巻十二 むりに尋問して大儒が言い争うこと あまんじて受刑して侠女が芳名を著すこと

 

    詩がございます。

                        世事に偏見をな持ちそ、偏見あらば誤認あるべし。

                        たとひ大聖大賢なりとも、善からざることをなすべし。

    皆さん、お聞きください。昔から、講談は風月(いろこい)を語り、異聞を述べ、耳を心地よくすることを求めるものにすぎませんが、もっとも益があるものは、世情を論じ、因果を語り、聴けば心に触れ、ふだんの邪な考えを変えるのでございます。これこそは、講談師が道学の心を持ちながら、かねてから道学を講じたことはないということでございます[1]。今、なぜ偏見を持つべきでないというのでしょう。人の心はもっとも霊妙なのですが、虚心であってこそはじめて公平になるのです。一点の偏見が肚に入りますと、善悪を誤認することが多くなり、聖賢も頑固になり、みずからを正しいと思い、事態がそのようでないことが分からなくなるのです。道学の正統といえば、朱文公晦翁[2]に勝るものはありません。読書人はみなかれを敬っていますから、どうして大賢でないことがございましょう。しかし、かれでさえ、偏見が心にあったため、あやまって事を裁いたことがありました、その昔、福建崇安県で知県をしていたとき、一人の貧民が訴状を提出して言いました。「祖先の墓を、県の豪族が奪って自分の墓にし、公然と埋葬しています。」晦翁は風水に精通しておりましたし、福建ではきわめてこの事が重んじられており、富豪の家はよい風水の吉地[3]があるのを見ますと、もっぱら貧民のそれを奪おうとするため、訴訟が引きおこされており、このような事はよくあるのでした。晦翁はかれの訴状を受理し、その豪族を役所に連れてきました。豪族は言いました。「わが家が造った墓で、他人とすこしも関わりはございません。どうして奪ったと仰るのでしょう。」貧民は言いました。「もともとわたしの家の先祖の墓でしたが、富豪が勢いを恃んで奪ったのです。」両家は争ってやめませんでした。証人を呼んで尋ねますと、それぞれが一方に味方し、確実な証拠はありませんでした。晦翁は言いました。「これらはすべて拠りどころとするに足らない口頭の言葉だから[4]、わたしがみずからはっきり踏査しにゆこう。」

    すぐに一群の関係者および従者らを連れ、みずから墓にゆきました。見れば山は秀で、水は澄み、鳳は舞い、龍は飛び[5]、ほんとうによい場所でした。晦翁は心の中で考えました。「このような吉地なら、人が争って奪うのも道理だ。」はやくもいささかの疑心を生じ、きっと貧民の先祖が葬られていたが、豪族がよい土地だと思い、かれの土地を得ようとする心を起こしたにちがいないと思いました。豪族は先に言上しました。「これはわたしの家であらたに造った墓で、土や建造物は、すべて新らしいのに、どうしてかれの家の古い墓だというのでしょう。知事さまがご覧になれば、はっきりしましょう。」貧民は言いました。「表面の新しい建造物はそのものの家のものですが、下に古い土があるはずでございます。これはもともとわが家のもので、そのものはそれを奪って新装したのでございます。」晦翁は鋤と鉄を取ってこさせ、墓前を掘ってみました。柔らかい泥の尽きる処まで掘りますと、とんと音が響き、泥を掘る人は振動で手が痛みました。上の泥を掻き分けてみますと、一塊の青石があり、表面にはぼんやりと字が書かれていましたので、晦翁は取り出して見るように命じました。従者が泥と沙を拭い去り、水で洗い清めますと、文字が現れ出てきましたが、それは「某氏の墓」という四つの大きな文字でした。脇には細く文字が刻まれていましたが、貧民の家の祖先の名でした。豪族は驚いて言いました。「これはどこから来たのでしょう。」晦翁は怒鳴りました。「あきらかにあのものの家の古い墓だ。おまえは強きを恃んであのものの墓を奪ったな。石刻が現にあるのに、何か文句が言えるか。」。貧民はひたすら叩頭して言いました。「青天さま[6]、わたしはこれ以上よけいなことを申す必要はございません。」晦翁はすでに事実を明らかにしたと思い、立ちあがりますと県庁に戻り、墓を貧民のものにするという裁きをし、豪族を田地を強奪した罪に問いました。貧民は何度も「青天さま」といい、拝謝して去りました。

    晦翁はこの事を裁きますと、みずから思いました。「このような、強きを挫き、弱きを助ける事は、わたしでなければ、誰ができよう。」おおいに得意でしたが、奸民の計におちていたのでした。そもそも貧民は狡猾であり、晦翁が強情で、富豪が人民を苛めることをもっぱら咎めていることを知っていたのでした。これ[7]はもとよりまったくの善意でしたが、かれらに見やぶられ、つけこまれたのでした。そして豪族が造った墓地の風水がよいのを狙い、一計を案じ、青石に字を刻み、かなり前にこっそりとかれの墓に埋め、突然訴状を提出したのでした。豪族はぼんやりしていて[8]、あらたに造った墓であり、みればすぐに明らかだと自分から語ってしまいました。ところが地下にはあらかじめこのような罠がしかけられており、お上の前でそれが発掘されたのでした。晦翁はこの明らかな証拠を見ますと、信じざるをえませんでした。それに、昔から、豪族が貧民のものを奪うことがあるばかりで、貧民が豪族のものを奪うのは見たことがありませんでした。ですから法律によって裁いたのでした。豪族はひどい冤罪を受けましたので、心の中で承服せず、上級の監司[9]の処にゆき、さらに訴え、崇安県に審理をやりなおしてもらうことにしました。晦翁はますます怒り、豪族が凶悪で抵抗しているのだと考えました。一たび決心しますと、地方に命じ、豪族に迫って棺を移させ、土地を与えて貧民の祖先を埋葬させ、事件を終わらせることにしました。ところが部外者たちは、多くは貧民が偽っており、晦翁が誤って取調べしたことを知っていましたので、公議は不穏となり、騒然となり、それが晦翁の耳に届きました。晦翁は豪族の力が大きいために、人々がこのように言っているのだと考え、慨然として嘆息しました。「この世では、正しい道は絶対に行われないのだ。」そして官職を棄て、故郷の武夷山中に隠居しました。

