●巻五

 

◎福を損なうこと

 

帰安[1]の王勿庵侍郎(以銜)[2]が生まれた当初、星命家が占うには、八字[3]の中で水が欠けているということであったので、ある人がかれの太夫人に語った。「子供を漁舟で百日哺育して補えば、長生きすることができましょう。」そこで一人の漁師の妻を召して来、銭と米を贈り、百日養わせた。乾隆乙卯[4]に状元に合格して帰郷すると侍郎はふとこの婦人の養育の恩を思い、人をやって探させたところ、この婦人はまだ生きており、年は七十になろうとしていた。書斎に招き、婦人に向かって謝した。翌日、この婦人はにわかに病み、送って帰らせるとすぐに死んだが、みな福を損なうことが致したと思った。

 

◎舵取りの許某

 

廈門が英夷の擾乱に遭った際、民間はつとに避難する意志があったが、官府は知らなかった。舵取りの許某というものがおり、母を世話して孝順、妻の某氏は美しく淑やかであった。廈門港にいた時、英鬼は岸に迫っており、許家は食糧が尽きた。隣にいる汪三というものは、許の妻の容色を気に入り、彼女の空腹の苦しみに乗じ、利によって誘惑した。許某は言った。「十両でわたしの母を生かすことができるなら、すぐに妻をかれに売ろう。」許の母がぐずぐずして決しないでいると、隣家の老人鄭某が勧めた。「お母さんは年老いていられますから、城が陥落しました時、お子さんはお母さんを連れてゆくことはできても、お嫁さんは美しく、賊に淫せられるのに従わねば、かならず賊の刃を受けましょう。汪三に嫁げば、お連れして遠くへ避けることができ、一挙に三人の命を活かしましょう。」そこで母は心を動かし、つよくそのことを取り仕切った。汪三はすぐに米四斛、銀八両を結納にし、その晩すぐに結婚することを約束した。嫁はおおいに嘆いて死を求め、先に屈服して[5]姑を生かし、後に一死によって節を全うすれば、どうしてよくないことがあろうかと思い、偽って姑に言った。「お母さまに二年お仕えし、にわかに離れるに忍びません、二日延ばすべきでございます。そうでなければ、どうして一死を惜しみましょう。」汪三はつとに彼女の性格が激しいことを聞いていたので、従った。翌日、英鬼が上陸すると、汪三は高いところに登って眺めていた時、砲弾に喉を貫かれて死んだ。さらに翌日、英鬼は廈門を占拠した。事が収まると、許家は結局瓦全できた。そのことは、一門の夫婦が節孝であったために、結局天佑を蒙ったのであることを知った。

 

◎邵孝廉

 

于蓮亭がいった。わたしの郷里の宋村集に孝廉邵某があり、年は二十で、郷試に合格し、その父は日を選び、棋桿[6]を入り口にたててやった。一晩前、夢みたところ、一人の古風な衣冠の人が言った。「おまえの家の入り口はわたしの墓だから、けっして動かすな。わたしの言うことを聴けば、報いがあろうが、わたしの墓を損なえば、かならずおまえの子に不吉なことがあるだろう。」邵の父はもともと強情で、さらにすでに親戚友人を招いていたので、中止しようとしなかった。そして、家運はまさに盛んなのだから、幽鬼がどうして祟れようと思った。翌日、客がすべて集まると、匠に命じて土を掘らせたが、本当に古い墓であったので、邵の父は撤去するように命じた。するとその子はたちまち血を湧くかのように吐き、まもなくすぐに亡くなった。後に孝廉は棺を野に()かれたが[7]、さらに暴風に壊されてしまった。ああ。古墓は誰が魄を収めた所か知らないが、このように霊威があった。邵の父はこうした夢をみたのだから、棋桿に汲汲とする必要はなかった。さらにすでに合格していたのだから、たとい棋桿を立てずとも、だれが孝廉であることを知らなかったろうか。そしてすでに古い墓を見たのに、いそいで埋めないでさらに損なったのは、かれの心がけが残忍であったもので、冥罰招いたのは当然のことであった。

 

◎方知府

 

于蓮亭はさらに言った。大興の方氏の兄弟三人は、長男は司馬、次男は布政司理問[8]、末子は知府で、代々簪纓[9]であった。長男、次男はあいついで歿し、それぞれ一子を遺し、末子だけが残り、浙江で官となり、居住していた。師を招き、おいを教えさせ、後にその太翁[10]のために葬地を卜したところ、堪輿[11]は一つの穴を選んでやった。夜、夢みると一人の峨冠博帯[12]のものが来て会った。「おまえが占った穴はわたしの墓だから、ほかに佳城(はか)を探すことができれば、かならず報いよう 。」堪輿は信じず、翌日穴をあけたところ、本当に古い墓であった。仕事していたものは夢夢[13]として、なんと遺骸を荒野に棄てた。葬った後、堪輿はにわかに亡くなった。方氏の二子はいずれも若い俊才であったが、たまたま西湖にいって墓参することにし、舟に乗ったところ、たちまち強風に遭い、舟がにわかに覆り、救いあげるといずれも死んでいた。知府は孝廉であったが、晩年没落し、鬱鬱として終わり、結局、後とりがいなかった。

 

◎銭敏公[14]

 

銭梅溪[15]が言った。わたしの業師[16]金安安先生(祖静)[17]の外孫中銑、中ト[18]は、ともにわが文敏公稼軒司寇[19]の公子であった。乾隆甲午の[20]、わたしが十六歳の時、安安先生の家で会った。その時、中銑はすでに閣中書を得、中トも中書科中書への叙任を議せられていた。二人の公子は、ともに年はちょうど弱冠(はたち)で、容貌魁梧、聡明絶世、詩を善くし、八法[21]に巧みであり、本当によく家学を授かったものたちであったが、数年足らずで、ともに病むことなく亡くなった。中銑は船中で死に、中トは車中で死に、いずれも幽鬼に遇って祟られ、生け捕られたということであった。このことはたいへん確かであるが、なぜそのことを招いたのかは分からなかった。後にわたしが揚州にゆき、趙甌北先生[22]に逢い、そのことを語ったところ、先生が仰るには、文敏公が命を奉じ、貴州威寧州[23]の劉標の横領事件を調査・処理した際、前任の廉訪[24]高積[25]が、公の表侄蒋牧[26]を処罰し、絞罪に論じたことがあったため、公はこの私怨を挟み、ことさらに苛烈な要求をし、結局、高を斬罪にし、報復したのであった。仕えること十年を隔て、二子がともに祟られたのは、たいへん恐ろしいことであった。これより前、公は貴州に出張した時、衡陽[27]を通り掛ったが、回雁峰[28]に通慧という老僧がおり、よく人を見ることを知っていたので、公が尋ねにゆくと、僧は言った。「公のお顔を拝見しますと、かならず台輔[29]に登り、二人のご子息も簪纓を得られますが、眉宇の間にいささか殺気が現れています。公が徳行を施されれば、思いのままに改められますので、公は励まれませ。」衡陽に帰り、またこの僧に会うと、僧はたいへん驚いて言った。「惜しいことでございます。」わたしは一語もなく、公も黙然としていた。公には二人の孫がおり、わたしもかれらに会ったことがあったが、一人は副挙人に合格し、一人は痰疾[30]があり、話すことができず、暮らし向きも落ちぶれた。按ずるに、銭文敏公は少司寇[31]であった時、丁憂[32]により帰郷した、夢みたところ、一つの大きな石碑に「哀しい。哀しい。」の三字[33]が書かれていたので、心のなかでたいへん嫌に思い、その弟竹初[34]明府[35]に語った。竹初は言った。「三つの口は『品』ですから、兄さんは将来一品の衣を着けられましょう。」まもなく亡くなり、詔により、尚書[36]の銜[37]を贈られたが、その験があることはこのようであった。

 

◎雅中丞

 

