第四十三齣 擒嚭(伯嚭を捕らえる)
(太子友、伍子胥が霊に扮して登場。太子友)
千載の呉宮には一面の禾黍
故国にすでに主なきを嘆く
(伍子胥)
游魂[1]は行き来して所を定めず
(公孫聖)
陽山へいかで帰らん
(相見える)
(太子友)雲は幕を垂れ、陰風は惨憺として天花は墜つ。天花は墜つ。そのかみの環珮を思ひ[2]、鸞鶴は夢に廻れり[3]。
(公孫聖)旌旗は翩翩 林薄[4]を突き進み、游魂は緲緲[5]として寂しさを増す。寂しさを増す。
(伍子胥)悲しきは、太湖の烟水、館娃の楼閣。
(太子友)老相国どの、公孫先生、我ら三人が殺されてから、越は呉を撃破して、わが父は陽山に逃げ、行方知れずになっている。文武の官は朝廷に大勢いたが、従うのは王孫大夫のみだった。伯嚭の悪党は、国家より厚恩を受けながら、どこへ逃げたのだ。
(伍子胥)昨日陰兵[6]に様子を探らせましたところ、あの者は家財をまとめ、越国に逃亡したとか。今宵はまさに銭塘江を渡りましょう。これよりは兵を率いて江口を守りましょう。あの者が渡河するときに、捕らえれば宜しいでしょう。
(公孫聖)あの悪党は今もなお、太湖の辺りにいるでしょう。雪に乗じて、兵を率いて迎えにゆきましょう。あの者を待たれるには及びませぬ。
(太子友、伍子胥)その通りだな。今まさに陰風は旗を巻き上げ、朔雪[7]は関河[8]を渡れり。
(退場。伯嚭が登場)そのかみは、湖山にあまねく行楽せしも、独りとなりて、行路の難きを思ひ知りたり。半生の功名あれど江外[9]に逃げ、一生の奸佞は人の世を惑はせり。古より言ふ、平地がなくば山はなし、往くことなくば帰ることなしと。われはなにゆゑこの二句を口にせる。このわれは、平素より人を害する心を抱き、人を殺むる手管を備へ、孔夫子さまと同席せんとも、背後より干戈を起こさんばかりなり。魯の周公と同席せんとも、面と向かひて押しのけんばかりなり。数年間にて、呉王の国を跡形もなく消滅せしめど、思はざりき、ひそかに人を損なふも、我が身に不幸が回りこんとは。蘇台は焼けて、呉宮は毀たれ、主君は逃れり。西施はもともと范蠡とともに来たりしものにして、秋鴻と春燕はもともとは文種に譲られしもの。笑ふべし、氷の山は、いまや半杯の雪水となる。我は今、数多の金銀財宝を持ち、妻子を引き連れ、越国に赴きて、官職を得んとせり。誰か知るべき、道半ばにて、反乱軍に金銀を奪はれんとは。妻は背負はれ、連れ去られ、手を着けられて、残るは我が身ばかりなり。今晩は雪も激しく、風も強し。銭塘に赴きて、長江を越え、范、文両大夫を訪ね、手を打つとせん。
寒空の道
寒空の道
前方に進まんとせり
大空に風雪の漂ふをいかにぞすべき
旅の身の孤独を思ふ
旅の身の孤独を思ふ
進みゆき 友を求めど
友はいづれの所にかある
思ふは昔の風花雪月[10]
この我はすでに酔ひたり
今日はかくなる苦しみを受け
呉にありし昔を思ふ
呉にありし昔を思ふ
酔へば紅妝に支へられしも
今は逃虜[11]と相成れり
(退場。太子友、伍子胥、公孫聖が陰兵を率いて登場。伍子胥)伯嚭はどこにいったのだろう。ここで長いこと待っているのに。おや。伯嚭めがあたふたと、長江のほとりを走っているぞ。これからどこに行くつもりだ。前方の林の中に隠れるつもりなのだろう。兵士たち。もっと追いかけよ。
(退場。伯嚭が登場)いけない。いけない。後ろから伍子胥がわしを捕らえよという声がする。脚を速めて、長江を渡ろう。(転ぶ)
声がしきりに聞こえくる
声がしきりに聞こえくる
伍子胥がわしを擒にせんとしたるなり
陰兵は四野にあり 何処に逃ぐべき
(拝礼をする)伍相国さま。先日剣を賜いしは、王自らのご意思なり。わたくしとかかわりはございません。
伍子胥さま
伍子胥さま
わたくしとかかはりはなし
王さまのなされしことなり
(さらに跪く)
幽幽[12]たるわたくしを哀れと思ひたまへかし
