巻七 呂使者が情によって官員の妻と媾うこと 呉太守が義によって儒門の娘を(めあ)わすこと

 

詞がございます[1]

麗しきまよねまなざし、春風に向かひ、今なほ宣和[2]装束(よそほひ)は、気高さは盈盈[3]として姿態(すがたかたち)はうつくしく、挙止(ものごし)はますます凡俗にはあらず。宋室[4]の宗姫[5]、秦王の幼女、かつて欽慈[6](うから)に嫁げり。干戈をふるひ[7]、事は天地にしたがひて転覆す。一笑し相まみえ、人に満飲するを勧めて、たちまちに横竹(ふえ)を吹きたり。天涯にさすらひてともに客たり、ふだん慣れたることにはあらず[8]。そのかみは華やかなりしも、今はやつれて、杯中の(うまざけ)をつぐ。興亡を問ふなかれ、かれのためとりあへず船玉[9]をつくすべし。

 

この詞は『念奴嬌』といい、宋朝の使臣張孝純が粘罕[10]の宴席で見たことを作品にしたものです。当時、靖康の変で、徽宗、欽宗は捕らえられ、数えきれないほどの皇女王孫は、犬や羊のような輩に追いたてられて北にゆき、まさに「内人紅袖に泣き、王子白衣してゆく[11]」時でした。かの地にゆきますと、金枝玉葉であろうと関係ありませんでした。多くのものは憐れにも虐げられ、いささかの容色技芸があるものは、豪門大家に引きとられ、奴婢になりましたが、これでも落ち着き先があったものだといえましょう。そのほかは追いたてられていったりきたりし、犬か(ぶた)のようでした。張孝純が使命を帯びて北方の雲中府へいったとき、大将粘罕の宴席で笛を吹き、酒を勧めていた娘が南方の言葉でしたので、こっそり尋ねますと、かれは秦王の公主で、粘罕に捕らえられて下女になっていたのでした。公主は話しおえますと、嗚咽して涙を流しました。孝純はたいへん悲しみ、この詞を作ったのでした。

後に金人は欽宗を大都燕京に移してゆこうとしましたが、途中、平順州地方にゆき[12]、館駅にとどまりました。おりしも七夕の節句でしたが、金虜の朝廷の決まりでは、その日官府は宿駅に酒肆を設け、人々が酒を買い、集まって飲むのに任せるのでした。欽宗が奥の間にひとり坐し、おもての騒ぎをぼんやりとみていますと、一人の韃婆が幾人かの若い美貌の娘をつれ、酒を飲む席のほとりで、あるいは歌い、あるいは舞い、あるいは笛を吹き、酒を注ぎ、座客に勧めました。座客たちは飲みおわりますと、それぞれ銀あるいは酒食の類を与えました。娘たちはそれを得ますと、韃婆の処へ納めにゆきましたが、韃婆は多いの少ないのといい[13]、得た物が少ない者を打つのでした。この韃婆は中華の老鴇(やりてばばあ)のようなものなのです。まもなく、駅官は一人の黒衣の下役を呼び、酒食を持ってこさせ、欽宗に与えました。そのとき、欽宗は軟巾[14]長衣の秀才の装いでしたので、韃婆もそのかみの中国の皇帝であることに気づかず、客が酒を飲んでいるのだと思い、横笛を吹く娘を部屋に来させ、侍らせました。娘は南方の役人を見ますと、自分の方が先に悲しくなり、嗚咽して、笛を吹いても曲にはなりませんでした。欽宗は娘に言いました。「わたしはおまえの郷里の者だが、おまえは東京のどこの家の娘なのだ。」その娘は、おもてを幾度も見、すぐに言おうとせず、韃婆が遠くに立ちますと、はじめて言いました。「わたしは百王宮[15]の魏王の孫娘で、まず欽慈太后の侄孫[16]に嫁ぎました。京城が破られますと、賊に捕らえられてこちらに来、粘罕の屋敷に売られて下女になりました。のちに女主人は嫉妬し、日がな打ち罵り、こちらの(えびす)の女に転売しました。かれはおおくの娘たちをひきい、こちらで日夜酒代と食物を求めさせていますが、それぞれには限数(ノルマ)があり、貰ってくる物がたりないと、痛打しようとするのです。いつになったら終わりますやら[17]。お役人さまも東京のお方で、やはり捕らえられてきたのでございましょう。」欽宗はそれを聞きますと、返事するわけにもゆかず、ひたすらひそかに涙を落とし、目は見るに忍びず、そのまま出てゆかせました。この娘こそは張孝純が宴席で会った人でした。詞の中に「秦王の幼女」とありますが、秦王は廷美[18]の後裔で、徽宗は当時あらためて魏王に封じていましたので、魏王とは秦王なのでした。まことに鳳子龍孫[19]も、不幸にあい、ここまで落ちぶれてしまっては、どうして哀れでないことがございましょう。

 

しかし、これは天地が通常に反している時は、皇帝さえもみずからの身を顧みられないという話ですから、このようなことは、ひとまず措きます。ほかにも、太平の世で、代々役人となっていた家が、不幸に遭い、没落したという話がございます。幾人かのよい人々に会わなければ、どうして抜け出ることができたでしょう。ですからこうもうします。

 

紅顔(たをやめ)はむかしより幸薄きもの、娼婦(あそびめ)に堕つればさらに憐れなり。

人に会ひ引きあげられなば、淤泥にも青き(はちす)の生ずべし。

 

さて、宋代の饒州[20]徳興県に、役人の董賓卿、字は仲臣というものがおり、夫人は同県の祝氏でした。紹興初年に、四川漢州の太守を拝命し、一家で赴任しました。ところが仲臣は太守になってまもなく、在任中に亡くなりました。一家には老いたものや幼いものも多く、旅路は遠く、貯蓄は少なかったため、すぐには帰ってこられないと考え[21]、やむなくかの地で家をさがし、ひとまずとどまることにしました。仲臣の長子元広も、祝家の女婿で、かれは祖蔭[22]が身にありましたので、調官[23]の前、ひとまず漢州で喪に服しました。三年で喪が明けますと、母親や兄弟に別れ、妻子を連れ、闕下に赴いて派遣を待ち、任官の後、地方の様子を見、家中のものたちを引越しさせる準備をすることにしました。ところが行く前に、その妻祝氏も死に、一人娘が遺されました。元広は漢州で富豪の娘を娶って後妻にし、妻女を連れ、ともに臨安に行き、任官し、房州竹山の県令を得ました。地は狭く、路も遠く、四川にいって郎党を迎えることができず、妻女とともに役所にいるしかありませんでした。

三年がすぎ、任期満了しますと、ふたたび上京しようとし、すぐに家族をつれて東へゆきました。さいわい竹山から臨安までは、路はながいものの、長江で船に乗れば、一水の地[24]でした。ともに行くものが船を泊めており、やはり一人の役人が中にいましたが、四川の人で、姓は呂といいました。人々は多くはかれを呂使君と称していましたが、かれも臨安へ公務をしにゆくのでした。このお役人は若くておしゃれで、顔立ちはきれいでした。役人ではありましたが、まだ少年のようでした。停泊するときは並んで、双方がたがいに挨拶を交わしました。呂使君は董家の船に往年の漢州太守の息子がいることを知りましたが、かれはもともとはまさに治下の民でしたので、挨拶しにきました。董元広は郎党がなお漢州にとどまっており[25]、さらに後妻も漢州の人でしたので、まさに身内も同然だといいました。人々はこちらで舟を列ねて会ったのは、ほんとうに縁があるといい、たがいに喜びました。旅に出る人々というものは、長旅で寂しくなりますと、いささかの理由を探して、交際しようとするものなのです。それにどちらも役人の家柄で、体面は同等であったため、交際するのも容易でした。そのため、両家はあなたがわたしの船にゆくのでなければ、わたしがあなたの船にゆくという具合に、あるときは酒を飲み、あるときは閑談し、ほんとうに会わない日はなく、骨肉や親友さえも、これには勝りませんでした。これも官員たちが故郷から出るときの常態なのでした。