乾隆年間、覚羅雅[38]中丞[39]が江蘇を巡撫した。循良の誉れは平素から顕著であり、あらゆることを検査し、無駄な支出をしなかったが、穏当でないこともあった。潘芸先生が家大人にこう言ったことがあった。「昔、程伊川[40]は『餓死する事は小さく、節を失う事は大きい[41]』と言ったが、忠臣孝子、節婦孤嫠[42]は、国家に表彰の慣例がある。わが蘇州は毎年それを行い、たいへん人心に適っていたが、雅公の任期だけは、濫りに受けることを許さない命令があり、陋巷の貧しい寡婦は、隅で涙を呑んでいた。そもそも『忠孝』の二字は、もとより臣子として当然のことであるが、婦人や娘は平素勉強していないのに、ひとり操を守って変わらず、終始一轍にできることは、もっとも埋没させることができない。かしこくも聖上の御宇において、水害や旱魃の災害があれば、数百万の帑金[43]を惜しまず、人民にお恵みになっているのを、雅公はどうして知らなかろう。どうしてこの区区たる費用だけを節約するのか。後に雅は庫車城[44]を征伐した時、軍機を誤って死刑になったが、まさにこの一件の報いでないとどうして知れよう。」芸先生の言葉はこのようであったが、蘇州の人が深くこのことに不満であることが分かる、かれが諄諄として家大人に語ったことも勧戒の意を兼ねていたのだ。

 

◎汪店

 

揚州城内は百貨が豊かだが、すべて轅門橋[45]に集まっていた。道光丙午[46]、わたしが邗[47]に来る一月前、轅門橋はにわかに火災を被り、大きい店や高い楼はすべて焦土となったが、真ん中の雑貨店は巋然[48]としており、傍らには付属するものがなかった。言い伝えでは、火勢が盛んであった時、街中の人々が望み見ると、この店の瓦の上で、無数の黒い旗が押しあって守っており、火は入れなかったそうである。火が収まった後、尋ねたところ、知ったのだが、店の主人は汪姓で、開店してすでに三十余年、店内の老爺は約六十ばかりの人であった。家族はみな先に避けて出、店の品物もすこし移したに過ぎなかったが、すこしも損なわれていなかった。近所の老若がみな称するには、この店には特段怪異はないが、長年かれらと隣り合って住んでいて、この老爺が人を苛めることをしたり、人を苛めることを言ったりするのを見たことがなかったそうである。ああ。ひとり天佑を蒙ったのは当然である。

 

◎蔡礼斎

 

余秋室学士[49]が糞をしながら書を読んだため、元になれなかったことは戴尭垣[50]の『春水居随筆』[51]に載せられており、わたしの前録にも詳しい[52]。揚州にいた時、銭梅溪先生に会い、やはりこのことを語ると、さらに言った。秋室先生によれば、冥府には糞をして書を読んだものの帳簿があるが、厚さは一寸ばかりになっているので、世人には、知らないで犯すものがたいへん多いことが分かったということであった。思えば雲間[53]に蔡礼斎という者がおり、侍郎鴻業[54]の孫、総憲馮公光熊[55]の外孫で、通才[56]であったが、おまるの上で書を読むことをもっとも好んでいた。郷試に十余回合格せず、後に援例[57]で江西の県丞となり、南昌で補任を待ったが、ひどく困窮していた。長子はたいへん聡明であったが、結婚しないで死に、礼斎もすぐに歿した。わたしがかれを説得したところ、かれは聴かなかったが、かれは一生困窮し、余学士が福を損なったのにも及ばないことになった。

 

塩商の娘

 

銭梅溪はいった。揚州に某塩商の娘がおり、たいへん美しかった。平山堂[58]に遊んだことがあり、江都知事に逢ったが、避けなかった。その時、知事はすでに酔っており、この娘が娼婦であると思い、有無を言わせず、鞭うった。女が号泣して家に帰ると、その父兄は怒って知府に訴えようとした。その夜、夢みたところ、神が女に語った。「おまえはふだん旧い書冊に刺繍糸を挟み、さらに小説曲文を見るとすぐに床褥の間に置き、その上に坐臥していた。冥府はおまえの福徳が厚かったので、特別に酔った下役の手を借りて軽い罰を示したのだ。さもなければ寿命を削らなければならぬ。」女は目ざめるとその父に告げたので、事は収まった。後にいたくみずからを悔い改め、夫が貴くなったため、封号を受けた。

 

◎隆慶

 

梅溪はさらにいった。嘉慶元年、わたしの郷里の秦蓉荘都転が一族の旧宅を買い、宝仁堂といった。土中から一つの小さい(いしぶみ)を掘り出したが、上に六字があり、「隆慶に得て隆慶に失ふ」とあり、いっていることが分からなかった。後に調べると、この宅はたしかに前明の隆慶初年に建てられ、秦家に売る時は前年から相談を始め、たしかに乾隆六十年で、今は嘉慶元年で手続きが終わったので、前は隆慶に得、後ろは隆慶に失ったのであった。これも珍しいことである 。だとすれば邸宅の移転にはそれぞれ定めがあるので、世の営営として占有を謀るものはやはりやめるとよい。

 

◎徐北山

 

梅溪はさらにいった。乾隆五十年に、天津の人徐北山というものがおり、鹺務[59]によって家を興したが、後にだんだん没落した。以前、除夜に金貸しを避け、(うらまち)に身を置いたところ、暗闇の中でたいへん悲しい泣き声がし、火で照らせば、一人の寒士が負債を償わなかったため、自殺しようとしているのであった。北山は告げた。「わたしも人に負債があって償わないもので、あなたはにわかに早まった考えを起こす必要はない。」その負債が幾ばくかを尋ねると、言った。「二百両です。」懐の中の銀を探るとちょうどその数に合っていたので、すべてを与え、その人は叩頭感謝して去った。十余年後、北山はもと通り貧しかったが、長子瀾、次子淮は文武の両進士に合格し、第三子漢は嘉慶戊午挙人に合格し、その孫文煥も道光戊子[60]に挙人に合格し、今は津門[61]の望族となっている。

 

◎夏源泰

 

梅溪はさらにいった。呉中の夏源泰は、斉門[62]西匯[63]におり、材木屋を開き、暮らし向きはたいへん豊かであった。その先祖はもともと仕立て屋で、一つの店を開いていたが、店の傍らに厠があった。ある日、厠で落し物の金三百両を得たので、その人を待って返すことにしたところ、材木屋の店員であった。その人は帰り、喜んでその主人に告げ、主人は夏の人となりを奇とし、家に招き、その衣服を作らせること数年、商売仲間にもしたので、金持ちとなった。言い伝えでは、その子若孫は、今でもまだ元気であるという 。

 

◎膈翁

 

梅溪はさらに言った。無錫県東門の某姓は、克宝橋[64]におり、もともと膈證[65]を患い、近所では膈翁と呼びなしていた。ある日、たまたま茶屋に入り、包みを拾い、開けたところ、すべて金珠[66]であった。そこでひそかに考えた。「死期が訪れようとしているのだから、必要ない。」そこで家に持って帰らず、坐して番していた。まもなく、一人の老嫗がよろよろと来、泣きながら探したので、そのわけを尋ね、返したところ、感謝して去った。家に帰ると、たちまち目が眩んで悪心がし、かたい痰一塊を吐き出した。硬くて牛皮のようで、刀で断っても、すぐに合って一つとなったので、みな驚いた。それから、膈證はにわかに癒え、後に天寿を全うして、暮らし向きもだんだん盛んになった。

 

◎石魯瞻

 

江県にp隸石魯瞻というものがおり、心はたいへん慈悲深く、出仕する前、かならず用いている竹板を取ってたいへん細く磨き、あるいは糞缸に浸し、竹の性質をすべて変え、打たれるものが痛いおもいをしたり傷ついたりしないようにすることができた。かれが重い板を用いるようにひそかに頼んだものがいたが、石は嗚咽して声を出せず、言った。「わたしはそのようなことをするに忍びない。」このようにすること五十年であった。今でもまだ生きており、年は九十五、四代同堂で、児孫は膝を巡っている。陳海霞[67]がわたしのために述べた。

 

◎長楽[68]の二人の生員

 

