第十齣 送餞(越王を見送る)

(越王勾践が王妃とともに登場)

煙霧は四方に立ちこめつ

豪傑も今やなく

千粒の涙も空し

(王妃)

孤城にて(たま)は怯えり

目の当たりにす 玉香[1]の憔悴するを

(合唱)

昨日は講和して 礼物を送らしむれども

何によりてか帰りの遅き

(王妃)大王さま、ご挨拶申し上げます。

(越王勾践)后よ、挨拶は抜きだ。后よ、わしは呉に包囲され、この山に閉じこめられた。魂は安らかではなく、手と足は落ち着かぬ。石を見れば虎かと思い、草木を見れば兵かと思う。古の豪傑は、一朝にして消え失せた。

(王妃)黄鶴は病み、翼は垂れたり。猛虎は窮し 爪牙は縮めり。力を尽くし 敵を阻みて、時を待たれよ。これ以上心配せられ、悲しみたまふことなかれ。

(越王勾践)昨日は文種を講和のために遣わした。どうしていまだに戻って来ぬのか。

(王妃)大王さま、ご安心召されませ。事が成功したために、帰りが遅いと思われまする。

(范蠡が登場)

残兵は格闘し 疲労困憊

山沿ひに烽火は焚かれ 軍勢の声 わき起こる

(文種)

夜に駆くるを恐るることなし

講和はすでに成りたれば

急いで帰り 君に知らせん

(范蠡、文種が会う。范蠡)文大夫どの、講和はいかに。

(文種)呉王は自ら承諾しました。

(范蠡)それならば中に入って君に知らせよ。

(中に入って王に見える)

王さま、范蠡、文種が参りました。

(越王勾践、王妃)二大夫よ、挨拶は抜きだ。文大夫よ、講和の件はどうなった。

(文種)申し上げます。わたくしは敵国に行き、夜に乗じ、まずは伯嚭と会見し、翌朝に呉王に謁見いたしました。伍員がやってくる前に、伯嚭が先に話をし、呉王は自ら約束をいたしました。

(越王勾践、王妃)ありがたや。

(文種)ただ一つ。十日以内に、ご夫婦と臣下は呉へと赴いて、その指示に従わなければなりませぬ。遅れることは許されませぬ。

(越王勾践)不幸にも、后を巻き添えにしてしまうとは。かくも急とは、どうすればよいだろう。

(王妃)わたくしの運命を、大王さまにお預けし、艱難辛苦をともにしましょう。

(越王勾践)それならば、出発しよう。我が人民に別れを告げて、宗廟を棄て、冠冕をとり、奴隷となろう。これから先が気に掛かる。故郷は振り返るに堪えぬ。ああ悲しい。

(泄庸が登場) 空城に麦は実りて(あした)には(きぎす)が飛べり。故国には黍が茂りて夜烏(よがらす)が啼く。

(計倪が登場)

千村に幾軒の家の残れる。百戦し 一人帰るも誰か褒むべき。

(泄庸)わたしは泄庸。

(計倪)わたしは計倪。

(相見える。計倪、泄庸)聞けばわがお后さまは本日中に出発し、呉の国に向かわれるとか。長江のほとりに赴いて、お別れしよう。殿さま、お后さま。泄庸、計倪が参りました。

(越王勾践、王妃)二人とも、挨拶は抜きだ。

(越王勾践)大夫たち、わしは無道で、はやくに父を失ったが、諸大夫の計らいにより、先王の墳冢を保ったことは、まことに幸い。これより呉へと赴くが、この艱難をともにするのは誰なのか。越国に留まりて、この国を守るのは誰なのか。それぞれ申し出るがよい。わしから頼むことがあるから。

(泄庸)夏台[2]にて、伊尹[3]は湯より離るることなく、羑里[4]にて、宜生[5]は西伯嚭を離るることなし。上大夫范蠡は機微に通じて、困苦になじめり。呉国にてあらゆることを任すれば、必ずや殿さまをお助けし、わたくしの推挙に背くことはあるまじ。

(計倪)成湯が夏に入りしとき、国家を文杞[6]に託したり。文王が殷国に入りしとき、宗廟を太公[7]に委ねたり。下大夫の文種は忠実にして機略に富めり。越の仕事を一任すれば、国家のために力を尽くし、わたくしの推挙に背くことはあるまじ。

