●巻六

 

◎前世の罪

 

焦孝廉の妻金氏は、家の入り口を算命の盲人が通ったので、召して試した。盲人が往事を語ってやるとたいへん当たっていたので、銭と米を贈って去らせた。その夜、金氏の腹の中で人が語った。「わたしの師父は去ったが、わたしは奥さんの腹を借り、もう幾日か住もう。」金家は樟柳神[1]かと疑い、「霊哥児か。」と尋ねた。すると言った。「わたしは霊哥ではなく、霊姐です。師父はわたしにあなたの腹の中で祟りをなし、財帛を脅し取るように命じたのです。」そう言うと、すぐにかれの腸を捻ったので、痛みは堪えられなくなった。焦はそこであらゆる手段で前の盲人を探した。数日後、道で会い、家に擁してゆき、病を除いた後、百両でお礼することを約束すると、盲は承諾し、呼んだ。「三姑、はやく出ろ。」このようにすること二度、中で答えた。「わたしは出ません。わたしは前生で姓を張といい、××家の妾でしたが、その妻某に凌虐されて死にました。某は転生して金氏となり、わたしが師父に身を投じ、樟柳神になりましたのは、まさにこの仇に報いるためでございました。今はすでにかれの腹に入りました。かれの命を取らねば出ません。」盲はたいへん驚き、言った。「これは前世の罪でございますから、わたしは救えません。」そして逃げ去った。焦は符を懸け、北斗を拝したが、まったく癒えなかった。一人の医者が来るたびに、腹の中の人は言った。「これは藪医者で、薬でも癒えぬから、ひとまず口に入るに任せよう。」ある人が言った。「これは良医で、薬はおそらくわたしを治すから、すぐにかれ[2]の喉を扼し、薬が吐かれたらやめよう。」さらに言った。「あなたたちはやんわりわたしに頼むのはまだよいが、法術を用いてわたしを鎮めれば、わたしは先にかれの心臓と肺臓を食らおう。」後に、僧を招き、巫を招くと聞くたびに、金氏はすぐに万の刃が胸を刺しているかのようになり、地を転げて悲しみ叫び、さらに言った。「おまえはわたしからこのような虐待を受けながら、みずから一死を求めようとせぬとは、なんと命を大事に見ていることか。」焦はもともと南昌の彭文勤公[3]の門番で、彭は聞き、入奏し、盲人を誅しようとした。焦は言挙げしようとせず、このことを収めることを求めて、金氏は結局そのために死んだ。これは乾隆四十六年夏の事であった。

 

◎江西の某

 

許画山[4]の『青陽堂文集』の中に『江西某伝』一篇があり、−そもそも最近のことなので、その名を隠しているのである。−こう伝えている。江西の某は、代々悪を積んでいた。進士となり、家で需次[5]していたとき、みずから悔いるゆえんを思い、行いを改めていたが、一年で両目は見えなくなった。憤然として言った。「わたしが悪を積んでいたのに及第し、善を積んでいたのに盲となったのは、天が本当にわたしが善をなすことを望んでいないということだ。さもなければ、どうして天が悪に(さいわい)して善に禍するのか。」結局、悪をなすことはじめのようであった。それからは医者を得て両目は豁然とした。某はもともと詩文をもってみずから優れているとしていたが、盲になって廃していた。再び見えるようになると、昔取った杵柄で、某のために寿序[6]を作り、蜚語に坐して棄市せられた。その時は乾隆甲寅四月十日であった。ケ苑華[7]は言った。「某は、江西南豊の人で、許子はいった。『かれは及第したのが、禍の基であり、盲になったのが、福堂であったのだ[8]。天は盲にすることによってその罰を軽くしようとしたのだが、某は悟らなかったので、結局、両目を元に戻したのだ。』悲しいかな。これを書いて罪が重いものの戒めとする。」

 

◎幽鬼の妻が命を奪うこと

 

浙江某県の令譚某は、妻と睦まず、口論してその頬を打つと、妻は憤って縊れた。三日後に姿を現して祟りをなした。譚が妾と臥しているのを窺い、すぐにその帳を掲げて冷たい風を吹いたので、譚は怒り、道士を招き、法術を施し、呪文を誦えさせ、幽鬼を東廂で捕らえ、護符でその門を封じ、官印を加えた。幽鬼は結局来なくなった。まもなく、譚は繁缺[9]に転任し、後任官が役所にゆき、廂房を開けたところ、幽鬼は出られ、若い下女の身について祟りをなした。後任官が幽鬼を呼び、くわしくそのわけを尋ねると、言った。「ご夫人は譚公に仇があり、若い下女と関わりないのに、どうして害を与えるのです。」幽鬼は言った。「小間使いを害しようとはいたしません。わたしはかれの身について、お願いをしているだけでございます。」何を求めているかを尋ねると、言った。「わたしを譚が転任した処に送っていってください。」「ご夫人がみずからゆかれてはいかがでしょうか。」「わたしは非業の死をとげた幽鬼で、沿路河神が遮っていますので、公が印文[10]を用いられなければ送れません[11]」そして二人の下役に護送させることを求めた。遣わすのは誰かと尋ねると、言った。「陳貴、滕盛でございます。」二人は、いずれもすでに亡くなった下役であった。後任官は言われた通りにし、批文[12]を焼いて送った。ある日、譚某が寝室で夕食をとっていると、その妾はたちまち地に倒れ、大声で叫んだ。「おまえはたいへんよくない。おまえはわたしに迫って死なせ、わたしを東廂に拘禁して飢えさせた。わたしはもう帰ってきたから、おまえをただではすまさない。」それから、その役所は、日夜安らかでなかった。譚はやむをえず、さらに道士を招いて法術を施させ、符を加え、印を用いてもとの県の獄中に封じた。幽鬼は去るに望み、言った。「おまえはたいへん良心がなく、以前わたしを東廂に封じたときは、それでも部屋だったが、今回わたしをどんな罪で獄中に置くのか。わたしはおまえに報いよう。」一月もたたないうちに、獄中で重罪犯がみずから縊れ死に、譚はそのため弾劾されて役人を終えた。たいへん恐れ、剃髪して僧になり、天下を雲遊することを誓った。同僚にかれの衣鉢[13]を資金援助するものがいたが、ゆく前に、にわかに病んで亡くなった。

 

◎富貴の旧家

 

費炳文[14]がいった。わが福建で近年富貴の旧家と称せられるものとしては、安渓の李氏、永春のが真っ先に挙げられるが、それがかれらの先代が徳を積んだ報いであり、偶然でないことは知られていない。安渓の李文貞公[15]の祖父は、遠く江南で商売し、その全資産で、役所を助け、飢餓を救い、さらに役所の金を借り、それを続けた。それが済むと、委員がともにかれの家に帰り、銀を取り、倉庫に返すことになったが、実際は家に余裕の資金はなく、家に着いたらどう措置しようか考えていたところ、その嫂は数日前に園内で菜を鋤き、すでに先に埋蔵金を得、すぐに官金を返すことができた。今、百余年来、科甲[16]は絶えず、役人になるものは相次いでいる。さらに鏡塘[17]の祖父公などは、つねに永春[18]で布を売って商売していた。おりしも州は大飢饉で、公は帯びている元手を官に呈して賑恤を助け、徒手で家に帰ろうとした。主人は、かれは資金を尽くして施捨しているから、きっと不実な人でないと考え、布をつけにし、公が売って戻って来ることを求めた。その時、一路の飢民は食物を掠奪していたが、公が資金を尽くして救済し、商品は自分の金でないことは喧伝せられていたので、みなで誓いを立て、かれが往来するに任せて掠奪しなかった。他の商人たちはすべて遮断された商売して帰ると、一人であったので価格は三倍に満ち、数回行き来すると、大金持ちとなり、子が貴顕となったことによって二品の誥封[19]を得た。天の善人への報いが違わぬさまはこのようであった。一人は貴くなり、一人は富んだのには、どうして理由がなかろうか。

 

◎廖王太夫人

 

