第十一齣 投呉(越王が呉に身を寄せる)
(呉王夫差、伍子胥、伯嚭が人々を率いて登場)
南方で戦勝し 軍を擁して戻りたり
陣雲を飛び出だしたる一万騎
江東の覇気は山に満ち
四海に聞こゆる英雄に誰か勝らん
(人々)
蘇の台[1]高々と
望楼は隠々と
青蛾に紅粉[2]
円陣をなし
千門に花月[3]は笑ひて相向かふ
香風は道に満ち、笙歌は流れり
(人々が跪く)王さま、もう姑蘇台でございます。
(呉王夫差)しばらく馬を留めよう。
(伍子胥、伯嚭)王さま、伍員、伯嚭が参りました。
(呉王夫差)相国、太宰、挨拶は抜きだ。
(人々)叩頭いたします。
(呉王夫差)立てよかし。相国よ、太宰よ。勾践は無道にて、天命に逆らひたること数年なりしも、今や力はなくなりて、計略は尽き、わが麾下に面縛せり。これは天地と祖宗のご加護、文武の将士の同心によれるものなり。
(伍子胥)勾践の捕らえられましたのは、みな王さまのご威光によるものでございまする。諸将の力ではございませぬ。しかし妖徒は上辺を改めるものでございます。醜類の心は今なお従っておりませぬ。目に見えぬ災いは今もなお蕭牆[4]にございます。舟を同じうする者たちはみな敵にございます。
(伯嚭)敵を追ひつめ、はじめて帰る。積もる恨みにすでに報えり。過ぎたることを争ふなかれ。新しき出来事を話題とすべし。万死の誅[5]を赦免して、再生の道を示すべし。相国どのは何故勝手なことを言ひ、今なほ争ひたまはんとせる。
(呉王夫差)太宰の言葉は尤も。今や勝利の知らせあり、国を開きて家を受け継ぐ[6]。功ある者に上卿の爵位を授け、働きし者たちに金帛を賜ふべきなり。功臣のため盛大に宴会を催すべきなり。多言は無用ぞ。ただ楽しみを追ひ求むべし。将校たちよ、太鼓を鳴らせ。酒をもて。
(伯嚭)酒はこちらにございます。
(呉王夫差に酒を運ぶ。呉王夫差は受け取り、伍子胥、伯嚭に送り、伍子胥、伯嚭は跪いて受ける。呉王夫差)
英雄の気は江南郡を圧したり
胸には湖海を呑みこみて
鯨鯢の遠くへ逃ぐるを笑ひたり
列国は威名を羨み、尊べり
(合唱)
高台に上り、新たな山河を見る
杯を注ぐ文武の班
聖君の千載を祈らしめ
ともに恵みを受けんとす
この世の中はすべて春
(伍子胥)
江関に狼煙はやまず
隣国の社稷はなほも存したり
かの国は衰へたれどいまだ人あり
草を取り 根を残すわけにはゆかず
笙歌は流れ、花の中にてしばし遊ばん
紅裙は酔ひて倒るべし
深き恨みはすでに報はれ
あれこれ争論するを須ゐず
(合唱。越王勾践、王妃、范蠡が登場。越王勾践)
艱難に零落するは笑ふべし。
(王妃)辛酸をつぶさに知れり。
(范蠡)虎を絵に描かんとして犬となる。龍を絵に描かんとしたれども、魚にさへも及ぶことなし。
(人々に向かって言う)知らせてくれ。越王夫妻と臣下たちが謁見するとな。
(人々が報告する)越王勾践夫妻、家臣が謁見いたします。
(呉王夫差)中に入れよ。
(越王勾践、王妃、范蠡が膝行して謁見する。越王勾践)東海の賎臣勾践、妻を引き連れ、御殿の庭に叩頭をいたします。申し訳ござりませぬ。申し訳ござりませぬ。
(呉王夫差)勾践よ。強かったお前が、今日のようなことになるとは思ってもいなかったろう。
(越王勾践)わたくしは罪深く、天地に背き、時勢をもわきまえず、大王さまにご無礼を働きました。誅殺をたまわることなく、ご寛恕をたまわりますれば、しがない命を長らえて、尽きせぬご恩にお報いしましょう。わたくしは万死に値する者ですが、どうか憐れと思し召し、お許しください。
