楔子

(冲末が劉天祥、搽旦が楊氏、正末が劉天瑞、二旦が張氏に扮して、子役ともに登場。)(劉天祥の詩)

白雲は朝な朝なに空を馳せ

青山は日に日に閑たり

暮らしを立つる才はなく

家を起こすは難しと思へり

わたくしは汴梁西関外の者、姓は劉、名は天祥。妻は楊氏で、弟は劉天瑞、義妹は張氏。わたしには子供はなく、弟の天瑞に男児があるのみ。年は三歳、安住と呼びなされたり。以前娶りし妻は亡くなり、これなる妻は後から娶りしものにして、丑哥てふ、一人の娘を連れてきたれり。わが弟は李社長[1]ととても親しく、指腹して婚をなし、李社長の定奴てふ、三歳の娘を得たり。かれら二人はわが親戚(うから)なり。このたびは、六料[2]の収穫のなきがため、お上の命で、口減らしのため、別居することとなりたり。弟よ、先祖の残しし財産を守るべし。われら二人は他国に行きて、豊かな土地を求むべし。

(搽旦)われら二人は年老いたれば、行くことはできませぬ。

(正末)兄上さまと義姉上(あねうえ)さまは、先祖の残した財産をお守りください。わたしと妻は安住を連れ、豊かな土地を求めることといたしましょう。

(劉天祥)それならば、李社長を呼んできてくれ。

(正末)呼びにゆきましょう。(呼び、言う)

李さんはいらっしゃいますか。

(社長が登場、言う)どなたが呼んでらっしゃるのかな。この門を開けてみよう。劉さんでしたか。何のご用でございましょう。

(正末)わが兄が呼んでおります。(会う)

(社長)劉さん、わたくしを呼ばれましたは、口減らしのため別居をなさるからでしょう。

(劉天祥)その通りです。凶年のため、暮らすのが難しいので、今、弟の一家三人(みたり)は、豊かな土地を求めてゆこうとしているのです。昨日は証文を二枚作り、所有する田地、財物、建物は、すべてこの文書に記し、分かたぬことといたしました。弟が二三年で戻ればそれでよろしいのですが、五年十年で戻った時は、こちらの文書が証明となることでしょう。そこでわざわざ李さまをお呼びし、証人となっていただくのです。どうか署名をなさってください。

(社長)引き受けました。

(劉天祥が読み上げ、言う)東京西関義定坊、住人は劉天祥、弟は劉天瑞、幼き甥の安住は、六料の収穫なきため、お上の命を奉り、口減らしのため別居して、豊かな土地を求むることと相成れり。弟の劉天瑞は自ら子を連れ、他郷にゆきて豊かな土地を求むることを願ひたり。一切の財産田地は、分かたずに、今、証文二枚を作り、それぞれが一枚を手元において証拠となせり。文書をば作りし人は劉天祥と実の弟劉天瑞、証人は李社長なり。

(社長)書けたから、署名しましょう。それぞれ保管なさってください。(署名をする)

(正末)証文ができたからには、今日が吉日、兄上と義姉上(あねうえ)に別れを告げて、息子を連れて、長の旅路につくとしましょう。李さん、わたくしは旅に出ますが、収穫の時に戻ってまいりますから、この縁談を保たれて、わたくしが戻ってまいりましたとき、結婚を成就なされてくださいまし。

(劉天祥)弟よ、旅路では、家にいる時とは違うぞ。くれぐれも気をつけるのだぞ。便りがあれば、頻繁に手紙を寄越してわたしが心配せぬようにしておくれ。

(正末)兄上、安心なさってください。では、わたくしはまいります。(唱う)

【仙呂賞花時】

二枚の文書をそれぞれ收め

一日離れば憂へは果てなし

故郷を辞して

他郷に赴く

ただ田の苗の実らざるため

心は去りて留まり難し

(正末、二旦、子役がともに退場)

(劉天祥)李さん、弟は行ってしまいました。お手を煩わせましたが、家は貧しく、おもてなしするはかなわず、申し訳なく思うております。

(社長)そうなさるには及びませぬ。わたしは帰るといたしましょう。これぞまさしく「将軍は馬から下りず、それぞれがわが道を行く」。

(ともに退場

第一折

(外が張秉彝に扮し、旦の郭氏とともに登場)

(張秉彝)わたしは潞州高平県下馬村の者、姓は張、名は秉彝なり。妻は郭氏で、二人家族。男児と女児はともになけれど、いささかの田宅あり。劉天瑞といふ者が、東京で六料の収穫なきため、口減らしのため別居して、これまた張氏といふ妻を最近こちらに連れてきたれり。安住といふ息子は今年三歳にして、生まれつき目鼻の清げな、良き子なり。わたくしは劉天瑞が読書人なるを見て、わが宿屋にぞ留めたる。しかれども、かの者の運は拙く、誰か想はん、二人して病に罹り、一たび臥して起くることなし。宿の小僧は病はまことに重しといへり。妻よ、いづこも善を積む場所なれば、おまえの古着を二着と、わしの古着を二着持ちきたり、二人の様子を見にゆかん。(ともに退場)

(宿の小僧が登場、言う)わたしは宿の小僧なり。こちらは張秉彝さまの宿なり。三人の、豊かなる土地を求むる者たちが、この宿にきて泊まりしが、そのうち二人は(いたつき)となり、日一日と重くなりたり。人々はわたしを貧乏なりといへども、かれらはわたしよりも貧しく、(くすし)を迎へ、薬を飲むは言ふに及ばず、半片の服、半碗の食事もなければ、いかでこの(いたつき)を癒すべき。介添へをして外に出し、顔色を見ることとせん。ああ。哀れやな。おそらく死んでしまふべし。

(正末が二旦、子役とともに登場、言う)わたしは劉天瑞、兄上と義姉上のもとを離れて、潞州高平県下馬村の張秉彝員外の宿屋に泊まれり。員外からは十分な厚意を受けて、よそ者と見なされしこともなし。いかんせん、運は拙く、(いたつき)となり、臥したきり起くるはかなはず。妻よ、いかがせばよかるべき。

(二旦)われらの病は、天を見るには遠くして、地に入るのには近ければ、助かることはござるまじ。

(正末が唱う)

【仙呂点絳唇】

わが妻は耐へ

主人は便宜を与へたり

名残を惜しみ

明くる年まで泊まらせんとす

誰か想はん 天は人の願ひをば叶へざるとは

【混江龍】

故郷を離れて虐げられて

無理をしてこの(いたつき)と相成れり

わが妻はかいがいしくも刺繍(ぬひとり)

