わたしの帰りを待てないだろう。花銀[54]二錠、全副の鞍馬一頭[55]、春衣一套を残すとしよう。秀才に知らせるのだ。もしも行くのが遅ければ、わたしが帰ってきた後に、みずから送ると幾たびも言っていたとな。
(張千)かしこまりました。(ともに退場)
(趙汝州が登場し、言う)あの晩に、乳母が娘を呼び戻してから、音信はまったくない。娘さん、いつになったらおんみとふたたび会うことができるやら。今日は書斎でひとり坐っているのだが、張千さえもお茶とご飯の世話をしにこようとはせず、まことに退屈。
(正旦が花売りの三婆に扮し登場、言う)わたしは花売りの三婆じゃ。本日は太守さまの花園に行き、幾朶かの花を摘み、通りや市場でいささかの物を売り、年老いた身を養おう。行かねればなるまい。(唱う)
【中呂粉蝶児】
年老いて貧窮に甘んじしため
匾籃[56]を携ふるこそ似つかはしけれ
季節の花を幾朶か売りて、とりあへず日々を過ごせり
牡丹の枝と薔薇の刺に
わが袖はすつかり裂けたり
今は三春
洛陽の麗しさにぞ勝るものなき
【酔春風】
蜂は満頭の香りをば引き起こし[57]
蝶は両翅の粉を翻す
これはもとより花売りの頭の上なる一枝春[58]の
蜂と蝶とを招きたるなり
招きたるなり
紅杏は香しく
碧桃はやうやく綻び
海棠は咲く
(言う)太守さまの花園に来た。いっしょにこれらの花を摘み、売りにいきましょう。幾朶かの桃を摘み、幾朶かの海棠を摘み、幾枝かの竹の葉を摘み、幾枝かの嫩らかき柳を摘んで、すべてこの花籃に置く。わたくしはとりあえず戻るとしましょう。
(趙汝州が会い、言う)三婆さん、どこへ行くのだ。戻っておいで。
(正旦が慌てる仕草、言う)ああ、びっくりした。秀才さまがこちらにいらっしゃったとは存じませなんだ。
(趙汝州)わたしの花を盗んでどちらへ行くのです。
(正旦)申し訳ございませぬ。
(趙汝州)竹の葉を摘んでどちらへ行くのです。
(正旦)お兄さん、この竹の葉を話題になさるとは思いませなんだ。(唱う)
【迎仙客】
びつくりし湘娥のごとき泪の痕あり
をかしなところで、われをな怒りたまひそね[59]
虚心に申さん おんみが何を損すべき[60]
ただ青き枝を折りしため
玉笋[61]をあはてて揉めば
おんみは根ほり葉ほり訊ねり
ああ
この葉も花の便りをば伝ふることなし
(趙汝州)わたしの桃花を摘んでどちらへ行くのです。
(正旦)桃花のことをお尋ねになるのなら、三婆も言うことがございます。(唱う)
【紅繍鞋】
笑ふに堪へたり 春風は幾陣ぞ
紅の雨は簾に紛紛たり
飄ふ香と流るる水は侘びしき村を巡りたり
われを招きて天台の路に上らしむれば
武陵の人に会ふを得り
ああ
阮郎さまがかやうに凶悪なりしとは[62]
(趙汝州)海棠を摘み、どうなさるのです。
(正旦)この海棠は愛すべきものでございましょう。(唱う)
【石榴花】
雨を帯び、臙脂の色はさらに新たに
うららけき春を彩る
麗しく、酒を帯び、ほのかに酔へるがごときなり
もしも夢にて
東君に遇ふことあらば[63]
この花はげにも風韻多からん
闌干に倚り、眠りは足りて精気あり[64]
高々と銀燭を焼き、争ひて窺ひしこともあり[65]
興なきがため、詩人を悩ましむることのあればなり[66]
【闘鵪鶉】
この花は鶯と燕を迎へ
蜂と蝶とを引き寄せり
美しきこと嫣紅[67]のごとくして
柔らかきこと膩粉のごとし
見よ園林はいづかたも春なれば
わたくしはひそかに笑へり
