楚昭公疏者下船雑劇
鄭廷玉撰
第一折
（冲末が呉王に扮し、兵卒をつれて登場、詩）太伯は、そのむかし、身を引きて、今も子孫は呉の地にぞある。延陵[1]は、何事ぞ、高潔の風を慕ひて、わが家を継ぐことぞなき。
それがしは、呉王闔廬、名は姫光ともうす者。その昔、越国を征伐した時、宝剣三振りを手に入れた。一つは魚腸、二つは純鈎、三つは湛盧。それがしは、つねにこれらを帯びていた。この剣は、その昔、越国の允常が欧冶子に製作させたものだとのこと。五山の鉄の精を採り、六合の金の気を鍛えると、それに感じて、雨師は塵をば潤して、雷神は節を撃ち[2]、蛟龍は炉を捧げ、天帝は炭を焚かれた。天地を伺い、陰陽は体を同じうし、やがて功を成し遂げた。これを帯びれば威力があり、これを用いれば敵はなく、まことにこの世の奇すしき宝。ずっと倉庫に收めていたが、湛盧はたちまち行方知れずとなってしまった。この剣は、楚国に飛び入り、昭公に收められたとか。それがしは、しばしば人を遣わして、金帛を多くして、求めたが、昭公は返そうとせぬ。ただではすまさぬ。部下よ、孫武を呼んできてくれ。
（兵卒）心得ました。孫武よ、いずこぞ。
（外が孫武子に扮し登場、詩）新しき十三篇の書物を著し、それぞれの兵法は、玄妙の域に達せり。君王は信ぜられずに、みづからこれを試さんとしたまひて、宮中の女子三千を賜はれり[3]。
それがしは孫武と申し、もともとは斉国の者なれど、兵法を知りたるにより、呉王に見えり。女兵数千を教練し、かれらを水火のなかに駆れども。逃れんとするものぞなき。こはすべてそれがしの号令の厳しきによれるものなり。兵法に「軍令の明らかならず、命令の行き渡ることなきは、将の罪なり」[4]といふ。命令の明らかなるに、従はざるは、吏士の罪なり。軍令がよく行はるれば、君命も受けざることあり[5]。
それがしは今、呉国の大将をしている。主君が呼んでいらっしゃるから、行かねばなるまい。部下よ、取り次いでくれ、孫武がきたとな。
（兵卒が報せる）軍師さまのご到着です。（会う）
（孫武）王さまがわたくしを呼ばれましたは、どのような相談にございましょうや。
（呉王）ひとまずあちらにいるがよい。部下よ、伍子胥、伯嚭を呼んできてくれ。
（兵卒）伍子胥どの、いずこにいられる。
（外が伍子胥、浄が伯嚭に扮し、ともに登場）
（伍子胥の詩）千里の道を、楚を棄てて帰し、短簫をよく市中にて吹く。憐れむべし、英雄の志をば遂ぐることなく、その昔、鼎を挙げし力をば徒にしたるを。
それがしは姓は伍、名は員、字は子胥、今は、呉の相国となっている。こちらは伯嚭で、ともに楚の人。それがしは、費無忌に讒言されたため、わが父と兄を殺され、やむをえず、楚を棄てて、呉に投じ、報復を企んでいたところ、伯嚭も呉国に身を寄せてきた。一つには、同郷であり、二つには、いずれも仇を避けているため、朝廷に推薦し、太宰の職に就かせた。本日は王さまがお呼びだが、何事だろうか、行かねばなるまい。部下よ、取り次いでくれ、伍員、伯嚭がまいりましたと。
（兵卒が報せる）相国さま、太宰さまが来られました。（会う）
（伍子胥）王さまが呼ばれましたは、どのようなご相談にございましょう。
（呉王）軍師どの、なんじら諸将を呼んだのは、ほかでもない。宝剣湛盧が楚の国に飛び込んだためなのだ。それがしはしばしば人を遣わして、金帛を多くして求めたが、返そうとせぬ。これより軍師、諸将を呼んで相談するが、どうすれば、宝剣を、手に入れることができよう。
（孫武）王さま、湛盧の剣は、越国の欧冶子により作られたものと聞いております。鉄を斬り、石を断ち、水を断ち、吹きつけた毛をも切る、無価の宝でございますから、取らぬわけにはまいりませぬ。
（伍子胥）王さま、今、楚には、二人の将軍、子期と子常がおりまする。子期は清廉で、兵士を愛し、兵法を弁えておりますが、いかんせん、知恵はあっても勇気は少のうございます。子常は権勢を頼りにし、驕り高ぶり、兵士を惜しまず、勇気はあっても知恵は少のうございますから、いずれも心配なさるには及びませぬ。それに奸臣費無忌が権力をば握り、きっとひそかに讒言し、かのものたちを用いてはおりますまい。王さま、まず人を遣わされ、宣戦布告の手紙を送られてはいかがでしょう。その後で、兵を率いて征伐するのに、何の造作がいりましょう。
（伯嚭）楚の昭公が、老いぼれ費無忌を用いて対陣するのなら、伍相国どのが力を尽くされる必要もございますまい。わたくし伯嚭が、かならずやかれと闘い、尿を流し、屁を嚔らせましょう。
（呉王）相国どのの言うことは尤もじゃ。わたしは今から人を遣わし、宣戦布告の手紙を送らせ、孫武を軍師、相国どのを先鋒として、四十万の精鋭を引き連れて、あのものと交戦していただくとしよう。くれぐれも用心し、功を成し遂げ、還られよ。
（伍子胥）本日は、王さまに、別れを告げて、練兵場にて、四十万の精鋭を集めたり。一つには、楚の昭王がわれわれの宝剣を手に収め、返さないため、二つには、費無忌にわたしの父、兄を害された仇があるため、誓って報復せねばならぬ。かならずや、馬にて到り、功を成し遂げ、凱歌を奏でて戻りきたらん。
（詩）楚を棄てて、呉に奔りてより幾年ぞ、憐れむべし、いまだなほ怨みを雪がず。本日は、雄兵を率ゐて進み、奸臣を斬らずんば、誓ひてやまじ。（ともに退場）
（呉王）軍師は相国、太宰と三人で行ってしまった。この一戦で、かならずや楚を破るであろう。
（詩）伍相国の、智勇に並ぶものぞなき。馬にて到らば、なんぴとか、あへて阻まん。郢城を踏みにじり、平地にし、湛盧を取りて、呉の国に帰るべし。（退場）
（正末が楚昭公に扮し、外が扮した羋旋とともに兵卒をつれて登場）
（正末）それがしは楚の昭公。幾年か前、まさに寝ぬるに、たちまちに、一声の響きを聞けり。たちまちに、白き光は、部屋を照らして、爽やかなる気は、人に逼れり。驚きて起ち、これを見たれば、一振りの宝剣が、榻に墜ちたり。朝臣にあまねく問へど、その来歴を測り知るものぞなかりき。司馬子期は、隠士風胡子が、この剣をよく知りたりと言ひたれば、呼び寄せて、見しめしところ、風胡子は「この剣は、湛盧と呼ばれ、越国の允常が欧冶子に鋳しめしものにて、その後に、呉のものとなりしと聞けり。この剣は、五金[6]の英、太陽の精なれば、これを帯ぶれば威力あり、これを用ゐれば敵はなく、世にも希なる、奇すしき宝にございます」とぞ申したり。それがしは、それを聞き、大いに喜び、身に帯びて、やすやすと離ししことなし。しかれども、呉王闔廬は、しばしば人を遣わして、これを求めり。それがしは、返さんとせざりしかども、呉国はまさに強ければ、もしもふたたび求めきたらば、いかんせん。
（羋旋）兄上、想いみますに、この剣は、もともと呉国の宝にて、先方が求めてきたのでございますから、贈り物とし、送り返して、両国が仲良くすれば、まことに宜しゅうございましょう。
