巻三十 遺骸を埋め王玉英が夫を拝すること 結納を償い韓秀才が子を贖うこと           

 

晋の世に鬼子あるを聞きしことあり、今は知る鬼子の通常なることを。

雌雄の配となることができ、さらに冥土で子を生むを得つ。

 

    さて、国朝の隆慶年間、西西安府に易万戸がおり、衛兵として京師に駐屯していました。同郷に朱工部がおり、もっとも親しくつきあっていました。両家の婦人はそれぞれ身ごもっており、万戸と工部はたまたま友人の家で同席したとき、しばらく話し、双方が指腹婚[1]しました。俗礼に従い、それぞれ衫の襟を割き、たがいに所蔵し、証文を書いて約束しました。その後、工部は建言し、聖旨に逆らい、勅旨によって降格され、四川瀘州の州判[2]になりました。万戸は辺境の参将に昇任し、それぞれが自分の道を進みました。万戸は一男を生み、朱家が一女を生んだことを伝え聞きましたが、すでに遠く隔たっていたため、以前の約束を果たすことはできませんでした。しばらくしますと、工部は配所で水土に馴染まず、一家は死に絶え、一二人の下男が残り、川中[3]で役人をしている親戚に身を寄せ、葬儀を営んで帰郷し、郊外に埋葬しました。その時、万戸もゆえあって解任されて衛に戻り、家で亡くなりました。

 

    万戸の子の易大郎は、成長しますと、武芸に精通し、日夜仲間と馬を馳せ、矢を競っていました。ある日、競いあっていますと、突然、草叢で一羽の兔が跳ねあがりましたので、大郎は仲間を捨て、弓を挽き、追ってゆきました。とある家の入り口まで追ってゆきますと、兔は見えなくなりました。中を見ますと、大きな邸宅でした。邸内からは老人が出てきましたが、衣冠は偉然[4]とし、士大夫の顔をしており、大郎を見ますと、言いました。「易さまではございませんか。」大郎はかれを知っているものだと分かりますと、すぐに馬から下りて揖しました。老人は大郎の手を引き、堂内に入り、かさねて挨拶しますと、すぐに奥に命じ、酒を調えて持てなさせました。酒が数巡を過ぎますと、易大郎は老人の姓名を尋ねました。老人は言いました。「老いぼれと易さまは親戚のご縁が薄くはございません。老いぼれは易さまに証拠の品をお見せしましょう。」すぐに書童を呼んで奥から箱を取りだしてこさせ、大郎に送り、開けて見させました。大郎が見てみますと、中には羅衫一角、文書一枚があり、畳まれて片側に署名がなされ、おもてにはこう書いてありました。「朱、易両家は、情誼はすでに断金[5]、家はいずれも種玉[6]。男を得て婿にすれば、百年仲良くするであろう[7]。約束に負けば天が厭うであろう。天が厭うであろう。隆慶某年月日朱某、易某が書き、坐客某某が証人となる。」大郎はじっくり見ますと、父親の万戸の自筆であることを知り、おもわず顎まで涙を落としました。すると後堂で話すのが聞こえました。「孺人[8]さまがお嬢さまとともに堂にお出ましでございます。」大郎が眼を挙げて見てみますと、珠冠緋袍の、年老いた婦人が、一人の娘を擁し、軽やかに、広間を出てきました。その娘は、自然で淡雅な顔だち、秀麗さをひけらかさず、世に見られないものでした。老人は娘を指して大郎に言いました。「これは娘で、お父さまがあなたに娶わせることを約束なさっていらっしゃいます。」大郎は孺人に目通りしますと、老人に言いました。「この良縁が、亡父の決定によるものであることがよく分かりました、ただ、媒妁を通じておらず、形式が調っていないのは、どういたしましょう。」老人は言いました。「口ずから盟約を交わしたのですから、媒酌することはございません。形式が調っていないことにいたっては、さらに咎めることはございません。お嫌でなければ、今日すぐに婿になれます。どうか断らないでください。」大郎はこの時、心は乱れ、身はままなりませんでした。娘は入っていって化粧し、まもなく出てきて挨拶し、花燭合卺は、すべて家礼[9]儀節[10]に従っていました。その夜、洞房に送りかえされ、二人の心が喜んだことは、もとより言うまでもございません。

 

    まさに、「楽しければ夜は短い」もので、大郎はあっという間に数か月とどまり、家を忘れてしまいました。ある日、突然思いだしました。「先日、馬を走らせてこちらに来たが、家からは遠くないから、戻っていってすこし会い、すぐ来てはどうだろう。」この意向を娘に話しました。娘が父母に知らせますと、その老人と孺人はかたくなに許しませんでした。大郎は娘に尋ねました。「お義父さまお義母さまはなぜ承知してくださらぬのです。」娘は涙を落としました。「あなたが行ったきり戻らぬことを心配しているのでございます。」大郎は言いました。「そのようなことはありません。わたしの家ではわたしがこちらにいることを知りません。わたしは家に戻って話をしたら、すぐ来ましょう。一日以内のことなのですから、何のよくないことがありましょう。」娘はどうしても承諾しませんでした。大郎は娘が難色を示しているのを見ますと、すぐには口を開きませんでした。さらに一日が過ぎますと、大郎は言いました。「わたしの馬は閑にしており、ながらく乗っていないので、調子が悪くなっていることでしょう[11]。わたしは騎って出てゆきましたら、戻ってきます。」その家は信じました。大郎が門を出、馬に騎り、数回鞭を加えますと、その馬は四つの脚を宙に浮かせ、一気に数里走りました。馬上で振り向いてもとの場所を見ますと、屋敷などはありませんでした。いそいで馬を返して、確認のために戻ってきますと、人家の痕跡さえもありませんでした。見れば墓が累々としており、荒れ野で、藤や蔓ばかりでした。家に帰りますと、昏昏とすること数日、はじめて友人たちにこのことを話しました。老成した、ものの分かった人が言いました。「この両家の割襟の盟[12]は、ほんとうにございますが、工部は家を挙げてすでに死に絶えています。お会いになったのは、幽宮(はか)ですが、夙縁が終わっていなかったため、そうした異変があったのでございましょう。幽明は路を異にしており、犯すべきではございませんから、ふたたびゆかれてはなりません。」大郎はこの話を聞き、おかしなことを目にしてもおりましたので、ふたたびゆこうとしませんでした。

