第四十齣 不允(越が講和を拒絶する)

(伯嚭が登場)暑気は去り、寒気は訪れ、またも秋なり。夕陽は西に下りて、水は東に流れたり。将軍と軍馬はいま何処にありや。野草に閑花[1]は満地に愁へり。

わしは伯嚭じゃ。そのかみは主君に従い、他人を頼りに事業を成し遂げ、越王を会稽の頂に隠れさせ、西軍を艾陵のほとりに破り、威勢をば輝かしたが、誰かおもわん、越に追われて、囿にて敗れ、役にて敗れ、郊にて敗れ[2]、喪家の狗、水に落ちた鶏のようなありさま。本日、わしは講和に赴く。ここ数日、礼物を范、文二大夫の陣に持ってゆき、じっと待ったが、清廉な役人なので、財貨などはほしくないのだ。聞けば彼らは越王の陣中で相談をしているとか。これより轅門に赴き、様子を窺うこととしよう。きっと知らせがつかめるだろう。もう轅門に到着したぞ。平伏していればよかろう。

(范蠡が軍服で登場)将軍は轅門を出て、すっくりと風に向かって立ち止まる。諸将は進言しようと思うが、ためらって陣中に入ることもない。轅門に平伏しているのは何者だ。

(伯嚭)呉国の太宰伯嚭にございます。

(范蠡)太宰どの、どうか立たれよ。

(伯嚭)越国の大王さま、滅相もないことにございます。

(范蠡)太宰どのは、こちらへ何をしにこられたのか。

(伯嚭)孤臣[3]の夫差が、衷心より申し上げます。そのかみは、会稽で失礼仕りました。わたくしは大王さまのご命に背きはいたしませぬ。今すぐ講和をお許し下さい。今、大王さまは兵を挙げられ、下国(わがくに)を討伐なさいましたから、わが国は必ずご命に従いましょう。今日の姑蘇の地を、昔日の会稽の地の如くなさってください。伏してお願い申し上げます。大王さまにはどうか憐れと思し召し、お許しくださいますように。

(范蠡)中に入って王さまに申し上げよう。文書があれば、ここで披露をするがよい。(退場。伯嚭)

江上の孤臣が

伏して王さまに言上いたさん

老衰し、艱難多く

窮迫し、寄る辺すらなきことをご考慮めされよ

わが君は、

編民[4]

その妃は妾にならんと願ひたり

王さまの朝廷に貢を献じ

礼物も毎年進上し

皇天父母のご恩[5]を忘るることはあるまじ

(范蠡が登場)太宰よ、王さまの命令ぞ。そのかみは会稽にて、天は呉国に越国を賜ひしも、呉は受けざりき。いま天は越に呉を給はれば、越国は天のご命に背くわけにはゆかざるべし。呉王の命に従ふはまことに難し。

(伯嚭)その昔、わが君は、わたくしのとりなしにより、越との講和を承諾しました。范大夫さまはわが君のため、とりなしをすることができますでしょう。

(范蠡)太宰どの。あなたが呉王にとりなしをしたために、今日のことを招いたのです。わが君が従うはずがございませぬ。

(伯嚭)范大夫さま、とりなしをしたくないのでございましょう。文大夫さまはどちらでしょうか。どうか会わせてくださいまし。

(范蠡)しばし待たれよ。呼んできて差し上げましょう。

(退場。文種が軍服で登場)金馬の庭[6]に綬を結び[7]、雲台[8]の上に高議せり。昔は幕下の客となり、今は陣中の将となる。太宰どの、立たれよ。

(伯嚭)滅相もなきことにございます。わが君は文大夫さまにくれぐれもよろしくと申しておりました。その昔、講和をした際、文大夫さまのお言葉にしたがって、講和を承諾されました。このたびは会稽の故事にならいて、わが君を臣下とし、王妃は妾となさってください。大王さまにはどうか憐れと思し召し、お許しを給わりますよう。

(文種)お前に代わってわが君に申し伝えよう。文書があれば、さらに披露をするがよい。

(退場)

 (伯嚭)

呉国の游魂[9]

王さまに再拝し、言上いたさん

城闕の粉砕せられ

宮殿の灰燼となりたるをご考慮めされよ

わが君は苦しみを受け

糞を嘗め

石室に囚はれんことを願へり

三年は勿論のこと、

十年(ととせ)なりとも承知いたさん

皇国の万万歳をお祈りすべし

(文種、浄)太宰どの、王さまの御諚であるぞ。このわしが(あした)には朝廷に出で、(ゆふべ)には仕事を終へて、十年(ととせ)の間、苦労をせしは、ひとへに呉王のためなるぞ。一日で呉王を許すわけにはゆかじ。ましてや天の与へたまひし呉の国を取らざらば、咎を受くべし。呉王の命に従ふはまことに難し。

(伯嚭)文大夫さま、その昔、頂いたたくさんの礼物を、本日は倍にしてお返ししましょう。黄金万両、錦緞万疋、白璧二十双、美人四人、范大夫さまと、文大夫さまにそれぞれお送りいたしましょう。お二人が陣中にいらっしゃいませんでしたので、お送りいたしませんでしたが。どうかもう一度とりなしをしてくださいまし。

(文種)太宰どの、立たれよ。こっそり申し上げましょう。この件は絶対にうまくはいきませぬ。今となっては、ご主君を見限るにしくはござらぬ。今すぐに戻られて、家財をまとめ、銭塘江を渡ってこられよ。我々は御身のご恩を受けし身なれば、必ずや御身を大夫にしてあげましょう。

(伯嚭)有り難うございます。それはたいへん良いお考えにございます。それではお別れいたしましょう。

(文種)君に勧めん とくとく車を返されよ

(伯嚭)講和は許さず 出任せを言ふのはやめよ

(文種)生まれ故郷を懐かしむことなかれ

(合唱)深きご恩を受くるところがすなはち故郷ぞ

 

最終更新日:2010119

浣紗記

中国文学

トップページ



[1]誰にも見られることのない野の花。

[2]囿は呉の地名。太湖一帯。役は没の誤りで、呉の地名。郊は姑蘇城外。

[3]主君に気に入られていない臣下。ここでは呉王夫差が、越王に対して自称していう。

[4]平民。戸籍に編入された人民をいう。

[5]天や父母の恩。すなわち越王が呉王を許す恩。

[6]金馬は鎧をつけた馬。金馬の庭は、戦の庭に同じ。

[7]綬は官印をぶら下げる紐。綬を結びは、印綬を帯びるの意。

[8]雲に聳える楼台。

[9]寄る辺なき魂。呉王自らの、越王に対する謙称

inserted by FC2 system