花間四友東坡夢雑劇
呉昌齢撰
第一折
（外が蘇東坡に扮して登場、詩）隠隠と胸中に錦繍[1]は蟠り、飄飄と筆下に龍蛇[2]を走らせたり。三蘇[3]を生みてより後は、眉山を一望すれば秀気は絶ゆるなり。
わたしは眉州眉山の人、姓は蘇、名は軾、字は子瞻、別号は東坡ともうし、老泉[4]の子だ。弟は子由といい、妹は子美といい、秦少游[5]に嫁いでいる。わたしは登第して以来、いくたびも抜擢を蒙って、官職は端明殿大学士を拝した。今は王安石が朝廷に居り、権力を持ち、政治を乱し、ことさらに青法を行っている。思うにこの青苗法が行われてから、万民はきわめて苦しみ、害は窮まることがない。わたしはしばしば文書を送りつけ、諌阻したため、王安石はわたしの敵となってしまった。ある日、天子が御花園に游ばれて、太湖石の一角が摧かれているのを見、なぜ太湖石の一角が摧けているかと尋ねると、安石は上奏した。「これは蘇軾が堅くないのでございます」。わたくしは進み出てこう言った。「蘇軾が堅くないのではなく、安石が牢くないのでございます」。天子は大笑いして宮中に戻られ、安石はとても恨んだ。ある日、朝議がおわり、諸官は待漏院に集まった。見ると一人の従者が腰に一本の扇を挿して、扇の上に二句の詩が書かれていた。「昨宵風雨園林を過ぎ、吹き落とす黄花満地の金」。それがしは思った。「『黄花』とは菊の花だが、菊の花はむかしから凋むことなく、自然に枝で枯れるものだ」Aとてもおかしいと思ったので、詩の後に二句をついだ。「秋花は春花の落つるに異なる、詩人に与へてじっくりと吟ぜしむべし」。ところがこの詩は安石が作ったものであったのだ。ある日、わたしは宴に招かれ赴くと、歌う者数人が出てきた。見れば一人の婦人がしばらく杯を捧げていたが、その手が見えなかったので、わたしは偽り、こう言った。「娘さん、金の釵が墜ちましたよ」。その婦人は手を出して、髻を撫でたので、諸官はみな大笑いした。安石がわたしに一詞を賦するようにと命じたので、わたくしは筆を走らせ、【満庭芳】一闋を賦した。ところがその婦人は安石の夫人で、次の日になると、安石はわたくしの【満庭芳】を天子に奏し、わたくしが詩を吟じ大臣の妻をからかうべきではないと言い、そのためにわたくしは黄州団練に流され、菊の花を見にゆかされることになった。天下の菊の花は凋まないが、黄州の菊花だけは凋むとは知らなかった｡一時の失言で、大いに怨まれてしまった。このたびは、潯陽駅琵琶亭にやってきた。旧友の賀方回が、こちらで知事をしており、わたしを留めて宴会をした。酒が酣の時、一人の歌妓を出した。白楽天の後裔で、字は牡丹、不幸にも風塵の中に落ちている。この娘はとても賢く、頂真続麻[6]、拆白道字[7]はもちろんのこと、恢諧嘲謔、三教九流[8]の話にも、ことごとく通暁している。わたくしが眉を蹙めれば、計略が心に浮かぶ｡黄州にゆき、閑居するが、同窗の旧友謝端卿は、廬山東林寺で落髪し、僧となり、修行して、十五年、禅床を下ってない。この人は、一代の文章の士だ。わたしは今から白牡丹を連れてゆき、この人を誘惑し、還俗させ、牡丹を娶らせ、わたくしとともに官途に登らせるとしよう。安石は一人で朝廷に居るのだから、手強いことはないだろう。今日、すぐに賀方回に別れ、白牡丹を連れ、謝端卿のところへ訪ねてゆくとしよう。
（詩）これよりゆかば黄州は寒きこと氷の似きも、清き心は飄零にもとより苦しむことぞなき。わたしは詩賦に巧みなる朝中の客、是もなく非もなき窗下の僧を訪ねゆく。（退場）
（丑が行者に扮し、箒を持って登場、詩）積水に魚を養ひ、たえて釣せず、深山に鹿を放ちて、長生をしぞ願ふなる。地を掃ふとき、螻蟻の命を傷ふことを恐れたり。飛蛾を惜しめば、紗もて灯を罩ひたり。
南無阿弥陀佛、掃った処は歩こうとするが、掃わない処は歩かぬ。なぜかといえば、南無阿弥陀佛、螻蟻を踏んで命を損なうことを恐れているからだ。
（正末が佛印に扮し登場）善哉、善哉。拙僧は饒州楽平の人、俗姓は謝、名は甫、字は端卿、法名は了縁といい、後に佛印と称している。わたしには同門の旧友がおり、ともに官途に登ったが、拙僧は、功名を棄て、こちら廬山は東林寺にて、修行している。今では十五年を経たが、禅床を下ったことはない。これなる行者は拙僧の弟子。痴鈍なもので、地を掃い、灯を点すを求めるのみ。思うに出家した人はとても清浄。（唱う）
【仙呂点絳唇】毎日、経文をば誦へ、心印[9]を受け、とりあへず愚を妝へり。天真を識破して、この外はなべて論ぜず。
【混江龍】法聡は愚かなり[10]。
（行者）わたくしも愚かではございませぬ。『心経』[11]を三年六か月読んで、「摩訶般若波羅蜜」の一句を誦えられるのですから、愚かとはいえませぬ。
（正末が唱う）かねてより、喜びはなく、嗔りもなし。この一心を参透[12]し、禅宗は五派に分かれり[13]。そぞろに清き風に伴ひ、旧友となり、ぼんやりと明月が前身なるかと疑へり。今にして想ふ。晨鍾暮鼓、馬足車塵は、とくと見ば、雲影の空中に尽くるがごとし。煩冗を離れ、清貧となる。
（言う）行者よ、昨夜、伽藍[14]が言っていた。本日の午の刻、魔障がこちらにやってくるとな。山門にゆき眺めていろ。遠方からやってくる旅人があれば、わたしに知らせよ。
（行者）かしこまりました。
（東坡が旦が扮した白牡丹、従者を連れて登場）わたしは蘇軾、大江をはやくも過ぎて、廬山の麓にやってきた。左右のものよ、川岸に船を泊めるのだ。牡丹よ、舟の中で坐っていてくれ。呼んだらすぐ来て、呼ばねば来るな。
（旦が返事をして退場）