    その後、用事があって例の場所を通り、林木が蓊然[10]としているのを見ますと、以前踏査して貧民に返すように判決した土地であることを思い出しました。ふたたび行って散歩してみますと、風水はほんとうによく、科挙に合格するべき人を葬るところだと考えました。そこでその付近の住民に尋ねました。「これはどのような家なのだ。このような吉地に葬られる福分を持っているとは。」住民は言いました。「この家の墓は、悪い心を起こして得たものでございます。よい風水がかれに験をもたらすはずがございません。」晦翁は言いました。「どのように悪い心を起こしたのだ。」住民は貧民が以前墓に石を埋め、県知事を騙し、豪族の墓地を偽り、祖先を葬ったことを、あれやこれやと、くわしく話しました。晦翁はそれを聞きますと、おもわず両頬を真っ赤にしましたが、悔いても手遅れでしたので、言いました。「わたしは以前公平に法律を執行したと思っていたが、悪者に騙されていたのだ。」一点の悔恨の念が丹田からまっすぐに頭頂を貫きました。そして考えました。「このような風水ならば、出世して、よいことがあるはずだ、このように周到に奪いとったのであれば、よいことがかれにもたらされるべきではない。」そして天に向かって下の四句を祈りました。

                        この地にて出世せば、地の理あるなり。

                        この地にて出世せずんば、天の理あるなり[11]

 

    祈りおわると去りました。その夜、大雨は注ぐかのよう、雷電は次々に起こり、霹靂が一たび鳴れば、屋根瓦はみな振動しました。翌日、その墓を見ますと、すでに毀たれて(ふち)となり、屍や棺さえ見えませんでした。偏見があると、晦庵のような大賢人でも、誤らざるをえないことが分かります。その後、事情がはっきりし、ようやく悔悟しますと、天はすぐ報応を示しましたが、これは天理が滅びていないということでした。人が邪念を起こし、聖賢を欺き、利益を占め、風水を葬れば、天地はもとよりそれを許さないのです。

    なぜこのようなことをながながと語ったのでしょう。朱晦翁にはもう一つ、偏見をもち、強引に事件を裁き、下賎な婦人を不当な目に遭わせたものの、かえって婦人の名が天子に聞こえ、四海に讃えられ、よい結果を得たことがあったからです。証拠に詩がございます。

                        白面の秀才は争ひにおち、紅顔の女子は苦しみにおつ。

                        寛仁な聖主は二人を分かち[12]、娼妓は万古に名を残したり。

    さて、天台営[13]に花魁がおり、姓は厳、名は蕊、字は幼芳といい、絶色の娘でした。琴棋書画、歌舞管弦の類には、ことごとく通じていました。詩詞を作るのに巧みで、みずから新しい句をたくさん作りましたので、詞人は敬服していました。さらに古今の故事をひろく知っていました。することにはたいへん義気があり、人と接するときにはつねに誠実でしたので、会って心を乱さぬ者は一人もいませんでした。四方はかれの名声を聞き、若年の子弟はかれを慕い、千里を遠しとせず、ただちに台州に来て面識を得ることを求めました。これぞまさしく、

十年知らず君王の面、はじめて信ず嬋娟のよく人を誤るを。

    この時の台州太守は唐与正、字は仲友といい、若年で才高く、風流文雅でありました。宋代の法規では、官府で酒宴がありますと、歌妓たちを召して伺候させ、ただ立って歌唱させ、酒を注がせるばかりで、寝床に侍することは許されませんでした。かれらとふざけ、親しむことも、あまり清雅なこととはいわれませんでした[14]。仲友は厳蕊がこのようにたいへんかわいらしいのを見ますと、おおいに愛する気持ちを持ちましたが、官箴[15]に絆され、でたらめなことをしようとはしませんでした。しかし節句の時や、賓客の席上では、かならずかれを召してきてお酌させました。ある日、紅白の桃花が満開でしたので、仲友が置酒観賞していますと、厳蕊が伺候しにきました。酒を飲んでいますと、仲友は、かれが詞を詠むことにたくみであることを知り、紅白の桃花を題にし、小詞[16]を賦するように命じました。厳蕊はすぐに一闕を作りました。その詞は、

    梨花とおもへばさにあらず、杏花とおもへばさにあらず。白と(くれなゐ)、ことさら東風(はる)の情趣あり。かつてしるせり、かつてしるせり、人の武陵[17]でかすかに酔ひしを。——詞は『如夢令』に寄す。

    吟じますと、仲友に捧げました。仲友はそれを見ますとおおいに喜び、かれに二匹の縑帛(かとりぎぬ)を与えました。

    別の日、おりしも七夕でしたが、役所で宴を開きました。仲友の友人謝元卿は、きわめて豪放な士で、その日も席上にいました。かれはずっと厳幼芳の名を聞いていましたが、今回、会うことができましたので、たいへん喜んでいました。かれの物腰、談笑歌唱するのを見ますと、いずれも人を感動させるものでしたので、言いました。「ほんとうに名声は嘘ではないな。」大觥をつづけて飲みますと、興趣はますます高まりました。唐太守に言いました。「かねてからこの娘は詞賦に長じていると聞いていますが、目の前で試すことができますか。」仲友は言いました。「佳いお客さまがいますから、新しい詞を賦するべきです。この娘はたいへん有能ですから、まさにご命を受けることができましょう。」元卿は言いました。「七夕を題にし、わたくしの姓を韻にし、詞を賦してください。わたくしは三つの大杯を飲み干しましょう。」厳蕊は命を受けますと、すぐに口ずから一詞を吟じました。

    碧梧はじめて落ち、桂香はじめて吐き、池上の水花[18]はじめて(うつろ)ふ。穿針[19]の人は合歓楼にあり、月露[20]は高き玉盤[21]よりぞそそぎたる[22](ささがに)は忙しく[23]、鵲は懶く、耕せる者は疲れて、織る者は倦み、むなしく古今の佳話となる。人間(じんかん)に一年を隔つといふは、天上に一夜を隔つることならん[24]。 詞は『鵲橋仙』に寄す。

    詞を吟じますと、元卿は三杯の酒を二杯を飲んだだけで、おもわず躍然として立ち、言いました。「詞は新奇だし、調べも景色に合っており、才気は穎敏、ほんとうに天上の人だ。わたしたちは何の幸いがあって、みずから芳沢にうるおうことができるのだろう。」すぐに大觥を取って返杯しますと、言いました。「やはり幼芳さんがこの杯をいっしょに飲まねばなりません。わたくしの欽慕の念をいささか示すことにしましょう。」厳蕊は受けとって飲みました。太守は二人の様子を見ますと、言いました。「元卿くんは旅の身なのだから、厳子の家にゆき、何日かいっしょになるべきだ。」元卿はおおいに笑い、揖して言いました。「お願いしようとはしませんでしたが、もとより願うところです[25]。ただ幼芳の心がどうかは分かりません。」仲友は笑いながら言いました。「厳子はものの分かった人ですから、本当に佳い客に仕えることを願わぬはずがございません。それに太守が事をとりしきっているのですから、なおさらそうするべきでしょう[26]。」厳蕊は断わろうとしませんでした。酒宴がお開きになりますと、謝元卿とともに家にゆき、その夜は留まって枕席の歓をともにしました。元卿は豪放な性格でしたが、佳麗で聡明な娘を見ますと、たいへん気に入り、かれの歓心を得られないことのみを恐れ、太守の処で得たものは、すべてかれの家に送り、半年逗留し、ようやく別れてゆきましたが、若干の銀子を用い、心の中はやはり満ち足りませんでした、厳蕊がほんとうに人の魂をとろかすことが分かりますが、このことはここではお話しいたしません。

