●巻四
◎江右の黄
江右黄は、暮らしは世間並みてあったが、善行を楽しみ、施捨を好み、すこしも吝嗇でなかった。たまたま長雨が晴れたばかりであったので、友人とともに郊野を散歩したところ、古寺に柩が累々と積まれているのを見たが、板が破れ、骨が露わになっているものがたいへん多かったので、惻然とし、高いところにある畑二十畝をさし出し、施して義塚とし、さらに金を出して人に葬儀を営むように勧め、年を経て力がないものはすべて葬り[1]、それぞれ石碑を立ててやり、人が探しにくるのに備え、都合四十六の棺を葬った。埋葬の高義、恩沢が枯骨に及ぶといったような、義挙がほかにもたいへん多かった。後にその家では科甲[2]が続き、冠蓋[3]は絶えなかったので、人はあらそって羨んだ。按ずるにこのことは『寄雲書屋因果録』[4]に見える。記載には某姓とあるだけで、一律に名を記していないが、これは南昌の黄俊民観察[5]の家のことであった。観察は名は中傑といい、家大人[6]の壬戍[7]の同年[8]で、その弟范亭編修(中模)、そのおい在畬知府(維烈)は、いずれも同時に甲科[9]から中外の官となり、いずれも家大人と親密であったので、はやくからこのことをたいへん詳しく聞いていたのであった。
◎江右の李
臨川[10]の李某が粤西で商売した時、仲間三人がいずれも疫病になって死んだ。一人は黔に家があり、一人は楚に家があり、一人は江西に家があった。李某は別々に送ってやり、三人の遺骸をそれぞれ故郷に帰したが、いずれの場合も自腹を切った。そしてこの三人の元手と利益をそれぞれその妻子に渡し、遺児寡婦を養えるようにした。その後、李某は生きている間に、数十万両を儲けたが、しばしば慈善行為をし、疊疊[11]として一端に止まらなかった。その孫は翰苑[12]から侍郎[13]となり、しばしば文衡[14]を司り、報いは尽きなかった。そもそもこれは臨川の李宜誠封翁[15]の逸事で、李が家を興したことを、わたしはすでに近録[16]に載せた。翰苑から侍郎となったというのは、春湖先生[17]のことである。
◎徽州の程氏
徽州の程某は、祖父と父がいずれも諸生で、家は赤貧で、勉強を教えることを生業としていた。前後都合百余年、懇切にし、全副の精力をそれに傾け、寒暑を問題にせず、後学を成就させることが少なくなかった。後にかれの孫某は壮年で合格し、官位を重ねて総制[18]に到った。かれの封翁は、なおも老明経[19]の頂帯[20]を用いていたが、人に語ったことがあった。「わたしはもともと功名があるのだから、父が子によって貴ばれる必要はない。」かれの曽孫たちも近頃つづけて秀孝[21]に挙げられ、詩書の恩沢はまさに盛んで尽きていない。筆墨で生計を立てるものが功を積み、仁を重ねるべきでないと誰が思おう。そもそもこの根葉[22]は程梓庭[23]先生の家で、先生は蘇州撫軍[24]から選ばれ、わが福建の総制となったことがあり、かれが蘇州を巡撫した時に家大人はちょうど承宣[25]の職におり、かれの教えを聞くことがもっとも詳しかった。
◎六安[26]の張氏
張某は、六安の人で、若く、才能が優れ、さらに賢明さに富んでいた。隣家に王姓のものがおり、その資金を羨み、娘を娶わせた。しかし、この娘はすでに貧士の高某と婚約していたが、張はそれを知らなかった。結婚の晩、女が悲しみ泣いているのを見、そのわけを尋ねると、女は言った。「すでに高姓と婚約しており、さらにあなたと婚約すれば、二人の夫になってしまいます。『烈女は二夫に事へず』と聞いていますが、どう思われますか。」そう言うと、帯を探してみずから縊れた。張はつとめて救ったので助かった。その晩すぐに高某を探し、かれの家に引いてゆき、合卺させてやった。翌日、高某が結納金を集めて送り返してきたが、一分一文も受けなかった。後に家はますます豊かになり、翌年、張は郷試に合格し、一年後さらに南宮[27]で合格した。隣人の王宅が火に注意していなかったため[28]、家産はすっかりなくなり、論じるものは王氏が奸悪であったからだ、その女の名節を破りそうになったからだといった。かれがこの報いを得たのは当然であった。
◎四明[29]の張氏
四明の張某は、県の諸生で、場屋[30]に苦しむこと二十年近くであった。江西に遊幕し、資金千両を得たとき、あらたに捐例が行われたので[31]、報捐[32]を行おうとし、幕僚を辞めて帰郷した。家に着くと、一族の中で、一人の節婦が十本の指でその病んだ姑ならびに幼子を養っていたが[33]、おりしも兵燹[34]の後で、米は珠、薪は桂で[35]、生きるのは難しかった。張は気前よく三百両を援助した。さらに戚某というものがおり、鎮海[36]から難を避けて来、一家は走って逃げ、衣食がなかったので、子を売って生きようとし、張はさらに三百両を援助した。張はもともと報捐しようとしていたが、役人になっておらず、銀はすでに分け与えてしまっていたので、一計も施せなかった。仲間たちはみな笑った。やむをえず、ふたたび帰って家庭教師先を探し、旧友がいっしょに北へゆき、結局、科甲から県令を得、今はさらに知府に昇任している。
◎金陵の曹氏
江寧の曹某は、若くして父に従って浙江に赴き、親戚を訪ねたが会わず、父は途中で歿し、曹は流浪して乞食となった。人に会うと悲しんで泣き、旅費を賜うことを求め、父の骸を負って帰郷しようとした。王某というものがおり、かれを見て憐れみ、銅銭四串を賜った。曹は骨に徹して感動し、結局、父の骸を負って帰った。このようにすること十年、商売はたいへん順調で、余裕の資金を蓄え、暮らしが安定すると、しばしば泣いて王某の恩を思い、報いるすべがないことを遺憾とした。王は、寧波の人であったが、おりしも夷の船が城を陥れ、家産はすべてさらわれ、妻子を連れてよろよろ逃げて金陵にゆき、乞食しようとした。曹某とちょうど道で会ったが、曹はたいへん驚いて言った。「恩人はどうして流落してこちらにいらっしゃったのでしょうか。」王が事情を告げると、曹はすぐにその家に迎え、時にすでに戒寒[37]であったので、冬衣に換え、小屋を借りて住まわせてやり、さらに田二十畝を割いて生計を立てさせた。後に曹某はたちまち埋蔵金巨万を得、王某と山分けし、王も自立でき、一家は暖衣飽食し、人は二人をたたえた。
◎湖北の韓
湖北の韓某は、もともと軍隊の人であった。道光壬寅[38]に派遣されて防衛のために江南にゆく途中、同伍[39]に曹某というものがいたが、かれが夜、草屋の中に燈光があるのを見たところ、若い女だけがいたので、門を推して入り、乱暴しようとした。そこへちょうど韓某が通りがかり、女が叫ぶ声を聞き、門に入って曹がそのようにしているのを見ると、大声で呼んだ。「無礼するなら、かならずおまえの首を斬るぞ。」曹は恐れて女を放した。後に韓は軍功で職を授かり、今も地方で軍務に当たっている。
◎安渓の趙
安渓の趙某は、暮らしは安定していたが、母が歿すると、徽州の汪某を招いて代わって墓地を探させた。汪はつねにみずからの堪輿の術を誇っており、酔うと自分の寿塚は状元、宰相を出せると言っていた。趙某はそれを聞くと、ひそかに羨んだ。まもなく、汪は病によって趙の宅で歿したので、趙は納棺してやった。まもなく、汪の子が来て柩を運んでいったが、趙はすぐに自分の母の柩を与え、汪の柩を安渓に葬った。ところが、汪の術はもともと精密でなく、言うことは人を欺くことが多く、かれがみずから定めた寿塚はもとより水泉風蟻[40]の窟であった。汪の子は気づかず、すでに趙の母の柩を埋葬していた。趙は一念が貪欲であったため、親の遺骸を軽々しくこの地に棄てたのであった。まもなく趙の祭祀はにわかに絶えたが、なお懵然[41]としてその理由を知らなかった。