（東坡がひとり歩く）廬山ははたしてよき景色。げにやげに真山真水、真寺真林。しかれども、閑人の来ることを得ず、濁子の観るを許さざるものにはあらず。よき山ぞかし。山高くして険険嵯峨。凛冽たる林巒[15]に乱石はごつごつとして、古怪怪たる松岩は下を掩ひて、山岩は目を掩ひ、煙蘿[16]を隔てり。山禽は語るが如く、語りて歇まず、山澗と飛泉に碧波は迸る。山童は薬を採れば、山薬少なく、樵夫は柴を担ひ、荷の多きをぞ貪れる。野猿は果を摘み、藤葛に攀ぢ、葛が絶たれて藤が残れば藤を拖くなり[17]。仙洞の仙童は虎に倚りつつうち睡り、仙人は酔ひて臥す老龍窩。峰は傾き、洞門は低くして、洞中の月光に娑婆を愛せり[18]。訝るなかれ朝嵐[19]の寒きこと槭槭[20]たるを。仙家洞府は天河にぞ接したる。大石は湾に横たひ、大石は湾に横たひ、幾重かの水、幾重かの渦[21]、野田の空闊、野田の空闊なるを帯ぶ。一層の嶺、一層の坡、老樹老藤、歳月を忘れ、古山古寺、経過[22]は絶えたり。経過の迹は断へぬれば山の在るのみ、いと長き歳月を経にける寺をいかんせん。げにこの寺は他の寺と異なりて、この山は他の山の比にあらず。青黛は千塊の玉を染め成し、雲と霞は万堆の螺を妝ひ就したり。佛子神仙のみが得到り、游人の容易に攀摩するを許さず。廬山の景色は、観れども尽きず、これを賞づれば余りあり。見よ東林寺の入り口の碑に証拠の詩あり。詩に曰く。「廬山に到ることなくば僧にはあらず、廬山の清き景は蓬瀛[23]にしぞ勝れる。僧となり、廬山に到り、死して廬山に葬られなば骨さへ清し」[24]。読むのが終わらないうちに、山門に一人の行者の立つのが見える。あのひとに尋ねてみよう。おんみの佛印師父さまは、法座[25]にいらっしゃいますか。
（行者）師父は坐禅をしております。
（東坡）なが口中の言を借り、わが心間の事を伝へん。客が来たれりと言ひ、姓と名を言ふなかれ。二句の禅語－偈語ともいふ－を言へよかし。「眉山一塊の鉄[26]、ことさらに会ひにきたり」と。
（行者）お役人さま、小和尚は愚かで、一冊の『心経』を、三年と六か月、誦えていますが、まだ記憶できないのです。もう一遍お話しください。
（東坡）愚かな和尚め。
（行者）ご姓は鉄にございましょう。
（東坡）鉄ではない。
（行者）ご姓が鉄でないのでしたら、ご姓は錫にございましょう。
（東坡）錫ではない。
（行者）鉄でなく、錫でないなら、銅にございましょう。（入って報せる）師父さま、おもてに一人の男がやってきて、姓名を告げないで、二句の禅語－偈語ともいう－を言いました。「眉山一塊の鉄、ことさらに会ひにきたり」と。
（正末）「とくとく堂へ上れかし、炉の中の火はまさに熱ければ」。
（行者）うまい[27]。あのひとが鉄ならば、わが師父は火で、炉を据えてあいつを焼くというわけか[28]。お役人さま、わが師父はおんみを焼けと言いました。
（東坡）どういうことだ。
（行者）「とくとく堂へ上れかし、炉の中の火はまさに熱ければ」とのことにございます。
（東坡）これも禅語だ。また入ってゆき、話すのだ。「わが鉄は重さ千斤、おんみは挈ぐるを得じ」。
（行者）わが師父をおんみは恐れていられませぬが、わが師父もおんみを恐れはしますまい。師父さま、あのひとはまた二句を告げました。「わが鉄は重さ千斤、おんみは挈ぐるを得じ」と。
（正末）「わたしには八金剛あり、おんみを碎いて屑とせん」。
（行者）うまい。わが師父は言いました。「わたしには八金剛あり、おんみを碎いて屑とせん」。
（東坡）また入ってゆき、話すのだ。「わたしは鉄類頑銅なれば、おんみは掴むことを得じ[29]」。
（行者）まあいいでしょう。軟らかくなりました[30]。
（東坡）「軟らかくなった」とはどういうことだ。
（行者）掴まれて軟らかくなったのです。師父さま、あのひとはまた二句を告げました。「わたしは鉄類頑銅なれば、おんみは掴むことを得じ」。
（正末）「なれを鋳て鐘と成しなば、僧たちは打ちてしやまじ」。
（行者）うまい。わが師父はおんみを打とうとしています。
（東坡）打とうとするとはどういうことだ。
（行者）「なれを鋳て鐘と成しなば、僧たちは打ちてしやまじ」
（東坡）また入ってゆき、話すのだ。「鋳て鐘と成したる時は、禅師はすでに滅びたるべし」。
（行者が哭きながら入ってくる）
（正末）行者よ、どうして哭きだしたのだ。
（行者）あの人は言いました。「鋳て鐘と成したる時は、禅師はすでに滅びたるべし」。
（正末）大道はもともと成らず、大道はもともと滅びず。心地はおのずと明らかなれば、叨叨と話すことはなし。昨夜、伽藍が言っていた。本日の午の刻に東坡学士がこちらに来ると。はたして言葉の通りであった。今すぐにお通ししてくれ。
（行者）眼がありながら灰の堆を識りませなんだ[31]。学士さま、わが師父がお入りくださいとのことにございます。
（正末）十五年、禅床を下らなかったが、今日は禅床から下りて、学士を接待せずばなるまい。（会う）
（正末が唱う）
【油葫蘆】別れてこのかた十数の春を経にけり。
（東坡）一別以来、ひさしくお会いしませんでした。
（正末が唱う）まったくお訪ねすることができませなんだ。
（東坡）今日会えたことをひとまず喜びましょう。
（正末が唱う）やすやすと青雲に上られしことを喜ばん。おんみに問はん。大人はいづこの役所に除せられたりしや。
（東坡）お別れしてから、端明殿学士の官位を拝命しました。
（正末が唱う）それはよし。玉堂金馬[32]、風韻の多きをあだにすることぞなき。
（東坡）わたくしは今、翰林におりませぬ。黄州団練に流されることになり、こちらを通りましたので、貴兄を訪問したのです。
（正末が唱う）呉山楚水にむざむざと疲るるもものの数かは。
（東坡）おんみと一夕話をしなば、十年書を読むにしぞ勝らん。
（正末が唱う）わたくしはおんみと一夕話をしなば、かの一樽の酒に勝らん。
（東坡）わたしはおんみと同堂の旧友にございます。
（正末が唱う）われらはまさにそのかみの朋友の親しめるなり。酒を飲み、酔ひて醺醺たることを要せめや。
（東坡）逢っても飲まず、むなしく帰ってゆくならば、洞口の桃花も人を笑いましょう。
（正末が唱う）
【天下楽】さすれば明月清風も人を笑はん。
（東坡）あちらに人気のない場所がございますから、遊覧しましょう。
（正末が唱う）このやうに荒れたる山門を、
（東坡）すばらしい古刹です。
（正末が唱う）な晒ひたまひそ。
（東坡）こちらは伽藍堂ですのに、なにゆえにお供え物がないのでしょうか。
（正末が唱う）わが伽藍堂は、静悄悄と世塵を隔てり。