 

ところが、董家の船ではある人が情欲を動かしました。誰だと思われますか。ほかでもない竹山知県の晩孺人[26]でした。そもそも董元広のこの後妻は初婚ではなく、以前、武官に嫁いだことがありました。かれは風姿は妖艶、性情は淫奔でした。武官はたいへん寵愛し、力を尽くして奉仕し、日夜たえることがなかったため、体を壊し、病んで亡くなりました。若くして寡婦となっては、どうして我慢することができましょう。しかし嫁ごうにも、先方では、かれが淫乱であるという評判を聞いておりましたので、受けいれようとはしませんでした。そのため、故郷以外の地に嫁ごうとし、ようやくこの董元広に嫁いだのでした。ところが元広は性来虚弱でしたから、ますますうまくゆかず、やはりかれの心を喜ばせることはできませんでした。欲心はますます激しくなりましたが、渇きを癒やす処はありませんでしたので、呂使君の風采が美しいのをみますと、ひどく情欲を動かしました。それにどちらも四川の人でしたから、お国言葉は懐かしく、夫とは違っていました。船に来たときは、中で茶を出し、酒に燗をし、たいへん親しくしました。大きな声を出し、かれの気を引こうともしました。呂使君は賢い人でしたので、その趣意をすこぶる解していましたが、同袍[27]の誼にほだされ、すぐには手を下せませんでした。ところが孺人は、あるときは半面をあらわし、あるときは全身をあらわし、眉と眼で合図し、かれを抱いて部屋に入れたくてたまりませんでした。昼は眼をぎらぎらとさせましたが[28]、思いを晴らすことはできませんでした。思いおこせば、夫の身になることもなく、たえず例の事をしようとしました[29]。元広は息も絶え絶えとなり、持ちこたえられず、病になってしまいました。呂使君はますますまめにたずねて来、朝晩絶えることはありませんでした。これに乗じて董孺人に眉と目で気持ちを知らせ、おたがいに挑発しあい、すでにかなり親しくなっていました。

舟が臨安に着きますと、董元広は病で起きられなくなりました。呂使君はみずからの船で命令しました。「董さんはわたしの通家[30]だが、船中で病み、上陸してゆかれないから、わたしの荷物も岸に上げる必要はない。船に置いておけ。そうすれば、朝晩お世話することができるだろう。わたしのすべての公文書は、城内に担ぎこんでいって処理することにしよう。」二日たちますと、董元広はついに亡くなってしまいました。呂使君はかれのために葬儀をとりしきり、友人たちが弔問しにきますと、ひたすら「通家の誼は大切ですから、代わりに仕事するのは当然でございます。」と言いました。交際していた人々の多くは、かれの高義は衆人に抜きんでており、今時まれであると讃えました。しかしかれはおのずと考えを内に秘めており、人に知らせませんでしたのでした。まさに、

周公の流言をおそるる日[31]、王莽の下士に謙恭たる時[32]

もしたちまちに身が死なば、一生の真と偽を誰か知るべき[33]

呂使君は董孺人と相談しました。「饒州の故郷は遠く、四川の消息(たより)は通じにくいので、令公[34]の棺は、臨安で土地を択んで、とりあえず埋葬するのがよいでしょう。他年、ご親戚が集まったときに、あらためて手を打ちましょう。」相談が決まりますと、呂使君がすべてを取りしきり、棺をきちんと埋葬し、事を終えました。孺人は元広の前妻の遺した娘をつれ、出てきて使君に拝謝しました。孺人は言いました。「亡夫の不幸がございましたとき、大人のご援助とご指示がなければ、身よりないわたしたち母と子は、どうして亡夫を埋葬することができましたでしょう。ほんとうに骨肉の恩でございます。」使君は言いました。「本官は、旅路では、ずっと令公のご厚誼に感謝し、通家の交際をしておりました。ずっといっしょにいようとしておりましたのに、一朝にして亡くなってしまわれますとは。旅路ではお世話する人もございませんから、これはもちろん本官がなすべき事でございます。ささやかな力をお出ししたまでで、お礼をいわれるにたりません。ただ、葬儀が終わった今、孺人さまはどうなさいますか。」孺人は言いました。「亡夫の家族はみな四川におり、わたしも四川の人間でございます。こちらには身を寄せられる親戚がございませんから、四川に戻ってゆくよりほかはございません。ただ、道は遠く、母子は頼るものがなく、寸歩も行くのは難しゅうございます。どうしたらよろしいでしょう。」使君は笑みを浮かべました。「孺人さまはご心配する必要はございません、本官は公務がおわりましたら、やはりすぐ四川に戻ろうとしておりますから、つきそってごいっしょにゆくことにしましょう。孺人さまに嫌われないのを望むばかりでございます。」孺人も笑みを浮かべました。「そのように援助していただけますなら、帰郷して百日たっても、感激し、お礼するのを忘れはしません。」使君は笑みを浮かべ、眼で合図して言いました。「とりあえず孺人さまがどのようにお礼してくださるかをみましょう。」二人の言葉にはそれぞれ意味があり、たがいに心は通じていました。ただ、それぞれ別の官船におり、人目も多かったため、性急に行動するわけにもゆかず、やむなく固唾をのみこむばかりでした。一隻の『商調·錯葫蘆』がこのつらいありさまをのべております。

二人の情人(こひびと)、それぞれ別の舟にあり。春心(こひのおもひ)はやるせなく、双つながらに荘周の夢の蝴蝶となりて飛ぶのみ。活冤家(こひびと)にいまだ逢ふなく、いつまた楽しめるやも知らず。気掛かりで、(まなこ)は穿たれ、(はらわた)は断たるるがごと。

さて、呂使君は董孺人をものにしようとしていたため、みずからの公務をいそいで片付け、出発の仕度をしました。二隻の船は、一路寄りそいながらゆき、前になったり、後になったり、盈盈[35]たる一水を隔てるばかりでした。波止場に着きますと、董孺人は一席の酒を整え、謝孝[36]を名目にし、呂使君だけを招きました。呂使君は招かれたことを聞きますと、たいへん喜び、いとも美しく装い、船に来ました。孺人は溢れんばかりの笑顔で、船室に迎えいれ、お礼を言いました。三杯の茶[37]が終わりますと、席を置き、東西に坐し、ちいさい娘は孺人の脇に坐しました。その娘はわずか十歳ほど、事情などは分かりませんでしたので、父親が生前に交際していた人に会いますと、いっしょに坐って酒を飲んでもよいと言いました。船の外水[38]の人々が見たところ、かれらはお国言葉で話し、毎日たいへん親しく交際し、話すのはいたって内輪のことばかりでしたので[39]、くわしいことには構いませんでした。酒を名目にし、双方がふざけあっているのだとはだれも気づきませんでした。まさに、

茶は花博士(こひのせんせい)、酒は色媒人(いろごとのなかうど)[40]

二人が酒を飲みながら、言葉を交わし、眉と目で心を知らせ、馬泊六[41]を用いることもなく、みずから顔を見て話せば、うまくゆかないことなどはございません。しかし耳目が多かったため、やはりいささか内密にしなければなりませんでした。月はすでに上っていましたので、やむなく立ち上がって別れました。使君は言いました。「あわただしくお別れしますが、孺人さまは晩にお寂しいとき、どのように暇を潰されるのです。」孺人は趣意を理解し、答えました。「ひとり窓を推しあけて月をみるばかりです。」使君はかれを待つつもりであることを知りますと、答えました。「月影が美しければ、ひとりで寝るのはおちつかないもの。窓を開いて月見しようとし、この清らかな光をむだにはできません[42]。」二人の言葉には、多くの含みがあり、一人は窓を開くといい、一人は窓を推すといいましたが、これはあきらかに晩に窓の中にやってきて会うことを約束したのでした。