    さて、婺州永康県に有名な秀才がおり、姓は陳、名は亮、字は同父といいました。性格は豪快で、侠気があり、豪傑と称せられていました。縉紳士大夫で、気節があるものは、みなかれと親しんでいました。淮帥[27]辛稼軒[28]が鉛山[29]にいた時、同父はかれを訪ねてゆきました。家の側に近づきますと、小さな橋がありましたが、騎っていた馬は走ろうとしませんでした。同父が馬を三たび跳ねさせますと、馬は三たび退きました。同父がおおいに怒り、帯びていた剣を抜き、剣を一揮いして馬の首を斬りますと、馬は地上に倒れました。同父は顔色を変えず、歩いてゆこうとしました。稼軒はたまたま楼の上でそれを見ていましたが、並外れたことだと思い、かれと交わりを結びました。ふだんの行いがこのようなものでしたので、唐仲友もかれと親しくしたのでした。そのため、台州へ来て仲友に会いますと、仲友は宿舎と食糧を援助し、かれを宿泊させました。閑な時は、往来して講論しました。仲友が喜ぶのは豪快な名士、怒るのは道学先生でした。同父の意見も同じでした。かれはつねに言いました。「今の世はひたすら道学を講じている。正心誠意を語るのは、風痹[30]病に罹り、痛みを知らない人間だろう。君父[31]の大敵にはまったく構わず、その上、得意気に手を袖にいれ、性命[32]を高談しながら、性命がどのようなものかを知らない。」ですから仲友と話が合ったのでした。ただ一つ、同父は道学を嫌っていましたが、朱晦庵とは親しく、晦庵は同父を推薦したこともありました。同父は、晦庵は実学[33]を学んでいるので役に立つ、俗儒の迂遠であるのとは違うといいました。唐仲友だけは平素才を恃み、朱晦庵をきわめて侮辱し、かれは字も知らないと言っていました。ですから、二人の議論はいささか咬みあいませんでした。

    同父は客舎で興が乗りますと、妓館に遊ぼうと思いました。この時、厳蕊の名は一郡に広まっており、おおくの人々は、太守さまがかれを気に入っているため、かれが異様に忙しく、家の中で閑にしていることは一日もないことを知っていました。同父はさっぱりした男で、かれの閑を窺う気持ちはありませんでした。聞けば趙娟というものがおり、容色技芸は厳蕊の下にあるものの、やはり上等の妓女といえ、台州で一二を争っているということでした。同父はかれの家で遊び、ながいこと綣繾とし、二人で愛しあっていました。同父は金を土のようにばらまき、すこしも惜しみませんでした。妓館では、かれのこのようなありさまを見ますと、おおいにご機嫌取りをしました。趙娟はかれに嫁ごうとする気持ちがあり、同父も趙娟を娶ろうとする気持ちがありましたので、二人は幾たびか相談し、おたがいに乗り気でいました。ただ、官妓の身でしたので、落籍されて、はじめて人に嫁ぐことができるのでした。同父は言いました。「落籍は役所が掌っているから、唐仲友に話せば、掌をかえすかのようにたやすいことだ。」趙娟は言いました。「そのようにしていただけますなら、たいへん宜しゅうございます。」陳同父は、このためだけに役所に来、唐太守に会い、意向をくわしく話しました。唐仲友は冗談を言いました。「同父さんは当今第一流の人物ですのに、こちらで厳蕊と交際しないで趙娟と交際するのは、どうしてですか。」同父は言いました。「わたしたちは『情のそそぐところが、もっとも勝れている』のであり[34]、その右に出る者を見ないのです。それに厳蕊は太守どののお気に入りですから、たとい交際しても、落籍してかれをゆかせようとはなさいますまい。」仲友も笑いだして言いました。「気に入っているのではございません。厳蕊が去ってしまえば、この地に人がいなくなってしまいますが[35]、これはもちろんよくないことです。趙娟を落籍なさりたいのでしたら、もちろんご命に従いましょう。ただ、あのものがおんみに従う気持ちをすでに決めているかは分かりません。」同父は言いました。「かれの言葉を見ますと、至誠から出ているようです。さらに太守どのが協力し、月老(とりもち)になられることを望みます。」仲友は言いました。「従うことは、本人の願いから出ることで、わたくしが協力できることではありませんが、とにかく落籍してやりましょう。」同父が別れてゆき、このことを趙娟に報告しますと、みな喜びました。

    翌日、役所で宴がありましたので、趙娟を呼んできて伺候させました。酒を飲んでいますと、唐太守が趙娟に尋ねました。「昨日、陳さまがおまえのために話しにき、落籍しようとしたが、本当にそうした事があったのか。」趙娟は叩頭して言いました。「わたくしは苦界をすでに厭うておりますから、脱けでることができますならば、天地の恩でございます。」太守は言いました。「落籍するのは難しくない。落籍すれば、陳さまに従うか。」趙娟は言いました。「陳さまは名士でございますから、微賎を嫌い、受けいれようとはなさらないことでしょう。わたくしを思っていらっしゃるのであれば、わたくしは自分から離れようとはいたしません。落籍されればすぐあのかたに従ってゆきましょう。」太守は心の中で考えました。「この娘は事情が分からず、軽率に承諾したが、同父が人を殺しても瞬きしない男であることを知らない。それに、することは派手だが、家は貧しいから、この娘を終生幸せにすることはできないだろう。」そしてとっさの、趙娟のための好意で、冷笑しながら言いました。「陳さまの家に従ってゆこうとするときは、飢えを忍び、寒さに耐えられるならよかろう。」趙娟はたちまち顔色を変え、考えました。「あのひとが派手にお金を使っているのを見、あのひとの家がきっと裕福だと思いましたので、嫁ごうと思ったのです。太守さまの仰る通りなら、きっと貧乏人で、わたしと終生添い遂げることはできないでしょう。」たいへん不愉快になりました。唐太守は一時の冗談だから、趙娟は気に留めないだろうと思っていました。ところが妓女たちは知恵がよく働き、一言が気に掛かりますと、たちまち疑うのでした。唐太守が趙娟に落籍の文書を与えますと、趙娟は出ていって陳同父に会いましたが、かれに嫁ぐことを話しませんでした。もてなしの心さえ、ふだんよりずっと冷淡になりました。同父は心の中で怪しみました。「妓女とはこのようにおそろしく薄情なものなのか。わたしを騙して落籍させると、すぐに約束を破るとは。」以前話したことをふたたび取りあげて趙娟に問いました。趙娟は返事しました。「太守さまは、あなたの家にいったら飢えと寒さを忍ばなければならないと言っていました。これはどういうことですか。」同父はその言葉を聞きますと、勃然として激怒しました。「唐のやつがそんなにろくでなしだったとは。おまえ[36]が厳蕊を好むのはよいが、わたしに話しをさせてもよいはずだ[37]。」かれは正直で義気を貴ぶ人でしたから、すぐに趙家を慕わなくなり、唐太守に別れを告げにもゆかず、ただちに朱晦庵の処にゆきました。