（東坡）雨空ですが、すこし漏りますか。
（正末が唱う）塗れて衣が汚るとも、裏返し、頭巾といたさん。
（言う）学士さま、
（唱う）わたしはこちらで驢に騎り、大尹につきあたることを恐れず[33]。
（東坡）驢に騎り大尹につきあたるとは、賈浪仙[34]の故事、わたくしを韓文公に喩えましたが、滅相もないことにございます。
（正末）大人は端明殿学士を拝されたのに、どうして黄州団練に流されて、拙僧の荒寺にこられましたか。
（東坡）お尋ねになられなければ、わたくしは言おうとはしませんでした。昨今は王安石が朝廷におり、権力を持ち、政治を乱し、ことさらに青苗法を行っておりまする。思いみますに、青苗法が行われてから、民草はたいへんに苦しんでおりました。王安石は、とある日、わたしを家に招いて宴して、数人の歌い女を出しました。その中で一人の婦人が杯をしばらく捧げていましたが、その手が見えませんでしたので、わたくしは、いつわって言いました。「娘さん、金釵が墜ちましたよ」。その婦人はあたふたと手を出して、その髻を撫でましたので、諸官はみな笑いました。安石はわたくしにその事を題詠させ、わたくしは筆を走らせ『満庭芳』一闋を賦しました。ところが安石はわたくしの『満庭芳』を聖上に上奏し、わたくしを黄州に流して閑居させました。こちらを通り掛かったときに、貴兄がこちらにいることを思い出し、わざわざ訪ねてきたのです。貴兄は公正な人です。この件は王安石が悪いのでしょうか、わたくしが悪いのでしょうか。
（正末）この件はやはり王安石がよくないでしょう。
（東坡）王安石がどうしてよくないのでしょうか。
（正末が唱う）
【金盞児】皇恩を学士は受くれば、賢臣を重んじて、かのひとは、足下を招けり。かのひとは二人で閑談すべきにて、高々と銀燭を焼き、金樽を傾くるべきにはあらず、殷勤に侍女を出でしむべきにはあらず、夤夜に佳賓を款待すべきにはあらず、簾を隔てて談笑するを聴くべきならず、
（言う）諺に「人を責むるは明、己を恕すは昏」[35]といいます。学士どの、
（唱う）おんみも灯下でかのひとの佳人を見るべきにはあらず。
（東坡）わたしもよくなかったのですね。
（正末）『満庭芳』の妙詞を聞きとうございます。
（東坡）貴兄の前で、『満庭芳』一闋を念じましょう。ただ「布鼓を持って雷門を過ぎる」[36]かのようで、ほんとうに恥かしゅうございます。
（正末）拙僧は浅学菲才、聞きたいと思います｡聞きたいと思います。
（東坡）お耳汚しとなりましょう。
（詞）香は雕盤に靄として、寒は氷筋[37]を生じたり。画堂はとりわけ風光く、主人は情厚くして、宴を開き紅妝を出だせり。膩玉[38]は圓かに素頚を搓りて[39]、藕絲は嫩かく、新たに仙裳をぞ織れる。二人して歌ひおはれば[40]、虚雲[41]は月を転りて、余韻はなほも悠揚たり。人間のいづこにか、司空の見慣れ[42]、尋常なりと謂ひつべきことのあるべき。坐中には狂客ありて、柔腸を悩まし乱せり。金釵の墜つるを告げられて、十の指は春笋[43]の繊く長きを露はせり。したしく見たるものなれば、宋玉の想象し、高唐を賦したるにしぞ勝るらん。
（正末）すぐれた才にございます。すぐれた才にございます。（唱う）
【後庭花】『満庭芳』は席上の珍[44]なりしかど、老いし東坡を轅下にて窘しましめり[45]。この楽府は讒譖を招きたるものなれば、文章は身を立つべしとは言ひ難し。（笑う）
（東坡）貴兄はどうして笑われるのです。
（正末が唱う）笑ふこと欣欣とするよりほかなし。われらのごとく分に安んじて、深山に名姓を隠すにしかず。
（言う）行者よ、精進料理を持ってきて、学士どのをお持て成ししろ。
（行者）かしこまりました。香積厨[46]に精進料理を調えて、麺を拖き草鞋を煎め、醤をもて鵝卵石[47]をば拌ぜる[48]。はやく学士を持て成そう。
（東坡）あの行者を呼んでこよう。さきほど何を話していたのだ。
（行者）わが師父はさきほどこう仰いました。香積厨から精進料理を持ってきて、学士さまを持て成すようにと。
（東坡）行ってあの和尚に話せ。酒があり、肉があるならわたしは食べるが、酒がなく、肉がないならわたしは舟に戻ってゆくと。
（行者）学士さま、おんみはわたくしのお父さま[49]、わたくしのような和尚は佛にはなれませぬ。口からは涎がたらたら流れてきます。学士さまには、なにとぞ憐れと思し召されて、すこし多めに小和尚に食べさせてくださいまし。
（東坡）食いしん坊の和尚めが、すこし多めに食べさせてやろう。
（行者）学士さまに、おおいに感謝いたしましょう。師父さまはお怒りになりましょう[50]。あの学士さまは仰いました。「酒があり、肉があるならわたしは食べるが、酒がなく、肉がないならわたしは舟に戻ってゆく」と。
（正末）それならば、山を下り、俗人の家にゆき、一壺の酒を沽い、一塊の肉を買い、学士どのを持て成すがよい。
（行者）どこへも買いにゆけませぬ。おんみは行い澄ましたお方。先年、師父さまの奥さまのため、満月[51]を祝った時に、猪の臓物一式をつけ買いし、お金を払わず、わたくしの褊衫[52]さえも質入れし、なくされたため、今でも皂の直裰を着ているのです。
（正末）でたらめを言うな。
（行者が古門に向かう）麓の俗人よ[53]、百八十数斤の猪がいるなら、一匹潰せ。
（内）大きすぎます。おりませぬ。
（行者）それならば、八九両の子豚を一匹潰すのだ。
（内）小さすぎます。おりませぬ。
（行者）好きなように、增やしたり減らしたりしろ。まずはとにかく血臓湯を一碗作り、食べさせてくれ。
（正末）行者よ、酒席は調ったか。
（行者）酒席はすでに調いました。
（正末）学士どの、「そのむかし、遠公は酒を沽ひ、陶潜に会ひ、本日は佛印が猪を焼き、子瞻を持て成す」。
（東坡）わたくしは二句を接ぎましょう。「蘇軾はなどか昌黎に效ふべき、佛印はなどて大顛にしぞ比べん」。
（正末）すぐれた才にございます。すぐれた才にございます。
（唱う）漏粉[54]と、菜饅頭[55]に、いかやうのよきことのある。わたしとともに芳春を惜しみ、経文を棄てよかし。