◎江西の滕
江西の滕某は、若くして優れた才学があり、家も豊かであった。城外に赴き、稲を収穫したところ、佃戸譚某の娘を見て気に入り、しきりに近づいた。その後、さらに譚家に赴くと、ちょうど女だけがいたが、挑んでも従わなかったので、むりに汚そうとした。女は力は尽き、声は涸れ、逃れられないことを知ると、妾になりたいと懇願し、滕某は約束した。誓うこと再三、ともに睦んだ。まもなく、女は妊娠し、滕がはやくかれのために計らうように頼んだ。滕某は偽って承諾したが、心のなかでは正妻が嫉むことを恐れ、言おうとしなかった。その後、女は腹がだんだん大きくなり、父母は厳しく質し、女は滕某の以前のことを告げた。その父が滕家に走っていって尋ねると、滕はかたく認めようとせず、その父は帰ると、厳しくその女を鞭うち、血が流れ、流産して死んだ。それからは、某は試験場に入るたびに、かならず幽鬼の祟りに遭い、答案を書き上げて試験場を出ることができず、落魄してその身を終えた。
◎常州の胡
常州の胡某は隣家の娘と親しみ、目で合図してすでに久しかったが、その隙がみつからなかった。その夫が外出したことを聞き、すぐに隣家の娘とひそかに約して家にゆき、会うことにしたが、その妻が部屋にいるのが邪魔であった。ちょうど胡某は妻の母から四両を借りていたので、むりに金を工面してその妻に送り返させることにした。妻は雨だったので外出しようとしなかったが、胡は迫ってゆかせ、隣家の女は操を失った。ところが、妻は途中で雨が激しくなったため、枯廟に身を隠したところ、にわかに不良少年に遭って強姦されてしまった。さらにその[42]親戚に遇ってこのことを発かれ、人々に広められた。胡もそれを仄聞したが、深く咎めようとしなかった。天道の報いでこのようにはやいものはない。ああ。恐ろしいことである。
◎貴陽[43]の施
貴陽の施某は、性質が淫蕩であった。その妻は針仕事が得意で、隣の娘がその妻について学んでいた。ある日、その妻はたまたま外出していたところ、隣の娘が来たので、施某は隙をみて強姦した。娘は恐れ恥じて言わず、また来ることもなかった。後のこの娘は嫁に出たが、かれの夫はかれが完璧でなかったので、辱め罵り、厳しく質した。娘は恥じ、服毒して死んだ。施某は翌月に舟が覆って亡くなった。
◎南昌の羅氏
南昌[44]の羅某は、占い[45]に詳しく、占われたものたちは、乾隆年間、それぞれ奇しき験をなすことが多かった。みずから命運を占うと、大きい禄籍[46]はなく、庚子[47]の試験に合格できるだけであった。王某と同学であり、その運勢を占ったが、一生合格するはずはないと思った。己亥の冬、館の隣に寡婦がいたが、若く美しかったため、みずからを抑えることができなかった[48]。はじめ王に挑んだが、王はつよく拒んだ。その後、羅に挑むと、羅は奇遇に驚き、しきりに交際した。庚子の秋、王某は郷試に合格し、羅は落第した。羅はちょうど占いは霊験がないと訝ったが、冥冥の裡にひそかに変えられたことには気づかなかった。
◎広東の尹
広東の尹某は、武某と交誼がもっとも深く、兄弟の契りを結んでいた。武某はもともと富豪であったが、性質は淫蕩であり、尹も声色で誘惑したので、かれの術中に落ちることが少なくなかった。武の懐が空になると、尹は偽って金を貸してかれの遊蕩を助け、元本利息を取り立て、武の居宅は尹に帰した。武が住んでいる家屋は価値が二万余両であったのを、尹は三千両で奪い取ったが、その貯蓄三千両も武家の物であった。尹がちょうど思い通りになったことをひけらかしていると、はからずも夷船がいっせいに来、兵火が延焼し、たちまち平地となり、家産はすべて烏有に帰した。尹はもともと城外に住んでいたので、兵火は及べなかったのに、武の家を得て引っ越したため、禍にあったのだが、人の謀も益はないのである。
◎山東の傅氏
山東の傅某は、年は三十余で、十回小試[49]に応じたが、学校に入れなかったため、国子監に入り、郷試に応じようとした。金がないことに苦しんでいると、族叔母李氏が商売に励み、二三百両を蓄えていることを思い出した。李は若くして寡婦となったが、努力して孤児を育てたものであった。その子はまだ幼かったが、傅は淮北の票塩[50]の利息がたいへん多いことを告げた。李は惑わされ、田地を売却・入質し、銀二百両を得、傅に渡し、票塩を買おうとした。傅は銀を得ると、すぐに省に赴き、監生を報捐した。帰郷すると、李はしばしば元本利息について尋ねたが、傅はひたすら曖昧にした。後にきびしく尋ねると、傅は船が転覆沈没したことを言い訳にした。李はたいへん失望し、泣いて県の城隍廟に訴え、夢みたところ、神が言った。「おまえの族侄[51]はもともと試験に合格するはずだったが、今このようであればその籍を削り、かれの寿命を奪うべきだ。」その年、傅ははじめ試験場に入り、三場[52]ともに大いに意を得て、試験場で答案はすでに入選していたが、たちまち雨漏りで濡れて破れたので、臨時に他の答案に換えた。一月も経たないうちに、傅は本当ににわかに亡くなった。
◎雷李の至交
岳州の雷某は、家産が豊かで、道光六年、危篤となった時、その子が不肖であることを知っていたので、ひそかに黄金百両をその隣人の李某に渡して代わりに保管させた。かれは昔の親友であった。李某はたいへん貧しく、布衣疏食してその素行を改めなかった。後に雷某の子が本当に財産を蕩尽して尾羽打ち枯らすと、李は雷の子を家に召して責め、後悔するかを尋ねた。雷の子は地に伏して悲しみ叫び、みずからを恥じ、悔いていると述べた。李はすぐに預かった金を渡したが、もとの封は手をつけられていなかった。今、李の子はたちまち甲科に登り、銓部[53]を司り、李某はもとより栄典を拝しており、楚人はつねに嘖嘖[54]と楽しんで話している。
◎孫・文の至交
湘潭の孫某と文某は、親友であった。孫某の父は漢口で商売し、孫某に命じて家で母を世話させていたが、母は病がたいへん篤かった。おりしも、漢口からの来信を得たところ、父も病が篤いということであった。孫某は湖北に赴こうとすれば母の病で離れ難く、見にゆくまいとすれば、父の側に人がいなかったので、胸が裂けるかのようであった。文某に相談すると、文は愴然として言った。「ここで力を貸さなければ、友人など必要ない。それにわたしは両親がいず、家にはほかに係累がいないから、あなたに代わってゆける。」そこで舟についていったが、舟が洞庭を過ぎると、風に遭い、舟が転覆して死んだ。文某は友人に忠実であり、その行いは人々がみな知っていたが、このような報いを得たので、みなかれのために嘆いてやまなかった。孫某はまだそのことを知らなかった。ある日、ふと夢みたところ、文某が綸巾[55]鶴氅[56]して来、言った。「わたしは前生で罪がきわめて重く、すでに舟が覆る禍を受けることになっていたので、今日死んだのは、運命なのだ。しかし区区たる一念が友人に忠実であったので、上帝は憐れみ、すでに善果[57]を得、仙籍に登っている。あなたも親御さんに仕えて孝行だが、お父さまはご病気がすでによくなり、心配ないから、励まれるように。」孫が後に漢口からの家書を得たところ、本当に言った通りであった。
