第五齣 交戦(呉越の戦い)

(越王勾践、范蠡、文種が軍服で将校を率いて登場。越王勾践)

長江の岸辺には烽火は明るく

海甸に兵戈は多し

呉児どもの侵入するをいかんせん

(范蠡)

残虐をほしいままにし、飽くることなし

強暴な兵の多きは何故ぞ

加ふるに味方の兵は少なくて、守ることこそまことに難けれ

(文種)

辺境を安らかにせんと誓へり

退却しなば、人々に笑はれん

(范蠡、文種)殿さま、参りました。

(越王勾践)二大夫よ、挨拶は抜きだ。二大夫よ、夫差は強きを頼りにし、このわしが惰弱であるのをよいことに、兵十万を引き連れて、西陵[1]をわたろうとしておるぞ。二人はいかなる考えをもっておる。

(范蠡)申し上げます。勝敗はすでに決して、衆寡敵せず。堀を深くし、城壁を高くして、ゆったりと敵方の疲弊するのを待つがよろしゅうございます。十ヶ月ほど持ちこたえれば、敵方の食糧は尽き、兵は疲れて、戦う前に逃亡するはず。

(越王勾践)文大夫はどう思うか。

(文種)申し上げます。聞けば戦を仕掛けましたは敵方で、我が方は仕方なく応戦をしたとのこと。このことを応兵と申します[2]。城ができないそのうちに、奇襲を掛ければ、少勢で大敵を破られるやも知れませぬ。弱い者でも強い者に勝つことができるもの。決戦し、生きる道を探られるのが宜しいでしょう。手をこまねいて死を待つべきではござりませぬ。

(越王勾践)もっともだ。今すぐ兵を率いて進もう。

兵馬は蕭々

弓と刀は腰にあり

呉児は逃げ

金の鐙を叩きたり

(呉王夫差、伍子胥、伯嚭が人々を率いて登場)

太鼓と笛に風高く

空の彼方に軍旗は靡く

三呉に侠士は少なきも

先触れの声は圧せり海の(なみ)

(越王勾践、范蠡、文種が人々を率いて登場して出会う。伯嚭)全軍を引き連れて、先に出陣いたしましょう。

(文種)やって来た将軍は何者ぞ。

(伯嚭)呉国の太宰伯嚭です。

(文種)待っていたぞ。太宰よ、お前が人の子であるなら、亡き父親伯州犂[3]の仇を忘るることはできまい。さいわいに伍子胥の後に従って、楚の平王の墓に登った。「碌碌として、他人に頼り功を遂ぐ」とはこのことぞ[4]。おまえにどんな力があるのだ。わしと闘うことができるか。

この呉児め

偉さうにするのはやめよ

父の仇には報いずに

恥に耐へ

大臣たちは忠にして孝なるも

なんぢのみ奸佞の心を持ちて朝廷に仕へたり

はやく投降するがよし

逃げてはならぬぞ

(伯嚭)無駄口を叩くでないぞ。太鼓を鳴らせ。

(ぶつかり合って闘う。伯嚭)お前は何者。

(文種)越の下大夫文種だ。

(伯嚭)文大夫どの、貴殿は治国に明るいが、主君を選ぶ才能はない。小さな国で貪官となり、甘んじて非情な勾践に奉仕するとは。いったいいかなる存念で、わしと闘う。

なんぢは平素六韜を学べども

進退を弁へず

こわつぱどもは笑ふべし、偏師[5]もて西興[6]をうちわたり

長駆してまつすぐに会稽の巣窟を攻撃すべし

先に降伏することなくば

誰もお前を許しはすまじ

(文種)お前こそ無駄口を叩くでないぞ。太鼓を鳴らせ。

(ぶつかり合う。范蠡)お前は誰だ。

(伍子胥)わしは呉の相国伍員だ。

(范蠡)老相国どの、ごきげんよう。相国どの、なんぢは孝子にして忠臣、墓中の仇に復讐し、怨みを雪いだのならば、山中に帰られるべし。闔廬の恩をひたすら思い、夫差の不仁を諒とせぬなら、災禍はすぐに生じよう。その時は後悔しても間に合わないぞ。

なんぢは三呉の俊豪と称せられ

忠孝をもて四海に聞こえ

功名を成就せり

年は若しと思ひきや

白髪頭の老人で

昔の功を誇りたり

ゆゑもなく西征し、東討するは

げに笑ふべきことならん

恐らくは、禍の種は芽生えて、逃るることは難からん

(伍子胥)わしの身は国に預けたものだから、無駄口を叩くな。馬を馳せよ。

(ぶつかり合う。伍子胥)何者か。

(范蠡)越国の上大夫范蠡だ。

(伍子胥)范大夫とは知らなんだ。大夫どの、このわしは郢の者。貴殿もまた楚の出身。争いがあるために、同郷の誼を忘れてはならぬ。兵の強弱を弁えて、運と不運を洞察し、邪を改めて、正に帰されよ。

昂昂とした俊傑で

堂堂とした容貌なれど

機を見ることを知らざるは何故ぞ

侵略をほしいままにし

小さき島は、鞭を投ぐれば橋となるべし

その時は死体は遙か彼方まで横たはり

帰るに棹もなくなりて

銭塘江に潮の通ふことはなからん

(范蠡)老相国どの。お互い主君があるのですから、余計なことは仰いますな。

(ぶつかり合い、ともに退場。呉王夫差、伍子胥、伯嚭が人々を率いて登場。伯嚭)殿さま、敵国の残兵と、渺々たる游魂[7]をご覧ください。七たび逃がし、七たび捕らえ、三たび戦い、三たび敗れる。敵を殺して、車輪のかけらも帰ることなく、鎧のかけらも残すことなからしめたぞ。敵兵は様子を眺め逃走し、長江を渡っていきました。

(伍子胥)ぐずぐずしてはおられぬぞ。徹夜で追い掛け、会稽を直撃し、主君と臣下を捕縛して、その宗廟を焼き払い、檇李の恥をすすごうぞ。これぞまさに

(呉王夫差)軍旗は烈烈[8]飛大将[9]

(伯嚭)銭塘の風浪の多きを畏れず。

(伍子胥)焔魔天まで上るとも

(合唱)足下(あしもと)に雲は湧き、追ひ掛くるべし

 

最終更新日:2010119

浣紗記

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[1]浙江省蕭山県にある渡し場。

[2] 『漢書』魏相伝「敵加于己、不得已而起者、謂之応兵」。

[3]実際は伯嚭の祖父。

[4]原文「所謂公等碌碌、因人成事者也」。「公等碌碌、因人成事」は、『史記』平原君伝に見える毛遂の言葉。平凡なさまをいう。

[5]一部隊をいう。戦車ならば二十五乗、士卒ならば五十人という。

[6]浙江省蕭山県にある要衝。運河に臨む。范蠡が城をここに築き、固守すべしといったため、固陵ともいう。

[7]戦死したものの魂だが、ここでは戦死者をいっていよう。

[8]烈々は武威の盛んなさま。『詩経』小雅・黍苗箋「烈々、威武貌」。

[9]飛大将は、飛将軍に同じ。勇猛で俊敏な将軍のこと。本来は漢の将軍李広をいうが、ここでは勇猛な呉の将軍たちのことをいっている。

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