わたしの郷里の廖家が、陰徳によって興起したことは、前録ですでにくわしく述べた[20]。近頃、廖ト夫尚書[21]が都から帰郷し、浦城を訪ね、家大人と座談した際、また述べるには、かれの祖母王太夫人は、もともと貧家の娘で、わたし[22]の祖父に嫁ぎ、台湾に随任し、風涛の危険をたっぷり経た。しばしば人を救うことを心掛け、家にいる時は、つねに子やおいを教育し、自己満足にならないようにさせた。後にわたしの表兄鄭蘇年師はつねにこの言葉を述べ、弟子に授け、王太夫人の遺訓から出ていると言った。ふだん家人に言った。「あなたたちは雷を恐れるが、わたしは風を恐れるだけだ。」人々はみなそのわけを悟らなかったが、常ならぬ大風に遭うたびに、太夫人はかならず斎戒して庭に長跪し、口は喃喃として祈っているかのようであった。深更寒夜でもかならず衣を着、肅然と跪き、黙祷して止めず、風が収まるとはじめて立った。家人がひそかに聞いたところ、わたしの外の親戚たちには、現在利を求め、名を求め、江に浮かび、海に浮かぶ者はおりません、江海の舟の中で風によって驚いたり恐れたり、死んだり生きたり、吸ったり吐いたりするものは、天下にきっと少なくはありませんから、風神さまははやく怒りを収め、人命を全うなさいますことを願います云々と言っているようであった。後に彼女に尋ねても、そうするわけを言わなかった。そもそもそれを数十年、一日(いちじつ)のように行った。家大人はそれを聞き、粛然として言った。「これは本当に聖賢の「同人を立達す[23]」、「飢溺己に由る[24]」の公心だが、婦人にそれがあろうとは思わなかった。漆室の魯女[25]の憂えは、行き過ぎではない。」二代を経ないうちに科挙に及第して家を起こし[26]、簪紱[27]が世を輔けるのは、当然である。

 

◎林敬堂[28]が述べた三事

 

同郷の馮某は、若くて浮薄で、曹家に婿入りしていた。曹家はもとより富豪で、親戚のなかで懶惰な者数人を集め、呂仙[29]の乩を奉じていたが、乩の言葉は卑俗で、多くは馮某の詐欺から出ていた。曹はもともと市井の人だったため、分からず、事があるとかならずいっしょに祈願し、惑わされることがしばしばであった。たまたま曹の表侄[30]薛某が初夏に少陰[31]の病を患ったので、乩に祈ると、某はそれが疫病だと推測し、攻破[32]の薬剤を与えたところ、一服で死んだ。後に某が夜に帰った時、後ろからかれの名を呼ぶものがいたが、それは薛であった。驚いて叫び、魄を失いそうになった。その夜、すぐに夢みると、薛が来て言った。「おまえが児戯によって人を殺したから、わたしは神にお願いすることができる。」それから精力が減退するのを感じ、一年後、癆咳で死んだ。某が死のうとする時、二人の鬼卒が令状を持ってきて捕らえるのを夢み、隙をみて逃れ去り、鬼卒は言った。「今おまえを許しても、××日には許せない。」期日になり、ふたたび夢みると、前の鬼卒が鎖を持ってきてかれの頚を縛った。驚いて目ざめ、そのことを家人に述べ、夜になって亡くなった。さらに明経の某は、刀筆に巧みで、訴訟を好み、つねに胥吏とぐるになり、呼応しあい、郷里ですこしでも不祥事があると、すぐにいっしょに脅迫し、かならず要求を遂げるのであった。かれの近い親戚も、トラのように恐れていた。たまたま某の親友が訴訟に関わると、某はかれの謀主となり、役所はそれを探って知り、法廷に捕らえてきて上申し、しばらく免職にしようとした。その時、程梓庭[33]制府[34]は不正な訴訟[35]を厳しく罰しており、すぐに詳文[36]の中の「しばらく免職」を「免職」に変えた。某はもともとアヘンを呑んでいたので、取り調べの苦しみに耐えず、府の獄で死んだ。聞いたものは喜んだ。さらに、甲辰の仲夏、わたしは都門から南へ帰る時、台児荘[37]に着き、水に阻まれ、舟を雇って運河から帰った。天妃閘[38]を通り掛り、数年前に何松亭同年(承元)[39]が述べた恵済祠[40]の大魚の骨のことを思い出し、廟に入って尋ねたところ、本当に魚の肋骨を見たが、幅は約四尺、長さは約二丈あまりであった。壁に顧見亭河帥[41]の碑があり[42]、記すには、数年前、巡河して河の流れが海に入るところにゆくと、風と潮がはげしく起こり、巨魚が浅瀬に放置されていたが、その目はすでに失われ、血の涙が目の縁に満ちていた。高さは四丈あまり、長さは十八丈あまりであった。土人は巨魚が狭いところに阻まれて動かなくなっていたので、大勢でその背に登ったところ、背に「これは鰥魚[43]で、千四百年、殺生することが多すぎたため…」と朱書してあったが、下の文字は判読できなかった。そこで争ってその肉数千斤を取って帰り、一本の肋骨は河帥が蔵し、ここに貯えるように命じたのであった。そもそも鰥魚は、蠢然[44]としていただけなのに、やはり神罰に遭った。天道は生物を好み、残忍なものも戒めを知っているか。

 

◎陳霽庭が述べた二事

 

福州[45]に張姓のものがおり、長年幕僚をしていた。家では三官[46]の祭祀を行い、たいへんうやうやしくしていた。道光辛丑[47]十月に、霞浦[48]の知事董公の銭穀[49]の招きに応じ、家族を連れていっしょにいった。十四日に飛鶿渡[50]に着いたが、船頭は公の仕事であることを理由に、どうしても多くの人々を載せてから船を出そうとした。その日、旅人はたまたま少なかったので、翌晩まで延期して出発しようとしたが、船中の旅客たちが呶呶[51]としてやまなかったので、やむをえず二鼓過ぎに船を出した。ゆくこと約二十余里で、暴風がはげしく起こった。そもそも十五日は水官の神誕[52]で、その夜はまさに三官が暴れたのであった。水夫たちはみな舵取りにこう言った。「風の勢いはとても激しいですから、帆を半分下ろすべきか。」舵取りは言った。「わたしはもともと船を出さなかったのに、かれら[53]がどうしてもゆこうとしたのだ。すべての船を海中で覆らせねば、舵取りの本領を示せない[54]。」話していると、たちまち帆柱が風とともに折れた。帆柱は左に折れれば、船はかならず左に傾き、右に折れれば、右に覆るのであった。しかしその時だけは後ろに倒れ、舵取りの頭に中たり、脳が裂けた。船は帆柱がなくなったのではげしく回り、船中の人々は声を揃えて救いを求めた。すると突然さらに一陣の風が吹き、船は浪に従って上がり、屹然として動かなくなり、見れば、すでに沙坡(すなやま)の上に置かれていた。翌朝になると、ほかの舟に換えて渡った。さらに、福州南台に某姓の寡婦がおり、高利貸しを生業とし、朝に貸し、晩に収め、すでにその煩わしさを憚らず、凶悪さはとくに甚だしく、すこしでも免除してもらえる人はいなかった。下女を鞭うつことはもっともひどく、つねに血が流れ、肉が綻ぶに到った。膝の前の一子だけは、心のなかではたいへんよくないと思っていたが、どうしようもなかった。しかし、借金をした家の本当に返済する資力がないものに関しては、つねにその証文を盗んで焼いた。下女を鞭うつ時も、あれこれ守ったが、その母はすこしも改悛の念がなかった。結局、借金をした家で、高齢なのに迫害されたため、自縊したものがいた、下女たちに鞭の下で死ぬものがいると、さらにその屍を江に抛とうとした。その子はつよく諌め、ひそかに棺を買って葬った。家産はたいへん豊かになり、その子のために援例[55]して国子監に入らせた。道光己亥科[56]で受験して試験場に入り、正門をくぐり、持物検査した時、遠くで下女が片手を揮って出るように指示し、片手で二門の中を指しているのが見えた。そこには迫害されて自縊した老人が見えた。そこですぐに考籃[57]を持って外に出た。試験場で幽鬼に遇えば、死なない者は少ないが、かれは結局さいわいにして免れた。これもかれのふだんの心がけに、生かして模範を示すに足りるものがあったからだろうか。