◎王秀才
盧陵の王秀才は、家が貧しく、子供を教えることを生業とし、心を尽くして講議し、手と口が疲れても、人の子弟をだめにすることだけを恐れていた。親族の中に冠婚葬祭があっても、すべて人に頼んでやんわりと告げさせ、みずからは慶弔せず、寒いときも暑いときもやめず[58]、病苦にあってもやめなかった。十九歳から勉強を教えて五十九歳になったが、四十年間一日のようであった。大比[59]の時でも、教えることをおろそかにすることだけを恐れ、試験に赴こうとしなかったので、人々はおおいに笑って迂愚だとした。生徒を教えると、学校に入り、郷試に合格するるものが相次ぎ、まもなく、かれの家もみなあいついで科甲によって家を興し、今さらに顕官となるものがいた。亡き祖父はこのことを挙げて人を教えたことがあり、家大人も津津[60]と楽しく語っていた。
◎陳秀才
陜西の胡某は、幼くして陳某の門下に学び、陳は終生一秀才であったが、胡は挙人から官は知県となり、しばしば昇進して郡丞[61]となった。病と称して帰郷すると、ちょうど陳某が危篤になっていたので、胡はみずから湯薬を捧げた。陳の子ははやく歿し、わずか一人の幼い孫がいるばかりであったが、陳が歿した後、一族にその遺児寡婦を欺くものがいたので、胡はつとめて守ってやり、ならびに葬儀を世話してやった。薪水[62]を世話し、その孫を家に来させて就学させ、みずから教え導いてやった。その孫はすでに能文であったが、胡は督責してすこしも怠らなかった。ある日、その孫が外出し、たまたま胡に告げなかったところ、胡は引いて陳の霊前にゆかせ、厳しくその孫を責め、ついで大声で哭したが、師弟の義に篤いさまはこのようであった。一年後、胡の子は賢書[63]の第一に登り、陳の子[64]も同時に郷試に合格した。
◎上洋[65]の童子
汪棣香(福臣)の『勧毀淫書徴信録』[66]にいう。上洋のある童子は幼くして孤児となったが、三房[67]がありながら一子がいるだけであったので、祖母以下はかれをたいへん愛していた。やや成長すると、束髪[68]で勉強を習ったが、すぐに無益なことはしなくなった[69]。ある日、散歩して書肆を訪ね、近づいて尋ね、どんな書がもっとも心目を楽しませるかと尋ねた。書賈は言った。「心目を楽しませるものでございましたら、色恋の詞曲に勝るものはございません。」童子は言った。「何を色恋というのでしょうか。」書賈はかれが童子だが駿才であると思い、すぐに『濃情艶史』[70]を取って示すと、童子は借りて読んだ。閲することが半ばに到ると、喟然として言った。「世間にこのような書物があるのか。破棄せねばならない。」翌日また書肆にゆき、ひろく色恋の書籍を求めると、主人は数十種を出して与え、言った。「官人はご覧になろうとし、借りに来られてよいのですよ。」童子は言った。「わたしはこれらの書をすべて買おう 。」主人は言った。「この書を貸せば、利息は尽きませんから、どうしてあなただけにお譲りしようといたしましょう。」童子はうるさくしてやまなかったので、主人は言った。「わたしは今、急用がございますから、三十両を用意して来られれば、すぐにすべてお売りしましょう。」童子は馳せ戻り、祖母に告げた。母は経史を求めると思い、釵と釧を売って与えると、買って来て書館[71]で焼いた。家人がそのことを祖母に告げると、母はたいへん驚いたが、一人息子であったので、責めなかった。翌朝、字の書かれた紙の灰を拾っていたところ、元宝二つを見つけた。持っていって母に捧げたところ、母は悲しみを転じて喜びとした。数日後、童子ははげしい病に罹り、医者たちは手を束ねた。死にそうになると、たちまち神の言葉を話した。「おまえは命運が平凡で、合格するべきでなかったが、今回おまえは幼年でありながら淫書を断ち、世人が無限の悪報を受けることを免れさせたので、上帝は本当におまえの心を嘉し、おまえに福相を賜った。後日、功名が大いに顕れるから、初心に背くな。」そう言うと、熟睡した。目覚めると、容貌はにわかに改まり、全身の皮は蛇の蛻のようになり、病はにわかに治った。空中では音楽が嘹亮[72]とし、ツルの声は庭に満ち、異香は数日散じなかった。これは道光丙申[73]二月のことであった。汪棣香はさらに言った。乾隆末年、桐郷の一士人が淫書を閲することを好み、収集したものは数十百種を下らなかった。子がいたが、幼くして聡明で、つねに父が外出するのを窺い、かならず箱の中を探し、淫書を取って見、それから纏綿として慕い、元気を失い、癆咳を患って亡くなった。その父は悲しみ嘆いてやまず、相次いで亡くなった。さらに某県のある書賈は、淫書および春宮の画像[74]を刻することを好み、よく売り、資金を貯えること四五千両に到ったが、数年足らずで、盗人に席巻され、両目は盲となり、刻した諸板は一度の火事ですべて灰燼となった。死ぬ時、納棺できず、妻子は離散した。これらはすべて淫書を作った報いであった。
◎西廂記
汪棣香はいった。「施耐庵は『水滸伝』を作り、奸盗のことは、絵のように描写されているが、子孫は三代すべて唖となった。金聖嘆は評してそれを刻し、さらに『西廂記』などの書を批評・刊刻したが、結局、陥れられ、死刑にされ、子孫がなかった。そもそも『水滸伝』は盗みを教え、『西廂記』は淫を教えており、いずれも邪書のもっとも憎むべきものである。『西廂記』はたいへん巧みな文筆で、たいへん聡明な文人を誘い、淫書の尤物でもあるので、廃毀せざるを得ない。」さらに言った。「西廂の一書は、二人の手によって完成したのである。そのかみ、作者は編集して『碧雲の天、黄花の地、西風緊しく、北雁南飛す[75]』の句に到ると、突然地に倒れ、舌を咬んで死んだ。後半はほかの人が続けて完成したのだ。」さらに言った。崔鴬鴬は名家に生長し、疚しいことはなかったが、『西廂記』を作ったものはそこで心のなかで鴬鴬の容色を貪り、それを求めても得られなかったので、蜚語を作り、鴬鴬を誣い、今でも鴬鴬に地下で恥を抱かせている。これは関帝の乩筆に見え[76]、信ぜざるを得ない。」按ずるに、乾隆己酉科の会試[77]で、詩題は「草色はるかに見え近づけばかへつてなし」[78]であった。わたしの郷里のある孝廉は、答案はすでに合格していたが、詩の中に「一鞭残照の裏」[79]の句があり、主司[80]が『西廂記』の言葉を引用していると指摘したため、落とされ、合格しなかった。実際はこの孝廉は『西廂記』の言葉であることを記憶しておらず、平素洒脱を愛でていたので、口吻がおのずと暗合したのであった。暗合していてもなおその累を受けるのだから、この書に耽溺する者ならばなおさらである。
◎紅楼夢
