●巻二

 

◎李方伯

 

嘉慶末年、わたしの同郷人が、[1]方伯[2]が漳州府の城隍神になったことを喧伝し、漳州の人に尋ねると、みなそのことをはっきり語った。そもそも[3]先生の冤罪事件はすでに前録に載せたが[4]近頃、銭衎石[5]先生の記事[6]の草稿の記載を閲したところ、かれが漳州を治めた時の善行信義は、法るべきものであることが分かった。かれが言うには、福建漳州の械闘はもっとも収拾しがたかったが、斎李公、名は賡芸が、漳州の知府となり、赴任すると、約里正をすべて召し、官署に来させ、酒を飲ませ、こう告げた。「朝廷が役所を設けるのは、まさにおまえたちの曲直を正すためなのに、どうして役所に訴えず、ひそかに闘った。」みな言った。「訴えますと、一二年事件が尽きず、結局は是非も分からぬかも知れず、先に身の煩いにもなりますので、やむをえず闘ったのでございます。」公は言った。「今はわたしがいるから、訴訟があればすぐに裁こう。それでも不当なことがあれば、さらにそれを言えばどうだ。」みな言った。「たいへん幸いでございます。」公は言った。「それなら私闘することはない。帰ったら、郷里の人々に告げてくれ。今後また闘えば、わたしはかならずその首領を捕らえ、賂しても逃れられぬと家産があれば、わたしはすべて焼こう。後悔するな。」みな唯唯として退いたが、公の政治が本当にどうであるかは分からなかった。その後、闘うものがいたが、すぐに官兵を派遣し、捕縛にゆかせ、すべて言った通りにしたので、闘うものはたいへん恐れた。公は日々堂上に坐し、重門を大きく開き、下役は交代で侍していた。訴えるものは、まっすぐに入り、公の前にいった。公は下役命じ、ともに裁くべきものたちを召し、××の時日を期限とし、来なければ、杖役にした。ゆけばすぐに訴訟を収め、許して去らせ、一銭も費やさせなかった。人民はみな歓呼して言った。「李さまはわたしたちを生かされた。」よその県もみな公に訴えにゆき、公が先に概略を尋ね、後に県に下せば、県はぐずぐずしようとしなかった。漳州はおおいに治まり、今でも女子供さえそのことを語れる。かれが歿して神になったのは当然か。

 

◎福観察と孫刺史

 

徐牧庵刺史が言った。福君蔭、孫君樹新は、いずれもわたしの粤東の元同僚で、莫逆の交わりと称していた。後にいずれも中央官[7]に改任となり、その任地で歿した。聞けば福君は冀寧道[8]にいた時、龍神廟を改築したが、旧い神像を壊したために、神罰を受け、十日たらずで父子が相次いで歿したそうである。このことはたいへん怪しかった。孫君は初め吉州に赴任し、まもなく代州に昇任したが、州の属県はつねに旱魃に苦しんでいたので、青龍祠[9]を建て、甘雨を祈った。工事が終わると、まもなく病に罹った。某月一日の早朝、士民はみな公が朱旄p蓋を擁して祠に入るのを見たが、それはまさにかれの易簀の時であった。そもそも同じ龍神で、同じ龍神廟を建てたのに、禍と福の、それぞれ異なる報いを得たのは、どうしてか。おおむね龍は四瀆の尊いものであり[10]あらゆることを知っているので[11]、きっとかれらに憑くことがあったのであろう。福君は旧像を濁流に投じ、無礼は甚だしく、孫君は州庁に臨むこと前後六年、良心に基づいて政治をし、文廟・学宮を修理し、玉帯河[12]を開き、大きな工事はすべて行い、文風[13]を興し、水利を盛んにしたので、龍祠を建てることがなくても、この土地に廟食[14]するべきであり、そのことはもとより理の彰彰としたものであった。暇な日に綿綿と書き、地方官の任にあるものが[15]政治は新しいことを尚び、事物は旧いものを守り、つねに物に救いがあることを期し、自分の心の安んじることを行えば、果報の理はまさにその中に寓していることを示す。刺史は家大人の壬戌の同年[16]で、名を応麟といい、八十余歳で病むことなく亡くなった。これはその遺集の筆録一条で、勧戒の意味を具えているので、記録した。

 

◎銭孝廉

 

于蓮亭[17]の『聞見録』にいう。潤州[18]の銭為林孝廉は、乾隆年間、某郷紳の家で生徒を教えていたが、某弟子はたいへん聡明なのに、勉強しようとしなかったので、銭はかれをたいへんつよく責めた。弟子は言った。「わたしは電光石火のようなもので、来年すぐに帰らねばなりませんから、勉強しても益はありません。」銭は驚き、そのわけを尋ねると、答えた。「わたしはもともと菩薩の侍者で、過ちによって人の世に流され、まもなくふたたび本来に帰るのです。」そこで銭はみずからを知っているなら、わたしを知れるかと尋ねた。その時銭には子がなかったので、いつ得られるかも尋ねた。すると答えた。「先生は前生は明末の周介[19]で、今生は孝廉から県令になるはずです。定めでは、もともと子がいるべきではありませんが、ひろく陰隲を積むことができれば、二子を得られ、一人は孝廉、一人は抜貢になりましょう。」翌年、某弟子は本当に夭折した。銭はその後、善事があれば努力してそれを行い、すこしも怠らなかった。後に山西県令に選ばれたが、県は万山の中にあり、崎崎険峻で、トラやオオカミが出没する所であった。銭は後に用事で城外にゆき、輿を山中で休め、輿夫[20]ともに路傍で熟睡した。するとたちまち白鬚の叟が小さい旗を持ち、某輿夫の首に挿したので、銭は怪しみ、こっそり取り、懐中に隠した。まもなく、一頭のトラが吠えながら走って来、探しものがあるかのようにしていたが、見つからなかったので、去った。老人はまた来、ふたたび旗を輿夫の首に挿したので、銭はさらに取り去った。トラはまた来て、怒気を含み、あまねく輿夫たちを嗅ぎ、撲ち齧ろうとしているかのようであったが、その後、結局去った。銭がいそいで輿夫を呼んで目ざめさせ、事情を告げると、輿夫もトラに食べられそうになるを夢みたと言ったので、たいへん恐ろしかった。銭はそこで役所に帰るように促し、着くと輿夫にどんな罪業があるかをくわしく尋ねた。輿夫がみずから言うには、母を殴ったことがあるということであったので、銭は怒った。「不孝の罪は、上は天に通じる。」三十回きびしく杖うつように命じた。杖うつと、輿夫は叩頭し、主人に、母を養う資金として百両を下さい、すぐに出家して僧になりますと言った。銭は金額通り答え、輿夫はすぐに飄然と去った。後に銭は本当に二子を生んだ。長男は名を之鼎といい、郷試のため都へ赴いた。時に銭はすでに歿していたが、合格発表前に突然行脚僧が来て面会を求めた。門番が入れなかったところ、僧は某嫗が知り合いだと言ったので、門番が嫗を呼び出すと、まさに厄難を脱した輿夫であった。そこでかれを輿に載せ、之鼎に会わせると、言った。「坊ちゃまは今回の試験はかならず合格なさいますが、過失があり、進士にはなれません。つとめて善事を行えば、寿命を延ばせましょう。」そう言うと、去った。之鼎は本当に合格したが、その後、寿命は結局長くなかった。かれの弟某は抜貢[21]で終わり、すべてその弟子の言葉通りになった。ああ。銭は前世は悪人であったので、悪報を得るべきだが、転世してもなお孝廉から県令となれたことからは、その以前の根柢[22]が厚いことが知れる。そして子孫が絶えるべき定めであったのに善事を行い、二子を得たことからは、天が人の改心するのを許すことが分かる。某輿夫にいたっては、その親に不孝にしたので、罪は莫大であったが、一旦改悛し、空門に隠遁すると、結局予知することができるようになった。心の中に得るものがあるのでなくてこのようにできようか[23]

 

◎某明経

 

于蓮亭はさらにいった。杭州に某明経というものがおり、平素酒を嗜み、酔った後はかならず謾罵することをつねとしていた。某年の元旦、某が門を出ると、一人の乞食が金を求めているのに遇った。様子はたいへん苦しげであったが、他の人々はみな顧みなかったので、某はたちまち善心を起こし、一銭を与えて去った。後に某は病のために冥土に入り、閻王に見えたが、王はかれが奸佞軽佻で素行がよくないことを責め、判官に命じてその善悪の冊子を調べさせた。悪行はたいへん多かったが、善事が一件あった。そこで計らせると、善悪は等しかった。閻王が判官に命じて、それがどんな善事かを調べさせると、それはまさに乞食女一銭を賜ったことであった。そもそも乞食女は観世音の化身で、人々がみな首を振って顧みなかったのに、某だけが一銭を与えたので、閻王は世に帰らせることを許したのであった。某は生き返った後、酒を戒め、善を行い、さらに長年を経てはじめて歿した。これを見ればどこにでも鬼神がいることが分かる。一銭で寿命を延ばせるなら、何事においても善をなさねばならぬし、何人においても善をなさねばならない。

 

◎百文敏公[24]

 