ああ、桂を折りし[68]書生が
花を盗みし女を許さざることのあらめやは
(趙汝州)楊柳を求めて何をなさいます。
(正旦)楊柳ならば、わたくしも言うことがございます。(唱う)
【快活三】
この柳は
ただ長亭の傍らで暗塵[69]に揺れ
陽関の外れにて、行く人を送りたるのみ
渭城の客舍に清しさを競ひつつ
わが旅の愁へをなかきたてそ
【鮑老児】
章台に招かれて、友とぞならん[70]
金色の柳の嫩かきうちに
水のほとりの閉ざしたる柴門に近づきて
むなしく五柳先生[71]を訪はん
穏やかな風は習習[72]
軽やかな雲は冉冉[73]
落つる柳絮は紛紛たり
(趙汝州)これらの花には、どのような取り柄があるのでございましょう。
(正旦)これらの花を、好まれることはございませぬ。わたしの話しをお聴きください。(唱う)
【十二月】
わたくしと海棠は最も親し
羨むは柳葉の眉を蹙むる[74]
喜ぶは桃花の火を噴く[75]
愛するは竹葉の雲にぞ似たる[76]
四つはすべて幾文の値もなきに
おんみはわれら貧しき民をいたく責めたり
【堯民歌】
百花園にて精気をばひけらかし[77]
ああ
花を惜しめる御身は花を売る者を咎めたまへり
春にしばしば花を買ふをな厭ひたまひそ
春がやうやく来たるかと思へばふたたび残春となり
繽紛と飛ぶ花は、緑の茵に満つるなり
東風を恨める人は幾ばくぞ
(趙汝州)三婆さん、わたくしは一瓶の花を持っていますが、お分かりになりますか。
(正旦)見せて下さい。
(趙汝州が花を取り、言う)こちらです。三婆さん、ご覧なさい
(正旦が見て、言う)幽霊だ、幽霊だ。
(趙汝州)三婆さん、この花を見て、なぜ幽霊がいるなどと仰るのです。おんみは何をご覧になった。
(正旦が唱う)
【乱柳葉】
この一瓶の花はわが魂を脅かしたりければ
悒悒として身を退けり
わたしの息子は青春の盛りにて
三十路にいたらざりけるに
その花により、病は身にぞ纏ひたる
これぞまさしく災の星の入れるなる
(趙汝州)かように慌てていらっしゃるのはどうしてですか。
(正旦)花を売るのが遅れますから、明日来てお話ししましょう。
(趙汝州)三婆さん、とりあえず行くのはやめて、わたくしに話しをなされよ。
(正旦)お話ししますが、怖がらないで下さいまし。
(趙汝州)どうぞどうぞ、わたしは恐くありませぬから。
(正旦)この花園がどなたのものだと思われますか。
(趙汝州)太守さまの花園でしょう。
(正旦)違います。王同知さまの花園です。王同知さまにはお嬢さまがあり、その花を見るために、この花園を造ったのです。春になり、たくさんの花が咲きますと、塀の中では一人の佳人、塀の外では一人の秀才が、四つの瞳で見つめ合い、春の心を抱きましたが、夫婦の縁を結ぶは適いませんでした。娘は家に行きますと、寝たきりとなり、恋の病で亡くなったのでございます。娘の親は、娘と離れるに忍びず、花園に娘を埋めたのですが、娘の霊は散じることなく、怨みは消えず、一本の樹となって、紅梨の花を咲かせたのです。娘の霊は、近頃は若い男に纏わりついておりまする。秀才さま、わたくしを誰だと思し召されます。
(趙汝州)花売りの三婆どのでしょう。
