西華山陳摶高臥雑劇
馬致遠撰
第一折
（冲末が趙大舎に扮し、浄が扮した鄭恩を連れて登場、詩）志量は恢弘[1]、百川を納め、四海に遨遊、英賢と結びたり。夜来剣気は牛斗を衝けど、男児はなほも不遇なり。
わたしは趙玄朗、本籍は洛陽夾馬営の人。父は洪殷、殿前点検指揮使をしている。それがしが生まれた時に、異香が三月絶えなかったため、人はみな香孩児と呼びなしている。それがしは生来すこぶる奇特な志を抱き、若いときには、いささかの詩書を読み、槍、棒を持ち、いたるところで演武をし、賭博をし、雌雄を競った[2]。思いのままに酒を飲み、路で不正を見たときは、刀を抜いて助けていたため、いざこざを引き起こしていた。そのために、難を避け、函谷関の東や西、黄河の南や北へと長い旅をして、多くの不遇の英雄たちと知り合った。このものは、わたしの義弟の鄭恩で、字は子明ともうすもの。このものは性格が凶悪なれど、気前がよくて愚直な男。それがしはこのものと患難をともにして、功名をともに得ようと思っているが、幸運はいつ訪れるやら。弟とともに竹橋で、占いをする先生を訪ねて占ってもらえば、ほんとうによいことだろう。（鄭恩に尋ねる）兄弟、いっしょに竹橋のたもとにゆくのはどうだろう。
（鄭恩）兄じゃが天に上ろうとするときは、わたしはいっしょに天へと上り、兄じゃが海ﾉ潜ろうとするときは、わたしはいっしょに海へと潜ってゆきましょう。兄じゃがどちらへゆかれようとも、わたくしは鞭と鐙に従いたいと思います。
（趙）それならば、そなたといっしょに竹橋のたもとへゆこう。（退場）
（正末が道士の装いをした陳摶となって登場、詩）術に奇すしき験あり、技ははやくも仙人の域に達して、閑なときには竹橋のたもとにて占ひをせり。われらは財を貪る客にはあらずして、人の世とよき縁をば結ばんとせり。
貧道は姓は陳、名は摶、字は図南というもの。陰陽の妙理を覚ることができ、くわえて遁甲の神書[3]に詳しい。五代の間の世の干戈、民の塗炭と、朝には梁、夕には晋となる、天下の紛紛たるありさまを見たために、太華山中に隠居して、時変を観察しているところ。この幾日か、山頂で中原の地域を見たが、旺盛な気が常ならぬありさまだから、真命[4]の治世が訪れるはずだ。そこで貧道は山を下り、この汴梁は竹橋のたもとへとやってきて、占いの店を開いて、迷えるものを導いている。誰が来るのか看るとしよう。（唱う）
【仙呂点絳唇】死生を占ひ[5]、迷へるものを導きて正に帰せしめ、おしなべて神のごとくに験あり。方瓶[6]に蓍を插して、香は繞れり雷文の鼎[7]。
【混江龍】壇を設けて命を講じ、六爻を捜り尽くせば鬼神は驚く。聖人の清く優れた美徳を伝へ、君子らの暗く愚かな前途を示せり。袍袖を拂ひて開く八卦の図、掌中を巡りゆく一天の星。冠婚と宅葬[8]を論ずることなく、出入と経営を論ずることなし。栄枯を辨じ、吉凶を問ふのみにして、占ひをする心は敬む。ことごとく聖典に據り、人情に従ふことなし。
（趙が鄭とともに登場）あちらには占いをする先生がいる。とりあえずあのひとが何を言うかを聴くとしよう。
（正末が唱う）
【油葫蘆】古の聖人は『周易』経を伝へたれども、幾人か精しく究むることを得ん。誦読すること井戸に坐するが如くして[9]、明らかにすることを得ず。
この『易』は、
（唱う）伏羲[10]の前に定めし人なく、仲尼の後に解せし人ぞなき。わたくしが施せる術は真のものにして、伝へたる課も霊あり。凶を避け、吉に趨き、天命を知らんと欲せば、試みに簾下に来りて君平[11]に問へ。
（趙）兄弟、すばらしい先生だ。
（鄭恩）兄じゃよ、どうしてそれが分かる。
（趙）わずか数言の間に、古今上下を網羅して、陰陽表裏を看破している。
（鄭恩）よい先生だ。わたしはさらにかれの話をしばらく聴こう。
（正末が唱う）
【天下楽】八字をたよりにことごとく一生のことを断じて、懇ろな言葉はすこしも違ふことなし。旺気を論じ、死囚[12]を相るに、五行に據れり。このやうにひそかに鬼神の機を奪ひ、天地の情をあらかじめ知りたれば、高士に聴かしむるに堪へり。
（趙）このような先生を、識る人がおらぬとは。占いをしてもらいにゆこう。（末とともに相見える）
（趙）先生、失礼いたします。われら二人の運勢をご覧ください。
（正末が驚く）（唱う）