わたしはすすんで耕作をせり

わが妻は隣家の灯りをたよりにし、晩には糸を紡ぎたり

わたしは風と霜を冒して暁の田を耕せり

甘んじていささかの飢ゑ、寒さ、苦しみに耐へたれど

進退の窮まりたるにいかで耐ふべき

今、わが妻は(いたつき)となり

幼子も身にぞ纏へる

故郷(ふるさと)を見返れば路は遥けく

兄嫂(あにあによめ)は老年なれば

げに我が心を乱れしむ

相見ゆるは難くして

故郷(ふるさと)を離れしことも徒にして

一文なしとぞ相成れる

(二旦が正末に証文を与え、言う)亭主どの、わたくしの拙い命は、もうおしまいです。この証文を受け取ってくださいまし。お大事に。(二旦が死ぬ)

(張秉彝が登場、言う)はやくも宿に到着したぞ。ご客人、ご病気はいかがですかな。

(正末に会い、言う)ああ、奥さまが亡くなられたのですか。奥さまを野辺送りするお金はお持ちか。

(正末が唱う)

【油葫蘆】

思へば贈る物もなくお金もなし

天よ苦しや

財産を享くること二十年(はたとせ)なれど

柩に敷ける古莚(ふるむしろ)もなく

骸を包む美しき衣さへなし

(張秉彝)ご客人、悲しまれますな。わたくしがすべてご用意いたしましょう。

(正末が唱う)

員外さまのお恵みに謝し

員外さまの憐れみにしぞ感じたる

(言う)員外さまがいらっしゃらねば、

(唱う)

人も(たから)も散りはてて

親戚にお願ひせんとも

一本の(たるき)を与ふる人もなからん

(悲しむ)(唱う)

【天下楽】

妻よ

なんぢの運命(さだめ)の逃れ難く わたしの運命(さだめ)の窮まりたるは何ゆえぞ[3]

そのかみのことを想へば

これもまた宿世の(えにし)

重孝[4]を着ず軽孝[5]を着く

なんぢの恩と情を想へば

なんぢの貞と賢を想へば

甘んじてなんぢとともに霊車に乗りて

若死にを哭かんとぞせる[6]

(張秉彝)宿の小僧よ、人に命じて、奥さまを担いで城の外に行き、高い所を選んで、きちんと埋めてくれ。

(担いで退場)

(正末)員外さま、わたしもあれを送るとしましょう。

(張秉彝)あなたは病人なのですから、送れますまい。お送りにならずともよろしいでしょう。

(正末が悲しみ、言う)妻よ、おまえのために。(唱う)

【那吒令】

(たま)を鎮むる優しき言葉を(とな)へ得ず

買路(ばいろ)の紙銭[7]を焼くを得ず

(張秉彝)わたくしが代わってお送りいたしましょう。

(正末)お手数をかけるわけにはまいりませぬ。

(唱う)

人に(わざはひ)せし業冤(こひびと)を放つておけず[8]

一片の心はいらいら

二本の腿はぶるぶるとして

あたかも熱き地の上の蚰蜒(げじげじ)にしぞ似たるなる

(歩く)

(唱う)

【鵲踏枝】

やつとの思ひで身を起こし、霊柩のかたへに行きて

みづから野辺に送り出ださんとすれども

体は覚えずして顫へ

眼はかすみ、頭はくらくら

一歩進めば早くものけぞる

(正末が倒れる)

(唱う)

ああ

一声叫べば天地はひつくり返りたり

(言う)員外さま、一言申してよろしいでしょうか。

(張秉彝が支え、言う)何でしょう。お話しくだされ。

(正末)わたくしは東京義定坊に住み、兄は劉天祥といい、わたくしは劉天瑞ともうします。六料の収穫がなかったために、お上の命を奉り、口減らしのため、別居したのでございます。兄は先祖の財貨を守り、わたしたち三人は豊かな土地を求めてこちらにやってきました。その昔、二枚の証文をば作り、兄は一枚、わたくしは一枚を手元において、もしものことがあった場合は、これを証しとすることになっております。員外さまには何とぞ広く陰徳をお積みになって、劉安住を育て上げられますように。この証文を手に取られ、劉安住に言い含め、われら二体の遺骨をば、先祖の墓に葬らせれば、わたくしは来生にて、驢馬となり馬となり、員外さまに報いることといたしましょう。どうか息子の本姓をお忘れになりませぬよう。(唱う)

【柳葉児】

お上のために逼られて

収穫はなく、千里に煙なしとこそ言はれけれ

食べるため別居して、口を減らして

家族を連れて

財産を棄て

生き抜かんことを図れり

(張秉彝)あなたのすべての財産が、この証文に記されているわけですね。

(正末が唱う)

【青哥児】

一枚の証文なれど

一家の田地建物をしぞ記したる

こはわたくしが故郷に帰る証しなり

いまだ黄泉路に赴かざれば

徳高き人に言ひ含むべし

息子が大人となりなん時に

証文をお渡しになり、保管させたまへかし

顛沛流離せんとても

川の源、木の根をな忘れしめそね

これぞまさしく 御身の植ゑし徳は果てなく

天も照覧したまはん

(張秉彝)分かりました、ご子息が成人されたら、証文をお渡しし、ご実家にお還ししましょう。

(正末)員外さま、わたしの息子は、(唱う)

【寄生草】

今、三歳

成長するまで幾年(いくとせ)もあり

正しき心で育まれ、誠の心で導かれ

慎み深く人に善くすることをば教へたまへかし

幼きときには従順で、青年となり心を変ふるをお許しになりませぬやう

天地のごとく厚きご恩は、死すとも忘れじ

員外さま、憐れと思ひたまへかし

父母(ちちはは)のなき幼子を

(張秉彝)ご客人、しっかりとなさってください。すべてわたしが引き受けました。ご依頼に決して負きはいたしませぬ。

(正末)員外さま、わたくしはもういけませぬ。わたしを支えて表の間へとお行きください。(支える)

(正末が唱う)

【賺煞尾】

病勢まさに篤ければ

消しがたき苦しみにいかで堪ふべき

程なく喪車[9]の後を追ひ

やがて他郷に客死して、誰にか祀らるることあらん

(言う)息子よ、もしも成人したら、(唱う)

父母の遺しし言葉に負くことなかれ

遺骨を持ちて梁園[10]に行き

わが父祖の(はか)の前

古樹林峰のよき奥津城に埋むべし

員外さま

御身はすなはち我が三代の祖先なり[11]