 

使君はみずからの船にゆきますと、腹心の童僕を呼び、船で命令させました。「二隻の船を並べ、官艙[43]が向かいあうようにすれば、お世話することができるだろう。」船員は命に従い、すぐに二隻の船をぴったりとくっつけて停めました。人々が静まった後、使君はこっそり身を起こし、みずからの船室の窓をかるく推しひらきました。向かいの船を見ますと、船室の小窓は閂を掛けずに閉じられていました。使君が向かいの窓で一声咳しますと、向こうでは小窓の二つの扉がいっせいに開きました。月光の中、体と顔をあらわしたのは、まさにひとりであちらにいる孺人でした。使君はいそいで船に跳んでき、孺人のほうも避けませんでした。双方は抱きあい、船室の牀へ、例のことをしにゆきました。

一人は寡婦(やもめ)となりしばかりの文君[44]にして、まさに相如が寂しさを補ふことを望みたり。一人は独居(ひとりゐ)せる宋玉[45]、隣の娘とつれあふことをもつぱら待てり。一人は繋ぎとめぬ舟、人がひくにぞまかせたる。一人は流れの(かい)のよう、われが揺らすにまかせたり。沙の(ほとり)鸂鶒(けいちよく)ともに()ね、水の底なる鴛鴦(ゑんあう)は並びて楽しむ。

 

雲雨がおわりますと、使君は言いました。「わたしは孺人さまと偶然にお会いしましたが、宿願を叶えることができました。これは三生のさいわいです。」孺人は言いました。「先日ちらりとあなたを見、とても心を動かしました。後に夫が亡くなりますと、援助にたいへん感謝しました。女ですので、とりたててお礼するものもございませんから、今日はこの身でお礼しました。わたしがみずからを捧げたことを厭い、後日わたしをお棄てになり、わたしを失望させないことを願うばかりでございます。」使君は言いました。「お嫌でなければ、ひたすら楽しむことにしましょう。よけいな心配をなさるにはおよびません。」それからは、朝にこっそりと出、暮にこっそりと入り、日々そうすることを常とし、おもてで人が気づいても、顧みませんでした。ある日まさに楽しんでいますと、使君は突然長嘆して言いました。「今はさいわい旅路をともにしています。うれしいことに蜀への道はまだ長く、さらにしばらくございます。あちらに着けば、あなたにはあなたの家が、わたしにはわたしの家がございますから、どうしてつねにこの楽しみがございましょう。」孺人は言いました。「さようなことはございません。わたしは夫がすでに亡くなり、子供もございませんから、漢州に着けば、郎党たちが邪魔をするかもしれません[46]。今は旅路で、わたしの自由にできますから、こちらで再婚してあなたに従い、董家に行かなければ、誰もわたしを抑えることはできないでしょう。」使君は話を聞きますと、たいへん喜びました。「もしそのようにできるなら、ご厚情におおいに感謝いたします。わたしは益州成都郫県に田宅をもっていますから、住むことができましょう。あれはこちらからゆく近道です。あちらに着いたら、わたしはあなたをお迎えして住んでいただき、二隻の船は発たせましょう。董家の人々で従うことを願うものは、あなたに従って住まわせましょう。願わないものは、かれらが漢州へ行ったり、それぞれ散っていったりするのにまかせましょう。漢州も遠く、むこうは多くは身寄りのない人々ですから[47]、誰がこちらに構うことができましょう。もし責める人がいれば、途中で夫に死なれた、わたしがすでに礼物を贈って招いて愛人にした、どうすることもできないとお言いなさい。」孺人は言いました。「それでこそ深い計画です。ただわたしのもとにはまだこの娘がいます。前妻の祝氏が生んだものですが、今はゆく処がないのは、厄介です。」使君は言いました。「これはますます大したことではありません。今はまだ小さいですから、とりあえず身辺に置き、養いましょう。後日たずねてくる人がいたら、その人にかえしましょう。たずねてくる人がいなければ、成長するのをまち、どこへなりと身をおちつけさせれば、邪魔になることはないでしょう。」

 

二人は旅路できちんと相談し、県庁に着きますと、はたして二隻の船の物をすべて運びあげてとどまりました。惜しいことに、董家は竹山の県令に任ぜられたものの、すべての貯蓄と妻女は、多くは他人のものになってしまいました。ついてきた家僕たちは不満があっても、女主人はすでに呂使君に従っていましたし、呂使君も役人でしたから、誰も争えませんでした。怒って承服せず、従うことを願わないものだけは[48]、すぐに四散してゆきました。呂使君はこうした利益を得ましたが、去っていった人々によってあちこちに事実を広められました。話を聞いたものと昔かれの高誼を称賛したものは、多くはかれをろくでなしだと譏り、その人物を卑しみました。董家の親戚がこのことを聞かされ、さらに切歯痛恨したのは、もとより言うまでもありませんでした。

 

董家の親戚では、祝家がもっとも親密でした。かれらは二代にわたって董家に娘を嫁がせていました。他の土地で出仕しているものがたくさんおり、おおくは夫人と兄弟叔侄の間柄でした[49]。祝次騫というものがおり、朝廷で役人をしていましたが、かれはまさに董元広の妻の兄でした。おもえば董氏一家は落魄四散し、元広の妻女は他人に奪われ、行方が知れませんでしたので、日夜気に掛けていました。当時、同郷の王恭粛公が四川にゆき、制使[50]となっていましたので、かれに頼んで所轄する地方を捜索してもらいました。しかし道は遠く、行方は知れませんでした。乾道初年、祝次騫は嘉州の太守に任ぜられ、利路運使[51]に除せられました。呂使君はまさにその嘉州の空きに補せられ、祝次喜と交代しにくることになっていました。呂使君は次騫が董家の前妻の一族であることを知っていましたし、罪作りな事をしていましたから、かれに会う勇気などはなく、ぐずぐずとし、赴任してこようとしませんでした。祝次安も呂使君が禽獣同然の人であることを恨んでおり、かれに会いたくありませんでしたので、かれが来ないうちに、印綬[52]を解き、幕僚にわたしてひとまず保管させ、そのままいってしまいました。呂使君が着任しますと、かれのほかのところでの過ちを見つけだし、弾劾状を提出する人がいたため、朝廷は激怒し、あわてて去ってゆきました。

 

祝次騫は四川路で役人になりながら、めいの消息をたずねることができず、つねに残念に思っていました。しかし、人が願いを果たさなければ、天はかならずたくみなことをするものです。乾道丙戌年間になり、次騫の子祝東老、名は震亨が、四川総幹の職になりました。檄文(つげぶみ)をうけ、成都に公務しにゆくとき、綿州を通りました。綿州太守呉仲広は出てきてむかえ、置酒してもてなしました。