(正旦)わたくしは李府尹の妻なのでございます。わたくしの一人息子の李秀才は、城内が賑やかで、勉強をする場所がなかったために、王同知さまの花園を借り、勉強していたのでございます。勉強をしておりますと、一更は何事もなく、二更も静かでございましたが、三更前後になりますと、一陣の怪風が起き、花か玉にも似た娘が、わたしの息子と四つの瞳で見つめ合い、それぞれ春の思いを抱いたのでございます。ともに書斎の中に行き、幾杯かお酒を飲むと、娘は去ってゆこうとし、秀才にこう言いました。「何も持ってはおりませぬが、明日の晩、一樽の酒、一瓶の花を、おんみへの返礼と致しましょう」。次の日の晩、息子は娘を待ちました。一更は何事もなく、二更は静かだったのですが、三更前後に、娘は一人の梅香を連れ、一樽の酒、一瓶の花を持ち、わたしの息子に返礼をいたしました。書斎では詩詞歌賦を作りました。お酒を飲んでいますと乳母に見付かったため、娘はそのまま去りました。息子は娘が幽霊であるとは知らずに、書斎の中で寝たきりとなり、恋の病で死んだのでございます。娘の顔と出で立ちを、お聴かせしましょう。(唱う)
【上小楼】
娘はとりわけ新しき出で立ちをして
八字の眉は生まれつきなり[78]
口は桜桃をば吐きて[79]
眼は秋波をば転じ
鬢は烏雲を束ねたり
娘にはくさぐさの麗しさあり
秀才さま
話しをすればわたくしの心は愁へり
(趙汝州)だんだんとわたしも恐くなってきました。
(正旦)ああ、幽霊です、幽霊です。(唱う)
【幺篇】
幾陣かの旋風が吹き
幾縷かの塵を巻き上ぐ
これぞまさしくかの娘の
わが息子にぞ纏ひたるなる
性悪しき怨霊なれば
こなたにて、今度はわたしに、近付かんとす
五千たびなんぢを桃棍[80]にてぶたん
(趙汝州)三婆さん、仰ってくださらなければ、わたしは気付きませんでした。ほんとうにびっくりしました。(趙汝州が旦を引きとめる)
(正旦)わたしは帰るといたしましょう。
(趙汝州)この花園は穢れているから、ここでわたしに付き添っていて下さい。
(正旦)花を売ることができなくなってしまいます。(唱う)
【煞尾】
わたしの息子は一年来、托生できず
秀才さま
秀才さまは三更に幽霊に遭ひたまひしが
わたしの息子は三年の間 誰にも尋ねられしことなし
(言う)ああ、まずはよかった。
(唱う)
おんみはすでに安全ぞ[81](退場)
(趙汝州)三婆は行ってしまったぞ。張千よ、何ゆえやってこなかったのだ。
(張千が登場、言う)秀才さまを探すため、書斎へ行っていたのです。(会う)
(趙汝州)張千、知事さまはいずこにおわす。
(張千)知事さまは郊外へ勧農をしに行かれました。
(趙汝州)知事さまはおまえに何か仰ったかな。
(張千)知事さまは行かれる時に、公務が忙しいために、当分帰ることはできぬと仰いました。品物を残されて、趙さまにお渡ししろと仰いました。花銀二錠、春衣一套、全副の鞍馬一頭でございます。
(趙汝州)かような物をいただいたなら、張千よ、くれぐれも知事さまによろしく申し上げてくれ。わたくしは今日すぐに上京し、受験するとな。
(張千)知事さまは、秀才さまの出発が遅れたら、知事さまが戻ってきたとき、おんみとお別れしようとも仰いました。
(趙汝州)あの人を待たぬことにしよう。
(詩)
兄に別れを告げずとも罪にはあらず
ひとへに奥の花園に居ることの難ければなり
紅梨の花の下にかの娘が来なば
李家の息子の二の舞にしぞなりぬべき
第四折
(太守が張千を連れて登場、言う)わたしは劉公弼。去年、弟の趙汝州が訪ねてきたが、その後、別れを告げずに去った。はからずも、本年は、答案を書き、合格し、状元となり、この洛陽の県令に任命された。わたくしの属官だから、今日はわたしに会いにくる。部下よ、酒の肴を調えよ。そろそろやって来るだろう。
