第十二齣 談義(公孫聖が忠義を語る)

(伍子胥が道服に着替えて登場)

笑ふべし、さすらへる一楚囚[1]。蕭々と[2]空しく呉鈎の剣を帯ぶ。終日の恨みはやうやく解かれたり。そのかみの忠心はなほ報われず。このわしは、楚に報い、呉に帰り、呉を助け、越に入り、西鄙[3]において願いを果たし[4]、必ずや東国に志を遂げんと思へり。あにはからんや主君は忠言受け入れず、奸臣の言ふことを聴かれたり。深き恨みに報いんとして果たされず、積みし功は成らんと欲して崩れたり。かの国と講和をすでになしたれば、大事はすでに終はりたり。本年もまた暮れんとす。志気は次第に衰えて、英傑は往時に及ばず、勇力は昔日よりも衰へり。流れに従ひ、朝廷に伴食せんと思へども、この身を立つるすべはなし。恩義を忘れ、林壑に引退せんと思へども、地下にまします先王さまに報ゆるすべもなかるべし。進退は窮まりて、往来すれば垣根にあたらん[5]。わたしには結義した兄があり。その名は公孫聖。聡明にして達識あり。明察をして機微に通ぜり。心は氷の壺のごと。人々は水鏡とぞ称したる。陽山[6]の下、震沢[7]のほとりにし隠居したれば、気高き人を訪問し、我が国の興廃を占はしめて、己の出処を定むべし。今日は晴れの日、とりあへず陽山へゆくとせん。

(退場。公孫聖が道服をつけ、公孫聖に扮して登場)

わしの苗字は公孫で、名は聖といふ。呉国の秦余杭山の者。末世に栄誉を擲ちて、衡門[8]にじつとしてをる。耿介にして脱俗の操を保ち、洒脱にして出塵の思ひを抱き、釣り竿を垂れ、足跡を渭浜[9]に隠し、甕をかかへて農園に水をやり、漢渚[10]にて機心[11]を断ちて、[12]朝には木蘭の露を飲み、夕べには秋菊の落英を食らひたり。[13]清らかな風を迎へて(へや)に入らしめて、白雲を招いて堂に昇らしむ。巣由[14]の絶軌を継ぎて[15]、沮溺[16]の高風を踏み行へり。まことにや、天子は臣に恵まれず、諸侯は友に恵まれず。今日は晴れの日、青山の奥、白雲の深きところを訪ねゆき、ぶらぶらとしばらく歩かば、いかばかり楽しかるべき。

布の(したうづ)、青き袍

草の衣に黒帽子

渓山の夜は明けて

巣由は行き来せり

俯仰せば天地は小さし

わしに契りを結びたる弟がをる。伍員とぞいふ。そのかみは豪勇にして、平素より忠孝なりき。呉国のことは、みなこの者に頼りたり。わしはしばしば招きを受くれど、堅く拒めり。弟は朝廷に力を尽くし、わしは渓壑(たにま)に閑居せり。弟はしばしば訪ねきたれども、この頃は来ることもなし。朝廷の仕事は多ければ、来る暇はなかるらん。弟はわしほど自由に過ごせまじ。

清渓に釣り糸を垂れ

棹は七尺、気は飄飄

風が吹き海の波立つこともなく

雪が満ち(かは)の波立つこともなし

世の中に安らかに住まふは難く

人の世に身を保つこと易からず

こころみに見よ

繍帳の中には酔ひたる鮫綃[17]あり

轅門[18]の下には弓と刀が並べり

麟閣に姓名を示されて

辺塞の外では陣雲高からん

権勢を持てども安穏は得られず

悩みなく、楽しみ多く

島嶼にて眉をのばして

林皋[19]に髪を散ずる[20]のが一番

(伍子胥が登場)

ゆるゆると進んでくれば、はやくも陽山。はるかに見えるは一道人。どうやら公孫兄じゃのようだ。

(公孫聖)どうやら伍子胥どののようじゃな。

(伍子胥)やあ。兄さん、こんにちは。

(公孫聖)やあ。弟よ、挨拶は抜きだ。久しぶりだが、今日の用事は。

(伍子胥)兄さん、仕事が多くて、お会いすることができませなんだ。私の考えに、ご意見ください。

(公孫聖)どういうことだ。とりあえず話すがよい。

(伍子胥)兄さん、わたくしは、本当は、家では孝を、国では忠を尽くすつもりでございました。しかるに、父兄はその昔、暴君により処刑され、孝行は叶わぬこととなりました。今や主君は奸臣に騙されて、忠誠を尽くすことさえ叶わぬこととなりました。天地に対し恥ずかしく、進退ともに窮まりました。職を棄て、山中に隠棲しようと思うのですが、兄さんのお考えはいかがでしょうか。