仲広はもともと待制学士出身で、きわめて風流文雅な人でした。その日、州庁で宴を開きますと、奉侍するべき妓女、俳優で集まらないものは一人もいませんでした。東老は席上、戸掾[53]の傍らに妓女が立っているのを見ましたが、姿態は恬雅[54]、閨閣の中の人さながらで、一点の軽薄な雰囲気もありませんでした。東老がまじろがず、ながいこと見ておりますと、おりよく花魁が面前にきて酒をつぎました。東老はひとまずかれの酒をうけず、戸掾のかたわらにいる妓女をさしてかれにたずねました。「あのものはだれだ。」花魁は笑いました。「お役人さまはあのひとをお気に入りでございましょうか。」東老は言いました。「気に入ったのではない。あのものにはおまえたちと違ったところがたくさんあり、訝しく思ったから、尋ねたのだ。」花魁は言いました。「あのひとは薛倩といいます。」東老がくわしくたずねようとしますと、呉太守が席に走りでてき、大杯をついで勧めましたので、東老はやむなく話をやめ、太守の手中の酒をうけ、席におき、ことわりました。「わたしはほんとうに飲めず、小杯で楽しむことしかできません。」太守は花魁がかたわらにいるのを見ますと、大杯を指して言いふくめました。「おまえはこちらで総幹さまをお相手し、ぜひ総幹さまに飲み干していただけ。さもなければおまえに罰をあたえるからな。」花魁は笑いました。「わたしを罰することはございません。総幹さまがたくさんお召しになることをお望みでしたら、薛倩を呼んできてお相手させれば、すこしも断られることはございますまい。」呉太守も笑いました。「それはおかしい。総幹どのはあのものとお知り合いなのですか。」東老は言いました。「今までこちらに来たことがございませんから、このものたちと接することなどできません。」太守は花魁に問いかえしました。「それならば、おまえはどうしてあのように申したのだ。」花魁は言いました。「さきほど総幹さまはねんごろにお尋ねになり、あのものをたいへん気に入られました。」東老は言いました。「さきほど会ったとき、あのものの風格をみましたが、野鶴が鶏群にいるかのようでした。本官がみたところ、玄人でないようでしたので、訝しく思いました。ですからこちらで花魁に尋ねたのです。何らかの他意があるのではございません。」太守は言いました。「それならば、薛倩だけをよんできて、総幹どのの席の傍らに侍らせ、酒を勧めさせることにしよう。」

 

花魁は命を受けますと、薛倩を呼んできて侍させました。東老はまさにかれに来歴をたずねようとしていましたので、願ったり叶ったり、ちいさい杌子(こしかけ)[55]を取るように命じ、かれに賜って坐らせ、小声でかれにたずねました。「おまえはきっと悪所の女ではあるまい。どうしてこちらにいるのだ。」薛倩はこたえようとせず、溜息をつくばかり、閑談してごまかしました。東老はますます怪しみ、しばらくするとまた尋ねました。「正直にわたしに言うのだ。」薛倩はひたすら口を開かず、言おうとしてもまたやめました。東老は言いました。「正直に言ってかまわないぞ。」薛倩は言いました。「申しましてもせんないことで、恥ずかしゅうございます。」東老は言いました。「わたしにすべて話せ。なぜ無駄だと思う。」薛倩は言いました。「お役人さまがひどくお尋ねになりますので、申さぬわけにはまいりませんが、ほんとうに申すのは恥ずかしゅうございます。わたしはもともと良家の娘で、祖父、父はいずれもかつて役人となり、不幸にあい、身を悪所に落としました。ただ前生の悪業を、今世で償っているのです。それを申してどうなりましょう。」

東老は惻然と心を動かしますと言いました。「おまえのお祖父さん、おまえのお父さんは、もしや漢州知州、竹山知県か。」薛倩はとても驚き、なきはじめました。「お役人さまはどうしてご存じなのでしょう。」東老は言いました。「それならば、お母さんは姓が祝だろう。」薛倩は言いました。「継母が後から来ましたが、死んだ生みの母はまさに姓が祝でございました。」東老は言いました。「お母さんはわたしのおばだ。不幸にも、はやくに亡くなられたのか。わたしはおまえと継母がよそをさすらっていることをきき、長年探していたのだが、消息(たより)がなかった。こちらで会おうとはおもわなかった。どうして妓籍に身を落としている。わたしにくわしく話すのだ。」薛倩は言いました。「父親が亡くなったあと、すぐに呂使君がきて葬儀を取りしきり、継母とともに四川に帰りました。ところが四川に着き、かれの家の入り口を通りますと、なんとすべてを占拠して自分のものにしました。継母とわたしはかれに従って長年住みましたが、かれは先年弾劾されて家に戻り、鬱鬱として楽しまず、病んで亡くなりました。継母は頼る人がなくなりますと、わたしを売りに出し、薛媽から六十千銭を得、妓籍に入れました。今ではすでに一年あまりになります。おもえば父親が亡くなったときのことは、年が幼かったとはいえ、目の前にあるかのように憶えています。さすらい、辱められ、このようなことになろうとは思いませんでした。」言いおわりますと、大声で哭きましたので、東老もおもわず哭きはじめました。はじめは話し声が小さかったため、人々は、かれらが顔を近づけ、耳うちしているのを見ますと、たわむれ、いやらしいことをしているのだと思い、構おうとしませんでした。二人が大声で哭いて一塊になっているのをみますと、はじめて一座の人々は驚き、やってきて尋ねました。東老は言いました。「話せばたいへん長くなり、今日すぐに話しつくせるものではございません。それにまだたくさんの面倒なことがございますから、日を改めて知事さまにくわしくお話しいたしましょう。」太守もいささか怪しみましたが、さらに尋ねようとはしませんでした。酒がおわりますとそれぞれ散じ、東老はひとりで公館へ休みにゆきました。

 

薛倩は家にゆきますと、席上でのことを薛媽に話しました。「総幹さまはわたしの親戚で、今日話し、すでに事情を確認しました[56]。明日、あのかたの寓所に会いにゆけば、きっと格別のご褒美がございましょう。」薛媽は大喜びしました。二日目になりますと、薛媽は薛倩を連れ、総幹の館舎の前に来、面会を求めました。祝東老は取り次がれますと、すぐにかれら母子を入ってこさせました。かれらとくわしく話そうとしますと、太守の呉仲広も来たことが知らされました。東老は笑って薛倩に言いました。「ちょうどよいところに来た。」薛倩母子はその趣意が分かりませんでした。太守が轎から下りますと、薛倩は歩いていってひとまず叩頭しました。太守は笑いました。「昨日は哭きたりなかったから、今日はまた補いにきたか。」東老は言いました。「知事さまにお会いして昨日哭いたわけを話そうとしておりました。この娘の父董元広は竹山知県、祖父仲臣は漢州太守で、二代にわたる士大夫の後裔でした。祖父が漢州で死に、父親も都で死に、継母とこの娘は波止場で、悪人に会ったため、ここまで落ちぶれたのでございます。知事さまはすぐに妓籍から除いてやってください。」

太守は惻然として言いました。「さようでしたか。除籍は本官の管轄ですから、たやすいことでございます。ただ、除籍した後、この娘はどうなりましょう。お気に召したのであれば、力を尽くしてさしあげましょう。」東老は言いました。「そのような話ではございません。この娘の母親は、本官のおばで、本官はまさにこの娘と実の表兄妹(いとこ)なのです。今回会ったからには、良い人を選んで嫁がせ、その結婚を成就しなければなりません。ただ、本官はまだ公務があり、行かなければなりませんので、目下、このようにうまいことをする暇がございません。この娘をご夫人の処にしばらく預け、本官はひとまず成都へ戻ろうとおもいます。旅で得られる諸台[57]および諸州の餞別の品物を、すべて持ってきてこの娘の婚資にいたしましょう。ゆっくり婿を選んでやれば、親戚であるわたしの願いも満たされましょう。」太守は笑いました。「天下の義事を、令公一人にすべてしていただくわけにはゆきません。わたしも二十万銭をお出しして援助しましょう。」東老は言いました。「知事さまのこのようなご高義がございますのは、この娘にとっては、不幸中のたいへんな幸いでございます。」すぐに薛倩に言い含めました。「呉太守さまに従って、役所の奥さまの処に行き、滞在するのだ。わたしが来たとき、あらためて手を打とう。」太守はみずからつれてゆきました。東老は薛媽を呼んできますと、まずかれに十千銭を与え、言いました。「薛倩の身請け金はわたしがはらおう。利息をつけてはらおう。」薛媽は官府がとりもちをしているのをみますと、逆らおうとはせず、ひとりで去ってゆきました。東老が成都にいったことはさておきます。