長楽に二人の生員がおり、ともに県学に入り、文芸を切磋し、たいへん親しくしていた。甲は富んで奢り、乙は貧しく倹やかであった。乙は二十年廩餼[69]修脯[70]の収入を蓄え、やっと百両を得、甲に託し、利息を生じさせ、毎年利子を収めることを常としていた。まもなく、甲の家はだんだん没落した。乙の子女は成長すると、元本の銀を回収しようとし、催促すること一年あまりであった。両家は数十里離れていたが、甲はひたすら冷たい顔と偽りの言葉で逃れ、償う意思はなかった。乙は憤り、結局噎疾[71]のために死んだが、甲はまだそれを知らなかった。甲がある朝、堂を出ると、乙が衣冠を着け、階を登ってきたが、悲しげな様子であった。迎えると、たちまち見えなくなったので、甲ははじめて驚き叫び、書斎に避けたが、乙は先に書斎に入っていた。寝室に避けると、乙は今度は寝室にいた。室内の侍児らはみなそれを見、甲はたいへん驚き、布団を被って臥し、ならびに大勢の壮夫に命じて守らせていたところ、乙の訃報が来た。甲がつとめて起き上がり、位牌を作ってそれに哭し、供え物をして告げたところ、乙が正面に坐しているのがぼんやりと見えたが、項より上が見えるだけで、かれが飲食しているものも見えなかった。甲は即日財産を売り上記の金の元本利息をすべて償ったが、それでも毎日乙がかれの眼中に現れ、悸疾[72]になって歿した。乙は年が六十を越えたが甲は五十に及ばなかった。

 

ひどく淫した報い

 

浙中に某郷紳がおり、門に寓居し、たいへん金持ちであった。(めした)のものを使う時、きわめて残忍であり、生まれつき淫行を好み、家の下女にはかれのお手つきでないものはなかった。すこしでも思い通りにならないものがいれば、かれらの下着を剥ぎ、両腿を露わにさせ、天を仰いで伏させ、数十回打つのであった。叫ぶものがいれば、さらにその数通り鞭うった。焼き鏝その胸を火傷させたり、刺繍針をその口に刺したり、鋏でその舌を切ったり、木の枷をその頭に掛けたりした。凶暴な者がいれば、大きい青石を穿ち、鉄の鎖でその足を石に繋いだ。さらに地を掃除させ、歩くたびに引きずらせた。千万態、人々は寓目するに忍びなかった。隣人たちはそれを聞くと、みな憤激した。ある日、人々を率いて門で罵ると、主人は怒り、全員を縛った。それから人はますます多くなり、かれの家具をほとんど打ち壊した。大官はこのことを知り、知府に下して徹底調査させ、獄に下したが、結局証拠がなく、護送して本籍に帰らせただけで、その家はすでに破産していた。家大人が蘇藩[73]であった時にこのことを目撃した。ちょうど役所に某郷紳のもとのしもべがおり、深くそのありさまを知り、たいへんくわしく語り、将来さらにどんな報応があるか分からないとも言った。

 

◎あやまって奸淫した報い

 

門の王某は、除夜に天榜[74]にすでに六十七名が合格しているのを夢み、目ざめてたいへん喜んだ。その晩、金陵の寓居の主の夢も同じであった。承諾すると、諸々の寄寓しに来るものたちはみな収めなかったが、王が来るのを見ると、姓名が合っていたので、夢を告げ、手厚く待遇し、王はますますみずからがかならず合格すると信じた。合格発表になると、名がなかったので、憤って城隍廟で祈った。夜、夢みると、神が声を荒らげて叱って言った。「おまえはもともと審査を経[75]、すでに合格者の中に列なっていたが、いかんせんおまえはおばと姦淫したので、おまえの籍を奪ったのだ。」王某は夢の中で泣きながら、わたしにはおばがいませんから、姦通できませんと弁じた。神はまた叱った。「女遊びしたことがあるか。」王某は女遊びしたことはたしかにございますが、今どうしておばというのでしょうかと言った。神は言った。「調べるとその美人はおまえのおばで、知らずにしたこととはいえ、淫は最大の悪だから、ふたたび誤ってよいはずがあろうか。おまえの功名はもともと遠大であるはずだったが、今はすべて削ろう。」王は驚き悟り、悔い怨んで死んだ。汪棣香[76]は言った。「蘇州には青楼がたいへん多く、女遊びすることは通常のことと見なされ、あるだけ冥冥の中に通融しない一線、官長は女遊びすれば免職となり、国法がそれを懲らしめ、士人が女遊びすれば籍を除き[77]、天曹[78]がそれを懲らしめる。だとすれば士大夫たるものは、むしろ迂腐の名を受けても、風流の債務を負わない[79]。」

 

◎僧允中

 

僧允中は、俗姓を張といい、蘊輝と号し、長洲の旧家の子であった。兄の芝岡先生[80]は乾隆辛丑[81]の進士[82]に合格していた。蘊輝はかれから学業を授かったが、勉強しても成就せず、家を出て銭穀[83]を学び、湖南に遊幕[84]した。長洲府瀘溪県に某というものがおり招いて銭席[85]を司らせた。嘉慶元年、苗匪が事を起こした時、地方官は競って功を建てようとし、苗人を捕らえれば、その是非曲直を弁ぜず、かならず殺していた。黄は張有一[86]の事件の七八人を捕らえ、審理しようとしていたが、刑席[87]の幕友はよそへ出ていたので、蘊輝に草稿を作らせた。蘊輝がつよく諌めても従わず、結局上申し、斬罪の判決を受けた。一年後、苗匪が平らぐと、黄はすぐに死んだが、年は三十足らずであった。十九年秋八月になり、蘊輝はたまたま揚州にゆき、ある飯店に寓し、夜に夢みたところ、二人の男に連行され、大きな建物着いたが、今の督撫[88]の役所のようであった。見ると、一人の少年が広間に坐し、両脇の下役は粛然として取り調べしているかのようであった。蘊輝はどうしてわたしを訴える人があろう。どうしてこちらに来たのだろうとひそかに思った。振り向くと、たちまち黄を見、もよく蘊輝を見たが、気づかないかのようであった。蘊輝はきっと横領事件が露顕し、自分に累が及んだのだと思った。まもなく、蘊輝の名を呼び、上座に着いているものは言った。「苗人張有一の事件はおまえが裁いたのか。」蘊輝ははじめて豁然としてそのことを思い出し、供述した。「およそ刑・銭両席[89]が事件を処理します時は、すべて主人の決定に従うものでございます。この事件などは、当時過ちを諌めましたのに、主人が従わなかったもので、わたしの罪ではございません。」上座に着いているものは言った。「おまえは草稿を書き、上官に報告したのだから、どうして避けることができよう。」しばらく言い争うと、上座に着いているものが一人の下役を見て言った。「ひとまず人の世に返し、出家して善を行うことができるなら、許せよう。」蘊輝はそれ以上弁論しようとしなかったが、見ると黄が悲しんで泣き、すでに刑具に登っていた。前の二人はまたかれ[90]を助けて出したが、たちまち暗闇で道が分からなくなり、さらに雨雪がつぎつぎに加わり、一面がぬかるみ、転んで目ざめた。そこで翌日に荷物を整理し、舟を雇い、高明寺[91]にゆき、剃髪し、僧侶となった。蘊輝は銭梅溪と親しく、みずからその顛末を梅溪に述べ、筆記してくれと頼んだことがあった。家大人は揚州を過ぎ、高明寺に遊び、やはりその人を見たことがあった。

 

◎綿花を交換すること

 