(趙汝州が登場、言う)満腔の詩書、七歩の才、綺羅衫袖は香はしき埃を払へり。今では坐して逍遥の福を受くるも、書を読まざりせばいづこより来たるべき。
わたしは趙汝州。京師に来てより、首巻[82]を書いて、状元に及第し、洛陽の県令に任命された。本日は太守さまに会いにゆくのだ。はやくも着いたぞ。部下よ、取り次げ。新しい県令が会いにきたとな。
(張千が取り次ぎをして、言う)新しい県令さまが知事さまに会いにこられました。
(太守)お通ししてくれ。
(張千)お入りください。(会う)
(太守)功名を手に入れられたは、慶ぶべく、賀すべきことだ。張千よ、花園の亭を片付け、酒肴を並べ、県令どのの旅路の労をねぎらおう。
(趙汝州)もう一度お気遣いいただくわけにはまいりませぬ、先ほど役所でお酒を数杯飲みましたから。
(太守)ふたたび飲んでも構いますまい。まいりましょう。
(趙汝州が行き、太守が引く仕草、言う)酒をもて。この杯をどうか飲まれよ。
(趙汝州)もう十分です。酔いました。(眠る)
(太守)県令どのは眠ってしまった、張千よ、妓女を呼び、かしずかせるのだ。
(張千)妓女たちよ、こちらへ来るのだ。
(正旦の謝金蓮が登場、言う)知事さまがわたくしを呼ばれましたは何ゆえでございましょう。
(太守)扇子を手にし、一枝の紅梨花を折り、扇子に挿して、県令どのを扇ぐのだ。粗相のないよう。
(正旦)承知いたしました、
(太守が退場)
(正旦)わたくしの趙汝州さまはいずこにいらっしゃるやら。(唱う)
【双調新水令】
紅梨花は麗らかな日にまた咲けど
かの人の顔を見るなし
そのむかし 樽前に歌ふこと宛転として
席上に舞ふさまは蹁躚たりき
絲竹を奏づることを忘れて
宴に侍することを望まず
【沈酔東風】
かの美しき若者のことを思へり
月の下、花の前にてともにあり
繍の衾をともにすることはなかりしかども
羅の薦をともにすることはなかりしかども
二人は詩酒もて慕ひ合ひたり
本日は軽紈[83]の小扇を持ち、宴に出づるも
これはわが願ひにあらず
(張千)知事さまのご命令だ。しっかり扇であおぐのだ。
(正旦)これなる扇は、(唱う)
【雁児落】
愛すべき丹青の面[86]
清風は手より生じて
皓月は胸に現はる[87]
【得勝令】
ああ
いづれの時に班女の冤みを雪ぐべき[90]
十年の間、寒窓にありたることの徒にはならで
ただかの人の清き名の四海に伝はることを願へり
ああ
天よ天
天は人にぞ便宜を与ふる
我はこなたでそつと扇げり
汝は愚かなる若き状元
(言う)一枝の紅梨花を、扇に挿せり。(花を扇に挿す仕草)
(趙汝州が見て驚く仕草、言う)幽霊だ。幽霊だ。女め、おまえは妖怪変化だろう。後ろに下がり、近くに寄るな。
(正旦)御身は趙汝州さま。
(趙汝州)おまえは幽霊。
(正旦が唱う)
【掛玉鈎】
春風に相逢ふも、いと憐れなり
有情の人は多情の愛を得るものと思ひたりしが
知らざりき、別れし後に、いささかも気に掛けたまふことのなしとは
梨花の顔をば忘れ
寄るなかれ
遠ざかれとぞ言へるなる
かやうに酔眼模糊として
ものをや忘れたまひたる
(趙汝州)花売りの三婆は、おまえが幽霊なのだと言っていた。真っ昼間なのに出て来るとは、ほんとうに恐ろしいこと。
(正旦が唱う)
【川撥棹】
英賢にやうやく会へど
われを幽鬼とぞ言ひたまふ