（正末が唱う）
【金盞児】おんみはわたしに芳春を惜しましめ、経文を棄てさせんとし、一生の功案[56]をなべて論ぜず。
（東坡）わたくしが媒となりましょう。
（正末が唱う）東坡学士の媒となるを笑へり。
（東坡）われはおんみの十座の寺を得壊せば、おんみはわれの一門の親をな拒みそ[57]。
（正末が唱う）おんみはわたしの十座の寺を得壊せば、一門の親をな阻みそとぞ言へる。わたしもかつて万花の叢裏を過ぎにしも、いかんせん、一葉もわが身を沾すことぞなき[58]。
（東坡）牡丹よ、あの和尚に菩提の露を乞いにゆくのだ[59]。
（旦児）はい、わが師にお願いいたします。和尚さまの一点の菩提の露を、両葉の牡丹の中に滴らせませ。
（正末）拙僧は半滴もございませぬ。
（旦児）師父さまはすこしもないと仰いました。
（東坡）もう一度、お願いしにゆけ。
（旦児）わが師に申し上げまする。和尚さまの一点の菩提の露を、両葉の牡丹の中に滴らせませ。
（正末）拙僧は十五年、禅床を下ることなく、功徳は浅いものではない。ほんとうにすこしもないのだ。
（旦児）大人、あの和尚さまは、十五年、禅床を下られたことがなく、功徳は浅くない、ほんとうにすこしもないと仰って、牡丹をひどく辱しめました。
（東坡）和尚どの、おんみが承知なさらぬために、牡丹は怒っておりまする。
（正末が唱う）
【賺煞】おんみは言へり。雨露の恩をし施さざれば、花枝の恨みを招けりと。わたしは如来の法身を壊さんとせず。この雪山[60]は、巫山の夢に魂を断てるに異なりて、暮雨朝雲のあるべうもなし。わたしは僧となりたれば、寡宿孤辰の命を犯せり[61]。
（東坡）ああ。おんみは莽な和尚なれども、わたしの牡丹がこの縁談を成就せば、
（正末が唱う）おんみはいづれの首座闍黎をして婚儀を司らしむべき。
（東坡）女は諾ひ、男は従はざることのいづくにかある。
（正末が唱う）おんみは言へり。女は諾ひ、男は従ふことなしと。
（東坡）わたくしは、舟の中で、花紅[62]と羊酒[63]を調えてまいりました。
（正末が唱う）学士どの、おんみは羊酒を無駄にして、
（言う）お許しくだされ、
（唱う）沙門のわれを拝するよりほかなかるべし。（退場）
（旦児）大人、あの和尚は承知しませぬ。牡丹を連れてこられたこともまことに無駄にございました。
（東坡）牡丹よ、ひとまず安心するがよい。わたしは明日、お礼の宴の酒肴を調え、とにもかくにも、この縁談を成就してやることにしよう。その時は玳瑁筵[64]を調えて、紅牙の板を敲くとしよう[65]。白雪の歌を低く吟じて、鸚鵡の盞を高く挙げよう。玉の釵は斜めに垂れて、雲の髻は乱れ偏り、壮士の頭を振り向かせ、禅僧の眼を開かせようぞ。（ともに退場）
第二折
（正末）拙僧は了縁和尚。昨日は、東坡学士に、一日中、誘惑されたが、拙僧だからよかったものの、ほかのものなら、どうなっていただろう。
（行者）また師父さまにございましょう。行者ならばいちころでしょう[66]。
（正末）日はすでに暮れたから、学士はきっとまた来るだろう。拙僧はあのひとを避け、禅師の法門を示そうと思うのだが、智慧がない。行者よ。方丈を大いに開き、灯燭を掻き立てて、明るくするのだ。学士が来た時、拙僧におのずから考えがある。（唱う）
【南呂一枝花】身は東土にし居りたれど、心はおのづと西来の意を解したり[67]。そのむかし、一盞の灯[68]を伝へども、幾人か知ることあらん。禅機をば参透し、外事に縛られたることぞなき。想ふに昨夜はいかなる道理で、かの蘇子瞻はひたすらに纏ひつきたる。くはふるに、白牡丹には千般の美しさあり。
【梁州第七】もともとは西方[69]にゆき、地獄を脱けんとしたるなり。わたしは東坡を信じて天機を漏らさんとせず。半生の苦行と修持の力もて、心猿を鎖し、意馬を鎮めて、かのひとがむなしく戯れ、おんみがみだりに振る舞ふにしぞ任すべき。げに幾たびも一切の非なるを識破し、一心にただ西に帰せんとすなり。玉人の嬌滴滴と楓の葉もて情を伝へ[70]、魂を迷はす陣を連ねて香馥馥と桃花の蕊を泛ぶるごとく、選佛場[71]を乱紛紛と掻き乱し、柳絮を泥に塗れしめんとすることも空しかるべし。わたしが九年面壁し、蒲団[72]の底にはやくも明心[73]見性[74]したることを知らめや。今日になり人の世に出で、愚昧なるおんみ東坡のなほも悟らぬことを笑へり。おんみはやはり肉眼凡眉なるのみぞかし。
（東坡が旦児を連れてともに登場）牡丹よ、わたしは今日、お礼の宴を調えて、いずれにしてもおんみのためにこの縁談を成就しよう。もう山門にやってきた。行者よ、取り次げ。昨夜の客が、今日も来たとな。
（行者）師父からずっと言いつけられておりました。学士さま、お入りください。
（正末が出迎える）学士どの、どうぞ。学士どの、昨晩はおおいにご無礼いたしましたが、なにとぞお許しくださいまし。
（東坡）禅師どの、昨夜はおおいにご馳走になりました。
（旦児が謝する）わたくしもご馳走になりまして、ますます申し訳ないことにございます。
（正末）恐れ入ります。恐れ入ります。
（東坡）今日は薄酒一杯で、お礼しにまいったのです。
（正末）大人、旅先でそのようになさることはございませぬ。
（東坡）酒をもて。端卿どの、一杯お飲みくださいまし。
（正末が返杯する）学士どの、どうぞ。
（東坡）端卿どの、われらは閑談いたしましょう[75]。想うにおんみは山間林下で、お姿とお名を隠していられるが、いつになってもよいことはございませぬ。髪を蓄え、還俗し、ともに官途に登り、ともに皇朝を輔ける方が、まことに宜しゅうございましょう。
（正末）学士どの、このおのおの考えがあるということ。むりにいっしょにするのは難しいでしょう。（唱う）
【隔尾】拙僧は半生拙を養ひて人の識るなし、おんみは一挙に名を成して天下に知られり、これぞ名利と清閑のそれぞれの滋味ならん。
（東坡）出家したおんみはいかがでございましょう。
（正末が唱う）わたくしは人間の是非を避くるなり。
（東坡）役人となったわたしはいかがでしょうか。