乾隆年間に銭焜というものがおり、無錫城の北門の外に住み、数百両で綿の農園[92]を開き、綿布と交換し、生計の足しにしていた。隣家に娘がおり、年は十三四ばかり、抜群に艶麗であったので、綿布を綿花に換えるたびに、焜はつねに多く与え、娘もかすかに気づいていたが、両家は特別の思いはなかった。二三年足らずで、焜は元利を損したので、休業し、慨然として家を出、京師を十余年流落した。貧苦と病苦が続き、容貌は乞食のようになった。ある日、西直門外[93]にゆくと、たちまち車馬と儀従[94]がたいへん盛んであり、一台の緑幃朱輪の大きな車があり、中に一人の娘が坐しており、珠翠[95]が頭に満ちているのを見たが、焜ははるかに望んで近づこうとしなかった。その女は焜を見ると、やはりしばらく注視し、しもべを呼び、車の前に招かせ、言った。「どうしてこちらに来られました。」焜は気づかなかったので、まるで夢の中のようで、唯唯とするばかりであった。そこで従者に命じ、一頭の馬を引かせ、いっしょに城に入らせた。ある朱門の大邸宅に着くと、その女は奥の門に入っていったが、そもそも某王府の副福晋[96]であった。まもなく召され、焜が入ると、言った[97]。「わたしは隣家の娘××で、以前あなたと綿花を交換したことがございましたが、あなたの厚徳に感じ、お招きしたのでございます。」そこで中表兄妹ということにし、王府に出入りさせた。三四年間、焜は数千両を得、家庭教師となり[98]、謄録官に任ぜられた。議叙[99]により、県尉[100]を得、まもなく内黄[101]県知事に昇任し、直隷河間府の同知[102]に選ばれ、知府の職務を代行した。これは紀文達公が述べたことである。厚徳の報いを、家大人はつつしんで記した。

 

◎東平の王馬夫

 

江陰の諸生に陳春台というものがおり、家はたいへん貧しく、子供を教えて自活していた。ある日、門を出ると、突然一陣の旋風に遭い、心骨がすっかり冷たくなるのを感じ、帰ると病が起こった。かんなぎに尋ねると、東平王[103]が祟りをなしていると言った。家人は競って祈ったが、春台はもともとこのことを信じておらず、する力もなかった。隣家の老婆が代わって周旋してやり、五千銭を借り、一回祈ると治った。後に春台はこのことを知ると、たいへん怒り、一詞を整え、東岳に訴え、東平王は正神だ、どうして人に祭りを求め、寒士を苦しめることができようと言った。とある晩、夢みたところ、東岳神に捕縛尋問された。春台が案下にゆくと、堂上で伝呼した。「東平が来た。」振り返ると、黒い袍を着けたものが案の前で目通りしており、神が尋ねた。「今、告訴している人がいるが、知っているか。」東平は言った。「存じませぬ。」さらにその土地の城隍神を召して訊問すると、城隍神は言った。「本官はすでにはっきり調べましたが、東平公の馬夫が狡獪で、東平は本当に知らなかったのでございます。今、馬夫もこちらに連れて来てございます。」東岳神はそこで斬るように命じた。春台は案に跪き、馬夫がすでに縛られて出ていったのを見ると、訴えた。「馬夫は死刑になりましたが、わたくしが費やした五千銭は、借用して来ましたもので、取り戻し、借金の清算に便ならしめますことを求めます。」東岳神はためらっていたが、突然語った。「二月過ぎに靖江[104]にゆけば取れよう。」そこで目ざめたが、全身に大汗をかいていた。一二か月経つと、親友が故あって手紙を春台に寄越したので、江を渡っていったところ、たまたま路傍で小さい紙一枚を拾ったが、それは銭票で、ちょうど五千で、銭の店で取って帰った。そもそもこのことは小さいが、やはり冥土の法律が厳格で、すこしも冤罪がないことが分かる。

 

債鬼

 

常州の某学究は、子供を教えることを仕事としていた。子がおり、わずか三歳であったが、妻が突然死んだので、子を連れ、館舎の中で育てた。四五歳なると、すぐに書を読むことを教えた。年が十五六になると、四書五経習熟し、蒙師になれた。毎年の父子の館穀[105]は都合四五十両、やや貯蓄ができると、子を結婚させてやった。まさに結納を送ろうとすると、にわかに大病して死にそうになり、大声でその父の名を呼んだ。父は愕然として言った。「こちらにいるぞ。どうした。」病人は言った。「あなたは前生でわたしと会うことが多く、わたしに二百余両を借りました。××のことで××を免除し、××のことで××を免除しましたが、今なお五千三百文を払わねばなりません。いそいでわたしにお返しくだされば、わたしはすぐに去りましょう。」そう言うと絶命した。これは本当に、世俗でいう 、「討債鬼」[106]である。およそ夭折する子は、みな借金を取りたてるために来るが、このようにはっきりと言うものは、十に一二もない。そして人の父母たるものが、かえってかれらのために悲しむのも、たいへん嘆かわしいことである。

 

◎婚書[107]を書くこと

 

乾隆末年、[108]に監生某がおり、文章を能くし、その嫡母にはお気に入りの下女がおり、寡婦となったばかりであったが、他のしもべと通じ、嫁ごうとした。嫡母はこのことを仕切ったが、婚書を作ってやる人がいなかったので、生に命じて代作させようとした。生は陰隲を損なうことを恐れて辞した。母は強制したので、やむをえず、草稿を作ってあげ、他人に代書させた。おりしも秋闈[109]で、生は妻が実家に帰寧していた。まもなく、妻の父が神を夢みたところ、神は告げた。「おまえの婿は今回郷試に合格するはずだったが、人のために婚書をかいたので名を除いた。」目ざめて娘に尋ねると、娘は言った。「さようなことはございません。」後に家に帰り、しゅうとめと語ると、しゅうとめははじめて以前のことを告げた。妻は言った。「だめだ。」その試験では本当に貼出[110]となり、最後まで受験できなかった。後に数回受験したが、結局及第しなかった。このことから、冥罰がやはりいたって重いことが分かる。

 

◎劉天佑

 

劉秀才は、名を天佑、字を約斎といい、長洲の人、何度も郷試に推挙されたが、合格しなかった。その住居は察院巷[111]の城守[112]の官署の西にあり、役所の南には高い丘があり、明末の兵燹の後、骨が埋められ、累々としていた。乾隆年間、城守某はすべてその遺骨を移し、照牆[113]を築こうとした。天佑はその計画を聞くと、惻然としたが、資力に乏しかったので、親戚友人に借金し、数両を得、その骸の瓶に蔵せられているものに関しては、人に頼んできちんと埋葬させた。都合百十体を埋めると、資金は尽きた。天佑は憐れに思ったがどうしようもなかった。その年の秋、省試[114]を受けたが、やはり推挙されても合格しなかったので、いよいよ鬱鬱として楽しまなかった。臘月二十四日の夕、天佑は竈神を祭り、願文を調え、平生大きい陰徳はないが、埋葬の一件だけでも福分を挽回できるはずなのに、なんと神さまのお耳は聡くないことかとみずから言った。辞色はたいへん不満であった。一晩後、夢みて城隍廟にゆくと、神が座に昇り、天佑を呼んで言った。「おまえは書を読むものなのに、どうして功名富貴遅速におのずと必然があることを知らない。どうしてみずから骨を埋めた一件を誇り、みだりに神さまのお耳を悲しませることができよう。これ以上改めなければ、おまえの生員の地位を剥奪しよう。冥土がおまえに結局善根があることを考慮し、善を行い怠らぬことができれば、合格しない心配はない。」天佑は唯唯として目ざめた。それからすこしも怨もうとせず、三年後、[115]の百余位に合格した。後に官位は中書舎人となった。

 

◎倪瞎子

 

揚州に倪瞎子というものがおり、孑然として一身で、旧城[116]の城隍廟に寓居し、毎日人のために占いし、数十文を得、それによって生活していた。風雨に遇い、来る人がいなければ、空腹で世を過ごした。ある日、ある商家の若者が金持ちになり、たまたま妻妾を連れ、廟に入り、香を焚き、輿従[117]はたいへん盛んであった。見てみると、心が動き、ひそかに神前で黙祷した。「かれは下賎なのに、このように栄え、わたしはもともと旧家なのに、このように飢え凍えている。なんと天には目がなく、神には霊験がないことか。」その晩、ふと夢みたところ、城隍神に捕縛尋問せられた。神は言った。「おまえはどうして告訴した。かれは福を受ける運命、おまえは苦を受けるべき運命で、ともに定めがあるのに、天を怨み、人を咎めるのか。それはたいへん軽率であるから、儀徴県に命じ、杖で二十回責めさせよう。」倪は一驚して目ざめた。翌年の冬、儀徴に嫁いでいた倪の妹が、病死した。それを葬送しにゆき、三更になった時、急に腹が痛み、我慢できなくなり、門を開け、糞しようとした。すると巡夜官に遇ったが、問われても答えなかったため、衣服を剥がれ、二十板責められた。かれの甥はそれを聞き、外に出て弁解しようとしたが、すでに杖うち終わっていた。神はかように侮れないものである。