    この時、朱晦庵は浙東の常平倉を掌管しており、まさに婺州[38]にいました。同父が入ってゆき、会い、質問され、台州から来たと言いますと、晦庵は言いました。「唐くんは台州でどうしていますか。」同父は言いました。「あのひとはただ厳蕊がいることを知っているだけです、ほかには何もありません。」晦庵は言いました。「本官のことを話していましたか。」同父は言いました。「唐のやつは、あなたは字を知らないから、監司にはなれまいと言っていました。」晦庵はそれを聞きますと、しばらく黙然としていました。そもそも晦庵は若くして登朝し、茫茫たる役人たちの中で、著書立言は、天下に流布していましたので、みずからもいささか謙虚でない処がありました。唐仲友が若くして高い才を持っているのを見ますと、心の中ではつねにかれが侮辱しにくるのではないかと疑っていました。かれが自分のことを字を知らないと言っているのを聞きますと、本当に恥じて怒り、怫然として言いました。「あのものはわたしの属官なのに、そのように無礼であるとは。」しかし、背後の言は真偽が定かでないので[39]、一枚の牌を発し[40]、言いました。「台州では刑政[41]に不正があるから、重ねて視察することが必要だ。」徹夜で台州市にやってきました。

    晦庵はあらを探そうとする気持ちがありましたので、急いでやってきました。唐仲友は不意をつかれ、すぐには接待できず、来るのがすこし遅れました。晦庵は同父の言葉はまちがいない、本当にこのように侮辱している、自分を気に留めていないと考えました。この怒りはもう消すことができませんでした。到着しますと、すぐに唐太守の印信[42]を取り上げ、郡丞[43]に渡し、言いました。「知府は職にふさわしくないから、弾劾する[44]。」厳蕊さえも捕らえてきて収監し、かれと太守の姦通のありさまを問おうとしました。晦庵は仲友は色男だから、きっと関係を持ったはずだ、それに女はか弱く、拷問に耐えられまい、事のあるなしに関わらず、かならず自供するだろうから、かれの罪名を弾劾する上奏[45]ができると考えました。ところが厳蕊は細い体でしたが、鉄石のような性格でした。朝に打ち、暮に罵り、千たび打ち、百たび叩いても、「職分に従って、歌をうたい、詩を吟じ、お酌したことはございますが、すこしもほかの事はございませんでした。」と言うばかりでした。苦しみを受けつくし、監禁されること一月あまりに及んでも、このように言うばかりでした。晦庵もかれをどうすることもできず、あいまいに、「上官を惑わすべきではなかった」ということにし、凶悪にもかれをきびしく杖うちにし、紹興に送ってゆき、さらに尋問を加えるしかありませんでした。一方で、あらかじめ上奏文をととのえ、弾劾の上奏をしましたが[46]、その大略はこのようなものでした。

唐某は学問に励まず、聖賢の道理を知りませんが、臣を字を知らないと譏り、官位にありながら政体[47]を存せず、娼妓に親しんでいます。奸情を調べ、ふたたび覆奏[48]し、勅旨をお待ちいたします[49]。等因[50]

    唐仲友には同郷の友人王淮がおり、まさに中書省で国政を執っていました。やはり告発状をととのえ[51]、晦庵の上奏に反駁し、聖聴に入れようとしました。その大略にいいました。

朱某は法制に従わず、一つの地方をふたたび巡視し[52]、突然やってきました。そのため出迎えに遅れたところ、娼妓をきびしく凌虐し、官員をみだりに侮辱しました。しかし正義は滅び難く、賎婦を誣服させられませんでした。さらにわたしが上奏すれば、偽りは明らかになることでございましょう。等因。

    孝宗皇帝は晦庵の上奏を見ますと、持ちだして宰相の王淮と相談しましたが、王淮も仲友の告発状を出して孝宗に見せました。孝宗はそれを見ますと、尋ねました。「二人の諍いを、そなたはどう思う。」王淮は奏しました。「(わたくし)の見ましたところ、これは秀才が言い争っているだけでございます[53]。一人は字を知らないと譏ったと言い、一人は出迎えをしなかったと言っています。これは事実でございます。そのほかの言葉は尾鰭がついており[54]、いささかの正しい事もございません。お聴きにならなければ宜しいでしょう。」孝宗は言いました。「そなたの申す通りだ。上下の官庁が不和だと、地方は苦労するから、双方を転任させればよい[55]。」王淮は感謝しました。「陛下のお考えはきわめて妥当でございます、臣は下級官庁に命じて実行させましょう。」

    今回、都でさいわいに王丞相の助けを得、孝宗に見識があったため、唐仲友の官爵は安然として何事もありませんでした。ただ、憐れなことに、厳蕊のほうは、たくさんの苦しみを受けても、まだ事が終わらず、告発の後[56]、あらためて紹興へゆき、取り調べされそうになりました。紹興太守も道学を重んじるものでしたので、厳蕊が護送されてきた時、かれの容貌が美しいのを見ますと、言いました。「昔から容色が優れた者に、徳はないものだ。」すぐにむごい刑具を用いてかれを打ち、拶子を求めてきて指を挟みました。厳蕊は十指は細く、手の甲は柔らかく白かったので、太守は言いました。「みずから井臼[57]を操る手なら、けっしてこのようではない。だから憎らしいのだ。」さらに夾棍でかれを挟もうとしました。文書を扱う孔目[58]が言上しました。「厳蕊は両足がとても小そうございますから、虐待に耐えられぬことでございましょう。」太守は言いました。「かれは足が小さいのか。これはみな人力によって矯めたもので、天然自然のものではない。」かれによってひどく虐待され、唐仲友との姦通の事を供述することを求められました。しかし厳蕊はあいかわらず白状しませんでしたので、ひとまずつれてきて収監し、ふたたび尋問することにしました。