さて、呉太守は薛倩をつれて役所に来ますと、かれを夫人に会わせました。事情を告げ、夫人にきちんとかれを世話するように命じますと、夫人は承諾しました。呉太守が役所で、薛倩の挙動をながいことくわしく見ますと、やはり満面に憂えをうかべ、たえず溜息をついていましたので、心のなかで考えました。「かれは良家の娘で、いままで落魄していたが、それは詮方ないことだ。かれの表兄(いとこ)に頼まれて、すでに役所に引きとった。後日人に嫁ぐことになっているが、すでによい処に救われたのに、どうしてまだこのように悲しんでいるのか。ほかにも消し去れない心配事があるのだろうか。」夫人に命じて、ゆるゆるかれにくわしい事情を尋ねさせましたが、薛倩は、はじめは言おうとしませんでした。呉太守はかれに言いました。「どんな心配事があろうと、とにかくはっきり話すのだ。力になってやるから。」薛倩ははじめて言いました。「お役人さまが再三お尋ねになりますので、申さぬわけにはまいりませぬが、申しても詮無いことでございます。」太守は言いました。「とりあえず話せ。どのようなことなのだ。」薛倩は言いました。「心の中に、ほんとうに忘れられない人がいるため、お役人さまに見破られたのでございます。」太守は言いました。「どんな人だ。」薛倩は言いました。「わたしは悪所におりましたが、軽薄な子弟たちとは、誠実に交際しませんでした。その書生だけは、年はまさに弱冠(はたち)で、妻を娶っていませんでした。以前、わたしの家にきて交際し、たがいに愛しあいましたが、かれもわたしが良家から出たことを知り、ふかく憐れんでくれましたので、ますます情が濃くなり、城内に入れば、かならず話をしにきました。そのかたの家では、両親がそのことを知りますと、そのかたを家に連れ戻してゆき、ひどくうち、書斎に閉じこめました。それからは、ときたま手紙がきましたが、二度と会えませんでした。今回、お役人さまがたに援助していただきましたが、もしもこの地を離れれば、その書生には、またあうすべがございませんので、おもわずがっかりして、思いきれずにいるのです。お役人さまにみやぶられようとは思っておりませんでした。」太守は言いました。「その書生は姓は何という。」薛倩は言いました。「姓は史といい、秀才で、家は城外にございます。」太守は言いました。「そのものの父親はどんな人だ。」薛倩は言いました。「老書生でございました。」太守は言いました。「どれほどの財産があれば、おまえを娶ることができるのだ。」薛倩は言いました。「貧乏書生で、幾たびか交際しましたが、もとより資力は足りませんので、お金はたくさん出せませんでした。しかし、情として捨て難いため、しきりに会いにきました。あのかたの家では、あのかたが財産をそこなっているといい、あのかたをきびしく閉じ込めました。どうしてわたしを娶るお金がございましょう。」太守は言いました。「そのひとの人柄はどうだ。ほんとうにそのひとを気に入っているのか。」薛倩は言いました。「人柄は忠実であまりあり、軽薄な若者ではございませんから、とても敬愛しておりました。ところがかえってわたしのためにわざわいをうけました。今はたとい気に入っていても、話す場所がございません。」そう言いますと、はやくもまた眼から涙を落としました。

太守ははっきり尋ねますと、堂を出てゆき、密票[58]に署名し、下役を遣わすことにしました。一頭の早馬を与えますと、いそいで綿州学[59]の史秀才を州庁に迎えさせ、訴訟があるから、ぐずぐずしてはならないと言わせることにしました。下役は密票を得ますと、虎の威をかる狐となり、火急の勢いで[60]、いそいで郊外に来、史家の門を敲いて入ってゆき、朱筆の令状を見せました。そこには、府庁で騎馬を遣わし、秀才を捕らえさせることとする、至急報告せよとありました。史家の父子は驚いてあっけにとられ、それぞれ思いをめぐらしました。父親は倅を怨んで言いました。「おまえはきっと日がな女郎屋に入りびたっていたために、かれの家に訴えられたに違いない。」史秀才は言いました。「府知事さまがわたしをむかえ、さらに一頭の馬をつかわしてきたのですから、文書のことでなにか相談することがあるのかもしれません[61]。」父親は言いました。「おまえを招くだと。書状をまったく用いず、朱票[62]を出したのにか。」史秀才は言いました。「絶対にわたしを訴えた人はいません。」父子二人は訝ってやまず、下役は出発を促すばかりでした。父親はやむなく酒食をととのえ、下役をもてなし、さらにいささかの袖の下を送り、息子を出発させて州庁にゆかせました。まさに、

 

烏鴉(からす)喜鵲(かささぎ)声をともにし[63](よごと)(まがごと)まつたくしるなし。

今日はとらはれ役所へおもむく、こたびは(かうべ)を葬りさるべし[64]

 

史生は下役とともに、州庁にきました。どういうわけか、小服を着、入って太守にまみえました[65]。太守は公服に換えて会うように命じましたので、史生はようやく疑念を解きました[66]。衣服をかえ、入ってゆき、挨拶しますと、太守は尋ねました。「若いのに、辛苦して読書せず、悪所に行ってしきりに遊ぶとは、どういうことだ。」史生は言いました。「わたしは詩書を読み、すこぶる礼法をわきまえております。貧しい家にひとりじっとし、いままで悪所などに遊んだことはございません。」太守は笑いました。「薛家に行ったことがあろう。」史生は本当のことを言われますと、両頬を真っ赤にしました。「大人を欺こうとはいたしませぬ。州城に逗留していたとき、勉強の余暇に、たまたま友人たちと気晴らしに散歩したことは、あるかもしれませんが、羽目をはずしたことはございません。」太守はさらに言いました。「話すときに隠しごとする必要はない。薛倩と交際していたことを、正直にはなしてみろ。」史生は痛いところを問われますと、欺きおおせないことを悟り、やむなく答えました。「大人がここまでお尋ねになるのでしたら、偽るわけにはまいりませぬ。あの娘は女郎屋に落ちてはいますが、ほんとうは娼婦ではなく、名門の役人の末裔でありながら、不幸にもこちらにきたのでございます。わたしはたまたま会うことができたのですが、その風格は良人[67]のようでしたので、詳細を問い、たいへん義憤を感じたのです。わたしはみずからが身は賎しく、力は弱く、風塵から救えぬことを残念に思い、憐れんでともに遊んだのでございます。児女の愛ではございますが、ほんとうはこれも君子の心なのでございます。ただ、このような細かいことを、大人はなぜご存じで、お尋ねになるのでございましょう。たいへんふかく恥じております。本当のことを申しますので、どうかお許しくださいまし。」太守は言いました。「今、この娘をおんみに娶わせたら、おんみは妻にすることを願うか。」史生は言いました。「淤泥のなかの青蓮も、払拭を加えられることを願いますが、貧士にはできないことでございますから、みだりに望みはいたしません。」太守は笑いました。「ひとまずあちらに立っていろ。おまえにみせるものがある。」

 

すぐに一本の簽[68]をぬき、薛媽をよんでこさせますと、薛媽はいそいでやってきて太守に会いました。太守は庫吏をよび、百枚の官券[69]を取りだしてこさせますと薛媽に言いました。「昨日聞いたが、おまえは薛倩を買うための代金を七十千しか得ていないそうだな。今三十千を加えてやるから、都合百枚を、受けとるがよい。」ときに史生は傍らに立っていましたが、太守は手で指しながら薛媽に言いました。「おまえの娘はすでにこの秀才に嫁いだのだ。この官券はわたしが秀才のために出す結納だ。」薛媽はさからうわけにはゆかず、受けとるしかありませんでした。すぐに史生だと気づきましたが、わけを問うわけにもゆきませんでした。やり手婆たちは[70]、たくさんのお金を見、もとをとったと考えますと、すぐに娘のことは心からなくなってしまうのです。三七二十一に関わりなく[71]、嬉しそうに出ていってしまいました。

 