『紅楼夢』は、淫を教えることの大なるものである。乾隆五十年以後、その書ははじめて出現したが、言い伝えでは、叙述しているのは故明珠[81]の家のことだそうである。宝玉に明珠の名を隠し、甄(真)宝玉・賈(假)宝玉によってその発端を乱し、開巻の秦氏[82]を情に入る始めとし、巻末の小青[83]を点睛の筆としているのであった。温柔の情を描写し、纏綿として万状、人に淫心を生じさせ、人を邪悪に導いている。それから『続紅楼夢』[84]、『後紅楼』[85]、『夢紅楼』、『後夢紅楼』、『重夢紅楼』、『復夢紅楼』[86]、『再夢紅楼』、『幻夢紅楼』[87]、『円夢』[88]の諸刻本があり、蔓延して繁多であり、調査しきれない。評者さえその著作がはるかに原書に劣っていることを嫌うが、原書がまさに禍の発端であることを知らず、諸刻本はとくに多く、淫を教える虚偽の言語は、その弊害の一つである。満洲の玉研農先生(麟)[89]は、家大人の座主[90]で、家大人に言ったことがあった。「『紅楼夢』の一書は、わが満洲では見識のないものはつねに奇宝と思い、しばしば人に自慢し、わたしたちの豪華さを増すものだと考え、ひどい場合は演劇にし、弾詞にし、見るものはそのために感嘆欷噓し、声涙ともに下っている。これはわたしが現場で目撃したことだというが、実際はすこしも根拠がなく、姑息に自分を欺き、他人を欺いているのである。わたしが傍らで嘲笑するにも値しない。やや識見があるものは、この書はわたしたち満人を誹謗しており、恥ずべく憎むべきだと思っている。悪いと知りながらまねるのであれば、どうして『書』にいう「驕奢淫逸は、将に悪に由りて終はらんとす」[91]だけであろうか。わたしは安徽の学政であった時、掲示して厳しく禁じたことがあったが、力量は遠くに及べず、いたずらにどうしようかと叫ぶばかりであった。ある生員が才筆をほしいままにし、ひそかに『紅楼夢節要』一書を撰し、書肆に付し、上梓させていたが、わたしに調べ出され、生員の地位を剥奪され、その板木を焼却されたことがあった。一時、見聞きしたものたちは大いに粛然とした。惜しむらくは、他の場所で倣ってそれを行うものがいないことだ。」那繹堂[92]先生もたいへん『紅楼夢』一書は邪説詖行[93]の最たるものであり、旗人を侮辱したものに他ならず、本当に憎むに堪えるという。わたしはすべて禁絶することを奏請しようとしたが、さらに立論が適切でないことを恐れ、我慢しておこなっていなければ、わたしと同じ心である。この書の中には一人も本当のものはいないが、執筆した曹雪芹だけは本当にその人がおり、老貢生として窓下に窮死し、いたずらに伯道[94]の嘆きを抱いた。死後没落し、憐れむ人もいなかった。これは淫書を作ったことの明らかな報いでないとは限らない。
◎淫書の板木
銭塘の汪棣香(福臣)が言った。蘇州、揚州両郡城の書店は『金瓶梅』だらけであり、蘇州の板木は楊家に蔵せられている[95]。楊はもともと長者で、書を売ることを生業とし、家に金瓶梅の板木を蔵し、売れゆきはたいへん良かったが、病魔に苦しめられ、朝晩湯薬を離れなかった。妻を娶って多年であったが、まだ子がいなかった。かれの友人は戒めた。「あなたははやくから結婚したのに、後継ぎはまったく得られず、さらに毎年の収入は薬の費用に供するばかりだ。あなたが『金瓶梅』の板木を印刷して各書坊に売り、人はその害を受け、あなたはその利を受けているので、天がひそかに禍しているのだろうか。今考えると、はやくその板木を廃毀するべきだ。そうすればまだ罪を消すことができるかもしれない。」楊はそのためはっと悟り、すぐに『金瓶梅』の板木を取り、割って焼いたが、それから家に病苦がなくなり、妻はすぐに男子を産んだ。数年して、文遠堂書肆を開くと、家はにわかに栄え、人々はみな讃えた。その揚州の版木は某書賈に蔵せられ、××家は安定で、書肆を三箇所開き、版木によって利を得たことがあり、人々はしばしば戒めたが、結局、廃毀しなかった。某年某月、その子とともに蘇州に来、子はほかの用事で先に帰ったが、某は寓居でたちまち病み、死にそうになり、仲間は送り返したが、結局、波止場で死んだ。かれの子に急報すると、掛け付けてきたが、屍の顔は腐り、ハエ・ブヨが紛紛と集まり、血水が湧き溢れ、結局納棺できず、衣で屍を掩っただけであった。諺に「千両の子は、坐するに堂垂にせず[96]」というが、某は淫書を印刷して売ったので、結局このような結末になった。楊氏が話を聞き、すぐに廃毀したことと比べ、その得失はどうであろうか。某が死ぬと、儒士が金を差し出して版木を買い、はじめて呉中で廃毀された。それから蘇州、揚州両城では、こうした悪書が流伝することはなく、人心はそのために快くせられた。
◎婦人が字の書かれた紙を惜しむこと
彭詠莪[97]副憲[98]の後妻朱氏は、つづけて五人の女子を産むと、八年孕まなかった。副憲はもとより子が多かったが、いずれも前妻が産んだものであったので、男子を望むことがたいへん切実であった[99]。性格は仁慈であり、字の書かれた紙を大事にし、京官[100]に長年付き従い、字の書かれた紙に茶葉などのものが包まれているのを見ると、かならずすぐに捨て去り、はなはだしくは人が糞を拭いたものにまで、銭を出し、一斤ごとに計って買った。汚穢があるものがあれば、かならず洗って焼き、長年それをおこなった。四十余になり、病んだので医者を呼んで胗脈させれば、孕んでいますと言った。天癸[101]はすでに一年あまりなく、まったく受胎するはずはなかったので、意に介さなかった。その後、腹の中が動いたので、はじめて信じ、胎内に一子を得た。そもそも字の書かれた紙を惜しむのは、善事であり、巾幗[102]の中に得るのは、もっとも嘉すべきことであった。思うに、婦人が字の書かれた紙を惜しめば、下は子女奴婢に到るまで等しく奉って法とすることを知るから、得るものがますます多くなるといえないか。子を得たのは珍しいことであるが、字の書かれた紙を惜しんだ報いだとしてよかろう。
◎貞女が神に感通すること
徳清[103]の王氏の娘は、嫁がぬうちに夫が死んだが、夫の家に戻り、貞節を守っていた。彼女の姉が会いにゆくと、娘の義兄は彼女[104]が美しいのを窺い見、彼女が帰るのを伺って阻んだ。娘はかれに数日お願いしたが、隠して出さなかったので、書状を作り、県令が門を通るのを待ち、輿に縋り、泣いて訴えた。義兄はそれを聞くと、ひそかに姉を帰した。娘は正しい裁きがなされないこと[105]を恐れ、ますます怒り、城隍神に訴えた。翌日、神将に命じて人を捕らえさせたので、義兄と姉はともににわかに死んだのであった。按ずるに、これは銭衍石先生[106]が記事[107]の草稿に録したもので、乾隆末年のことであった。神の霊験で、このように速やかなものはないので、衍石先生は特別に載せたのだが、これも世を戒めるに足りる。
◎汪李氏
温州の汪李氏は、もともと貧家の娘であった。道光四年、彼女の夫が歿した時、年は二十四歳で、家も赤貧であったので、身をもって殉じようとした。ある人は語った。「あなたには舅がおり、年はすでに六十三ですから、あなたが亡くなれば、ご老人はもう頼る人がいません。」氏はそのためはっとし、しかたなく未亡人と称し、装身具を売り、舅のために妾を買ったところ、一年後、一子を得たが、舅はまもなく歿し、妾も去った。氏は言った。「わたしは本当に死ねなくなった。」すぐに舅の子を育て、つとめて乳母を雇えず、氏はもともと出産していなかったが、突然、乳がつねに流れるようになり、子は日に日に生長した。ある日、トラが彼女の部屋に入って来たので、氏は子を抱き、長く叫び、死を待った。すると、たちまち一筋の炎が部屋に入って来、トラはすぐに耳を垂らして去った。今、この婦人は年が四十歳、舅の子もすでに十六歳で、容貌は立派で[108]、近隣の塾に送り込んで勉強させたところ、儕輩に冠することができ、たまたま聞いたが、まもなく童子試に赴けるそうである。ある人が言った。「彼女の舅は貧しかったために乱塚[109]に葬られたが、実は霊穴[110]だから、後にかならず栄えるものがいよう。」ある人が言った。「これは舅には孝、夫には節、舅の子には慈、一人の女でありながら三善を備えているということだ。古の『列女伝』に入れても、恥じることはない。栄えなくてどうする。」当時、ある名流が詩を贈っていった。「虎至るも擾す能はず、牛眠[111]求むるを待たず。孝慈大節を完うし、壼範[112]千秋に足る。」大筆によって闡揚せられ、すでに永く残るに十分である。