    厳蕊が獄中にゆきますと、獄官はほんとうにかれを憐れみ、獄中の牢卒に命じ、苛めることを許さず、うまい言葉で尋ねました。「上司はおまえに刑罰を加え、おまえが白状することを求めているにすぎないのだから、はやく白状してはどうだ。この罪には限度がある。女が姦淫を犯したばあい、どんなに重くても杖罪にすぎないし、すでに杖罰を受けたのだから、罪をふたたび取り調べられることはなかろう[59]。身を張って、このような苦しみに耐えることはない。」厳蕊は言いました。「身は賎しい妓女ですから、たとい太守さまと楽しいことをしていても、死罪にならないことでしょう、白状すれば、大きな害はございますまい。ただ、天下の事は、真ならば真であり、偽ならば偽であり、みずからの微躯を惜しみ、口に任せてみだりに語り、士大夫を辱めるべきではございません。今日はむしろわたしを死地に置きましょう、わたしに人を誣告するように求めても、絶対にそのようなことはしません。」獄官はかれの言葉と顔色が凛然としているのを見ますと、大いに敬い、すべてその言葉を太守に知らせました。太守は言いました。「それならば、上司のもともとの判断にしたがって沙汰しよう。憎らしいことにこの娘は強情だ。上司はすでにかれを処罰したが、こちらももちろん処罰せねばならない。」さらに厳蕊を獄から連れだしてき、ふたたびきびしく杖うちを加えましたが、これは晦庵の意思に迎合したものでもありました。文書を整え、まさに提挙司[60]に報告し、かれの言うこと次第では、あらためて処置を行おうとしましたが、晦庵転任の消息を得ますと、ようやく厳蕊を出獄させました。厳蕊はこのように不運で、役人はつねにつまらない争論をし、かれを思いやらず[61]、二箇所の獄にゆえなく二ヶ月収監し、むりやり不当な罪を着せ、二回の裁きを受けさせ、そのほかに自供を迫って拷問を受けさせ、さらになみはずれて楽しい思いをさせました[62]。これぞまさしく、

                        方竹[63]の杖を丸くし、断紋の琴[64]に漆す。

                        好物に念を動かさずんば、道学の心となるべし。

    厳蕊は無限の苦しみを受け、釈放されて出てきましたが、気息奄奄として、幾たびか死にそうになり、杖瘡を治療しました。しばらく客に会えませんでしたが、門前の車馬は、前よりさらに盛んになりました。死んでも唐仲友のことを供述しようとしなかったため、四方の人はかれの義気を重んじました。若年で気節を貴ぶ友人たちは、ますます古来義侠の(ともがら)に比するに堪えると思い、今まで知り合いであったものはかれの見舞いに来ようとし、知り合いでなかったものはかれの顔を見にこようとし、ごったがえしました。妓館の人々はもちろん道学とは相容れませんでしたから、厳蕊を見にきた者で、朱晦庵を罵らないものは一人もいませんでした。

    晦庵は今回唐仲友をどうすることもできず、さんざん争論した挙句、世間で人々に騒ぎたてられ、厳蕊の声価は上がり、ただちに孝宗の耳に伝わりました。孝宗は言いました。「以前、双方を公平に扱ったのは幸いだった。一方の言葉を聞いて、唐与正を流罪にしていたら、この義気のある娘は訴える処がなくなってしまっていただろう。」

    陳同父はそれを知りますと、やはり悔いて言いました。「わたしは晦庵にちょっとかれの話をしただけだが[65]、むきになって大騒ぎしはじめようとは思わなかった。今、唐仲友はわたしがかれを酷い目に遭わせたと疑っているが、弁明できない。」そこで、晦庵に手紙を送って言いました。

亮は平生他人の是非を語ったことはございませんが、唐与正から讒言したと疑われ、ほんとうに田光のように死ぬに値します[66]。しかし困窮の中にあっても、このしがない命は惜しゅうございます。一笑[67]

見たところ、陳同父は、唐仲友がかれと趙娟との仲を裂いたため、一時の怒りで、仲友がふだん言っていたことを晦庵に話したようです。ところが晦庵は凶悪で、仲友を処罰しようとしました。累は厳蕊に及び、拷問を受けましたが、いずれも同父の望むことではありませんでした。これも、晦庵が偏見を改めず、頑固にしていたことによる過ちでした。

その後、晦庵は転任してゆき、交代したのは岳商卿、名は霖でした。着任した時、妓女たちはかれを拝賀しました。商卿は尋ねました。「だれが厳蕊だ。」厳蕊は進みでて答えました。商卿が眼を上げてみますと、厳蕊は挙止が他人と異なっており、妓女たちの中にいるさまは、鶏の群れの中に野の鶴が一羽立っているかのようでしたが、容顔は憔悴していました。商卿は以前のことを知っており、かれは虐待を受け、とてもかわいそうだと思っていました。そこでかれに言いました。「おまえは詩文に巧みだそうだが、みずからの思いを、詞にしてわたしに訴えれば、計らいをしてやろう。」厳蕊は命を受けますと、すこしも構想せず、すぐに『卜算子』を吟じました。

    苦界を愛するにはあらず、前縁によりて害せらるるがごと。花の落ち花の咲くにはおのづと時あり、みな東君が(つかさど)るなり。ゆくならばかならずゆくべし、とまらんとすれどもいかでとまるべき。山花を頭に挿して満たさば、(わらは)の帰る処を問ひそ[68]

    商卿はそれを聞きますと、おおいに称讃を加えて言いました。「おまえは落籍を決意している。これはよい事だから、おまえのために計らってやろう。」すぐに妓籍[69]を取ってき、名を除いてやり、落籍の裁きをしてやりました。

    厳蕊は叩頭して謝し、門を出てゆきました。ある人がこの言葉を知り、千金を結納とし、あらそって求婚しにきましたが、厳蕊はかれらに従いませんでした。さる宗室の親族の子弟が、正妻を失い、ひどく悲しみ、あらゆることをせずにいました。賓客たちはかれが精神を病むのを恐れ、妓館に引いてゆき、気晴らしさせました。ほかのところを語ると行こうとしませんでしたが、厳蕊の家のことに言及しますと、はじめていっしょに来ようとしました。厳蕊はこの人が満面に悲しみをたたえているのを見ますと、配偶者を失ったことを苦しんでいること、情ある人であることを知り、気に掛けました。宗室も厳蕊の名声を慕い、酒を飲みながら、おたがいに楽しみ、引きとめました。誠実にながいこと交際し、結局、厳蕊を妾にしました。厳蕊も一心にかれに従い、終生添い遂げました。夫人、県君にこそ至りませんでしたが、宗室は厳蕊を娶った後、ふかく気に入り、再婚しませんでした。一つの根と一つの蒂[70]、婦人としての名節を立て、最後まで楽しんだのも厳蕊の心がけが正直であった報いでした。後の人はこの厳蕊を、ほんとうに道学を講じていると評しました。七言古詩一篇があり、かれの長所を語っています。

天台[71]に女のまことに奇絶なるあり、(ふで)を揮ひて賦しえたり謝庭の雪[72]

虞侯太守の筵に(よそひ)したれども[73]、酒酣にして燭を吹き滅すとかぎらず[74]

たちまち監司の飛檄[75]は到り、桁楊[76]横ざまに掠めて頭は地を()く。

章台犯さず士師の条[77]、肺石よく疏す刺史の事[78]