 

    京師にゆき、父の職を継いで戻ってきますと、上司の檄文を奉り、衛の印や事務を掌管しました。夜に外出して堡を巡回し、たまたまとある場所にゆきますと、突然、先日の娘が懐に子供を抱いて迎えにき、言いました。「易さまはわたくしをご存じでしょうか。わたくしをお忘れですが、襁褓(うぶぎ)の中の子供は、どなたが生んだものなのでございましょう。この子には貴くなる兆しがございますから、きっとあなたの家を大きくすることができましょう。今、お返ししますから、養育し、成人させれば、わたくしも助かりますし、あなたの期待に背くこともないでしょう[13]。」大郎は以前のことを思い、恐れることはありませんでした。その子を抱いて見ますと、眉目清秀で、たいへん可愛らしい子でした。大郎は、妻を娶り、子を生んだことがありませんでしたので、よい子を見ますと、本当に愉快でした。そこで近づいてゆきますと、その女と別れていたときの思いをかさねて述べ、さらに事情を話そうとしました。するとその女は突然見えなくなり、懐の子を落とし、去りました。大郎は子を連れて戻ってきました。その後、大郎はほかに妻を娶りましたが、やはり先だたれ、二度再婚しました。美人を求めようと決心していましたが、娶ってきたものがいずれもあの女の顔と同じというわけにはゆかず、また、まったく男子を産みませんでした。授かった子だけが成長し、勇力は人に勝り、雄略がありました。大郎は以前女が「あなたの家を大きくする」と言っていましたので、息子が非凡であるのを見ますと、大いに期待を抱いていました。十八歳になりますと、大郎は軍務に倦み、息子に職を継がせましたが、息子はしばしば奇功を立て、昇進を重ねて都督[14]に到り、ほんとうに女の言葉の通りになりました。

 

   このことは、晋代、范陽の盧充と崔少府の娘の金碗が幽婚した事[15]とよく似ていますが、土地と人間がはっきりしており、昔の話に倣ったものではございません。姻縁が尽きていないとき、死者と生者が結婚し、幽鬼が出産することがしばしばあるのは明らかです。現今の鬼の魂気は散じないものですが、数百年を経た幽鬼が人のために子を生み、多くの話柄を生み出すのは、さらに珍しいことです。この物語を知りたければ、まずは証拠に数首の七言絶句をお聞きください。

 

                      洞裏の仙人路遥かならず、洞庭の煙雨は昼も瀟瀟。

                      笛を吹かせず城頭の閣、なほ銷魂す烏鵲(かささぎ)の橋。

                                (その一)。

 

                      訝りそ鴛鸞のかならず(えにし)あることを、(もも)(ばな)(たね)を結びてはや千年(ちとせ)

                      塵心は藍橋[16]の路を知るなし、蓬莱に謫仙あるはまことなり。

                                (その二)。

 

                      朝暮雲驂[17]閩楚の関、青鸞[18](たより)塵寰(ひとのよ)に絶えず。

                      にはかに仙侶に逢ひ桃を抛ちて打つ、わが霧鬟[19]を清波[20]の照らすことを笑へり[21]

                                (その三)。

 

    この三首は女の幽霊王玉英が夫の韓慶雲を思った詩です。韓慶雲は福建福州府福清県の秀才で、その府の長楽県藍田石龍嶺の地で、塾を開き、生徒を教えていました。ある日、嶺の麓を散歩しておりますと、路の草叢の中に枯骨が放置されているのが見えましたので、心が惻然として言いました。「誰の遺骸が、こちらに晒されているのだろう。遺骸を埋葬することは、仁人の所業だと聞いている。今、この骸には引き取り手がない。わたしはこちらで塾を開いているが、わたしの目に入った以上は、わたしが責任を持とう。」すぐ帰りますと隣家から鍬、鎌、畚、鍤の類を借り、助けも借りず、みずから手を動かし、きちんと埋葬し、土を撮んで香にし、水を滴らせて酒にし、かれの霊魂を鎮め、敬意を示して去りました。

 

    その夜、ひとり塾に宿っていますと、突然籬の外でほとほとと、籬の門を叩く音がしました。韓生は起きあがり、門を開いて出ますと、美しい娘がいましたので、慌てて揖しました。娘は言いました。「ひとまず貴宅にゆきましょう。お話しすることがございます。」韓生は前で導き、ともに塾へゆきました。娘は言いました。「わたくしは姓は王、名は玉英といい、もともとは楚中湘潭のものでございます。宋の徳佑年間、父は閩州の太守となり、兵を率いて元人を防ぎ、力戦して死にました。わたくしは胡虜の辱めを受けようとせせず、この嶺で死んだのですが、当時、人々はわたくしの貞節を憐れみ、土もりして掩いました。今では二百余年がたち、骸骨がたまたま出てきたのでございます。埋葬していただき、ご恩はもっとも深うございますので、深夜こちらに来、お礼しようとしているのでございます。」韓生は言いました。「屍骸を埋葬したのは小さな事で、語るに足りません。人間と幽鬼は道が異なっていますから、ご来臨には及びません。」玉英は言いました。「わたくしは人ではございませんが、みとのまぐわいしないとはいえません。あなたは勉強するかたでございますから、幽婚冥合の事は、世に常にあることでございます[22]。わたくしはあなたに埋葬していただきましたから、夫妻の誼がございます。それに夙縁はたいへん重うございますから、あなたの枕席に侍することを願います。どうかお疑いになりませぬよう。」韓生は塾で寂しくしていました。この美女を見ますと、明らかに幽鬼だと思いましたが、歩めば影があり、衣衫には縫い目があり、済済楚楚として、まったく幽鬼らしくありませんでした。それに話は明快で聴くにたえるものでしたから、心を動かさないことはできませんでした。そこで欣然として留まりますと、ともに寝ましたが、みとのまぐわいの際は、まったく人のようで、すこしも異常はありませんでした。