◎双冠誥[113]
婺源[114]の董小査[115]編修[116]は、その兄柳江[117]編修とともに名儒であった。かれの末弟も進士となり、すぐに知県に採用され、兄弟いずれも進士であった。当時、かれの継母某太宜人[118]はまだ健在で、親戚が賀しに来ると、太宜人は婦人たちに語った。「これはわたしが観劇したおかげです。わたしは寡婦となりました時、年はまだ若く、家は貧しく、子は幼うございましたので、軽薄な言葉を聞かせるものがいましたが、わたしは拒んで答えませんでした。ちょうど親戚の家で『双冠誥』を演じていたのを見、勃然としていよいよ決意し、専心孤児を育て、貞操を守り、今日のあるを致しました。観劇が無益だと思われてはなりません。」これは婺源の訓導陳雪楼(世鎔)が述べたことで、さらに言った。「太宜人の賢さは一県に聞こえているが、これは彼女の、己を謙り、人を諭す言葉であり、自らを魯寡嬰陶[119]、梁寡高行[120]であるとせず、身をもって、一般人に説法したものであり、ますます太宜人の盛徳を証するに足り、その賢い母子が婺川の冠冕[121]となったのは当然である。」
◎南海の貞女
嶺南では癩病を患うと、骨肉もそのものとともに居ず、感染を防いでいた。南海の豪族の子某は、年がわずか十五六、翩翩として璧人[122]のようであったが、たちまちこの病を患ったので、ほかに山小屋を構えて住み、家人は閑な日に見舞いした。かれの婚約者は、県の豪族の娘であったが、父母がほかの人と婚約しようとしたところ、娘は泣いて言った。「結婚しないうちに婿が悪疾に罹ったのですから、わたしの命運は知られます。それに一人に従って終わるのが、女の道であり、義としてほかに嫁げません。閨房で老人を世話し、父母の死を送るより、淒風苦雨[123]の中に従い、いささか妻としての道を尽くし、一生を終えるのが、わたしの願いでございます。」再三かたく願い、死ぬことを誓った。父母は彼女の志を奪えず、結局、某氏に嫁いで妻となった。まもなく、女も重病となり、空山の中で形影相弔ったので[124]、聞くものは悲しんだ。ある晩、明月が空にあり、四方の山は清絶であったので、松の間の石の上に露坐していた。彼女の夫は彼女を撫でて言った。「おまえの美しい体をここまで酷くしてしまったのは、わたしの罪だ。」女は毅然として色をなして言った。「今日があることはとうに分かっておりましたから、怨もうとはいたしません。」凄然と向かい合っていたが、ふと見ると、溪で何かが波を翻しており、ウサギに似て小さく、走って見ると、松林に逃げ込んで消えた。女は頭上の簪を抜いてその場所に印した。翌日、土を掘って見れば、千年の茯苓であった。仙品と悟り、裂いて食べると、甘い香は心脾に沁み入り、知らぬまに宿痾はにわかに去り、瘡痕はすべて消えていた。その父母が聞いていってみると、一対の玉人のようであり、蘆の草叢の中に並んでいた。喜んで迎えて帰り、ふたたび合卺の婚礼を行ってやったが、すべて貞節の報いだと驚嘆した。このことは、家大人が同年の謝澧浦太史(蘭生)[125]に聞いた。謝はもともと南海の人であったので、その目でこのことを見たのであった。
◎長洲の某氏
河南の李見斎邑侯[126]がいった。わたしの郷里に某進士というものがおり、某省の州牧[127]に任ぜられたことがあったが、祖父はいずれも顕官で、富は農村に冠絶していた。かれの妻の某氏は性格が嫉妬深く、凶暴で、妾とともにそれぞれ一子を生んだが、年はそれぞれ十余歳、いずれも聡明で、ともに家塾に入っていた。某氏は家産を二分すれば、貧しくなるのを免れぬことに思い及び、彼女の産んだ子にすべて属させようとした。そこでひそかに不妊薬を買い[128]、餅餌にし、かれが勉強を終えて帰って来るのを待ち、妾の子に食べさせ、かれが子を産む路を絶ち、後日生まれた孫に両家の先祖の祭祀を継がせようとした。そうすれば、家産はすべて実子に帰することができるのであった。ある日、妾の子を召して食物を与え、妾の子が手で受け取り、口に入れないでいたところ、彼女の実子がにわかに来、かれの母が餅餌を弟にやるのを望み見、前に疾走して来て食物を奪った。その母は気づいた時には、すでに間に合わなかったので、思わず大声で泣いて言った。「わたしの子を酷い目に遭わせてしまった。」傍らの人々は言っていることが理解できなかったが、ある下女がたまたま話を人に漏らし、親族たちはみな彼女の心がけの残忍さを憎んだ。後に二子はそれぞれ嫁を娶り、妾の子はつづけて二人の孫を挙げたが、某氏の生んだ子は結局子を産まず、妾の子を後継ぎに立て、巨万の資産は結局すべて妾の子に属した。
◎鄒顧氏
無錫の鄒剣南の嫁顧氏は、娶って三年で孕んだ。子を生んで数日足らずで、顧氏は病んで下半身が爛れ、日夜泣き叫んだが、突然、みずから言った。「姑娘[129]、おめでとう。はじめて麟児[130]が産まれましたから、今日はわざわざ命を取りに来ましたが、恐れないでおくれ。」聞くものが驚き訝り、つよく尋ねると、顧は言った。「わたしの病気は助かりません。わたしは嫁入り前、嫂ともともと嫌隙がございませんでしたが、その金の腕輪を一つ隠したため、嫂が呪い罵ってやまないことを致しました。後にわたしの母はその弁償を約束しましたが、嫂はことさらに、どうしてももとの物を返すことを求めました。おりしも嫂は流産の薬を服用していましたため、ひそかに塩水を混入し、血暈[131]で死なせました。今、事は数年を隔て、嫂もわたしの産後に乗じ、命を取りに来、さらに日夜わたしの牀の中に坐し、薬餌はすべて彼女に吹き飛ばされていますから、どうして治ることができましょう。」臨終の時、ふたたび何度か目ざめ、みずから言うには、すでに冥府に尋問しにゆき、両手を拶子[132]に、両足を夾棍に掛けられ、痛みはたいへん忍びがたいということであった。家人が開いて見ると[133]、手足は青紫で拷問を受けたかのようであった。これは乾隆癸丑[134]五月のことで、銭梅溪[135]が聞いて筆記した。
◎忠僕が怨みに報いること
蕪湖[136]の韓某は、年が六十八で、呉某の家の老僕であった。勤勉忠直で、一心に主人のためにし、呉某もたいへんかれを信任していた。後に呉某が仕事で都に赴いた時、かれの後妻某氏が表弟胡某の容貌を気に入り、密通したことがあった。さらに妾に見られるのを恐れ、妾を酒で酔わせ、媚薬を加え、胡某にならびに姦淫させた。韓はたいへん怒り、厳しく胡某を防ぎ、門に入れぬようにさせた。呉某は帰ると、妻妾の言葉に惑わされ、かえって僕の韓をほしいままに罵倒した。韓が以前のことを告げると、呉は自分を謗っていると思い、かれを追い払った。韓は年老いて身を寄せる所がなく、飢えと寒さにこもごも迫られ、川に跳びこんで死んだ。まもなく、呉の妻妾はどちらもにわかに病み、口では韓某に命を取られると称した。呉は代わりに取り成したが、承諾しなかった。かれの表弟胡某の家でもそうであった。呉ははじめてはっと悟ったが、奸夫淫婦は時を同じくしてどちらも死んだ。