（正末）弟よ、そなたは存じておるまいが、この剣は並大抵のものではないぞ。わが国にやってきたのも、天の然からしめるところ、どうしてかれに与えられよう。（唱う）
【仙呂点絳唇】この剣は、氷刃は霜の寒さにて、玉華[7]は光と輝けば、孜孜として看る。なにゆゑぞ、坐榻の間に、飛びきたりたる。まことに紫気は霄漢を衝く。
（羋旋）兄上、これはまことに優れたるものなれど、一振りの剣にすぎませぬ。奇すしき光が牛斗[8]の上を射るはずはございませぬ。風胡子を信じてどうなさるのですか。
（正末が唱う）
【混江龍】この剣は、まことに奇すしきものなれば、世の人の、等閑に視ることはなからん。英英と錆を結びて、湛湛と斑を生ぜり。この剣は、もともとは、東方にあり、百越を平らげしかど、今日は南国に飛来して、荊蛮を鎮めんとせり。この剣は、陰陽の運行に従ひて、天地の循環に順へり。耶溪[9]の水に銅を取り、赤董[10]の山に錫を取りたり。雷雨を下し、塵滓を溶かし、神鬼が炉をば守りたり。この剣は、精霊を抱き、爽気は多く、神威を助け、憂へを避けて、恐れを絶ちて、難を除かん。今、河は清くして、海は穏やか、国は平らか、民は安らか。
（使者が登場、詩）人はゆくこと、星の馳せたるかのごとく、長江は天のごとくに大いなる濠を隔てり[11]。一通の手紙をみづから捧げもち、千金の剣を求めきたるなり。
わたしは呉の使者。王さまの命を奉り、楚の国へ、宣戦布告の手紙を届けにゆくところ。はやくも着いたぞ。兵士よ、取り次いでくれ。呉の使者が入り口におりますと。
（兵卒が報せる、）大王さまにお知らせ申し上げまする、呉国の使者が目通りを求めております。
（正末）呼んでくれ。
（使者が会う）
（正末）使者どの、いかなるご用で来られたのかな。
（使者）わたしは呉から来た使者にございます。手紙はこちらにございます。
（正末）手紙をわたしに見せてくれ。一振りの剣を与えなかったため、はたして宣戦布告書を送ってきたが、どうしよう。（唱う）
【油葫蘆】呉国の姫光とひさしく顔を合はせしことなし、
（羋旋）兄上、宣戦布告の手紙を送ってきたのなら、わが方は、将士は多く、人馬は強く、呉国の姫光は、大したものではございませぬから、恐れることはございますまい。
（正末）わしは姫光を怕れぬが、あのものは恐ろしいのだ。
（唱う）かの伍盟府[12]の天下に罕なることを恐れり。
（羋旋）思うに子胥は、英雄などではございませぬのに、兄上は、そのように、あのものを怕れるのですか。
（正末が唱う）あのものは、人の世の良才奇宝なるぞかし。安否を尋ぬる書簡を送りきたるかと思ひしが、そもそもかれは、激戦を期し、文書をぞ呈したるなる。
（羋旋）伍子胥にはたいへんな力量がありますが、われらには、険しき山と、大いなる長江がございますから、伍子胥でも、やすやすと、わが国に来ることはかないますまい。
（正末が唱う）言ふなかれ、大いなる山川を隔てりと。波涛の滾滾たる長江があらんとも、もしも敵するものなくば、戦はまさに難からん。
（羋旋）兄上、その昔、わたくしに従われ、早々に、この剣を送り返されていたらば、今日のようなことにも、なることはなかったのです。事こここに至ったからには、諸官を集め、相談するにしくはござらぬ。名将を一人推挙させ、兵を率いて、伍子胥と交戦させれば、宜しゅうございましょう。
（正末が唱う）
【天下楽】ああ、悪しき言葉もて人を傷つけ、六月の寒さのごとく[13]、はしなくも、わたしに剣を還さしめんとす。今となりては悔ゆるも遅し。択士宮、拜将壇はありながら、抜群の楚の人材はいづくにかある。
（言う）もともとは、このものを、殺そうと思うていたが、昔から、「二つの国が戦うときに、使者を斬ってはならない」という。帰ったら、日を選び、交戦せよと言うがよい。
（使者）心得ました。この門を出るとしよう。長居するわけにゆかぬ。王さまにご報告しにゆこう。
（詩）楚の昭公は、まことに怒り、わが血を太鼓に塗らんとしたり。堂堂たる使臣は恐るることなきも、伍家の盟府は防ぐべきなり。（退場）
（羋旋）使者は行ってしまいました。兄上、宣戦布告の手紙にはどのようなことが書かれておりますか。
（正末）宣戦布告の手紙には、このように記されている「孫武を軍師、伍子胥を元帥、伯嚭をば先鋒となし、四十万の兵を率ゐて、なんじらと交戦せん」と。いかんせん、わが国は、将は老い、兵は驕れり。どうしたらいいだろう。
（羋旋）兄上、昔から、「軍が来たらば防ぐべし、水が来たらば堰きとむるべし」ともうします。われらには司馬子期、子常、申包胥がおり、いずれも南楚の有名な将軍にございますから、呼んできて、かれらと相談なされれば、よろしいでしょう。
（正末）弟よ、そなたは存じておらぬのだ。
（唱う）
【那吒令】朝堂に端坐して、英才たちを集むれば、臨潼会の比にあらず。
（羋旋）伍子胥がそのかみ、臨潼会で、どのように英れていたか、わたしにお聴かせくださいまし。
（正末が唱う）かやうなる義士、英傑はいづこにかある。かれが鼎を擡げしは、おそらくは、神の力によるものならん。
（羋旋）兄上、想えば、秦国は、文臣に百里奚、武臣に姫輦がおりましたのに、どうしてかれらが子胥に及ばず、子胥が盟府となったのでしょう。
（正末が唱う）
【鵲踏枝】かのものは、秦の姫輦を驚かし、いかでかあへて阻むべき。百里奚は目を見張り、ひそかに看るのみ。かのものは、宝を競ふ宴にて、剣を持ち、刀を振りたり。
（羋旋）あのものは、その昔、臨潼で、姫光の難を救ったことがあったとか。[14]こたび呉に身を投じ、楚を伐つは、当然のことにございます。
（正末が唱う）呉国の姫光が温凉玉盞[15]をば砕きしはいふまでもなく、秦の公子は、ぺこぺことして、潼関に諸侯をみづから送り出だせり。部下よ、申包胥を呼んできてくれ。
（兵卒）申包胥はいずこぞ。
（外が申包胥に扮し登場、詩）憶えば伍員と別れし時に、かのものは楚を転覆せんとし、われは楚を復興せんとす。思ひ起こせば、すでに数年余を隔て、過ぎにしことは、今やみな、土のごとくに棄てされり。
わたしは申包胥、上卿の官職に封ぜられている。春秋の世に、わが国は強楚と称され、中国の盟主となりて久しかりしも、伍子胥が去りて、わが国の弱きをはじめて覚えたり。本日は、王さまがお呼びだが、何事だろうか。行かねばなるまい。部下よ、取り次いでくれ、申包胥が入り口におりますとな。
（兵卒が報せる）申包胥さまが来られました。
（申包胥が会う）王さまがわたくしを呼ばれましたのは、いかなるご相談にございましょう。
（正末）こたび、呉国が宣戦布告の手紙を送ってきたのだが、孫武を軍師、伍子胥を元帥、伯嚭をば先鋒として、四十万の兵を率いて、われわれと決戦しようとしているので、わざわざ大夫どのを招いて、相談するのだ。どのように対応したらよいだろう。
