第二十四齣 遣求(魯が呉に援軍を求める使いを送る)
(季桓子、堂候官が登場)
区々たる東魯の地を守る
強暴な斉に侵略せらるるをいかんせん
軍隊を請ひ救ひを求む
まつすぐに勾呉[1]に向けて使者を通ぜん
教化はあまねく、通りでは落ちたるものを拾ふことなし。魯を興し、斉をぞ傾けんとせる。今もなほ羞づ、その昔、多くの女を収めしを[2]。人の世を歩きたる孔仲尼。
わしは魯国の上大夫季孫斯だ。姫家[3]の名族で、魯の重臣だ。わが国主定公、昭公、襄公、成公さまより先は、数十代以上あり。ともに社稷を建てし功あり。わが先君文子[4]、武子[5]、悼子[6]、平子[7]までは、二百年にならんとし、みな朝廷で政治を執れり。思はざりき、わたしに至りて、運勢の衰へんとは。最近は斉国の陳恒[8]が、その主君をば弑せんとして、鮑晏[9]の勢いを憚りて、群臣に威光を示さんとぞしたる[10]。それ故に、魯を征伐する軍を起こして、隣国に勲を建てんとしたるなり。今では兵は少なくなりて、国は次第に傾けり。使ひを呉へと遣はして、救援を求めんとしたれども、君命を辱むることなき者を、選ぶは難し。孔仲尼の弟子たちはみな六芸に通じているとか。昨日は君命を奉り、使ひを探せとの仰せ。子貢は行かんと願ひ出で、仲尼はそれを許したり。堂候官を呼べよかし。
(堂候官が返事をする)わしのために車数十台、従者数百人を準備してくれ。出発を見送ってくれ。ぐずぐずしてはならぬぞよ。
(公伯寮が登場)
大国の窮兵はしばしば攻め寄す
国境の情勢に日夜馳駆せり
今は守備をし
廟堂に勝算あれば
じつと待つべし
わしは魯国の下大夫公伯寮だ。斉国は不仁であるため、わが国を侵略した。季老大夫のもとへ行き、様子を探ろう。取り次ぎをせよ。
(堂候官)公伯寮さまがいらっしゃいました。
(季桓子)お呼びしてくれ。
(公孫寮が中に入って会う)
老大夫さま、こんにちは。
(季桓子)大夫どの、挨拶は抜きだ。
(公孫寮)斉国は非道にも、わが国境を侵したとか。老大夫さまにお尋ねします。どうしたら宜しいでしょうか。
(季桓子)大夫どの、わしの話しをお聞き下され。
国運は振るはずに
倉惶として拠り所をば失へり
今にいたりて守備し得ぬことを怨めり
敵に対抗せんとすれども阻むは難し
昨日は王さまと相談し、
使者を遣はすことにせり
(公孫寮)どちらの国に遣わすのでしょう。
(季桓子)
呉の国に遣はして救ひを求めん
必ずや承諾すべし
(公孫寮)聞けば呉王は凶暴で、勾践を拘留したとか。救ってはくれますまい。
(季桓子)大夫どのはご存じないのだ。越は夏の後裔で、呉は実は魯の一族。親疎を論じるのであれば、呉と魯はともに姫姓であるのだ。必ずやわが国を扶けよう。
(公孫寮)
暴逆なる斉国は節度を失ひ、強臣は主君を弑し
本国の公卿たちに権威をば示さんとして
外国の民を攪したり
使ひの者を遣はさん
使ひの者を遣はさん
ゆつたりとして風采優れ
言葉巧みで
姑蘇[11]に使ひし
わが国を助けしむるは誰ならん
(季桓子)大夫どの、呉への使いに関しましては、昨日に、殿さまが孔仲尼の門下生に頼まれました。
(公孫寮)仲尼の門下で、使いとなるに堪えるのは誰でしょう。
(季桓子)昨日、聞いたところでは、初めは子路が行くことを願いましたが、仲尼はそれを止めたとか。
(公孫寮)その子路とは、仲由と呼ばれている者ではございませぬか。
(季桓子)まさにその通りです。
(公孫寮)あの者は、気質が粗忽で、容貌は凶悪、仲尼はつねに、由などは、ろくな死に方はできまいと言っています[12]。あの男など、行けはしないでしょう。
(季桓子)その後、子張、子石が行こうとしましたが、仲尼は許しませんでした。
(公孫寮)その子張とは顓孫師、子石とは公孫龍ではあるまいか。
(季桓子)まさにその通りです。