 

◎幽鬼の詐欺

 

杭州の孫某は、夫婦でたいへん睦まじかったが、妻が病んで亡くなったので、鬱鬱として無聊であった。道光二十四年[58]夏、友人の家に赴いて小酌し、散会した時はすでに夜半であったので、松明[59]を手に取り、ひとり帰った。途中たちまち震えを起こし、貿貿然[60]とした。家に帰った後、家人が見ると、かれの様子は普段と違い、尋ねても語らず、執っている松明はまだ一寸ばかりが残っていた。その時、単衫二着を着けていたが、その手はだんだん縮み、松明を袖の中に蔵しようとするもののようであった。そして突然口から女の声を出した。「わたしたち母娘二人がいっしょに歩いていた時、あなたが向かいから来るのを見たので、娘を連れていそいで避けましたが、あなたは譲らなかったばかりでなく、足を挙げ、わたしの娘を踏み殺しましたので、わざわざあなたに従い、家に帰り、命を取るのです。」家人はかれが邪気に中ったことを知り、正論で責め、言った。「陰陽の隔たりがあり、おまえは人を見られるが、人はおまえを見られない。無心の過ちなのだから、どうして命を償えよう。」幽鬼はまた大声で騒いだ。「わたしは一人の命で一人の命を償うことを知っているだけで、その他は知りません。」孫某はすぐに転び、涎が流れ出、人事不省となった。慌てていると、孫某の亡妻の魂が孫某の体に憑き、すぐに起き上がり、言った。「わたしは先程このことを聞き、わざわざ諍いを解決しに来ました。」すぐに女の幽鬼に向かって言った。「陰陽の道理は同じで、故意でないものに罪はありません。娘さんは怪我したにすぎず、死んでもいません。わたしの取り成しに従えば、酒食銀銭はあなたの求めに従いましょう。さもなければ、わたしは先に城隍のところにいって叫んで訴え、あなたの詐欺の罪を懲らしめてもらいましょう。」そして家人に命じ、すぐに紙を使用し、事情を明記し、城隍廟にいって焼かた。女の幽鬼はにわかに意気沮喪し、事を収めてくれと哀願したので、紙錠数千を焼き、羹飯[61]を備え、大門に送り出すように命じると、孫某は目ざめた。尋ねると、茫然として知らず、大病すること一月で治った。このことは孫某が人に会うたびはっきり語ることであり、聞けば夫婦の情が油然として生じる。

 

◎下女を虐げた報い

 

仁和の顧某は、もともと世家の子で、某氏を娶っていた。目下のものを厳しく使い、下女を虐待していた。ある日、栗数個がなくなったので、下女がひそかに食べたかと疑ったが、尋ねても罪を認めなかったので、鞭を加えた。下女は恐れ悲しみ、床の下に隠れた。某氏は一人の老婆に命じ、木の棍棒で突かせたところ、匍匐して出て来た。さらに口を開かせて見たが、下女が口を開くと、にわかに花ばさみでその舌を断った。下女は気絶してまた蘇ったが、すでに飲食できず、一日後、死んだ。下女は売[62]で、ずっと実家の人が往来していなかったので、埋葬しただけであった。数ヶ月足らずで、某氏は病み、手でみずからの両頬を打った。見ると下女が命を取りに来ており、飲食させず、苦しみは万状であった。顧某は夫婦の情が篤かったので、代わってやんわり頼み、功徳によって済度することを約束すると、下女は承諾したかのようであった。一時後、さらに言った。「ご主人さまがそのようになさるのであれば、わたしもご命に従うことを願いますが、わたしはすでに訴えを受理されましたので、思い通りにできません。」さらに言うには、某氏が実家で一人の下女を殺したことがあったが、知る人がいなかった、今、二つの罪はともに明らかになったので、けっして生きられるはずがないとのことであった。まもなく、さらに言った。「旦那さまが来、身に藍の袍を着て厨房にゆき、竈神と会話し、竈神は黒い袍を着ていました。」旦那さまは、顧某の父で、生前塩業を営み、捐納して頂帯[63]を持っていた。これより前、かれの三叔父が亡くなり、柩はまだ家にあり、下女はさらに言った。「三旦那さまが出て来、旦那さまを見ようとし、竈神と会話し、白衣の人はすぐに見えなくなりました。」まもなく、顧某の父はこのことが挽回できないことを知り、太息して去り、某氏は死んだ。一日後、棍棒を用いた老婆も死んだので、証人はかならず法廷にゆかねばならず、殺人幇助の罪も逃れられないのだと思った。これは道光二十四年[64]のことであった。

 

◎茶司[65]が恩に報いること

 

仁和[66]の汪家は、代々製塩業を営み、暮らしは豊かであった。ある日、息子のために嫁を娶り、親戚友人がみな集まった。三鼓に客が散じ、門を閉ざした。主人は灯を持ってあちこちにゆき、燭で照らした。二庁の廂房[67]にゆくと、入り口の凳の中でごそごそと音がしたので、移して見ると、人が隠れていた。照らせば、茶司であった(杭州の風俗で、冠婚葬祭の時、みな茶廂を用いる。四人一揃いで、器具をすべて備え、酒を売るのである)。その人はひどく慌てていた。家人はみな縛って番をし、翌日を待って役所に送り、沙汰してもらい、将来を戒めようと言った。汪君は言った。「それはよくない。かれは貧しいため、たまたま早まった考えを起こしたに過ぎず、役所に送れば終生人のためにできない 。」その人はひたすら叩頭し、黙って一言もなかった。汪君はさらに言った。「夜が明けてからおまえを放ってゆかせれば、みんなが見るから、やはり人に合わせる顔が無くなる。わたしはおまえに大銭[68]千文を与え、おまえの貧窮を救うから、将来二度と故轍を踏んではならない。事は一度だけで二度はできず、人人がわたしのようであるとも限らないぞ。」その男は感泣してみずから誓いを立てたので、汪君はすぐに銭を賜って帰らせ、さらに家人に頼んで言葉を漏らさせなかった。数年後、妻を娶り、子を生み、冬に楼におり、銅の火炉で子供の物を炙っていたところ、はからずも火が多く、銅が溶け、楼板[69]を焼き切り、庁屋に落ちたが、一家は熟睡しており、まったく知るものはなかった。前に放たれた茶司は別姓の家で宴が散じて帰る時、汪の邸宅を通り掛かったが、見ると大門が閉ざされておらず、一人もおらず、燈火もなかったので、その理由が分からなかった。大声で叫び、門番の人に尋ねれば、茫然としてどうして戸締りを忘れたのか分からなかった。茶司は言った。「夜はすでに更けているから、こそどろが隠れているだろう。」すぐに提灯を持っていっしょにゆき、あちこちを調べ、二庁にゆくと、(ゆか)の炭火一山が燃え盛っており、仰ぎ見ると、楼板がまだ赤かった。大声で叫ぶと、家じゅうが驚いて起き、いそいで消火した。汪君はこまかく事情を尋ねると、驚嘆を禁じえなかった。門番が戸締りを忘れ、茶司がちょうどこの路を経たのは、鬼神がいたのだろう。そうでなければ先後することなくこのように巧みに合うことができようか。一念の善、一時の厚により、福は一家に及び、広がってそこに満ちる[70]。道はここにあるのである[71]

 

◎体を借りて転生すること

 