 

    韓生は玉英と住むこと一年あまり、情愛は夫婦のようでした。とある日、韓生に言いました。「昨年の七月七日にあなたと交わり、もう身ごもっておりますから、これから出産いたします。」その夜、すぐに塾で子供を生みました。当初、韓生と玉英が往来するのは、いずれも夜中で、生徒たちは散じていましたので、気づく人はいませんでした。子が生まれますと、玉英がみずから養育しましたが、嬰児の鳴く声は、多くの人々に隠せず、人々はだんだん気づきはじめました。ただ、娘が誰か、嬰児が誰かは分からず、名が分かる人はなく[23]、詳しいことを調べた人もいませんでした。やむなく勝手に憶測し、話しましたが、確実な証拠はまったくありませんでした。噂が広まりますと、韓生の母親も気づき、韓生に言いました。「おまえは山で塾を開いているのだから、妖魅に用心するべきだ。おもてではおまえが私通していると噂しているが、実際はどうなのだ。正直に話しておくれ。」韓生は屍骸を埋葬して報いられたこと、および玉英の姓名を話し、くわしいことを述べました。韓母は驚きました。「おまえの話からすると年を経た幽鬼だから、ますます心配だ。」韓生は言いました。「言うもおかしなことですが、幽鬼でありながら、ほんとうに人と異ならず、すでに一子を生んでくれました。」韓母は言いました。「そんなことは信じないよ。」韓生は言いました。「どうして嘘をついてお母さまを騙しましょう。」韓母は言いました。「ほんとうにそうなら、わたしは孫がなく、孫を待ち望んでいたのだから、おまえが抱いて帰ってきて見せておくれ。そうすれば、はじめておまえの言葉が本当であることを信じよう。」韓生は言いました。「わたしが玉英に話しましょう。」ほんとうに母親の言葉を知らせました。玉英は言いました。「孫はおばあさんに会いにゆくべきですが、この子は陽気を受けたことがまだ少ないので、すぐに生きている人と会うべきではございません。しばらくしたら対応しましょう。」韓生は母親に報告しました。韓母は信じず、どうしても玉英の動きを調べようとしましたが、息子には話しませんでした。

 

    とある日、みずからこっそり塾に来ました。玉英はちょうど塾の楼上におり、果物を息子に食べさせていました。韓母はまっすぐ楼に上ってゆきました。玉英は人がいるのを望み見ますと、すぐに息子を抱き、窓の外へ逃げました。子供に食べさせていた果物は、すべて地に棄てました。見てみますと、蓮の肉のようでしたが、拾いあげてじっくり見ますと、蜂の巣の中の白い虫でした。韓母はたいへん驚きました。「きっと妖物だ。」けっして近づくなと息子に命じました。韓生は口では従いましたが、心では捨てられませんでした。韓母が去りますと、玉英はすぐにやってきて韓生に言いました。「この子がいるため、往来するのに不便です。今、おばあさまはわたしを妖物だと疑ってらっしゃいますから、わたしはこちらにいても面目がございません。わたしは今からこの子を抱いて故郷の湘潭に戻ってゆき、人の世に預け、後日会うことにしましょう。」韓生は言いました。「ながいこといっしょにいたのに、どうして別れられよう。懐かしく思ったら、どうして耐えられよう。」玉英は言いました。「わたしはこの子を預けますが、自分が往ったり来たりするのは自由です。今、二つの竹の箸をあなたの所に遺しますから、懐かしくなったときや、何か急用があって会おうとするときは、二つの箸を撃ちさえすれば、わたしがみずからまいりましょう。」そう言いますと、すぐに飄然として去りました。

 

    玉英はこの子供を抱いて湘潭にゆき、子供の衣帯に「十八年後に帰りきたらん。」の七字を書きました。さらに子供の生年月日を後ろに書き、河辺に棄てました。湘潭の黄公は、富んで子がありませんでしたが、河辺にいって子供を見ますと、拾って戻ってゆき、家で養いました。玉英は走ってきますと韓生に言いました。「子供はすでに湘潭の黄家にいます、わたしは衣帯に書きつけをし、十八年を期限としました。その時会えば、いっしょに家に帰れましょう。今、わたしは身にしがらみがございませんから、自由に往来できましょう。」この後、韓生は玉英と会おうとしますと、竹の箸を打ちました。玉英が来ますと、疾病禍患があるときは、玉英に言えば、すぐに治りました。はなはだしきは、他人の禍福を、玉英はいつもさきに韓生に話しました。韓生がそのことを人に言えば、たちまち験がありました。世間に噂が広まりますと、みな韓秀才が妖邪に遇い、妖言で人々を惑わしていると言いました。おりしもその時、家主には娘がいて外に駆け落ちしておりましたので、韓生が会っている女は、家主の女ではないかと疑うものもありました。人々は勝手に噂し、韓生の名声はすこぶる損なわれました。玉英はそれを知りますと、韓生に言いました。「もともとはお礼しようといたしましたのに、今はかえってご迷惑をお掛けしています。」だんだん来るのがまれになり、一年に一度来ることを約束するだけになり、来るときはかならず七夕を期日としました。韓生はその厚意に感じ、再婚しませんでした。こうして十八年たちますと、玉英はやってきて韓生に言いました。「衣帯の期限がすでに来ましたから、訪ねてゆかないわけにはまいりません。」韓生は言葉に従い、韓母に知らせ、湘潭にゆきました。これぞまさしく、

 

                      阮修[24]は幽鬼のなきを唱ふれど[25]、幽鬼の人を生むを知るなし。

                      (そのかみ)は親を尋ぬる子があれど、今は子を尋ぬる親あり[26]

 