【酔中天】われがおんみを待ちたるは呉文整[13]に投ずるに似て、おんみがわれを捜したまふは呂先生[14]を求めたまふがごときなり。わたしは空しく草鞋の双つの革帯を踏みて断ちしに、おんみら主君と臣下とはこなたにともに居たりしか。五代の歴史はみだりに闘ひ、とどまることなし、姓名をひたすら隠すことなかれ。誰をして苦しめる天下の民を救はしむべき。
（趙）これはわたくしの八字です。先生、じっくりと御覧になられ、情を挟まれませぬよう。
（正末が占う）
（唱う）
【後庭花】この命干[15]は丙丁戊己庚、乾元亨利貞。これこそは一字連珠格、三重坐禄星ならん[16]。言ふなかれ、わが占ひは中らずと、中らずば、わたしは罰銀十錠を、謝礼を頂くより前に、幾瓶かお支払ひせん。
（趙）先生、さらに占ってくださいまし。わたしの流年[17]大運[18]はいかがでしょうか。
（正末が唱う）
【金盞児】この戌の字は、冠帯を掌り、水は成形、火は長生[19]、乖龍[20]を避け、大小の運は本年並び至りて、丙辰に逢ひなば一運大いに盛えん。日が空亡[21]を犯しなば将相となり、時が禄馬[22]に逢ひなば公卿となりぬべし。おんみは南方赤帝の子で、上は北極紫微星にしぞ応じたる。
お二人を人気のない飲み屋へとお招きし、しばらくお話しいたしましょう。
（趙）先生、どうぞ。
（正末）お二人がお先にどうぞ。（店に入るとき皇帝を迎える仕草）陛下がいらっしゃることを存じておれば、遠くまでお迎えいたすべきでした。お迎えいたしませんでしたが、お咎めになりませぬよう。
（趙が末を引く）先生、皇帝扱いをなさりませぬよう。もし人に知られれば、かえって罪を受けましょう。
（正末）貧道は多くの人を見ましたが、平生かような命干を見たことがございませぬ。いずれはきっと太平の天子となられることでしょう。（唱う）
【後庭花】黄河は一朝にして澄み、東方に日はすでに明るし。興あるときは醁醑[23] 千鍾[24]を飲みて酔ひ、人が居らずば万歳を山呼せり。貧道はお迎へをなさざりき。この開基真命[25]に遇ひ、本日は酔ひ、醒むることなかるべし。
（趙）先生、実を申せば、わたくしは五代の乱を見ておりますが、天下の塗炭の苦しみは極まっていますので、つねづね乱を治めんとする心を持っておりまする。ただ、いかんせん、土台とすべきわずかな土地もございません。皇天がわたしの心を無にされず、ささやかな事業を成就してくださるなら、天下の土地の、いずこを守るべきであり、いずこを守るべきでないのでございましょう。
（正末）陛下は興龍の地[26]を知ろうとなさっていますが、汴梁が一番宜しゅうございましょう。貧道が話すのをお聴きになればお分かりになりましょう。
（唱う）
【金盞児】左は関陝[27]、右は徐青[28]、懐孟[29]を負ひ、襄荊[30]に附く。用兵の形勢は唐鄧[31]に連なりて、太行の天険は神京に壮んなり。江山は旺気を埋め、草木は威霊を助けり。四百年興龍の地を尋ねんとせば、この八十里の臥牛城[32]のみならん。
（鄭恩）先生、わたしも占ってください。
（正末が唱う）
【酔中天】五霸の諸侯[33]、一品の大臣となる定めなれども、冗談を言ひ、無駄口を叩きつつ、半生を過ごしたまへり。
（鄭恩）わたしが五霸の諸侯になると仰いましたが、わたしはどうして片目が見えなくなったのでしょうか。
（正末が唱う）おんみは傷を帯ぶることなかりせば、残疾多き定めなるなり[34]。命の中にあることなれば、眼のことなど愁ふることはなかるべし。かの朗朗たる群星が盛んなりとも、孤月の偏へに明るきにいかでしくべき。[35]
（趙）お尋ねしますが、先生のご姓とお名は。お住まいはどちらでしょうか。本日のお言葉が、後日、その通りになりましたら、先生をお探しし、富貴をともにしなければなりますまい。このことを忘れようとはいたしませぬ。
（正末）貧道は陳摶といい、西華山中に隠居し、人の世の富貴を求めはいたしませぬから、お礼するには及びませぬ。お二人はどうかお大事になさりませ。
（唱う）
【金盞児】わたくしの石枕の上に夢魂は清く、布袍の下に白雲は生じたるなり。眠りなば、一年半載醒むることなし。おんみらは朝な夕なに台省[36]に功名を求むべきなり。わたくしは眠りなば、ぐつすりと倒れて酒に酔へるがごとく、ぐうぐうと熟睡すること雷鳴に似ん。五更に朝馬[37]の動きたる、三たび唱へる暁の鶏の音を誰か覚らん。
