第六齣 被囲(越王勾践たちが包囲を受ける)
(越王勾践、范蠡、文種が敗残兵を率いて登場)
夫椒に転戦、三たび敗れぬ
千秋の宗社はすつかり傾きぬ
四野に群るるはすべて呉の兵
陣雲は故国に満ちて
璧月[1]は空しき陣を照らしたり
(文種)
半ば巻く紅旗は浙水に靡きたり
霜寒く鼓は冷えて音もなし
(范蠡)
見返れば殺気はまさに憑陵[2]として
考ふれども計略はなし
講和を請ふよりほかになからん
(越王勾践)戦は終わり夕日は黄色。軍は敗れて太鼓の音はやむ。
(范蠡、文種)今や山鬼を隣人として、敗残兵は江水に哭く。
(越王勾践が哭く)二大夫よ、勾践は江東の奇士となり、海上の寡君ともなる。平素より雲霄に雄飛することを望めど、あにはからんや敗残の身は糞土にまみれり。今、夫差の追手に囲まれ、この会稽に住まひせり。二千年続きし社稷は破壊せられて、数十世代保ちし領土はすべて蹂躙せられたり。君臨するに土地もなければ、地中にまします先王に何の面目ありてか見えん。
(文種)申し上ぐべし。獣は山を離るれば、網に掛かるを免れず。大魚も河を離るれば、螻蟻にさへも虐げらるべし。今、王さまは傷を負ひたまへども、たまたま恥辱を受けられしのみ、謀議を尽くさざるとはいへど、これもまた天の下せし禍ならん。奮ひ立ち、戦ふ心を持たるべし。逃ぐる心を抱くべからず。会稽の山の周囲は六百余里。剣を帯びたる兵士はなほも五千余人。死にものぐるひに戦ひて、存亡をしぞ決すべき。生け捕りになり、兵刃の餌食となることなかるべし。
(范蠡)申し上ぐべし。伍員の勇気は三軍に冠絶し、夫差は天下を見下せり。敗残の越軍が、勇猛な呉の軍と戦はば、勝つとは限らず、負くるが関の山ならん。城壁を堅固にし清野[3]を行ひ、敵の軍師を疲弊させ、使者を遣はし、手紙を書きて、講和を求むる方がよからん。思ひみますに、これが上策。
(越王勾践)范大夫、そうはいっても、実に恥ずべきことではないか。
辺境で戦に敗れ
英雄の心の穏やかならざるを恥づ
千年の覇業はあれど
覇業はすべて併呑せらる
一旅の残兵
辺境の山に住まひせり
天の心を見極めて
興廃を窺ふも
定むることは難からん
講和をするか決戦か
二つの策を考ふべきなり
いづれをとらば
事態を収むることを得ん
(文種)
戦はんにも敵兵はなほ強し
危ふきときに何をか顧みるべきや。
勝ち負けにこだはることなく
死にものぐるひに戦ひて
死にものぐるひに戦ひて僥倖を得ん
むざむざと兵刃を受け
首を自ら献ずることのよきはずはなし
この我は
高禄を受けたれば
生命を棄て
皮の袋に屍を包まれんとも
名声は揚がるべきなり
その時は麒麟閣[4]にも描かれて
鐘鼎に名を記されん
(范蠡)
強暴な呉はまことに盛ん
周囲をあまねく取り囲み、殺気は起これり
使者を遣はし
自らゆかしめ
厚き礼物、謙虚な言葉で恭しく振る舞はしめん
間者を放ち
奸佞に賄賂を送り
敵方の君臣が暴虐をほしいままにし
忠臣の追ひ払はれしその時に
機に乗じ
山河をふたたび取り戻すべし
(越王勾践)わが罪は極まった。徳は少なく、才は平凡、勇気をもって進むはかなわず、固守することもまたできぬ。妙策は、やはり講和か。そうはいっても、いかなる物を送ったものやら、いかなる手紙を書いたものやら、すぐには分からぬ。諸大夫よ、判断を下すのだ。
(范蠡)聞くならく、社稷は先王さまのもの、山河は大禹さまのもの、人には与ふべからずと。しかれども、この外はすべて余計なものなれば、体面を棄て、お后さま、ご側室をば従へて、お后さまを妾にし、自らは使ひ走りの身となりて、甘んじて掃除夫とならんと願ひ出でらるるがよし。さらに言葉を謙虚にし、その側近を離れさせ、敵方の奢侈の心を盛んにし、賢者を殴り、奸佞を用ゐる心を盛んにさせたまへかし。さすれば悪は日々に勝れば、天は必ず敵方を滅ぼさるべし。幾年か経し後は、興廃は予測すべからず。
(文種)范大夫の言ふことは、尤もらしく聞こゆれど、伍員には並ぶものなき謀略があり。愚かな君主が忠臣に従はば、彼らを隔つることはかなわじ。
(范蠡)文どのは『小人は親しみやすく、君子は退きやすきもの』だということを聞かれたことがございませぬか。文どのは伍員の忠義はご存じですが、伯嚭の奸邪はご存じない。講和しようとおっしゃるのなら、まずは彼らを隔てるべきです。まずは臣下に賄賂を送ることにしましょう。伯嚭には美人二人と金千鎰を与えましょう。鼹鼠[5]の腹は満たされ易く、鷦鷯は住処に満足し易いもの[6]。夫差に会えば、たくさんのお世辞を言って、伍員のことを讒言し、必ずや悪口を言うことでしょう。君臣が仲違いすれば、隙に乗じることができ、我が方の大事は達成されましょう。
(越王勾践)それならば、誰が行くのか。
(文種)わたくしは不才ではありますが、犬馬の労は厭いませぬ。
(范蠡)礼物を調えて、すぐに出発なさるがよい。
(越王勾践)
毎年の戦争で
宗社のために講和せり
恥を忍んで汝を送らん
へりくだり強敵に従へり
(合唱)
君命を受け
仇の国に旅をせり
いづれの日にか狼煙の収まることあらん
(文種)
国難に遭ひたれば命は軽し
王さまのためぐづぐづはせず
今日は主君に別れを告げて敵陣にしぞ赴かん
舌鋒をもて必ずや勝ちを得べけん
(合唱。范蠡)
悲しみて送れば天に日は照りて
兵刃に臨めば誰か一人旅せん
試みに聞け匣の中には青萍[7]が鳴り
忠義を見れば長虹は掛かりたり
(合唱)
(越王勾践)
単騎にて江関を出づる汝を送れり。
(文種)
旅路の辛さを畏るることなし。
(范蠡)
明日は呉の軍装を解き
(合唱)
いづれの日にかふたたび治めん 越の山河。
最終更新日:2019年11月30日