六親眷族さへもなく

二つの家の人々の団円するを得ざるを憐れと思し召せ

(退場)

(張秉彝)まことに憐れなることなり。かれら三人(みたり)はわがもとへ来たれども、二人の親はいずれも死にて、これなる子供のみが残れり。三歳(みつつ)になりしばかりにて、親戚(うから)もなければ、我が家に留めおき、成人せしめん。故郷に帰らせ、伯父伯母に目通りをさせ、一家をば団円せしめ、久しく忘れしことのなき心を示さん。

(詩)

二人は死してまことに憐れ

残されし子はいまだ幼し

成人せし後

骨肉を再び団円せしむべし

(退場)

第二折

(張秉彝が旦とともに登場、言う)劉天瑞夫婦が亡くなり、はや十五年、安住は生い立ちて、十八歳、人はみな張安住と呼びなせり。安住はわたしの息子ならざることを知るすべもなし。幼きときより書を読ませれば、今や村童たちを教へり。時しも清明節なれば、墓に行き、紙銭を焼くとき、事情を語らん。想へばあの子の父親は遺言し、息子の元の苗字を忘るるなかれと言へり。はやくも墓に着きたれどなどてあの子の来ることのなき。

(正末が安住に扮して登場、言う)わたしは張安住。学堂を開き、子供らを教へて暮らせり。本日は清明節、父母は先に墓へと行きたれば、行かずばなるまじ。(唱う)

【正宮端正好】

わたしは草堂をば開き

蒙童たちを集めて教へり

つねに青灯黄巻に身を埋むれど

苦しや

十年窓下に人の問ふなく

いづれの日にか功名を得ん

【滾繍球】

なにゆゑぞ甘んじて貧窮に耐へ

辛勤を厭ふことなき

頑愚なる者を鞭打ち育て上ぐるにしくはなし

人にしかざるものなれば

学んで儒人となれるなり

錦の鱗を躍らせて

禹門[12]を過ぐることを望みて

われら男児は発憤す

風雲に遭ふことを得ば

厳しき親の教へを徒にすることはなく

願ひは報はれ

古の聖人の文の身を立て

家門を改むべきことを信ずべし

(会う)

(張秉彝)息子よ、おまえがやってくる前に、母上と先にお参りしてしまったぞ。初めからご先祖さまを拝するがよい。

(正末が拝する)

(張秉彝)息子よ、墓地の外なるあの墓も、拝するがよい。

(正末が拝し、言う)父上さま、塀の外なるあの墓を、毎年わたしに拝ませますが、いったいいかなる親戚なのでございましょう。父上さま、話して聞かせてくださいまし。

(張秉彝)息子よ、おまえに話して聞かせてやろう。悲しむでないぞ。おまえの姓は張ではなく、本当の姓は劉、東京西関義定坊の者なのだ。伯父上は劉天祥、父上は劉天瑞、六料の収穫がなかったために、口減らしのため別居して、父上はおまえを連れてこの地に来られ、豊かな土地を求められたが、父上と母上はともに亡くなり、この地に埋葬されたのだ。父上は亡くなるときに、一枚の証文を残された。すべての財産田畑は、すべてこの証文に記されている。わしはおまえを十五年間育ててきた。息子よ、三年間養育をした苦労はないが[13]、十五年間おまえを育てた恩があるから、われら二人を咎めることのないように。

(詩)

言はざる時は 恩は断たれず

言ひたる時は 恩は断たれり

われ死にし後

誰かわが麻の衣を着る人たらん[14]

(正末)それはまことに悲しいことでございます。

(気絶して倒れる)

(張秉彝が支え、言う)安住よ、目を醒ませ。

(正末が唱う)

【倘秀才】

わが父上は正直な方なれば、嘘はなからん

わたくしは、心の傷みにいかで忍びん

父母(ちちはは)の寒さと餓ゑに死にしを想へば

げにぞ悲しき

兄嫂(あにあによめ)に別れを告げて

故郷を離れ

罪深き子を養はれたり

(正末が墓に向かって哭く)(唱う)

【呆骨朶】

想ふにわれは、人は死に、家は破れて

この不肖の子を残したるなり

ただ哭きて天と地を昏からしめて

亡くなりし父母[15]を思はば

老いたる父母[16]に咎めらるべし

十か月(はら)に籠りしことを想へど

この数年の情義をいかで断つべけん

(張秉彝が嘆き、言う)ああ。やはり実の親子は実の親子だ。

(正末が唱う)

実の親子は実の親子と仰せられども

恩を知りつつ恩に報いぬことはなからん。

(言う)父上さま、母上さま、わたくしは今日、二体の遺骨を貰いうけ、故郷に帰ってゆきましょう。伯父、伯母に会い、遺骨を先祖の墓に埋めたら、またお仕えしにまいります。父上さまのお考えはいかがでしょうか。

(張秉彝が悲しみ、言う)息子よ、今日すぐに父上と母上を埋めにゆくのだ。

(正末が唱う)

【倘秀才】

亡き父の教へを奉らんと思へど

いかで養父に別れを告ぐべき

二つの父母はともに親しきものなれば

真偽を分かち、清濁を弁ぜんとせば

天と地はわが家と身を失はしめん

【滾繍球】

想へば昔、一文のお金もなきに

二人の親に托せられたり

悲しやわたしは(めい)は絶え、(さち)は尽きたり

父上の

わたしを育まれしことに感謝せん

汾州下馬村をば離れ

東京義定門に行き

遺されし骨を(うづ)めん

伯父、伯母に目通りしなば

ただちに戻らん

十五年間、寄る辺なかりし魂を(うづ)めし後に

老いたる夫婦に養はれたるご恩に報いん

いかで辛苦を避くべけん

(張秉彝)息子よ、行ったとしても、必ず戻ってきておくれ。老いたるわれらの、子なきを憐れと思うておくれ。おまえのことがいとおしくてならぬわい。これは証文。息子よ、受け取るがよい。

(正末が受け取り、別れを告げる)

(張秉彝)息子よ、なるべく早く戻っておいで。

(詞)

いかで悲しまざるを得ん

刀もて肺腑を抉られたるがごと

まことの父母を葬らば

養育をせし父母を忘るるなかれ

(退場)

(正末が唱う)

【倘秀才】

穏穏たる高山をはるかに望み

滾滾たる黄河をば間近に聴けり

ただ段段たる田の苗の遥けき村に接するを見る

実家に到り

親の奥津城をば造り

いささかの孝を尽くさん

(言う)ああ。このように歩いていては、いつになったら着くことができるやら、おまえ[17]、もう少し急げ。(唱う)