    さて、湘潭の黄翁は、今まで子がありませんでしたが、たまたま水辺にゆきますと、捨て子が地面におりましたので、抱いて家に戻りました。見れば眉目清秀で、聡明で可愛らしかったため、養って子としましたが、その衣帯には「十八年後に帰りきたらん」の七文字がありましたので、心の中で訝りました。「よそさまの正妻と側室が憎みあい、やむをえず捨てたのだろうか。よそさまに多くが子女を生まれ、負担を受けるのを恐れて捨てたのだろうか。捨てたのに、どうして十八年の期限があるのだ。これはきっとこの子の両親が留めようとしなかったが、棄てるにも忍びなかったので、はっきり記し、他人に預けようとしたのだろう。後日きっと訪ねてくるだろう。わたしは今、子がないから、とりあえず拾って養い、十八年後に様子をみよう。」黄翁はこの子供を拾った後、突然みずからがつづけて二子を生みましたので、拾った子を鶴齢と名づけ、みずからの二子には鶴齢の二字を分け、一人は鶴算と名づけ、一人は延齢と名づけ、いっしょに学堂に送りこんで勉強させました。鶴齢は異常に聡明で、目を通しますとすぐ暗誦しました。二子も優れていましたが、いずれも鶴齢に及びませんでした。総丱(そうかん)[27]の時、三人はいっしょに学校に入りました。黄翁は喜んでやまず、やはり二子と同じように扱い、すこしも差別しませんでした。二子は老いてからの子でしたので、黄翁はかれらがはやく家庭を築き、すぐに孫を生むことを望み、十六七歳でかれらを結婚させてやりました。鶴齢だけは衣帯の言葉があったため、父母が期日どおりに訪ねてき、実家に帰ることを要求するかもしれませんでしたので、ぐずぐずとして娶らせませんでした。しかし黄翁は心の中で申しわけなかったので、言いました。「わたしの長子なのに、なぜ妻がない。」まずは四十金で郷里の易氏の娘と婚約させてやりました。鶴齢も衣帯のことを知っておりましたので、黄翁に言いました。「わたしは幼いときから養育の深いご恩を蒙り、すでに翁の子となっていますが、実の父母がすでに約した期日がございますから、娶るときに告げぬべきではございません。妻と婚約させていただきましたが、とりあえず期日が過ぎるのを待ち、父母が来なかったら、結婚しても、遅くはございませんでしょう。」黄翁は鶴齢が言うことはもっともであると考え、従いました。十八年目になりますと、いずれも懸懸として望み、どんな動きがあるかを見ました。

 

    ある日、福建の人が街で人のために星占いをしていましたが、黄翁の家を訪ね、黄翁に面会を求めました。黄翁は心の中で、三子がすぐに科挙に合格することを望んでいましたので、星占い師を見ますとかならず招いていました。遠方から来たと聞きますと、すぐれた術があるかと疑い、座を勧め、三子の年齢を示して占いを頼みました。星占い師は占うふりをし、鶴齢の八字を指しますと、黄翁に言いました。「このかたは翁のお家のお子さまではございません。このかたは、生来父母の身辺にいるべきではなく、預けられ、外に出て、はじめて成長できたのでございます。成長した後、すぐにもとの家に帰らなければなりませんが、今はすでにその期日です。」黄公はかれが本当のことを言うのを見ますと、顔色を真っ赤にして言いました。「先生はほんとうにでたらめを仰っています。この三子はすべてわたしの実子ですのに、どうして預けたと仰います。それにお話しになったのはわたしの長子で、わたしの家を継ぐのですから、帰るべき家などはございません。」星占い師は大笑いしました。「ご老人はどうして衣帯の言葉をお忘れなのです。」黄翁は思わず色を失って言いました。「先生はなぜご存じなのです。」星占い師は言いました。「わたくしは他でもない、十八年前に子を捨てた韓秀才です。」翁の家に証人がないことを恐れたため、星占い師に変装し、様子を探りにきたのです。今すでに翁の家に来たのですから、ご老人はあの子にもとの姓を知らせなければなりません。」黄翁は言いました。「衣帯の約束は、本当だったのですね。老いぼれは隠すべきではございません。それにわたしには実子があり、死んでも、溝壑にうずまることはございませんから[28]、よそさまの子を騙しとることはございません。ただ、この子はどうして棄てられたのですか。詳しいことを仰ってください。」韓生は言いました。「話せば事が怪異に関わりますから、お告げするわけにはまいりません。」黄翁は言いました。「ご令息とはこうしたご縁があったのですから、みずからの骨肉でございます。老いぼれにお知らせくだされば、わたしもこの子の来歴を知ることができましょう。」韓生は言いました。「この子の母親は、今の世の人でなく、二百年前の貞女の魂なのです。その女は宋代に、父親が閩の役人で、敵を防いで敗れたため、一家で殉節したのですが、その魂は滅びず、わたくしと結婚して子を生みました。ほかの人に疑われたため、女は原籍は湘潭だと言い、ご尊宅につれてきて養わせたのでございます。衣帯の字は、すべて女がみずから書いたのでございます。今日わたくしがこちらに来たのも、この女の命じたことでございすが、ほんとうに遇おうとは思っておりませんでした。どうか会わせてください。」黄翁は言いました。「このように怪しい事があるのですね。ご令息の出自がそのようなものであるならば、かならずや非凡なはずでございます。今、ご令息は倅とともに三兄弟で、ともに長沙に受験しにいっています。」韓生は言いました。「はるばるこちらにたずねて来たのでございますから、長沙にいても、あちらにいって会いたいと思います。われわれが天の定めた父子であることを思われ、恩徳により実家に帰らせてくだされば[29]、おおいに幸いでございます。」黄翁は言いました。「父子は至って親しいものでございますから、義として使君の珠を返すべきでございます[30]。それに足下は冥縁[31]があり、隔たるべきではございません。ただ、老いぼれが十八年間養育したことは、もとより申すまでもなく、最近の結納の資金だけでも、四十金ございます。お子さんは足下のものになりましたが、この結納金は返さなければなりません。」韓生は言いました。「ご老人のご恩は報い難く、結納金にいたっては、もとよりお返しするべきでございます。わたくしが倅に会った後、帰って倅の母親と相談するのをお許しください。絶対に義に負こうとはいたしません。」