 

◎揚州の趙氏の娘

 

揚州の趙氏の娘は、もともと孝によって称えられていた。父は喘息を患い、娘は年がやっと十四であったが、朝晩世話し、衣帯を解かなかった。そのため寒疾[118]に罹ったが、つねに秘して両親に知らせなかった。道光辛卯[119]、年が十八の時、病はますます篤くなった。四月十日、正午、枕に寄って危坐していたが、突然言った。「わたしにおまえがまだこちらにいると言ってはどうだ。」家人が愕然として尋ねると、すでに意識を失っていた。喉は呼吸していたが、痰の音がし、一時して蘇った。みずから言うには、前世で科甲から貴州某県の知事となった、県には節婦宋王氏がいたが、郷紳が彼女の容色を漁ろうと思い、県令を金で動かし、事実を偽造させたので[120]、節婦は身をもって殉じたとのことであった。語っていると、女はたちまち声を荒らげて言った。「来たぞ。」すぐに瞑目し、憂え苦しむ動作をし目ざめると、また述べること再三であった。十三日の晩、女はたちまち狂呼跳躍し、大人の婦人数人でも制することができなくなった。その夜、列ねていた炬火は豆のようになり[121]、娘は殿上で怒鳴る[122]声、痛いと叫ぶ声、憐れみを乞う声を出した。まもなく、さらに嘲笑の動作をしたり、悲嘆の動作をしたりし、情況は一様でなかった。法廷で裁いたり、胥吏が騒いだりするさまに、実によく似ていた。翌朝、両頬は赤く腫れ、臀肉はすべて腐っていた。姉弟に因果を信じぬ者がおり、どうして生まれ変わった後に報いるかを質したところ、こう言った。「先祖は根基[123]がたいへん厚かったので、次[124]は男の身を得、今はじめて女になったのです。」家人は節婦に娘の命を許すように頼み、ながく香火を捧げようとした。すると言った。「あなたたちは自分で見たので、頼んでやるのは当然のことで、ながく怠ることはないでしょう[125]。わたしは冥府に訴え、命を奉り、こちらに探しに来た以上、今さら許すことはできません。」そう言うと、舌を蛇のように伸ばしたが、家人が懸命に守ったので、恙なかった。その後、斎醮[126]したが、娘はすべてを知っており、床に就き、頂礼の動作をした。その後、こう言った。「このような大きい怨みは、結局懺悔するの難しい。六月四日に人が揃うのを待ち、判決しよう。」五ヵ月後、かれの父母はふたたび薬食で治療したが、高価な物に遇えば、かならず地に棄て、言った。「おまえは罪人だから、これを食うことはできない。」たまたま禍福の事を語ったが、すべて事実と合っており、その兄弟に頼んだ。「わたしは現世でもとより罪はございませんが、前生での過ちにより、さまざまな災難を経てここに至ったのでございます。あなたがたが父母によく仕え、つとめて正しい人になりさえればようございます。」期日になると、奄奄[127]として歿した。

 

◎武林[128]の胡女

 

武林の胡氏の娘は、名を淑娟といい、総憲[129]文恪公[130]の曽孫女、叙庭観察[131]の孫娘、循咳[132]鹺尹[133]の五女であり、鹺尹は揚州の東台場[134]に赴任していた。道光十二年、観察が死んだので帰り、葬儀を行い、悲しみ疲れ、病となった。娘は父の病が激しいことを聞き、母に従い帰郷することを願ったが、認められなかったので、ひそかに城隍神、ならびに城南の観音楼に願文を捧げ、身をもって代わることを祈った。輿に乗るに臨み[135]、家人に頼んだ。「わたしが去った後、どうか倹約してください。」人々は理解できず、唯唯とするばかりであった。まもなく帰って来、門に入ると、面色が紙のようになり、まっすぐに寝室に走った。人々は暑気に中ったと思い、痧粒[136]を進めたが、娘は天を仰いでいるばかりであった。まもなく、重なった襟に血が染み透ったので、衣を掲げて見たところ、胸は[137]として、佩刀はまだ手にあった。いそいで傷薬を塗ったところ、倒れ臥すこと四昼夜、突然蘇り、泣いて言った。「お父さまはもしや本当に助からないのでしょうか。昨日、白衣の人が楊の枝をわたしの胸に注ぎ、言いました。『おまえの求めに従い、おまえの母が、三日前杭州に着き、おまえの父に会うことができるようにさせたが、命はむりに延ばせない。』翌晩、夢みましたところ、お父さまが衣冠で来、仰いました。『母さんと兄さん・弟はそれぞれ無事だ。おまえはひとまず安心しろ。』わたしは衣を引き[138]、大声で泣き、言いました。『お父さまは本当に助からないのですね。』」六日後、凶報が来ると、娘は傷が自然に合わさった。当初、娘は銭塘の名諸生朱鼎華の妻となることを約していた。朱の母は聞いて悲しみ、結婚することを求めた。娘は言った。「わたしは兄弟のように湯薬を奉り含斂[139]を見ることができませんでした、どうして三年の喪に服さずにいられましょう。」半年後、姑の病が激しくなったので、娘ははじめて母の命に従い、朱に嫁いだ。衣帯を解かず、割股し、薬を投じたが、病は結局良くならなかった。夫婦は部屋を別にし、喪が明けると婚礼を行った。一年後、一人の娘を生んだ。壬寅の、朱生は邗上[140]に遊び、英夷の乱に遭い、帰れなかった。言い伝えでは、揚城[141]が陥落すると、娘はひとりじっとしていられず、病になった。臨終の時、下女の手を執り、こう言った。「おまえにふだん『列女伝』および『孝経』の諸書を読ませていたから、わたしに替わる人がいる。」玉箸[142]一尺あまりを垂らし、瞑目した。

 

◎虎による巧みな報いのこと

 

荊溪[143]に二人の男がおり、髫年[144]でたがいに親しくしていた。壮年になると、一人は貧しく、一人は富んだ。貧しいものは読み書き算盤を解するだけだったが、その妻は美しかったので、富むものは計略を設け、ある富豪が銭穀を管理する人を求めているから、身を寄せにゆけると言った。貧しいものは感謝し、富むものは舟を準備し、その妻をも載せ、いっしょにいった。山に着こうとすると、貧しいものに言った。「あなたは奥さんを置いて舟を見張らせ、わたしはあなたと先に尋ねにゆきましょう。」貧しいものは承諾し、ともに山に登った。富むものはくねくねと道を進んで溪林の人気のない場所に引き込み、ひそかに腰の鉞を出してかれを伐り、泣いた振りをして山を下り、その妻に言った。「ご主人はトラに殺されました。」女が大声で泣くと、富むものは言った。「いっしょに探しにいってみましょう。」女とともに山に登り、さらに溪林をくねくねと道を進んで人気のない場所にゆき、抱いて淫することを求めた。女は慌てて泣いていると、突然トラが草叢から出て来、富むものを銜えて去った。女が驚いて逃げ、はるかに眺めると、山の向こうから一人の男が泣きながら来たので、驚いて幽鬼かと思ったが、その夫が腰を抱えて来たのであった。重傷を負っていたが、まだ死ぬに到っていなかった。そこで抱き合って大声で泣き、それぞれその事情を語り、悲しみを転じて喜びとした。

 

大娘娘(ターニャンニャン)[145]

 