（申包胥）王さま、われらが国には、司馬子期と子常の二人の将軍がいるのみにございます。子期には知恵はあるものの、勇気はなく、子常は勇気はあるものの、知恵はなく、もしも呉が、孫武を軍師、子胥を元帥に任じれば、攻撃を防ぎきれませぬ。
（正末が唱う）
【寄生草】かねてより言ふ「千軍を得るは易きも、一将を求むるは難し」とぞ。閑なる時は、ことさらに忠臣を侮りて、過てる時は、忠臣の諫めを聴かず、危ふき時は、忠臣の働かんことを求めり。呉を借りて、恨みを雪ぐ伍将軍を誰か阻まん。周を扶けし摂政の姫公旦をば求むべし。
（申包胥）王さま、もし子胥が兵を率いて進んできても、けっしてかれと交戦されてはなりませぬ。溝を深くし、壁を高くし、お城を堅く守られますよう。わたくしがただちに秦に赴いて、かなたの兵を借りてきて、内と外から挟撃すれば、勝つことができましょう。
（正末）おそらく秦の昭公は、わたしに兵を貸そうとはしないであろう。どうしたらいいだろう。
（申包胥）王さま、想うに秦と楚は、もともとは親戚の邦なれば、かならずやわれらに兵を貸しましょう。疑われるには及びませぬ。
（正末が唱う）
【幺篇】急ぎ帰るを思ふべし。行く路の険しきを言ふなかれ。船は古びし渡しなる、枝垂れ楊の岸に臨みて、路は険しき邛郲坂[16]を経、連雲桟にて痩せ馬に騎るにぞ過ぎざる。
（申包胥）国難を解かんとするに、いかでか旅路の労を避くべき。
（正末が唱う）遥けき山河、三千[17]の路をば辞することなかれ。われはなんぢが堅き鎧と鋭き刃の兵十万を動かすをもつぱら待つべし。大夫どの、御身は旅立ち、いつ戻ることができるのか。
（申包胥）王さま、わたくしは、一月したらすぐ戻りましょう。
（正末が唱う）
【金盞児】一月で、兵を借り、戻りきて、三十日で吉報を報ずると申したり。ただ願はくは、朝に発ち、暮に宿るを憚ることなく、われを愁へしむることなきを。看よ、風は金柝の遠きを伝へ[18]、霜は鉄衣の寒きを照らせり。
（申包胥）王さま、ご安心なさってください。秦の昭公にまみえましたら、軍馬を借りて、ただちに戻ってまいりましょう。
（正末が唱う）なにゆゑぞ、賢人を敵国に投ぜしめたる、かの猛將[19]が昭関を過ぐるを恐れたればなり。
（申包胥）呉の孫武子は、兵法を深く弁へ、さらに伍子胥も加はれり。わが国に、かれらに勝り得る者はなし。わたくしが去りし後、ただ願はくは、王さまの防備を固め、戦はれずに、秦の兵士を待たれんことを。一時の言葉を聴かれ、むざむざと万全の策をな失ひたまひそね。
（正末が唱う）
【醉扶帰】伍盟府は剽悍にして、孫武子も非凡なるものなれば、壁を高くし、溝を深くし、防備を固め、秦より還るをもつぱら待てと、そなたは申せり。わたしはそなたが疲れ果て、ぐづぐづとして期限を過ぐることを恐れり。
（申包胥）今日は王さまにお別れし、長旅をしなければなりません。
（正末が唱う）
【賺煞】そなたが去らば、このわしは、夜に憂へて朝に到り、朝に憂へて夜に到らん。秦の公子に侮られんとも、怒りをすべて鎮むべし。くれぐれも体面を潰すことなかれ。金鼓旗幡[20]を借りたる時は、旅路の労をねぎらふ酒を、喜んで餞別の盞とせん[21]。
（申包胥）王さま、わたしが旅立ち、秦の兵士を借りてくることができたら、伍子胥はおそらく前後から敵に攻められ、かならずや、軍備を解いて帰りましょう。
（正末）秦兵を借りることができたら、
（唱う）その時は、呉の兵はおのづと退き、楚の城に患へなからん、別るるは易くして、会ふことの難きを恐れり。（退場）
（申包胥）お二方、しっかり覚えておかれてください。伍子胥が兵を率いてきたら、浅はかな費無忌の意見を、聴かれてはなりませぬ。伍子胥と闘おうとすれば、大事を誤ることでしょう。本日すぐさま秦国に、軍隊を借りにまいりましょう。
（詩）千里にわたり、征塵は暗くして、秦に行き、援軍を借りんとす。
（羋旋の詩）家貧しくして孝子は現れ、国危ふくして忠臣を知る。（ともに退場）
第二折
（浄が費無忌に扮し登場、詩）善人をわたしは害し、悪人をわたしは愛せり。わがものはすこしも人に与へざれども、他人のものはただで奪へり。
わたしは費無忌、楚の上大夫の職にある。王さまの命を奉り、将帥となり、呉国の伍子胥と敵を阻めり。かのものの父兄さえ、わたしに殺されたりしかば、逃れたる、死にぞこなひの馬鹿者は、何の力もなかるらん。わたしはまさにあのものと闘はんとし、あのものを恐るることなし。
（詩）わが力量は、はなはだ誇るべきものにして、子胥はもともとわが仇人なり。巨斧に頭を割られずば、お碗ほどの、大きな瘡を結ぶべし。（退場）
（伍子胥、孫武、伯嚭が兵卒を率いて登場）
（伍子胥）それがしは伍子胥なり。兵を率いて、楚を伐ちて、今すでに郢城に到らんとせり。大小の三軍は、陣勢を並べたり。はるかに塵土の起こる処は、楚国の軍馬の来たるならん。
（正末が羋旋、費無忌とともに兵卒を率いて登場）
（正末）それがしは楚の昭公。大小の三軍は前陣を射て、それがしと二公子[22]は、将台[23]の上へ行き、費無忌と伍子胥の決戦を見るとせん。（唱う）
【越調闘鵪鶉】かのものは、樊城に走りしときは[24]、いまだ紅顔なりしかど、昭関を過ぎたるときは、すでに皓首と相なれり。思ふにかれは、暮景は蕭蕭[25]たるものなれども、相も変はらず、雄威は赳赳[26]。かのものはもともと楚国のことを気に掛け、とりあへず呉の兵を借り、操れり[27]。こたび、太宰伯嚭はあへて先駆けし、孫武子は殿軍となる。鞭を投げ、長江を断ち、嚢の中を探るがごとく、われわれの夏口[28]を占領せんとせり。
【紫花児序】かのものは、積年の怨みを抱き、蓋世の才名に倚り、昔のことを質しにきたれり。ただ見れば、征塵は散ずることなく、殺気は蕩ふかのごとし。颼颼と、四方には、寒風がとめどなく吼ゆ。おそらくは、これもまた、結ぶ怨みの深ければ、とんとんと鳴る鼙鼓の魂を驚かし、ぎらぎらと輝ける剣戟の、眸をば侵せるならん。
（伍子胥）将軍よ、そなたはもしや費無忌ではあるまいか。
（費無忌）その通り、そなたは何もの。
（伍子胥）それがしは伍子胥なり。父兄の仇には、本日報いなければなるまい。すみやかに馬を下り、殺してくれと申すがよい。
（費無忌）そなたは大したことはあるまい。ひとまずそなたと三百回闘おう。
（陣形を変える）
（正末が唱う）
【調笑令】なんぢは悪しき行ひをなし、父兄[29]の仇を結びたり。敵は必ず逢ふものなれば、本日は、戦の場に、争ひて馳す。費無忌よ、そなたは愁ふべし。かのもの[30]は、汝が心肝を抉りとり、汝が首を晒さんとして、いかでか罷むべき。
（伍子胥）馬を出せ。馬を出せ。（戦う）