【滾繍球】

かやうに担がば

母上に背を向くるを恐れ

かやうに担がば

父上に背を向くるを恐る[18]

まことに孝を尽くすは難く

郭巨[19]、田真[20]たるはかなはず

心は沈み、怯えたり

至誠の者には天が従ひ

はやくも鬼神を動かせり

かつて聞く、古来孝子が継母を担ひしときは

園林は感応し二手に分かると[21]

今日もわが脚元に雲を生ぜり

(言う)今日はわが故郷(ふるさと)に帰ってゆかねばならぬわい。

(唱う)

【煞尾】

星、月のもと 心ははやり

川を越え、山に登りて脚は疲れり

心は急きて 昼夜を分かたず

心は愁へて 路の平らかなることをいかで覚えん

悲しみの泪は零れ 雨は塵にぞ灑ぎたる

怨みの気は湧き 風は雲をぞ送りたる

客舍は青青 柳色は新たにて

千里の関山 夢魂をぞ疲れしめたる

梁園に帰りきて、老いたる親戚(うから)(おとな)ひて

わが十五年の流離を証さん

(退場)

第三折

(搽旦が登場、言う)わたしは劉天祥の妻。義弟、義妹と安住ら三人が、口減らしのため別居してより、はや十五年。わが財産は、焔にも似て殖えたれば、質屋を開けり。連れて来たりし娘は、今や婿をとり、安住が会ひに来んことを怕れり。もしも来ば、この財産はすべてあいつのものとなり、婿は眼を開けつつ見るよりほかはなし。それゆゑにわたしの心はこのことをのみ愁へたり。

今は何事もないから、門口にぼんやりと立ち、誰がくるのか見るとしよう。

(正末が登場、言う)わたくしは劉安住。はるかに故郷を望みたり。ありがたや。はやくも着いたぞ。

(唱う)

【中呂粉蝶児】

遠く皇都(みやこ)に赴きて

あたふたと(あした)に発ちて暮に宿れり

神鬼はなしとは言ひ難し

ご飯を食べて、飢ゑをば充たし

お茶を飲み、渇きを癒し

紙銭もて旅路の安からんことを祈願せり

千里の道を歩き尽くして

わづかの間も歩みを停めしことぞなき

【酔春風】

心に老いたる父母(ふぼ)をば想ひ

奥津城に失せにし父母を(うづ)めんとせり

たちまちに悲しみは眉根に上り

安住(わたくし)はげにぞ苦しき

思へばたつた一人にて

他郷、他県をさすらへど

ありがたや

また伯母、伯父に逢はんとは想ひもよらず

(言う)人に問うたら、こちらが劉天祥伯父の家だとのこと。とりあえずこの荷物を置こう。

(搽旦に会い、言う)ご婦人、お尋ねいたしますが、こちらは劉天祥伯父さまのお家でしょうか。

(搽旦)その通りです。お尋ねになってどうなさるのです。

(正末が拝し、言う)これぞまさしく伯母上さまじゃ。

(搽旦)伯母上さまとはどういうことだえ。ほんとうになれなれしい若者だ。

(正末が唱う)

【紅繍鞋】

この人は何ゆゑぞ

わづかなる思ひやりさへもなく

わづかなる感嘆の声さへもなき

わが父母と不仲なりしにや

(言う)伯母上さま、伯父上はどちらへ行かれたのでしょう。

(搽旦)何が伯父上だ。知らないよ。

(正末が唱う)

伯父上は行方が知れず

伯母上は邪慳にあしらふ

いづこにかわが父母を葬らん

(言う)伯母上さま、わたくしはあなたの甥の劉安住です。

(搽旦)十五年前、豊かな土地を求めていった劉安住だというのかえ。おまえの親は行くときに、証文を作ったのだから、証文があれば本物で、ないならば偽物だろう。

(正末)伯母上さま、証文はございます。(唱う)

【普天楽】

心は焦り

心は憂ふ

もしも証しがなかりせば

いかで親疏[22]を弁ずべき

(証文を渡す)

(搽旦)いかんせん、わたくしは字を知りませぬ。

(正末が唱う)

伯母上が読みたまはずば

伯父上に直々に見ていただかん

(言う)まことに賢い伯母上じゃ。勘違いをし、お怨み申し上げてしまった。

(唱う)

伯母上は貞烈にして物分りよき方なりき

老いたれどなほ嫁しては夫に従ふと仰せられたり

(搽旦が家に入る)

(正末)ああ。伯母上は入ってゆかれ、どうして出てこられぬのだろう。分かったぞ。(唱う)

一つには祭物を準備するため

二つには孝服[1][23]を準備するため

三つには親戚に知らせるためぞ

(劉天祥が登場、言う)わが弟の天瑞ら三人が去ってから十五年、音信はまったくない。劉安住は、生きているやら死んでいるやら。わしの数多の財産は、継ぐ人もなく、悲しみのため眼も眩み、耳も聞こえぬ。(会い、言う)お若い方、どちらのお方じゃ。わたしの家の入り口で行ったり来たりなさるとは。

(正末)あなたの家の入り口にいるのではございませぬ。親戚に会いにきたのです。あなたとは関係はございませぬ。

(劉天祥)我が家の入り口でないなら、いったい誰の家の入り口だともうすのじゃ。

(正末)劉天祥伯父さまでしょうか。

(劉天祥)わしがすなわち劉天祥じゃ。

(正末)伯父さま、上座に着かれ、わたくしの拝礼をお受けください。

(正末が拝する)(唱う)

【迎仙客】

凶年に豊かな土地を求めゆき

故郷を離れ、他郷に臨めり

いかで知るべき、ありとあらゆる悪しき定めに遭はんとは

まづわが実の父母を失ひ

他の家の父母と

まる十五年の孤独を忍べり

(劉天祥)おまえの名前は何という。

(正末が唱う)

わたくしはおんみの甥の劉安住なり。

(劉天祥)劉安住には見えないが。

(正末)わたくしが劉安住です。

(劉天祥が悲しみ、言う)妻よ、喜べ。劉安住が帰ってきたぞ。

(搽旦)何が劉安住ですか。このあたりには騙りがとても多いですから、わたくしたちがいささかの財産を持っているのを見、劉安住になりすまし、会いにきたのでございましょう。安住の両親が去った時、証文を作りましたが、もし有るならば本物で、無いならば偽物でしょう。