某甲は素封家で、高利貸し・質屋を営み、大いに刻薄を事としていた。年は六十余であり、妻妾はすでに亡くなり、たった一人の幼子は、病が革まり、死に瀕していた。真夜中になると、男が銭差しを持って物を贖いに来た。深夜に戸を叩いたことを怒ると、その男は言った。「夜明けになると、わたしの物は戻らず、数緡の銭を損してしまう。わたしはだからあらゆる手段で金を工面し、期限に間に合わせたのだ。」某甲は憮然とし、子が死ねば、大金も何になろうと思い、財産を取り上げ、人々を害していたことを悔い、翌日、各家が質入れしていたすべての地産・衣物を、招いて与え、借金の証文も焼き去った。子が死ぬと、夜半になっても屍を撫で、涙を呑んでいたが、ふと見ると、一人の男が闥を排して入って来た。かれはもともと負債があるものであったが、某に言った。「悲しまないでください。これは債権を取り立てたもので、債務を償いましたので、自然に死んだのです[72]。思えばあなたは跡取りがなく、わたしは証文を焼くご厚誼を受けましたから、あなたの子となり、余生をお世話することを求めます。」たちまち見えなくなったが、子供はだんだんと蘇り、病はまもなく治った。××家に尋ねると、某はその夜に死んでいたので、体を借りて転生したことを知った。これは福建南平の諸生姚格亭(学信)が言ったことであった。ああ。怨みを結び、恩を施すことは、すべて人がみずから行うことであり、後悔の一念は、すでに絶えた跡取りをふたたび残させることができるのである。債権を取り立てる子が去ることと、債務を返す子が来ることとが、一身に起こったのである。因により果を結び、善悪の報いが影や響きより速いさまはこのようであった。

 

◎銀匠

 

最近、浦城の文童[73]が紛紛と建寧の郡城に赴いて受験したが、府県試で首席として録送[74]せられたものは、院試でかならず学校に入ることを許されたので、各人の家では、みな案首[75]を得ることを望んでいた。突然、学校の門番が、第一位は達聡だと報せた。わたしはその人を知らなかったが、かれの堂叔[76]玉圃郎中麟[77]に家大人と同年の誼があることを知ったので、この人の文芸は本当に一県の冠となせるかと尋ねた。客は言った。「一寒儒に過ぎません。それにかれの父は銀細工を生業としており、読書するものではございません。」もう一人の客が突然言った。「かれの銀細工は、夫人の銀細工のようなものではございません[78]。浦中[79]で銀細工するもので、銅・鉛を銀に雑ぜぬものはいませんが、かれだけは数十年ずっとこの悪習がなく、女たちはみなかれを信じています。」家大人はそれを聞くと瞿然[80]として言った。「そんなことがあったか。義利の弁がそのようであるなら、この子は首席となろう。」これは士大夫の難しとすることだが、よりによって技術を売る末流[81]にそれがある。それを示して世俗を励まさないことができようか。達聡の父は名を允鐘といい、そのおいは達子邦といった。

 

◎羅某

 

江州の羅某には、五六子がおり、乳母に従って河原を通ったところ、イヌに驚かされ、あやまって河に落ちてしまった。嫗はひどく慌て、救いを求めた。某甲はそれを見て惻然とし、江に跳びこみ、水に潜って掬いあげたところ、さいわいに恙なかった[82]。しかし、某甲はそのために寒気に中たり、まもなく死んだ。甲はやもおで子がなかったので、親族が納棺してやると、嫗はいって痛哭し、夫を失ったかのようであったが、夫の羅某は富んで賎しく、ありがたいと思わず、子が失った帽子に銀の羅漢が綴られており、ちょっとした値打ちがあったので、甲が盗んでいったかと疑い、朝晩嫗を罵り、甲にも及んだ。ある日、突然起きると、罵った。「わたしは一時の惻隠により、命を棄てておまえの子を救ったのに、わたしを盗人とするのか。わたしの家には儋石の蓄えもないが、富豪のおまえが一銭を車輪ほどの大きさに見、一つの銀の羅漢を得ればすぐに女房に舌で他人の口を嘗めさせようとするのとは違うぞ。」ははと笑ってやまず、一時(いっとき)してはじめて意識が戻った。羅某に銀羅漢を誰が送ったかを尋ねるものがいたが、恥じて語らなかった。

 

◎火葬

 

杭州の風俗では、その親を葬らず、親が死ぬと、火で焼き、その骨を集め、缶に入れて埋めていたことがあった。言い伝えでは、太倉の王二尹(耘)が諸曁の令を代行し、公務で武林[83]にいた時、夜に城が閉ざされていたので、舟を候潮門[84]外に泊めた。その時明月は水のようであり、雨は降っていなかったので、上陸してひとり散歩していたところ夫婦がおり、抱きあって悲しんで泣いていた。傍らに一人の(おきな)がおり、慰めてこう言っていた。「河原で瑜珈会[85]があるから、ちょっとゆき、杯酒を求めて楽しもう。」「烈火の惨害が明朝にあり、それを思えば戦慄するのに、どうして酒を飲む気になれよう。」そこで尋ねようとすると、叟と夫婦はたちまち見えなくなった。その側を見ると、三つの棺が道に暴露されていた。翌日、城に入り、上司に会い、出て見ると二つの棺架[86]が火に焼かれてすでに灰燼[87]となっていた。そこで上司に火葬の習俗を厳禁するように求めたが、惜しいことに政治が慈悲深いのに命令は行われなかった。

 

◎遺児寡婦を苛めること

 

朱蕉圃[88]が言った。無錫の庠生[89]鄒(夢蘭)は、若くして能文であり、場屋[90]で有名であった。兄の孝廉(夢桂)がはやく亡くなると、嫂に無礼し、おいを虐待し、家産の大半を侵奪した。ある晩、夢みると、兄が魚の骨を持って示し、言った。「おまえがしたことは不道なので、(つかえ)で死のう。」目ざめて嫌に思い、一切の魚の類は注意して口に入れなかった。まもなく、耿学政[91]が常州に按臨したところ、耳の中で「鄒夢蘭が遺児と寡婦を虐待している」という言葉が聞こえたので、探したところ[92]、一人もいなかったが、夢でもなかった。そこで、このことを調べあげ、生員の位を奪い、きびしく杖でうち、有司に命じてその財産を返還させた。夢蘭はそこで怒って死んだ。徐西[93]茂才[94](泗芹)がわたしに語った。

 

◎役所の陰徳

 

淳安[95]の幕中で紹興の周沙舟が言った。かれの親族が杭州の旅館にいた時、ふと夢みたところ、二人の隷卒が令状を持って呼びに来た。一人は銭唐県の添差[96]であったので、知事は旧友なのに、何事があって、すこしも情実に従わないのかしらとひそかに訝った。添差はともに護送したので、身は儘ならず、芒芒[97]としてついていった。見ると沙が天を覆い、耳元で轟轟として大風に乗っているかのようであった。途中、城市を見たが、いずれも平生通っている場所ではなかった。一つの大きな役所に着くと、門額には「楚江王府」とあった。隸卒はあらためて人に命じ、轅門号舎[98]を見守らせた。すでに死んだのだと悟ったが、どうしようもなかったので、ひとまずなるがままにしていた。しばらくすると、十余人とともに進んだが、堂上の役人は、同時代の装束であった。侍従は厳かで、威勢はたいへん赫奕[99]としていた。点呼し、護送して墀[100]の下に跪かせると、下役は赤と黒の文書を抱え、算盤で交互に計算し、生前の善悪功過を調べているかのようであった。堂は高く、墀は遠く、官吏の言葉は聞こえず、「六道を輪廻する」「地獄に護送する」など、声高に言葉を伝えるのが分かるだけであった。心が惴惴[101]としていると、突然出廷するように呼ばれたので、觳觫[102]匍匐して進んだ。すると官は顔を晴れ晴れとさせて言った。「おまえは佃戸の借金の取り立てを止め、人々の負担を除いたから、寿命を一紀延ばし、食禄を増すとしよう。」隷卒に命じ、人の世に送り帰させることにした。、隷卒はすぐにかれを連れてはやく進んだ。沙が満ち、目は開け難かった。まもなく空中に抛たれ、豁然として夢から醒めたようになったが、死んですでに三日経っており、しもべが家に知らせたものの、親族は来ていなかったので、納棺されていなかったことを知った。かれが佃戸の借金の取り立てを免じたというのは、嘉興県の幕司[103]の度支[104]の捜査・没収事件で[105]、各佃戸借金の帳簿を減らし[106]、連座するのを免れさせたことであろう。俗に「役所は修行するのによい」[107]というのは、本当である。