（正末が唱う）おんみは皇家に富貴を請へり[76]。
（言う）宜しいことは宜しいですが、一首の『満庭芳』のため、黄州へ流されても、文句さえ言えませぬ。
（唱う）才調の清高なれば、かくなれるなり。
（東坡）この禿は言葉を用いてあてこすっておる。ああ。われら役人をするものは、堂食を食べ、御酒を飲み、おんみら出家したものは、深山古刹で、酸餡[77]を食べ、淡泊に耐え、どのようなよいことがございましょうか。
（正末が唱う）
【牧羊関】酸餡を食べ、淡虀[78]に耐ふ。淡泊は淡泊なれど淡泊の中に味あり。想ふに足下は十分の才思を持てども、今日になりおんみは万里の前途をぞ葬り去れる。
（東坡）「舌は国を安んずる剣、詩は天に上る梯」[79]にございます。
（正末が唱う）「舌は国を安んずる剣、詩は天に上る梯」とははや言ひ難し。おんみは青灯十年の苦[80]を受けしかど、憐れやな、黄州へ送られて、せん術もなし。
（言う）行者よ、酒を持て。大人、杯を干されませ。拙僧は眠りにゆきます。
（東坡）禅師どの、おやすみなさい。
（旦児）あの和尚は慌てています。
（正末が席を離れる）この方丈の門を出よう。（唱う）
【罵玉郎】東坡学士にからかはれたり。寺の誰にかこれを告ぐべき。われは今、廬山にて修心養性せるものなれば、子瞻を瞞き、牡丹を騙すわけにはゆかじ。誰をして替はりをせしめん。
【感皇恩】行者よ、逆らってはならぬ。そなたに頼むことがある。（跪く）
（行者）師父さまみっとものうございます[81]。
（正末が唱う）われは東坡に、いたづらに惑はされ、纏ひつかれり。
（行者）わたくしは白蓮会に赴いてゆかねばならぬ。
（正末が唱う）そなたは白蓮会に赴きて、まづはかの紅粉[82]と密通すべし
（行者）ご老人はとんでもない方ですね。わたしにきちんと学べといわず、鶏を盗んで食べよとおっしゃるとは、捕らえられたらどうするのです。
（正末が唱う）話さんとせど、われもまた、いかでか言ふべき。
（行者）師父さま、仰ろうとして仰らぬようですが、わたくしにどうしろと仰るのでしょう。諺にこう申します。「黒いご飯を食べれば、黑い屎を出す」[83]もの。わたしはおんみに従いましょう。
（正末が唱う）
【采茶歌】そなたが従はんとして、耻ぢずんば、このわれがそなたより十年先に天に上るも遅かるべし[84]。
（言う）行者よ、耳をかせ。（耳打ちする）
（唱う）かのひとと枕をともにして眠り、連理と成れかし。いささかの滋味を得なば、な痴れ迷ひそ。（退場）
（東坡）牡丹よ、謝端卿は方丈に行った。すぐに方丈に駆け込んでゆき、あのひとと雲雨をしたら、『雨淋鈴』を唱うのだ。「今宵、酒はいづこにか醒むる。楊柳の岸、暁風残月」[85]とな。わたしがすぐにあのひとを捕らえにくれば、あのひとがわたしに従い、還俗しないはずがない。
（旦児が駆け込む）師父さま、どうか牡丹と結婚を成就してくださりますよう。
（行者）駄目だ。駄目だ。拙僧はまるまる十五年、禅床を下らない、菩提の露は半滴もない。（歓会する）
（旦児が唱う）『雨淋鈴』「今宵、酒はいづこにか醒むる。楊柳の岸、暁風残月」。
（東坡）結構な謝端卿どの、牡丹と雲雨をなさいましたな。部下よ、灯を点し、方丈の門を推し開け、かの佛印を捕らえるのだ。
（正末が登場）わたしは子瞻を騙したぞ。
（旦児）牡丹をひどく辱しめていなかったのですね。（退場）
（行者）行者はとても楽しみました。（退場）
（東坡）ああ、謝端卿どの、これはどういうことですか。おんみが承知しないのは仕方がないが、どうして行者にわたしの牡丹を汚させたのです。牡丹よ、おんみの玲瓏剔透は今はいづこぞ。俊俏聡明をな誇りそ。嫩らかき蕊、嬌はしき枝を得鎖せで、狂風に牡丹の芽をぞ吹き碎かるる。謝端卿どの、酒筵を片付けてください。わたしはすでに酔いました。
（正末が唱う）
【賀新郎】東坡学士は禅機[86]を解し、わたくしは菩提[87]をば壊さんとせず。さきほどは脱身の計にして、かのものは絨毛の氈の裏にて綿被を撲てり[88]。わたくしが龍華会にぞ入るに勝れる[89]。げにいたく釈迦牟尼を辱めたり。もしもかの牡丹が約に赴きて、和尚が密通することあらば、東坡はいささか怪しと思はん。一人は花を惜しまんとして、春起くること早くして、一人は月を愛でんとし、夜眠ること遅きなり。
（東坡が眠る）
（正末）大人、また何杯かお飲みください。ああ。このかたは眠ってしまった。このかたをおおいに眠らせるとしよう。花間の四友はどこにいる。
（旦児が四友に扮し登場）みんな、急ぎましょう。師父さまがわたしたち姉妹四人を呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう。
（正末が唱う）
【哭天皇】なんぢらを呼びたるはほかでもあらず。なんぢら四人はおのおの準備をなすがよし。梅よ、なんぢは軽く白雪歌[90]をば謳へかし。柳よ、なんぢは紫金の杯をわれに捧げよ。桃よ、なんぢはかのひとと一つ枕で眠れかし。竹よ、魚と水のやうにせよかし。わたしはこちらで気儘にし[91]、酒と歌にぞ伴はん。蘇東坡はかの『満庭芳』、『満庭芳』ほどの悪さはなさざらん。鬼神の力を頼りとし、天の知り、地の知れるのみ。
【烏夜啼】これは和尚の観音蜜[92]を念ふことをぞ戒むるなる。今宵すぐさまなんぢにお礼の宴せん。なんぢら四人はおのおの心を同じうし、相談すべし。柳よ、とくとく隋堤[93]を離るべし。竹よ、湘妃[94]をな恋ひそね。梅よ、なんぢら二人は羅浮山下にて逢瀬を遂げり[95]。桃よ、なんぢはわれとそのかみ武陵溪畔に相識れり。柳は妖嬈、桃は美麗、梅魂は縹緲として、竹影は依稀たりき。
【黄鍾尾】学士どの、なんぢは才は高くして、世に誰か比ぶべき。われはなんぢを眠らしめ、人間をたえて知ることなからしむ。柳よ、なんぢは過客を迎へ、行人を送り、青眼を開き、黛眉を展べて、陶潜[96]に伴へる見識あるべし。竹よ、なんぢは龍頭[97]と鳳尾[98]を振りて、翠節を敲き、清音を弄び、王猷[99]を引く興味あるべし。桃よ、なんぢは暁日に烘きて朝霞にしぞ染まりたる。紅雨[100]をば飄はせ、東風に笑み、旖旎たるさまは劉晨を賺けり。梅よ、なんぢは氷魂を散じ、素魄を呈し、凍雪を欺き、厳霜を凌ぎ、嫵媚たるさまは何郎に勝れり[101]。なんぢらの撲剌剌とかのひとを呼び覚ます晨鶏となるを許さず、なんぢら四人はかのひとを美甘甘と南柯の夢に迷はしむべし。（退場）