(越王勾践)范大夫よ、どう思う。

(范蠡)艱難を避くることなく、甘んじて汚辱を受けん。危地にある殿を助けて、亡びし国を復興すべし。必ずや帰還して、殿と一緒に復讐するが、我が務めなり。喜びて従はん。

(越王勾践)文大夫よ、どう思う。

(文種)国内を安んじて、国外で戦争(いくさ)する準備せり。人民たちを手なづけて、諸侯と誼を通ずれば、滅びし国も復興すべけん。殿と一緒に復讐するが、我が務めなり。喜びて従はん。

(越王勾践)諸大夫がかく言ふならば、艱難は安んぜられて、宗廟は安泰なるべし。諸大夫は主君がなくとも主君をいただき、このわしは国がなくとも国を有せん。このわしは翼を備へ、飄然として遥かに飛ばん。何の愁へかこれあらん。天地山川、社稷宗廟に拝礼すべし。わたしの苦労を憐れみて、ご加護を賜はらんことを。

(拝礼する)

天地に告げん 神明もご照覧あれ

宗廟に告ぐ 精霊もご加護あるべし

勾践は恥を忍びて

いづれの時にか帰るを得べき

いづれの時にか帰るを得べき

(王妃)香閨と繍幃のうちに生ひ立ちて

龍楼と鳳池とに出入りせり

流離には耐へがたし

いづれの時にか帰るを得べき

いづれの時にか帰るを得べき

(生)

臣下は家の難に遭ひ

男児の運は奇なるもの

危険な時は避けがたし

親より受けしこの体 惜しまぬことはあらねども

危ふきときに家臣は忠義を示すべし

とりあへず 呉の国の縄目を受けん

(合唱)

帰り来る日に、ふたたび呉越の山水をわたるべし

(文種)

国破れども山河あり

城傾きて草木(くさき)に覆はる

見よや郊野に白骨の満ちたるを

思へばわれは民草の期待を受けり

命を擲ち 主君の恥をすすぐべし

とりあへず国に留まる身とならん

(合唱。泄庸)

呉児どもは醜き輩

天道は満ち欠けて

赫赫と輝けり

敵は盛んになりたるも

まもなく必ず衰へん

(計倪)

奸臣の伯嚭もをれば

鋭き舌で国家をば覆すべし

忠良は隔てられ

国を支ふることこそ難けれ

(合唱)

故郷に至り

万民に会はんと誓へり

(越王勾践)諸大夫よ

旅の宿にて

故郷(ふるさと)を見返れば

雲は会稽山に満ち

魂は揺揺と北にむかへり

日は黯黯と西に沈めり

(王妃)

江村の桃李を見れば

風により落つるを怨む

年は愁へのうちに過ぎ

環佩[8]は夢の中にて帰るべし

(合唱。范蠡)王さま、お后さま、もとより定めにございますれば、悲しまれるには及びませぬ。早くお船に乗られませ。

(范蠡)この愁へ

江神さまもご存じなるべし

王さまはぐづぐづなさる必要はなし

群臣たちも悲しむことは必要なし

(文種)

東海の別れの宴は散ぜんとせり

離別の情は悉く西江の水に付すべし

(合唱)

疎林に落つる太陽は留め得ず

疎林に落つる太陽は留め得ず

(泄庸)

扁舟は北に渡りて

人民の主君を失ふことを傷めり

群臣は主君のなきを受け入れて

国難をしぞ支ふべき

(計倪)

いづれの年にか舟漕がん 越水の隈

必ずや剣をとり 呉の宮殿に入りぬべし

(合唱。越王勾践)

英雄は涙をこぼす春江の波の底

(王妃)

一片の帆は開き 岸辺の草は生ひ茂りたり

一片の帆は開き 岸辺の草は生ひ茂りたり

いづれの年にか川のほとりに戻るべき

(合唱)

西陵に渡れば城は昔と異なり

南の雲を眺むれば(たま)は飛びたり

(范蠡)

我が君よ 寄る辺のなきを愁ふるなかれ

危難にありても微力をつくさん

(文種、泄庸、計倪が范蠡を拝する)

願はくは 大夫どのの尽力奔走せられんことを

願はくは 大夫どのの尽力奔走せられんことを

(合唱。越王勾践、王妃、范蠡)

あつといふ間に相別れ 人の世をしぞ悲しめる

(文種、泄庸、計倪)

呉を破り 故郷に帰る日もあらん

(合唱)