 

婦女が門を出ぬこと

 

婦女が交際を好むことは、もっとも過失・後悔を招きやすく、役人の眷属は、もっともそれを慎むべきである。家大人は長沙の陶文毅公[108]と同年の親友で、四年の久しきに亘り、蘇州でともに役人をしていたが、女の家族はまったく交際しなかった。みずから滄浪亭の旧跡を修理した時、亭館[109]が華麗であったため、城中の男女たちは中に入って見たが、布政司の女の家族は一度もその地を踏まなかったことを、蘇州の人は今でも語れる。思い出すのは、徐星伯[110]が楚南[111]の一笑話を述べ、つねにそれを挙げて戒めとしているのを聞いたことである。長沙の丁知事が死んだ時、善化[112]の安知事の夫人は、丁の夫人を慰めにゆこうとした。安は朝に外出する時、そのしもべに夫人の肩輿を備えさせ、ある官署にいった。門番が客人を招き入れると、絹や刺繍の服を着たものたちが門に満ちていたので[113]、夫人は惶然[114]としていた。堂上に登ると、補服[115]のものが客を迎えたが、堂上にいるのはすべて補服のものたちで、夫人が素服しているのを見ると、訝ったり驚いたりした。夫人は客たちが素服していないのを見ると、やはり訝ったり驚いたりした。一人の年長者に逢い、卒然として誰かと尋ねると、声を荒らげて答えた。「わたしは現任の臬司[116]の母だ。」その言葉が不遜であるのを聞くと、ますます度を失い、あらためて「主霊」がどこにいるか尋ねた。人々はその音を解せず、「霊」を「人」と思い、かれが主人のことを尋ねたと思ったので、答えた。「堂上に坐しているかたがそうでございます。」夫人は走って近づいて見、たいへん驚き、一堂は騒然とした。知府の夫人がおり、突然このことを悟り、いそいで進んで止めて言った。「お客さまは長沙の丁夫人を弔問しようとしていらっしゃるお方でしょうか。このかたは違いますので、いそいでゆかれるべきでございます。」引いて出したが、そもそもその日は観察の太夫人の誕生日で、役人たちの女の家族は多くは祝いにいっていた。安夫人は門を出、しもべと輿夫はかならず寿を祝うために出ると思ったので、ただちに観察の役所にゆき、門番もきっと寿を祝うために来たと思ったので、客を招き、ただちにその堂に登ったのであった。夫人は恥じたり怒ったりし、道署[117]を出、輿に乗ると、大声で泣いて帰った。安知事はきびしく輿夫を杖うち、そのしもべを追い払ったが、楚人はすでに今でも笑い話として伝えている 。

 

◎処州の城隍

 

県の諸生金月江(昇)は、病中、人によってお上に訴えられたかのようになり、二人の下役に護送され、ある役所にいった。墀の下に立ち、尋問されるのを待っていると、顕官が上座に着き、審理したが、堂宇は奥深く、下役は出て来て集まっていたので、言葉はあまりはっきりしなかった。儀門[118]の外では、すでに十余人が枷に掛けられていたが、多くは三四五品の頂帯で、中にはふだん知っているものがいた。呼び入れられ、それぞれ尋問され、供述すると、すぐに追い出した。すると突然、さらに処州府知事が入廷したことが伝えられ、藍頂蠎服[119]の者が低頭して案の前で会った、顕官は案を打ち、怒ってその衣頂[120]を剥ぎ、地に跪かせた。まもなく数人の下役が進み出、公文数百巻を抱え、秤を持ち、量り、朗々とした声で四両五銭でございますと報せた。上座と下座で争論すると、顕官は顔色をすこし晴れやかにした。さらに一人の下役が一冊の文書を持っていたが、わずか五六頁なのに、あらためてそれを(おもり)で量ったところ、すぐに地に落ち、たいへん重たいようであった。顕官はにわかに座を離れ、扶け起こし、みずから衣冠を整え、檐下の回廊に送ってゆき[121]、吏卒を呼ぶと、処州の城隍を送ってゆかせた。月江は惴惴とし、しばらく立っていた。見ると男女十余人がおり、知り合いに似ていたが、いずれも姓名を思い出せず、しもべをほとんどすべて叩き、縛って出した、二人の下役は月江に帰るように促し、それから病気はだんだん治った。一月あまり後に聞いたが、処州の知府楊公(成龍)が亡くなり、ある妾が屍を撫でて泣いていると、額にたちまち白い光を発し、幕を衝いて去ったそうである。思えば、月江が冥府の尋問を夢みた時は、知府の屍が白光を放った時であった。

 

◎幽鬼が奪うこと

 

凶悪な乞食[122]が路上で死んだ。付近の住民は、かれが生前脅迫して果たせなかったため、祟りをなすことを心配し、紙銭をかれの側に施し、地方官に報せ、屍骸を見張り、検屍を待った。見張りは、夜、数人の男が屍骸に「結構なにわか成金だな」と言って羨むのを見た。怒鳴っても、聞いていないかのようで、紙銭を攫い、鬼嘯をなして去った。この乞食が得た紙銭は、実は生前の脅迫によって来たものであったが、「(くわ)(もと)りて()れば、(また)(もと)りて()づ」[123]で、すぐに掠奪に遭ったのは当然であった。以前、父老に聞いたが、農村に鄙夫某がおり、刻薄によって家を成し、貯蓄は万を重ねていた。城隍廟で大きな算盤を見たが[124]、標題に「(ひと)千算(せんさん)()り、(てん)只一算(ただいつさん)あるのみ」とあり、楹帖[125]には「刻薄にして家を成せば児孫の久しく享くるを保ち難し」とあった。タ然[126]として心が動き、一人の隣家の老爺にどうして善悪を区別するかを尋ねると、叟は言った。「自分の快楽は、他人の堪え難いことで、自分の利益は、他人の忍び難いことで、すべて自分が悪をなしているのです。善はさらに条目が紛紛としており、大小等しくありませんが、帝君陰隲文[127]だけを信奉・励行し、誠実で偽りがなく、すこしも悔いねば、おのずと悪をなす萌しを絶ちその悪を除くのを待ちません。」某はそのため孤児を憐れみ、寡婦を救い、貧しい親戚友人でかれに頼って生活するものは数十軒で、事に遇えば、敦厚にし、善言に従い、以前切歯していたものたちなどは、みな感激し、子孫はその後勃興した[128]。今でも里中の豪族である。

 

◎一念の誤り

 

丁虎臣上舎(廷珍)[129]が言った。樅陽[130]の殷孝廉(翼)が及第する前のこと、かれの家は元旦になるたびに、かならず公山[131]に向かって侍中を祭っていた。ある年、廟守はその父親に言った。「ご長男の科名を占いに来ようとなさいますか。わたしが夜に侍中の填榜[132]を夢みましたところ、ご長男はすでに名を傍らに列ねていましたが、批語に、「殷翼は赤い糸を卵に繋いだので、とりあえず一回合格を遅らせる」とありました。今秋は及第できないはずです。」かれの父親が帰り、怪しんで孝廉に尋ねると、孝廉がみずから述べるには、前年××家で家庭教師したが、その主人の妻が寡婦暮らししており、殷と約束し、暇があったら、赤い糸を鶏卵に繋いで食べさせるから、その時に逢おうとのことであった。一日後、本当にそうであった。殷ははじめたいへん喜んだが、考えを変え、だめだと思い、逃げ帰った。一念の誤りを、冥土はすでにくわしく記憶しており、考えを変えなければ、きっとみずから青袍[133]を捨てることになっていたろう。しかし神が結局は人に善をなすことも知れる。