 

    韓生はすぐ黄翁に別れ、ただちに長沙にゆき、黄翁の三子の受験の宿を訪問しました。尋ねあてますと、すぐに帖子を書いて黄翁の長男鶴齢に伝えました。帖子には「十八年前に衣帯の事をお聞かせした人韓某」と書いてありました。鶴齢は衣帯という言葉を見て、感動し、驚いて出てきますと面会を請いました。「足下はどちらのかたですか。どうして衣帯のことをご存じなのですか。」韓生が見ますと鶴齢は

年はやうやく弱冠、体は衣に勝えず。美貌は父の形をば受け、嫣質は母の顔にぞ同じなる。恂恂[32]たる儒雅[33]、人はみな十八歳の書生と思ふ。邈邈[34]たる源流、二百年の鬼子とは知らず。

韓生はその鶴齢の顔を見ますと、王玉英とよく似ていましたので、かれの息子であることを悟り、答えました。「わかさまは衣帯に字を書いた人に会いたいですか。」鶴齢は言いました。「衣帯に字を書いた人は、わたしの父でなければわたしの母で、今年を約束していました。今、その人をご存じなら、きっと確かな便りをお持ちでございましょう。お話しください。」韓生は言いました。「衣帯に字を書いた人は、わたしの妻の王玉英です。会おうとなさるのでしたら、さきにわたしを確認なさるべきでしょう。」鶴齢はそう言われますと、父だと悟り、大声で哭き、抱きしめて言いました。「ほんとうにお父さまなら、どうしてわたしを十八年間捨てていらっしゃいました。」韓生は言いました。「おまえの母は普通の女ではなく、二百年の鬼仙で、わたしと結婚して子を生み、哺育するのに不便であったため、人の世に預けようとしたのだ。おまえの母親は本籍は湘潭だったので、この地に連れてきたのだ。わたしは実は福建の秀才で、おまえの母との結婚したのも福建だ。今おまえが実の父母を忘れていないなら、こちらの義父に別れ、福建に帰るがよい。」鶴齢は言いました。「お母さまは今どこにいらっしゃるのでございましょう。わたしも会いたく思います。」韓生は言いました。「おまえの母は行ったり来たりし、もとよりとどまる所がない。会おうとするなら、やはりわが閩中にゆくべきだ。」鶴齢には至情がありましたので、たいへん感動しました。二人の弟鶴算、延齢は、傍らでかれが福建に帰ることを求めているのを聞きますと、若者の気性から、おもわず激怒し、言いました。「どこからきた悪者だ、無根のことをでっちあげ、よそさまの子弟を騙し、荒唐無稽なことを言うとは。にいさんを、福建にゆかせようとし、このようなでたらめを言うとは。」下男たちはそう言うのを見ますと、みな怒りはじめ、鶴齢に言いました。「坊ちゃまはこの遊行の者の言うことを聴かれてはなりません。かれらはもっぱら他人の家のことを探り、いざこざを作りあげ、人を騙しているのです。」委細構わず、引くものは引き、推すものは推し、韓生を押しだしてゆこうとしました、韓生は言いました。「騒ぐことはございません。わたしはすでに湘潭であなたがたの老旦那さまに会いましたが、結納金四十両を完済すれば、受けもどし、ふたたびわたしの息子にできると言われています。あなたたちはどうしてでたらめを言うのです。」人々は韓生に従わず、ひたすら推しだしてゆこうとしました。鶴齢は心の中が不安で、再三恋恋としましたが、人々は鶴齢をも顧みませんでした。二人の弟は荒々しく言いました。「兄さんはしっかりとした考えがございませんね。なぜこのようなごろつきと話されるのです。あいつを殴るのを許せばそれが、恩情でございましょう。」鶴齢は言いました。「衣帯の言葉は、きっと嘘ではあるまい。あれは本当にわたしの父が約束を果たしきたのだ。あのひとはかつて湘潭で父さんに会ったといっていたから、家に戻ってゆけば、かならず事情が分かるだろう。」鶴算、延齢二人と家人はどうしても信じず、宿の入り口を鎖し、ふたたび入れて鶴齢に会わせることはありませんでした。

 

    韓生は息子に会えたが、黄家の結納の品物は、返すべきだと思いました。しかし今は返す手立てがなく、手ぶらでこちらにいては、一年たっても益がなく、息子を取りもどして帰ってゆくのはおぼつきませんでした。ひとまず家に戻っていって手立てを考えるほうがよいと思いましたが、心の中で考えが決まりませんでしたので、晩になりますと、竹の箸を打ちました。王玉英はすぐに来ましたので、韓生はすでに息子に会ったこと、黄家に結納金を償えば受けもどせることを話しました。玉英は言いました。「結納金は返すべきでございます。こちらでは手立てがございませんから、ひとまず閩中に戻り、あらためて機をみたほうがよいでしょう。易家との結婚も前世の縁で、結納金を得たら、こちらに来て結婚をなしとげても、遅くはございませんでしょう。」そこで、韓生は閩に戻ることを決意し、湘水に浮かび、湖を渡りましたが、波浪が危険なときは、玉英は舟の中にいって護衛しました。路銀が乏しくなりますと、やはり玉英がひそかに援助しましたので、家に着くことができました。家に着いた日、隣近所は驚きました。かれらは今まで韓生は妖に遇ったのだ、ながいこと見えないのは、妖魅によってどこかへ攫ってゆかれ、よそで死んだにちがいない、帰ってこられないだろうと思っていました。今、無事に帰宅したのを見ますと、たいへん珍しいと思いました。ふだん交際していた人々はみな訪ねてきました。韓生は、人々がひどく訝り、会いにきて尋ねているので、いさぎよく本当のことを始めから終わりまでくわしく述べ、すこしも隠しませんでした。人々は韓生が死んでおらず、ほんとうに息子が湘潭にいるのを見ますと、はじめてかれの話が真実であることを信じました。そして、今度は韓生が神仙に遇ったと言い、みなかれを羨みました。面識がないものは、みな一度面識を得ようと思いました。あるものが韓生はなぜ息子を連れかえってこなかったかと問いましたので、韓生は結納金を返せなかったので、湘潭の養父の家が承知しなかったことを話しました。物好きはみな援助を願い、まもなく、二十余金が集まりましたが、なお半分足りませんでした。夜、箸を打ち、王玉英と相談しますと、玉英は言いました。「半分ございますなら、とにかく出発なさいませ。途中半分を集める場所がございましょう。」