嘉慶年間、封圻[25]の大官で才知謀略が卓絶していたものとしては、真っ先に百文敏公が挙げられる。当時、朝廷はかれを曰能と称し[26]、死後、謚して敏といったが、むなしい賛美ではなかった。わたしは若い時、荊南[27]に随宦[28]し、しばしば公の政績を耳にしたが、その詳細はまだ語れない。昨日、漢陽の友人がたまたま一事を語ったが、それだけでも神明の誉に恥じず、勧戒の一助ともなせるので、すぐに筆記した。百文敏公が両湖を総制していた時[29]、ある江西の客民[30]が漢口で数年商売し、貯蓄して余裕の資金ができると、故郷に帰り、地産を買い十分裕福になったが、還暦を越えていたので、家で一生を終え、奔走の苦しみを免れようと思った。一人の弟が家で勉強していたが、一衿を博しただけであった[31]。弟は心が良くなく、田園の契約文書がすべて手中にあるのに頼り、兄の歴年の財産を自分の懐に入れ、すべて侵奪し、老年に差し掛かった兄が窮乏し、訴える所がなくなることを招いた。兄はやむをえず、わずかな金を持ち、ふたたび漢口に赴き、商人となった。数年経ったが、生活はたいへん貧しく、悶悶として嘆息し、気を晴らすすべがなかった。百公が聡明で、しばしば民間の冤罪を雪いでいることをよく聞いていたので、訴状を作り、訴え、かれの父祖が貧寒で、すこしも貯蓄を遺さず、弟は年がやっと(はたち)で、老兄に養われ、勉強し、成人することができたことを述べた。その時、公はすでにこの事件の概況を洞察し、上申書を受け取った後、指示を加えず、すぐに江夏[32]の知事に手交し、手立てを設けて審理させた。江夏の知事は事件がよその省に関わっていたので、人に伝えるのは難しく、調査するすべもなかった。数日ぐずぐずしたが、一計も浮かばなかったので、制府[33]に教えを求めた。公は笑って言った。「それは容易なことだ。盗難事件にその弟を連座させ、窩家[34]とすれば、うまくゆこう。」江夏の知事は命に従い、上申し、公はすぐに江西中丞[35]に急報し、日を決め、すみやかにその弟を捕らえ、法廷にゆかせ、有無を言わせず、すぐに湖北に護送してゆき、司法機関に引き渡し、尋問させた。公はすぐにみずから大堂に連れてゆき、声を荒らげ、怒鳴った。「秀才は名教を守るべきなのに、盗賊の窩家になり、千両の富を致そうとするとは、ほんとうに憎らしく、法ではさらに許し難い。」すぐに供述させ、判決した。その時、かれの弟は、魂も身に付かず、命をなんとか全うすることを求めるばかり、天を指し、日に誓い、家産は兄が商人をして築いたもので、本当に盗賊と通じたことはございませんと陳述した。兄は今どこにいるかを尋ねると、今、漢口にいますと答えた。すぐに法廷に伝え、はっきりと尋問し、生員を剥奪することを判決し、かるく鞭うちを与え、家産をふたたび兄の管理に属させ、兄がしばしば救済[36]するのに従わせ、分に外れて勝手に振る舞うことを許さなかった。弟もおとなしく従い、事は終わり、すこしも異議がなかった。事件は両省に関わり、事は長年を閲していたが、数語足らずで実情はすべて明らかになり、讃える声は路に満ち、不平はすべて雪がれ、たいへん優れているのでなければ、誰がこれに与ることができようか。最近、陳望波先生[37]の次子貫甫邑侯(景曽)[38]が山西で知事となり、すぐにこれに倣い、ある事件を判決し、大いに循良の誉れが明らかになった。天下の断獄するものたちがみなこのようであれば、上はこれによって励まされ、下はこれによって戒められ、さらにどんな悪人が世に容れられようか。

 

◎節婦が表彰を求めること

 

江都の史望之宮保は、賢書に登った[39]後、文名はたいへん喧しく、揚州の珠知府(蟒伊)の幕客となったことがあった。ある日、家で昼寝していると、突然、一人の青衣が帖子を持ち、輿を担ぎ、呼びに来たので、夢の中で知府だと思い、輿に乗り、いっしょにいった。官署に着くと、役人が階を下りて迎えたが、古の容貌、古の衣冠で、平素知らない人であった。こちらに来たからには、すぐに退くことはできないとひそかに思った。古の衣冠のものはたいへんうやうやしく挨拶した。堂上に一席を設けてあり、主客分かれて席に着いたが、肴は美味でなく、たいへん冷たかった。話が終わるとすぐに、令状を持ったものが、主人に広間に出て来、事件を取り調べるように求めた[40]。すると古の衣冠のものは言った。「先生、少々お待ちください。わたしは公務がございますので、しばらくお供できません。どうかじっとお掛けになり、みだりに動かれてはなりません。」宮保は口では唯唯としていたが、抜き足でかれの後を探った。ちらと見ると、一人の老婆が襤褸を着てよろよろと歩いていた。手には一枚の紙を持ち、書状を投じて訴えているようであったが、言葉はあまりはっきりとしなかった。古の衣冠のものは堂上で拱手して立ち、敬意があった。しばらくすると堂上のものが言った。「このことはわたしに処理させろ。」老婆が退くと、堂上のものはまた坐した。するとにわかに鎖鐐[41]の音が聞こえ、二人の若者が来、階下に匍匐し、ひどく震えてい。見ると、[42]の某房師[43]の息子とおいであった。子はオクラ色の夾衫[44]を服し、おいは玉色の夾衫を服していたので、心のなかで驚き、このような服色[45]なのに、なぜこのように疲弊し、何の罪によってこのように鎖や手錠を掛けられているのかと思った。すると突然、堂上で古の衣冠のものが案を打ち、大声で叫び、堂下の下役たちが厳しい拷問を加えた。宮保はすべて見るに忍びず、退いて帰った。まもなく、古の衣冠のものが戻って来、宮保に言った。「先生は前途が遠大でございますから、どうかご自愛ください。」そして目ざめた。目ざめると、夢境ははっきりとして目の前にあるようであった。宮保はたいへん不安であったが、某房師に上書してこのことを探りにくくもあった。その時、某房師は呉中で知事をしていたので、宮保は面会を求める名目に託ければ、夢のことを尋ねることもできるので、船に乗り、江を渡り、訪ねていった。やっと役所の門に着くと、門番は言った。「史さまはたいへんよいところに来られました。主人は、若さまとおいごさまが時を同じくしてにわかに病んで亡くなりましたので、たいへん悲しんでいますから、主人を慰めてください。」宮保はそれを奇とし、入って房師に会い、言った。「世兄[46]は臨終の際、もしやオクラ色の夾衫でしたか。」房師は言った。「どうしてご存知なのです。」宮保はくわしく夢境について述べたが、時日はすべて同じであった。結局、老婆が何を訴えていたかは分からなかった。某房師はそこでくわしく調べると、ある富豪の節婦が表彰を求めた時、若さまとおいが大金を要求し、何度も却下し、受理しなかったため、表彰を得られないことを招いたことを知った。宮保はそこで代わって上申し、どちらも志乗[47]に列ねた。宮保の長君[48]潁生大令(丙栄)は羅茗香秀才(士琳)[49]に頼み、代わって宮保の履歴[50]を撰したので、その詳細を知った。茗香はわたしに伝えて言った。「帝君は『人の名節を損なうな。』[51]と言っているが、中間で利を得るのはなおさらである。報いの速やかであるのは当然だ。」

 

◎又

 

婺源[52]の某孝廉は、一時の声望を担い、隣県に招かれ、県志を編修した。二人の婦人の節孝を推挙するものがいたところ、笑って言った。「嫁がないのは簡単なことだ。どうして奇とするに足りよう。」退けて採録しなかった。乾隆癸丑[53]の春闈に赴き、泰山の下を過ぎ、旅籠に泊まり、夢みたところ、二人の女が戟手[54]して向かい合って言った。「わたしたちは(きわだ)を食べ、氷を飲み、得たものはこの名だけで、どこの狂人が、容易だと言って退けるのか。今、帝の許しを得た。」某は目ざめると、仲間に告げたが、みな妖夢で拠りどころとするに足りないと思った。試験場に入り、三芸[55]が完成し、すぐに清書しようとすると、たちまち先ほどの二人の女が入ってきて罵った。「今回の試験では首席になり、翰苑[56]に入るはずだったが、おまえがみだりに議論したため、すでにすっかり帳消しされた。まだ最終試験を望むのか。」筆を執ったが下せず、夜通し狂呼し、みずからその答案を引き裂いて出た。

 

◎雷が裏切りものを撃つこと

 

泰州に鄭姓のものがいた。かれの父は刀筆[57]に巧みで、資産を貯えた。鄭はその仕事を代々しており、性格はもとより狡猾で、あらゆる悪事をしていた。一人の下女に密通し、孕ませた。その妻が知ってかれを責め、こうなった以上は、娶って妾にするしかないと言った。鄭は承知せず、さらに下女を辱めて打ち、どこで孕んだか分からないから、去らせると言った。下女はその家に帰ると、父母に罵られ、こんな恥知らずなことをし、さらに人に棄てられ、どうして人でいられようと思った。下女はたいへん怒り、みずからを許せず、自縊したが、鄭は平然としていた。かれの妻は下女の死を知ると、夫を良心を失っていると責め、泣いて告げた。「わたしはこれ以上あなたに頼れません。」鄭が妻のうるさいのを嫌い、足で蹴ると、まさにその腹に中たった。妻も孕んでいたが、苦痛の中でやはり自縊した。かれの妻の父は揚州にいた。鄭がその娘はお産で亡くなったと報せると、妻の実家も疑わなかった。ある日、鄭は揚州にゆき、商売し、ひそかに再婚の計画を立て、新橋寺[58]に泊まった。その日の午の刻は、大雷雨になった。鄭は金勘定をしていたが[59]、雷鳴を聞くと、すぐに顔に警戒の色を浮かべた。突然一声の霹靂により、鄭は死んだ。その時ともに寺にいたものは、一人は画商、一人は若い道士であったが、いずれも雷に撃たれたものの蘇った。これは道光二十六年[60]六月十三日のことで、わたしはちょうど邗上で随侍していたため、このように詳細を知ったのであった。