 

◎劉武生

 

新陽[134]の武生劉某は、平素から豪放であった。乾隆四十三年[135]、学使が按臨して玉峰[136]にいった時、劉は武童[137]十数人を率いて練兵場で騎射させた。崇明[138]の千[139]某は辞官して家に居たが、その徒党を連れて来、その日も練兵場で馬を走らせていた。劉はかれと道を争い、先に馬に鞭うって走らせた。千戸が後ろから疾駆して来たので、劉は怒って人々を呼び、掴んで下ろし、ともに鞭うたせた。千戸は傷を負い、痛みを負って邸宅に帰り、まもなく病歿した。数ヶ月後、劉の友人孫元復は、やはり武庠[140]であったが、病中二人の隷卒が来、従令があなたを呼び、供述を記録すると言い、かれを助けて進んでいった。新陽の城隍廟に入り、舒嘯堂[141]の前に来ると、南面して坐する達官が三人いたので、二人がどんな官かをひそかに尋ねた。すると言った。「東西は崑新[142]の両司[143]で、中は従令だ。」孫が進み、階に跪くと、令が言った。「今、某千戸に尋ねたが、劉某のことを訴えていた。思うにわたしが新陽の知事をしていた時、おまえの祖父は供招吏[144]であったが、すでに他の所に転生しているので、とりあえずおまえを呼んで代わらせたのだ。」そこで劉某を捕らえて入らせるように命じた。令は案頭に積まれた文書を指し、目を怒らして劉を叱った。「この三十余冊は、すべておまえの罪状だがとりあえず問題にせぬ。尋ねるが、おまえは千戸とどんな仇があってきびしく殴った。」劉は抵抗し、承服しようとしなかった。火で鉄をたいへん盛んに焼かせ[145]、その唇を刺すように命じたところ、劉は痛みに堪えず、罪を認めた。孫は傍らでその供述を記録した。知事は二司を振り返って言った。「法律では充辺[146]となるべきだが、それで十分だ。」そして散じ、孫は邑司[147]に従い、廟の中に留まった、劉某はその夜突然、寒さと熱さに交互に襲われ、唇ににわかに疔を生じ、数日すると病勢はますます重くなった。家人は城隍司像を堂に迎えてやり、盛大な礼で祈った。孫はぼんやりしながら司に従い、かれの家にゆき、大勢の下役たちが従っていた。その時、孫は自分が冥土に入ったことに気づかず、並べてあるものを見て訝った。「なぜ(いけにえ)を食べさせる。」まもなく、一人の道士が案頭で拝礼・祈祷したので、ますます驚き疑い、すぐに外に走ると、まもなく兵士たちが縄で劉某を引き、雑踏して出て来、孫を帰らせた。」すぐに目ざめると、淡月は窓に臨み、孤燈はななめに燃え残っており、身は相変わらず牀褥にあった。孫がぼんやりとしていた時、家人はかれがうわごとを言うのを聞いたが、まったく理解できなかった。ここに到り、精神がすっきりし、くわしく語った。人をやり、劉に尋ねさせ、本当に病を得て、某日に神に祈り、それが終わるとすぐに死んだ。しかし従令とはどんな神であるか分からず、古老に質すと、雍正八年に従公というものが新陽の県令となったことがあり、孫の祖父がかれの供招吏であったことを知ったという。

 

◎王四

 

嘉定沙岡橋[148]の王四耕は、たまたま楊公[149]の墓の傍らで金一つを見つけた。量ると十両ばかりであった。はじめは銅かと疑い、あまねく人に示したが、人々はかれを欺くことが多かった。さらに銀匠に尋ねると、銀匠は言った。「金の色は黄色ですが、これは黒みを帯びていますから、溶かせば真偽が見わけられましょう。」王が承諾すると、匠はこっそりその半分を盗んで、半分を溶かし、汞を加えたが、色は本物の金のようであった。王が知るものに売ると、その人は言った。「これは汞とともに精錬したもので、価値は純金よりやや劣ります。」銭四貫に易えた。王はもともと貧しく、ゆえなくこれを得たので、たいへん喜んだ。数日すると疸が肱に生じ、死にそうになり、その得たものを尽くして治った。ああ。思いがけない(さいわい)は、禍か。

 

◎王喜

 

定の悪人王喜は、徒罪に遭い、赦免を受けて帰ったが、結局、悔い改めなかった。乾隆辛卯[150]の春、(きのこ)を売るものが元手を失い、自経しようとしていたので、主人[151]は憐れみ、さらに商品を与え、利を求めさせ、その不足を補わせることにした。行商人は商品を載せて嘉城にゆき、銭六貫を得、家に帰るとき、祁里[152]から龍徳橋[153]にいって宿った[154]。喜がそれを盗むと、行商人は天を仰いで叫び、涙を幾筋か落とし、言った。「天よ。わたしの運命はここまで苦しいのでしょうか。」家に帰ると、やはり自経した。一月あまりすると、喜はイヌを盗み、イヌを飼っていたものに殴られて死に、家人は納棺埋葬した。三年後、黒いイヌがにわかに喜の(つか)にゆき、躍ったり吠えたりし、足で泥を掻き、その棺を発き、歯や骨を砕き、水に棄てて去るに到った。以前の行商人が憑いてその怨みを雪いだかと疑った。

 

◎過ちを悔いること

 

銭某というものがおり、みずから言うには、近くの村で去り状を作ったが、部屋の中に机がなかったので、硯を地に置き、紙を股に布いて書いた。帰った後、股がかすかに痛み、じっくり見ると、隠隠と指の痕が見え、色は青紫であった。まもなく、重い痛みに耐えられなくなり、離婚者が祟りをなしていることを悟った。悔い、××家に馳せてゆき、欺いてその手紙を取って破くと、痛みは治った。

 

◎料理人が命を取ること

 

蘇州の富豪某は、性格は凶暴で、妾は一子を生み、愛護することたいへん周到であった。嫁を娶った時、劇を演じ、客をもてなして月を重ねたが、たまたま一人の料理人を怒り、足でその腹を蹴って傷つけ、その晩、帰るとみずから縊れた。家には一人の母だけがおり、かれの勢いを恐れ、争おうとしなかった。後にかれの子が結婚して一月もたたないうちに、たちまち料理人が牀の前に立つのを見、癲癇で死んだが、今はひとまずその名を隠す。

 

◎鳥の報い

 

宝山[155]の李某は、殷家弄[156]に住み、性来色遊びを好んでいた。地は海に瀕し、宅の周りに竹を植え、潮の害を防いでいたが、鳥たちはそこに巣くっていた。某はわずか数年で、火槍[157]を作って鳥を殺し、後に馬を養い、(あみ)を置き、日々兵士たちと連れ立ち、狩猟に従事した。鳥でかれに虐げられたものは、数万を下らなかった。年が五十余になると、朝起き、たちまち両手で額を掩い、叫んだ。「啄ばまれてとても痛い。」まもなく、さらにその頚を掩った。さらにまもなく、その肩と背を掩った。その後、全身を次々に掩い、まもなくああと声を出し、手足は痙攣して鳥が死のうとするときのありさまのようであった。数日して死んだ。

 

◎イヌの報い

 

嘉定南翔鎮[158]の民蔡六は、浦東[159]から来て白鶴寺[160]の前に住み、イヌを屠ることを生業としていた。乾隆末年春の薄暮、一匹のイヌを屠り、缸に入れ、水でふやかして毛を除いていたところ、イヌは頭をたちまち立て、力いっぱい腕を咬んだので、地に倒れ、痛いと叫んでやまなかった。あるものが棒で闘ったが、しっかりと咬み、鋳たかのようで、起きられず、死んだ後に放した。数年後、村の岡の南に曹昇元というものがおり、やはりつねにイヌを屠っていた。ある日、イヌは盆の中でにわかに高さ一尺ばかり躍りあがり、昇元の項を咬んだ。項は潰爛し、二三月の間、昼夜叫んで、死んだ。

 

◎林梅友が述べた二事

 