 

    韓生はすぐに出発し、路半ばに到り、江の辺の古廟の脇を過ぎますと、玉英が突然来て韓生に言いました。「この廟の厨司に坐していれば、二十金を得ますから、結納金を返すのに十分でございましょう。」韓生が言葉に従い、船を泊めて上陸し、廟に入って見てみますと、

廟門は崩れ、神路[35]は荒れたり。(べん)を執る小鬼は頭なく、簿を持てる判官は帽が落ちたり。庭に獣の足跡多く、狐狸はこなたで夜を過ごし、地上に人の(あしあと)はなく、魍魎が身を寄せてきて夜に宿れり。千年(ちとせ)香火があるめれど、一陌の紙銭さへ翻るなし。

韓生が厨司の辺にゆき、幔を掲げて見ますと、灰塵が一寸あまりの厚さに積もっていましたので、心の中で言いました。「こちらに銀子などあるものか。」しかし、玉英の言葉には間違いがなかったと思いましたので、とりあえず玉英の話しに従い、登ってゆき、厨房に蹲りました。喘ぎが収まらないでいますと、一人の男があたふたと入ってき、手を案の前の香炉にむやみに押しこみました。押しこみおわりますと、神に声諾して言いました。「神さまがお隠しになることを望みます。立てた誓いは、その通りになさいませぬよう。」さらに人が外から喚いて入ってきますと、言いました。「おまえは良心に負いて二十両の銀子を盗み、ごまかそうとしているな。いっしょにこちらの神さまの面前で誓いを立てよう。誓いを立てることができれば、おまえは盗みはしていまい。」さきに来た人はすぐに神に向かい、口でわたしが銀子を盗んでいたら、これこれこうなると誦えました。その後、男は先に来た男が誓いを立てて出るのを見ますと、表情を穏やかにして言いました。「あなたとは関わりはなかった。どこでまちがってなくなったのだろう。」先に来た人は、体を震わせ、両袖を払って言いました。「ごらんなさい。わたしの身に、隠せる場所はございません。」二人はぶつぶつと、話しながら、おもてへいってしまいました。

 

    韓生は来る人がいないのを見ますと、厨司から出てきました。香炉を触り、さきほど隠したのがどんなものかを見ますと、大きな紙包みが出てきました。開けてみますと、一包みの、塊にした銀子で、約二十余両ありました。韓生は言いました。「ありがたい。あきらかに、先に入ってきた男は、仲間の銀子をこちらに蔵し、誓いを立てて、探しだせなくなったら、ゆっくり使いにこようとしていたのだ。ところが先に鬼神に知られ、わたしの手に入ったのだ。取るまいと思っても、しょせんは不義の財だ。なくした人に返そうと思っても、あの男が盗んできたことが明らかになってしまう。むしろ玉英の言葉に従い、とりあえず持ってゆき、倅を贖う元手にすれば、よいだろう。」すぐに取ってしまいました。廟を出て船に乗り、船の中でゆっくり計りますと、はたして二十両の重さがあり、すこしも少なくありませんでしたので、たいへん喜びました。

 

    湘潭に着きますと、すぐ四十金を黄翁に送りかえして結納にし、鶴齢を贖うことを求めました。黄翁は言いました。「婚約はすでに決まり、男女ともにすでに年頃ですから、老いぼれはこの金でご令息の結婚を叶えさせ、その後で閩に帰ることを相談しましょう。足下父子がお好きなようになされば、老いぼれの仕事もおわります。」韓生は言いました。「これらはすべてご老人が事を成しとげようとする[36]ご厚意ですから、ご命に従わないはずはございません。」黄翁は媒酌に命じて易家にこの事を知らせました。易家は承知せずに言いました。「わたしの家が黄公の子に嫁ぐことを約束したのは、家格が釣りあっていますし、同郷で結婚すれば、たがいに好都合だったからです。今、聞けばこの子の本籍は福建だそうですから、結婚すれば、後日帰郷しなければなりません。四五千里隔たるのはよくありません。交渉しなければなりません。黄家にいて去らなければ、事ははじめて叶いましょう。」媒酌が来て黄翁に話しました。黄翁はかれがゆかないことを切望し、この言葉をすべて韓生に告げました。「老いぼれはこの子を留めようとしているのではございません。親家がこのように焦っているのでございます。それにご令息のお名前は楚の戸籍にあり、楚の地で結婚されたのですから、閩に帰ることは、きっと望まれますまい。どういたしましょう。」韓生もすこし無理があると思いましたので、また竹の箸を撃って玉英と相談しました。玉英は言いました。「今まで易家との結婚は前世の縁だと言ってきました。こちらで引きとめられれば、ゆかせてもらえません。それにわたくしは本籍は湘中ですから、息子がこちらで婿になり、こちらで家庭を築いてもようございます。父子であることを確認なさればよく、閩に帰られることはございません。」韓生は言いました。「閩はわたしの故郷で、母がまだいるから、閩に帰らなければ、息子とはいえない。」玉英は言いました。「事ここに到っては、お考え通りにはなりません。かたくなに閩に帰ろうとなさるのでしたら、あの子の結婚を成就することはできません。あなたはあの子をつれて閩中に帰り、さらにあちらであらためて良縁をお結びください。ひとまず黄、易両家の言葉に従い、結婚すれば、後日、息子はおのずと知ることがございましょう。」韓生はやむなくこの趣意を黄翁に報告し、黄翁の指図に従いました。黄翁はさきに鶴齢に父親を確認させ、すぐに書斎を片づけて韓生を泊まらせました。その後、この四十両の銀子を与えて花燭の費用にし、易家にいって日どりを告げました。易家は福建に戻らないと言われますと、何もかも従いました。