◎不孝で吝嗇なこと
河南の房芝田は浙江仁和の典史[137]であった。東呉の朱某は当時布庫大使[138]であったが、同僚同士で縁結びし、朱の子と房の娘は結婚することになった。道光某年、房は囚人が脱獄した廉で降格せられ、鬱鬱として亡くなり、死後は蕭然とし、妻子は自活するすべがなかった。当時、朱はすでに病と称して帰郷し、洞庭山に住み、家は豊かであった。房の妻は貧苦のために二子一女を連れてゆき、身を寄せ、急を告げ、結婚式を営む資力がないので、娘を朱に送り、彼女が期日になったら結婚するに任せた。朱某の太翁[139]はそれを憐れみ、朱某に頼み、百両を取って贈ったが、朱某はその大半をぴんはねし、四十両をその子に送らせた。その子は房の婿であったが、さらに二十をぴんはねし、二十両だけを与えた。房夫人はたいへん失望し、資金は欠乏するだろうと推測し、さらに婿に頼み、その父に相談してもらったところ、父はさらに一枚の証文を渡して言った。「これは揚州甘泉の知事某がわたしから三百両を借りた証文ですから、持ってゆけば、請求することができます。すぐにあなたの助けとなり、資金の外に余分の蓄えができましょう。」房の妻はやむをえず、証文を持っていったが、途中、資金が尽きたので、さらにその幼子を人に入質し[140]、維揚[141]にゆけた。すぐに長子に命じ、証文を持ち、県庁に赴かせたが、県令は朱の銀を借りたことはなかったので、無頼の詐欺と思い、怒って叱責を加え、下役を呼んで縛らせようとした。驚いて逃げ、母に告げ、はじめてその証文が虚偽であることを知り、もはや活路はないと思い、すぐに自経して死んだ。その長子は母を悲しみ、こちらにいるすべもなく、刀で指を切り、怨みを血書し、懐に入れ、やはり自刎した。宿屋の主人は県庁に知らせ、甘泉知事は検屍し、血書を見、たいへん驚き、はじめてかれが欺かれ、惨死したことを知った。すぐに血書を役所に持ってゆき、下役に命じ、草稿を作り、登録し、長洲に咨文を移し、調査させようとした。下役は草稿を繕写し終わっていなかったが、まもなく、血書が見えなくなった。他人が取ったかと疑い、調査したが見たものはなかった。人々は驚き訝ったが、そのまま放置した。十日後、洞庭山の朱宅の一件を伝え聞いたが、下役が血書を記録していた日、某が食事していると、霹靂一声、血書が前に抛たれた。すぐに捧げて庭に跪くと、雷榍[142]がかれの両の額に刺さり、その子が走り出ると、さらにその足を刺さり、どちらも撃ち殺された。そもそも瞬息の間に神が血書を取り、数百里を越えて去り、封翁ははやく一日足らずで千里それに応えたのは、恐ろしいことであった。これは道光二十七年四月のことであった。
◎秀水の盛生
盛生は、秀水の人だが、その名は伝わっていない。性質は仁厚で、平生人と争わなかった。族兄が広東で知事をしており、盛はかれに身を寄せていたので、県丞の某と親しくなった。ある日、丞は置酒して迎え、食事を進めたが、あやまって盛の衣を汚してしまった。丞は怒って門番を呼び、鉄鎖でかれの項を打ち、杖で打とうとした。盛は従容として進み出て言った。「過失は無心から出たものですから、法は許してやることができますし、公が今日わたしのために宴を開かれ、このひとが責めを受けることを招きましたのでは、心が安らかでございません。どうか許してやってください。」丞はそれでも聞かなかったが、盛は何度も取り成したので、丞は怒りがやや収まり、結局かれの罪を許してやった。一年後、盛は族兄に従い、他の郡に移るに臨み、日が暮れて馬車を止めたが、宿舎が狭かったので、心はたいへん心配した。まもなく、数人が洶洶然[143]と偵察して去り、夜、静かになり、盛だけが灯りを点けたまま寝ないでいると、また扉を推して入って来るものがいたが、盛を見るとじっと見、盛が驚いて尋ねると、その人はすぐに身を翻して外に出、仲間を呼んだ。すると諾諾と返事をし、哄然と散じて去った。夜明けになり、出発すると、一人が盛をしばらくつけて来た。そのわけを質すと、言った。「羹の碗を翻してあなたの衣を汚したことをご記憶でございませんか。」そもそも丞のしもべはすでに職を去り、盗人となっていたのであった。盛がそのわけを尋ねると、その人は言った。「こちらには盗賊が多く、よく旅人から掠奪し、宿屋の主人はすべてかれらの仲間でございます。昨晩、掠奪を計画しましたが、わたしは旅人の中にあなたがいらっしゃるのを見ましたので、叱って退けたのでございます。今後も逃れられない恐れがございますので、さらにあなたをお送りすれば、はじめて恐れはなくなりましょう。どうかほかの人には告げないでください。」翌日になると、また来て言った。「前途は恙のうございますから、わたしは去りましょう。」まもなく見えなくなった。盛がそのことを仲間に告げると、みな盗人にも道義があると驚嘆し、盛に厚徳があることを尊敬した。盛はまたつねにみずから田租を徴収していたが、貧しいものがいるのを見れば、免除していた。ある日、山東へゆき、舟を泊めていると、盗賊が扉を破り、船室に入ってきた。盛はちょうど寝ていたが、声を聞き、首を出して見た。盗賊は盛だと分かると、すぐに手を振り、人々を止めて入らせず、言った。「こちらにいらっしゃったとは知らずに、ご無礼したのでございます。わたくしは不仁でございますが、長者を驚かし、騒がそうとはいたしません。」連れ立って去ろうとしたので、盛はいそいで尋ねた。「どなたでしょうか。このようにわたしをご存じだとは。」その人は遠くで答えた。「あなたのように年貢を徴収なさるのであれば、貧農は恩恵を受けることが多うございます。」そもそも盗人の中には、盛の田で佃戸をしている者がいたのであった。一舟の数客はそれによって安らかであった。
◎商城[144]の周氏
河南商城の周家は、科甲が多いことでは固始[145]の呉家と等しかった。その先祖には、安徽の婺源県で官となったものがいたが、県では女児を溺殺することが多かったので、つよく諭したところ、その風習は結局収まった。まもなく福建某県の知事に抜擢された。その地の城隍像は金で鋳造されていたが、洋人の盗賊に通じるものがおり、某月日に壊しに来ることを約していた。周はそれを聞くと、ひそかに人に命じ、紙で厚く表装させ、さらに泥を加えて絵を描いた[146]。盗賊は来るとすべて剥いだが、泥土を落としただけで去った。周が帰った後、家で出産があるたび、かならず城隍が進んで来るのを夢み、さらに庭に瑞芝[147]を生じたので、祖の字の世代になると、みな芝の字を号とした。嘉慶辛酉[148]、周鑑堂(鉞)[149]ははじめて進士として部曹[150]から順天府丞の官に選ばれ、さらに芝ム(祖蔭)[151]は己巳に庶常から農部に改まり、官位は直隷清河道になった。芝生(祖植)[152]は己卯に進士部曹から官位は浙江臬司に、芝台(祖培)は編修から現在は刑部侍郎となっている。この外、同世代や子や侄にはさらに(鎔)がおり、庶常から江蘇知県に改まり、(祖銜)は庶常から湖北知県に改まり、さらに現在庶常で官位にあるものおよび挙貢[153]によって儒学[154]で官位にあるものなどは、指折り数えるに勝えない。
◎桃花がほんとうに苦しい