【賺煞】天が下領る聖人が生まるれば、日ならずして乾坤は定まらん。
（趙）天下を平定いたしましたら、その時は、先生をお招きし、山から下りていただいて、ともに太平の福を享受しましょう。
（正末が唱う）山野に棲める陳摶を招かるることはなからん。
（鄭を指さし、唱う）時を経んとも、青眼もて看る旧き馴染みの兄弟を忘るるなかれ、手厚き報いを求むることなき、占ひをする先生よ。これよりは戦を収め、四海をば穏やかにして、とりあへず閑人をして太平を看しむべきなり。われもまた出師の孔明、辞職せし陶令に倣ふことなく、釣魚台下の老厳陵[38]に学ばんとせり。（ともに退場）
第二折
（外が使臣に扮し、卒子を連れ、小道具を捧げもって登場）わたくしは党継恩、太尉党進の息子だ。このたびは聖上の詔書を奉じ、安車蒲輪、布帛玄纁をば持ちて、西華山で陳摶先生を招こうとしているところ。勅命だから、ぐずぐずとするべきではない。ゆかねばならぬ。（退場）
（正末が登場）貧道は、汴梁は竹橋で、君臣二人の運命を占ってから、山に帰って、醒めた時には薬を煉り、酔うた時には枕を高くして眠り、大いに愉快で安穏だ。
（唱う）
【南呂一枝花】そのかみは、読書して、出世を求め、剣術を学んで時に随ひて過ごしたり。文は能く社稷を匡し、武は乾坤を定めたり。豪き気は雲をも凌ぎ、莘野の商の伊尹のごとく、成湯を佐け、万民を救ひ、海内の烽塵を掃蕩し、溝中[39]の愁困を扶策[40]したりき。
【梁州第七】占ひをせし、潜龍[41]の帝王に逢ひ、占ひをせし、開国の功臣に色よきことを言ひしときより[42]、たちまちに袖を払ひて山に帰隠し、人の世の甲子[43]にはまったく構はず、洞内の庚申[44]をひたすら守れり。嬰児[45]、[女宅]女[46]をば降伏[47]し尽くし、丹汞と黄銀[48]を煉成したり。思ひは飄飄、世を離れ、楽しみは陶陶として、真人を礼拝したり。乱るること擾擾として、紅塵の内に利を争へる愚かなる人、鬧ぐこと攘攘として、黄閣の上に役人となる貴き人は、閑なること揺揺として華山の中に道を得し仙人にいかで如くべき。一身は雲に乗り、九垓[49]と八表[50]を神遊[51]し尽くし、浮世を見、ひそかに哂へり。蟠桃を坐して看て、幾たびか春をば経にし。歳月はつねに新たし。
【隔尾】高き山、流るる水と風韻を同じうし、野草閑花と近隣となるに如くなし。地に満つる白雲は掃へども尽くることなく、われとなれとは洞門をかたく閉ぢ、客人を入るることなし。われは静かに蒲団に倚りて、思ひのままに眠らんとせり。
（末が眠る。使臣が登場）知らぬまに華山へと来た。ほんとうに良い山だ。霊台観[52]では、一ひらの白雲が、丹霄[53]に接しているが、きっとあの先生が隠居なさっている場所だろう。鐘を撞き、あの先生に知らせよう。（鐘を撞く。末が目覚め、使臣を迎える）（唱う）
【牧羊関】さきほどは仙闕に遊び、帝閽に目通りせしも、驚きて黄鶴に乗り、天門を飛びて下れり。なにゆゑぞ玉節[54]をにはかに持ちて、金鐘をいたく撞きたる。紙窓明るく暁を知り、布被暖かく春を知りたるにもあらで、荘周の夢は醒め、蝶は飛び去り、古を尚びて自ら炊ける黄粱の鍋はいまだに沸きかへることぞなき。
（相見える。使臣）わたくしは党継恩。聖上の勅旨を奉じ、安車蒲輪[55]、幣帛玄纁[56]をば持って、つつしんで仙山にゆき、先生をお招きし、山から下りさせようとしている。聖上はたいへんに懐かしく想われてらっしゃいますから、先生、はやく仕度してゆかれませ。
（正末）貧道は物外のもの。名利は望みませぬから、天使さまには朝廷に戻られて、ご随意に上奏をなさいまし。（唱う）
【紅芍薬】開基創業聖明の君。舜の徳あり、堯の仁あり。玉帛を持ち、万国はことごとく聖上のもとに来れり。乾坤は一統せられ、あきらかに狼煙は消えて、戦氛[57]は息まりて、恩沢ははや黎民に及びたり。さらに賢士を招かんとして、礼は殷勤、幣帛と玄纁を降さんとせり。
【菩薩梁州】ことさらに天臣を遣はして、賢良を訪はしめたり。今の至尊は、占ひをせし山人にいと厚く報いんとしたまへり。前言をお忘れになられぬことは君恩なれど、いかんせん煙霞[58]のわれは風雷の信を憶はず、琴と鶴[59]とはおのづから林泉の分あり。想へば名利も尽くる時あり。田園の気儘なる身となるを乞ひ、われはふたたび紅塵に入らんとはせず。
