第十九齣 放帰(越王たちが赦免されて帰国する)
(文種が登場)龍門の十丈の水。勢いは関河[1]のごとく盛んなり。春風が吹く日には、万重の波を起こさん。
(悲しむ)
殿さまの越国を離るることを悲しめり。三年はまたたく間、今生は帰らるることあるまじと思へども、あにはからんや積霾[2]に太陽は現れて、枯木は春に巡り会ひたり。范大夫の妙策と、我が国の洪福により、呉王より赦免を受けて、故郷に帰るは、まことに幸ひ。聞くならくわが王さまは長江を渡らんとしたまひたりと。今すぐに諸大夫を連れ、迎へにゆかん。
(退場。越王勾践、王妃、范蠡が登場。越王勾践)
春雷に大地はふるへ
愁雲は風を巻きあぐ
人の世に寒暑は巡り
年に一度燕は還る
幾年も還らざるこの我は笑ふべきなり
(王妃)
江山は変はらざれども
容顔はすつかり変はれり
試みに問ふ 眉の愁へは深きやいなやと
(范蠡)
一朝にして羈鶴[3]は籠を抜けて飛び
ふたたび蓬莱宮[4]に至れり
(越王勾践)目を極め青山に数行の涙を下す。おのが身は滄海の一窮鱗なり[5]。
(王妃)愁へつつ見る 落日に一羽飛ぶ鳥。
(范蠡)試みに問ふ 舟にて還るは何処の人ぞ。
(越王勾践)范大夫。このわしは蒺藜[6]に依り、幽谷に赴かん。顔色は憔悴し、志気は挫けり。本日は故郷に還るを得たれども、何の面目ありてかふたたび江東の父老に会はん。
(范蠡)殿さま、それは違います。王さまは虎穴を抜くれば、すでに机上の肉にはあらず。龍潭に骨を抜きたれば[7]、池中の物[8]にあらざらん。今や呉の宮殿は遠くなれども、故郷はなほも遠ければ、速やかに進むべし、恐らくは変事あるべし。
(越王勾践、王妃)その通りじゃな。
(越王勾践)
会稽山への道は遙かに
芳草は芊芊[11]として
天涯の遊子あり
黒貂裘[12]の破るるは笑ふべし
英雄は偃蹇として[13]昔日に異なるも
風景は依稀として[14]往年に似る
(合唱)
春は去りゆき
花の開くに会ふたびに故郷を思へり
江南の地に
海北の空
断腸す 返り見すれば それぞれの地に戦はありき
東に帰る道は幾千
雲入る山の何処ぞ旧きわが家なる
緑と紅は衰へて
髷は乱れて簪は落つ
荊釵布裙で異国に留まり
珠翠を舞はせし若き日をしぞ思ひたる
(合唱)
青山の外
緑水の前
遙かに見たり 官道の絃のごとくに直なるを
鶗鴂を聞き
杜鵑を聞けり[15]
故郷は白雲のほとりにあるべし
(范蠡)王さまに申しあげます。もう銭塘江につきました。どうか王さま、お后さま、舟にお乗りくださいまし。
(越王勾践、王妃、范蠡が舟に乗る)
(范蠡)
銭塘に雲水は連なりて
一片の帆の東へと渡るを眺む
流れに随ひ矢のごとく
ただ世の遷ることのあるのみ
王さま、お后さま、わたくしは「安にいて危を忘れず、治にいて乱を忘れず」と聞いております。まだ長江を渡ってはおりませぬが、一言申し上げましょう。帰国されましたなら、王さまとお后さまは楽しみを求められてはなりませぬ。大きな仇に報いなければなりませぬ。三年下僕となった恥辱を、忘れるべきではございませぬ。大便を嘗めた恥辱を忘れるべきではございませぬ。馬を養った苦労をも忘れるべきではございませぬ。苦海に浮かび、大川を渡り、重なる波のただ中に舟を返すといたしましょう。御身は恥辱を受けられましたが、志を堅く持たれてくださいまし。虎の頭に燕の頷は、意味のないものではございません。申し上げます。長江のほとりに人馬が見えまする。大夫たちが迎えにきたのでございましょう。
(文種、泄庸、計倪が人々を率い跪いて迎える)文種、泄庸、計倪が群臣を率いてお迎えにあがりました。
(越王勾践が悲しむ)大夫たちよ、立つのだ。わしはすっかり絶望し、民草に永遠の別れを告げたが、今日故国に帰れるものとは思わなかった。すべては人民たちのお陰だ。
(文種、計倪、泄庸)すべて王さま、お后さまの洪福と、大夫范蠡の策謀によるものでございます。王さま、お后さまの千歳千歳をお祈りしましょう。范大夫どのもご一緒に。
人民は幸ひに安んぜらるるも
国家の大事に
通暁することは得ざりき
鞠躬し 力を尽くせど
恐らくは 拳拳たる君が思ひに背きたるべし
過ぎしことにはすべて命あり
たちまちに相逢ひて年を問ひたり
鴻は遠きにありて
音信は伝はることなく
消息はなし
笙歌は流れ
旗は掛かれり
百官は 本日はふたたび天子のもとに赴く
(人々)
金門で
玉殿に向かひたり
城じゆうの人民はみな騒ぎ
聖王の億万年のご長寿を願ひたり
(越王勾践)烽火に遭ひて覇業はむなし
(王妃)三年間 流落し 風に吹かるる蓬のごとし
(人々)なほ恐る 相会ふも夢中なるかと
[1]山西省河曲県付近を流れる川。
[2]霾はつちふり。大風により土石が巻き上げられ、それが降ること。
[3]囚われた鶴。越王勾践を喩える。
[4]蓬莱は東海上にある島のことだが、ここでは東の海のほとりにある越の国を指している。越の宮殿。
[5]鱗は魚。窮は困窮しているさまをいう。
[6] アサザで作った杖。
[7]原文「蛻骨龍潭」。「蛻骨」は竜が骨を入れ替えること。曹植「神亀賦」「蛇折鱗于平皋、龍蛻骨於淡谷」。
[8]池の中に雌伏しているもの。『呉志』周瑜伝「周瑜上疏曰、劉備以梟雄之姿…恐蛟龍得雲雨、終非池中物也」。
[9]宿駅。
[10]遙かなさま。
[11]草の生い茂るさま。
[12] クロテンのコート。
[13]苦しむさま。
[14] ぼんやりとして、あたかも。
[15]鶗鴂、杜鵑ともにホトトギスのこと。
[16]明るい灯明。缸は油を入れる器。
[17]原文「今宵勝抱銀缸照」。「抱」は「把」の誤字であろう。「勝」は突然の意。