(伍子胥)飛ぶ鳥は青雲の上にをれども、なほ弓をもて射んとせり。池を泳ぎて、御殿の庭に集まればなほさらのこと。その昔、勾践は山海のはてに生まれて、捕らふるはまことに難きことなりき。今夜、わが厨房に入りたれば、一宰夫にて事は足るべし[7]。たやすく許したまふなかれ。
(呉王夫差)降伏せしを殺むるは、天下の誹るところなり。すでに約束したからは、信義に背くわけにはゆかじ。
(伯嚭)王さま、相国どのは一時のことを気に掛けて、長久の策を知りませぬ。即日お許しなされませ。下らぬ話を聴かれてはなりませぬ。
(呉王夫差)太宰の言うことは尤もだ。将校たちよ、命令を伝えるのだ。勾践ら三人を石室の中へと送り、冠をとり、官奴としよう。薪水を給わって、馬の世話させるとしよう。厳重に監禁し、勝手なことをさせてはならぬぞ。
(人々が伝令を伝える。奥で返事があり、越王勾践、王妃、范蠡は衣服をはぎ取られて退場。呉王夫差)今一度酒をもて。
(呉王夫差)
宝殿は嵯峨として紫宸に対し
簾櫳は碧雲にしぞ映じたる
恩は畿内を潤して
淑気は千門へと散じ
海の果てより来賓があり
(伍子胥)
かの者どもは遜るにはあらずして
たまたま運に恵まれず
いやいや臣と称したるのみ
やがては飢ゑたる虎となり
避けんとすとも 逃るることはあたはざるべし
(伯嚭)相国どの。どうして不吉なことを仰る。楽しいときにお怒りになることはおやめあれ。
他の国はすべて我が属国ぞかし
属国ぞかし
辺境も我が国を敬へり
敬へり
(伍子胥)王さま、奸臣の言うことを聴かれてはなりませぬ。内部より災禍は起こり、御身に及ぶことでしょう。
(先に退場。伯嚭)
老いぼれの分をわきまへぬは笑ふべし
見誤ることなかれ
秋霜は衰へし鬢を覆へり[8]
(合唱)
錦の宴に香の霧 氤氳として
華堂に歌舞は繽紛たり
繽紛たり
珠翠[9]は溢れ
暮雲は集まる
灯火は乱れ
夜明けの星を暗からしめたり
洞房の深きところに酔ひて横臥す
(呉王夫差)
鶏人は真夜中に起き、蓮籌は進みたるなり[10]
(伯嚭)
玉顔につねに近きは この我を措きてほかなし
多弁なる伍員にひどく辱めらる
(呉王夫差)二振りの呉鈎[11]を帯びて 錦花は浮かぶ[12]。
(伯嚭)海のほとりで一朝にして奇功[13]を得たり
(人々)君臣を生け捕りにして 幕下へと至らしむれど
今日よりは古の諸侯を咎めず
[1]呉王夫差が築いた姑蘇台のこと。
[2]青蛾は青い黛で描いた眉。紅粉は紅おしろい。それらをつけた女性のこと。
[3]女性を譬える。
[4]蕭牆は君臣の会見所に設けた垣根をいう。「蕭牆の危」は内部に存在する災いをいう。
[5]万死に値する勾践を誅殺すること。
[6]原文「開国承家」。『易』師に見える言葉。
[7]宰夫は料理人のこと。ここでは勾践を鳥、呉の宮殿を厨房にたとえ、勾践を死刑にするのがいとも簡単なことを譬えている。
[8] よく見てみろ、お前の鬢は白髪だらけじゃないか、の意。
[9]真珠と翡翠。髪飾りのこと。
[10]原文「鶏人夜午蓮籌進」。鶏人は宮中の護衛をし朝を告げる官。籌は漏刻に取り付けられた矢のこと。時間の経過とともに移動する。蓮籌の蓮は美称。張憲「夜坐吟」「玉壺水動漏声乾、夜冷蓮籌三十刻」。
[11]湾曲した刀。『玉堂閑話』「唐詩多用呉鈎者、刀名也。刀彎、故名」。
[12]原文「呉鈎双帯錦花浮」。義未詳。
[13] すばらしい戦功。