第二十三齣 迎施(西施を迎える)

(范蠡が人々とともに娘を連れ、冠服で登場。范蠡)

毎年天下を空しく奔走

往事を顧みるのをやめよ

桃源の深みで同心をば結び[1]

早々に相別れ 三年を経て今に至れり

わしは范蠡。その昔、苧蘿山麓に旅をして、西施に会ったが、あっという間に三年あまりもたってしまった。国事に励み、江関に奔走し、結婚をするひまがなかった。最近報せがもたらされたが、まだ嫁いではいないとか。先日は王さまが呉王に献上するための美女を選ぶと仰った。国中を探しはしたが、良い娘はいない。国家の仕事は重大だから、一人の娘は惜しむに足らぬ。謹んで王さまに推薦すれば、山中に迎えにゆけとのお達しだ。けれども娘を裏切って、昔の盟に背くのだから、心はとても落ち着かぬ。どうすればよいのだろう。ここまで来てはみたものの、奥深い山里に、大勢の車馬で行っては、きっとびっくりするだろう。とりあえず、昔のように、衣装を換えて、こっそりと彼女の家に行くとしよう。先に彼女に対面し、つぶさに主君の意向を告げて、彼女がそれに従ってから、車馬で彼女を迎えにゆけば、良いではないか。兵士たち、とりあえず村の入り口に留まって、わしが呼んだら、やって来るのだ。

(人々が返事をし、生とともに退場する。西施が登場)

秋は来て春は去れども 眉根はつねに閉ざしたり

愁への病はいづれの年にか癒ゆべけん

灯花[2]は昨夜多情の如し

(あした)に起くれば 軒先に鵲は喧しく 我が身はいよよ寄る辺なし

わらわは西施、范大夫さまと別れてのち、知らぬ間に三年になろうとしている。あのかたはずっと呉国の朝廷に留まって、最近戻ってこられたとか、報せがあって安心した。彼の君はお国のために尽くされていたのだから、わらわは他人に嫁いでよいはずがない。今、父は遠出をしており、母は病気、わらわはひたすら門を閉ざし、針仕事をし、あのかたの便りを待つのみ。これぞまさしく「身に彩鳳の翼なしとも、心に霊犀一点の通ずることあり[3]」。

(范蠡が道服を着て登場)一人で山の麓を訪ね、休んではまた登る。茅屋は斜めに連なり、松葉を隔てる。どの家の主も戸を開け、籬を巡る野の草に黄の蝶は飛ぶ。道々人に尋ねたが、西施の家は、門は流れる水に臨み、家は青い山に拠り、数本の修竹(おさだけ)を植え、小さい橋の先にあり、茅葺きで、百花の深いところにあるとか。ゆるゆると歩いてくれば、ここが彼女の家だろう。どうして門が閉じられているのだろう。叩くのは気がひけるな。ここで少し待ち、中から人が出てくるか様子を見てみることにしよう。

かの人の家を尋ねて 山道を通り過ぎ

幾つかの清らなる谷川をしぞ渡りたる

門は閉ぢられ 周囲にはまばらな籬

花と竹とに覆はれり

門に寄り添ひ 咳を一声

中には人がいるのだろうか。どうして音がしないのだろう。門に寄り添い咳を一声。叩こうとしてまたやめて、さらに一声懸けてみる。どなたかいらっしゃいますか。

(西施)どなたでしょう。

(范蠡)可愛らしいこの声はきっと彼女だ。とりあえず返事はせずに、出てくるのを見ることにしよう。すぐに名前を告げるのはよくないからな。

(西施)

万山は奥深く 寂々として村は静かに

終日人の()ふことぞなき

どなたでしょうか。

(范蠡)わたしだよ。

(西施)門を開けてみる。しきりに咳をするのはどなた[4]

(門を開ける)あれ。どなたかと思ったら。(退く)