このとき、史生は太守がこのように処置したのを見ましたが、その趣意は分からず、心の中で考えました。「まさか太守が身銭をきって身請けしてくれたわけではあるまい。これはどういうことだろう。」ぼんやりとして見当がつきませんでした。太守は史生を呼んできますと、笑いました。「おんみが貧しくて娶れないので、さきほどおんみのために結納を送った。今からこの娘をおんみの妻にするが、気に入っているか。」史生は叩頭して言いました。「大人はなにゆえにこのような大恩を施してくださったのでございましょう。望外のしあわせで、踊りあがらずにはいられません。ただ、家には厳父がおりますので、話さぬわけにはゆきません。もしも娼婦を娶ったと知られれば、事も叶うとはかぎりません。心配はこれだけでございます。」太守は言いました。「おまえはあの娘が総幹祝使君の表妹(いとこ)であることがまだ分からないのか。先日こちらで会ったとき、すでに本官にたのんで妓籍から抜けさせ、成都から帰ってきたら、あの娘のために婿をえらぶことにしたのだ。本官はその義挙を見、もともと二十万銭で嫁ぐのを助けることを約束した。今あの娘は現にわたしの役所にいる。昨日かれにあったが喜んでいなかったので、そのわけを尋ねると、おんみと相思相愛でありながら、結婚できないことが分かった。本官はそのためにおんみをまねき、おんみたち二人のために結婚を成就しようとしているのだ。さきほどすでに十万銭を薛ばあさんに払ったが、今、さらに十万銭でおんみの婚礼をたすけ、本官の口約束をはたすとしよう。総幹がきたら、結婚をととのえよう。ご父君が尋ねたら、これ以上薛家のことを話さず、総幹の表妹(いとこ)を、本官が媒酌したと言いさえすれば、心配いらない。」史生はそう言われますと、非常によろこび、感謝しました。「わたしは何のしあわせで、このような奇縁、このような恩遇をえたのでしょう、粉骨砕身いたしましても、お礼するのは難しゅうございます。」太守はまた庫吏を呼び、百枚の官券をとらせますと、史生に渡しました。史生はそれをうけ、拝謝して去り、丹墀の下で荷の花がまさに開いているのを見ますと、詩を一首賦し、恩に感じている気持ちをあらわしました。その詩は、

 

蓮は青泥に染まり暗香[72]埋もれ、東君が移りゆきなばすべてかんばし[73]

珠を捧げてなさんとす銜環の報い[74]、すでに葵の日光に映ゆるに学べり。

 

史生は家に着きますと、太守が言ったことにしたがって父母に報告しました。父母はこれは棚からぼたもちだ、一銭も費やさずに、よい結婚ができたと考えました。さらに、多くの官券を持って家に戻ってきたのを見ますと、その来歴を問いました。太守が花燭の費用を援助したのだといいますと、ますます支持し、たいへん喜びました。酒宴を整え、総幹の返事を待ったことはさておきます。

 

さて、呉太守はすでに史生を婿に決めましたが、薛倩の前では話しませんでした。一月たちますと、祝東老は成都での仕事を終え、ふたたび綿州に戻り、太守に会い、会うとすぐに表妹(いとこ)のことを話しました。太守は言いました。「別れた後、すでに婿どのをこちらに迎えておりますから、おんみがいらっしゃりさえすれば、嫁げます。」東老は言いました。「今回の旅で得たお金は都合五十万、今、すべてをかれらにわたし、家庭を作らせましょう。」太守は言いました。「本官は二十万を出すことを約束し、すでに十万で身請け金を払い、十万を婚資としました。今、さらにこの援助があれば、生活の心配はございません。それにその婿は頼りになりますから、おんみは安心できましょう。」東老は言いました。「婿は誰でございましょう。」太守は言いました。「書生で、姓は史といいます。今すぐ呼んでまいりましょう。」東老は言いました。「書生はたいへんようございます。」太守さまはすぐ人に命じて史秀才を呼んでこさせ、かれを東老に会わせました。東老はかれが若く、風姿が抜群なのを見ますと、たいへん喜びました。太守はすぐに翌日の大吉を選び、かれに轎を準備させ、翌日州にいって嫁を家に迎えることにさせました。

 

太守は役所に戻りますと、薛倩に言いました。「総幹どのはすでに来られ、婿はすでに選んだから、明日結婚することにする。婚資はたくさん用意した。これからは良人の妻となるのだ。」薛倩は心のなかで喜んだり悲しんだりしました。喜んだのは、親戚に会え、さらに太守にとりもちをしてもらい、苦界を脱し、夫に嫁ぎ、妻となれるから。悲しんだのは意中の書生にこれからふたたび会えなくなるからでした。まさに、

 

笑ふも泣くもともに欲せず、人となることの難きをはじめて信ぜり。

(ともしび)は火なるをつとに知らませば[75]、心は安からましものを。

 

翌日、祝東老ははやくも州庁に来、太守に話し、薛倩を出てこさせて会いました。東老はすぐ五十万銭を薛倩に渡して言いました。「嫁入道具の費用をひとまず援助して、姑表[76]の情をいささか尽くすことにしましょう。ただ理由なく知事さまに二十万のご出費をさせてしまい、たいへん不安でございます。」太守は笑いました。「このようなめでたいことに、一分も費やすことを許さないのはよくあるまい。」薛倩はお礼を言ってやめませんでした。東老は言いました。「婿は知事さまが選ばれましたが、すこぶる立派な人で、終生そうことができます。」太守は笑いました。「婿はあなたの表妹(いとこ)がみずから選ばれたもので、本官と関わりはございません。」東老と薛倩はともに愕然として理解できませんでした。太守は言いました。「まもなくおのずとわかるだろう。」

 

話していますと、門番が入ってきて、史秀才の嫁迎えの轎が来ましたと言上しました。太守はすぐに史秀才を招きいれてき、史生を指しながら薛倩に言いました。「先日おまえがどうしても話そうとしなかったので、わたしは、はっきり話せば、とりもちをしてやろうと言った。今、このものをおまえの夫にするが、心に不満はないか。」

薛倩はそう言われますと、はじめて眼を挙げて見ましたが、そこにはまさにふだんおもっていた人がいました。そこではじめてさきほどの言葉を理解し、心の中でひそかに喜んでやみませんでした。太守はすぐに香案をもってくるように命じ、かれら二人に天地を拝させました。それがおわりますと、二人はすぐ総幹と太守に拝謝しました。太守は花紅[77]、羊酒[78]、楽隊をかれの家におくるようにいいふくめました。東老はさらに従者に命じ、この五十万の婚資を担がせ、いっせいに史家に送ってこさせました。史家の年寄りは総幹府の表妹(いとこ)を娶ったとおもい、それを誉れとしましたが、それが息子が先日買って騒ぎになった妓女だとは知りませんでした。のちに事情がだんだんと明らかになり、二人の大官にとりもってもらったこと、さらにただで多くの婚資を得たことが分かりますと、やはり満足しました。史生夫妻二人は呉太守に感激し、木主を作り、家堂にそなえ、香火を奉ることを絶やしませんでした。

 

翌年、史生が郷薦[79]に合格しますと、東老はまた人を漢州にゆかせ、董氏兄弟にたずね、その地の運使[80]にたのみ、たくさんの生活費を援助し、史生夫妻二人に通知し、かれらを交際せました。史生はのちに及第し、おおいに妻の家を世話し、漢州の後裔[81]は絶えないですみました。これは不幸中のさいわいで、よい人に会えたので、この結果があったのでした。そうでなければ、世上の人々は多くは呂使君のように、二代役人となった後、結局没落してしまうでしょう。天網は恢恢としており、呂使君の子女がどうなったかは分かりません。

 

公卿は淫行し[82]、他人の児女に害をもたらす。救ひの手にあふことなくば、などかはもとに復すべき。

かの穹廬[83]をしながむれば、涕はこぼれて雨のごと。千載(ちとせ)かなしむ、王孫帝主[84]

 