(公孫聖)それは違うぞ。子であるならば孝に死し、臣ならば忠に死ぬもの。二代目の小さい過失を気に掛けて、先王の大きな恩を忘れるとは。その昔、楚に背き、呉に逃げたことを忘れたか。

(伍子胥)もちろん覚えておりまする。兄さんのお話をお聞かせください。つつしんでお聴きしましょう。

(公孫聖)思へばなんぢはその昔、四海に家なく逃ぐるあてなし

独り身で年若く

緲緲たる青山と滔滔たる川に向かへり

おん父上の魂は誰によりてか弔はん

おん兄上の骸骨は誰によりてか(ほふ)るべき

その昔、おん父上と兄上は非業の死をば遂げられて

一族三百余人のうち

逃れしはなんぢただ一人

まことに哀れむべきことなりき

高堂の白髪の母と

繍房の青鬢の妻さへ救ふことを得ず

言ひたきことは数あれど、誰にも告ぐることを得ず

省みすれば楚の空こそは遙かなれ。

(伍子胥)父兄の深き恨みを、いかで忘れん。そのことに話が及べば、肝腸は砕けんばかり。

(公孫聖)弟よ、そなたが難を逃れたときの、長江の漁師、谷川の娘、ぼろぼろの服を身に纏い、呉門で乞食したことを覚えているか。

(伍子胥)もちろん覚えておりまする。兄さんどうかお話ください。つつしんでお聞きしましょう。

(公孫聖)

漁師は江のほとりにて命を棄てり

美しき娘は水を漂へり[21]

二人の罪なきものたちは、伍子胥のために引き上げらるることもなし

弟よ、()はぼろぼろの衣をば身に纏ひ

両鬢もみすぼらしく

毎日のごと、悲歌をうたひて呉市に行き、乞食(かたゐ)したりき

(伍子胥)そのかみの苦労をば、いかで忘れん。そのことに話が及べば、思わず怒髪は冠を衝く。

(公孫聖)弟よ、なんぢは楚国に入りしとき、平王の屍を辱め、季芉[22]をも殺したり。君主は君主の妻を妻とし、大夫は大夫の妻を妻とせり。

(伍子胥)もちろん覚えておりまする。こころみにお話ください。つつしんでお聞きしましょう。

(公孫聖)

その昔、昭王の父親は皮の鞭にて打たれ

昭王の妹は外つ国の人に背かれ

昭王の后は呉王に奪はれり

愁へは瞬時に除かれて

百年の恨みはただちに報いられ

そのときは豪勇を示したり

(伍子胥)楚に入りしこと、いかで忘れん。父兄(ちちあに)の深き恨みが有りたれば、宿怨は少しく晴るるのみなりき。

(公孫聖)弟よ、楚に入ったとき、宗廟を焼き払い、王陵を破壊したこと、昭王が出奔し、包且が秦に泣きついたことを覚えているか。

(伍子胥)もちろん覚えておりまする。こころみにお話ください。つつしんでお聞きしましょう。

(公孫聖)

宗廟を破壊して

陵墓をば蹂躙し

一本の苗さへもなからしむ

目の当たりにす、千年の荊城に

あつといふ間に蓬は茂れり

昭王を死刑にし

包且の慌てて秦に行き、泣くを笑へり

(伍子胥)楚に入りしことはよく記憶せり。深き怨みはすでに報はれ、おのが願ひは叶へられたり。今となりては飄然と国を離れて、身を保ち、奸臣の手に罹らんをまぬかれん。

(公孫聖)孝行は主君に仕える所以であるのは存じておろう。それゆえに、忠臣は孝子の中から選ばれるのだ。その昔、呉の先王に身を寄せて、孝道を尽くすことができた。今になり、呉の後主を棄て、忠誠を尽くさないのは、生を貪り、死を恐れ、恩義を忘れる所業だぞ。これは小人の振る舞いだから、そなたはかような振る舞いをすることはなかろうな。

弟よ、なんぢの心が猛くとも徒ならん

長江の真中(まなか)にて棹さす漁夫の入水せしにも及ぶまじ

谷川で紗を洗ふ(をみなご)の入水せしにも及ぶまじ[23]

宴席で(うを)を炙りし刺客にも及ぶまじ[24]

楚王の宮居に秋風が吹き、荊棘の茂れることを望めども

呉門の道に人煙も絶え、麋鹿が住むのはお構ひなし[25]

 