かの人は驚きて対面すれども言葉なく
痴れたるがごとくしたまふ
あたふたと体を揺らし
かの張天師も手を下す術ぞなからん
【七弟兄】
別れて一年、二年にさへならざるに
怨みは綿綿、語り尽くせず
裏切り者にこの地にてふたたび会へり
初めて逢ひし日、われを蕊珠仙のごとく思ひたまへど
今日はわれをぞ駆邪院[91]に送らんとしたまへる
【梅花酒】
ああ
われはこの状元をいたく恨めり
われはもともと画閣の嬋娼[92] なりけるに
なにゆゑぞ鬼魅の相纏へりと言ひたる
本日は口はあれども言ひ難し
わが衣には縫ひ目あり
身には影あり
おそらく御身は情なく、われに縁はなかるべし
双方はともに茫然
扇のごとく団円するこそ難からめ[93]
(趙汝州)それは紅梨花ではないか。おまえの墓場の物であるのは存じておるぞ。つき纏うな。明日になったら善行をして、おまえを済度すればよかろう。
(正旦が唱う)
【収江南】
ああ
なにゆゑぞ、一春つねに、花を買ふ銭を費やしたりしなる
色胆は大いなること天のごときも
活きたる人を無理やりに死したる人の纏へりとなす
逢ふも徒なり
いづれの時にか 笙歌を奏で 画堂の前に至りなん
(太守が登場、言う)県令どの、何を慌てていらっしゃる。
(趙汝州)こちらの女は鬼魅妖精です。
(太守)貴殿はまったく知らぬのだ。わしの話を聴くがよい。はじめ貴殿が手紙を寄こし、謝金蓮に会おうとしたとき、謝金蓮は妓女だった。わたしは貴殿が煙花に迷い、進取の心を衰えさせることを恐れた。それゆえに張千に命令し、謝金蓮が嫁いでいったと言わせたのだ。貴殿が奥の花園の書斎に泊まっていたときに、わたしはひそかに女に命じ、花を摘むふりをさせ、貴殿に会わせた。その女とは他でもない、謝金蓮だったのだ。姓名を隠させて、偽って王同知どのの娘だと言わせたのだ。その後、三婆に命令し、女は幽鬼で、あの人の子を死なせたと言わせたのだ。それゆえに貴殿は驚き、別れも告げずに立ち去ったのだ。わしはかの女の名前を楽籍[94]から除き、ほかの屋敷に置いたのだ。今日は貴殿がやって来たので、貴殿にかしづかせたのだが、謝金蓮だと気付かないとは。どういうことか。
(詩)
佳人に別れてまた一年
今日こそは、二人を団圓せしめたれ
この人は、下方[95]にて幽鬼となりし同知の娘にあらずして
これぞまさしく、妓女の謝金蓮なる
(趙汝州)兄じゃ、わたしを瞞されたのですね。
(太守)今日は吉日、この席上で、なんじら二人を結婚させよう。
(正旦が趙汝州と一緒に謝する仕草)知事さま、有り難うございます。(唱う)
【水仙子】
わたくしは洛陽城の謝金蓮
白襴[100]を脱ぎ、紫綬を着け
従者も昇進するを得ん
劉公弼は機略を用ゐたりしかど
趙汝州はひとへに恋慕し
つひには紅梨の花により、縁を結べり
最終更新日:2010年11月24日
[1]寒空に鳴く蟋蟀。
[2]郭公の異名。農耕を勧める鳥とされる。杜甫『洗兵行』「田家望望惜雨干、布穀處處催春種」。
[3]「布を織ったり、田を耕したりすることは家庭や国家にとって大切なこと。これらのことをしない人には、布織りを促す蟋蟀や、耕作を促す郭公の心は分からない」という趣旨。
[4] 科挙のこと。
[5] 教養のこと。
[6]原文「何事偏生愛少年」。嫦娥が不死の薬を盗んで月に逃げたことをいうと思われる。「少年」はここでは若年、さらにいえば不老不死のこと。『淮南子』覧冥「羿請不死之藥於西王母、嫦娥竊以奔月」。