銭梅溪が言った。「わたしのおいの嫁楊氏は、結婚後、一男一女を産んだが、突然発狂し、平地を踏むかのように牆壁を登り、屋根に上がった。ある晩、呉興訛りになって言った。『大娘娘、あなたを三十年探しましたが、こちらにいらっしゃいましたか。』ばあやが驚き、神さまはどちらから来られました、怨みがおありなのですかと尋ねたところ、こう答えた。『わたしはもともと××家の妾でした。主人が死にました時、わたしは妊娠していましたが、大娘娘はどうしても内侄[146]を跡取りにしようとしました。出産しますと、男の子でしたので、大娘娘は望外のことを喜ぶ振りをなさいました。三朝で沐浴をしました時に、なんと刺繍針を子供の臍に刺しましたので、すぐに泣き、死にました。わたしは子供が死にましたため、やはり自経しました。さきほどその事情を知り、すでに城隍神に告げましたので、まもなくあなたを捕らえに来ましょう。』そう言うと、大声で笑った。数日足らずで、楊氏の狂乱はますますひどくなり、地に伏して叫び、刑を受けているもののようになり、まもなく死んだ。わたしの家の年寄りが言った。『このような案件は、すぐに解決してやるべきだが、遅れることが三十余年に達しており、冥府の裁判もだらしないことが分かる。』わたしは言った。『事件が長引いても、法網を漏れるに到らなかったのだから、鬼神の公平さはもとより人の世に勝っている。』」

 

◎向う気を戒めること

 

若いものは性情が浮付いており、力比べ・食べ比べで、いささかみずからを慎まねば、往往にしてみずからその身を損なうので、戒めざるを得ない。聞いたことがあるが、門に糖団[147]という物があり、糖を糯米に混ぜ、胡麻を衣にし、油で揚げるのだが、膈や脾に閊えるので、たくさん食べることはできなかった。某甲というものがおり、体がたいへん丈夫で、よく糖団を食べることを自慢していた。某乙はかれが意気盛んで大言しているのを見ると、かれを刺激して言った。「百団まで食べることができれば、虎邱に燈船[148]を準備して迎えよう。」某甲は諾った。ほしいままに貪り食い、食べること五十余団を過ぎても、すこしも難色がなかったので、傍らで見ていたものたちは怪しんだり、心配したりした。某甲はもとより意気盛んで、八十余団食べるに及び、辛いと感じ、だんだん呑み込めなくなった。某甲はそれでもどうしても約束を守ろうとし、結局百団を食べ尽くした。当時は胸腹が膨れ、全身は不快であることだけを感じ、その後、ますます膨れ、ますます大きく、木石のように硬くなり、苦しみは言うに勝えなかった。仲間は病が危ういのを見ると、すぐにその家人を招き、その地に来させた。その時、名医薛一瓢[149]というものがおり、字は雪白といい、葉天士と同名(葉は天分で勝り、薛は学力で勝っていた。薛の庁には掃葉堂と題し、葉の広間には掃雪堂と題し、二人はともに譲らず、本当に甲乙つけ難かった)、ともに薛の家に扶けてゆき、顛末を告げた。薛は一時(いっとき)診察すると、言った。「治せません。六脈[150]は等しく腹の中に伏し、凝結してすでに銅牆鉄壁のようです。治療しても力がなければ効かず、治療するのがたいへん激しければ、正気[151]がたちまち漏れて亡くなりましょう。はやく家に帰り、お葬式を手配なさい。」人々は手を束ねて死を待つなら、ひとまず葉天士にも頼んではどうかと言った。薛は言った。「わたしが治せない病は、葉さんも治せませんが、ひとまずいって尋ねてごらんなさい。」人々はまた介添えして葉の家にいったが、葉の言うことはすべて薛と同じで、やはり治らないといって断った。人々は黙然として、すぐに退き、門を出ようとした。葉はさらに招いて言った。「薛さんに尋ねましたか。」人々が薛の言葉をくわしく述べると、葉は言った。「わたしが治せないと言いましたのに、これ以上どこへゆくのです。」人々は言った。「薛さまは治らないと言い、あなたが仰ることもそのようであるということは、本当に治らないということでございます。かれの家に送って死を待たせるのでございます。」葉はしばらく沈思すると、言った。「死んだ馬を活きた馬として治療することはできますか[152]。」人々はそれを許した。葉はそこで中に入り、薬を煎じ、一時足らずして一碗を出したが、米のとぎ汁のように白く、粘っており、こう言った。「まずこれを服用すれば、その後で飲む薬があるはずです。」服用し終わり、一時してからさらに一つの大きな碗を出したが、色はたいへん黒く、濃厚であった。葉はすべて服用させた。まもなく、腹がかすかに動き、すぐに大便し、ついで下した。下すほどに腹はゆるくなり、下すのがやむと、腹は柔らかくなり、人が疲れるのを感じるだけで[153]、ほかに苦しみはなかった。そもそも某甲の病は、治療の一法があるだけだが、急激に治療すれば人は耐えず、緩慢に治療すれば人は待つ余裕がない。薛と葉はみなかれらを知っており、葉は薛とだけ名声を争おうとし、かならず薛が治せないと断るのを待ち、はじめて存分にそれを治そうとした。それは治療して効果があれば名声はますます自分に属し、治療して効果がなくても罪がないと人に告げられるからであった。葉はもとより医療によって富を致したもので、その白色の薬は、真参[154]四両を煎じて作り、その驟脱[155]防ぐものであった。黒色の薬は、一斤ばかりの硝などの味用い、濃く煎じて作ったもので、牆壁を突き崩す効能を為したのであった。ああ。やはり神技である。薛が治せないと断り、さらに葉に尋ねなければ、その人は死に、葉に尋ねて葉が薛に尋ねるに及ばなければ、その人はやはり死んでいた。不治の病は葉が結局治そうとしたが、一時的に四両の真参が乏しく、薬はかならず効果がなければ、その人はやはり死んでいた。ああ。それも危険であった。だとすれば、人はわが身を殺すことを惜しまずに、軽率に他人と食べ比べする必要はない。さらに聞けば、塩鹵[156]を服した者は、人は腸を断たれて死ぬが、ラードを飲ませるとすぐに解毒するそうである。わたしの郷里であるものがこの秘訣を知っており、人と賭け、塩鹵を服することを競い、勝利を得ることが多かった。ある日、その人は朝に門を出る時、妻に頼んでラードを溶かして待たせたが、そもそもさらに人と塩鹵を食べることを競おうとしたのであった。夕方その人が突然帰宅し、いそいでラードを探したところ、その妻はちょうどラードをすべて溶かし、釜から出したばかりだったので、口に入れるのは難しかった。大声で叫び、腹が痛み、狂ったように跳ねて止まず、一刻過ぎて死んだ。これは前の糖団で賭けをしたこととともに戒めできるものである。

 

馬禹

 