 

    結婚の後、鶴齢は、父の韓生に、母親に会いたいと言いました。韓生が玉英に話しますと、玉英は言いました。「わたしの実の息子ですから、会おうとしていたところです。ただ、こちらには生きている人が多く、わたしにとってはよくありません。息子に言ってください。人が静まった後、部屋でひそかに箸を打てば、わたしはかれら夫婦二人に会いますと。」韓生は鶴齢に知らせ、竹の箸をひそかにかれに渡しますと、鶴齢は箸を持ってゆきました。黄昏になり、鶴齢が箸を打ちますと、薄化粧の女が空中から下りてきましたので、鶴齢夫妻は母親だと知り、ともに跪きました。玉英は撫でさすりますと、言いました。「好一対の息子と嫁です。あなたという子がいたため、縁に牽かれ、二百年間静穏だった心は、安閑とできませんでした。今さいわいに家庭を築いたのですから、わたしの願いはすでに叶えられました。」鶴齢は言いました。「わたしはすこぶる詩書を読み、古今の事迹を見ています。お母さまの数百年の精魂が、なお人の世を漂い、子を生み、成人させたのは、まことにまれな出来事でございます。お母さまはどんな術でこれを齎したのでしょう、どうかお教えください。」玉英は言いました。「わたしは貞烈のために死にましたが、后土はわたしを記録して鬼仙にし、わたしが一子を生み、その血脈を延ばすことを許しました。あなたの父は屍骸を埋葬した仁があり、陰徳は記すべきものでしたので、わたしはすぐに結婚してあなたを生んで、その恩に報いたのです。これはみな生前に定まっていたことなのです。」鶴齢は言いました。「お母さまはこのように霊力がおありなら、人の世にとどまってはいかがでしょうか。わたしの嫁たちは朝晩お仕えできましょう。」玉英は言いました。「わたしはお父さんと縁がありますから、しばしば世に現れることができますが、冥界のもののなすべきことではありません。今日はわざわざあなたと嫁に会おうとしたので、しばらく来ましたが、これからはもう来ません。閩に帰る時、石尤嶺の麓でまた会いましょう。あなたは前途が洋々としていますから、励みなさい。励みなさい。」そう言いますと、空に上がってゆきました。

 

    鶴齢夫妻は恍恍として自失すること半日、はじめて心を落ちつけることができました。事は怪異でしたが、母親の言葉を思えば、一句一句筋道が通っていました。鶴齢はみずから感嘆しました。「稗官野史を読みつくしたが、わが身があのひとの子でなかったら、話を聞いても、すぐに信じようとしなかっただろう。」翌日、黄翁および二人の弟と話しますと、みな驚きました。鶴齢はすぐに竹の箸を韓生に返し、くわしく母親の夜来の言葉を話しました。韓生は言いました。「今、おまえは義父の庇護により、結婚し、ともにこちらに住んでいるが、閩に帰る日は、いつとも知れない。しばらくしたら、わたしはひとりで戻ってゆき、おばあさんに会うとしよう。」鶴齢は言いました。「お父さまは焦られることはございません。秋試はもうすぐでございますから、まずはわたしの受験が終わってから、相談すればようございましょう。」それから韓生はひとまず黄家に住みました。

 

    鶴齢と二人の弟は、ともに秋試を受けました。鶴齢と鶴算がいっしょに合格通知を受けますと、黄翁と韓生はいずれも喜びました。鶴齢は鶴算とともに会試にゆこうとしましたが、韓生は湘潭に住んでいても益がないので、とりあえず閩中に戻ろうと考えました。黄翁は路銀を送り、鶴齢と易氏はそれぞれ有り金を出して送別しました。韓生は家にゆき、上の事をすべて母親に知らせました。韓母は孫が結婚したと言われますと、会うことを切望し、眼前に来ることを切望し、この時は嫁が幽鬼であることも話しませんでした。翌年、鶴齢、鶴算は春榜に連捷し、鶴齢は休暇を賜り、帰省しました。鶴算は福州府閩県知県を授かり、いっしょに湘潭に戻ってゆきました。鶴算は黄翁を迎え、一家で赴任することにしましたので、鶴齢もこの機に乗じ、妻易氏を連れ、舟に乗せ、閩に帰省することにしました。堂に登り、祖母に目通りしましたが、喜びは並々ならぬものでした。韓生は息子に言いました。「わたしは長楽の石尤嶺で塾を開いていたが、そこで母さんと遇い、母さんの骸骨もあちらにある。今、いっしょにあちらへゆけば、母さんはきっと会いにこよう。先日の約束は、これだったのだ。」

 

    そして、一家でともに嶺の麓にゆき、塾にとどまりますと、箸を打たないうちに、玉英が韓母に拝礼しにきて、言いました。「今、孫の嫁はみなおばあさまの面前におります。それに孫はすでに名をなすことができましたから、わたくしがあなたに報いる理由はすでに尽きました。わたくしは冥界ものでございますから、ひさしく人の世に往来するべきではございませんでしたが、夙縁のため、このようになることができました。今、一門はすべて集まりましたから、わたくしの仕事はおしまいでございます。これからは玄理[37]を修め、また塵寰に入らぬべきでございます。」韓生は言いました。「長年往来し、情は一朝一夕のものではない、息子の一件だけでも、おおくの精神を費した。今はじめて家に来ることができ、まさに嫁の奉仕を享受できる、どうしてまた別れたいと言うのだ。」鶴齢夫婦は哭いて留まることを請いました。玉英は言いました。「天命はこのようなものなのですから、人の力で変えられるものではありません。運命(さだめ)でなければ、二百年の精魂がみとのまぐわいをし、子を産み、世間に二十余年往来する事はなかったでしょう。あなたたちも運命であると諦め、世間の離別のありさまをなすことはありません。」そう言いますと、翩然として亡くなりました。鶴齢は大声で痛哭し、韓母と易氏はそれぞれ涙を落としましたが、韓生だけはあまり気に留めませんでした。韓生は慣れており、夜静かなときに箸を撃てば、きっと会えると思っていました。ところが、その後は箸を撃っても来ませんでした。七夕の期日になっても、やはり杳然としていました。韓生ははじめて忽忽として失ったものがあるかのよう、まるで先だたれて連れ合いを失ったかのようでした。思えば玉英は平時いっしょにいたとき、長短の詩を作り、筆を落とせば数千言、清新な趣きがあり、すべて前の三首の絶句に似ており、人に伝わり、すこぶる口誦されました。韓生がその作品を取って集にしたところ、都合十巻ありました。かつて「万鳥鳴春」四律を賦したため、韓生はその集を『万鳥鳴春』と名づけ、世に広めました。