[7]散る花をいう。
[8]原文「香襯凌波襪」。「襯」が未詳。とりあえず「なじむ」と訳す。なお、「香」は落ちた花の香りであろう。
[9]原文「黄昏啼殺後棲鴉」。「後棲鴉」が未詳。とりあえず「塒に遅れし鴉」と訳す。
[10]原文「花穿曲徑」。どういう情況なのか分かりにくいが、曲がった小道に花が咲いているさまの意に解しておく。
[11]原文「草接平沙」。「平沙」は平らな砂地。庭の描写をしていたのに、砂地が出てくるのは唐突な感じがするが、押韻の関係上、この語を使ったものであろう。
[12] 『成都記』「司馬相如初西去過昇仙橋、題柱曰、不乗後車駟馬、不過此橋」。
[13]未詳。呉融は唐の人。
[14]原文「有李白一封書嚇的南蠻怕」。明代の『警世通言』に「李謫仙醉草嚇蠻書」があるが、その原話は未詳。
[15]原文「他那里無言指落花」。落花は「落花媒人」のことで、仲立ちのことであろう。とりあえず、このように理解しておく。
[16]酒をいう。李商隠『武夷山』「只得流霞酒一杯、空中簫鼓幾時回」。
[18]仙女をいう。李白『玉真仙人詞』胡震亨注「玉真公主、睿宗女、太極元年出家為道士、築觀京師以居」。ここでは謝金蓮を喩える。
[19]香積飯とも。仏家の斎食をいう。
[20]胡麻は不老長生の仙薬として、道家で珍重される。『抱朴子』仙藥「巨勝一名胡麻、餌服之不老、耐風濕補衰老也」。
[21]原文「這早晩二更過、初更罷」。「這早晩」は襯字。二更と初更の順序が逆になっているのは、平仄の関係。【賺煞】は最初の文字を仄声にしなければならない。
[22]晋の謝安のこと。東山に隠居したため謝東山ともいう。
[23]海や山のようにいつまでも心を変えないという誓い。
[24]玉のような細い指。
[25] ともに男女の密会をさす。
[26] 「鴛鴦枕」が未詳。ただ、鴛鴦を刺繍した枕であろう。
[27]原文「待道是海棠呵、杜子美無詩興」。杜甫が海棠の詩を作っていないことをいったものか。
[28]後漢の人、劉晨とともに天台山に迷い込み、仙女と会った話が『太平御覧』の引く『幽明録』に見える。
[29]原文「若是桃花呵、怕阮肇卻早共你爭」。「共你爭」というのがどういうことなのかよく分からない。
[30]臘梅に同じ
[31]原文「那里討墻外誰家鳳吹聲」。郎士元『聴隣家吹笙』「鳳吹聲如隔綵霞、不知墻外是誰家。重門深鎖無處尋、疑有碧桃千樹花」。「鳳吹」は笙の音をいう。『文選』呂延済注「鳳吹、笙也。笙體似鳳故也」。
[32]原文「休猜做枯枝杏」。「枯枝杏」が未詳。
[33]草木や花が輝くさま。宋玉『高唐賦』「煌煌熒熒」李善注「煌煌熒熒,草木花光也」。
[34]原文「且休説四季牡丹亭」。「四季牡丹亭」が未詳。
[35]梨の花が白いことをいう。
[36]紅梨が紅い花を咲かせることをいう。
[37]原文「羞睹紅脂睡海棠」。「紅脂睡海棠」が未詳。海棠が臙脂のように紅いことをいったものか。それを見るのを羞じる主体が何なのかも未詳。なぜ羞じるのかも未詳。
[38]原文「換却氷肌玉骨胎」。「氷肌玉骨の胎」は梨の花が本来白いことをいっていよう。
[39]梨の紅い花蘂をいうのであろう。
[40]武陵溪は桃源郷のあるところ。前二句の趣旨:武陵渓の人よ、紅梨の花があまりに美しく香しいので、桃の花も開かなくなってしまうだろうと言うことはありません。
[41]原文「酒斟金瀲灩」。「金瀲灩」は酒がきらきら輝くさまをいったものか。