【隔尾】わたくしは将棋をし、白昼のんびり気晴らしをせんとせり。清風に枕を高くし熟睡せば、世事の方寸を悩ますよしなし。使臣のおんみは、ご随意に君王に上奏をなさるがよからん。
（使臣）今、聖上は、乾坤を一統されて、万国は帰順して、山間林下に、遺賢はござらぬ。それに先生は聖上のご友人、天下の高士にございますから、帰朝され、聖上のお心を慰められるべきでしょう。
（正末が唱う）
【牧羊関】海岳は明主に帰すれば、巣由[60]は放たれて外臣[61]たらん。千年の高塚の麒麟をおみが訪ふをいかで望まん[62]。老いさらばえて攀龍[63]するを誰か望まん。のんびりと雲に臥す方がよし。試みに看よ、蓬莱の尋薬の客、商嶺[64]の採芝の人を。天下はすでに漢に帰せども、山中になほ秦を避けたり。
【賀新郎】わたしはつねに、鶏の鳴くときは、剣を舞はせ、劉琨[65]にしぞ学びたる。三巻の天書を看、八門[66]五遁[67]を習ひたり。わたしもかつては諸国をば遍く巡り、時運を占ひたりしかど、占ひをせしときに、聖君に逢ひたれば、山に入り、修真[68]に専念せしなり。猿鶴を看て導引を知り[69]、山水を観て精神を清らかにせり。おほむね遠きを性として、近きに習へり[70]。黄冠野服[71]の一道士、清風と明月の両閑人に伴へり。
（使臣）かねてから先生は、黄白[72]住世[73]の術をお持ちと承っておりますが、仙人のお教えは凡夫にも聞かせることができるのでしょうか。
（正末）神仙の荒唐無稽なことどもは、将軍さまのお尋ねになるべきことではございませぬ。
（唱う）
【牧羊関】汝は一身に将軍を拝命し、金印を懸け、万里のかなた王侯に封ぜられ、玉門を守りたまへり。今、明良[74]は千載の風雲に際会すれば、河上の仙翁[75]、関門の令尹[76]にいかで学ばん。朝廷で聖君に随ひたるに、などか林下の閑人を訪ねたる。雨露九天のご恩をし受けたれば、などてかさらに雲霞[77]の三人の市隠[78]を想はん。
（使臣）先生がそう仰るなら、朝廷にお仕えし、民草のため福徳を施されてはいかがでしょう。
（正末が唱う）
【哭皇天】酒醉漢は朝覲し難く、睡魔王はなどか宰臣たるを得ん。紫羅袍を身に着けば酒を飲みたる布袋[79]に似、白象笏[80]を手に執らば睡りたる餛飩[81]に似る。役人となりなば日ごとに、行きては眠り、立ちては寝ぬべし。凌煙閣の上の人をむざむざ笑はしむるなかれ。わたくしはかやうに疏庸かつ愚鈍、孤陋かつ寡聞なるなり。
【烏夜啼】幸ひに、法は正しく天の心に順へば、わたくしが、出しやばつて国を治めて民を安んずるには及ばじ。わたくしは山に住まへる縁を持てるのみにして、役人となる分にあらざるものなれば、道を楽しみ、貧に安んじ、画戟朱門を羡むことなし。丹砂を煉りて閑なる身をば養ひて、黄金もて封侯の印を鋳るなし。わたしはまことに幞頭のきつきを戴くことを得ず、朝衣の重きを着るを得ず。この黄塵を拂ふ布袍と、濁酒を漉す綸巾に如くはなからん。
（使臣）天恩に負くべきではございませぬ。先生、どうか車に乗られ、今すぐにゆかれませ。
（正末）天使に来ていただいたからには、聖恩に背くわけにはまいりませぬ。山を下りねばなりますまい。（唱う）
【黄鐘煞】雕輪の冉冉として旅路に登る必要もなく、駿馬の駸駸として路塵を践む必要もなし。聖上が急きたてていらつしやるなら、将軍さまは懇願なさることはござらぬ。山をして屏を列ねしめ、草をして裀を布かしめ、鶴には家を番せしめ、雲には門を鎖ざさしめ、天風に順ひて、一片の白雲に坐せんのみ。宣使のおんみが乗りたまふ、紫藤の兜轎[82]の安らかなるにはるかに勝らん。（退場）
第三折
（趙が駕に装いを改め、侍臣を連れて登場、詩）両手もて新しき日月を拭き、一転し旧き乾坤を整へり。殿廷に風雲の気を聚め、華夏は潤ふ雨露の恩。
寡人は宋の太祖である。数年前、弟の汝南王と竹橋で占いをしてもらい、陳摶先生にお会いして、混沌、乾坤を解き明かし[83]、太平の天子となると占っていただいた。寡人は即位して以来、おおいにかれを懐かしみ、昨日は使臣を遣わして捜索させたが、さいわいかれは寡人を見棄てず、やってきた。今は寅賓館におり、朝見はしていない。寡人はかれに官爵を与え、その後に、かれを召し、参内させようとしたのだが、どうしても受けなかったので、かれに希夷先生という道号をひとまず加えて、鶴氅、金冠、玉圭を賜わって、朝会の時、ふたたび手を打つことにした。黄門官よ、勅旨を受けて、寅賓館に赴いて、あの先生をお呼びするのだ。
