第三十一出 定計(范蠡らが計画を決める)
(越王勾践、范蠡、文種が登場。越王勾践)
海黒く、山暗く、剣気[1]は沈む
雄き心を奮はんと誓へども
雄き心はいまだ奮はず
(范蠡、文種)
蟄龍[2]は眠り、長き夜に長吟し
甘霖[3]を降らさんとせり
必ずや甘霖を降らすべし
(相見える。越王勾践)寡人は深き恨みを受けて、心を労することも久しい。日夜苦しみ、かつての仇に報いることを望んでいる。今や兵士は精強となり、糧秣は満ち足りている。この機に乗じて、呉を伐ってはどうだろう。
(范蠡、文種)私どもの考えでは、謀略はいまだに成らず、天運もいまだ至りませぬので、おそらくは不可でありましょう。
(越王勾践)
千年の恨みあり
ここ幾とせか
心には深き怨みが積もれども、今に至るもぐづぐづとせり
身を労し、思ひを焦がし
春氷を踏むがごとくに、心は常にびくびくとせり
本日は糧秣は足り、兵士は強し
一年中、声を呑み、怒りを忍ぶわけにはゆかず
わしの心を二人の大夫は慮るべし
(范蠡、文種)
深く考へ
つぶさに考へたまへかし
天運はいまだ至らず
越国に
民草は多けれど
王さまの恩徳は遍きものにはあらずして
わが計略は密ならず
敵方の贅沢は甚だしくはあらずして
忠臣もまだ死せざれば
我らは安眠するを得ず
(越王勾践)二人とも、いったいどうすればよいのだろうか。
(文種)わたしは以前九つの献策をいたしました。一つが欠けてもいけません。一つめは、天神を尊んで、その霊に祈ることです。二つめは、財貨を贈り、忠臣を奢侈にすることです。三つめは、美女を献上し、呉王の心を惑わすことです。四つめは、大木を送り、金を使い果たさせることです。五つめは、穀物の値段を上げて、国を貧しくすることです。六つめは、大金を佞臣に与えることです。七つめは、反間の計[4]を用いて、忠良を殺すことです。八つめは、武器を鋭くし、その隙を伺うことです。九つめは、天運を待ち、敵の弱みに乗じることです。
(范蠡)文大夫の策略はすばらしいものにございます。今、王さまは天神を尊ばれ、宝も贈られ、美女も献じ、奸臣には賄賂を送り、武器を鋭くされました。王さまは五つを満たし、四つを満たしていられませぬ。計略でございますが、わが国の穀物が不作である、銀百万両で、穀物百万石を買いたいとおっしゃれば[5]、敵方は銀を貪り、必ず承知するでしょう。来年に穀物をすべて蒸して返せば、彼らは穀物を生産することができず、人民は餓死するでしょう。そうすれば呉の国の糧食は尽きてしまいます。昨晩、天は神木二本、大きさは二十囲、長さは五十丈のものを生じました。王さまは職人に命令し、形を定め、丹青を塗り、縷金を施し、珍宝を嵌め、それを呉王に進上されれば、呉王はさらに楼台を建て、大工事を行いましょう。そうすれば呉の国の財貨は尽きてしまうでしょう。そのときに伍員が呉王を諌めれば、伯嚭は必ず伍員のことを讒言し、呉王は必ず伍員を殺すことでしょう。奸臣が用いられ、忠臣が殺されて、人民が貧しくなって、財貨が尽きてしまったときに、天運が到来します。呉が斉を伐つときに、呉の国内は空になります。わが兵が長駆するなら、破竹の勢いとなりましょう。
(越王勾践)二人の計略には、従わせていただこう。ただ歳月がたつのははやく、功名はいまだに成らぬが、どうすればいいだろう。
(越王勾践)
清秋は巡りきて、西風は凛凛たり
誰かおもはん鬢絲[6]の増すを
歳月は奔馳すれども
志気の沈むをいかで許さん
(文種)
静かに思んみまするに
天運と人事は既に明らかなれど
軽軽に事を運びて謀略の先に漏るるを恐れたり
天道は昭昭として悪人に災す[7]
満ちたれば災禍は至り
安逸は鴆を生ぜん[8]
(越王勾践)
怨みは深く
青衫の袖は涙でしとどに潤ふ
三年の苦しみを忍びたり
今もなほ、ぐづぐづしなば
数年の労苦
半生の光陰は徒とぞならん
(范蠡)わたくしも心配にございます。王さまはおんみずからが苦しみに遭われたことを恥とされ[9]、下位に身を置かれることを承知していられませぬ。星象を観測すれば、これより国は繁栄し、運気は復し、図讖[10]にかなうことでしょう。
(越王勾践)それならば、文大夫に神木を送ってもらおう。それから白金百万両で、穀物を買ってもらおう。返事を待っておるぞ。
(文種)明日まいりましょう。
(文種)木を送り、工事させれば、人民は疲弊すべけん
(范蠡)金を送り、穀物を買ひ、太倉を空にせん
(越王勾践)万丈の深潭の計[11]を施すことなくば
(合唱)驪竜の頷の下の珠[12]をばいかでか得べけん
[1]武器の輝き、そこから転じて人の才気のこと。ここでは両方の意に解釈できよう。
[2]眠れる龍。ここでは越王勾践を喩える。
[3]甘雨に同じ。恵みの雨。
[4]三十六計の一つ。敵方の一部を内応させる計略。
[5]原文「請糴一百万石」。「糴」は、政策的に、穀物を買いしめること。
[6]鬢の白髪。
[7]原文「窺天道昭昭禍淫」。『書』湯誥「天道福善禍淫」に典故のある言葉。
[8]原文「宴安生鴆」。「宴安鴆毒」という言葉が『左伝』閔公元年に見える。安逸は災禍を招くの意。
[9]原文「主公羞愧親見恁」。張忱石等校注『浣紗記校注』によれば、「恁」は越王が呉に抑留されたときの苦しみをいうとされるが未詳。
[10]占いの本。それに書かれていること。
[11]深い計略。
[12]黒龍の顎の下にあるという珠玉。得がたいものの喩え。『荘子』列禦寇篇に見える言葉。