(劉天祥)妻の言うことも尤もだ。出てゆき尋ねてみるとしよう。劉安住よ、おまえが去っていった時、証文を作ったのだが、もってきてこのわしに見せてくれ。

(正末)証文はございます。今しがた、伯母上にお渡ししました。

(劉天祥)妻よ。わしをからかわないでくれ。劉安住に尋ねたら、証文はおまえが持っているといったぞ。

(搽旦)持ってなどおりませぬ。

(劉天祥)劉安住よ、伯母さんは持っていないと言っているぞ。このわしがくる前に、なぜ証文を渡したのだ。

(正末が唱う)

【石榴花】

一生用心したれども 一時(いつとき)の油断をばせり

かやうに道理をわきまへざりしはまことに愚なり

かの人の口は蜜鉢のごとくして

まつたく拒むこともなく 証文を見んと言ひたれば

骨血とのみぞ思ひし

ここにふたたび団円し

一家は誓つて別居すまじと思ひしに

証文を急いで渡したるがため

あらゆるものを失へり

【闘鵪鶉】

詐り多き(けん)()[24]をば

三遷の孟母とぞ見誤りたる

御身らの財産を求めしことなく

御身らの土地を分けんとせしこともなし

ただ寄る辺なき亡魂を墓所に帰すを求めたるのみ

手足のごとき弟を思ふべし

証文を隠されんとも

劉姓のわたしと縁なきはずはあるまじ

(荷物を見て悲しみ、言う)父上さま、母上さま、まことに悲しや。(唱う)

【上小楼】

想へばわたしの()(ろう)せし父母(ちちはは)

凶年に遇ひ

兄嫂(あにあによめ)のもとを去り

妻子を連れて

豊かなる地を追ひ求めたり

いかで知るべき、命は短く、運は拙く

くはへて縁者の世話もなければ

二つの遺骨は墓に帰れず

幺篇

伯母上さま

おんみはまことに酷き方

いかなる仕打ちぞ

甥のわたしを瞞かんとし

伯父上の見てゐぬところで

罠を仕掛けり

あの人の実の娘とその婿だけが

財産を手に入れて

まことにわれら二つの家は滅びんとせり

(劉天祥)安住よ、証文はほんとうにどこにあるのだ。

(正末)今しがた、伯母上さまが手ずから持って行かれました。

(搽旦)この嘘つきの馬鹿者め。証文なんて見てはいないよ。

(正末)伯母上さま、わたくしをからかわないで下さいまし。先ほど持っていかれましたに、見たことがないとどうしておっしゃるのです。

(搽旦)もし証文を見ていたら、お隣が疔瘡になることだろうよ。

(劉天祥)妻よ、持っているなら、このわしに見せてくれ。

(搽旦)この爺さんも惚けた人だね。証文は、窗に貼っても、何の役にも立ちませぬよ。こいつはわざとやってきて、でたらめを言い、財産を騙し取ろうとしているのですよ。

(正末)伯父上さま、わたくしは財産はいりませぬ。先祖の墓の傍らにわが父母の二体の遺骨を埋葬したいだけなのです。そうすればすぐ去ってゆきます。

(搽旦が正末の頭を殴って傷つけ、言う)爺さんや、こいつと話してどうするのだえ。ゆきましょう。(門を閉じる)(退場)

(正末)わたしを認めぬだけならまだしも、どうしてわたしの頭を殴って傷つけたのだ。天よ、誰がわたしの味方をしてくださるのでしょう。(哭く)

(李社長が登場、言う)わたしは李社長。劉天祥の門口を通り過ぎれば、若い男が哭いている。どうしたのだろう。尋ねてみよう。お若い方、御身はどなたじゃ。

(正末)わたくしは十五年前、豊かな土地を求めていった劉天瑞の子、劉安住です。

(社長が確認して、言う)誰がおまえの頭を殴って傷つけたのだ。

(正末)伯父とは関係ございませぬ。伯母がわたしを認めることを承知せず、証文を取り上げて、必死にしらをきった上、頭を殴って傷つけたのです。

(社長)劉安住よ、嘆くのはやめるのだ。おまえはわしの婿だから、おまえの味方になってやろう。

(正末が唱う)

【満庭芳】

太山[25]の味方となるに感謝せり

わたくしはあの人の実の骨肉

分家せし奴隷でもなし

みづから遺骨を担いで故郷へと還り

かくも遥けき道を歩けり

わが伯父が何ゆゑぞ腹を立てしと思し召さるる

後妻が先にわが証文を騙し取りたればなり

(社長)認められなくてもよいというわけでもあるまい。

(正末が唱う)帰るわけにはまいりますまい。父母を葬らんとぞ思いしに、わたくしを認めないとはいかなる所存にございましょう。

(社長)劉天祥の女房はまことに無礼。いっしょに話しをしにいこう。劉天祥どの、戸を開けられよ。戸を開けられよ。

(劉天祥、搽旦が登場、言う)誰が叫んでいるのだろう。(戸を開ける)

(社長)劉天祥どの、どういうことだ。実の甥御が帰ってこられたというに、認めないだけならともかく、ご夫人の言葉を信じ、頭を殴って傷つけるとは。

(搽旦)社長さま、あなたはご存じないのです。そいつは人を騙したのです。わざと我が家にやって来て、でたらめを言ったのです。そいつがうちの甥ならば、昔作った証文があり、あなたの署名があるはずです。その証文を持っているなら劉安住です。

(社長)それもそうだな。お若い方、あなたが劉安住ならば、ご両親は証文を持っておられたか。

(正末)ございましたが、先ほど伯母に渡したのです。

(社長)ご夫人、この人が証文を持っていたのに、あなたが持っていかれたのですな。

(搽旦)証文を持っていったなら、蜜蜂の糞を食べましょう。

(劉天祥)証文のことはさておいて、若者に尋ねてみよう。父上はどちらのお方じゃ。名は何といい、何ゆえに他郷へ行かれた。正しく説明できるなら、御身は劉安住であろう。

(社長)お若い方、御身が劉安住ならば、父上はどちらのお方で。名は何といい、何ゆえに他郷に行かれた。正しく話すことができれば、御身は劉安住であろう。正しく話すことができねば、御身は劉安住ではあるまい。