雲南の張鏡蓉(銑)大令[155]が言った。道光丙戌の会試で、山東の某は×字の七十×号に坐していた[156]。まだ晩くなかったが、冷たい風が吹き込み、某の号簾[157]を掲げ、再三「違う。」「違う。」と言い、はやく寝るように注意しあった[158]。一時足らずで知貢挙[159]が御史とともに号房を調べに来、三更になってそれが終わると、問題用紙が配布された。夜明けになると、号房の中も特段異変はなかったが、巳の刻になれば、すぐに七十×号の某が大声で数回叫んだ。「桃花、桃花、おまえはほんとうに苦しいか。」叫び終わると死んだ。その答案を見にゆくと、すべてこの句であったが、どういうことなのかは分からなかった。鏡蓉は同じ号房の中におり、これはその目で見たことであった。怨霊が命を奪うことは、けっして嘘ではないことが知れる。
◎人を損なっても益がないこと
広東の人林某は、官位は雲南塩法道[160]であったが、塩案[161]によって部議[162]に係っていた。当時、戸部の司員[163]に京察[164]を受けたものがおり、開缺[165]によって簡放[166]を得られることを願い、厳重に議論した。開缺があると、ほかから昇任し、そのことを議論したものは沈滞して終わった。観察[167]は名を紹龍[168]といい、家大人と同榜[169]の進士で、家大人が京師で役人をしていた時、このことを仄聞したことがあった。
◎ウシが救いを求めること
道光癸卯[170]年、わが省の汀州府[171]連城県[172]長官の代理に章鼎軒というものがおり、着任してわずか半年で、懸案を数十件裁き、尋問してすぐに是非を裁判したので、人民は感激していた。士人をたいへん優遇し、徳政は数え切れなかった。当時、千両の賄賂をひそかに贈るものがいたが、拒んで受けなかった。その人は言った。「知っているものはおりません。」公はつよくそれを退けた。かれが財貨を貪らぬことはさらにこのようであった。役所の宅門の聯にこう書いたことがあった。「役人としてよい結果を望もうとすれば、事を弁ずる時に金を使わぬ[173]しかない。」まことに福建省の一清官であった。その年の秋、にわかに一頭の大きいウシが県庁の大門から奥の建物に闖入し、人が阻むと、角で突き、まっすぐ章公の案頭にゆき、地に跪き、眼に涙を流し、救いを求める動作をした。章公はそれを許し、起きさせ、すぐに外堂に繋ぐように命じた。以前、人を見るとすぐに突いていたものは、かえっておとなしくなった。翌日、ウシを探すものが来ると、章公は質問し、城から三十余里離れた某郷の某が、買って屠殺しようとしたが、屠殺される時になると、ウシが懸命に走ってこちらに来たことを知った。章公はかれがゆえなくウシを殺そうとした罪を懲らそうとしたので、某はウシを求めようとせずに去った。そこで飼育し、寺で放生し、月々芻糧[174]を与え、記録して永遠に伝えた。ああ。蠢然[175]たるウシなのに、何と優れた有司のところに向かって生きようとしたのだから、誰が動物は無知であると思おう。後に章公は卓薦[176]によって都に赴いたので、県民は「化禽獣に及ぶ」という扁額をかれに送った。役人たるものは励まされる。
最終更新日:2018年2月22日
[1]原文「凡年久で無力者皆葬之」。「力」が未詳。とりあえずこう訳す。埋葬のための資力がないということか。
[4]未詳
[8]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E5%98%89%E6%85%B6%E4%B8%83%E5%B9%B4%E5%A3%AC%E6%88%8C%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C
[14]http://www.zdic.net/c/7/91/160966.htm文章の優劣を判定して士人を採用する権力。
[15]http://www.zdic.net/c/1/143/314147.htm子孫が貴顕であることにより封典を受けた人。
[20]http://www.zdic.net/c/6/107/280231.htm官員の等級を区别する帽飾。
[22]漢典に適切な語釈なし。未詳だが、先祖と子孫のことではないか。
[28]原文「而鄰某王宅不戒於火」。「鄰某王宅」が未詳。「某」は衍字か。
[29]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%98%8E%E5%B1%B1山名だが、ここで山名を挙げるのは変。
[32]http://www.zdic.net/c/5/158/346449.htm官府の規定により、金を納め、官職を取得することを申請すること。
[33]原文「見族中一節婦以十指養其病姑並幼子」。刺繍をして生計を立てていたということ。
[34]http://www.zdic.net/c/5/10/26952.htm戦乱によって起こる焚焼破壊等の災害。
[35]http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE7ZdicB1ZdicB313580.htm米が珠のように貴く、薪が桂のように貴い。物価の騰貴を極言したもの。
[38]千八百四十二年
[39]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic90Zdic8C104439.htm同じ伍の人。户籍は五家を伍とした。
[42]誰を指しているのかが未詳。
[46]http://www.zdic.net/c/4/99/174805.htm天上あるいは冥府で人の福、禄、寿を記録する帳簿。
[48]主語は「寡婦」。
[49]http://www.zdic.net/c/f/da/214109.htm太学生、童生が受ける、貢挙および学政、府県の試験。
[50]http://www.zdic.net/c/8/e0/221246.htm商人が塩税を納めた後、政府によって発給される食塩。
[51]http://www.zdic.net/c/f/91/161549.htm高祖を同じくする従兄弟の子。
[52]http://www.zdic.net/c/9/9/14956.htm科挙の試験は三次試験まであり、初場、二場、三場といった。三場とも総称した。
[53]http://www.zdic.net/c/8/fc/265236.htm官吏の選抜を主管する部門。
[55]http://www.zdic.net/c/6/e9/237666.htm青絲の帯で作った頭巾、諸葛巾ともいう。グーグル画像検索結果 。
[56]http://www.zdic.net/c/4/156/342989.htm鳥の羽で作った裘。外套にする。グーグル画像検索結果
[57]http://www.zdic.net/c/4/d9/211598.htm仏教語。善業によって生じた善妙な結果。
[58]勉強を教えるのをやめず
[63]http://www.zdic.net/c/4/ed/242338.htm 試験の合格者掲示板。
[64]原文「陳子」だが、「陳孫」とすべきであろう。
[65]地名かと思われるが未詳。
[68]http://www.zdic.net/c/f/13b/300968.htm男児が成童の時に束髪して髻にすること。成童の年をも指す。