（正末が唱う）
【小桃紅】かのものは、旗門が開くや、駿馬を躍らせ、高らかに「なんぴとか、あへて来たりて、このわれと闘はん」とぞ叫びたる。わが方の千軍万馬は、ことごとく驚き走り、にはかに收むることこそ難けれ。かやうなる威風はこの世のものなりと信ずるを得ず。押しよせたれば、矛を抛ち、漲れば、空を覆へり[31]。こは剣の気が天上の牽牛星に連なりたるにや。
（費無忌）こわっぱは、まことに無礼。先輩と後輩のあることを省みぬとは。そなたの親爺の伍奢さえも、わたしには謙ったぞ。
（伍子胥）本日は、老いぼれを捕まえて、骸を万に切り刻まずば、誓って軍を収むまじ。（戦う）
（正末が唱う）
【金焦葉】錦征袍は獅蛮[32]をばゆるく包みて、鳳翅盔[33]は紅纓をばみだりに動かす。点鋼槍[34]は黄幡を荒々しく引き、鉄胎弓[35]は雕翎[36]をしかと嵌めたり。
【天浄紗】かれら二人は、いづれも顔は凶悪にして、武藝に長けたり。かならずや、惨く戦い、神を哭かしめ、鬼を愁へしむることならん。戦半ばで、一方は、はやくも負けを喫したり。
（言う）ああ、費無忌は負けたり。（唱う）
【禿厮児】ただ見るは、馬の嘶き、人とともにぞ倒れたる。槍もて突けば、鮮血は流れたり。げにこそは南冠を戴ける楚囚なれ[37]。双方の力は等しからざれば、闘ふことを罷むとせん。
（費無忌）あいつにはかなわない。逃げるのがよいだろう。逃げろや逃げろ。
（伍子胥）老いぼれめ、どこへゆくのだ。（追う）
（正末が唱う）
【聖薬王】そなたは敵手にはあらず。大口を叩けども、戦が酣なるときに、還らんとせり。かのものを、逃がすわけにはゆかざれば、ぴたりとつきて追ひ掛けり。闘ひて、我が方の人は死に、馬は倒れて、丘となり、秋の葉の、ことごとく落つるがごとし。
（伍子胥）はや老いぼれを捕らえたり。大小の三軍は、突撃し、楚王をな逃がしそね。（退場）
（羋旗）兄上、わが兵は大敗しました。わたくしは兄上を守って逃げるといたしましょう。
（正末が唱う）
【收尾】目を睜り、死なんとしたる人を見れども、救はんとする人ぞなき。敗残の身を、天の加護せんことを祈らん。呉の兵を借りたる伍相は、存分にその強さをぞ示したる。
（羋旋）申包胥の援軍が到着すればよいのだが。
（正末が唱う）はるかに望む、楚国を復興せんとする、包胥のしばしこらへて守るを。（ともに退場）
第三折
（龍神が鬼卒を率いて登場、浄）長江は浩浩として霊威を顕し、風と浪、孤舟は誰かあへて行くべき。危ふき時に救ひなば、神明の在しますことをはじめて悟らん。
わたくしは漢江の龍神で、万里の長江を掌管している。楚の昭公と弟と妻と子の四人が、明日ここにきて、一隻の漁船に乗って、長江を渡り、難を逃れる。明日は折しも四耗九醜[38]の日だから、大いなる風が起こって、みな溺れ死ぬはずだ。上帝さまの勅令を奉り、入水したものは、救って岸に至らせよう。今、ここで待っているが、そろそろかれらがやってくることだろう。
（丑が船頭に扮し登場、歌を唱う）月落ちて烏啼き霜天に満ち、江楓漁火は愁眠に対したり。わが家では船頭と女房のわづか二人で、五人の倅、二人の娘をまうけたり。一人のものが尿せば、六人は眠ることなし。七人は一斉に尿して、板子の上で、棹をさしたり。ゆるゆると姑蘇城下寒山寺へと棹させば、夜半の鐘の音は客の船に到れり。
わたしは船頭、日ごとこの川辺にあって、魚を捕らえて暮らしている。本日は、風は静かに、波は穏やか、この船に棹さして、ゆっくり魚を捕りにゆこう。
（正末羋旋、旦、子役とともにあわてて登場）
（正末）弟よ、逃げろや逃げろ（唱う）
【中呂粉蝶児】兵の東呉に起これるを聴きしのみにて、ぶるぶると、胆は戦き、心は惧れ、三たびも戦はぬうちに、敵は王都へ押し寄せり。わたしは驚き、あたふたとしたれども、活くる路なし。あやにくに、望む眼は、ぼんやりとして、遥かなる西秦からの援軍を見ず。
（旦）大王さま、後ろから、呉の兵が、追い掛けて、迫ってきました。われら母子に構われず、弟君と、お命を保たれますよう。
（正末が唱う）
【酔春風】妻子は瑟と琴のやう、兄弟は手と足のやう。
（羋旋）義姉と甥をいかでか見棄つべき。
（正末が唱う）われわれ一家四人は、路を急ぎて、まことに苦し。などかよく干戈を収め、宮居に帰り、民草を安んずべけん。
（羋旋）兄上、われらが申包胥と伍子胥とは、もともとは友人にございます。二人はかつて賭けをしたことがあり、一方は、楚国を転覆しようとし、一方は、楚国を復興しようとしました。われらが申包胥が兵を借りてくることができれば、かならずや呉の兵を退けて、楚の国をふたたび安んずることでしょう。
（正末が唱う）
【迎仙客】一方は怨みに報いて願ひを叶へたる伍子胥、一方は誓ひを立てて去りゆきし申包胥、いづれの時にか危難を救ひ、また楚の国を興すべき。あたふたと辛くも逃れ、あたふたと甘んじて苦しみを受く。
（内が喚声をあげる）
（正末が唱う）後ろでは、がやがやと兵士が動けり。
（羋旋）兄上、追手が迫ってきました。行く手はさらに大江に隔てられ、江水は漲って、渡るに船がございませぬが、どうしたら宜しいでしょう。
（正末が唱う）行く手には、野の川が滾滾として、渡す人なし。
（羋旋）兄上、岸辺には一隻の漁船があります、一声呼ぶといたしましょう。船頭よ、今すぐ船を寄せてくるのだ。そなたに褒美を取らそうぞ。
（船頭）まいりましょう。まいりましょう。
（羋旋）船頭よ、そなたの船で、われら四人に、長江を渡らせてくれ。岸に着いたら、たくさんの船賃をとらそうぞ。
（船頭）お客さま、船は小そうございますから、渡せませぬ。
（正末が唱う）
【紅繍鞋】やむをえず、漁父のそなたに頼むなり。
（船頭）載せるのか、載せないのかは、わたくしの勝手です。
（正末が唱う）このやうに勿体をつけ、何とする。わしはそなたと同郷ぞ。
（船頭）同郷でございましょうとも、どうか皆さま、風と川とをご覧下さい。ほんとうに船は小さく、皆さまを載せられぬのでございます。
（正末が唱う）なんぢは言へり。「舟は小さく、載するは難し」と。願はくは、大いなる度量をもちて、わたしの家族を救はんことを。すみやかに長江を渡れかし、ぐづぐづとすることなかれ。
（羋旋）船頭よ、わたしの兄は楚の昭公で、呉の兵に追われて近くにやってきたのだ。もしもわれらを渡してくれれば、楚の国が平和になった暁に、そなたを三品官に封じて、千金を賜うことにしよう。魚を捕らえて暮らすよりずっとよかろう。よく考えよ。
（船頭）どうしてはやくおっしゃってくださらぬのです。昭公さまでございましたら、わたくしは、管下の民でございますから、どんなに船が小さかろうと、お載せするしかございますまい。お乗りください。お乗りください。
（羋旋）兄上、舟に乗られてくださいませ。