弟よ、なんぢはもともと困窮し

不遇なりき

霧立ちこむる章華[26]にふたたび行くは叶はず

波の冷たき渚宮[27]には、ふたたび至ることを得ざらん

遥かなる巫陽の雲をふたたび眺むることも叶はず

そのときは、千里のかなたにさすらふも囚はれん

四海に名を揚げ、忠孝と称せらるること叶ふまじ

(伍子胥)兄上のお言葉は、至極ご尤も。身を殺し、国に殉ずることは易きも、われは死し、呉もまた滅びば、国家にとりて益なきばかりか、祖先の祭祀も断絶し、二つのものを失はん。

(公孫聖)死生に命あり、禍福は天にあることは聞かれたるべし。烈士は名誉に殉じるもの、壮士は意気を重んずるもの。生きては楚国の豪傑となり、死しては呉地の英霊となる。かねて聞く、ご子息のすでに成長せられしを。急の災いあるならば、他の国に身を寄すべきなり。さすれば父子の情を尽くして、君臣の義を全うし、死すといへども、なほも生くるが如きなり。興廃禍福の、はつきりせぬならなほさらのこと。

(伍子胥)それならば、つつしんで兄上のお言葉にしたがいまする。

(公孫聖)

興廃を予期するはもとより難し

禍福を誰か予期すべき

呉国には忠臣は少なかるべし

然れどもなんぢが職を抛ちて、山に帰るはなほ早し

国家を助け、堅固ならしめ

朝廷のため児曹を避くることなかれ[28]

天と海とを支へたる海鰲に倣ふべし

労を恐れて

他の人に笑はるることなかれ

弟よ、時間を見つけ

ふたたび姑蘇へ赴くべきなり

(退場)

 

最終更新日:2010119

浣紗記

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[1]本来は囚われた楚の人をさすが、ここでは窮迫した楚人である伍子胥自身を指す。

[2] うら寂しいさま。

[3]西の辺境をいう。ここでは呉の西にある楚のことをいう。

[4]父や兄を殺した楚に攻め込んで、恨みを晴らしたことをいう。

[5]原文「往来触藩」。進退窮まるの意。

[6]江蘇省呉県の西北にある秦余杭山のこと。

[7]江蘇省呉江県にある太湖のこと。

[8]横に木を渡して門とした粗末な家。

[9]渭浜は渭水のほとりのこと。太公望呂尚が隠居していた場所。ここでは釣りをする自分を太公望呂尚に喩えている。

[10]漢渚は漢水のほとりをいう。子貢が漢陰を通りかかったところ、甕をかかえて畑に水をやっている男がいたため、機械を使うと便利だといったところ、男は機械を使うと機心が生じるといったという故事をふまえる。

[11] あれこれ算段をする知恵をいう。

[12]本訳注「釣り糸を垂れ」から「機心を断ちて」までの原文は「投竿垂餌、晦幽蹟於渭濱。抱甕灌園、絶機心於漢渚」。これとほぼ同じ言葉が、駱賓王『上司列太常伯啓』に見える。「投竿垂餌、晦名蹟於渭濱。抱甕灌園、絶機心於漢渚」。

[13]原文「朝飲木蘭之墜露、夕餐秋菊之落英」。『楚辞』離騒「朝飲木蘭之墜露兮夕餐秋菊之落英」。

[14]巣父と許由をいう。ともに堯の時代の隠者。

[15]絶軌は絶えてしまった道。この部分、原文は「紹巣父之絶軌」。同じ言葉が蔡「郭有道碑文」に見える。

[16]長沮、桀溺のこと。春秋時代の隠者。

[17]原文「試看那繍帳内酔鮫」。義未詳。鮫はうすぎぬ、あるいはそれで作ったハンカチをいう。

[18]軍営の門。

[19]山林と水辺。

[20]散髪は、髪をざんばらにするの意、そこから転じて官職を辞し、隠者となること。

[21] 『越絶書』荊平王内伝第二に見える故事。伍子胥は楚から呉に逃げる途中、漁師と娘に食事を恵んでもらったが、伍子胥が自分に食事を恵んだことは秘密にするようにというと、二人とも江に飛び込んで、秘密を守ったという。

[22]平王の娘。

[23]前注参照。

[24]刺客専諸のこと。伍子胥の推薦で公子光に仕え、焼魚に刀を潜ませて呉王僚に差し出し、刺殺し、公子光を即位させた。

[25]原文「全不管荒煙麋鹿呉門道」。『史記』淮南衡山伝「臣聞、子胥諫呉王、呉王不用、乃曰、臣今見麋鹿遊姑蘇之台也」。

[26]章華台のこと。湖北省監利県にある。楚の地。

[27]湖北省江陵県にあった楚の離宮。白居易『八月十五日夜独直対月憶元九』「渚宮東面煙波冷、浴殿西頭鐘漏深」。

[28]原文「為朝廷莫避児曹」。児曹は子どもたちの意だが、何を意味するのか未詳。不忠な小人たちのことをいうか。

 

 

 

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