[69]原文「即不為無益事。」。未詳。とりあえずこう訳す。https://www.google.com/?hl=zh-CN&gws_rd=ssl#hl=zh-CN&q=%E8%8B%A5%E4%B8%8D%E4%B8%BA%E6%97%A0%E7%9B%8A%E4%B9%8B%E4%BA%8B
[72]http://www.zdic.net/c/9/150/334208.htm声が円やかでよく響くこと。
[77]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E4%B9%BE%E9%9A%86%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E5%B7%B1%E9%85%89%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C
[83]未詳。
[90]http://www.zdic.net/c/7/78/122958.htm挙人、進士が、自分が合格した試験の主考官あるいは総裁官に対して用いる呼称。師座とも。
[91]http://ctext.org/ancient-classics/zh?searchu=%E9%AA%84%E6%B7%AB%E7%9F%9C%E4%BE%89%EF%BC%8C%E5%B0%86%E7%94%B1%E6%81%B6%E7%BB%88
[93]未詳だが偏頗な行いのことであろう。
[95]原文「蘇揚兩郡城書店中皆金瓶梅板蘇城板藏楊氏」。この文は文意が通らない。「蘇揚兩郡城書店中皆金瓶梅、板蘇城板藏楊氏」と区切り、一文字目の「板」は衍字と解したいが、「書店中皆金瓶梅」という言い方も不自然。
[96]http://baike.baidu.com/view/1198583.htm家に千金を貯蓄している富人が、坐卧する時堂屋の屋檐に近い所に寄らず、屋瓦が落ちてくるのを恐れること。
[98]http://www.zdic.net/c/f/6a/102755.htm都察院副長官左副都御史の别称。
[99]主語は「朱氏」であろう。
[104]貞女の実姉。
[105]原文「女懼不直」。未詳。とりあえずこう訳す。http://www.zdic.net/c/d/142/310641.htm
[107]http://www.zdic.net/c/0/153/339420.htm事実の経過を記述することを主とする文体名。
[110]未詳だが、風水の良い墓であろう。
[116]http://www.zdic.net/c/6/d4/205082.htm官名。翰林院に属し、位は修撰に次ぎ、修撰、検討とともに史官。
[118]http://www.zdic.net/c/a/38/87805.htm五品官の母あるいは祖母の封号。
[122]http://www.zdic.net/c/7/85/143583.htm玉人。儀容が美しい人。
[123]http://www.zdic.net/c/4/10a/288535.htm劣悪な天候あるいは悲惨凄凉の境遇。
[124]http://www.zdic.net/c/2/111/298768.htm孤独で頼るものがないこと。
[128]原文「不生育の藥」。未詳だが、男性の不妊薬であろう。
[131]http://www.zdic.net/c/0/d2/200100.htm婦人が出産後、失血によって眩暈がする病症
[133]原文「家人啟視之」。布団を開いて中を見るのであろう。
[137]http://www.zdic.net/c/8/f/23946.htm知県の下で捜査捕縛、監獄を掌管する属官。県丞、主簿がいなければ、典史がその職を兼務する。
[140]原文「又以其幼子質於人」。未詳だが訳文の意であろう。一種の人身売買。
[143]http://www.zdic.net/c/9/108/283504.htm勢いが盛んあるいは凶猛のさま。
[146]原文「周聞之、暗令人將紙厚裱、復加以泥繪之。」。このくだり未詳。とりあえずこう訳す。「その地の城隍像は金で鋳造されていたが(その地城隍像系金鑄)」とあるが、金の板状のものに浮き彫りになっており、それに紙や泥を被せたということか。
[147]http://www.zdic.net/c/e/85/143444.htm霊芝草。霊芝は吉祥の物とされていたので、かく称する。
[154]http://www.zdic.net/c/2/e/21780.htm各府、州、県に設立された生員の学校。
[156]科挙の試験会場は『千字文』によって番号がつけられている。
[157]http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CBwQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2F7%2Fa1%2F188489.htm&ei=HBpJVILEAqOxmAWqiILYAw&usg=AFQjCNEmaMamkBsuYtSUoEDZnxKHYLINfw&bvm=bv.77880786,d.dGY科場で考生が居る号房の中に掛けられるカーテン。
[158]原文「掀某號簾で云不是不是者再、彼此相戒早臥。」。どういう情況なのか未詳。何者かが号房のカーテンを捲り上げ、中に居る人を見て「違う」と言い、中に居る人と「早く寝ろ」と言葉を交わしているということか。
[159]http://www.zdic.net/c/5/e2/227620.htm会試の知貢挙は多くは一二品大臣の中から派遣され、満漢各一人で、試験場の事務だけを行い、閲読採用の責を負わなかった。
[160]http://www.zdic.net/c/0/9e/181045.htm官名。一省の塩政を掌管する。
[161]未詳だが、塩政に関する事件であろう。
[164]http://www.zdic.net/c/c/10/25670.htm定期的に京官を調査する制度。在京のものは「京察」と称し、外地にいるものは「大計」と称する。
[165]http://www.zdic.net/c/0/152/337585.htm官吏が事情によって留任できず、その職務を免除されたとき、ほかに人を選び任に充てる準備をすること。
[166]http://www.zdic.net/c/0/1d/44914.htm評定を経て道府以上の外官に任ぜられることをいう。
[169]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E5%98%89%E6%85%B6%E4%B8%83%E5%B9%B4%E5%A3%AC%E6%88%8C%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C
[173]原文「欲要為官好結果、除非辦事不開花。」。「開花」が未詳。漢典に適当な語釈はないと思われる。http://www.zdic.net/c/0/fb/264223.htm「開花」はここでは金を使うことであろう。
[174]http://www.zdic.net/c/d/f/24877.htm糧草。軍隊用の飼料と糧食。
[176]http://www.zdic.net/c/3/4/9804.htm 卓異であることによって推薦せられること。吏部が官吏を調査し、才能抜群のものを「卓異」と称する。