（衆が舟に乗る）
（船頭）お気を付けくださいまし。舟は小そうございますが、みな腰掛けることができます。ご覧下さい、かばかりに遥かなる江の水面を。いつになったらむこうの岸に辿りつき、ご安心できますのやら。
（正末が唱う）
【石榴花】ただ見るは、白波の天の隅にぞ接したる。これぞまさしく、海のごとくに大いなる洞庭湖なり。
（船頭）わたくしは、載せぬと申しましたのに、あなたがたは、無理やりに、この船に乗ってこようとなされたのです。半里も進まないうちに、はやくも風が起こりました。ご覧下さい。天をも洗うかのごとき大浪は、まことに恐ろしゅうございます。
（正末が唱う）見よ、大騒ぎせる田舎親爺は、いづこにありても悲鳴を上ぐれば、われらは驚き、魂魄は散りうせり。
（船頭）風と浪とは、ますます激しくなってきました。船は小さく、水に浸ってまいりました。縁の薄いどなたかに、今すぐ入水していただければ、船全体の人々の命を救うことができましょう。
（衆が悲しむ）
（正末が唱う）かのものは、縁の薄きものは死すべきなりと言ひたり。四人のうち、いづれか縁薄からん。一家の老いも若きもともに逃がるるのみなり。
（言う）船頭よ、しっかりしてくれ。
（唱う）本日は、なんぢを護身符となさん。
（羋旋）兄上、風と浪とは、ますます激しくなってきました。舟は小さく、重いものを載せるには堪えられませぬ。どうしたら宜しいでしょう。
（正末が唱う）
【闘鵪鶉】弟は気を同じうし、枝を連ぬるものにして、妻と子は、情の多き伴侶なり。
（羋旋）兄上、ご子孫を保たれませ。わたくしを惜しまれることはございませぬ。
（正末が唱う）目を瞠り、弟は兄をぞ見たる。
（旦、子役が悲しむ）
（正末が唱う）悲しげに、子は母に隨へば、わたくしの心は乱れ、楽しまず。
（船頭）一人が入水なされねば、ほどなく船は沈みましょう。
（正末が唱う）かれはまもなくみな死すべしと申したり。
（羋旋）兄上は、義姉と甥の面倒をみてください。わたくしは別れを告げて、入水しましょう。
（正末）弟よ、もしもおまえが入水するなら、
（唱う）なんぴとか、馬を買ひ、軍を招きて、わがためにふたたび武威を輝かすべき。
（船頭）風は狂って、浪は荒れ、みるみる水に浸ってきました。今すぐに、どなたかに、入水していただきましょう。
（正末が唱う）
【普天楽】ただ見るは、ぐらぐらと画船の歪み、くだくだと船頭の騒ぎたる。
（船頭）この風は船を覆し、水が上がってまいりました。もうお一方、入水していただかなければ。全員が死ぬことでしょう。
（正末が唱う）かばかりに険悪なれば、わづかなる間も待つを得ず。
（旦が悲しむ）息子や、そなたのせいでまことに悲しい。
（正末が唱う）子の泣いて悲しみたるは、母親の離れたるため。母親は痛哭し、子を捨てゆけり。ああ。運命を掌る、船頭よ、急きたつることなかれ。にはかには、母子の情は断ち切れず。子の身をば保ちたるのみにして、いかでか夫人の命をば顧みるべき。
（羋旋）兄上、わたしが入水いたしましょう。
（正末）弟よ、待ってくれ。
（唱う）わが弟の衣をしつかと引き止めり。
（羋旋）兄上、船頭は、縁の薄いものが船から下りるべきだと申しております。義姉と甥と兄上は、縁が濃く、わたくしだけは、縁が薄うございますから、入水するべきでございましょう。
（正末が羋旋を引く）弟よ、われら二人は、われら二人は縁が濃いのだ。われらのほかに、縁が薄い者がおる。
（旦）息子や、わたくしはそなたの世話はしてやれませぬ。大王さまは、弟君とは、血を分けられた間柄、わたくしは、別姓で、血縁はございませぬから、入水するべきでございましょう。
（正末）夫人よ、そなたの申す通りだ。（唱う）
【上小楼】汝が名を万古に記さしめ、百歩相隨はしむることぞなき[39]。幼子を残さんがため、義弟に替はり、夫をば救はんとせり。そなたは言へり、一族を共にせざれば、縁は薄く、再婚を妨ぐることなからんと。
（旦）大王さま、お頼み申し上げまする。わたしの息子の面倒をごらんになられてくださいまし。わたしは入水いたしましょう。
（詩）来し方の百年の恩愛[40]をむなしく思へり。波涛のために、漢津[41]に没したり。目の当たりに見る、夫とともに生くるは難きを。むざむざと、幼子を棄て、親子にはあらざるがごときなり。手足はこれより処を同じうするも、夫婦の縁は、誰にか属せん。幽魂は、風に隨ひ去ることはなく、青山に飛び上がり、化身すべけん。（退場）
（龍神）鬼卒よ、ご夫人を、岸へと救い上げるのだ。
（鬼卒）心得ました。
（羋旋が哭く）おかわいそうに、お義姉さま。
（正末が唱う）やがて史書には、新たに節婦が加へらるべし。
（船頭）船はやや軽くなりましたけれども、風と浪とは、いよいよ激しくなりましたから、またお一方、入水してくだされば、助かることができましょう。
（羋旋）兄上、風と浪とはますます激しくなりました。どういたしましょう。船頭は、ふたたび誰かが入水するなら、助かることができると申しておりまする。わたくしは、兄上に別れを告げて、入水しましょう。
（正末）弟よ、われら二人は縁が濃いのだ。われらのほかに、縁が薄い者がおる。
（子役）父上さま、縁の薄い者とはわたしのことですね。
（正末が唱う）
【幺篇】息子よ、われら二人[42]は実の骨肉。
（羋旋）兄上は、甥を残され、わが楚家の後継ぎを、絶やしてはなりませぬ。手を放されてくださいまし。わたしが入水いたしましょう。
（正末が唱う）弟よ、わしとそなたは、父母を同じうしたり。
（子役）父上さま、叔父さんの面倒をよくみてください。わたくしは、お別れを申し上げ、入水しましょう。
（正末）息子よ、そなたの叔父上は、
（唱う）かれとわたしはいつくしみあひ、わたしとかれはいとほしみあふ。そなたはかれより縁は薄し。
（子役が入水する）父上さま、わたしは入水いたしましょう。
（詩）母上は一命を波間に喪ひたりければ、子が長江に飛び込むは易きことなり。地下で相逢ひ、過ぎにしことを語り合ひ、いつの日かまた転生すべき[43]。
（龍神）鬼卒よ、坊ちゃまを救うのだ。
（鬼卒）心得ました。
（正末が唱う）息子よ、ただ願はくは、水府に赴き、地獄にゆきて、母親を訪ねんことを。
（羋旋）兄上さま、甥を舟から下ろすには、忍びませぬ。
（正末が唱う）死しても墓のなきことを妨げず。
（羋旋）惜しむべし、義姉と甥とが入水をするや、風と浪とはをさまれり。安穏にして無事なれど、悲しみに堪ふべうもなし。
（正末が唱う）
【満庭芳】哀しや母子は、今の世に希なるものにて、古の世にさへもなかるべし。膠の舟を進められたる、そのかみの周昭王にもあらざるに[44]、なにゆゑぞ、ともに魚のためにせる[45]。息子よ、そなたは命を捨てて、長江に飛び込みて、母上にしぞ従へる。妻よ、そなたは操を守り、嫁しては夫に従ひたりしに、かくのごとくに、世話することのかなはざりしか。皇天は楚を滅ぼしたれば、汝をして龍の頷に明珠をば探らしめたり。