（四友）学士さま、寝た振りをなさいませぬよう。
（東坡が夢から醒め、問う）四人の娘さんたちは、いずかたのおかたでしょうか。
（四友）わたしたち姉妹四人は、佛印さまのお気に入りの妓妾にございます。師父の法旨に聴って、大人にお酒を一杯差し上げにまいったのです。
（東坡）ああ、謝端卿め、わたしをさんざん瞞いていたのだな。このように麗しい、四人のお気に入りがいるならば、わたしの牡丹をいらないというのも道理だ。お尋ねしますが、四人の娘さんのご姓とお名は。
（四友）われら姉妹は夭桃、嫩柳、翠竹、紅梅ともうします。
（東坡）娘さんは舞い唱うことができますか。
（四友）われら姉妹はみな唱えます。
（東坡）四人には、舞い唱いしていただきましょう。わたくしは酒を飲み、興を尽くしてはじめて帰るといたしましょう。
（四友が舞い唱う）
【月児高】長亭の柳をな折りたまひそね。情は濃ければ、袂を分かたんことを怕れり。雕鞍に跨りて行かれんとせば、羅衫の袖を引きとめて、帰らるる期はそもいつならむとぞ問ひぬべし。泪の滴は点点として鮫綃[102]に染み、陽関[103]を唱ひ尽くせば、また美酒を斟ぐ。美酒は愁へを消すべきも、酒に酔ひ、また醒めて、ふたたび愁へたまはんことをぞ恐れたる。
（四友）学士さま、この杯を飲み干されませ。われわれ姉妹四人は、それぞれ佳句一首を求め、ながく家宝といたしましょう。
（東坡）四人の娘さんはわたくしに詩を求められました。作りましょう｡作りましょう｡仰ってください。誰からにしましょうか。
（梅）わらわは紅梅。
（東坡）玉骨氷肌は尋常ならず。かのものは霜雪に耐へ、かのものは寒さに耐へり。一枝は斜めに書窓にありて、詩人の冷眼[104]もて見るを招きたり。
（梅が酒を捧げる）佳篇に感謝いたします。学士さま、この杯を干されませ。
（東坡が飲む）今度は翠竹の番だ。万玉[105]の叢中でなんぢは最も魁て、亭亭たる高節は低回[106]せめや。淑人はまことの君子に配すべし。泪を灑ぎ、斑と成りしは誰がためぞ[107]。
（竹が酒を捧げる）佳篇に感謝いたします。学士さま、この杯を干されませ。
（東坡が飲む）今度は夭桃の番だ。溶溶たる粉汗は香はしき腮を湿し、舞ひは尽き、春風は顔に上れり。一点の臙脂の気のため、劉郎の心して栽ゑんとするを招きたり[108]。
（桃が酒を捧げる）佳篇に感謝いたします。学士さま、この杯を干されませ。
（東坡が飲む）今度は嫩柳の番だ。腰肢は裊裊、軽柔を弄し、舞ひは尽くるも、春風はたえて休まず。流水画橋に青眼あり[109]、誰がために腸を断ち、誰がためにしぞ愁へたる。
（柳が酒を捧げる）佳篇に感謝いたします。学士さま、この杯を干されませ。
（東坡）飲みましょう。飲みましょう。
（四友）わたしたち姉妹四人は、大人に一詩を求めることにしましょう。
（東坡）作りましょう。作りましょう。愛すべき尊前の四艶妝、清陰に月をし待てば、紗窗は暗し[110]。桃よ、魂は玉洞[111]に依り、花は千片。竹よ、腸は湘江に断ち、泪は幾行。梅よ、大庾嶺頭、寂寞に耐ふ。柳よ、霸陵橋外、軽狂を弄ぶ。なにゆゑぞこの夕、歓会をともにして、わたくしは酔ひを尽くせる。
（四友）まことに優れた才能にございます。われら姉妹は舞い、唱いして、学士さまにお酒を召されることを勧めて、酔いを尽くして、帰っていただくことにしましょう。
（東坡）飲みましょう。飲みましょう。ほんとうに楽しいことです。（ともに退場）
第三折
（正末が松神に扮し、笏を持って登場）わたしは廬山の松神だ。このたびは、佛印禅師がひそかに花間の四友を遣わし、玉春堂[112]の東坡学士を惑わしにゆかせている。上帝が知られれば、きっとわたしを咎められよう。四人の娘を追い掛けてゆかねばなるまい。（唱う）
【正宮端正好】晩風軽く、霜華重く、雲淡く、晩風軽く、露は冷たく、霜華重く、瑶階を転れば月色は朦朧たり。見よやかの花間の四友は姿をばひけらかし、かのひとの春心を掻き立てて動かしめたり。
【滾繍球】わたしはこちらで蒼苔を踏み、怪松に攀ぢ、湖山に靠れ、翠峰に登り、まさにかの玉春堂[113]と相ともにせり。悄冥冥と抜き足、差し足、階基に上り、窗孔に近づき、四人の小娘の端明[114]を取り巻くを見る。竹梅はなみなみと金鍾を斟ぎ、かのものは「舞は低し楊柳楼心の月」[115]、かのものは「歌は罷む桃花扇底の風」。酒興はまさに酣ぞかし。
（松神が簾を掲げる）（唱う）
【叫声】わたしはこちらで亮槅[116]を開け、簾櫳[117]を掲げ、赤律律たる一陣の烈風を、烈風を起こしたり。人はおぼえず悚然として驚きて、凛然として恐れたり。銀台[118]の上の紅の燭花は吹き滅されんとす。
（東坡が四友を擁して登場）四人の娘さん、大風が起こりましたよ。
（四友が怕れる）学士さま、風が起こりました。神さまが来たのです。
（東坡）それならば、娘さん、隠れなさい。
（松神）学士どの、はやく花間の四友を呼び出してこられよ。
（東坡）花間の四友などはおりませぬ。
（松神）学士どの、孔聖の書を読まれているなら、かならずや周公の礼に通じていられましょうに、どうしてこちらでかようなことをなさるのか。
（東坡）わたくしがこちらで酒を飲んでいて、いかなる障りがあるのでしょうか。
（松神が唱う）
【上小楼】なれはかの色の空なることを了悟し、とりあへずわが師とは昆仲となる。なれはかの嫩柳、夭桃、翠竹と紅梅に伴ひて、ひそかに私通を約したり。
（東坡）わたくしはたった一人でこちらにおり、ほかに連れ合いはおりませぬ。
（松神が唱う）これぞまさしく、おんみはみづから行き来して、相随ふなり。
（言う）花間の四友は、
（唱う）紅妝を出だしたる、情の厚き主人の比にはあらざらん。