長楽[161]の某村でのこと、某姓の童子が隣村に赴いて麦の種を買おうとし手に一籃の銭を貯えて走っていた。途中、無頼漢に攫ってゆかれたので、追って奪おうとしたが及ばず、泣いて帰った。家に近づくと、門に入ろうとしなかったので。隣家の女は声を聞いて出て見、そのわけを尋ねた。童子は母は性格が厳しいから、帰ればかならず重罰に遭い、さらに、家は貧しく、この銭を調えるすべはもうないと告げた。女は麦を買うには銭がどれほど必要かと尋ねた。すると言った。「六百文です。」女は憐れみ、箱の中に貯えた針仕事の余裕の資金を分けて与えたので、童子は感謝して去った。その時傍らにいて見ていたものは隣家の嫗だけであった。嫗はもともと女と少々仲違いしていたが、この童子が約十四五歳であり、容姿はたいへん端正であるのを見ると、女の夫が帰るのを伺い、若い女と美しい童子が愛しあっており、後日かれらが私通するのを防げなどとしてひそかに陥れた。夫は怨んで女を謗り、女は濡れ衣を着せられていることが分からず、夜に自経して死んだ。某童子は女の死自分と関係があることを聞くと、やはり(たにがわ)に投じて殉じた。しかし、遠近にそれが濡れ衣であることを知るものはいなかった。まもなく、昼なのに大雷雨となり、隣家の嫗が撃ち殺されたが、背に「よその男女二人の命を害す」の六字が朱書してあり、隣人たちは女と童子の禍は、いずれもこの嫗が誣いて陥れたものであったことをはじめて知った。その怨みはそこで明らかになった。

 

長楽の海に瀕した地に某姓の農民がいたが、海が溢れ、田地と屋舎が流されたため、その妻を連れて寡婦である姉の家に身を寄せていた。姉の家はやや豊かであったので、田地十余畝を与え、耕作して生活させた。隣に傭工[162]するものがおり、だんだん親しくなり、しばしば来ては某を助けて仕事していた。しばらくすると、兄弟の契りを結び、交際すること一家のようであった。たまたま某は瘧に罹って癒えず[163]、医者を呼ぶのに路が遠いことに苦しんでいたが、傭工は代わりに外出して瘧を断つ薬草を買って飲ませた。その後亡くなったが、婦と姉はもとよりかれが毒殺されたことを知らなかった。その後、傭工は人に託して姉に口利きさせその家に住み、その畑を買おうとした。姉は弟が死に、子がなく、妻は頼るものがいないのを見ると、やはりひとまず住むに任せていた。ある日、突然、丹喙緑脚の鳥が空から下り、傭工の氈帽[164]を掴んで落とし、まっすぐにその脳を突いた[165]ところ、たちどころに死んだ。隣人に某が死んだ顛末を知っているものたちがおりこの鳥は怨みに報いたのだと言った。壷井[166]の某氏がさらに妻を招いて妻とすると、鳥はさらに来、日々庭の上下で飛んで鳴いた。某は傭工の故轍を踏むことを心配し、悔いる心を生じ、やむをえず、それが飛んで鳴いている時に乗じ、自分は公正に娶ったのであり、謀りごとで奪ったのと同じではなく 、すでに孤魂[167]となって頼るものがいないなら、妻に命じて折々に祭らせるから、どうか敵視しないようにと鳥に向かって祈ったところ、鳥はたちまち見えなくなった。

 

◎師を敬うこと

 

わが県の大工に陳姓のものがおり、もともと質朴であり、ささやかな技芸により、わずかな資産を貯えていた。年が四十余で、はじめて妻を娶り、子を七人生み、師を招き、勉強を教えさせた。陳はもとより読書する人間でなかったので、勉強始めの日に師の顔を一見すると、すぐよそへ去り、用事があるのでなければ入ろうとしなかった。師はたいへん客を好み、某はもとより師を敬っていたので客に及び、つねに師のもとに客が来るのを伺い、すぐに家人に命じて酒食を調えさせ、豊富清潔を極めた。市からたいへん遠かったが、つねにみずから竹籃を提げ、買いにゆき、数十年そのようにして怠らなかった。その後、孫・曾孫で同時に小試[168]を受けるものは十六人、邑侯[169]は武進の楊(清翰)、循吏で、つねに褒め、上位合格するものは四五人であったので、世の人々は盛事だと思った。翁は歿した時、年は八十余で、四代同堂、子孫で賢書に登る[170]ものは二人で、学校に入ったものは五人、現在ともに受験するものはなお十余人おり、家も安定していた。人はみな師を敬った報いだと思った。

 

◎一生罵らないこと

 

わたしの郷里に封翁某がおり、平素から謹厚で、出身は微賎で、自給することができず、傭作の中に雑じって口を糊するだけであった。しかし翁は文人学士の流ではないが、言動は典雅で、はるかに同輩に異なっていた。わたしの郷里の賎しい仕事をするものは、口を開けばけがらわしく罵り、人はみなそれを普通だとしていた、翁は一生ひたすら罵らず、人が人を口汚く罵るのを聞くことがあれば、かならず耳を塞いで退き、数十年間一日のようであった。晩年はじめて妻を娶り、大いに勉強しないことを恥とし、子を一人生み、幼くして義塾に送り込み、塾師に求め、先に礼義を篤くし、廉恥を貴ぶことを教えとさせた。歿した時、年は八十余であったが、その子が進士となり、翰林に入るのを見るのに間に合った。ただ、出身が微賎であったので、ひとまずその名を隠す。

 

◎雷を招くこと

                                                     

叔父の灌雲公が述べるには、かれの同居人某は、年が七十であった。子ははやくに亡くなり、一人の嫁と一人の孫だけを残していた。孫はもともと不孝であったが、某は寵愛していた。やや長じて妻を娶ったが、まもなく孫の嫁も亡くなった。某はもともと酒豪で、ある日、外から酔って帰ってきた。喉が渇いていたので茶を求めたが、孫は聞いたのにわざとゆかず、さらに部屋越しに怒鳴った。「おまえは人がおまえの世話をすることを望んでいるのか。おまえの子が死んだのだからどうしようもない。おまえの孫の嫁もおまえにひどく責められたせいで死んだ。おまえは何を傲慢にしているのだ。」某はそれを聞いてたいへん怒り、天に向かって香を焚き、跪き、訴えた。「わたしが祖父に不孝でございましたならば、その不孝の報いを得るべきであり、怨もうといたしません。わたしに不孝のことがございませねば、雷さまは霊力がおありですから、どうかすぐにこの孫を殺してください。わたしは惜しくはございません。」話が終わると、大雨は注ぐかのようになり、電光は閃然とし、霹靂が空から落ちた。孫は恐れ、面色を失い、前世の罪を改めることを誓い、母の懐に隠れ、救いを求めた。かれの母は代わって翁に頼んだので、翁は跡取りであることを思い、さらにかれの孫が恐れを感じていたので、怒りをすこし和らげ、ふたたび天に祈り、許しを求めたところ、雷鳴はだんだん収まった。これは道光二十四年[171]五月のことであった。天雷は、神物であり、それを招いて来させたり、それに祈って去らせるすべはないが、誠意が感通したのであろうか。かれの孫が悪に拘り、改めなければ、かれが殺されるのは必然であったろうが、かれが罪を悔いると、すぐに許した。皇天は悪を誅するが、罪を悔いた人にはそれを加えない。これを見ればますます真実である。

 

◎下女が怨みに報いること

 

同県の陳海門孝廉(学澗)が言った。かれの城外の友人で林姓のものは、文筆にたいへん優れ、二十歳前、すでに学校に遊学し、人々は前途の遠大を期していた。家に一人の下女がおり、年は十四、たまたま過失によって懲罰せられたが、にわかに死んだので、悔恨に勝えなかった。その後、秋闈で正門にゆくたびに、かならずその下女が場内で手招きするのが望見せられたので、恐れて入ろうとせず、一衿[172]としてその身を終えた。みずから人に語った際、命を取られなかっただけでも幸いだと言っていた。

