第三十九齣 行成(和議を乞うため出発する)
(呉王夫差、西施が登場)
西風に、黄ばむ木の葉は目に満てり
秋されば、殺気は林塘[1]にしぞあまねき
(西施)
呉宮の一夜の永きには似ず
(相見える。呉王夫差)西施よ、わしは斉、晋より戻り、朝な夕なに楽しもうとしていたが、はからずも、国は滅んだ。その昔、善人の言うことを聴くことがなかったために、本日かような目に遭ったのだ。先日は、わが兵は江北に、越兵は江南にあり、なお一戦し、存亡を決しようとした。だが、勾践めは、左軍を上流、右軍を下流に駐屯させ、両方面から挟み撃ちした。このわしは兵を分け、応戦するよりほかはなかった。敵はにわかに中軍を率い、真夜中に、こっそりと、長江を越え、わしの砦を直撃した。すぐに応戦するはかなわず、敵に殺され、鎧のかけらも残らなかった。敗残兵を調えて、蘇台に隠れ、どうすることもできなくなった。西施よ。すまないが、甥の勾践に伝えてくれ、おばのお前の顔を立て、この老いぼれを許してくれと。
(西施)大王さま、ご安心を。わたくしに考えがございます。
(呉王夫差)千年の覇業は空しく、四野に軍声は沸き起こる、試みに見よ斗牛の間[4]、沸き起こる剣気は漲る。
(呉王夫差)
剣気は起こる、牛斗[5]の傍ら
青き灯に向かひて舞へば、涙は数行
館娃宮の奥深きところにて、紅妝とともにいかで酔ふべき
笑ふべし、このわれは
はじめは斉に至れども
尾羽打ち枯らして故郷に帰れり
(西施)勾践は、わたくしの言うことを最もよく聞いてくれます。大王さま、ご心配無用です。わたくしはこちらにおります。自らの楽しみを追い求め、ふたたび手を打つことにしましょう。わたくしの顔は桃花のよう、蛾眉は御身のために描いておりまする。宮殿の者はみなご恩を受けて、真夜中になってようやく舞うのをやめておりまする。
(西施)
舞ひおはり、真夜中に洞房に入り
笑ひつつ、東窓に倚り、白玉の牀を下りたり
微かなる残月は回廊を下り
君王に寄り添ひて
香を焚く、芙蓉の小帳
とりあへず、風流を幾たびかなす
(呉王夫差)そうは言っても、そなたの甥の勾践はわしとお前がかくも親しいことは知るまい。人を遣わし、話しをさせる必要がある。勾践は兵を収めて帰るかも知れぬ。
(西施)過ぎた日のことは、みな太宰が引き起こしたこと。今日、あの者を派遣しようとなされても、あの者はまいりますまい。
(呉王夫差)その通りだ。西施よ、とりあえず隠れていてくれ。わしがあの者を呼ぶとしよう。太宰よ、何処におる。
(西施が背中を向けていう)門を閉ぢ、窓前の月に構はず、梅花に命ず、おのづから好きにすべしと。[6](退場)
(丑が登場)伯嚭がまいりました。お話は何でございましょう。
(呉王夫差)顔の汚い小人め、口の達者な老いぼれめ。
(丑)どうしてわたしを罵るのです。
(呉王夫差)お前は国をめちゃめちゃにして、わしの体をぼろぼろにした。どうしてくれる。
(伯嚭)諺に「安楽をともにできれば、艱難もともにすべし」と申します。王さまが喜んでらっしゃるときには、わたくしも喜びましょう。今、王さまは心配なさっていますので、わたくしも心配するといたしましょう。王さまが苦しんでいらっしゃるのに、わたくしが楽しいはずがございますまい。
(呉王夫差)くだらないことを申すな。その昔、文種が来て和を請うたとき、わしは猛烈に反対したが、お前にそそのかされたため、嫌々承諾したのだぞ。今日はふたたび和議を請いにゆかねばならぬ。わしに代わっていってくれ。
(伯嚭)その昔、文種が和を請いに来たときは、善人のわたくしがそそのかしましたため、王さまはすぐにご承知なさったのです。わたくしがこれより越にまいりましても、范蠡は邪悪な小人、文種は堅物ですから、たとい越王が承諾しても、彼ら二人は承知するはずがございませぬ。
(呉王夫差)越にも行かず、和も請わぬわけにもゆくまい。
(伯嚭)まいることはまいりますが、ただ一つ、その昔、越王がやってきて、和を請うたとき、黄金五千両、彩緞五千疋、白璧十双、美女二名を差し出して、礼儀正しく交際しました。本日は何もございませぬから、わたくしはまいるわけにはまいりませぬ。
(呉王夫差)お前がたくさんのものを貰っていたとは知らなかった。今はお前の面倒は見てやれぬ。どうか自腹を切ってくれ。
(伯嚭)黄金、彩緞、白璧は、すっかり使ってしまいました。二人の女は残っていますが、年月を経て、すっかり傷物となってしまいました。連れてゆくことはできませぬ。
(呉王夫差)仕方がないな。品物を用意し、お前に持たせよう。
(伯嚭)それからもう一つ。わたくしが行き、相手が承知しなければよし、承知した場合には、どうしたら宜しいでしょう。
(呉王夫差)どういうことだ。
(伯嚭)そのかみの越国で、善人の文種は国を治めて、范蠡は主君に従い、本日の多くの事業を成し遂げました。わが国は伍員がいささか世事を知り、太子さまは若くして老成されていましたが、今やどちらも亡くなってしまわれて、わたくし一人を残すばかり。越国で受ける仕打ちも耐え難いものにございましょう。たとい講和を許されたとて、わたくしは王さまと一緒にはまいれません。
(呉王夫差)こいつめ。わしを騙して伍員と太子を殺させて、国を滅ぼしたのはお前ぞ。お前が行かねば、その昔、伍員に下賜した属縷の剣がこちらにあるぞ。
(伯嚭)王さま、わたしは冗談を申し上げたのでございます。それなのにすぐご立腹あそばすとは。行けというならすぐまいりましょう。和議の件は、敵の以前のやり方に従うことといたしましょう。
(呉王夫差)
皇天は災禍を下し
老年の艱難は悲しむべいなり
かの者はいま越に赴き
言葉には気をつくるべし
主君は臣下に 妃は妾となるを請ひ
三年の間 厩に住まんことを願へり
(合唱)
旅装を調へ
銭塘を過ぎ
万歳を山呼して、越王を拝すべし
(伯嚭)
主君に別れ、異郷に赴く
本日伯嚭に与へしは何の位ぞ[7]
王さま。
越王の糞さへも嘗めざるを得ず
その臭きこと、堪へがたからん
必ずや越王のため、仕事をせざることを得ず
(合唱)
(呉王夫差)禍は福の隠るるところなり
(伯嚭)福は禍の倚るところなり
(呉王夫差)試みに見よ、軒端の水を
(伯嚭)滴る場所のたがふことなし