馬禹平は、浙東の商人で、資金を持って蘇州、揚州、漢口、仏山[157]の間を巡っていた。数年間で、損失はなかったが利得も幾ばくもなかった。同県の張賈が日に日に商売繁盛しているのを見ると、家を訪問し、質問した。「あなたと資金を合わせ、いっしょに仕事し、世間の経済を学びたいのですが、いかがでしょうか。」張は言った。「わたしはふだんから人といっしょに仕事するのに慣れておらず、お言葉どおりにすることは難しゅうございます。」馬は言った。「わたしは隣家の光[158]を借りて陋室を照らしたいのですが[159]、いっしょに仕事できないのでしたら、驥尾に付すのはいかがでしょう。」張は承諾し、日を決め、ともに仏山にいったが、品物に出色のものが少なく、値段も高すぎたので、張は言った。「荷物を載せてむなしく帰れば往来の旅費を損しますから、洋錫[160]一頂[161]がありさえすれば、途中、風雨を恐れず、さらにいささか蝿頭の利にありつき、旅費に当てることができましょう。」そこでそれぞれ洋錫千五百塊を買い、舟を雇い、別々に積み、出発する時はともに出発し、停泊する時はともに停泊した。ところが十八灘[162]を過ぎると、馬の舟は難破した。張の水夫の力を借り、命を救ってもらい、荷物を見つけたが、洋錫はすでにすっかり水に沈んでしまった。張は言った。「他の物は水に沈めば、大半は台無しになってしまうが、錫は問題がない。人に頼み、水に入って掬わせれば、すぐに見つかる。わたしはあなたを待ち、いっしょにゆこう。」馬は言った。「わたしはたいへん驚きましたが、得失はすべて運に任せています。あなたがわたしのために留まるのでは、心は本当に安らかではございませんし、いつ事を終わらせられるかも分かりません。先にゆかれてください。」そこでみずから上陸し、土地を借り、職人を集め、篷を編み、小屋を建て、張にゆくようにつよく求めた。張がやむを得ず、帆を揚げて去ると、馬は灘のほとりの人々と約束した。「灘の底から錫一本を取ることができたものには、金五銭を報酬としよう 。」すると人々はみな水に跳び込み、潜って取って献じた。三日すると、沈んだ錫はその数が揃ったが、灘のほとりの人はまだ紛紛と水に入って掬い取り、馬はなおもそれを収めた。十日で尽き、その数を調べると、数は四倍を越えていた。搭載し、江南に運んでいって売ると、資金が五六万に満ちた[163]。これより前、張は先に帰郷し、馬家に事情を告げ、家中が驚き慌てていた。一日後、馬も欣然として家に来、くわしく禍を転じて福としたことを述べ、噂が外に聞こえないようにさせた。そして張を訪ねて慰めた。それから馬はゆけばかならず儲かり、富は結局張に十倍した。そもそも十年前にある豪商が十八灘を通り、巨舟が壊れ、客および水夫には一人も助かったものがいなかったのであった。沈んだ洋錫は少なくなかったが、土地の人はそれを知らなかった。ちょうど馬も難破したので、すべて掬い、すべて献じたのであった。そもそも馬は沈没の禍に遭い、心はがっかりしていたが、災禍の来たことが、まさに幸運の来たことだったのであった。誰が新しい錫を旧い錫の上に沈めさせ、さらに張の舟を沈めずに馬の舟だけを沈めたのか。富貴利達には、(さだめ)があることが分かる。愚かな心で妄想するものたちも、はっと悟ることができよう。

 

最終更新日:201843

北東園筆録

中国文学

トップページ



[1]http://zh.wikipedia.org/zh/%E5%BD%92%E5%AE%89%E5%8E%BF

[2]http://zh.wikipedia.org/zh/%E7%8E%8B%E4%BB%A5%E9%8A%9C

[3]http://www.zdic.net/c/b/3/6533.htm星命家が人の出生の年、月、日、、それぞれ天干地支を配したもの。

[4]http://ja.wikipedia.org/wiki/1795%E5%B9%B4

[5]原文「既念先宛轉以活姑」。「宛轉」に関して漢典に適当な語釈はないと思われる。訳文の意に解す。

[6]斗旗杆のこと。試験で、状元及第者の前に建てる旗

[7]原文「後孝廉厝棺於野」。厝棺は土中に棺を埋める前に棺を屋内外に仮安置すること。厝葬。

[8]http://www.zdic.net/c/6/6d/109634.htm官名。布政使司直属官の一つ。刑務を掌る。

[9]http://www.zdic.net/c/a/77/120868.htm達官人の冠。後に高官を指す。

[10]http://www.zdic.net/c/a/6c/107334.htm人の父。

[11]http://www.zdic.net/c/a/15/32511.htm風水師

[12]http://www.zdic.net/c/8/29/62818.htm高冠闊帯、士大夫の装束。

[13]http://www.zdic.net/c/6/158/346569.htm昏乱、不明。

[14]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%92%B1%E7%BB%B4%E5%9F%8E

[15]http://baike.baidu.com/view/189071.htm

[16]http://www.zdic.net/c/a/109/286628.htmする先生

[17]http://baike.baidu.com/view/222725.htm

[18]こちらに名が見える。

[19]http://www.zdic.net/c/8/143/313681.htm刑部尚

[20]http://ja.wikipedia.org/wiki/1774%E5%B9%B4

[21]http://www.zdic.net/c/b/143/313164.htm

[22]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E7%BF%BC

[23]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A8%81%E5%AF%A7%E5%B7%9E

[24]http://www.zdic.net/c/9/110/297338.htm按察使

[25]http://archive.ihp.sinica.edu.tw/ttscgi/ttsquery?0:17690106:mctauac:TM%3D%A8%7D%AD%EB

[26]未詳。

[27]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A1%E9%99%BD%E5%B8%82

[28]http://baike.baidu.com/view/22984.htm

[29]http://baike.baidu.com/view/22984.htm

[30]http://baike.baidu.com/view/793167.htm痰疾狂、病症名。が招く狂を指す。

[31]http://www.zdic.net/c/f/6d/109347.htm刑部侍郎。

[32]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%81%E6%86%82

[33]原文「夢見一大碑上書哀哀三字」。前後の文脈からして、原文は「哀哀三字」ではなく「哀哀哀三字」が正しいのではないか。

[34]http://baike.baidu.com/view/236109.htm

[35]http://www.zdic.net/c/e/2b/67538.htm

[36]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%9C%9D%E5%AE%98%E8%81%B7%E8%A1%A8#.E6.AD.A3.E4.B8.80.E5.93.81従一品

[37]http://www.zdic.net/c/8/10e/291465.htm位の名称。官吏の封号、品及び任した官、官と総称した

[38]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%85%E7%88%BE%E5%93%88%E5%96%84

[39]http://www.zdic.net/c/d/150/332849.htm巡撫

[40]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E9%A0%A4

[41]http://www.zdic.net/c/f/25/58786.htm

[42]http://www.zdic.net/c/4/32/79097.htm孤児寡

[43]http://www.zdic.net/c/1/6c/107558.htm銭幣。多く国所蔵するものを指す。

[44]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%A3%E7%9C%8C

[45]https://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF-8&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B7%A5%E5%95%86%E9%8A%80%E8%A1%8C%E8%BD%85%E9%96%80%E6%A9%8B%E5%84%B2%E8%93%84%E6%89%80&fb=1&gl=jp&hq=%E8%BD%85%E9%96%80%E6%A9%8B&cid=17343444406608686537&ei=0clMU6bGMMzr8AXItYGADw&ved=0CIYBEPwSMAs&output=classic&dg=brw

[46]http://ja.wikipedia.org/wiki/1846%E5%B9%B4

[47]http://www.zdic.net/z/26/xs/9097.htmここでは揚州のこと。

[48]http://www.zdic.net/c/f/108/284849.htm高高と挺立して安定しているさま

[49]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%99%E9%9B%86_(%E6%B8%85%E6%9C%9D)官位は

[50]未詳。

[51]未詳。

[52]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=398141&searchu=%E4%BD%98%E7%A7%8B%E5%AE%A4%E5%AD%B8%E5%A3%AB

[53]http://www.zdic.net/c/1/103/277210.htm松江

[54]http://www.360doc.com/content/14/0712/17/2987569_393923333.shtml

[55]http://baike.baidu.com/view/2821263.htm

[56]http://www.zdic.net/c/a/14b/327765.htm該博で、多種の才能を持っている

[57]捐納・捐例に同じ。

[58]http://baike.baidu.com/view/13574.htm

[59]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE9ZdicB9ZdicBE79677.htm塩務http://www.zdic.net/c/0/87/148221.htmに関わる事

[60]http://ja.wikipedia.org/wiki/1828%E5%B9%B4

[61]http://baike.baidu.com/view/617642.htm天津

[62]http://baike.baidu.com/view/4709675.htmグーグル地図検索結果

[63]グーグル地図検索結果

[64]グーグル検索結果

[65]グーグル検索結果

[66]http://www.zdic.net/c/1/fa/262438.htm珠宝。

[67]『北東園筆録』の出現箇所

[68]http://baike.baidu.com/subview/33599/5141738.htm

[69]http://www.zdic.net/c/a/7a/127819.htm公的機関によって在学の生発給せられる食事手当て

[70]http://www.zdic.net/c/e/6b/103263.htm先生送る礼物あるいは報酬。修は、「脩」に通ずる。干肉。

[71]グーグル検索結果。未詳だが、食物が痞える病気であろう。

[72]グーグル検索結果。未詳だが、動悸を伴う病気であろう。

[73]蘇州布政使。こちらを参照

[74]未詳。天上の合格掲示板か。

[75]原文「汝本經申勘已列榜中」。「申勘」が未詳。とりあえずこう訳す。

[76]『北東園筆録』での出現箇所

[77]原文「士子宿娼則除籍」。「除籍」が未詳。学籍を除かれることか。

[78]原文同じ。まったく未詳。漢典に適切な語釈なし。

[79]http://www.zdic.net/c/e/2c/69246.htm。男女の私情によって生ずるもめごと

[80]こちらにそれらしき人が見えない。未詳。

[81]http://zh.wikipedia.org/wiki/1781%E5%B9%B4

[82]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E4%B9%BE%E9%9A%86%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%B9%B4%E8%BE%9B%E4%B8%91%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[83]http://www.zdic.net/c/1/fd/267772.htm糧の会政の管理