(公孫寮)子張の顔は堂堂として、いっしょに仁を為すのは難しいでしょう[13]。子石は堅白の異同を説き[14]、白馬は馬ではないと言い[15]、ひたすら天地のことを語っておりますから、ますます行くには不適当です。
(季桓子)その後、子貢が行こうとしますと、仲尼はそれを許しました。
(公孫寮)老大夫さま、お話になられますな。子貢のことは存じております。あの者は端木賜といい、筋金入りの小人で、普段はとてもやりくり上手、家には万金を貯えております。しかし、自分が使うばかりで、少しも人を救おうとはいたしませぬ。原憲などは善人です。桑の戸に蓬の枢。顔淵は善人で、瓢箪で飲み食いをしておりまする。子貢は彼らと同じ孔子の門人で、毎日、一緒にいるというのに、少しも世話をしようとはいたしませぬ。そのような友は必要ございませぬ。孔夫子とはおかしな御仁。つねに、「賜は命を受けざるに利殖す」と言っているのに[16]、今日はどうしてあのような者を遣わしたのでしょう。
(季桓子)あなたはその一を知りその二を知りませぬ。子貢は聖人の門下にあり、十哲に名を連ね、言語に優れ、聡明さが並外れているばかりでなく、仲尼はつねに子貢のことを瑚lの器と称しております[17]。原憲、顔淵の貧乏を、子貢はいつも助けているのに、二人はそれを断っているのかも知れません。今回、使いにたつならば、必ずやうまくいくことでしょう。あの者を軽くみられてはいけません。
(公孫寮)わたくしは、寡聞なために、善悪を弁えず、君子を侮ってしまいました。恥ずかしくてたまりませぬ。これからは、つつしんでご命令に従いまする。
(季桓子)
国のため深く謀りて
諸侯に救ひを請はんとするに、凡人を遣はしてよきはずがなし
蕭々たる一命が遙かに呉へと赴かば
堂々たる大軍は来て魯をぞ守らん
大夫どの、子貢をいかなる人物と思し召される。
(合唱)
聖門の高弟にして
その一を聞き、その二を知れり
当今の大儒にして
瑚lの器
軽んずべからず
(公孫寮)子貢のことを、
章句を弄べるのみなりと思ひしかども
孔子の高弟なりしとは知らざりき
本日は、
呉門の白練、いづれの処ぞ[20]
(合唱)
老大夫さま、さようなら。もう一つ、重要なお話がございます。子貢でうまくゆかないときは、公伯寮を使われては如何でしょう。
(季桓子)それがよかろう。見よや。
(季桓子)
天下の英知は孔門に尽く
杏壇で教へを垂れて、集へるさまは雲のごと
(公孫寮)
絳き帳に謀をば巡らして、魯を守りたり
始めて信ず、人の世に聖人のましますを
[1]呉のこと。周の太王の子、太伯の字。太伯は呉の始祖。
[2]季桓子が、斉の国の女学士をもらいうけ、三日間政治を行わなかったので、孔子が会いにいったところ、長嘆息して恥じたという話が、『史記』孔子世家に見える。「桓子受斉女楽、三日不聴政。孔子遂行、桓子喟然歎曰、夫子在我以群婢故也」。
[3]周王朝の皇室。魯の始祖も姫家の出である。ここでは魯の国の意で使っている。
[4]季孫行父。
[5]季孫宿。季孫行父の子。
[6]未詳。
[7]季孫意如。季孫宿の孫。季桓子の父。
[8]斉の人。簡公に仕えたが、やがて主君を殺し、平公を立てた。
[9]斉の高国。高国は斉の上卿。
[10]以上の話は『越絶書』陳成恒内伝に見える。
[11]呉の国のこと。
[12] 『論語』先進。
[13] 原文「子張堂堂相貌、難以為仁」。『論語』子張曾子曰「堂堂乎張也、難與並為仁矣」。
[14] いわゆる堅白論。堅いことと白いことは別々の概念であり、堅くて白い石は石ではない、堅くて白い石は白くはないなどと説く詭弁。
[15] いわゆる白馬非馬論。白いことと馬とは別々の概念であり、白い馬は馬ではないと説く詭弁。
[16] 『論語』先進。
[17] 『論語』公冶長「賜也何如、子曰、女器也、曰、何器也、曰、瑚l也」。
[18]斉の都臨淄の西門。
[19]道祖神を祀り、旅路の安全を祈りながら人を送ること。
[20]原文「看呉門白練知何処」。未詳。