 

    韓生がその後亡くなりますと、鶴齢はすぐに石尤嶺の麓に合葬しました。鶴齢は改めて韓姓に復し、別号を黄石とし、黄家および石尤嶺を忘れない気持ちを示しました。三年の喪が終わりますと、ふたたび易氏とともに湘潭に帰り、今でも閩中では盛んにその事を伝えています。

 

                      二百年前の一鬼魂、乾坤(このよ)にありてなほ子を生むを得たるなり。

                      遺骸を掩へば陰功重く、骸骨の報恩を解するをはじめて信ぜり。

 

最終更新日:2009630

二刻拍案驚奇

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[1]子が生まれる前、親同士が、生まれてくる子供が男女だったら結婚させようと約束を交わすこと。http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic8CZdic87304185.htm

[2]州の判官。判官は地方長官の属官で、明清代は州のみに置かれた。http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic88ZdicA4322935.htm

[3]四川。

[4]卓異超群の貌。ここでは高々としたさまであろう。http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE4ZdicBCZdic9F20867.htm

[5]金属をも断ち切るほど、硬い絆があるということ。『易·繋辞上』「二人同心、其利断金。」からhttp://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic96ZdicAD168912.htm

[6]良縁を結ぶことの喩え。晋干宝『捜神』巻十一で、公が行者から授かった石を、指示されたとおりに畑に植えたところ、その石が玉を生じ、その玉を結納にして結婚できたという故事から。http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA7Zdic8D227842.htm

[7]原文「必諧百年」。「百年」は「百年好合」のこと。夫婦がながく仲良くすること。

http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE7Zdic99ZdicBE2823.htm

[8]明清代、七品官の母あるいは妻子の封号。また、人の尊称。http://www.zdic.net/cd/ci/17/ZdicE5ZdicADZdicBA326121.htm

[9]大夫の家の礼http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5ZdicAEZdicB6295292.htm

[10]礼法。http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicBBZdicAA101967.htm

[11]原文「只怕失調了」。「失調」が未詳。とりあえずこう訳す。http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5ZdicA4ZdicB132594.htm

[12]指腹婚の、それぞれが衣襟を裂き、たがいに珍蔵して証拠とすること。http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE5Zdic89ZdicB27201.htm

[13]原文「妾亦藉手不負于郎矣」。未詳。とりあえずこう訳す。http://www.zdic.net/cd/ci/17/ZdicE8Zdic97Zdic89234957.htm

[14]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic83ZdicBD59882.htm

[15]晋干宝『捜神』巻十六

[16]名。西省のほとりにある。その地に仙窟があり、唐の裴航が仙女雲英に遇ったと伝えられているhttp://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8Zdic93Zdic9D338903.htm

[17]飛ぶ雲。http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicBAZdic91258798.htm

[18]。便りを伝える使者を指す。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic9DZdic92299595.htm

http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic9DZdic92299581.htm

[19]女子の密秀美なhttp://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE9Zdic9BZdicBE263822.htm

[20]清Kな水流。http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6ZdicB8Zdic85325012.htm

[21]原文「乍逢仙侶桃打、笑我清波照霧鬟。」。この二句、含意未詳。

[22]原文「君是読書之人、幽婚冥合之事、世所常有。」。この文章は「君是読書之人」と「幽婚冥合之事、世所常有。」のつながりがおかしい。そのまま訳す。

[23]原文「没個人家主名」。未詳。とりあえずこう訳す。http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB8ZdicBB8770.htm

[24]晋の人。http://baike.baidu.com/view/213235.htm

[25]『世新語方正第五「阮宣子鬼神有無者。或以人死有鬼、宣子独以無、曰、今鬼者、云着生衣服、若人死有鬼、衣服有鬼邪。

[26]原文「昔有尋親之子、今為尋子之親。」。未詳。「昔有尋親之子」は王゙の戯曲『尋親記』

の主人公周羽を指すか。

[27]児童の束また、童年のこと。http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic80ZdicBB205418.htm

[28]原文「料已不填溝壑」。「填溝壑」は屍を溝に埋められること。ここでは「ごみのように捨てられる」ということであろう。http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE5ZdicA1ZdicAB282426.htm

[29]原文「恩使帰宗」。「恩」が未詳。とりあえずこう訳す。

[30]原文「誼当使君還珠」。言いたいことは、わたしはご令息をお返しするべきですということ。「使君還珠」はいわゆる「合浦珠還」の故事に基づく言葉で、一度失った大事な物が再び手に戻る状態をいう。『後漢書』循吏列伝・孟嘗「嘗到官、革易前弊、求民病利、曽未踰歳、去珠復還」から。http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicBFZdic98259753.htm

[31]微で見難い三世の因http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic86ZdicA521956.htm

[32]のさま。http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic81Zdic82333620.htm

[33]博学な儒士あるいは文人雅士をいう。http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE5Zdic84Zdic9289285.htm

[34]なさま。また、超凡出俗のさま。http://www.zdic.net/cd/ci/17/ZdicE9Zdic82Zdic88248412.htm

[35]未詳だが、神廟の通路であろう。http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA5Zdic9E174206.htm

[36]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic8EZdic89331084.htm

[37]精微な理、深奥な道理。『http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic8EZdic84309081.htm

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