 

◎有能な役人の果報

 

乾隆五十五年[61]、老人に銀・米・絹・肉を賜った一件で、各省からはまったく京控[62]がなく、杭州府に所属する新城県の呉知県だけは給付を報告する原簿を作ったものの、点検をしておらず、なお事務を処理した書吏の家に保存されていた。当該県の典史[63]で馬姓のものは、平素の私怨を挟み、胥吏と結託し、印を押した底冊をすべて騙して自らの手に入れ、浮冒[64]不符[65]の各項目を羅列し、ただちに部科[66]に告発した。欽差大臣が司員[67]を従え、駅を馳せ、浙江に赴き、調査・懲罰することになった。その時、浙江巡撫[68]瑯玕[69]、藩司[70]顧学潮[71]、臬司[72]顧長紱[73]、杭嘉湖道[74]清泰[75]が集まって相談したが、あるものは、この件は全省の大局に関わる、星使[76]が審問した時、馬典史が当該県の底冊を直接呈出したら、この件はたいへん収拾するのが難しい、時に臨んで手を焼くよりは、星使が来る前に、先に原告から底冊を呈出するように誘導し、かれが法廷で呈出することがないようにさせるほうが良いそうすれば、原告は真実でないことを誣告したに過ぎぬから、罪は流刑にとどまり、全省の大局はそれによって保全でき、裨益することは本当に多いと言った。その時、撫台[77]および藩道[78]ともに黙して一言もなかったが、廉訪[79]だけは深くその通りだと思い、ひそかに府県に語った。「有能なものに仕事を任せましょう。」公は補任を待つ有能な官員の中から某姓のものを選び、秘計を授けてゆかせた。翌晩、突然小欽差[80]が入城したことが報された。小欽差はただちに按察使の官署の大堂に入り、馬典史を虚偽の供述の廉で捕らえさせ、星使がわたしに先に調査に来るように命じた、証拠があれば、かならず曲直を正してやるが、そうでなければすぐに誣告罪に処すると言った。馬典史はすぐに懐の中から底冊を出した。小欽差はすこし翻閲すると、笑って言った。「この証拠があるなら、明朝二人の大人(たいじん)が来れば言葉を煩わさずに終わろう。」翌日、星使が本当に来、法廷に呼び出し、証拠を求めたので、馬典史は昨夜小欽差のところに呈出しましたと言った。星使はたいへん驚き、すぐに従えて来た司員や供事[81]の人々を、かれにすべて確認させたが、まったく知るものはいなかったので、馬は言葉に詰まった。すぐに「重大事を誣告して事実でない[82]」条例に照らし、新疆に流刑にした。出発した後、馬は父と子でともにいった。そもそも馬の本意は本省に訴えるだけであったが、かれの子が唆し、直接部科に告発させたのであった。安徽の毫州[83]地方にゆき、夜に宿屋に泊まり、その子は父に責められたので、悔いと怨みがこもごも加わり、夜に乗じてみずから縊れた。その父は翌朝目ざめて気づき、やはりすぐに自刎した。事が一年を隔てた後、官員某姓は回避して福建にゆき、沙県[84]から龍溪に転任した。龍溪の任地で、護送していた銭糧[85]が盗賊に強奪されたが、公言しようとせず、ひそかに賠償を行った。補解[86]した後、他の県が盗賊を捕らえたところ、盗賊は某年月日に龍溪県で銭糧を奪ったことを供述したが、事は露顕しなかった。上級官庁は事実に基づいて奏参し[87]、某姓のものをも新疆に送り、流刑にした。毫州にゆくと、夜、馬典史が姿を現し、かれを生け捕りにして去った。そもそもそこはそれより前に馬父子が自殺した地であった。

 

◎雷州の知府

 

羅茗香[88]がいった。道光九年[89]に都で邸抄[90]閲したところ、部選[91]雷州知府某が、高郵にゆき、雷に遭って撃ち殺されたとのことであった。かれは満洲の人で、礼部の司員出身であった。そこでかれのことを尋ねると、礼部主事劉申甫丈拠[92]が言った[93]。「この人は同僚ですが、死ぬのが遅うございました。知府に選ばれました時、妻だけを連れ、都を出、盲目の母を京師に置き去りにし、資金が足りない、着任したらすぐに人を遣わし、迎えて世話すると嘘を言いました。さらに言うには、住んでいる家には、すでに三年分の家賃を払ってあり、帳簿[94]もあり、某両替商から毎月数千銭を取れ、生活費にできるとのことでした。盲目の母はどうしようもなく、それに従いました。しかし去ってわずか一か月で、家主はすぐに年貢を取り立てに来、某両替商も銭を出しませんでしたので、はじめて家賃は一月分払っただけで、両替商にも数千銭を預けてあるに過ぎないことを知りました。かれの母は飢えと寒さに迫られ、昼夜『あのような不孝者が死なぬとは、天理があるのか。』と泣きました。南に帰る時、高郵を過ぎましたが、水夫に尋ねますと、某はまだ山西の債権者がついてきており、高郵湖に来ていることを知りましたので、某はしもべに命じ、船頭に相談させ、債権者を湖に落とし、銭を報酬にすることを約束させました。船頭は承諾しませんでしたが、某はさらに水夫に相談し、水夫は承諾しました。その晩手を下そうとしましたところ、雷がたちまち来、先に知府を投げ、船室から出し、撃ち殺し、その妻の体を焼きましたが、からくも死にませんでした。舟じゅうが慌て恐れましたので、船頭ははじめて事実を述べ、山西の債権者に告げ、山西の債権者は天を仰いで証文を焼き、淮安府雷神廟で醮を三日行い、神を祭って去りました。以前、雷が不孝者を撃つ事がたいへん多いことを聞きましたが、これは二千石[95]に起こったことであり、任地がまさに雷州であったのも、天誅がつとに定まっていたものであり、債権者を殺そうと計画することがなくても、高郵で撃たれなければ、きっと雷州で撃たれていたろう。そもそもこのことはすでに三録に載せてあり[96]、実は一事だが、顛末がやや異なるので、両方残す。

 

◎放焔口

 

鬼神の情状は一理を外れず、その感格[97]は一誠[98]を外れない[99]。仏教には盂蘭盆の施食[100]法があり、俗に放焔口といい、もっとも霊験があり、それを司るものは恭しくせざるをえない。仏岡[101]直隷[102]同知治下の大埔坪[103]は。もともと清遠・英徳二県が山中で境を接する地で、盗賊が逃亡する場所であった。嘉慶十八年、上奏して二県の十三堡六郷を分割し、専門の庁舎を設け、民間の外、営伍[104]をも管轄させた。役所はたいへん広く、東西二つの箭道[105]があり、教練選抜の地であった。その三堂[106]は五つの大きい部屋があり、左右の廂房は十二部屋で、たいへん広かった。しかし下には古い塚が多く、住むとかならず病死するものが相次いでいた。道光十三四年の間、合肥の王君(世麟)、巴県の王君(大受)は、先後して試用により、ともに代理したが、いずれも病んで数日足らずで死んだ。丁酉[107]の春、わたしの親戚龔韞山[108]が来て事務を処理した際、前任の劉持正(G)は家族を母屋に住まわせるな、東側に住まわせるべきだと告げ龔はそれに従った。しかし着任したばかりで、幕友・従僕はたいへん多く、他の部屋はすべて満ち、三堂だけが空いていたので、親随[109]十余人を集めて住まわせ、陽気が盛んであれば陰[110]消えようとひそかに思った。その後、寝言をいうものがたいへん多く、真昼に幽鬼を見るものがおり、人々の疑念は解けなかった。龔はそこでみずからいって香を焚き、黙祷した。「この地は官衙なのだから、幽鬼で知覚がなければ、魂は上り、魄は下り、はやくみずから足跡を忘れるべきだ。幽鬼で知覚があれば、幽明はそれぞれ別なのだから、これ以上こちらでいっしょにおり、朝廷の守土[111]の臣と屋舎を争うべきではない。今後、姿を隠し、安穏に住まわせられれば、中元の時になるたびに、おまえのために僧侶を招き、食物を施そう、さもなければ城隍に訴え、すべて捕らえて懲らしめよう。」祈りおわると、病人はだんだん治癒し、家人もそれから二度と怪異に遭ったと誤ったことを伝えなくなった。その秋七月、そこですぐに戒律僧[112]を選び、祭壇を設け、うやうやしく神に酬い、翌年ふたたび旧例通りに祭壇を設けた。おりしも風雨であったため、首座[113]の僧がいささか怠ける心を生じたところ、たちまち燈燭がすべて消え、頭痛で我慢できなくなった。祭壇を下り、寺に帰ると、この僧はまた途中でゆえなく転び、そのお供えの器具はみな砕け、病臥すること十余日で癒えたが、敬虔にしなかったので幽鬼に弄ばれたのであった。そもそも龔の親戚で名を耿光[114]、字を韞山というものは、わたしの郷里の海峰[115]知府の孫で、わたしの姑夫[116]小峰邑侯[117]の子であった。祖父と父はいずれも循吏で、韞山は広東で官となり、その家名を継げ、わたしがちょうど勧戒の書を編輯していることを聞くと、手ずから四条を録して寄せて示したが、いずれも粤東の近聞であった。そこで編んで四録中に入れたが、都合九件であった。