[42]原文「花列玉娉婷」。「玉娉婷」は花が玉のようであるさまをいったものか。四句前でも、花を玉に喩えている。
[43]原文「我剔的這燈焰兒光、那的這花瓶兒正」。「那」は「挪」に同じであろう。
[44]玄宗の時代、楊貴妃が寵愛されると、後宮の美女は上陽宮に移された。上陽の花は美人をいう。白居易『上陽白髪人』序「天寶五載已後、楊貴妃專寵、後宮人無復進幸矣、六宮有美色者、輒置別所、上陽其一也。貞元中尚存焉。」。
[45]短い燭台。
[46]光るさま。『文選』李善注「耿耿、光也」。
[47]涼しく清いさま。宋玉『風賦』「清清泠泠」李善注「清清泠泠,清涼之貌也。」。
[48]原文「直吃的碧桃花下月三更」。「直吃的」が未詳。
[49]原文「嬤嬤夫人」。「夫人」は貴人の妻をいうので、これは乳母を持ち上げた言い方。
[50]原文「佳期漏泄無幹淨」。「無幹淨」が未詳。とりあえず「良きことなし」と訳す。
[51]北斗七星の一部、北斗七星第五干しの北にある、二つの星をいう。『春秋元命苞』「玉衡北兩星、為玉繩」。
[52]澄みきったさま。
[53]原文「這里不比十二瑤臺獨自行」。「十二瑤臺」は崑崙山の傍らにあるとされる、五色の玉で作られた台。『拾遺記』「崑崙山傍有瑤臺十二、各廣千歩、皆五色玉為臺基」。
[54]模様のついた銀塊。明王佐『新増格古要論』銀「銀出閩、浙、兩廣、雲南、貴州、交阯等處山中、足色成錠者、面有金花、次者拷ヤ、又次者K花、故謂之花銀」。
[55]馬具一式をつけた馬一頭。
[56]底の浅い籃。
[57]原文「這蜂惹的滿頭香」。蜂が飛び交うことによって、華が香りたつことをいうか。未詳。
[58]梅花をいう。『太平御覧』巻九百七十引『荊州記』「陸凱與范曄相善、自江南寄梅花一枝、詣長安與曄、並贈花詩曰、折花逢驛使、寄與隴頭人。江南無所有、聊贈一枝春」。
[59]原文「你休節外把咱嗔」。「節外」がよく分からないが、「本題と関係のないところで」の意であろう。すなわち、花を盗んだことを咎めていたのに、急に竹のことを咎めたのでこう言ったものであろう。また、次の句に出てくる「虚心」などと同じく、「竹」という言葉の縁語として「節」という言葉を用いているという面もあるのであろう。
[60]原文「虚心兒告他折了你甚本」。
[61]玉の筍。美人の指をいう。三婆の指をいうのは変だが、これも竹からの連想による措辞であろう。
[62]阮郎は阮肇のこと。天台山武陵渓の桃源郷に遊び、仙女と逢った話が『幽明録』に見える。ここでは、趙汝州を阮肇に喩える。
[63]原文「若是他夢魂、遇着東君」。東君は春の神。春が来ればの意。
[64]原文「倚欄杆睡足精神」。蘇軾『寓居定惠院之東、雜花滿山、有海棠花一株、土人不知貴也』「林深霧暗曉光遲、日暖風輕春睡足」。
[65]原文「也曾高燒銀燭爭窺認」。蘇軾『海棠』「東風嫋嫋泛崇光、香霧霏霏月轉廊。只恐夜深花睡去、高燒銀燭照紅妝」。
[66]原文「則為他無興上惱了詩人」。「則為・他・無興上・惱了・詩人」と区切れるのだろうが、「無興上」が未詳。とりあえず、こう訳す。前注で引いた、蘇軾の『海棠』詩にある、「花睡去」という状態をさすか。
[67]鮮やかな紅。
[68]科挙に合格することをいう。科挙に合格することは月中の桂樹を折るように難しいことであるため。
[69]目に見えぬ塵。蘇軾『大寒歩至東坡贈巣三』「春雨如暗塵」。『漢語大詞典』暗塵に「积累的尘埃」とあるは誤り。