幽幽たるわたくしを哀れと思ひたまへかし
天に向かふに道もなく
いづれの門より地に入らん
(太子友、伍子胥、公孫聖が陰兵を率いて伯嚭を捕らえる。伍子胥)伯嚭よ。その方は災禍を起こす心を抱き、凶悪を露わにせり。たくさんの讒言により、王さまの耳と目をくらまして、不当にも忠良を殺害し、正直者を誣告せり。溝壑に人を落とすも、なほ石を投げ、蒺藜に人を捕らふるも、なお弓を挽き矢を射たり。国政を独占することのみを考へ、百年を楽しむことをひたすら望めり。誰か知るべき、今日を迎ふることとならんとは。
(伯嚭)どうか今すぐ殺してください。
(太子友)伯嚭よ、君を欺き国を過つ悪党め。罪を貪り色を好める悪党め。皆のもの、拶子にかけよ。
(人々がはいと言い、拶子に掛ける。太子友)
悪党め
我が国は地図に空しく名をとどめ[13]
我が宮殿に烟樹を余し
我が父をただ一人陽山に逃亡せしめ
この我を越国の街衢に戦死せしめたり
汝が罪は誅しても余りあるほど
汝が悪事は髪の毛を用ゐても数へきれぬぞ
千重の地獄へ汝が堕ちたとて
わが怨み 晴るることなし
(伍子胥)伯嚭よ。善人を殺めたる悪党め。肩を竦めて諂い笑う悪党め。皆のもの、夾棍に掛けよ。
(人々がはいと言い、伯嚭を夾棍に懸ける。伍子胥)
汝がために王さまの寵は薄れて
汝がために人民は住む場所もなく
汝がために実の子を斉に預けて
汝がために老衰し、誅戮せられ、海隅に洗はれり
汝は人を惑はせる九尾の雄狐
汝は禄を盗める陰爻き碩鼠[14]なり
汝は呉の国の太宰を 千年間 務めんと思へども
誰か知るべき
雪の夜に銭塘で伍子胥に逢へるを
(公孫聖)伯嚭よ、勤めを果たさず、無駄飯を食う悪党め。国家を滅ぼす悪党め。皆のもの、頭を締め上げよ。
(人々がはいと言い、伯嚭を締め上げる。公孫聖)
汝は昔 呉国の兵権を 轆轤のごとく弄びたり
呉国の財貨を糞土の如く用ゐたり
呉国の王を掌上の小児の如く扱へり
呉国の民を山中の餓虎の如くに食らひたり
伯嚭よ、
我が兄伍子胥は呉国にありしも
実は釜中の魚[15]にして
汝に殺害せられたり
この我は山中の鶴に過ぎざれば
汝と何の関はりもなし
汝は凶暴をほしいままにし
殃を池魚に及ぼせり[16]
渓山を経て
林中に殃を招くとは何事ぞ
汝はこれより鄷都に赴き
千年万載 人の身となることなからん
いかで及ばん、この我の、日もすがら、桂棹と蘭橈をもて太湖に浮かぶに
(太子友)部下に命じてその悪党を鄷都へと赴かしめよ。
(人々がはいという。伯嚭)若さま、相国さま、公孫先生。わたくしはこれ以上悪さはしません。これ以上悪さをなさば、大きな疔ができましょう。
(人々が伯嚭を縛って退場)
(太子友)なんぴとか憐れまん 国家の一時に傾きたるを
(伍子胥)奸臣を捕らふれば 怨みは初めて平らかなり
(公孫聖)謹んで世人に勧めん 善事をなせと
(伍子胥)頭を挙ぐれば三尺上に神のゐませば
[1]浮遊する魂。
[2]原文「想生前環珮」。環珮は佩玉。それをつけた高官。自分が高官であった昔を思い。
[3]原文「夢廻鸞鶴」。鸞と鶴は、仙人の乗る鳥とされる。この句、未詳。夢の中で車駕を乗り回すの意か。
[4]林や野原。
[5]遙か彼方にあるさま。
[6]冥土の兵士たち。
[7]北方の雪。
[8]関所のある山や河川。山河に同じ。
[9]中原から見て、長江の向こう側。長江南部の地。ここでは伯嚭が呉から越に逃げることをいう。
[10]男女の情交をいう。
[11]逃亡者。
[12] かすかなこと。とるに足らないこと。
[13]原文「弄得我江山空戦図」。国がなくなって地図だけが残った。
[14]大ネズミ。
[15]長生きできない運命にある者を言う。
[16] 「池魚の殃」は、『呂氏春秋』孝行覧・必己に見える物語で、池に投ぜられた宝珠を得ようと池をさらったため、中の魚がすべて死んだという話。ここでは、公孫聖が側杖を食らわされたの意。