 

◎雷が妊婦を撃つこと

 

秦心斎(守恒)が言った。会稽の陳中丞(大文)[118]の城外の邸宅の川向こうに貧民で張姓のものがおり、母子で貧乏暮らししていた。その子は飴売りして養い、母は裁縫で助け、余裕の資金を貯蓄し、一人の娘を娶り、母に代わって働かせることを願った。妻は驕慢怠惰であったので、しばしば追い出そうとしたが、母から留めるように諭されたし、孕んでいたので止めにした。ある日、妻が子を生んだが、息子はちょうど外出していた。家は米に乏しかったので、母は工賃十余文を米に易え、粥を作り、飴を混ぜ、妻に食わせた。妻は母が美味を調えないことを責め、声を荒らげて怒鳴った。母は息を潜め、涙を浮かべて外に出たが、妻は怒りが収まらず、結局、粥を浄桶(おまる)に傾けた。その時、天気は清朗であったが、黒雲がにわかに起こり、霹靂一声、妻を捕らえ、部屋から出し、跪かせ、中庭で撃ち殺し、浄桶もその前に抛たれ、粥の粒が糞に混じり、汚れた。雷神は屋に入り、穢れに触れたため、去れなくなり、陳中丞の旗桿斗[119]の上にとどまっていたが、ニワトリに似てニワトリでなく、タカに似てタカでなく、見るものは垣のようであった。撃った妊婦の臨月の頃になると、はじめて大雨雷電があり、空に騰がり、飛び去った。これは道光三[120]七月のことであった。

 

◎王文虎

 

心斎はさらに言った。李鉄橋[121]廉訪が不遇であった時、使用人に王文虎がいた。廉訪は出仕し、やや裕福になると、かれを援助した。はじめその兄文龍とともに市場で露店を開き、野菜や果物を売り、その後、資金を貯え、だんだん豊かになると、店舗を借り、京菓[122]南貨を売った。廉訪が帰郷すると、さらに千両を貸し、土地を買い、店舗を開き、なんと富商と称せられた。山陰城内に火帝廟[123]があり、崩れて久しかったが文虎だけは修築に励み、道光八年の秋に落成させた。この時、兄弟二人は三つの大きい店を開き、万祥といい、大有といい、恒記といい、城内の大江橋街に鼎峙していた。その冬に火事があり、商店はすべて焼かれ、河を隔てて延焼したものもあったが、王氏の三つの店だけは屹立して壊れなかったので、ある人は嘖嘖として、かれだけが火神廟を修理した報いだと称した。わたしはその人は商人であるが、たいへん誠実で、然諾を重んじ、さらに兄弟はたいへん仲睦まじいと聞いたが、だとすれば、ひとり鬱攸[124]の災を免れたのは、廟を修理したことから報いを得たのにとどまらない

 

◎大士を信奉すること

 

嘉応[125]の李肖岩秀才(汝舟)は言った。道光戊戌[126]、かれは粤西容県楊梅墟[127]館舎にいた。国学生孔三というものがおり、名を学伝といい、福建汀州の人、村でタバコ屋を営み[128]、店舗四進[129]を借り、妾を同伴していた。以前子弟を送り、李の家で勉強させたが、主客はたいへんうちとけていた。翌年の正月、孔は春の宴に客を招き、李も相伴した。席次は年齢順で、たまたま孔と同年の生まれだったので、戯れに同年嫂[130]への面会を求めたところ、孔は欣然とそれを諾い、その妾を呼び出して会わせることにした。妾は第三進の建物にいたが、二進庁の前に出てゆくとまもなく、三進の建物が轟然と倒れた。主客がみな驚倒し、走っていって見たところ、三進の屋梁が長年蝕まれていて崩れたのであった。閣上の積荷、部屋の中の嫁入道具は、壊れた磚、割れた瓦の間に散乱し、地に満ちていた。孔の妾はちょうど外に出ていたため、恙なかった。孔は座客に向かってその妾がつねに大士を信奉していること述べ、語るには、部屋に像一幅を掛け、朝晩かならず手を清め、香を焚き、膜拝[131]を真似していた。斎期[132]になると、かならず跪き、観音経を万遍誦え、門を閉ざし、ひとり籠っていた。今日李先生が面会を求めていなければ、彼女が岩牆[133]に死なない可能性はきわめて少なかったが、大士が李先生の手を借り、霊験を示したのだろうか。そこでますますうやうやしく信奉した。村の婦女でこのことを知ったものは、みな争って観音経を誦えた。杭州の張仲甫[134]中翰[135]はわたしに語ったことがあった。先大夫倉場公[136]はもともと観音を信奉し、みずから言うには、嘉慶十年蘇藩[137]に着任した時、清江浦[138]の舟の中で韜華観察(祖綬)に語った。昨年都を出、天津の塩政珠隆阿[139]の役所にいたが、珠がみずから述べるには、かれの先祖は観音をうやうやしく信じていたが、母堂は観音呪を信じることがもっとも敬虔であったので、わたしも誦え、寒暑を分かつことがなかった。以前、廬鳳道[140]の任内にあり、宿州[141]の官吏殺害事件では、みずからいって捕縛を促し、身は刃に数箇所傷つけられ、さらに矛に喉の右を突かれた。突かれた時、もはや生きられるはずはないと思い、猛然と観音大士呪を誦えたが、矛の傷は膜を貫いていなかったため、治療するとすぐに癒え、今なお瘢痕は指し示せるのであった。その日、単観察(壇)がちょうどいっしょに船に来ていたが、かれの祖母は観音を信じることがもっとも篤いのに、家にキツネの害があり、祓っても効かないことを述べた。ある日、婦人が門を叩いたが、年は約三十余、祟りを鎮められるとみずから語り、清水をあまねく塀の隅に注いで去ったところ、キツネは本当に寂然とした。別れる時にいつまた会えるか尋ねると、十二年を約し、門の裏に紙条を貼り、書き付けした。期日になったが、すっかり忘れていた。ある日、突然老僧が托鉢しにきて、斎食が終わると、すぐに見えなくなった。はじめて前のものと後のものがいずれも大士の化身であったことを悟った。

 

◎淫報

 

道光十七年間、電白[142]水東[143]に乞食がおり、約三十余年、疝病を患い、陰嚢が(とます)のように大きくなり、累累として膝に垂れ、出して両手で捧げ、よろよろと歩いていた。動かぬ時は小さな(こしかけ)に尻を載せ、箕踞して坐していた。みずからその姓名を隠し、平生したことを述べた。話では、家はもともと豪族で、たいへん豊かであったが、若くして女色を漁り、つねに青楼に宿り、五六人の妓女を擁して床を列ね、楽しみをなし、さらに妓船に入ったことがあり、妓女のやや容色が美しいのものを選んで淫し、かならず十数隻を過ぎて後にやんだ。そのため精気は弱まり風邪(ふうじゃ)[144]に中てられ、疝気を得、しばしば治療しても効果はなかった。はじめは柿のようであったが、だんだん瓜のようになり、ついで(とます)のようになり、痼疾となった。家産も蕩尽し、貧苦病苦にこもごも迫られ、孑然たる一身で、親戚友人たちはみな絶望した。そこで旧知の妓女から借金した。はじめはまだ応ずるものがいたが、しばらくするとみな白眼を加え、やむをえず癩病の振りをし、日々妓館にいって蹲り、門の中に臥し、ゆすりたかりをした。ああ。これはほとんど淫婦の明らかな報いを得たものか。幕客でかれを知るものがおり、その姓氏を挙げられると言った。

 

◎広東の火災

 