（待臣が勅旨を受け、退場）
（正末が登場、詩）家は久しく方外の地にありしかど、布袍は重ねて陌頭の塵を招けり。道人はもとより名利を求むることなく、道人を名利の縛ることぞなき。
貧道は陳摶。西岳華山をば下り、東京汴梁にやってきて、塵世の紛紛、浮生の攘攘たるを見る。想えばわたしのこの旅も、本意ではない。（唱う）
【正宮端正好】雲台を下り、朝会に赴きたれば、華山の鶴唳猿啼を耳にせず。道人は蒼生のため起ちしにあらず、ただ聖上の招賢の意に報いんとしたるなり。
【滾繍球】われはすなはち気儘に飛べる閑雲なれば、心情は世と異なれり。名利を貪りたることもなかりしに、いかで天子に名を知られたる。いまだ世に現れざるとき、占ひの店で識り合ひ、かのひとの南面登極するを占ひたりしかば、
（使臣が登場）陳先生、おめでとうございます。聖上は衣冠、道号を賜わられましたから、宮居に向かって聖恩に感謝なされよ。
（正末が拝謝し、唱う）それゆゑに、龍庭[84]の御宝[85]、詔書もて、わたくしに鶴氅、金冠、碧玉の圭、希夷といふ道号を賜はれり。
（使臣）先生が隠居なさっている場所は、荒凉とした山野ですから、わたくしどもの朝署のように豪華ではございますまい。
（正末が唱う）
【儻秀才】かの地には、草舍、花欄、薬畦[86]、石洞、松窓、竹几がありしかど、この地の玉殿、朱楼は貴きものにはあらず。おんみら俗世の千古の事は、わが松下なる一盤の碁のごときなり。われは富貴を浮雲のごとくみなしたり。
（使臣）聖上は一心に先生を待たれています。先生、はやく参内をなさいまし。ああ、また使者がまいりました。
（駕が登場、立ち止まる）
（正末が唱う）
【滾繍球】絶え間なく使者は促し、奉御[87]は逼り、われをしてすみやかに朝廷に趨かしめど、われは野人のごとくして、遠近と高低を弁へず。禁幃に至り、鳳池[88]に上り、宝砌[89]に近づきて、鵷鸞[90]に列なれば、簾は巻かれ、班は揃へり。玉階の前にて風は龍蛇[91]の影を蕩はせ、金殿の上にて風は日月の旗[92]、天仗[93]の朝衣[94]を吹けり。
（駕を見て稽首する）
（唱う）
【儻秀才】舞ひ躍り、塵をば揚ぐる慣例もなきものなれば、ただ稽首して、とりあへず拝礼となす。
（駕）お別れしてからご無事でしたか。このたびはお見棄てになられなかったので、平生の思いは慰められました。宮殿で座席を賜い、久闊を叙するとしましょう。
（正末が唱う）願はくは、陛下の聖寿の、天と斉しく万万歳となられんことを。今、黄閣の功臣は在せども、白髪の友人は稀なれば、貧道に会ひ、喜ばれたまひたり。
（駕）希夷先生、本日は仙顔を拝することができましたので、寡人はとても喜んでおりまする。朝廷にともに立ち、臣民に慕われたいと思いますが、先生のお気持ちはいかがでしょうか。
（正末）貧道は山野の怠け者なれば、役人になることは望みませぬ。（唱う）
【叨叨令】華山の中に終焉[95]の計画を立てたれば、都堂の内にいかで模範を看るべけん。公事を議せば、むざむざと元陽の気を損なひて、朝綱を治めなば、安眠を乱すべし。貧道は官になることを得ず、官になることを得ず、紫羅袍[96]を求むることなく、ただ黄紬被[97]を乞はんのみ。
（駕）先生はなぜ役人になることができないのでしょう。
（正末）貧道が話すのをお聴きになれば、お分かりになりましょう。
（唱う）
【儻秀才】われが眠らば十万本の更籌[98]に刻は転ろひ、七八甕の銅壺[99]は水を漏らすべし。窓前に暁を報せる鶏を捻り殺せぬことが恨めし。花を惜しみて、春に目覚むること早く、月を愛で、夜に寝ぬること遅しとな想ひたまひそ。かやうなることはりのあればなり。
（駕）先生が役人になろうとされるのであれば、先生のために閑な役所をお選びし、重要な官職に任命しましょう。そうすれば、案牘に煩わされることもなく、政事に妨げられることもございますまい。
（正末）貧道は役人になることはできませぬ。（唱う）
