第二十九齣 聖別(公孫聖が妻と別れる)

(公孫聖夫妻が登場。公孫聖)

渓山の静かな地にて

耕して釣りして日々を過ごしたり

(妻)

いとも小さき茅庵(いほ)なれば

高堂大廈は思ひもよらず

(妻)亭主どの、万福をいたしましょう。

(公孫聖)女房よ、揖をしてやろう。川辺には数間の茅屋があり、山沿いに幾畝かの荒田がある。(すなど)りと耕作以外に仕事はない。天命に従って自然に任せる。

(妻)城の近くの烟霞の別墅[1](かは)に満つるは風月漁船。酔へば高臥す雲深き場所、人はみな言ふ神仙なりと

(公孫聖)女房よ、このわしは乱世に遭い、陽山に隠棲し、数年になる。身は安らかに心は穏やか、ただ一つ、今までずっと言わなかったが、今年は運が宜しくないのだ。まさに今日、昼を過ぎれば、災いは過ぎ去って、安心なのだが。

(妻)亭主どの、今年も半分が過ぎましたから、災いなどあろうはずがございません。表にどなたかこられたようです。

(王孫駱が登場)

故人はいづこぞ

寂寞として雲樹[2]を見たり

悄悄として深き山には伴もなく

谷川に沿ひ、直ちに茅廬へ到るなり

ゆるゆると歩いてくると、ここはもう公孫兄いの家の入り口。すぐに入って構わぬだろう。おや。義兄(にい)さん、こんにちは。

(公孫聖)おや、王孫よ、こんにちは。

(王孫駱)お義姉(ねえ)さま、こんにちは。

(妻)王孫さん、万福をいたしましょう。

(公孫聖)義弟(おとうと)よ。久方ぶりにやってきたな。

(王孫駱)こちらに参りましたのは、君命を奉じているため。

(公孫聖が驚く)どういうことだ。

(王孫駱)王さまは、昼、姑蘇台でお休みになり、奇すしき夢を見られたために、兄じゃに占っていただくのです。

(公孫聖が地に伏して悲しみ、また起き上がる)女房よ、やはり思った通りだわい。

(妻)亭主どのは、王さまのお顔を見たことがございません。今、召されたということは、富貴が到来したということ。それなのに、悲しまれるとは、いかなることにございましょう。

(公孫聖が天を仰いで長嘆する)女房よ、おまえは分かっておらぬのだ。今日は壬午で、時は南方、命は上天、[3]逃がれることはできぬのだ。自分が悲しいだけでなく、呉王のことも悲しいのだ。

(王孫駱)兄さんはかねてから才徳をお持ちですから、上は主君をお諫めし、下は御身を保たれましょう。悲しまれるには及びませぬ。今すぐに参りましょうぞ。

(公孫聖)義弟よ、わしは災いを避けるため、この山に隠居して、長寿を願っておったのだ。ところが今日はまことに辛い、事ここに至っては、逃げられぬ。弟よ、おまえは先に行ってくれ。女房に別れを告げて、後から行くから。

(王孫駱)わたくしは村の入り口に泊まっております。兄じゃとともに参りましょう。

(退場、妻)亭主どの、王さまのお召しですから、よいこともあるやも知れませぬ。とりあえずお行きなさいまし。

(公孫聖)女房よ、わしは先のことが分かるのだ。わしの命は、あと十日じゃ。わしが死んだら、埋葬するには及ばぬぞ。後日、精霊が現れれば、呉王は後悔し、忠臣を追憶しよう。子供らと生活し、わしのことは忘れるのだ。

(妻)どうしてわたしを捨ててゆかれるのでしょうか。

(妻が拝礼をする)

たまたま運が悪しきなり

哭くことをやめよかし

ゆくすゑの吉凶は測るべからず

万一天が禍福を転ぜば

(合唱)

夫婦は離ればなれとならん

夫婦は離ればなれとならん

これよりは旅路を急がん

(公孫聖)

われははや年老いぬれば

まさに誅戮せらるべし

われが死になば

国もにはかに滅ぶべし

国家は滅び、生命(いのち)は失ひ、何によりてか贖はん

はずかしや、十年(ととせ)の間、茅屋に隠れたりしは

(合唱。妻)

常に笑へり亭主の深山(みやま)に隠れ棲みしを

これもまた、生命を全うし、名利を逃れ、汚辱を避けんがためなりき

誰か知るべき、かへつて出仕を促されんとは

残されしわれは一人で、いかなる末路を迎ふべき

(合唱)

秋風はひゆうひゆうと

夕陽ははやくも西に下れり

死別、生別

寂しき景色は目に満てり

(公孫聖)

名利を求め、官職と俸禄を得んとするにはあらずして

奥深き竹林の中に棲めども

時が到らばなどてかは得逃れん

女房よ、先ほども頼んだが、決してわしを埋葬するな。かくもみすぼらしい屍を棺に入れるな。

(合唱)

(公孫聖)狐は死なば必ずや(かうべ)を丘に向くと聞きたり

老骨の収むるなきは哀れむべきなり

(妻)送別し、谷川の水に望めり

いづれの日にか君を思ひてほとりに至らん

 

最終更新日:2010119

浣紗記

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[1]霧の立ちこめた別荘。

[2]雲の懸かった木々。

[3]原文「今日壬午、時加南方、命属上天」未詳。

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