粤東で神に酬いる劇を演じる時は、婦女が雑踏し、小屋掛けを列ねて見るが、それを看台といい、子台ともいい。市廛の無頼漢がその中に紛れ、ななめに見、ひそかに探り、ほしいままに品評し、楽しみとするのであった。ひどい場合は、装身具を取るものがおり、きわめて俗悪で、何度禁じても改まらなかった。道光乙巳四月二十日、広州の九曜坊境[145]で劇を演じ、学政の役所の前に台を組み立てたが、土地はもともと狭く、小屋掛けが連なっていた。ある子台の中に水タバコの火が残っていたため、そのまま燎原となり、男女千四百余人が焼け死に、頭は焦げ、額は爛れ、骨は折れ、骸は損なわれ、親族でも見分けがつかないものが多かったので、役所が埋葬してやった。その一晩前、梨園の鼓を管理するものが戯箱[146]を見張り、場内で仮眠していたが、見ると数人の赤い鬚、赤い顔の男がおり、さらに無数の首が切れ、脛が折れた人がいたので、怒鳴ったところ、寂然とした。目を閉じるとすぐに、またぼんやりとして夢のようになり、さらに見ると、差役[147]のように、頭に纓帽[148]を戴き、手に鎖を持ったものたちが、三十余人で、押し合って戯棚[149]に入り、人を捕らえた。驚き恐れて目ざめ、異変があることを悟った。夜が明けると、そのことを劇団長に告げ、団長は司事[150]求め、期を改めて演唱しようとした。役所が許さず、金鼓が鳴るとすぐに、大鼓が突然震えて裂け、鼓を管理するものは全身が発熱するのを感じ、甑の中に坐しているかのように、汗が出てやまなかった。先ほど加官[151]に扮した俳優も仮面を戴いて舞台に上った時、台の下を見ると、劇を見ている人々の顔面がみな異常に黒かったと言い、二人はともに病と称して去った。まもなく、男女は雲のようにごった返したが、一時足らずで火災が来たのであった。その日、西関に王姓の者がいた。家は中流で、舅姑はもともと忠厚であったため、族党や近所に称えられていた。たった一人の息子は、すでに妻を娶っていた。突然、舅姑に城に入って観劇すると告げ、妻の某氏に髪を梳いてくれと頼んだので、妻は辮髪の先を四縷の辮に分けた。門を出るとすぐに友人に遇い、仏山鎮[152]にゆき、商品を買おうと誘われた。はじめはほかの理由で断り、ゆこうとしなかったが、強制されたので、いっしょにいった。火災が起こったとき、この子はすでに仏山鎮にいたが、舅姑は知らなかった。劇場に火災が起こったことを聞くと、すぐに妻を連れていって見たが、烈火の燃え残りの屍骸に、その子と似たものがあったので、泣いて収容し、招魂し、家で通夜した。その妻がひとりで見にいったが、葬儀が終わるまでまったく哭かなかったので、舅姑はみな怒鳴り、夫妻の情がないと言ったが、妻はひたすら受け流し、弁解しなかった。まもなく、その子は友と仏山から帰ってきたので、舅姑は愕然とし、その妻の智恵を称え、確実に夫でないと分かったわけを質した。妻はその日に四縷の辮髪を結ったが、灰燼をよく調べると髪の痕が三縷であったので、泣こうとしなかったのですと言った。しかし結局、夫の行方は分からなかったので、疑念は解けず、朝晩、涙の痕は枕席を浸したが、やはり言おうとしなかった。舅姑がふだん忠厚でなければ、この子が難に遭わない可能性はきわめて少なかっただろう。その日、火が看台に起こり、悲惨な火災は攤館[153]によっていた。そもそも役所の前では貪官の庇護のもとに賭場が開かれ、集まって賭博するものが多かったが、下役は正せなかった。時しも南海県の文武官がともに調査捕縛したが、機密が守られず、そのものたちに覚られ、あらかじめ東の轅門が閉ざされていたので、火が起こった時、人々はみな西の轅門から走って逃げた。押し合って踏み殺された者は約二三百人で、その中で焼かれた屍には挺立して倒れていないものがあり、油で揚げたエビのようなものがあり、灰燼が堆積したために人の形を留めていないものがあり、約千余人であった。逃げ出した人には、頭半分、腕半分が焼けてなくなったものがおり、片手・片足が焼けてなくなったものがおり、近いものは家に着き、遠いものは途中までいっただけで、さらに約百余人が死んだ。当時、東の轅門が閉ざされていなければ、南は書芳街[154]に出、東は九曜坊に出、助かったものは少なくなかったはずである。賭博は盗みに近く、林少穆[155]先生が総督であった時、その禁を厳しくしたことがあり、賭博が火災にこのような関わることには思い及ばなかった。聞けばその日、男女は学政の儀門[156]に闖入し、考舎[157]から塀をよじ登って避難したものはそれでも千余人いたが、あるいは劫数[158]の中にないものか。さらに珍しいことは、番禺の長塘街[159]に寡婦某氏がおり、夫は死に、子はなく、六歳幼い娘を育て、操を守り、たいへん苦しんでいた。その日、その娘はそのおばに従って観劇し、そのおばは焼け死んだので、某氏はその娘も難に遭ったと思っていた。二十一日朝、小さい棺を準備し、その屍骸を収めにゆき、何度も探したが見つからなかった。すると突然、その娘の呻き声が数重の屍の下から発しているのが聞こえたので、たいへん驚き、人に頼み、屍を一つ一つ除かせたところ、その娘はまだ息があり、半分の丫髻だけが焼けてなくなっていたので、抱いたり負ぶったりして帰った。その理由を質すと、娘が言うには、当時まったく火が起こったことに気づかず、熟睡して魘されたもののように、身が儘ならず、動けなくなるのを感じたので、目ざめて叫んだだけだとのことであった。

 

◎欧某

 

高州[160]梅菉鎮[161]は、市廛が櫛比し、藁屋が混じっていたので、厳冬に火災が多かった。龔韞山[162]が高州の副官に任ぜられた時、火を消す器具を幾つか壮快[163]二班の中に置き、雄健敏捷なものを選んで役に充て、坊市[164]に命じ、太平水缸[165]・水桶を設け、警報があればみんなでゆき、店の檐・竹架および藁屋の火に当たるものをすべて除いた。だから在任すること二年あまりで、時折失火もあったが、延焼することは少なかった。甲辰正月十五日、木欄街[166]が焼け、一方がすべて灰燼となった。もっとも奇妙であったのは乙巳四月二十二日、塘基頭街[167]の欧姓の店が焼けたことで、もっとも鑑戒となせた。欧は名を某といい、年は四十余、その祖父は搾取によって家を興し、資金をたいへん厚く貯え、農村横行し、人はみな「按察差」とも呼びなしていた。某はその財産を席巻し、代々その悪事を助けたので、人々は「小按察差」と呼んでいた。梅菉は大麹酒[168]産し、上は電白の水東から運送・販売して広肇に達し、下は[169][170]から運送・販売して雷瓊[171]に達した。鎮の住民には酒屋が多かった。欧某も塘基頭[172]で酒屋と米屋を開いたが、ひそかに一人の仲間、一人の車夫と結託し、酒・米を運び、海外と貿易し、洋匪を援助し、巨利を求めていた。さらに時折酒甕の中に火薬を隠し、輸出し、洋匪と人の胆に換えていた。人の胆は、強盗が人を攫い、生きながら取ったもので、重傷のものを生かせ、熊胆より効果があるものであるという。行動は隠密で、気づく人はいなかった。ある晩、真夜中近く、かれの仲間が水東から帰り、称するには、聞いたところでは外洋でいそいで火薬を求めているので、倍の利を得られるとのことであった。欧某はすぐに酒甕を取り、中を満たし、その夜のうちに売りにゆくことにした。出発しようとすると、おりしも雨であったので、車夫とかれの仲間は、晴れるのを待ってゆくことをひそかに相談した。旅程を計れば六十里であり、期限通りゆくことができた。そこで車に甕を載せて待ったが、その後、夜の雨は止まなかった。かれの仲間は薬の甕が雨ざらしになり、湿気を受けることを恐れ、ふたたび店の奥深くに搬入し、篩って乾かした。一更あまりして、疲れて仮眠し、ぼんやり見ると、火薬の脇に人がいるようで、手に紙縒りを取り、照らして見たものが驚いて怒鳴っていると、その人はにわかに紙縒りを抛って去ったので、火薬は爆発し、屋根瓦は吹き飛び、塀と壁は壊れ、仲間は焼け死に、車夫も崩れた塀に圧されて死んだ。欧某は傷ついたが蘇り、みずから言うには、ふだん妓女の家に泊まることが多いが、その晩はちょうど仕事があってゆかず、火が起こるのを見て逃げようとし、人の胆は得難いが、店内の箪笥に幾つかあったと思い、火勢がまだ緩いのを見、いそいで頭を低くして箪笥から胆を取った。火はすでに身に及び、頭を挙げ、救いを求めていると、たちまち塀の磚に脳天を打ち破られ、痛くて昏倒した。救い出すと、手足は爛れていたが、まだ人の胆一つを持っていた。隣人たちの物好きがすぐにそれを取って飲ませると、蘇ってみずから火が起こった顛末を述べ、さらに言った。「今、死を求めても叶わず、生を求めても叶わず、人の胆は重傷を生かせるが、脳が破れたのは生かせまい。」崩れた塀の下で叫び、翌日やはり死んだ。もっとも驚くべきは、その店に蒸槽[173]の職人が二人おり、火が起こる前、夢の中で人が呼び起こすかのようであったので、門を開け、出て眺めたが、ゆくこと数歩足らずで店はたちまち焼けた。さらに車夫の宿屋と欧の店は一つの塀を隔てるだけで、車屋はその車夫一人を泊めていただけではなかったが、欧の店は焼かれ、すでに延焼せず、その塀が壊れてもその車夫を圧死させただけで、ほかには波及しなかったのであった。ああ。報応は違うことなく、関わりのない職人はひそかに導いてかれを出させ、悪を助ける仲間・車夫であれば、焼いたり撃ったりして殺し、罪が重い欧某は、焼く時も焼いただけでなく、撃つ時も撃っただけでなく、みずからその隠しごとを暴露さ人に明示させた後に死なせたのであった。ああ。恐ろしいことである。

 

◎周廉訪が述べた六事

 