(正末)わたくしの話をお聞きくださいまし。実家は汴梁西関の義定坊です。住人は劉天祥、その弟は天瑞で、わたしは安住。三歳のとき、六料の収穫がなかったために、お上の命で、口減らしのため別居して、豊かな土地を求めることとなりました。弟の天瑞は、妻子を連れて他郷にゆき、豊かな土地を求めることを自ら願い、財産田地は、一切分けませんでした。証文二枚は、それぞれが一枚を持ち、証しとしました。証文を作った人は劉天祥、ともに証文を作った人は劉天瑞、証人は李社長でした。父母とわたしは、豊かな土地を求めて山西潞州高平県下馬村にある張秉彝家の宿屋に泊まったのですが、父母は病み、ともに亡くなり、張秉彝により育て上げられたのでございます。わたくしは今、十八歳になりました。わが父母の遺骨を担ぎ、伯父上に会いにまいりましたが、伯母上は証文を騙し取り、伯父上もわたしを認めようとなされず、頭を殴って傷つけたのです。かような不平を、誰に訴えたらよいのでしょう。

(社長)もうやめよ。これぞまさしくわが婿の劉安住だ。

(搽旦)社長どの、あなたは物の道理を知られぬ。あなたとは関係はございますまい。門を閉めます。お爺さん、家に入りましょう。

(劉天祥とともに退場)

(社長)あの婆さんめ、策略を用い、わざと認めぬつもりだな。役所があるから、おまえを連れて訴えにゆこう。

(外の包待制が張千を連れて登場、言う)わしは包拯。西延辺で軍をねぎらい、帰還して、汴梁西関里に来たが、人々が騒いでおるぞ。張千よ、何事なのか見てまいれ。

(社長が叫び、言う)訴えがございます。

(包待制)連れてまいれ。

(張千が連れてきて会わせ、言う)面を上げよ。

(社長の詞)お怒りを鎮められ、わたくしが初めから申し上げるのをお聴きください。わたくしはこの県の社長で、この者は姓は劉、名は安住と呼ばれております。父天瑞、伯父天祥は、同腹の兄弟でございます。凶年にお上の命を奉り、別居して豊かな土地を求めるために、この者の父母は遠く潞州に赴いて、張秉彝の宿屋に寄寓いたしました。その昔、証文を作り、財産をはっきりと記しております。わたくしの娘の定奴は、劉家の嫁となる約束をしておりました。証文で証人となっているのは、縁者であるがためなのです。同じ証文を二枚作り、それぞれが保管して証しとしました。はからずも劉天瑞は夫婦してともに亡くなり、死して墳墓に葬られず。残された三歳の息子には、乳を与える人とてございませんでした。今にいたるまで十五余年、張秉彝から手厚い世話を受けました。安住は証文を与えられ、故郷に帰り伯父に会うため、遺骨を挑いでやってきて、祖先の墓の傍らに(うづ)めることを願いましたが、門前に来ましたところ、折悪しく心の善くない伯母に出くわし、証文を騙し取られたのでございます。伯母はあれこれ嘘をいい、同族のことを全く思いませんでした。安住は間もなく額を打ち割られ、棄てられて進退は窮まりましたが、幸いに、明鏡のごとく悪人を許されることのない知事さまに会うことができました。不平を抱く劉安住を憐れと思うてくださいまし。李社長(わたくし)が唆かし、裁判を起こさせたのではございませぬ

(包待制)劉安住よ、おまえに訊くが、十五年間、おまえはどこに住んでいたのだ。

(正末)潞州高平県下馬村の張秉彝家におりました。

(唱う)

【十二月】

憐れやわたしの運は拙く

張秉彝家にしばし身を寄せ

いささかの旅路の苦労をば嘗めて

故郷にたどり着くを願へり

伯母、伯父に会ふことを得ば

喜んでもとの通りになるものと思ひしに

【堯民歌】

何ぞ知らんや伯母上は

冠帯を着くることなき[26]ならず者なりしとは

劉家の安住と言ふや否や

口を尖らせ

証文を騙し取り、わたくしに果てなき愁へを抱かせり

かやうな不平を

いづこにか訴へん

ただ声を呑み

しのび哭くのみ

(包待制)張千よ、人々を開封の府役所に連れてきてくれ。(ともに退場)

(社長)安住よ、二人の遺骨を、とりあえず我が家に置き、いっしょに開封府にゆこう。

(正末)開封府知事の包龍図さまならば、わたしも聞いたことがある。(唱う)

【収尾】

かの人は清耿耿(せいこうこう)として水のごと

明朗朗として鏡にぞ勝りたる

かの人はわれらを南衙へ導かれ

わたくしは懸命に頭を金の階に叩きつけ

まことに不平なりと叫べり

(ともに退場)

第四折

(張千が排衙[27]をして登場、言う)役所にて人馬の平安ならんことを、文書を運べ。

(包待制が登場、詩)

冬冬(トントン)と衙鼓は響きて

公吏は両の脇に並べり

閻王の生死殿

東岳の嚇魂台

わしは包拯、十日前、西延辺で軍をねぎらい、帰ってきたが、西関里を通ったところ、一群の人々がおり、劉安住が告訴してきた。わしは人々を開封府南衙の(ひとや)へと下し、審問はしなかった。何ゆえと思し召される。劉安住が差し出した訴状には、十五年前、州高平県下馬村張秉彝家に住んでいた事が記されていたからだ。それゆえに十日の間、審問をしなかったのだ。すでに人をば遣わして、張秉彝を呼び寄せたから、張千よ、安住たちを、法廷に連れてきてくれ。

(正末が衆とともに登場)(正末が唱う)

【双調新水令】

小人は大人の機略を解せず

手負ひの人を十日も閉ぢ込め

関はりのある者たちを問ひたださずに

被告をすべて捕らへたり

ひそかに疑ふ

何ゆゑぞ事情をば悟らざる

(張千)面を上げよ。

(衆が跪く)

(包待制)みなおるか。

(張千)申し上げます。みなおります。

(包待制)劉安住よ、この者たちはおまえの何に当たるのだ。

(正末)伯父、伯母にございます。

(包待制)誰がおまえの頭を殴って傷つけたのだ。

(正末)伯母にございます。

(包待制)誰がおまえの証文を持っていったのだ。

(正末)伯母が持っていきました。

(包待制)そのほうのほんとうの伯母なのか。

(正末)ほんとうの伯母にございます。

(包待制)女よ、この者はそのほうのほんとうの甥ではないか。

(搽旦)ほんとうの甥ではございませぬ、その者はわたくしたちの財産を騙し取ろうとしているのです。

(包待制)この者の証文を持っていったが、今、どこにある。

(搽旦)証文などは見たことがございませぬ。見ていれば、眼痛を患いましょう。

(包待制)劉天祥よ、この者はおまえのほんとうの甥なのか。

(劉天祥)わたくしの甥は三歳のとき、故郷を離れましたので、わたくしも分からないのでございます。妻は違うと申しております。

(包待制)この爺さんはまことに愚かだ。どうして妻が違うと言ったら違うのだ。李社長よ、この者たちは血のつながりがあるのかないのか。

(社長)この者たちはほんとうの伯父、ほんとうの伯母にございます。この婆さんは安住の頭を殴って傷つけました。わたくしは安住のまことの岳父(しゅうと)でございますから、縁者に相違ございませぬ。