賎質[79]何ぞさまたげん一死を軽んずるを、いかで忍びん浪語もて君子を汚すに[80]

罪は重くはあらねども二たびを得[81]、獄吏の威力はただこれなるのみ。

君侯よく講じみづからを欺くなかれ、女子をして他人を誣告せしめんとせり。

縲絏にあれどもその罪にはあらず[82]、尼父の語をなんぞ忘れん。

君見ずや、

貫高[83]の趙王をそのかみかばひ、身に完膚なきもなほ自彊したるを。

今日蛾眉もよく(しか)すれば、千載ともに侠骨の香るを聞くべし。

顰みを含み笑みを帯び狴犴[84]を出で、言寄せん(まなこ)を閉ざし(まよね)を鎖せる(をのこご)[85]

山花(ざる)に満たしつついざや帰らん[86]、天潢[87]におのづからあり梁鴻の案[88]

 

最終更新日:20081223

二刻拍案驚奇

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[1]原文「這個就是書的一片道学心腸、卻従不曽講著道学。」。「一片道学心腸、卻従不曽講著道学」は慣用句のようにも思われるが未詳。

[2]朱熹。南宋の理学家、思想家。字は元晦、仲晦、号は晦庵、晦翁。

[3]水のよい墓地。宋何『春渚紀聞·鬼霊相墓』「然其家子弟、若有乗馬墜此潭、幾至不救者、即是吉地、而祥自此始矣。」

[4]原文「此皆口説無憑」。「口説無憑」はで言っただけで拠りどころとするに足りないこと。州夢』第四折「喒両個口説無憑。」ZDIC.NET 漢 典 网】

 

[5]原文「鳳舞龍飛」。勢があり、生き生きとして伸びやかであること。『児女英雄第十回「只這書法也写得龍飛、真令人拝服。ZDIC.NET 典 网》

 

[6]原文「青天在上」。青天」は清官のたとえ。『京本通俗小·錯斬崔寧』「只幾家隣舎、一跑上去告道、相公的言、委是青天。」『金瓶梅詞話第十回「正是、名標書史播千年、声振黄堂万古。良方正号青天、正直清廉民父母。」「在上」は「〜さま」の意。zdic.net 漢 典 网】

 

[7]原文「此本是一片好心」。「此」は前の部分の「晦翁が強情で、富豪が人民を苛めることをもっぱら咎めていること」を指す。

[8]原文「大姓睡夢之中」。「睡夢之中」が未詳。とりあえずこう訳す。

[9]監察の責を負っている官吏。按察使、布政使などの通称。『後漢』左雄背相望、与同疾疢、非不聞悪不察。」明·玦』「他始拿守令、司、我都不能禁他、如今該輪到我宰相了。」。

[10]草木がさかんに茂っているさま。『広韻』蓊、蓊郁、草木盛貌。」。

[11]原文「此地若発、是有地理、此地不発、是有天理。」。「発」が未詳だが、「発財」の「発」で運が開けることであろう。この詩の趣旨、奪ったよい土地によって運が開ければ、それは地の理があるということ、運が開けなければ、それは天の理があるということという趣旨であろう。

[12]原文「ェ仁聖主両分張」。「分張」は離れ離れにするという意味に解す。この句、具体的には、孝宗が唐仲文と朱熹をそれぞれ転任させたことを指していよう。zdic.net 漢 典 网】

 

[13]「天台」は浙江省の県名だが、「営」がよく分からない。行政区画のようにも思われるが、天台営という言葉、正史に見えない。

[14]原文「卻是與他謔浪狎昵、也算不得許多清処」。「清処」が未詳。とりあえずこう訳す。

[15]明沈『双珠·棄官父』「制行期画虎成、事肯被官箴、尽孝何愁世網」。

[16]短い前蜀牛『女冠子』浅笑含双靨、低声唱小」明郎瑛『七修稿··艶詞不可填』「昔僧秀西与黄山谷曰、作無害、惟歌小之。」。

[17]劉晨、阮肇が迷い込み、仙女と逢った天台山武陵渓をいう。『太平御覧』巻四十一引『幽明録』参照。ここでは妓女厳蕊のいる天台営をさす。

[18]華とも。ハス。晋崔豹『古今注·草木』「芙蓉、一名荷、生池中、。花之最秀異者、一名水芝、一名水花。」宋朱熹『置酒白沼上』「共憐的皪水花、并倚離披蓋凉。」『広群芳·花八·荷花一』「荷芙蕖花、一名水芙蓉、一名水芝、一名水芸、一名芝、一名水旦、一名水また、ウキクサとも。『通志·草木一』「藻生乎水中、萍生乎水上、萍之名、亦多易相紊也。按、萍亦曰水花。また、水辺の花の総称とも。南朝梁何『寄江州褚諮議「林葉下仍、水花披未落。」玄和室』「石几香未尽、水花欲零。

[19]月七日の夜に女が五色の糸を七孔の針に通し、織女星に裁縫の上達を祈願すること。唐王勃『七夕』「海人支石之機、江女穿鍼之。」明何景明『七夕』中擣素思塞、楼上穿待女牛。

[20]月光の下の露滴。唐杜甫『貽華陽柳少府』「火雲洗月露、絶壁上朝暾。」仇兆注「月下之露、洗出火雲。」宋柳永『玉蝴蝶』「水風軽、苹花老、月露冷、梧葉黄。」『月下独行上』「新秋未再旬、月露已浩然。」元袁桷『題応徳茂游呉事二』之一「澗凍氷泉咽、松月露清。

[21]円い月。唐李白『古朗月行』「小月、呼作白玉」元侯克中『酔花套曲「玉光静、澄澄万里晴。」『封神演第二十六回「玉盤懸在碧天上、展放光散彩范亭『中秋有感』人看来如焼餅、富人誇誇説玉

[22]原文「正月露玉盤高瀉」。「高瀉」が未詳。とりあえずこう訳す。高い空から月光がそそぐことをいっていると解す。李商題鄭大有居』「構何峰是、喧此地分。石梁高月、樵路侵雲。蛟螭室、希夷鳥獣群。近知西上、玉管有時聞

[23]七夕の日に供物に蜘蛛が網をかけると吉兆であるとされる。下記引用文中「喜子」は蜘蛛のこと。『荊楚歳時記』「七月七日、為牽牛織女、聚会之夜。是夕、人家婦女、結綵縷、穿七孔針、或以金銀鍮石為針、陳几筵酒脯瓜果於庭中、以乞巧。有喜子網於瓜上、則以為符応。」。

[24] 原文「人間剛到隔年期、怕天上方才隔夜。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[25]原文「不敢請耳、固所愿也」。『孟子』公孫丑下にまったく同じ言葉が見える。