周廉訪が言った。金陵の陳石渠封翁は、秀才であったが、家は貧しく、生徒を教えることを生業としていた。身を正しく持し、言行を謹み、でたらめなことをせずに年を経、節約し、束修二百両を貯えた。おりしも嘉慶甲戌年大飢饉で、一斗の米が千銭に達しようとし、餓死者が累累としていた。封翁は蓄えていた金を出し、子に言った。「これはお父さんが数十年衣食を減らして貯えた束修の余りで、もともとおまえたちに分け与えようとしていたが、今は年で、米が高くて里中の貧民の食べものを見れば、心に忍びぬものがあるので、この金を米に換え、安く売りたい。おまえたちがみな良いといえば、行い、さもなければやめよう。」諸子はみな唯唯として命に従った。そこで有り金をすべて使って米を買い、値引きして門の外で売り、さらに諸子に命じて毎日みずから番をさせ、旧知の貧しいものでなければ買えず、買っても数升を越えられなかった。その子たちはみなよく父の志を継ぎ、懸命にみずからそれを行い、金が尽きると止めた。これより前、子の維屏は癸酉[174]郷試に合格していたが、戊寅[175]に子の維垣も賢書[176]に登り、己卯[177]に同榜[178]の進士となった。そもそも封翁は、一介の寒士に過ぎなかったが、平生少しずつ貯めた金を惜しまず、すべて出し、貧家を生かし、さし出したのはわずか二百両であったが、金持ちが千万を出資するきわめて得がたく、天の報いが速く厚いのは当然であった。子の維坦は現在山西潞安司馬に任ぜられており、孫たちも多くは学校で名声があり、続いて栄えるものは尽きていない。

 

さらに言った。江寧の某嫗は、仏を信じてたいへん慎み、朔望にかならずみずから寺院に赴き、香を焚き、仏を拝していた。年が六十余のとき、その子某は、母さんはたいへん苦労していらっしゃいます、わたしが代わることを願いますと言い、その布旋を横領して賭け金にし、香を焚いていますと偽って答えていた。数年後、子は突然病み、枕に臥して数えきれないほど叩頭し、以前横領した金額をみずから語った。その母が代わって哀願したところ、その子は神の言葉を述べたが、絶対に許さないということであった。母は撫でてしばらく伏させ、祠に祈ろうとしたが、外に出るとすぐに、その子が大声で叫んだ。いそいで帰ってみると、鮮血は褥を潤し、口の中から舌一本を枕元に吐き、死んでいた。

 

さらに言った。浙江の杭州に役人の家の子某は、下女と通じていた。かれの兄はそのことを知り、父母に告げ、弟を責め、下女を追い払った。某は女を門から送り出すとき、兄が外出したらまた来るようにと誘った。女は憤って言った。「お宅で人が死に絶えましたら、わたしは来ましょう。」某は何度も考えると、毒薬を無数に買い、台所の水缸に入れたので、父と二人の兄と某の妻は一斉に死んだ。兄が苦しんで絶命する前、その母は医者を呼び、病人を診させたが、広間に来るとすぐに、某がにわかに出て来て医者に怒鳴った。「おまえは入るな。入ればおまえを許さないぞ。」医者は慌てて外に出た。後にその母がうすうす気づき、舅に相談したところ、舅は驚いて言った。「何ということだ。いそいで自首してはどうだ。」母ははっとして、お上に告げた。全城が驚き、某を銭塘の獄に入れた。某は法廷にいった時、まだ袍褂[179]と靴と帽子を着け、県令を老伯[180]と称したが、かれが父の同僚であるからであった。獄に入った後、手紙を書き、母に救うように哀願したが、その概略は、わたしは罪が大きいですが、わたしがいればお母さまにはまだお世話する人がいます、しかしわたしが死ねば、お母さまと二人のねえさんは頼るものがいなくなってしまいます、それに跡取りがいなければ、祭祀も絶えてしまいます、今、生死はお母さまの手にございます、お母さまはわたしを思われなくても、先祖の祭祀を思わないことはございますまいというものであった。母はそれを得ると、たいへん迷い、救ってやろうとしたが、舅がつよく阻んだので止めた。事件はそこで決着し、某は生きる理がないことを悟り、絶食し、県令は食べるように諭したが、承知しなかった。院[181]に告げると、撫軍[182]は言った。「容易なことだ。」即日王命を求め、市で磔にさせた。某は年が三十足らずで、文墨に通じ、応対に長けていたのに、何の罪過でこうしたことになったか分からなかった。あるひとは、かれの祖父は某省の臬司で、果断に裁判できることによって称えられていたから、冤罪で死ぬ囚人がいるのは免れないはずであるといった。これは道光十五六年[183]のことで、邸抄に見える。

 

さらに言った。楊説華は、宜興の巨悪で、刻薄であることによって家を興し、あらゆる悪事をし、同郷人にはかれの肉を食らおうとするものが多かったが、楊は平素知事を頼りにしていたため、先に訴えようとはしなかった。たまたま仕立て屋を探し、その尺寸を広くする時、(ついたて)の後ろからひそかに覗いたところ、仕立て屋は余裕があるのを見つけると、切って氈の下に隠していた。楊は出てゆき、堂内の鍾馗像をしばらく見ると、「はい」と言い、すぐに怒って言った。「そんなことがございましたか。」その後、言った。「仰る通りにいたしましょう。」仕立て屋を振り返り、怒鳴った。「おまえはどうしてわたしの物を盗めよう。××のところから切り、××のすみを毛氈の下に隠したことは[184]、先ほど鍾進士がわたしに告げた。」探すと見つかったので、鞭を加えようとしたが、仕立て屋が叩頭して許しを請うと、楊は言った。「それならば今後はおまえを呼んだらかならず来い。裁縫をした時は、わたしから代金を取ることは許さない。」仕立て屋はもともと楊の横暴を恐れていたので、従わぬわけにはゆかなかった。そこで、家に留め、奴隷として使役した。かれの陰険さは万事この調子であった。徽州の人某がかれから金を借り、元本だけを償還すると、楊はたいへん怒った。「悪人め、このようにするか。」捕らえて家に来させ、殴り辱めることは数えきれなかった。徽州の人はけっして償わなかったが、楊はその身を裸にするように命じ、鋭い錐でその膚を刺し、つねに一つの孔に一粒の麦を収め、ほぼ全身にわたった。空き部屋に置き、一日経つと、麦はすべて浮腫となり、百脈[185]が塞がった[186]。楊は引いて門の外に置くように命じたが、たまたま同籍[187]の商人某が見て家に留め、治療すると回復した。そこで事情を書き、徒跣披髪し、宜興で商売する徽州の人にあまねく訴えたが、通行人も哀しんだ[188]。徽州の人には豪商が多く、財産が豊かで、義心が激しかったので、みな怒って醵金し、楊の悪行を列挙し、すべて訴えた。これより前、宜興には県丞で正紅旗の某というものがいたが、楊はかれを迎え、酒を飲ませた。席上某を怒らせたが、某は官位が低かったので怒らせようとせず、むりに我慢した。後に某はしばしば推薦を受け、常州の知府に選ばれた。徽州の人の訴えはすでに長年正しい裁きを得ていなかった。某は常州知事の任に就くと、徽州の人はさらに馬前に訴えた。地府は尋ねてすべてを知ると、勃然と怒り、引き出して取り調べたところ、自供した。そこで楊は悪事が露顕した。ほかにも婦女を略奪した重大事件があったので、死刑判決を受け、獄死した。これは乾隆末年のことであった。嘉慶年間、石工の某が死んでまた蘇り、人に告げた。「先ほど城隍廟にゆき、石臼を彫ってきた。わたしが何に使うか尋ねると、鬼卒は言った。『楊説華を磨るのだ。』」

 

さらに言った。江陰[189]の申江鎮[190]の富豪の家で、父が夜に子の家に入ったところ、子は盗人かと疑い、棍棒を持ち、一撃して殺した。役所にゆくと法律通りに判決され、刑に臨む時、人に言った。「顕らかな報いだ。」これより前、同じ鎮でよくこそどろするものがおり、行いを改め、ながいこと某の子と知りあいとなっていた。たまたま貧しくなったので、昔取った杵柄で、某の子の家に入るとすぐに、某の子は目ざめ、にわかにかれの名を呼んだので、盗人はやむをえずに答えた。某の子は言った。「あなたとは隣人で、あるものないものを融通できるのですから、かようになさる必要はございません。」盗人は頓首して謝し、某の子はそこで置酒してかれとともに飲み、かれが酔ったのを伺い、父に諮ると、父は打ち殺してその屍を埋めようとした。子は事が露顕すると穏当でないことを恐れ、朱墨を取り、かれの顔に塗り、かれの髪を切り、後ろでかれの手を縛り、綿でかれの口を塞ぎ、盗人の家の入り口に捨てた。夜の四鼓、盗人は目ざめ、口は開けられず、縛めは解けず、いそいで跳ね起き、臀で門を叩き、盗人の子は父が帰ったと思い、いそいで閂を開くと盗人は嗚嗚(ウウウウ)といいながら、跳ねて入った。子は意表を突かれ、奇鬼[191]だと思い、いそいで棍棒で打ったところ、死んでしまった。徐々に人かと疑い、洗って見たところ、かれの父であったので、たいへん驚き、お上に自首し、死刑にされた。そもそも某の子がかれの父を殺すまでわずか数年であった。

 