（東坡）それはわたくしが作った『満庭芳』。神さまもご存知でしたか。
（松神）学士どの、花間の四友を、すぐに出されよ。
（東坡）ほんとうにおりませぬ。
（松神が笏で卓を敲き、唱う）
【幺篇】わたくしは眼も見えて、耳も聞こえり。
（東坡）四人の娘さん、逃げなされ。
（松神が唱う）おんみのもとで押し合ひへしあひ、逃げ隠れ[119]、影もなければ形もなし。さきほどわたしは虚空を下り、神通力を顕して、一陣の飆風を起こし、微かに送れり。
（言う）紅梅を呼び出されよ。
（東坡）紅梅などはおりませぬ。
（松神）紅梅がいないと言うが、
（唱う）こちらでは疏影の横たひ、暗香の蕩ふを見る[120]。
（松神がふたたび卓を叩いて捜す）小娘はどこに隠れているのだ。すべて呼び出してくるのだ。
（四友が出る）
（東坡）上聖さま、一人を留めて、わたしのためにお酒を捧げさせてください。
（松神が唱う）
【満庭芳】おんみ東坡の楽しむを見き。いたるところで嬌歌妙舞し、酒は釅く、花は醲し。疏らな梅の一点の芳心[121]の動くを見、天工をはやくも漏らすことを怕れり。修竹に傍へば珮は玎[玉冬][122]と鳴り、垂楊を覆ひたる絲は豊茸たるを揚げたり[123]。桃花の洞にあらざれば、臙脂の泪の涌くのみにして、春風にふたたび笑ふことを得ず。
（松神が四友を追い掛ける）
（東坡）上聖さま、わたしがひとりでこちらに居、酒を飲むとき無聊であるのを考慮され、一人の娘を残されて、わたしの世話をさせてください。
（松神が唱う）
【十二月】おんみはこちらで斉臻臻[124]と前と後を取り巻かれ、美甘甘と笑まふ口、歓ぶ容をし、静巉巉[125]と天を幕とし、地を席とし、笑吟吟と翠と紅に寄り添はんとし[126]、禅師に騙され、一場の幻となるを知るなし。
【堯民歌】端明学士のおんみのひどく愚鈍なるこそおかしけれ。酒は闌け、人は散り、夜はまさに終はらんとすることをたえて思はず、花間の四友を自由にするを許さんとせず。東坡どの、大夫松[127]なるわれをな怨みたまひそね。これぞ禅宗[128]、禅宗にして、すべては空に帰するなり。伊蒲供[129]のあるのみぞかし。
（松神が四友を追って退場）
（東坡）四人の娘さん、どうしてわたくしを棄ててゆかれる（卓に伏して眠る）
（松神）学士どの、学士どの。
（唱う）
【耍孩児】想ふに東坡はそのむかし金蓮の寵を受けたり[130]。かばかりに愚鈍蒙昧、樹頭樹底に残紅を覓むるのみにて[131]、一対の道を照らせる紗籠を得添へざることぞ恨めしき[132]。「今宵剩さへ銀缸を把て照らす、なほ恐る相逢ふも夢中なるかと」[133]。賢しきことも何にかはせむ。もともとは佛印を酔魔となさんとしたれども、かへつて寤寐の周公となる[134]。
【煞尾】疏剌剌[135]たる枕畔の風、響擋擋[136]たる楼上の鐘を聴くなり。誰によりてかたちまちに游仙の夢を醒まさるる。われは笑へり。酒色に溺れしおんみ東坡の紅き日の三竿[137]になるまで眠るを。
（行者が登場）両廊の僧院、鐘楼、経閣に、銅頭鉄額[138]、釘嘴木舌[139]、了達[140]できない者があれば、みな法座の上に来て禅問答をするように。（さらに叫び、退場）
（東坡が目覚め、言う）四人の娘さん、一杯干されよ。ああ、南柯の夢であったのか。舟に戻ってゆきたいが、謝端卿に見破られるのが恐ろしい。とりあえず、白牡丹を連れ、法座へ禅問答しにゆこう。
第四折
（正末が弟子たちを連れ、華幡[141]法器[142]で登場）行者よ、香盒を持ってくるのだ。
（行者）香盒はこちらです。
（正末）南無阿弥陀佛。この一炷の香は、わが王の万寿、臣宰の千秋を願う。この一炷の香は、黎民の仕事を楽しみ、五穀の豊かになるのを願う。この一炷の香は、法輪の常に転じて、佛日[143]の輝きを增すのを願う。（唱う）
【双調新水令】一炷の龍涎を燃やせば穹蒼へと達し、わが王の寿元無量を祝りたり。八方に士馬[144]のなく、四海に刀槍[145]の罷み、国泰らけく、民康やかに、甘雨の折よく降るを願へり。
（言う）行者よ、両廊の僧院、経閣、鐘楼にゆき、叫ぶのだ、銅頭鉄額、釘嘴木舌、了達できない者があれば、みな法座の上に来て禅問答をするようにとな。
（行者）かしこまりました。（叫ぶ）
（東坡が牡丹を連れて登場）牡丹よ、謝端卿は法座の上で禅問答をするのだが、わたしは行ってあのものと問答し、やっつけるから、そなたはすぐにくるがよい。
（旦児）はい、わかりました。
（東坡）わが師に申し上げまする。和尚どの、蘇軾はわざわざ禅問答をしにまいりました。
（正末）はやく言われよ。
（東坡）佛印にかねてより導かれたりければ[146]、蘇軾は無駄話をしにきたるなり。
（正末）葛藤を断つ老婆禅[147]、沙鍋を打ち破り底まで割らん[148]。
（東坡）あのひとにやっつけられた。牡丹よ、そなたが禅問答しにゆくがよい。
（旦児）わが師に申し上げまする。牡丹はわざわざ禅問答しにまいりました。
（正末）はやく言われよ。
（旦児）わたしは白牡丹。なにゆゑぞこなたへ来たれる。風流を慕ひわざわざ爾に嫁ぎに来たれり。
（正末）おんみはもともと妓館の猱児ならざりしかば、わが佛門の弟子たるに堪ふ。
（唱う）
【水仙子】われはもともと廬山の長老、あたかも堂に昇りたるなり。
（旦児）それがすなわち東林寺。
（正末が唱う）しかれども、普救寺の鴬鴬[149]が、道場を鬧がしにきたるなり。
（旦児）出家せしおんみは唐の三藏に及ぶことなし。
（正末が唱う）おんみは言へり。出家せしわれはかの西天に往きたる唐の三藏に及ばずと。そもそもおんみは曲江の頭なる黄四娘なり。
（旦児）わたくしは、堅い心でおんみを招き、新郎にしようと思っておりまする。
（正末が唱う）おんみは言へり。堅き心でわたしを招き、新郎となさんとせりと。
（旦児）方丈に留まりたまへ。ともに洞房にしゆかん。
（正末が唱う）われを方丈にし留め、ともにかの洞房にゆかしめんとす。
（言う）和尚が婿となることはない。
（唱う）わたくしは「帽子はてかてか」にはあらず[150]。