【滾繍球】貧道は、蔀落の衣[100]を着くるを好み、藜藿[101]の食を喰らふを好めり。眠るとき、天を幕とし、地を席とし、ぐうぐうと鼻息は雷のやう、二三年、呼べども起きぬものなれば、省、部にあらば、毎日出勤するは叶はじ。まづ聖上に申しあげたきことがあり。貧道は、閑を貪る身のほかは、財産はまつたく持たず、睡るよりほか、俗世のことはおしなべて知らざれば、人をして空しく眼を見張らしめたり。[102]
（駕）先生がご自身のためにしようと思われるのなら、それも宜しゅうございましょうが、大人の道をいまだにご存じないというものにございます。大人は四海を家とし、万物と一体となり、人我の区別をすることはなく、物事に固執せぬもの[103]。「君子は周して比せず」[104]といわれております。先生はその独楽の襟懐を拡げられ、兼善の度量を広めて[105]、寡人のために朝政を治められれば、まことに宜しゅうございましょう。
（正末が唱う）
【儻秀才】「君子は周して比せず」と陛下は仰れど、貧道は「小人は窮すれば斯に濫る」[106]なり。わたしは道に志し、仁に依り、徳に據らざることを得ず。もともとは、賢者を用ゐ、不肖を退けやうとなされど、なぞ「枉がれるを挙げ諸を直に錯」かるる[107]。こはさらに宜しきことにはあらざらん。
（駕）先生、断られないでください。朝廷で役人になることが、山中で道を学ぶのに勝らぬと仰るのですか。
（正末）役人になることがよいことは、貧道もよく存じております。
（唱う）
【滾繍球】三千貫、二千石、一品官、二品職、ただ故紙の上の二行[108]の記録となりぬべし。裀をば重ねて臥して、鼎を列ねて食らふに過ぎず。臣下は主君に事ふるに忠を以てし、君主は臣下を用ゐるに礼をば以てしたれども、ああ、かくしなば、死して身を葬る地なく、雲陽市に血は朝衣を染むべし。
貧道は、
（唱う）もともとは、林下に居りて名利をば絶ちたれば、わけもなく山を下り、諍ひを惹き起こすべきにはあらず。帰りゆくにぞしくはなからん。
（駕）役人になることはよくないと仰るが、仙道を学ぶことのよい点を、朕にお聴かせねがいたい。
（正末が唱う）
【儻秀才】家を治め、国を治めよと仰れど、人の為、己の為を分かつべし[109]。人の己を知らざるを患ふることなし[110]。石の牀に綿の被の暖かく、瓦の鉢に菜の羹の肥えたるは、山人の楽しめるところなり。
【三煞】身は安らかに静宇の蝉は初めて蛻け[111]、夢は繞りて南華の蝶はまさに飛ぶべし。一榻の清風に臥し、一輪の明月を看て、一片の白雲に蓋はれて、一塊の頑石に枕して、ひたすら眠れば陵は遷ろひ、谷は変じて、巌は爛り、松は枯れ、斗[112]は転り、星は移らん。つねに抱元守一[113]して、妙理を窮め、玄機[114]に造らん。
【二煞】鶏虫の得失[115]は計ふるに及ばざるもの、鵬鷃は逍遥するをおのおの知れり[116]。蟻陣と蜂衙、龍は争ひ虎は闘ひ、燕は去りて鴻は来て、免は走り烏は飛ぶを閲したり。浮生は穴を争ふ蟻の群れに似て、光陰は隙を過ぎたる白駒に似[117]、世人は甕に舞ふ醯鶏の如きなり[118]。一階半職[119]を得んとも、そは算ふるに足らずして、記すことにぞ得堪へざる。
（駕）先生にどのようなよいことがあるのかを、お話しください。
（正末が唱う）
【煞尾】わが雲間の太華では煙霞は細やか、鼎内に還丹[120]すれば日月遅し。山上に高眠し、夢寐は遥かに。殿下にて朝元[121]し、剣佩[122]は揃ひたるなり。玉闕の仙階を履みしことあり、王母の蟠桃を喰らひしことあり。酔はんとすれども酔ふことはなき酒数杯、天へと上り天より下る鶴一羽。客に逢ふことあらば浮世のことを問ひ、事なくば登臨し落暉に嘆けり。危坐[123]談玄[124]し『道徳』[125]を講じつつ、静室に香を焚き『秋水』[126]をしぞ誦へたる。滴る露に朱を磨りて『周易』に点をうち、散誕逍遥[127]束縛はなし。お召しを受けて、山を離れて、朝廷にゆきたれば、陳摶に頼みて宣勅を受けしめんとす。都堂[128]に送り八位[129]に入らしめ、台衡[130]を掌管し、百揆[131]を総べしめんとせり。御史ならば台綱[132]を知らずばならず、六部ならそれぞれの当番に詳しかるべし[133]。がやがやとして埒の明くなく、くさぐさの諍ひは尽くる期なかるべし。われをして、戦戦兢兢たらしめば、熟睡することは叶はじ。（退場）
第四折