最終更新日:20081223

二刻拍案驚奇

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[1]以下の詞の原文「疏眉秀盼、向春風、還是宣和装束。貴気盈盈姿態巧、挙止況非凡俗。宋宝宗、秦王幼女、曽嫁欽慈族。干戈横蕩、事隨天地翻覆。一笑邂遁相逢、勧人満飲、旋吹横竹。流落天涯是客、何必平生相熟。旧日栄華、如今憔悴、付与杯中醁。興亡休問、為伊且尽船玉。」は、宇文虚中『念奴「疏眉秀目、看来依旧是、宣和束。飛歩盈盈姿媚巧、世知非凡俗。宋室宗秦王幼女、曽嫁慈族。干戈浩事随天地翻一笑邂逅相逢、満飲旋旋吹横竹。流落天涯是客、何必平生相熟。旧日黄如今憔悴、付与杯中醁。亡休伊且尽船玉。とほぼ同じである。

[2]宋の徽宗。宣和はかれの年号。金元好『俳体雪香亭詠』之五「御屏零落宣和筆、留得『按。」明呉『大房金源陵』之一「却是宣和解亡国、穹黄屋恐非心。」。

[3]容姿が美しいさま。『玉台新詠・古楽府・日出南隅行』「盈盈公府歩、冉冉府中」『文選·古詩・青青河畔草』「盈盈楼上女、皎皎当窗牖。」李善注「『広雅』曰、嬴、容也。盈与嬴同。」唐牟融『題陳侯竹亭』漠漠暝陰籠砌月、盈盈寒翠動湘雲。」宋周邦彦『瑞龍吟』障風映袖、盈盈笑

[4]宋王室。

[5]郡主のこと。『宋史』巻一百一十五・志第六十八・礼十八嘉礼六・公主下降儀宗室附「徽宗改公主為、下詔曰、在熙寧初、有詔釐改公主、郡主、県主名称、当時臣不克奉承。近命有司稽考前世、周称王、見於詩雅。雖周姓、考古立制、宜莫如周。可改公主為帝、郡主為宗、県主為族其称大長者、為大長帝、仍以美名二字易其国号、両国者以四字。郡主とは郡公主のこと。宋代、宗室の女子に与えられた封号。

[6]徽宗の母親陳氏のこと。『宋史』本紀・巻十九本紀第十九・徽宗趙佶一・建中靖国以前「徽宗体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝、諱佶、神宗第十一子也、母曰欽慈皇后陳氏。」。

[7]原文「干戈横蕩」。「横蕩」が未詳。とりあえずこう訳す。李好古『酹江月』「西風横霜余黄落、空山木。」。前注で示した宇文虚中の詞では「干戈浩」となっているが、これもよく分からない。

[8]原文「何必平生相熟」。未詳。とりあえずこう訳す。

[9]「船玉」は「玉船」のこと。zdic.net 漢 典 网】

「玉酒船」ともいい、酒器の名。『即席』要知吾不凡、一吸已乾双玉船。」宋辛棄疾『鵲橋・寿余伯熙察院』君未老、花明柳媚、且引玉船沈酔。」宋周密『武林旧事・乾淳奉「上捧玉酒船上寿酒、酒玉船、船中人物、多能挙動如活、太上喜見顔色。」。

[10]金の将軍。『金史』巻七十四に伝がある。

[11]杜甫『奉送郭中丞兼太僕卿充度使三十韻』の句。

[12]原文「在路行至平順州地方」。未詳。平州、順州か。いずれも河北省の州名。ただ、二つの州の所在地はやや隔たっている。

[13]原文「韃婆又嫌多道少」。「嫌多道少」が未詳。とりあえずこう訳す。

[14]頭巾の一種。周汛編著『中国衣冠服飾大辞典』百九頁参照。

[15]未詳。正史に見えない。

[16]兄弟の孫。

[17]原文「不知何時是了」。「是了」が未詳。とりあえずこう訳す。

[18]『宋史』巻二百四十四列伝第三・宗室一・魏王廷美「建隆元年、授廷美嘉州防禦使。二年、遷興元尹、山南西道節度使。乾徳二年、加同中書門下平章事。開宝六年、加検校太保、侍中、京兆尹、永興軍節度使。太宗即位、加中書令、開封尹、封斉王、又加検校太師。従征太原、進封秦王。」。

[19]帝王や族の子孫。

[20]江西省の州名。

[21]原文「算計一時間帰来不得」。叙述者の視点が饒州にある。

[22]祖先の封。子が先代の官爵によって封を受けること。正史にも用例あり。一例を挙げる。『宋史』卷三百九・魏震伝「魏震、不知何許人。祖浩、贍国軍榷塩制置使。父鉞、蒲台令。震初用祖蔭、当補廷職、自以習詞業、不屑就。」。

[23]職に選任されること元劉祁『潜志』巻七「南渡後、疆土狭隘、止河南、西、故仕進調官皆不得遽。」。

[24]出典がありそうだが未詳。意味は、文脈からして川一つでゆける土地ということであろう。

[25]原文「董元広起親属尚在漢州居駐」。ここでいう「親属」は、後にも数回出てくるが、文脈からして妻女以外の同居者のことで、具体的には召使のことを指しているようである。「郎党」と訳す。

[26]孺人」は妻の称。南朝梁江淹『恨「左孺人、弄稚子。」唐光羲『田家雑興之八「孺人喜逢迎、稚子解走。」宋梅日旅泊家人相与寿』孺人相拝、共坐列杯」。「晩孺人」は後妻の称。

[27]朋友、同年、同僚、同学などを指す。唐王昌歌行』「所是同袍者、相逢尽衰老。」宋何『春渚紀聞人唱聯詩郭周孚)継於余中榜、登甲科。初与同袍伏闕、以待唱第。」。

[28]原文「日間眼里火了」。「眼里火了」が未詳。とりあえずこう訳す。

[29]原文「但是想起、只做丈夫不著、不住的要干事。」。「只做丈夫不著」が未詳。とりあえずこう訳す。

[30]世交。先祖代々交際している間柄。『後漢書·孔融語門者曰、我是李君通家子弟。」。唐『哭明堂裴主簿』締歓三十、通家数百年。」。『警世通言·老生三世恩』「両人三世通家、又是少年同窗、并在一寓読書」。zdic.net 漢 典 網】

 

[31]周公は周公旦のこと。武王の死後、成王の摂政となったが、管叔らによって讒言されたことがあった。『尚書』周書・金縢「武王既喪、管叔及其弟、乃流言於国」注「武王死、周公摂政。其弟管叔及蔡叔霍叔乃放言於国、以誣周公以惑成王。」。

[32]王莽は漢王朝の簒奪者だが、若く貧しかった頃、恭倹にふるまっていた。『漢書』王莽伝「王莽字巨君、孝元皇后之弟子也。元后父及兄弟皆以元成世封侯、居位輔政、家凡九侯五大司馬、語在元后傳。唯莽父曼蚤死、不侯。莽兄弟皆将軍五侯子、乗時侈靡、以輿馬声色佚游相高、莽独孤貧、因折節為恭倹。」。

[33]この詩、全体の趣旨は、周公が讒言を受けているとき、王莽が謙虚にふるまっているときにかれらが死ねば、周公は悪人とみなされ、王莽は善人とみなされたであろう、人間の真価はよく見極めないと分からない、ということであろう。

[34]本来、令への尊称。中唐以後、度使にも用いられた。ここでは県知事に対して用いている。『魏·高允』「於是拝允中令、著作如故…高宗重允、常不名之、恒呼令公。」『因話録』巻一「礼人情、令公(指郭子徳不同常人、且又国姻戚、自令公始、亦得宜。」『呉城令公』「称令公者、自唐之中葉、度使累加中、尚令、其下皆以令公称之、如六代之称令君、後遂為節度使之称也。」。