（旦児）天香[151]は妓館に久しく埋もれど、東林寺にこそ栽うべけめ。
（正末）牡丹をこちらに移せば、いつになっても蓮台に上れまい。（唱う）
【落梅花】おんみ素魄[152]はいと媚しく、慧心[153]は百和香[154]。さらに魏紫姚黄[155]にしぞ勝れたる。
（旦児）牡丹の花は摘んできて、胆瓶[156]に活けるべきです。
（正末が唱う）おんみは言へり。牡丹の花を摘みきたり、胆瓶にしぞ活くべきと。やめよかし、やめよかし。浅く斟ぎ、低く唱ふも徒ならん。
（旦児）花街柳陌を離れて、娼妓とならないことを願いましょう。
（正末が唱う）
【風入松】なれは花街柳陌をば離れ、娼とならじとぞ言ふ。
（旦児）一心に賤業を棄て、落籍しようと思います。
（正末が唱う）一心に賤業を棄て、落籍せんとす。
（旦児）心より山法師なるおんみに改嫁せんことを願ふなり。
（正末が唱う）心よりこの山法師に改嫁せんことを願へり。げにやかの画堂の中はことさらに風光しきなり。汝はあきらかに禅機を問答せしかども、われがひそかに春色を封印したることを知るなし。
（旦児）はたしてまことの僧であった。あのひとをやっつけることはできない。師父さま、どうか金刀を一柄借してくださいますよう。剃髪し、尼となり、師父さまに従って、出家しましょう。
（詩）廬山の出世[157]の僧を拝して、一心に佛に向かひ苦行せんとす。鶯燕[158]をしきりに来往せしむることなく、塵中に孽名を掛くることなし。（退場）
（東坡）わたしの牡丹は、あのものを誘惑しようとしたのだが、度脱され、出家してしまったぞ。わたしはふたたび禅問答をしにゆこう。あの和尚めが。あな惜しや、窈窕かな巫山の娘の、夢魂にて禿襄王[159]に嫁したるは。
（正末）堂上の老師は答ふる語なく、坐中なる狂客は柔腸をしぞ悩ませる。
（四友が登場）
（梅）わが師父に申し上げます。紅梅はわざわざ禅問答をしにまいりました。
（正末）はやく言われよ。
（梅）玉の骨、氷の肌は誰にしぞ比ぶべき。寂寞たる前村の深雪の裏[160]。
（正末）ただ愁ふ｡昨夜夢中の魂の、一枝の春の消息を漏らせるを。
（竹）わが師に申し上げまする。翠竹がわざわざ禅問答をしにまいりました。
（正末）はやく言われよ。
（竹）冷気虚心[161]は琴瑟に效ひ、泪を灑ぎ、斑と成り、憔悴して死す[162]。
（正末）東坡は余計なことをして、ほんとうの君子ではないだろう[163]。
（桃）わが師に申し上げまする。夭桃は禅問答をしにまいりました。
（正末）はやく言われよ。
（桃）粉の腮、香の顔に、淡やかに紅を匀り、劉郎を賺きて洞中に入れしことあり。
（正末）これより桃花は実を結ぶことを貪り、あやまちて人をして五更の風を恨ましめたり[164]。
（柳）わが師に申し上げまする。嫩柳がわざわざ禅問答をしにまいりました。
（正末）はやく言われよ。
（柳）路に傍ひ、溪に臨むも、長からず、秋されば蕊を落としてさらに衰ふ。
（正末）惜しむらくは、南海の観音柳[165]の、昨日の夜、折られて東坡の手に入れる。
（東坡）お尋ねしますが、四人の娘さんはどちらのお方なのでしょう。ご姓とお名は。
（正末）酒は冷め、灯は残はれ、月影なかば昏くして、名花傾国ともに殷勤。武陵の溪の畔にて相識りしかど、本日は佯りて人を認めず。（唱う）
【川撥棹】想ふに昨夜、玉春堂にて、東坡とともに賞でしことあり。この竹影は悠揚として、この柳葉は芬芳たりき。これなる梅花は馨香しく、これなる柳絮は顛狂しかりき。われらは伎倆を欲しいままにし、ことさらに汝を惑はしたりき。
（東坡）わたしはすでに酔いました。ほんとうに四人の娘のことは存じておりませぬ。
（正末が唱う）
【七弟兄】汝は酔郷にありと言ひたり。
（東坡）夢を見ているのでしょう。
（正末が唱う）今度は夢郷にありと言ひたり。かばかりにひどく狡猾なるものぞなき。昨夜は喜孜孜として灯下に寄り傍ひたりけるに、本日は假惺惺[166]として堂上に行藏[167]を問ふ、しかれどもおんみは困騰騰としてたえて嬌姿を記憶せず。
【梅花酒】ああ、なれはかねてよりいささかの技痒[168]あり、かねてよりいささかの技痒あり。夜はまさに静かに長く、月の貌、花の龐、玉液と瓊漿を飲む。おのおのが歌へる喉を逞しうして歌は婉転、おのおのが舞ふ袖を垂らして舞ふこと郎当たり[169]。劉伶のごとくせしむれば、いかでか酒量を惜しむべき、李白のごとくせしむれば、いかでか詩章を愛しむべき[170]。周郎[171]のごとく宮商を奏でんとして、宋玉のごとく高唐に赴かんとす。
【收江南】ああ、これこそは、主人の情の厚くして、紅妝を出だしたるなれ。司空の見慣れ[172]、尋常なることのなどてかあるべけん。坐中の狂ほしき客は柔腸をそぞろに悩ませ、一言一言受け答へ、一言一言受け答へしたれども、一曲の『満庭芳』をたえて離るることぞなき。
（東坡）佛印はかねてより人を嘲ること多かれど、花枝に俊俏をぞひけらかさるる。
（正末）銀燭を高く焼き、紅妝を照らしたれども、灯光はみづからを照らすことなし[173]。
（東坡）はたしてまことの僧であった。あのひとをやっつけることができなかった。蘇軾は今から懺悔して、拝礼し、佛家の弟子となることを願いましょう。
（正末）学士どの、お楽になされよ。
（行者）わが師に申し上げまする。行者がわざわざ禅問答をしにまいりました。
（正末）はやく言われよ。
（行者）牡丹を抱きしめることは、蓮台に坐するのに勝ります。師父さまが咳をしたので、徒弟はすぐにまいったのです。
（正末）痴迷の性は改まり、すこしも顧みることぞなき[174]。色即是空、空即是色。
（唱う）
【鴛鴦煞尾】これよりは、人相我相衆生相、生况死况別離况をぞ識破せん。とこしへに繁華を謝して、甘んじて凄凉をしぞ守るべき。げにやげに、即色即空、無遮無障なり。いともをかしや。東坡さへ、春心を動かししことを悔ゆるは。蓋世の文章[175]を持ちたることもあだにして、佛印禅師のしばらく講義するを聴くなり。
最終更新日：2010年11月10日