（鄭恩が汝南王に扮し、色旦を連れて登場、詩）平素より凶悪にして、盗賊となりたることもありしかど、出世して役人となる。機謀を使ひ尽くしてつねに飽食し、錦衣絨袴に寒を知るなし。
わたしは鄭恩、汝南王の官職に封じられている。それがしは、若いときは、今上と八拝の交わりをして、患難をともにして、槍や刀を避けなかったが、今日は、ともに富貴を享受している。このたびは、聖上の御諚を奉じて、御酒十瓶、御膳一席、宮中の美女十人を引き連れて、寅賓館にゆき、希夷先生をお待ちしている。先生はいまだに参内されてはいない。美女たちを入ってゆかせ、持て成しの道具を準備させるとしよう。わたしはひとまずあちらに隠れ、先生が来たときに、ふたたび手を打つことにしよう。そなたらは細心にするのだぞ。
（色旦）かしこまりました。（ともに退場）
（正末が登場、詩）上林に花の開くを看れども興なし。春色[134]はなんぴとぞ送り来れる。処士は巫峡の夢を生ぜず、陽台を雲雨が下るも徒ならん。
貧道は陳摶、朝、参内し、聖上にお目見えすると、聖上は旧い誼を思われて、わたしをもてなし、たいへんに喜ばれていた。しかし、わたしは雲水の身で、山林の鳥であるから、このような俗世の中にいることはできぬのだ。（唱う）
【双調新水令】暁の霜を半生知ることはなかりしかども、老いぼれの頭に五更の寒さあり。満朝の朱紫[135]の貴きことを笑へり。わが一枕の熟睡の郷にいかでしくべき。かの翠巍巍たる太華の山の光をば掲ぐるは、この一幅の繍をせし帳なり。
（色旦が登場。侍る。）わたくしどもは、聖上により、遣わされ、先生のお世話をし、枕席の楽しみに侍するのでございます。
（正末が唱う）
【駐馬聴】白酒[136]の樽の傍、むなしく眼を慰むる金釵十二行[137]、清風嶺[138]の上なるわれを惑はせり。身を翻すことはなく、睡るを悪むこと千たび。おんみらは、桃花に泛び、あちこちに劉郎[139]を求めんとしたれども、われはまことに蛾眉を描きし張敞に学び得ず。げにも浅墓なることぞ。出家はなどかつまらぬ誘惑を受くべけん。
（色旦が酔うた振りをして末に挑む）先生は道人のような仏頂面をなさいませぬよう。どうして霜が降りたような、お顔をなさってらっしゃるのでしょう。われらはすべていまだ開かぬ宮中の花[140]でございますから、かような仕打ちを受けたことはございませぬ。先生、なにとぞお厭いになりませぬよう。
（正末）下がるのだ。そなたらは出家したものの道心を知ってはおるまい。（唱う）
【歩歩嬌】晨鐘の撞かるる時まで纏はりつくとも、わが一点の狂心の動くと想ふことなかれ。
（色旦）来られてください。お話がございます。
（正末が唱う）われを呼べるはいかなる企み。運拙くも、これらの酔ひたる女に逢へり。われが夕に神に捧ぐる一炉の香と、真夜中に乾象[141]を観るを邪魔せり。
（色旦）先生に一杯のお酒をお出しいたしましょう。
（正末）道人は昔から酒を飲まないものだから、いらぬわい。
（色旦）先生に一杯のお茶をお出しいたしましょう。先生、お飲みくださいまし。このお茶の味はいかがでしょうか。
（正末）よいお茶だ。（唱う）
【沈酔東風】このお茶は一旗半鎗[142]、五嶺[143]三湘[144]より来る。泛ぶるは一甌の瑞雪の香[145]、両腋に松風の響きを生じ、七碗で枯腸を潤すことを得ず[146]。一酔すれば憂へなき老杜康に負き、おんみ盧仝の健忘を誰か信ぜん[147]。
（言う）そなたらはそれぞれ休め。わたくしは眠りたいのだ。
（眠る。色旦が末を引く）わたくしどもは先生のお伽をするのでございますから、先生を一人寂しくさせるわけにはまいりませぬ。
（正末が唱う）
【攪筝琶】おんみはまことに軽薄の相、われは寂しく更の長きを恨むにあらず。いたづらに蝶夢を醒ますは、わけも分からずむずむずとせしならん。黄昏の月に臥し[148]、扶桑に日の出づるまで寝ぬべし。あたふたと、浄鞭[149]の三たび響くを聴きて、衣裳を顛倒せんとせり[150]。
（鄭恩が登場）とんでもない、分からず屋の先生だ。わたしがゆこう。（相見える）朝廷を罷り出るのが少々遅れてしまいました。お訪ねするのが遅れた罪をお許しください。
（正末）大王さまが友人をお忘れになられなかったことに御礼もうしあげます。
（鄭恩）先生はまことにすぐれた占いをなさいました。そのむかし、竹橋で、先生はわたしが五霸の諸侯になると仰いましたが、今日、はたしてお言葉通りになりました。