[26]原文「況為太守做主人、一発該的了」。「做主人」が未詳。とりあえずこう訳す。

[27]「江蘇省の指導者」という意味であろうが、未詳。辛棄疾は江陰の僉判、建康の通判、鎮江の知事などになっているので、これを指すか。

[28]宋代の詞人、軍人であった辛棄疾。『宋史』巻四百一に伝がある。

[29]江西省の県名。

[30]医学用語。寒湿侵によって引き起こされる関節の疼痛あるいは麻痺症状。

[31]「君父大仇全然不理」。「君父」は君主。「君父大仇」はここでは北方異民族の侵入を指していよう。「君父大仇全然不理」は、北方異民族の侵入にはなすすべもなく、ひたすら道学を説いていることをいった句であろう。

[32]哲学用語。天性と天命。『易·乾』「乾道化、各正性命。疏「性者、天生之、若速之、命者、人所禀受、若貴賎天寿之属也。」朱熹本「物所受性、天所賦為命。

[33]現実に密着した宋朱熹『中庸章句』解引程子曰「其始言一理、中散万事、末復合一理、放之弥六合、巻之退蔵於密、其味無、皆学也。」

[34]原文「吾輩情之所鍾、便是最勝」。「情之所鐘、便是最勝」は慣用句と思われるが未詳。意味は、惚れた相手が最高だということであろう。

[35]原文「此邦便覚無人」。「邦」が未詳。とりあえずこう訳す。

[36]唐仲文を指す。

[37]原文「也須有我的話処」。話処」が未詳。とりあえずこう訳す。

[38]浙江省の州名。

[39]原文「然背後之言未卜真偽」。「背後之言」が未詳だが、自分の見ていないところで発せられた言葉ということであろう。

[40]原文「遂行一張牌下去」。「行牌」は令牌あるいは公文を発すること。明沈『双珠·刑逼成招』「事干重大、不可忽、已曽行牌提」清六奇『明季北略·十五居庸陥』「自成(李自成)行牌郡云、知会村人民、不必驚慌、如我兵到、公平交易、断不淫汚搶掠。zdic.net 漢 典 网】

 

[41]刑法政令。『国·周下』「出令不信、刑政放。」唐柳宗元『封建』「告之以直而不改、必痛之而後畏、由是君刑政生焉。

[42]公印私印の称。唐元稹『酬南行一百韻』「印信、箭作符繻。」『元典章·刑部十四·』「中省捉王容雕行省并中省印信。

[43]郡守の副唐元稹『授李昆滑州司制』「将、是宜加秩。郡丞吏、用表兼

[44]原文「聴参」。未詳だが、「聴」は「聴候」、「参」は「参劾」「参奏」のことであろう。

[45]原文「便好参奏他罪名了」。「参奏」は朝廷に官吏の罪状を告発すること。清袁枚『随園詩話補遺』巻一「方公大驚、以為顛、据参奏。

[46]原文「一面先具本参奏」。「具本」が未詳。とりあえずこう訳す。

[47]政の要荀悦『申·政体』「承天惟允、正身惟常、任惟固、恤民惟勤、明制惟典、立惟敦、是政体也。」唐呉兢『貞観政要·政体』「自此百官中有学業優長政体者、多品、累加遷擢焉。」明何良俊『四友斎叢説·史一』「若将六部案牘中有于政体者一一録出、修累朝之事更無漏矣。

[48]よく調べて上申する。

[49]原文「取進止」。奏疏の末尾で用いる套語。旨意を待ち、行動を決するということ。宋岳飛『奏乞出師札子』「然後乞身帰田里、此臣夙夜所自許者。臣不勝拳拳孤忠昧死一言、取進止。」宋岳飛『奏辞少保第四札子』「庶使臣稍安愚分、別効寸長、仰報陛下天地生成之徳。干冒斧鉞、臣不任戦慄俯伏俟命之至、取進止。

[50]『漢語大詞典』に「旧時の公文用。上官署の令文の引用がおわる時に用いるが、同級機関及び地位が上の隷属関係にない機関の来文を引用するときも、尊敬を表すため使われることがある。」と説明されるが、ここでは朱熹から中央への上奏なのであるから、『漢語大詞典』の説明と合わない。なぜここで「等因」という套語が使われているのかは未詳

[51]原文「也具一私」。「私」が未詳。とりあえずこう訳す。

[52]原文「一方再按」。未詳。とりあえずこう訳す。

[53]原文「此乃秀才争閑気耳」。「争閑気」は無意味な言い争い蘇軾坡志林』巻十二「吾不肖、方傍人門戸、何暇争気耶。」『二刻拍案驚奇』巻十二「据臣看着、此乃秀才争闍C耳。」「秀才争閑気」は未詳。「餓鬼の喧嘩」の意か。

[54]原文「其余言語多是増添的」。「増添」が未詳。とりあえずこう訳す。

[55]原文「可両下平調了他便了」。「平調」は」級の職に転任すること

[56]原文「出本之後」。「出本」が未詳。とりあえずこう訳す。

[57]水汲み米舂き、ひろく家事一般をさす劉向『列女·周南之妻』「操井臼、不妻而娶。」唐柳宗元『送従弟謀帰江陵序』「足其家、不以非道、其身、不以苟得。退退、尊老無井臼之

[58]官府の高級な吏員。治通·唐玄宗天宝十』「安禄山中国之心。孔目官、掌書記高尚因之解讖、之作乱。」胡三省注「孔目官、衙前吏也。唐世始有此名、言凡使司之事、一孔一目、皆須経由其手也。」

[59]原文「罪無重科」。「重科」が未詳。とりあえずこう訳す。

[60]地方行政機関のひとつ。さまざまな提挙司があるが、ここでは提挙常平司のこと。前に朱晦庵は浙東の常平倉を掌管しておりとあった。

[61]原文「做他不著」。未詳。とりあえずこう訳す。

[62]原文「又是分外的受用」。「受用」は楽しい思いをさせることだが、ここではもちろん皮肉。

[63]竹の一。外形がやや四角く、高さは三から八メートル、直径は一から四センチで堅い華東地区で栽培され、観賞用にもなり、古人は杖にすることが多かった。晋戴』「方竹生外、大者如巾筒、小者如界方。」宋B『雲谷雑記·竹之異品』「武陵桃源山有方竹、四面平整如削、堅勁可以杖。」http://imagesgooglecom/imageshl=zh-CN&q=%E6%96%B9%E7%AB%B9&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi(方竹の画像検索結果)この句、せっかくの方竹を丸くしてしまうということで、自然な状態を矯めてしまう道学を揶揄したものであろう。

[64]のある古琴。『洞天清禄集·古琴辨』「古琴以断紋為証、蓋琴不五百不断。」。これも前句と同じく、せっかくの断紋琴に漆をぬって紋を見えなくしてしまうということで、自然な状態を矯めてしまう道学を揶揄したものであろう。