(包待制)劉天祥よ、そのほうはどう思うのだ。

(劉天祥)妻が違うと申しますから、違うのでございましょう。

(包待制)この爺さんと劉安住が縁者でないなら、劉安住よ、一本の大きな棒を持ってきて、その爺さんを掴んで、みっちり殴るがよい。

(正末が唱う)

【喬牌児】

その方は年老いたれば頭が惚けたり

知事さまは才智をばお持ちなるべし

他人が殴りしのみにても罪とならんに

まことにわたしの身内の誼を絶えしめんとす

(包待制)とにかく殴れ。誰が正しく誰が正しくないかを調べて、裁きをしよう。

(正末が唱う)

【掛玉鈎】

知事さまは、誰が正しく、誰が悪しきかすぐに分かると仰れど

(包待制が怒り、言う)劉安住よ、どうしてみっちり殴らないのだ。

(正末が唱う)

わが父はこの人の実の弟

棒もてみだりに殴らしめども、いかで忍びん

人心と天理の瞞き難きことをば想はれよかし

わたくしはこの人の実の甥

財産を争へるわけにもあらず

孝行せんため来たりしに

などてか腹を立てて帰らん

(包待制の詩)

(かうべ)を垂れて考へり

曲直はなどかは弁じ難からん

なにゆゑぞ甥は伯父をば殴らざる

もとより親族(うから)なるを知るべし

若者よ、この老人を打てというたに、もたもたとして、どうしても打とうとはせぬのだな。張千よ、枷を取ってきて、若者を枷に掛けるのだ。

(正末に枷を掛ける)

(正末が唱う)

【雁児落】

伯父上は荊の棒の(はだへ)に触れしことなきも

わたくしは、荷葉の枷[28]を掛けられて、替はりに罪を背負ひたり

後堯婆(ままはは)は傍らに放つておかれ[29]

李社長は慌てて応ふることもあたはず

【得勝令】

ああ、これはわたしひとりが得をせしなり[30]

わたしをしばらく(こけ)のごとくにせしめたり

清く正しき蕭丞相[31]と思ひしも

その実は頭のをかしな党太尉[32]なり

悲しむべし

劉天瑞(わがちち)を辱めしを

誰か知るべき

()にも愚かな包待制なりしとは

(包待制)張千よ、劉安住を死囚牢へと下すのだ。近う寄れ。(耳打ちをする)

(張千)かしこまりました。

(張千が正末に枷をかけ、退場)

(包待制)あの若者は明らかにそのほうの財産を騙し取ろうとした偽物だ。

(搽旦)大人の仰る通りにございます。あいつはわたしのほんとうの甥、劉安住ではございませぬ。

(張千)申し上げます。劉安住は(ひとや)に下され、(いたつき)となり、十中八九、助かりませぬ。

(包待制)天に不測の風雲あり、人に旦夕の禍福あり。あの若者は先ほど元気だったのに、牢に下され(いたつき)となるとはいかに。張千よ、もう一度見にゆくがよい。

(張千がさらに報せる)九割方は、助かりませぬ。

(包待制)もう一度見にゆくがよい。

(張千がさらに報せる)劉安住はこめかみが傷ついており、痣をはっきり見ることができまする。破傷風にて死にましてございます。

(搽旦)死んだのならば天と地に感謝しましょう。

(包待制)それはいかんな。人命事件となったから、事はますます重大だ。おまえは劉安住の縁者か。

(搽旦)縁者ではございませぬ。

(包待制)縁者なら、そのほうは年上で、あのものは年下だから、劉安住が一人死のうが、十人死のうが、子や孫を誤って殺した者は命を償う必要はなく、いささかの罰金を取られるだけだ。もしも縁者でないならば、「人を殺さば命で償い、お金を借りたらお金を還せ」といわれておるぞ。あのものは赤の他人、縁者と認めないのはまだしも、物で頭を打ち破り、破傷風にして殺すとは。法律に「罪なき者を殴打して、死なせた者は死刑」だと書かれてあるぞ。張千よ、枷を持ってこい。この婆さんを枷に掛け、劉安住の命を償わせるとしよう。

(搽旦が慌て、言う)知事さま、もしも縁者であるならば、許されるのでございましょうか。

(包待制)縁者であれば、命を償わずともよいがな。

(搽旦)それならば、あのものはまことの甥にございます。

(包待制)この婆さんは、劉安住が生きていた時、縁者ではないと言い、劉安住が死んでしまうと縁者であったと申すのか。役所はおまえの思いのままにはなるまいぞ。ほんとうの甥であるなら、どのような証拠があるのだ。

(搽旦)知事さま、証文がこちらにございます。

(包待制の詞)あの若者は本当のことを言へども、この婆さんは無理やりにでたらめを語りたり。このわしはささやかな機略を用ゐ、証文を出だしめたるなり。

婆さん、証文は同様のものが二枚あるはず、一枚だけでは、どうして証文といえよう。

(搽旦)知事さま、こちらにもう一枚がございます。

(包待制)証文があるのなら、棺を買い、劉安住の埋葬をしにいくがよい。

(搽旦が叩頭し、言う)知事さまにお礼を申し上げまする。

(包待制)張千よ、劉安住の死骸を、運んできて、その者に見せるがよい。

(張千が正末を連れて登場)

(搽旦が会い、言う)ああ、死んではいなかったのですか。その者は偽物で、劉安住ではございませぬ。

(包待制)劉安住よ、わしはこの証文を騙し取ったぞ。

(正末)知事さまがいらっしゃらねば、わたくしは無実の罪で死んでいたことでしょう。

(包待制)劉安住よ、嬉しいか。

(正末)もちろん嬉しゅうございます。

(包待制)さらに喜ばせてやろう。張千よ、司房[33]から張秉彝を呼び出してきてくれ。

(張秉彝が登場、正末に会い、悲しむ)

(正末が唱う)