（船頭）長江を渡りました。踏み板を渡られて、岸へお上りくださいまし。（岸に上がる）
（羋旋）金魚[46]を解いて、船頭に褒美を取らせることにしよう。後ろから、追ってくる人があったら、わが国の人でなければ、長江を渡らせぬようにしてくれ。
（船頭）心得ました。皆さま方がお戻りになられるときは、わたしは別に一隻の大いなる海船を用意して、こちらでお待ちいたしております。（退場）
（正末）ありがたや。岸に着いたぞ。弟よ、これら二本の路のうち、どちらの路をそなたは進むか。
（羋旋）兄上、今や、義姉と甥は亡くなり、わたくし一人が隨うのみにございます。どうしてわたしに片方の路を進ませるのでしょう。兄上は、いかなるご存念なのでございましょう。
（正末）弟よ、おまえは存じておらぬのだ。（唱う）
【耍孩児】もともとは相隨ひ、相携へてゆかんと思へど、わが胆はびくびくとせり。ただ見るは、ゆく手の山を覆ひたる、蒼蒼たる樹々。彼方には、かならずや伏兵あるべし。小路をゆかば、おそらくは、孫都統にぞ遭ひつべし。大路を走らば、伍子胥を防がざるを得ず。兄弟を誰か護らん。これぞまさしく、魚鼈を逃れ、やうやく江を離れしも、豺虎に逢ひて、山谷に葬らるるなる。
（羋旋）それならば、わたくしは、小道を進み、大路に先回りをして会うことにいたしましょう。とりあえず、兄上に別れを告げて去りましょう。兄上さま、わが一拜を受けられよ。ただ願わくは、兄上のつつがなく路を進まれ、驚かれたり、恐れられたりなされぬことを。
（正末が唱う）
【二煞】弟よ、相逢ふ時は限りあり、別るれば苦しみは限りなからん。
（正末が去る）
（羋旋が追登場）兄上、わたしは兄上をさらに何歩かお送りしましょう。
（正末が唱う）双方は、行かんとするも、幾たびも見返れり。われはまことに悲しみて、胆を持ち、刀の先を、過ぎしめたるがごときなり。あたふたと頭を垂れて、剣下に誅せらるるにしかず。弟よ、一声哭きては一歩進みて、兄と弟の吐く息は、雲霧となりて、母と子の恨みの泪は、江湖に満ちたり。
（羋旋）兄上、援軍が来たことを聴かれましたら、すぐさま楚国へ還られて、ふたたび江山を整えられて、志気を挫かれてはなりませぬ。
（正末が唱う）
【煞尾】われらはこれより、旅路を進むたびごとに、故国を思はん。興敗は天の定めなれども、ただ知らず、分け与へられし秦兵は、いづれの時にか楚に到るべき。（退場）
（羋旋）兄上は行ってしまわれた。わたしはこの小道を行こう。
（龍神が鬼卒をつれて登場）賢婦孝子をすべて救へば、長居するわけにはゆかず。上帝さまにご報告しにゆかん。
（詩）漢水は、東の揚子江へと通じ、数多の舟は、この中にしぞ没したる。よろづにつけて人に勧めん、碌碌とすることなかれ。頭を挙ぐれば、三尺上に、龍王さまが在しませば。（退場）
第四折
（外が秦の昭公に扮し、兵卒を率いて登場、詩）やすやすと軍を分かちて、函関を出で、列国をして匹馬の還ることなからしむ。昔より秦中[47]に紫気[48]多ければ、江山を占めんと想はざることのなどてかはある。
それがしは秦の昭公。その昔、わが父の穆公は、楚の国と縁結びして、世世隣国の誼を結べり。先つ方、呉国の宝剣一振りが楚国に飛び込み、呉王はしばしば剣をば求むれど、楚王はいつかな返さんとせず、それゆゑに、戦が起こり、ほとんど国を滅ぼすに至りたり。楚の大夫申包胥が来て、援軍を借りんとせしも、それがしは、一向に承知せざりき。ところが、包胥は驛亭で、塀に寄りすがりつつ哭き、七日七晩絶ゆることなく、郵亭を哭いて倒せり。想うにかれは真の烈士。わたしはこれより、かれに兵士を貸さんと思へど、百里奚とは相談をしてをらず。
部下よ、百里奚を呼んできてくれ。
（兵卒）百里大夫さま、いずこにいらっしゃいますか。
（外が百里奚に扮して登場、詩）先に虞君[49]にお仕へし、その後、斉を佐けしも、陪嫁[50]となりて秦国に入る。その昔、犠牲を養ふ家に自らを売り、人には羊皮百里奚とぞ呼ばれたる[51]。
わたしは百里奚。秦王さまがお招きだから、行かずばなるまい。部下よ、取り次いでくれ、百里奚がまいりましたと。
（兵卒が報せる）百里奚さまが来られました。
（百里奚が会う）王さまがわたくしを呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう
（秦昭公）大夫どの、申包胥が兵を借りにきた一件のため、特別に、御身を呼んで相談するのだ。借りるのがよいのだろうか、借りぬのがよいのだろうか。
（百里奚）想えば伍子胥は臨潼会にて、十七か国の諸侯らと競い合い、文才はわたしに勝り、武藝は姫輦に勝っていました。この怨みには、いまだに報いておりませぬ。こたび申包胥が兵を借りるため、まいりましたが、子胥は、敵国に深入りし、兵は老い、将は驕っておりますから、戦わずしてうち破れましょう。いわゆる「強敵をやっつけて覇を定める」のは[52]、この時にございます。王さまが、兵をお借しになられねば、みずから機会を失うこととなりましょう。
（秦昭公）それならば、部下よ、申包胥を呼んできてくれ。
（兵卒）心得ました。
（申包胥が登場、詩）千里の道を、援軍を借りに来しかど、秦王は、何事ぞ、相応ぜざる。憐れむべし、七日叫びて死なんとし、血泪は斑斑として驛亭にあり。
わたしは申包胥、秦国に到り、兵を借りんとしたれども、いかんせん、秦王は承知せず、わたしをば驛亭に留めたり。そのかみの言葉に負き、楚の亡ぶるを恐るれば、塀に倚りかかりて哭きて、七日七晩、飲み物を口に入れたることぞなき。
今、秦王が呼んでいるから、会わねばならぬ。もしもふたたび承知せぬなら、わたしは必死に秦王を引きとめて、頸の血をかれの衣に着けるとしよう。さすれば王はかならずや援軍を発せられ、楚国を復興しようとしているわたしの誓いに負かれることはあるまい。部下よ、取り次いでくれ、申包胥がまいりましたと。
（兵卒）大王さまにお知らせ申し上げまする、申包胥が入り口におりまする。
（秦昭公）通すがよい。
（兵卒）行かれませ。
（申包胥が会う）われらが楚王は、御国の援軍をば望み、飢え渇くかのようですが、大王さまは、なにゆえに、誼をば思われず、むざむざと坐視されるのでございましょうか。
（秦昭公）大夫どの、御身が日夜哭かれたために、その忠烈が人の心を動かしました。これより御身に十万の雄兵をお貸しして、姫輦をば将帥として、本日すぐに楚の国をお救いしますが、いかが思しめされますか。
（申包胥）ありがとうございます。大王さま。わが王は、かならずや手厚くお礼いたしましょう。
（秦昭公）部下よ、姫輦を呼んできてくれ。