[84]http://www.zdic.net/c/8/81/139792.htmを離れ、、幕友となること

[85]http://www.zdic.net/c/1/101/272921.htm師爺地方官署で招いた補助人の一つ

[86]未詳。

[87]http://www.zdic.net/c/1/6a/100994.htm官署で刑事文書主管する幕友、俗称刑名師爺

[88]http://www.zdic.net/c/3/28/60761.htm督と巡

[89]刑席と銭席。

[90]蘊輝

[91]高旻寺のことか。

[92]原文「棉莊」。未詳。とりあえずこう訳す。

[93]http://baike.baidu.com/view/85614.htm

[94]http://www.zdic.net/c/a/e/20972.htm儀衛随従。

[95]http://www.zdic.net/c/0/7e/133571.htm真珠と翡翠。女の豪華

[96]http://www.zdic.net/c/f/2f/71874.htm満州語。妻子。貴婦をも指す。一には漢語「夫人」の音という清制では、王、郡王及び王世子の正室はひとしく福晋に封ぜられ福晋に封ぜられた

[97]主語

[98]http://www.zdic.net/c/a/3/6057.htmが主人の家にいって勉強を教えること。

[99]http://www.zdic.net/c/e/fa/260202.htm清の制度で績優異の官対し、部に審査させ、加記録等のえることをすること

[100]http://www.zdic.net/c/f/d5/207433.htm官名。位は令あるいは県長の下にある。治安を主管する

[101]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%BB%84%E5%8E%BF

[102]http://www.zdic.net/c/c/70/111071.htm官名。

[103]この中のどの東平王か未詳。

[104]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E6%B1%9F%E5%B8%82

[105]http://www.zdic.net/c/6/107/281131.htmの束脩あるいは幕の報酬。

[106]http://www.zdic.net/c/8/101/271438.htm仏教で、子が生まれて百日、千日で死ぬのは、仇敵が前生の未了の権を取り立てに来たのだとされた

[107]http://www.zdic.net/c/a/10f/294944.htm結婚契約書

[108]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E5%B7%9E%E5%B8%82

[109]http://www.zdic.net/c/b/111/299869.htm

[110]http://www.zdic.net/c/4/ed/241018.htm試験の持ち込み、成り代わり及び試験形式に違反があり、外に斥せられ、試験を許されないこと

[111]蘇州の地名かと思われるが未詳。

[112]http://www.zdic.net/c/e/6b/104001.htm地方を防守する武官。

[113]https://kotobank.jp/word/%E7%85%A7%E7%89%86-1339417グーグル画像検索結果

[114]http://www.zdic.net/c/1/9b/179494.htm郷試

[115]http://www.zdic.net/c/1/ee/244220.htm郷試合格名簿

[116]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%89%AC%E5%B7%9E%E6%97%A7%E5%9F%8E

[117]http://www.zdic.net/c/6/18/38655.htm車馬随従。

[118]http://www.zdic.net/c/2/73/117857.htm寒邪によって致された疾病。

[119]http://zh.wikipedia.org/wiki/1831%E5%B9%B4

[120]原文「里豪思漁其色、啖令、金誣蔑之、節婦遂、身殉。」。ぼかした書き方をしているので具体的にどのように事実を偽造したのか未詳だが、おおむね宋王氏は実は節婦ではないといった類の噂を広めたのであろう。「誣蔑」の語釈。

[121]原文「列炬如豆」。未詳。普通は「列炬如昼」、「目光如豆」。両者の合成語か。とりあえずこう訳す。

[122]漢典に適当な語釈なし。訳文の意であろう。

[123]http://www.zdic.net/c/9/144/315994.htm仏教で道根、根性のこと。

[124]「貴州某県の知事の次(の世)は」ということであろう。

[125]香火を捧げるのを。

[126]http://www.zdic.net/c/b/23/55047.htm僧道を招き斋坛を設け、神仏に祈祷すること。

[127]http://www.zdic.net/c/4/14c/329841.htm気息が微弱なさま

[128]http://www.zdic.net/c/6/14a/323796.htm杭州。

[129]http://www.zdic.net/c/b/18/38321.htm都察院左都御史

[130]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E9%AB%98%E6%9C%9B

[131]http://www.zdic.net/c/2/152/339176.htm

[132]人名かと思われるが人名らしくない。未詳。

[133]グーグル検索結果

[134]http://www.gg-art.com/dictionary/dcontent_b.php?bookid=33&name=%AAF&columns=2&bookdetailid=17273

[135]主語は淑娟、城隍廟・観音楼にゆくために輿に乗ったと解す。

[136]原文同じ。未詳だが急性病の薬であろう。「」は中医で霍乱、中暑、炎等の急性病を称し、「痧気」、「痧」ともいう。

[137]http://www.zdic.net/c/8/11/29507.htm擬音語。「ぱかっと」といった感じか。胸が切られて傷口が開いた感じであろう。

[138]原文「女牽衣哭失聲」。娘のせりふなので、「女」は一人称代名詞にするべきであり、叙述に不備があると思われる。一人称代名詞にして訳す。

[139]http://www.zdic.net/c/b/31/77166.htm含殮http://baike.baidu.com/view/3159226.htm礼で、珠玉米等を死者の口中に納め、衣衾を換え、その後に棺に入れること。

[140]揚州。

[141]揚州。

[142]http://www.zdic.net/c/9/79/125882.htm仏家で坐化した垂れる鼻水をいう。

[143]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%86%E6%BA%AA%E5%8E%BF

[144]http://www.zdic.net/c/b/28/60342.htm童年、幼年。

[145]未詳だが、大娘に同じであろう。正妻への呼称。

[146]http://www.zdic.net/c/5/a/17705.htm妻の兄弟の子。

[147]製法は後ろに書いてあるが、他の文献の記載は見つからない。

[148]http://www.zdic.net/c/f/103/276271.htm灯彩を掛けた遊船。

[149]http://zh.wikipedia.org/zh/%E8%96%9B%E9%9B%AA

[150]http://baike.baidu.com/view/2935592.htm

[151]http://www.zdic.net/c/3/13d/304017.htm中医学の名。人体内の元気。人体の防御、抵抗と再生の功能。邪気にしていう。

[152]原文「死馬當活馬醫、可乎。」。「死馬當活馬醫」万一の希望を抱いて、救おうとすることの喩え

[153]原文「惟覺人疲」。「人」は落ち着きが悪いと思われるが未詳。とりあえずこう訳す。

[154]未詳だが、薬用ニンジンの一種であろう。

[155]https://www.google.co.jp/?hl=zh-CN&gws_rd=cr,ssl&ei=HrZ_VOndCMHPmwWxhoLgCQ#hl=zh-CN&q=%E9%A9%9F%E8%84%AB+%E4%B8%AD%E5%8C%BB

[156]http://baike.baidu.com/view/364411.htmにがり

[157]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9B%E5%B1%B1%E5%B8%82広東省。

[158]http://www.zdic.net/c/b/ee/243212.htm他人が与える恩惠の喩え。

[159]原文「吾欲借鄰壁の光以照陋室」。http://www.zdic.net/c/f/145/319323.htm「借光」は「お陰をこうむる」の意。

[160]未詳。海外から輸入された金属であろう。

[161]」は量のあるものに用いる

[162]http://baike.baidu.com/view/53062.htm

[163]原文「盈資五六萬」。「五六萬」の単位が未詳。とりあえずこう訳す。

inserted by FC2 system