さらに言った。地獄の話は釈氏に始まるが、世人はつねにそれが嘘であることを疑い、明界に王法があり、幽界に鬼神がおわすのは、宇宙の間の一定の理であることを知らない。理で測れば、地獄輪廻のことは、かならずある。昔、真西山[192]先生は「天堂がなければそれまで、あれば君子が登る。地獄がなければそれまで、あれば小人が登る。」と言った[193]経書を尊び聖人に学ぶ天儒でも、それが絶対にないとは言っていない、嘘だと非難をほしいままにするものは、まさに小人の忌憚のない心を発動させるだけである。世に『玉鈔伝』[194]一書があり、載せるのはすべて冥府の諸獄の科条である。その言葉は俚俗で、やや文を弁えたものはかならず棄てて閲せぬが、愚夫愚婦がそれを聞けば、本当に息を潜め、汗を下らせるに足りる。蘇杭の間にこの書があり、金陵にはない。嘉慶壬申[195]、陳仲長封翁廷頎は事情があって広州に来たことがあり、この書を見、悚然として敬信し、行李で金陵に持ち帰り、出版して伝えた。翌年の癸酉科で、長子(宝倹)は京兆試に応じ、合格し、連捷して進士となった[196]。封翁は寿命が八旬を越え、矍鑠として健飯し、病むことなく亡くなった。亡くなった晩、かれの長孫は祖父の不調を聞き、外から見ると、寝室の上に白い気があり、天の半ばを貫いていたので、いそいで中に入ると、封翁はまさにその時に長逝していた。封翁は平生厚徳が多く、親族と親しんでいた。侮辱するものがいても、坦然として知らないかのようで、けっして乱暴な言葉や凶悪な顔色で人に接しなかった。これもその書を伝え、した功績により、臨終の時に験があったものかもしれない。

 

最終更新日:2018222

北東園筆録

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[1]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%B3%A1%E8%8A%B8

[2]http://www.zdic.net/c/9/2a/65509.htm布政使

[3]http://zh.wikipedia.org/zh/%E6%9D%8E%E8%B3%A1%E8%8A%B8

[4]この話と思われる。

[5]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%AD%E5%84%80%E5%90%89

[6]http://www.zdic.net/c/0/153/339420.htm経過述することを主とする文体名。

[7]山西省

[8]http://baike.baidu.com/view/1922329.htm

[9]こちら西省林にある青龍祠。

[10]原文「大抵龍為四瀆之尊」。「」は、黄河、淮河、の合称。「四之尊」のグーグル検索結果。「龍為四瀆之尊」の典拠は未詳。

[11]原文「肸所昭」。未詳。とりあえずこう訳す。は「散布、播」の意

[12]こちらによれば、同名の川が各地にあり、どれか未詳。

[13]http://www.zdic.net/c/7/6b/103822.htm文徳教化の

[14]http://www.zdic.net/c/9/3c/90280.htm死後立てられ、人の奉祀を受け、祭享受すること。

[15]原文「司土者」。未詳。とりあえずこう訳す。

[16]嘉慶七年壬戌科進士の中に、梁章鉅の名はあるが孫応麟の名はなし

[17]グーグル検索結果

[18]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%A6%E5%B7%9E%E5%8C%BA

[19]グーグル検索結果

[20]http://www.zdic.net/c/6/e9/237352.htm夫あるいは夫。

[21]http://www.zdic.net/c/4/87/148695.htm国子入せられた生の一種。

[22]http://www.zdic.net/c/9/7a/129909.htm事物の根基、基礎

[23]原文「非其中有所得而能若是乎」。「其中」が未詳。とりあえずこう訳す。

[24]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E9%BD%A1

[25]http://www.zdic.net/c/1/2f/70756.htm封疆大吏。http://www.zdic.net/c/1/2f/70714.htm「封疆大臣」とも。「封疆大」とも。、巡など一省あるいは数省の政大総攬する官。

[26]ここでは荊州のこと。後ろの注を参照。

[27]http://www.zdic.net/c/6/11/28894.htmここでは荊州のこと。後ろの注を参照。

[28]http://www.zdic.net/c/f/101/272516.htm父兄が地方で役人となったため、子弟も随って任所にゆくこと。こちらに「道光二年(1822年)、授湖北荊州知府兼荊宜施」とあるので、任地についていったのであろう。

[29]原文「百文敏公之總制兩湖也」。「總制兩湖」は湖広総督になることと思われるが、百齡が湖広総督になった事実はない。兩廣總督の誤りか。

[30]http://www.zdic.net/c/2/78/123937.htm外地に寄寓する居民。晚清では下流一「哥老会」の

[31]生員になっただけであったということ。

[32]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%A4%8F%E5%8C%BA#.E5.8E.86.E5.8F.B2.E6.B2.BF.E9.9D.A9湖北省

[33]http://www.zdic.net/c/6/11/28469.htm

[34]http://www.zdic.net/c/d/a6/193459.htmhttp://www.zdic.net/c/d/a6/193452.htm罪犯あるいは物を隠匿する人あるいは人家。

[35]http://www.zdic.net/c/d/150/332849.htm

[36]弟を。

[37]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E8%8B%A5%E9%9C%96

[38]https://www.google.com/?hl=zh-CN&gws_rd=ssl#hl=zh-CN&q=%E9%99%B3%E6%99%AF%E6%9B%BE

[39]http://www.zdic.net/c/b/a6/193147.htm郷試合格をいう。

[40]原文「遂有司簽者請主人出廳事問案」。「司簽」が未詳。とりあえずこう訳す。「」は令状。

[41]http://www.zdic.net/c/1/103/276525.htm手脚を拘束する刑具。

[42]未詳だが、郷試であろう。

[43]http://www.zdic.net/c/f/e1/224352.htm・会合格者が、答案を採点した試験官にして用いる尊称。

[44]http://www.zdic.net/c/9/69/100262.htm衣。画像検索結果

[45]http://www.zdic.net/c/d/2f/71766.htm品服と吏民の衣服の色。

[46]http://www.zdic.net/c/6/3d/93310.htm、房の息子

[47]http://www.zdic.net/c/7/94/168005.htmhttp://www.zdic.net/c/7/97/170488.htm地方の疆域沿革、典章、山川古迹、人物、物俗等を記載した

[48]http://www.zdic.net/c/f/f7/259262.htm他人の兄の尊称。

[49]http://baike.baidu.com/view/744048.htm

[50]http://www.zdic.net/c/c/db/216081.htm行状。http://www.zdic.net/c/c/111/298775.htm文体名。もっぱら死者の世系、籍、生卒年月と生平概略を述した文章。状、行述とも称する

[51]原文「勿壞人之名節」。文昌帝君陰騭文に見える。

[52]http://baike.baidu.com/view/645731.htm?fromtitle=%E5%A9%BA%E6%BA%90&fromid=224042&type=syn

[53]http://zh.wikipedia.org/wiki/1793%E5%B9%B4

[54]http://www.zdic.net/c/f/2a/64324.htm食指と中指を伸ばして人を指すこと。怒あるいは勇武の状を形容する。

[55]未詳だが、三つの答案であろう。芸はのこと。

[56]http://www.zdic.net/c/0/e8/236364.htm翰林院

[57]http://www.zdic.net/c/0/f/24566.htm訴状を書くこと

[58]未詳。

[59]原文「鄭適在乘除」。未詳。とりあえずこう訳す。

[60]http://baike.baidu.com/view/104610.htm

[61]http://baike.baidu.com/view/9454333.htm

[62]http://www.zdic.net/c/c/36/81735.htm清代、官民に冤罪があり、地方の最高官署判をてもなお解决できない、京師に赴き、都察院および歩軍統領役所に控することができ、それを「京控」といった

[63]http://www.zdic.net/c/8/f/23946.htm官名。下で捕、監獄掌管する属官。丞、主簿がいなければ、典史がそのねた

[64]http://www.zdic.net/c/e/2/3518.htm冒充。未詳だが、水増し請求の類であろう。

[65]http://www.zdic.net/c/d/11/28555.htm不相合。未詳だが、虚偽の記載であろう。

[66]未詳だが、中央官庁であろう。

[67]http://www.zdic.net/c/8/70/110877.htm司官。http://www.zdic.net/c/8/70/110864.htm各部の属官。

[68]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%99%E6%B1%9F%E5%B7%A1%E6%8A%9A

[69]『清史稿』の検索結果

[70]http://www.zdic.net/c/9/17/36839.htm布政使

[71]グーグル検索結果

[72]http://www.zdic.net/c/c/e0/221968.htm按察使

[73]http://archive.ihp.sinica.edu.tw/ttscgi/ttsquery?0:0:mctauac:TM%3D%C5U%AA%F8%B2%D9

[74]http://baike.baidu.com/view/14210947.htm

[75]この人物か。

[76]http://www.zdic.net/c/f/14c/329429.htm帝王の使者。

[77]http://www.zdic.net/c/a/93/165470.htm

[78]藩台道員

[79]http://www.zdic.net/c/9/110/297338.htm按察使

[80]https://www.google.co.jp/?hl=zh-CN&gws_rd=cr&ei=EvKIVIvOHcPYmgXVjIHgAQ#hl=zh-CN&q=%E5%B0%8F%E6%AC%BD%E5%B7%AE原文同じ。未詳。後ろにも出てくるが、欽差大臣の部下の司員などを指すか。

[81]http://www.zdic.net/c/b/31/77188.htm京吏の一。

[82]原文「誣告重事不實」。『大清律例』「重事不實」の検索結果。罪は「發邊遠充軍」とある。

[83]http://baike.baidu.com/view/3694.htm?fromtitle=%E5%AE%89%E5%BE%BD%E4%BA%B3%E5%B7%9E&fromid=3530351&type=syn