（兵卒）姫輦はいずこぞ。
（浄が姫輦に扮し登場、詩）生まれつき、千鈞の力を持てど、子胥のため、醜態を晒しつくせり。そのかみは、鼎を擡げたるがため、今に至るも右の手は筋をたがへり。
それがしは姫輦ともうし、大将軍の官職に封ぜられている。王さまがお呼びだが、どのようなご用事だろうか。部下よ、取り次いでくれ、姫輦がきたとな。
（兵卒が報せる）姫輦さまが来られました。
（姫輦が会う）王さまがわたくしを呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう。
（申包胥）元帥さまの名声は、雷の耳を貫くかのように、かねてより承っておりました。大王さまは、わが国を憐れまれ、援軍を送ろうしていらっしゃいます。元帥さまが兵を率いて、お進みになられれば、ほんとうにわたしにとって幸いにございます。
（姫輦）滅相もないことにございます。
（秦昭公）姫輦よ、わしはこれより、そなたに精鋭十万を分け与えるから、申包胥どのといっしょに、楚国を救いにゆくがよい。気を付けるのだぞ。
（姫輦）王さま、伍員は臨潼会では、拳にて蒯瞶[53]を打ち、脚をもて卞荘[54]を蹴り、文才は百里奚より優れ、武藝はわれを凌ぎたり。王さまは、かのものを盟府となされ、くはへて宝剣一振りを与へられ、かのものは、宴にて鼎を擡げ、人をはなはだ虐げり。それがしは、今、精鋭十万を率ゐて、一つには楚を救ひ、二つには伍員を捕らへ、わが臨潼の耻を雪がん。
（秦昭公）ただ願はくは、そなたがたちまち功を成して、凱歌を奏で、還らんことを。それがしは、百里奚大夫とともに、函関の外に迎へて労はん。心せよかし。
（詩）函関を出で、笳を鳴らし、太鼓を打ちて、郢都に至り、武威を輝かすべきなり。伍員を破り、誓ひて強き呉を滅ぼして、包胥を助け、重ねて弱き楚を扶くべし。（百里奚とともに退場）
（申包胥）元帥どの、楚国に一日はやく到れば、わたくしどもの災いが、一日はやく解けましょう。ぐずぐずとされ、期待に背かれてはなりませぬ。
（姫輦）今日すぐに、大小の三軍に命を伝えて、陣を発ち、ただちに楚国へ救援に赴かん。
（申包胥の詩）千里の彼方に身を投ずるは、まことに難し。死するに甘んじ、むなしく還ることはなからん。
（姫輦の詩）もし七日、塀のもとにて泣かずんば、いづくんぞ精鋭をして函谷関を出だしめん。（ともに退場）
（正末が兵卒を率いて登場）それがしは、楚の昭公。ただ一振りの湛盧の剣を、呉国に与えなかったため、伍子胥の兵が楚を伐ちにやってきて、ほんとうに危うかったが、今、幸いに、申包胥が秦国の兵を借り、子胥と戦い、子胥は以前の誓いがあるため、たちまちに兵を収めて、戦をやめて行ってしまった。楚国がふたたび、安らかになったのは、みな申包胥の力によるもの。（唱う）
【双調新水令】子胥は包胥の烈しき気魄を知りたれば、軍を借りきたるを聴くや、兵を率ゐて退けり。兵を借りきたりしものは、天より下りたるがごと。兵を収めたりしものは、凱歌をあげて帰るは叶はず。かれら二人は、いづれ劣らぬものにして、それぞれが忠孝を完備せり。
部下よ、申包胥を呼んできてくれ。
（兵卒）申包胥どの、いずこにいらっしゃいますか。
（申包胥が登場）わたくしは申包胥。秦国の兵を借り、伍子胥と戦を交えたが、伍子胥は旧い交わりを忘れることなく、城池と土地を楚に還し、その日のうちに軍を動かし、本国に戻ってしまった。今、幸いに楚の国はつつがなく、王さまは人を遣わし、わたくしを呼ばれているから、行かねばなるまい。部下よ、取り次いでくれ、申包胥がまいりましたと。
（兵卒）申包胥さまが来られました。
（正末）今すぐに呼んできてくれ。
（兵卒）行かれませ。
（申包胥が会う）
（正末）この大功は、大夫の力によるものだ。
（申包胥）王さまの大いなる福徳によるものにございます。わたくしに何の功がございましょう。
（正末が唱う）
【駐馬聴】伍員には敵ふものなく、楚の地に入りて、屍を鞭打てど、なほ遅き恨みあり。包胥には智恵があり、秦国の兵を借り、国をふたたび興すこと、まことに疾し。
（申包胥）子胥がもし旧き誼を想わずに、武藝をほしいままにしていれば、わたくしは、なすすべもなかったでしょう。
（正末が唱う）かのものは、臨潼で、八方に、虎狼の威をば示せども、御身のごとく塀に倚り、七日のあひだ、英雄の泪を流すになどてか及ばん。（悲しむ）
（申包胥）王さま、どうして悲しまれるのでしょうか。
（正末が唱う）わたしは今日、宝殿の中にあり、安閑としたれども、たちまちに、長江を渡りし時を想ひ起こして、覚えず、心は碎かれたるがごときなり。
（申包胥）王さま、呉の兵が退いて、楚の国が、ふたたび安んぜられましたのは、天のごとくに大いなる喜びにございますれば、悲しまれるのは、ひとまずおやめくださりませ。
（羋旋が登場）わたしは羋旋。長江の岸辺にて、兄上と別れてより後、隨の地に逃げ、はや半年。申包胥は秦兵を借り、ふたたび楚国を興したということだから、今から帰り、わが兄に会うとしよう。部下よ、取り次いでくれ、羋旋が入り口におりますと。
（兵卒）大王さまにお知らせ申し上げまする。二公子さまが来られました。
（正末）今すぐに呼んでくれ。
（兵卒）お入り下さい。
（羋旋が会い、悲しむ）
（正末）弟よ、どこにいたのだ。
（羋旋）兄上とお別れした後、隨国を彷徨うておりました。兄上が楚を復興されたのを聴き、まっすぐ訪ねてまいりました。
（正末が唱う）
【沈醉東風】伯夷叔斉[55]は別れてより後、わたしはつねに坐しては想ひ、行きては悲しむ、
（羋旋）兄上、お久しぶりにございます。わたくしの拝礼をお受けください。
（正末が唱う）兄弟の情があれば、賓客の礼に拘ることはなし。想へば昔、小船にありて寸歩を移すことこそ難けれ。
（羋旋が悲しむ）今日、兄上と会えるものとは思いもよりませんでした。
（正末）部下よ、酒と果物を用意して、弟の旅路の労をねぎらうのだ。
（唱う）本日は、相逢ふも限りあり、さらに南柯の夢かと恐れり。弟よ、杯を干すがよい。
（羋旋）この酒はいただけませぬ。
（正末）弟よ、なぜ酒を飲めぬのだ。
（羋旋）わたくしは心のなかで、義姉と甥とを思うておりまする。
（正末）弟よ、そなたには義姉がおるのだぞ。
（羋旋）義姉がいらっしゃるなら、呼び出され、会わせてはくださりませぬか。
（正末）部下よ、夫人を呼んできてくれ。
（兵卒）ご夫人さま、いらっしゃいませ。
（二旦が登場）わらわは楚の昭公の後妻なり。大王さまがお呼びであるから、会いにゆかなければならぬ。（出てきて会う）
（正末）弟よ、そなたの義姉じゃ。
（羋旋が確認する）兄上、このかたは、わたしの義姉ではございません。
（正末）弟よ、このものはそなたの義姉ぞ。（唱う）