[65]原文「我只向晦庵得他両句話」。両句話」が未詳。とりあえずこう訳す。「他」は唐仲文であろう。

[66]戦国時代燕の人。太子旦に疑われ、自刎。『史記』荊軻伝「田光曰、吾聞之、長者為行、不使人疑之。今太子告光曰、所言者、国之大事也、願先生勿泄、是太子疑光也。夫為行而使人疑之、非節侠也。欲自殺以激荊卿、曰、願足下急過太子、言光已死、明不言也。因遂自刎而死。

[67]手紙の套語であろうが、他の例を見たことがない。今まで述べた内容を、一笑に付してくださいと謙遜しているものであろう。

[68]原文「若得山花插満頭、莫問奴帰処。」。「若得山花插満頭」は落籍され、自由に田園生活をすることをいったものか。「山花」という言葉はにも出てくる。「莫問奴帰処」はそういった境遇になった自分を構わないでくれ、自由にさせてくれということか。

[69]籍。妓女の名簿。宋呉曽『能改·記詩』「而妓籍中有小鬟妓、尚幼、公属意。」『宋史·楊簡伝』「(楊簡)温州、移文首妓籍、尊敬士。」

[70]原文「一根一蒂」。未詳だが、一心同体の関係にある夫婦を喩えたものであろう。

[71]山名。浙江省天台県の北にある。漢の劉晨、阮肇がこの山に入り、薬を採り、仙女に遇ったことで有名。劉義慶『幽明録』参照。

[72]原文「揮毫能賦謝庭雪」。晋のが「柳絮因起」という句によって雪が舞い飛ぶことを喩えたという故事に基づく句。ここでは厳蕊が謝のように文才豊かであることをいう。宋劉義慶『世·言』「太傅寒雪日内集、与児女講論。俄而雪、公欣然曰、白雪紛紛何所似。兄子胡児曰、撒空中差可。兄女(道韞)曰、未若柳絮因起。」

[73]原文「搽粉虞侯太守筵」。「虞侯」は原文も同じだが、「虞候」の誤りであろう。虞候は官名。宋代は殿前司衛親軍馬軍歩軍司などに都虞候が置かれ位は都指使と副都指使に次いだ。ただ、この詩にいう「虞侯」が具体的に誰を指しているのかは未詳。太守」は知府のこと。ここでは台州太守唐与正をさしていよう。

[74]原文「酒酣未必呼燭滅」。含意未詳。酒が酣になっても、部屋を暗くして契りを結ぶことはなかったということか。

[75]急の檄文。続資治通·宋理宗定三年』「時飛道、益恇悚、中夜、欲自沈於池、其妾而持之、乃止。」

[76]手枷、足枷また、刑具の汎称。『荘子·在宥』「今世殊死者相枕也、桁者相推也、刑戮者相望也。」成玄英疏「桁者、械也。脚及、皆名桁。」明方孝孺『郊祀』「霈是施、大賚是庸。桁、囹圄虚空。

[77]「章台」はもと長安の歓楽街。また、妓楼のこと。宋晏幾道『鷓鴣天』果、旧分釵。冶游音信隔章台。」明無名氏『霞箋記·中丞子』「章台把垂折、往事堪悲心欲裂。「士師」は「士史」とも。獄官。『周礼·秋官·士』「士、掌国之五禁之灋、以左右刑。一曰禁、二曰官禁、三曰国禁、四曰野禁、五曰禁。」『孟子·公丑下』「今有人者、或之曰、人可与。之曰、可。彼如曰、孰可以之。之曰、可以之。」『冠子·王鈇』「不待士史、、故後世莫能云其咎。」注「士、李官也。太古無法而治、不立士史、不造契、而至徳玄同、使由之者不能知、知之者不能名、尚何其咎也哉。」『孔子家·致思』「季羔為衛之士、刖人之足。」注「官」。この句、厳蕊が法に触れるようなことはしていないことを述べたものであろう。

[78]原文「肺石会疏刺史事」。「肺石」は朝廷の外に設けられた赤石。民に不平があると、石を撃って怨みを鳴らした。石の形は肺に似ていたので、こういう。『周礼·秋官·大司寇』「以肺石遠()窮民、凡近惸独老幼之欲有復於上、而其弗達者、立於肺石、三日、士聴其辞、以告於上而罪其」『南斉書·明帝「上、下情達、是以甘棠美、肺石流詠。」宋沈括『夢溪筆·器用』「闕前、有唐肺石尚在。其制如仏寺所響石而甚大、可八九尺、形如垂肺。」。「」は「達」に同じいであろう。「刺史」は知州のこと。ここでは台州太守唐与正をさす。この句、厳蕊がよく唐与正のために不平を鳴らしたことを述べていよう。ZDIC.NET 典 网】

 

[79]しいもの。ここでは妓女。具体的には厳蕊をさす。『後漢·独行·范冉』「冉曰、子前在考城、思欲相従、以賎質自絶豪友耳。」北周曇積周太祖沙汰僧表』道余年賎質、寄命化承恩、得存道zdic.net 漢 典 網】

 

[80]原文「豈承浪語君子」。「浪語」はでたらめな言葉。この句は、厳蕊が、唐与正と関係したという嘘の自白をしなかったことを述べたもの。

[81]原文「罪不重科両得[竹召]」。「[竹召]」はあきらかに「笞」の誤字であろう。

[82]原文「雖在縲紲非其罪」。『論語』公冶長「子謂公冶長。可妻也。雖在縲絏之中。非其罪也。」

[83]高は漢代の人、趙王敖の家臣で、趙王を罵った漢の高祖を殺そうとたくらみ、捕らえられ、拷問を受けたが、趙王は陰謀に関わっていないと主張し続けたことで有名。

[84]獄をいう漢揚『法言·吾子』「曰、可以身。曰、狴犴使人多礼乎。」無名氏音「犴、音岸、也。」『陳書·後主』「眷狴犴、有軫哀矜、可克日於大政殿訊獄。」唐杜牧『上李太尉贼書』「閭安堵、狴犴空虚。」

[85]原文「寄声合眼閉眉漢」。陳亮のこと。亮『又甲辰秋』「不肖、然口得、手去得、本非眉合眼、矇瞳精神以自附于道学者也。」。「合眼閉眉漢」は愚鈍な道学者をいうのであろう。

[86]原文「山花満斗帰去来」。「山花満斗」は含意があると思われるが未詳。

[87]皇族をいう。北周庾信『杞公師驃騎表』「憑天潢之派水、附若木之分枝。」。ここでは、厳蕊を妻にした「さる宗室の親族の子弟」をさす。

[88]後漢のの妻孟光が夫を敬い、食膳を眉の高さまで捧げ持って出したという『後漢・逸民・梁』の故事を踏まえた句。『後漢書·逸民·梁』「毎帰、妻具食、不敢於前仰眉。」王先集解引沈欽韓曰「案高至眉、敬之至。」この句、厳蕊が「さる宗室の親族の子弟」によく事えたことを述べたもの。

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