【甜水令】

先祖のもとに帰らんがため

遅く()ね、早く起き

山をば登り、川をば渉り

はじめて庭幃[34]に到りしに

誰か知るべき、無情の伯母は

大いに疑ひ

あれやこれやと追ひ立てり

運命はかくも拙し

【折桂令】

必ずや死別生離し

育ての父母と見ゆる(とき)永久(とこしへ)になからんと思へども

幸ひに清官は

高く明鏡をば掲げ

機略を尽くされ

証文を騙し取られて

二体の遺骨を葬ることを許したまへり

本日、父子は相依りて

恩義の()ることはなし

さいはひに、百世の宗支[35]を失はざりければ

御身に十年(ととせ)育まれたることを忘れじ

(包待制)裁判はすべて終わった。みな跪き、わしの裁きを聴くがよい。

(詞)聖上は世を治め、民を安んじ、孝順な子や孫をもっとも嘉せり。張秉彝をばこの地にて県令となし、妻には賢徳夫人を贈らん。李社長に銀百両を賜はりて、婿によき日を択ばせて、結婚せしめん。劉安住は熱心に孝行したれば、進士の冠帯を賜はり褒美となさん。父母を先祖の墓に埋葬し、(いしぶみ)を立て、幽魂を顕彰せしめん。劉天祥は失念の罪あるも、老年なるを考慮して、今まで通り、耆民(きみん)[36]となさん。妻の楊氏は重罪に処すべきも、とりあへず贖銅千斤を課すべし。その婿は血族にあらざれば、今すぐに劉家より追ひ払ふべし。さらに触れ文をば掲げ、あまねく人に知らしめて、王法の公正なるを明らかに示すべし。

(衆が謝する)

(正末が唱う)

【水仙子】

白襤の衫[37]を緑羅の衣に換へ

一挙に名を成し、天下に知られり

何ゆゑぞ皇恩は孤寒の輩を見棄つることなく

高天の雨露(うろ)を降らすがごとくして

生くる者にも死にし者にも栄典を賜はれる

張秉彝は仁徳に富み

李社長は信義を常に保てども

わが伯父に賢妻あるをいかにかはせむ[38]

 

最終更新日:20101129

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[1]



[1]社長は五十戸の長。『元史』食貨志「縣邑所屬村[田童]、凡五十家立一社、擇高年曉事者一人為之長」。

[2]六穀に同じ。六穀は稌、黍、稷、粱、麦、菰。『周礼』天官・膳夫の鄭玄注を参照。

[3]原文「知他是你命難逃我命蹇」。「知他是」、特に「他」が未詳。「他」が「你命難逃我命蹇」という状況を指していると考え、とりあえず、こう訳す。

[4]孝は孝服すなわち喪服のこと。丁重な喪服。

[5]重孝の反対語としての造られた言葉であろう。

[6]原文「我甘心兒與你駕靈車、哭少年」。「哭少年」が未詳だが、若死にを嘆くことのようである。元曲中に他の用例あり。『岳孔目借鐵拐李還魂雜劇』第二折【滾繡球】「我死之後你須索迎著門兒接紙錢。(旦哀)我和你單夫只妻、我不接、教誰人接。隨著靈車兒哭少年。」。同【小梁州】「澆奠罷守定靈床哭少年」。

[7]原文「買路紙銭」。「買路銭」とも。葬儀のとき道に撒いたり焼いたりする紙銭。

[8]原文「我可也放不下殃人的業冤」。業冤」は「冤家」と同じ。本来「仇」の意味だが、逆に恋人のことをいう。「殃人」も、逆の意味で、「愛しい思いを抱かせる」という意味であろう。

[9]霊柩車。

[10]開封の雅称。梁孝王の庭園があったためかくいう。

[11]先祖と同じくらい貴いお方だということ。

[12]山西省の地名。龍門に同じ。ここを鯉がさかのぼると龍になることで有名。『後漢書』巻六十八李膺伝注引『辛氏三秦記』「河津一名龍門、水險不通、魚之屬莫能上、江海大魚薄集龍門下數千、不得上、上則為龍」。

[13] 「赤ん坊の時は世話をしていなかったが」ということ。

[14]原文「誰是我的拖麻拽布人」。「拖麻拽布」は麻の衣をつけて喪に服すること。

[15]実の父母。

[16]張秉彝夫妻。    

[17]自分に二人称で呼びかけている。

[18]原文「這般擔呵、我生怕背了母親。這般擔呵、又則怕背了父親」。父母の遺骨を、天秤棒で挑いでいるのか。ただ、遺骨に背を向けるのが何で恐るべきことなのかが未詳。

[19] 『捜神記』に出てくる孝子。子供を埋めて親を養おうとしたところ、黄金を得た。

[20] 『続斉諧記』に出てくる人物。兄弟たちと分家しようとしたところ、庭の紫荊が枯れたため、分家を思いとどまったところ、紫荊が元通りに茂るようになったという。孝とは関係がないので、なぜここで名前が出てくるのか未詳。一つは押韻の都合であろうが、親戚同士が一緒に暮らせないことをいうためもあるか。

[21]典故未詳。

[22]親戚関係があることとないこと。ここでは偏義詞で、親戚関係があることの意。           

[23] 喪服。

[24]本来妓楼のやり手婆あのこと。ここでは楊氏を喩える。

[25]泰山。岳父を喩える。

[26]原文「不冠不帶」。「女」ということ。

[27]役所の長官に属官が拝謁する儀式。

[28]原文「荷葉枷」。未詳。

[29]原文「穩放着後堯婆在一壁」。「後堯婆」は継母のこと。ここでは楊氏を喩える。

[30]反語。

[31]漢の蕭何。法律家の神とされる。

[32]王学奇は宋の党進のことという。『陳摶高臥』第二折に「大尉党進」という言葉が出てくる。

[33]刑房。地方の役所で刑獄を掌る部署。

[34]庭闈に同じ。父母の居処。ここでは父母の故郷。

[35]宗族のなかの一支族。ここでは一支族としてのアイデンティティ。

[36]明以降の正史に出てくる語。有徳者に与えられた称号の一つ。『明史』志・卷七十一・志第四十七・選舉三「是年、遂罷科舉、別令有司察舉賢才、以コ行為本、而文藝次之.其目、曰聰明正直、曰賢良方正、曰孝弟力田、曰儒士、曰孝廉、曰秀才、曰人才、曰耆民.皆禮送京師、不次擢用」。なお、服装なども一般庶民とは違っていたようである。『明史』輿服三・庶人冠服「二十三年令耆民衣制、袖長過手、復回不及肘三寸」。

[37]原文「白襤衫」。普通は「白襴衫」白い襴衫で、秀才の衣服。「襤」の字が使われているのは、単なる誤字か。あるいはぼろであるという意味合いを持たせたものか。

[38]反語。

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