[70]原文「我待請去章臺上做箇故人」。「章台」は長安の花柳街の名、唐許堯佐『柳氏伝』の中で、韓翃が安史の乱により離れ離れになった寵姫柳氏に「章台柳、章台柳、昔日青青今在否」という詩を送った故事は有名で、「章台」といえば柳が連想される。「請去」を受身に解釈し、とりあえずこのように訳す。
[71]陶淵明『五柳先生伝』に出てくる人物。柳からの連想による措辞。
[72] 『詩経』邶風・谷風・毛伝「習習、和舒貌」。
[73] ゆっくりと動くさま。
[74]原文「羨的是柳葉眉顰」。実際に意味があるのは「羨的是柳葉」まで。「眉顰」は「柳葉」からの連想によるつけたし。押韻の必要で、「顰」の字を使っているという面もある。
[75]桃の赤い花が咲いているのを、火を吹いているのに喩えたもの。
[76]竹の葉を雲に喩えた先例を知らないが、これも押韻の必要で、「雲」という字を使っているのであろう。
[77]原文「你去那百花園内逞精神」。「逞精神」が未詳。意気盛んに人を咎めるという意味であると解釈しておく。この場所は押韻しなければならないので、措辞に無理があるか。
[78]原文「眉分八字真」。「八字眉」は眉の描き方の一つ。唐宇文士及『妝台記』「漢武帝令宮人掃八字眉」。「真」が未詳。とりあえず、こう訳し、天生の八字眉という意味に解しておく。ここは押韻をする必要があるので、無理に言葉を入れているか。
[79] 口が桜桃のようだということ。
[80] 「桃棍」という言葉を知らぬ。だが、桃の木で作った棍棒のことであろう。
[81]原文「可早有替代你的生天路兒穩」。「可早・有・替代・你・的・生天路兒・穩」と区切れるのだろうが「生天路兒」が未詳。「生きる道」「生きる見込み」ぐらいの意味か。「あなたのための、生きるための道が、しっかりと出来上がりました」。とりあえずこのように訳す。
[82]首席合格者の答案。
[83]薄い練絹。
[84]月影。
[85]原文「堪宜桂影圓」。未詳。扇の丸い形を月に喩えたものか。
[86]原文「可愛丹青面」。未詳。扇の表面に絵が描いてあることをいったものか。
[87]原文「皓月當胸現」。未詳。胸のところで扇を持っているさまをいったものか。
[88]陶淵明。彭沢県令だったので、陶令という。
[89]酔っている客を陶淵明に喩えたものであろう。
[90]原文「幾時得豁這班女腹中恨」。「班女」は班婕、。漢の成帝の妃で、帝の寵愛を失い、『秋扇賦』を作ったとされることで有名。この句は、その故事を踏まえ、趙汝州に棄てられた我が身を班婕、に喩えたもの。
[91]原文「你今朝送我到驅邪院」。「駆邪院」という言葉を知らない。お祓いをする場所のことか。「院」は押韻のためにつけた言葉で、取り立てて意味はあるまい。
[92]美しい妓女。
[93] ここでいう「扇」はもちろん丸い扇のこと。句は「扇のように丸く収まるのは難しい」の意。
[94]妓女の名籍。
[95]下界。人の世をいう。
[97] 「簪帽」という言葉を知らないが、文字通り、簪、帽子のことであろう。
[98]玳席、玳宴などとともに、詩文によく出てくる言葉だが、具体的にどのようなものなのかは未詳。鼈甲で飾り立てた豪華な宴席か。
[99]宋代、進士合格者に、天子が瓊林苑で賜わった宴のこと。『宋史』選挙志一科目上「八年、進士、諸科始試律義十道、進士免帖經。明年、惟諸科試律、進士復帖經。進士始分三甲。自是錫宴就瓊林苑」。