壮士の故郷に戻る日は それぞれ錦の衣を着けん

(文種、泄庸、計倪)伏してお願いもうしあげます。王さまもお后さまも旅路ではお気をつけて。

(范蠡)本日は一尊をもて岸辺で別れん。

(声を揃えて)いずれの日にかふたたび江を渡り来ん。

(范蠡、文種、泄庸、計倪が先に退場。越王勾践、王妃が退場。越王勾践)后よ、逝く水は東に流れ、一片の帆は北に渡れり。雲入る山は重畳として、煙樹は霞めり。いづれの年にかこの江をふたたび渡らん。

(王妃)物に触るれば悲しみはわき起こり、時に感じて悲しみはいよよ増したり。試みに見よ川岸の黒き鳥、のどかにも魚と蝦とをついばめり。短き歌を、王さまのために吟ぜん。

(越王勾践)試みに詠ずべし。慎みて耳を傾けん。

(王妃が歌う)

飛ぶ鳥と黒き鳶をば振り仰ぐ

翩翩と空を越え

中州にて 魚と蝦を啄みて

雲間にて 羽を整ふ

わらはは地をば怒らせしことはなく

天に負きしこともなし

一片の帆は遥かに去りて

いづれの日にか帰り来たらん

(越王勾践)かつて聞く、声あらば必ず天にとどかんと。涙があらば必ず泉下に達せんと。后はいたく悲しめり。后が愁へ怨むを見れば、愚かなわしも、恨みを忍び、声を呑むことはあたはず。もう一つ短き歌あり。汝がために吟詠せん。

(王妃)試みにお歌いください。謹んでお聞きしましょう。

(越王勾践が歌う)

飛ぶ鳥と黒き鳶

つねに江湖に留まれり

何の罪にて越を離れて

苦しみて呉に至りたる

妻は褐衣の下女となり

このわしは冠をとり 奴隷となれり

年は長くてきはまることなし

いづくんぞ烏のごとくなるを得ん

(王妃)

恨みの涙は春江に満ち

夫婦して波を渡るは何事ぞ

いかで倣はん 黒鳶の岸に向かひて飛びたるに

力を尽くして奔走し 掃除をするはいと悲し

繁雑な仕事には耐ふべうもなし

思へば雲入る山々は千里に連なる

いづれの日にか故郷に帰らん

(越王勾践)

呉門はここよりいづれの方ぞ

進退ともに窮まりて 空しく我が身を悲しめる

汝は薄く化粧して 宮中の衣服をすべて始末せり

悲しやな

秦楼楚館[9]にゐるとな思ひそ

香閨繍帳[10]にゐるとな思ひそ

これよりは 籠深く 囚はれて

両鴛鴦は悲しまん

(王妃)大王さま。舟が岸辺に着きました。陸路を進むことにしましょう。

(越王勾践)故郷は次第に遠ざかる。呉の国は次第に近づく。ああ悲しい。

(越王勾践)

英雄の坎坷にあたるを自ら笑ふ

平素の意気は悉く消え失せり

(王妃)

魂は故郷を離れ

帰る望みは少なかるべし

恨みの念は長江に満ち

涙はいとどあふれ出でたり

(范蠡が登場して跪いて迎える。越王勾践、王妃)いつここに着いたのだ。

(范蠡)大分前でございまする。車馬を整え、王さまとお后さまをお待ち申しておりました。

(越王勾践)范大夫よ、

このわしは何の罪にて

苦しみを受けたるや

(王妃)香玉[11]の憔悴するをいかんせん

(范蠡)王さま、お后さま、悲しまれるのはおやめください。晋文公が璧を投げたのをご存じでしょうか。[12]

その昔 重耳は璧を擲てり

いづれの年にかこの川を渡るべき

最終更新日:2010119

浣紗記

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[1]玉のように美しく香しい自分の姿。

[2]夏の国の牢獄をいう。

[3]夏の国の宰相。殷の始祖湯王の家臣。

[4]殷の牢獄をいう。

[5]散宜生のこと。周の功臣。

[6]未詳。

[7]太公望呂尚のこと。

[8]佩玉のことだが、ここでは佩玉を帯びている女子すなわち自分のこと。

[9] ここでは宮中の楼閣を指していよう。

[10] ここでは宮中の寝室を指していよう。

[11]香や玉を身に着けた女性。すなわち自分のこと。

[12] 『左伝』僖公二十四年「重耳謂子犯曰、所不与舅氏同心者、有如白水、投其璧於河」。

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