[84]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%99%E5%8E%BF

[85]http://www.zdic.net/c/1/fd/267774.htm銭財と糧食。

[86]原文同じ。未詳。賊に奪われた食糧を補填して護送することか。ただ、こうした行為がどうして後ろで述べられているように処罰されるのかが未詳。

[87]http://www.zdic.net/c/f/6d/108249.htm帝王に上官吏の失を弾劾すること。

[88]グーグル検索結果羅士林

[89]http://baike.baidu.com/view/1114267.htm

[90]http://www.zdic.net/c/8/1c/44228.htmhttp://www.zdic.net/c/8/10e/291880.htm官報。

[91]http://www.zdic.net/c/8/ee/244109.htm中央各部が官吏をすること

[92]http://baike.baidu.com/view/384011.htm

[93]原文「禮部主事劉申甫丈據云」。「丈據」が未詳。とりあえずこう訳す。

[94]漢典に適当な語釈がないと思われる。証文の類であろう。

[95]http://www.zdic.net/c/c/143/314862.htm郡守。知府。

[96]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=159717&searchu=%E4%B8%8D%E5%AD%9D%E8%AD%B4%E9%87%8D

[97]http://www.zdic.net/c/f/9e/180504.htmこちらで感じたことがあちらに達すること。

[98]http://www.zdic.net/c/0/13c/303187.htmhttp://www.zdic.net/c/3/108/283610.htm;一心一意。

[99]原文「鬼神の情狀不外一理、其感格不外一誠。」。鬼神は道理に則って行動するし、誠意には感応するという趣旨であろう。

[100]http://www.zdic.net/c/d/91/161845.htm仏教の式。

[101]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9B%E5%86%88%E5%8E%BF広東省の県名。

[102]http://baike.baidu.com/view/1132789.htm直隷。清代地方行政位の一、省に直属し、その同知あるいは通判。

[103]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=98755&searchu=%E5%A4%A7%E5%9F%94%E5%9D%AA

[104]http://www.zdic.net/c/5/97/170675.htm士兵あるいは

[105]http://www.zdic.net/c/d/dc/217734.htm官府が設けた弓を練習する所。

[106]http://www.zdic.net/c/9/3/5826.htm第三堂屋。正門から三番目の門をくぐった中庭。

[107]http://zh.wikipedia.org/wiki/1837%E5%B9%B4

[108]http://baike.baidu.com/view/8224834.htm

[109]http://www.zdic.net/c/2/1c/42143.htm腹心の従者。

[110]未詳だが陰気・戻気であろう。戻気は邪気。

[111]http://www.zdic.net/c/8/db/216714.htm地方官。

[112]原文同じ。未詳。戒律を守っている僧か。

[113]http://www.zdic.net/c/6/29/64181.htmで地位が最高の和

[114]http://baike.baidu.com/view/8224834.htm

[115]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%94%E6%99%AF%E7%80%9A

[116]http://www.zdic.net/c/1/32/78535.htm姑母の丈夫。

[117]http://www.zdic.net/c/1/ee/245023.htm知県

[118]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%A4%A7%E6%96%87

[119]画像検索結果

[120]http://baike.baidu.com/view/1114286.htm

[121]http://baike.baidu.com/view/216453.htm

[122]http://baike.baidu.com/view/5181546.htm

[123]未詳。

[124]http://www.zdic.net/c/1/76/120028.htm火災。

[125]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E6%87%89%E7%9B%B4%E9%9A%B8%E5%B7%9E

[126]http://ja.wikipedia.org/wiki/1838%E5%B9%B4

[127]グーグル検索結果。地名のようである。

[128]原文「傳福建汀州人在墟業菸」。未詳。とりあえずこう訳す。おそらくアヘンを売るのであろう。

[129]」はくぐって入る中庭を数える量詞。「四進」は正門から四回門をくぐってたどり着ける中庭。

[130]漢典は「同年妹」の意であるとし、「同年妹」とは「船家少女」の意だとするが、文脈に合わない。後ろの記述からも分かるように、同年のものの妻妾なのであろう。

[131]http://www.zdic.net/c/c/142/311853.htm合掌して加え跪して拝すること。尊敬あるいは畏服を示す礼式。またもっぱら神仏を礼拝することをも指す。

[132]http://www.zdic.net/c/b/2f/72199.htm戒の期

[133]http://www.zdic.net/c/9/3f/98762.htm倒れようとする。危の地。

[134]http://baike.baidu.com/subview/1544693/8772046.htm

[135]http://www.zdic.net/c/d/150/333129.htm

[136]未詳。

[137]未詳だが、蘇州の布政使であろう。

[138]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B1%9F%E6%B5%A6

[139]『清史稿』の用例

[140]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=98755&searchu=%E5%BB%AC%E9%B3%B3%E9%81%93

[141]http://baike.baidu.com/view/52412.htm

[142]http://baike.baidu.com/view/12118892.htm?fromtitle=%E7%94%B5%E7%99%BD%E5%8E%BF&fromid=420933&type=syn

[143]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E4%B8%9C%E9%95%87_(%E8%8C%82%E5%90%8D%E5%B8%82)

[144]http://www.zdic.net/c/e/28/61263.htm中医学の名。「六淫」の一。外邪を受け、寒、風熱湿等の病になること。

[145]http://baike.baidu.com/view/9698756.htm

[146]画像検索結果。役者の衣装箱であろう。

[147]http://www.zdic.net/c/e/15/32187.htm役所の下役。

[148]画像検索結果

[149]画像検索結果。芝居小屋

[150]http://www.zdic.net/c/8/39/89363.htm官署の低

[151]http://www.zdic.net/c/0/f/24593.htm曲の正式の演目が演ぜられる前、身に袍を着け、笑顔の仮面(「加官)被った演技者が、無言で、びながら観衆に、手中に所持している頌詞の条幅を示すこと。「跳加官」とも称する。グーグル動画検索結果

[152]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9B%E5%B1%B1%E9%95%87

[153]http://www.zdic.net/c/a/109/286014.htm摇攤賭場

[154]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%84%89%E6%B8%A0

[155]http://zh.wikipedia.org/zh/%E6%9E%97%E5%88%99%E5%BE%90

[156]http://www.zdic.net/c/a/3e/96837.htm官署、邸宅の大内にある第二の正

[157]グーグル検索結果。未詳だが、であろう。

[158]http://www.zdic.net/c/b/11/27323.htm厄運、災難、大限。

[159]グーグル検索結果

[160]http://baike.baidu.com/view/39522.htm

[161]http://baike.baidu.com/view/12512001.htm

[162]http://baike.baidu.com/view/8224834.htm?fromTaglist

[163]漢典は「捕快衙役」とするが、快班壮班のことであろう。いずれも三班六房の一つ。

[164]http://www.zdic.net/c/a/38/86615.htm街市

[165]http://baike.baidu.com/view/3237668.htm防火水槽。

[166]未詳。グーグル検索結果

[167]グーグル検索結果

[168]http://baike.baidu.com/view/1504533.htm

[169]http://baike.baidu.com/subview/403060/8339500.htm?fromtitle=%E5%90%B4%E5%B7%9D%E5%B8%82&fromid=6890345&type=syn

[170]http://baike.baidu.com/view/2795065.htm

[171]http://baike.baidu.com/subview/4954891/11401634.htm雷州半海南

[172]https://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E5%A1%98%E5%9F%BA%E9%A0%AD&bav=on.2,or.&bvm=bv.77412846,d.c2E&biw=1024&bih=541&dpr=1&wrapid=tlif141338416432011&um=1&ie=UTF-8&sa=X&ei=5Ic-VJPeG4GTuASqhYDwDw&ved=0CAYQ_AUoAQ&output=classic&dg=brw

[173]未詳だが、酒を蒸す槽であろう。

[174]http://ja.wikipedia.org/wiki/1813%E5%B9%B4

[175]http://ja.wikipedia.org/wiki/1818%E5%B9%B4

[176]http://www.zdic.net/c/4/ed/242338.htm試験の合格掲示板

[177]http://ja.wikipedia.org/wiki/1819%E5%B9%B4

[178]http://www.zdic.net/c/c/39/89542.htm試験に同時に合格したもの。http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E5%98%89%E6%85%B6%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E5%B7%B1%E5%8D%AF%E6%81%A9%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[179]http://www.zdic.net/c/d/a8/199383.htm袍服と外褂。

[180]http://www.zdic.net/c/1/149/321578.htmの朋友あるいは朋友の父の敬

[181]撫院のことであろう。巡撫の役所。

[182]http://www.zdic.net/c/a/e0/222620.htm巡撫

[183]http://baike.baidu.com/view/1106453.htmhttp://baike.baidu.com/view/1106451.htm

[184]原文「從某處剪下,藏某角氈底」。

[185]http://www.zdic.net/c/e/a1/188274.htm人体の各血管。

[186]原文「百脈湧塞」。「湧塞」は「壅塞」の誤字であろう。

[187]漢典には「同一籍の人。家人を指す。」とあるが、本籍地が同じ人ということであろう。

[188]原文「哀動行路」。「哀動行路」のグーグル検索結果こちらが出典か。

[189]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E9%98%B4%E5%B8%82

[190]未詳。

[191]未詳だが、奇妙な幽鬼のことであろう。

[192]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%BE%B3%E7%A7%80

[193]グーグル検索結果。出典はこちらか。真西山の言葉ではない。

[194]『玉寶鈔』の誤りか。

[195]http://ja.wikipedia.org/wiki/1812%E5%B9%B4

[196]こちらがその試験の合格者。

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