(范蠡)あなたが家に居られてよかった。

(西施)中にお座りくださいまし。父は家にはおりませぬが、どういたしましょう。

(范蠡)どうしてもお母さまに会いたいのです。お話がございますので。

(西施)それならば、どうぞお入りくださいまし。

(范蠡)西施さん、こんにちは。彼女は急いで挨拶し、春風は満面に生じているぞ。

(西施)范蠡さま、むさ苦しい家で、差し上げる物とてございませぬ。万福をいたしましょう。

(范蠡)揖をいたしましょう。わたくしは、主君が異国に囚われたため、堅い約束に背いてしまい、本当に申し訳なく思っています。

(西施)あなたが囚われていたことは、すべて存じております。国家のことは重大で、結婚などは些細なこと。つまらぬ一人の娘のために、民草の期待に背いてはなりませぬ。

(范蠡)西施さん、身のほど知らずではありますが、お話ししたいことがあります。

(西施)とにかくお話しくださいまし。

(范蠡)わたしはあなたと本当は結婚をして、百年の誼を結ぶつもりでしたが、図らずも国家が滅び、君臣ともに囚われました。幸いにわたしのつたない策略により、主君は帰国することができました。現在呉王は荒淫にして節度なく、酒と女に迷っております。主君は美女を探し求めて、呉王の欲を盛んにしようとし、国内をあまねく探しまわりましたが、まったく人が見付かりません。思うに、絶世の美女はあなただけ。たまたまあなたを褒めたところ、主君はあなたを呼ぼうとしました。あなたはご承知されていないので、わざわざ尋ねてきたのです。お尋ねします、あなたのお考えは如何でしょうか。

(西施)わたしは田舎の娘にすぎません。楚館秦楼に赴いて、珠翠をつけ、歌舞することなどできません。それにもう婚約し、三年間、胸の痛みも患いました。お国のためなら、なにとぞほかの娘をお捜しくださいまし。わたくしの身を、他の方に捧げるわけにはまいりませぬ。

(范蠡)あなたの気持ちは、わたしも分かっているのです。しかし社稷の興廃は、すべてあなたに掛かっています。あなたが行ってくださるのなら、この国は存続し、我が身も保たれ、いずれはお会いすることもできましょう。行かないことに固執なされば、国は滅び、我が身も滅び、その時は婚約をしていても、西施さん、あなたとわたしは溝渠の鬼となるでしょう。百年の喜び[5]を求めることなどできませんよ。

(西施)そうはいっても、三年間待ちこがれ、今はこうしてお会いして、死ぬまで一緒になることができると思いましたのに、ふたたび波乱が起こるとは思ってもいませんでした。本当に悲しいことです。

(西施)

三年前に誓ひを立てて

百年の喜びを求めたり

記憶せり 谷川のほとりにて 双方の証を立つるを

おん身が

呉の朝廷に留まると聞き

胸を夜通し痛めたり

渓紗一縷で約をなせども

我が君の情は少なく

我が(めい)はまことに薄し

地の果てまでは行かずとも

異国にてさすらふ時は

音信(たより)なく

深き井戸へと陥らん

(范蠡)

別れて以来 年月を経て

二人は離れ離れとなれり

日夜、気に懸けたりしかど

いかんせん 人は遠く天涯は近く

区区(このわれ)は約束に背きたり

平生を羞づ

誰か思はん ここ数年で国は傾き

おんみまで(いたつき)になりたまひたりしとは

わたしは何も成し遂げられず

両鬢の斑となるこそ恥づべけれ

今日わざわざおんみの家にやって来たのは

王命を受けたるがため

江東の民草はおんみを頼れり

西施さん、行くのを承知してくだされば、両国の興廃と存亡は、予知することはできません[6]。わたくしたちがまた会うことも、あるでしょう。

とくとく旅路に上れかし

ぐづぐづとなしたまひそね

結婚は前世にて定められたるものなれば

(西施)それならば、嫌々ながら承知しましょう。奥に行き、母に話しをしましたら、まいりましょう。

(范蠡)そうしてください。

(西施が退場。范蠡)兵士たち、どこにいる。はやく冠帯をもってくるのだ。

(人々が登場。西施を呼ぶ。北威、東施、西施が登場。北威、東施)西施さん。お父さまがご不在で、お母さまがご病気であることを、村で聞き、送りに来ました。

(哭く。范蠡)哭いてはならぬ。西施どのの服を換えるのだ。

(北威、東施が服を換える。西施が悲しむ。西施)

独り身のわたくしは

お金持ちのお屋敷の道さへ知らず

ましてや遥かなる道は いまだ歩みしこともなし

旅する前より体は震へり

今となりては、谷川のほとりを一人歩きしことぞ悔やまるる

げに恥づかしや

浣紗を送りたるは誰そ

謹んで別れを告げん

おんみとの結婚は、得遂げざるべし

(范蠡)西施さん、お怒りにならないでください。

(北威、東施)西施さん、あなたは私たちのような売れ残りとは違います。このような商売には手を着けなければなりません。杭州を過ぎ、私たち二人のことを思い出したら、三四担の白粉を買い、送ってください。