【落梅風】最初の妻は、波間に命を失ひたれど、その名は史書に記されて、死してなほ生気を存せり。われは今日、正妻をあらたに娶れば、結髪の妻[56]はなからん。
（言う）弟よ、その昔、わたしは妻と子を棄てて、そなたを残した。わたしは今日、もう一度、妻を娶って、子を儲けねばならぬわい。もしもそなたがいなければ、
（唱う）いづこにゆきてか、同腹の弟を求むべき。
（旦が子役を連れて登場）息子とともに入水した後、かたじけなくも、天地はわたしを憐れんでくだされた。われら母子は岸へと救い上げられて、申屠氏と呼ばれる者に身を寄せた。申屠氏は楚の昭公の夫人というと、わたしを大いに持て成して、知らぬ間に、半年がうち過ぎた。聴けばわれらが大王さまは、もう楚の国を復興したとか。わたしは今から息子を連れて、お会いしにゆくことにしよう。ここはすなわち宮門の外。部下よ、取り次いでくれ。大王さまの親戚が入り口におりますと。
（兵卒）大王さまにお知らせ申し上げまする。二人のご親戚が入り口で、会見を請うていらっしゃいます。
（正末）わしには親戚などおらぬ。弟よ、わしがみずから見にゆこう。（唱う）
【甜水令】さいはひに、兄弟は仲睦まじく、災はなく、ともに楽しむ。歩みを移し、宮居を出でて、遠きにありては声を聴き、近きにありては顔を見て、じつくりと、気を付けり。
（旦）大王さま、ごきげんよう。
（正末が驚く）
（唱う）ああ、『雎鳩』に謳はれたる窈窕な妃なりしか。[57]
（言う）そなたたち母と子はどこにいたのだ。
（旦）大王さまとお別れし、漢江に身を投げて、助かることもあるまいと思いましたが、思いがけなく、水中に、金の光が輝いて、冷気が逼り、神さまが、わたくしを岸へと救い上げられました。はてもない蘆原を、彷徨っておりますと、息子も川から岸に上がってまいりました。事情を尋ねましたところ、風と浪とがますます激しくなったため、相継いで入水しましたが、やはり神さまが現れて、救われたとのことでした。われら母子は、申屠氏の家に身を寄せ、半年、とどまりましたのでございます。大王さまは、国を再興なさいましたが、われら母子が漢江で、苦しみを受け尽くしたのを、ご存知なく、さようなことをおっしゃいますとは。
（詩）その昔、母と子の風波のうちに沈みしは、王さまのお体を安らかに保たんがためなりき。幸ひに、神明の加護を得しかど、後人の故人の歓を奪はんことを恐れたり[58]。
（正末が唱う）
【折桂令】荒波に流されて、消息はなきものと思ひしかども、御身はまさに堂上の糟糠にして、墻上の泥皮と思ふものにはあらず[59]。想へば昔、船は小さく、川は深く、風は激しく、浪は湧き、雲は天をぞ低く鎖せる。賢達の婦の三従四德と、仁孝の子の、よろづにつけて隨ふことがなかりせば、夫婦は離れ、父子は別れて、などてかふたたび団円して、歓ぶ顔を見るを得ん。
（羋旋）兄上は、その昔、漢江のほとりにて、義姉と甥とを棄てられて、わたしを留められんとせり。はからずも、義姉と甥とは、安らかにして、つつがなかりき。「天道は無私にして、善き人につねに与す」とは、げに偽りにあらざらん。
（秦の百里奚が登場）それがしは秦国の百里奚。王さまの命令を奉り、金枝公主と楚の昭王のお子さまを結婚せしむることとなりたり。それがしは、吉帖を送らんがため、みづからこの地に至りたるなり。
部下よ、取り次いでくれ、秦国の使者が入り口におりますと。
（兵卒が報せる）大王さまにお知らせ申し上げまする。秦国の使者が目通りを請うております。
（正末）今すぐ入って頂くのだ。
（兵卒）お入りください。
（百里奚が会う）
（正末）先般は、さいわいに、秦王さまの兵を借り、救援し、楚国へ還ることができ、ご恩に深く感じております。ただ、災の後であり、万事はいまだに定まっておりませぬので、お礼いたしておりませぬ。本日は、大夫さまには、わが国に、おみ足をお運びいただき、ますます恐懼いたしております。
（百里奚）災禍を救い、隣国を憐れむことは、当然のこと、お礼には及びませぬ。わたしがこたび参りましたは、ほかでもござらぬ、主君の命を奉り、金技公主を大王さまのご子息と結婚させることを願って、吉帖[60]をお送りするのでございます。お厭いになられなければ、ほんとうに幸せにございます。
（正末）寡人に何の取り柄があって、秦王さまからこのようなご厚意を賜わるのでしょう。（唱う）
【沽美酒】かたじけなくも、大王さまは、わが国を憐れまれ、猛将を貸し与へられ、幾重もの囲みを解かれり。戦よりやうやく還れど、万事備へのなきがため、いまだご恩に報ゆることなし。危ふき時に、力を借りて、安らかなる時、棄つるにあらず。
【太平令】宝を競ふ臨潼会に赴きて、無祥公主[61]を賜はりて、帰りきたれり。そのかみは、天に向かひて、襟を裂き、しるしとし[62]、世世背かざることを願へり。誠の誓ひを、かれにおいては、などか悔やまん。この日を見るこそ得難けれ。
（百里奚）大王さまは、漢江に難を避けられたとき、風と浪とが、にわかに起こり、ご夫人とお子さまを、入水させられたとのこと。なぜまた団円することができたのでしょう。わが国は遠く離れて、その詳細を存じませぬから、どうか一遍お話しください。わたくしは、耳を澄まして、つつしんでお聴きしましょう。
（正末が唱う）
【錦上花】そのかみは、臨江に難を避け、扁舟でともに渡るに、たちまちに風に遇ひ、船頭は驚き啼けり。船頭はかく言へり。「船は小さく、重きを載するは叶はねば、この中に、縁薄き方あらば、入水せられよ、さすればはじめて助かるべし」と。
（唱う）かれは言ひたり、すぐそこに危険は迫れば、[63]縁薄き方は、入水せられよと。
【幺篇】夫人は先に別れを告げて、幼子はついで沈めり。兄弟の情は深きものなれば、むざむざと棄て難かりき。しかれども、龍神にひそかに守られたるがため、死したる者は蘇り、生きたる者は恥づることなし。
（百里奚）このような事があるとは。まことに珍しきことにございます。
（正末が唱う）
【清江引】くはへて金枝公主さまが連れ合ひとなられしは、げに美しき天縁にあらざらめやは。ながく唇歯の邦となり、万古にわたり干戈を収めん。いかなる祝儀をもつてして、秦の百里に報ゆべき。
（羋旋）今日ここに、われら一家は団円し、秦国と縁結びして、ながく唇歯となるを得たるは、天のごとくに大いなる慶事なり。宮廷に、満堂の花、遍地の錦を敷きつらね、牛を打ち殺し[64]、穴倉の酒をもて、慶びの宴を設け、百里奚大夫を持てなすこととせん。明日になりなば、また申包胥を遣はして、秦に入らしめ、お礼をさせん。
（正末が唱う）
【收尾】宮居の庭に、千金の宴を設け、二列の鸞歌鳳吹[65]をしぞ列ねたる。青鋒の剣のため、災を引き起こせども、赤縄の書[66]に、大いなる喜びを受け入れり。
最終更新日：2010年11月10日