[35]清Kなさま『古十九首·迢迢牛星』「盈盈一水、脉脉不得。」。唐白居易『除官赴微之』黙黙心相、一水盈盈路不通。

[36]遺族が弔問者に挨拶すること。また喪が明けた後に以前弔問しにきた親戚友人に拝謝すること。清翟『通俗儀節「『礼通考』「後世有孝之礼、多輓近之陋、不知古『士礼』篇拝君命及衆、已先有然。尊者加恵、必往拝是所者、指曽来賵賻之人、非尽弔客而徧之也。」清顧张『土風録巻二「死至七七、縗絰出、徧戚友、曰孝。

[37]接待の茶。出がらしになるまで三回ほど茶を入れるから。

[38]船員の一種と思われるが未詳。醒世姻・第八十七回「童寄姐撒潑投江権奶奶争風喫醋」にも見える。

[39]原文「無非是関著至親的勾当」。「至親」が未詳。とりあえずこう訳す。

[40]茶や酒を飲むことが機縁になって恋の花が咲くことをいう常套句。

[41]泊六」「八六」「百六」とも。男女をひきあわせ、不当な関係を結ばせる人。清褚人穫瓠広集·伯六』「俗呼撮合者曰伯六、不解其。偶『群砕録』、北地羣、一牡将十余牝而行、牝皆随牡、不入他羣……愚合之、亦伯牝用牡六疋、故称伯六耶。」。ZDIC.NET 典 網》

ZDIC.NET 典 網

 

[42]zdic.net 漢 典 網】

原文「清光」。月光、灯光の類をさす南朝斉謝『侍宴光殿曲水』日、清光欲暮。」唐崔『奉陪武相公西亭夜宴郎中』清光、添香煖気来。」明劉基『雪中』之二「移床漫向明牎下、得清光好照」。

[43]客船の高級な船室をいう『儒林外史』第四十一回「沈搭在中、正坐下、凉篷小船上又了両个堂客来搭船、一同到官」。ZDIC.NET 典 网】

 

[44]卓文君。漢の臨邛の富豪卓王の娘、司相如との駆け落ちで名高い。また、寡婦のことを指す。『史·司相如列』参照

[45]代の楚の人。好色な美男子の代名詞。『登徒子好色賦』大夫登徒子侍于楚王、短宋玉曰、玉人体貌閑麗口多微辞、又性好色。」。zdic.net 漢 典 网】

 

[46]原文「或恐親属拘礙」。「親属」に関しては前注参照。この句、具体的にどのような邪魔をするのかが未詳。郎党たちが董孺人に節を守らせようとし、呂使君との結婚に反対する子とを指しているか。

[47]原文「料那辺多是孤寡之人」。「孤寡之人」は董元広の家の使用人たちをさしていると解す。

[48]原文「只有気不伏不情愿的」。「気不伏」が未詳。とりあえずこう訳す。

[49]原文「尽多是他夫人弟兄叔侄之称」。」が未詳。とりあえずこう訳す。

[50]2。皇帝が派遣した使者。『王公神道碑』「制使出巡、人填道迎、公徳。」。

[51]利路転運使のこと。宋代は各路に運使が設けられ、その役所は運使司と称せられたり、漕司と俗称せられたりした。運使は掌握一路あるいは数路の財賦の外、地方の官吏を考察し、治安を持し、刑獄を処理し、能を推挙するなどの職務をおこない、事実上、一路之最高行政官であった。

[52]原文「印授」。「授」は誤字であろう。

[53]地方官庁で、中央官庁の戸部にあたる仕事をする部署の属吏であろう。正史にも見える。

[54]沈静文雅であること。治通·宋孝武帝大明七年』「吏部郎江智淵素恬雅、不会旨。」『明史·陸樹』「端介恬雅、翛然物表、難進易退、通籍六十余年、居官未及一。」清姚鼐『恬庵稿序』「察出其(恬菴先生)文、之、清和恬雅、有越俗之韻、真吾文也。

[55]杌子は背もたれのない腰掛け。

[56]原文「已自認帳」。「認帳」が未詳。とりあえずこう訳す。

[57]未詳。文脈からすると諸官庁ということであろう。

[58]未詳だが、内密の令状であろう。

[59]綿州州学。綿州は四川省の州名。

[60]原文「扯做了一場火急勢頭」。「扯做」が未詳。とりあえずこう訳す。

[61]原文「焉知不是文賦上辺有甚相商処」。「文賦」が未詳。とりあえずこう訳す。

[62]朱筆で書かれた令状。

[63]原文「烏鴉喜鵲同声」。カラスが鳴くのは凶兆。唐段成式『酉陽俎』「烏鳴地上無好音」。カササギが鳴くのは吉兆。

[64]原文「這回頭皮送了」。未詳。とりあえずこう訳す。

[65]原文「不知甚事由、穿了小服、進見太守。」。主語や、前後とのつながりが未詳。とりあえず主語は下役であると解す。「小服」は民間の服装。

[66]原文「太守教換了公服相見、史生才把疑心放下了好些。」。「公服」は官吏の制服。『左·公二年』「公衣之偏衣、佩之金玦」晋杜注「偏衣、左右異色、其半似公服。」『北史·魏三』太和十年夏四月辛酉朔、始制五等公服。治通·武帝永明四年』この事を載せ胡三省の注に「公服、朝廷之服、五等、朱、紫、緋、緑、青。」という「換了公服相見」の主語が未詳だが、とりあえず下役であると解す。ただ下役が「換了公服相見」するとどうして「史生才把疑心放下了好些」ということになるのか未詳。

[67]卑賤な出自でない人。

[68]官府が犯人を捕縛する下役に交付する証票。竹、木などで作る。

[69]政府が行した紙幣清葆光子『物妖志·狸』「女曰、汝月得僱、当不足用。袖出官券十千与之。」

[70]原文「老媽們」。「老媽」はここではやり手婆の意味であろう。

[71]原文「不管三七二十一」。「委細かまわず。」という意味の慣用句。

[72]幽香。淡い香り。唐羊士『郡中即事』之二「衣落尽暗香残、葉上秋光白露寒。」。宋李清照『酔花東籬把酒黄昏後、有暗香盈袖。」。

[73]原文「東君移取一斉芳」。「移取」が未詳。とりあえずこう訳す。「東君」は春の神。唐王初『立春後作』珂佩响珊珊、青下九。方信玉霄千万里、春猶未到人」宋辛棄疾·暮春』可恨、把春去、春来無迹。」。

[74]東漢が九歳の時華陰山北で、一羽の黄雀が鴟梟にうたれ、下にちたのを見、雀を取って帰り、巾箱の中に置き、黄花を食らわせたところ、百日で毛羽が生え、飛び去った。その夜、黄衣の童子が西王母の使者と自称し、白四枚を宝にえたという故事に基づく言葉。事南朝梁呉均続斉諧記』にみえるzdic.net 漢 典 网】

 

[75]原文「早知灯是火」。「早知灯是火、熟幾多」という慣用句の後半部を省略したもの。「早知灯是火、熟幾多」は「灯りが火だということに気づいていれば、ご飯はとっくに炊けていただろう」ということで、灯台下暗しの喩え。

[76]いとこ。父の姉妹、または母の兄弟の子。

[77]婚姻などの事に贈られる礼物。宋孟元老京夢華録·娶「迎客先回至女家、従人及児家人乞利市物花等、攔門

[78]羊と酒。またひろく贈り物をいう『史·盧綰「高祖、同日生、里中持羊酒両家。」漢書·昭帝「令郡常以正月羊酒。」『三国志·魏志·管寧「但遣主簿奉致羊酒之礼。」

[79]郷試。

[80]転運使。前注参照。

[81]ここでは漢州の知事であった董賓卿のこと。

[82]呂使君のことをいう。

[83]モンゴルのパオのこと漢書·匈奴下』「匈奴父子同穹廬臥。」顔師注「穹、旃也。其形穹隆、故曰穹。」『周·異域下·吐谷』「有城郭、而不居之、恒、随水草畜牧。

[84]後ろ二句は徽宗たちのことを述べている。

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