（正末が唱う）
【雁児落】そのむかし、言ひしことあり。おんみは王に封ぜられ、位は大臣に列なるべしと。官とならるることをわたしがあらかじめ知りたるにあらずして、眼のなきおんみに天が大任を降さんとしたまひしのみ[151]。
（鄭恩）あの宮女たちは歌舞に優れておりますから、先生に一杯をお勧めしましょう。
（正末）大王どのはまたもわたしを馬鹿にしていらっしゃる。（唱う）
【川撥棹】をりしも高唐をば離れ、巫娥[152]を避け、一隅にあり。客舍は凄凉、仙夢は悠揚、ただ邯鄲の道の上と想ひしも、そもそも佳人の錦瑟の傍らにあり。
（色旦が酒を勧める）
（正末が唱う）
【七弟兄】かやうにせつつかるることは、宜しきことにあらざらん。たとひおんみに粉の白、黛の緑、宮様なる妝ひと、茜の裙、羅の襪、縷金[153]の裳があらんとも、わが鉄の臥単[154]には風流况はなかるべし。
（鄭恩）先生、聖人はかくのたもうてらっしゃいます。「食色は性なり。好色の心は、人皆之を有す」[155]と。またこうものたもうてらっしゃいます。「吾未だ徳を好むこと好色を好むが如くする者を見ず。」[156]と。先生は人でないのでございましょうか。人の情けをお持ちでないのでございましょうか。
（正末が唱う）
【梅花酒】おんみはまことに軽率なり。陰陽[157]を燮理したまふと思ひしが、玉を惜しみて香を憐れむ[158]。撮合山はものを見る眼を過ちたれば、わたくしも心の中にあたふたとせり。おんみの智恵を用ゐるなかれ。わたくしが楽しむ処は天堂なれば。
（言う）貧道はかねてから眠りたく思っております。しばらく眠ることにしましょう。大王さまにはお咎めになりませぬよう。（眠る）
（鄭恩と色旦が背を向ける）かくかくしかじかせねばなるまい。（鄭が門を閉ざす）この門を閉ざすとしよう。とりあえず、窓前の月[159]となり、梅花[160]がひとりで行動するのに任せよう。
（退場）
（正末が目覚め、唱う）
【収江南】ああ。そなたはむりにわたしを雨雲[161]の場に送り、銀燭を高々と焼き、紅妝を照らさんとせり。出家の心はもとより清きものなれば、かやうに騒ぐを禁ずることなし。一千年相見えずとも、思ふことなし。
【水仙子】さきほどは八表に神遊し、金光を放ちつつ、三清[162]に礼拝し、玉皇[163]に朝したり。双環を拽き、がらがらと門を鎖すも構ふことなし。目の見えぬ大王は、わたくしにまとはりつけり。三山を下れる鶴を驚かし夢に翔ばしむ[164]。わたくしは丹鼎に龍虎をば降さんとしたれども[165]、なんぴとぞわが錦巣に鳳凰を宿らしめ、むざむざと金殿の鴛鴦を羞殺せしむる。[166]
（言う）軽率に山を下りたため、このようなことになり、山の神さまに笑われてしまうだろう。
（唱う）
【太平令】今や山鬼は灯を点けて、像を顕し、野の猿は筆を執り、壁に題せん[167]。芒鞋[168]と竹杖を腐爛せしめて、蒲団[169]と紙帳[170]を塵没[171]せしめんことを恐れり[172]。かの女は洞房に、艶やかに妝ひて、はやくも都堂の宰相を眠らしめんとす[173]。
（鄭恩が登場）夜はすでに明けたから、この門を開けるとしよう。ああ。ほんとうにおかしな先生、今もあちらで衣を羽織り、床に據り、燭を秉り、夜明けを待っていらっしゃる。
（正末）大王どの、おんみはわたしをほんとうに馬鹿にしていらっしゃる。
（鄭）申し訳ございませぬ、申し訳ございませぬ。わたしはすぐに聖上に上奏し、道観を建てていただき、先生を住持にし、一品の真人に封じましょう。
（正末が唱う）
【離亭宴帯歇指煞】林を目指す高鳥を西風のうちに放つは、花を銜める野の鹿を宮中の奥深く養ふにしぞ勝るらん。官位を加へ、褒美を賜はり、われをして頭に紫金の冠を頂き、手に碧玉の笏を執り、身に白鶴の氅を着けしめんとす。昔年の旧き草庵、今日の新しき方丈あれど、貧道は、睡るよりほか、とりたてて伎倆なきなり。われはもとより名利を貪る俗世の人にあらずして、一人で琴書を楽しめる林下の客、寵辱を絶つ山中の相[174]。名利の関を推し開けて、英雄の網を脱け出で、南軒の吊窗を高く掲げて、とこしへに煙雨の外に蓮花を種ゑて、雲台[175]の上に仙掌[176]を看ん。
最終更新日：2010年11月10日