(哭く。范蠡)おまえたちは送らずともよい。去れ。

(北威、東施が退場。人々)それでは出発いたしましょう。

(人々)

鸞車にてお迎へし

笙歌は進めり

王都は近づき

歓声は城にぞ満つる

これよりは一生の楽しみを

とりあへず敵方に享けしめん

王さまのご期待も切なれば

とく行きねかし

とく行きねかし なとどまりそね

謹んで申し上ぐべし

この結婚は、かならずや成就すべけん

(人々)范大夫さまに申し上げます。すでに宮門に着きました。

(范蠡)王さまは後殿にいらっしゃるとか。すぐ入っても構わぬだろう。

(越王勾践)

日は永し、深殿の中

払々と南風は競ひたり

しばし弾けるは五弦琴[7]

我が民の愁へを解かんためぞかし

(范蠡が中に入り会う)王さま、西施を迎えてまいりました。宮殿の外におりまする。

(越王勾践)范大夫よ、すぐに呼んでまいれ。

(西施が中に入る。人々が大声を出す。西施が拝礼をする。越王勾践)美人よ立つのだ。本当に天姿国色、絶世無双じゃ。范大夫よ、すべてお前のお陰だな。

(范蠡)それはとんでもございません。

(越王勾践)

まことに麗し

艶めかしさは描き得ず

美人よ、

思へば千年の国家は吊り下げられたる磬にも似たれど[8]

汝によりて安定すべし

枯れし木のまた若返ることを得ば

国を挙げ、汝を拝せん

(西施)凡庸で、顔の醜いわたくしが、王さまのお望みに添えないことが心配にございます。

(西施)

薄命を嘆き

無能を恥ぢたり

賤妾(わたくし)は今なほ若く

貧乏なれば田舎臭さは抜けきらず

金屋には釣り合はざるべし

(越王勾践)歌舞はわきまえておるか。

(西施)みすぼらしき(もめん)(くん)(いばら)(かざし)、歌舞などは全く存じておりませぬ。

(范蠡)

西施は賢く、美しければ

江東の万の馬、千の兵にも勝るべし

異国にて功を建つれば敬ふに堪ふ

その時は海甸[9]は清められ

烽火(のろしび)はみるみる消ゆべし

(越王勾践)范大夫よ、命令を下すのだ。宦官を五十人、宮女を百名選びあげ、宝馬、香車[10]、旌旄[11]、鼓吹[12]で、美人の伴をし、西土城[13]の別館に行き、留まらせるのだ。今すぐに后を呼んで歌舞を教えさせようぞ。

(人々が返事をする。越王勾践、范蠡が先に退場。人々が西施を連れていく。人々)

金門に速やかに主君の命を伝へたり

宮女を集め、西城に赴かしめたり

心を尽くして昼夜の饗応

いづれ法駕[14]がご来臨

民草は行幸を見ん

(退場)

最終更新日:2010119

浣紗記

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[1]結婚を約し、の意。范蠡と西施が苧蘿山で巡り会い、婚約したことを指す。

[2]灯明の油が固まってできる模様。その形で占いをする。

[3]原文「心有霊犀一点通」。もともと李商隠『無題』の句。犀の角の中心に穴が通じていることから、心が通じることをいう。李商隠『無題』「身無彩鳳双飛翼、心有霊犀一点通」。『漢書』西域伝「自是之後、明珠、文甲、通犀、翠羽之珍盈於後宮」注「如淳曰…通犀、中央色白、通両頭」。

[4]原文「是那個頻頻応」。とりあえずこのように訳す。

[5] 結婚のことをいう。

[6]越が栄え呉が滅びることもあるかもしれない、の意。

[7] 『礼記』樂記「昔者舜作五弦之琴、以歌南風。」。

[8]磬は石で作ったへの字状の楽器。吊り下げて演奏する。ここでは不安定なものの譬え。

[9]海の畔の地方。すなわち越の国。

[10]宝馬、香車は車馬を美しく称したもの。

[11]儀仗。

[12]楽隊。

[13]未詳。

[14]天子の乗り物をいう。

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