 

◎高恒猷が述べた二事

 

わが福建の漳平の貢生某は、家がもともと豊かで、童試で雨の苦しみに遭うことを憂え[173]、学業を止め、資金を擲ち、地産を買った学使[174]が来るたびに、小屋を考院[175]の前に組み立て、風雨に備えた。道光丙戍[176]に子の某を生んだが、幼い時から聡明で、十歳で学校に入った。漳平[177]の某家は、前明から今まで、合格するものがいなかったが、某は特別に子のために師を選び、わたしを家に招いて、朝晩講義させた。わたしはさらに因果の事を語ってやり、わが福建の林氏が金を出し、西湖書院の奎閣[178]を修繕し、科甲が絶えなかったこと、鄭雅川孝廉(徳)が西関の武廟の修繕を呼びかけ、郷試に合格したことを述べた。その時、西湖の奎閣はちょうど再建を待っており、武廟の経費はさらに拡充されねばならなかった。某は心のなかでこのことを羨み、わたしに頼み、手紙を西湖の董事[179]陳、武廟の董事鄭に届けさせ、代わって祈らせ、父子ともに合格すれば、ともに三百両を差し出し、修理することを約束した。翌年、某はすぐに己亥[180][181]に挙げられた。さらに翌年、かれの子は庚子[182]榜に挙げられた。陳、鄭はそこでしばしば××家の父子に手紙を送り、以前のお礼参りを促し、再三に到ったが、惜しんで与えず、結局、故意に盟約に負いたようであった。壬寅[183]、漳平に蛟が出、家じゅうが水中に淹浸し、某は年が四十足らず、その子は、年は二十歳前であったが、いずれも水で死んだ。聞くものはそのために舌を咬んだ[184]。さらに福建県洋嶼[185]の貢生林某は、富はその郷里に冠絶し、同郷人で、資金を集め、奎閣を建てるものが林家にゆくと、林の母が出て応対し、こう言った。「わたしの家は財神・土地を祭ることだけを知っており、子や孫は勉強したことがなく、文昌帝君がいることなど知りません。」耆宿で鄭姓のものがおり、笑って言った。「お宅が財産を生むのに財神に頼ったのなら、将来家を保つのに帝君を頼るべきだ。」林の母は悟らず、その子も附和した。後に林は数人の子を生んだが、長男と四男は放蕩して学業を怠り、自活するすべがなくなった。二男三男も目に一丁字もなく、同郷人はみな以前のことを知っており、かれらを軽視した。林某はにわかに鬱になって死に、家産は親戚の某に犯されてほとんど尽きた。

 

◎平陽の二事

 

浙江平陽県の村民某は、夫婦二人で平素善事を行っていたが、中年で子がなかったので、神に祈ったところ、やっと一男を得た。その妻が出産する一月前、村民は事情があって外に出ねばならなくなり、洋銀十元をとどめて妻に渡し、出産の費用に備え、妻はそれを箪笥に納めていた。翌月、妻は妊娠し、男子を得たが、産婆を招いて取り上げさせると、産婆は妻に一着の古着を謝礼として求めた。妻は言った。「わたしは床を下れませんから、自分で箪笥から一着取っていってください。」産婆は箪笥を開けると、まさに銀を見たので、こっそりその五つを盗んで去った。翌日、その夫が帰り、銀を調べると、その半分が失われていたので、妻は産婆が盗んだことに気づいた。三日目、産婆は洗児[186]のために来、銀を要求したが承諾しなかったので、口論するに到った。産婆が怨みを抱き、ひそかに小さい針を子の生え際に刺しこむと、子は泣いてやまず、その後、気息奄奄としたので、妻はたいへん憤って縊れたが、さいわい隣家の女がいそいで救ったので蘇った。その日、天気は晴れて明るかったが、たちまち陰雲が四方から集まってきた。雷電が次々に起こると、産婆某は門の外に跪き、手に洋銀五元、針一本を取り、「わたしは本当に某の洋銀を盗み、針を子供のひよめきに刺し込むべきではございませんでした。今抜いて生かせます。」と言い、話が終わると、結局外で撃ち殺された。そこで、そのことを喧伝し、県庁の下役に伝え、隣人によって県に知らせ、納棺埋葬した。その時の県知事は、浦城の劉宝樹(鐘h)で、三十年前、家大人が教職にあった時の元生徒であった。これは道光二十四年夏の事であった。その冬、宝樹は引退帰郷し、その詳細を聞くことができた。宝樹はさらに言った。平陽県某氏がおり、兄弟二人は、家はたいへん豊かであったが兄嫁と弟嫁は親しくしていなかった。兄嫁は子がいたが弟嫁は出産しておらず、年が四旬(よそじ)になると孕んだが、まもなく夫を失った。兄嫁は弟嫁が男子を生んでその財産を分けることを恐れ、そのことを産婆某に相談して言った。「女ならば生かし、男なら殺しておくれ。洋銀十二元を謝礼にしよう。」産むと、男であったので、産婆某は臍の緒を切った時、手の指を子の臍に押し込み、すぐに死なせた。妊婦は子が死んだことを悲しみ、自経した。財産を得るためすぐに二人の命を殺し、産婆の手を借りたが、本当は某兄嫁が殺したのであった。晩になると雷電が次々に起こり、産婆某と某兄嫁は同時に雷に撃たれた。天は二人の命で二人の命を償い、天の報いが外れないことはこのようであった。だとすれば平陽の産婆はたいへん恐ろしいことである。これは二十四年七月十四日のことであった。

 

◎劉家の陰徳

 

劉士可封翁は、宝樹[187]の高祖で、善行を楽しみ、施捨を好んでいたが、つねにそのことを隠し、人に知らせようとしなかった。年末に誠実なしもべを遣わし、あまねく陋巷を巡らせ、よその家の、差し迫って解決できないことの有無を探らせたことがあった。おりしも某甲は某乙に負債があったため、甲はそれを妻に相談し、妻を売って償おうとしていた。妻は幼子を抱き、終夜泣き、たいへん悲しげであった。しもべは帰ってそのことを告げた[188]。翌晩三十両を封にし、しもべに命じ、偽ってそのを叩かせ、金をその中に抛たせた。某甲は戸を開き、金を見ると、しもべはすでに遠く去っていた。そのため夫妻はふたたび一緒になれ、債務を償ったほか、さらに十余両あったので、それで生計を立てたという。平生していたことは、おおむねこのようであった。後にその子爽斎(廷桿)[189]、箬村(廷梧)[190]兄弟は、相次いで賢書に登り、箬村は聯捷して進士となり、刑部郎に選ばれた。孫の雪堂[191]は進士から詞垣[192]に入り、慧生、雲光はさらに相次いで賢書に登り、浦城の豪族となった。さらに、その子淡庵明経(源遠)も、苦しみを救い、危うきを救うことを務めとしていた。年末になるたびに、通年の年貢米や入って来た金を、中に端数があれば、多寡軽重に関わらず、別に一つの大皿を置き、臘月二十三夜に竈を祭るのを待ち、貯えてあった金で神に黙祷し、貧民を救う意思を明らかにした。竈を祭り終わると、百余の包みに分け、それぞれ二三両ほどを包み、紙でかたく封じ、往来する通行人で、困窮し、年越しするすべがないものがいるのを窺い見れば、包みをひそかに外に抛った。拾ったものには金を見ると、持って来て尋ねるものがいたが、つねにそんなことは知らないと答えた。それを行うこと二十余年、全県が周知するに到った。そもそも士可翁の家の教えを恪守したのであった。今、宝樹は孝廉で浙江の東西で知事を歴任しており、興隆してやむことがない。

 

最終更新日:2018222

北東園筆録

中国文学

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[1]http://www.zdic.net/c/f/84/141721.htm星相士が用いる占卜の具

[2]金氏を指す。

[3]http://baike.baidu.com/view/1117410.htm

[4]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%B1%E4%BD%9C%E5%B1%8F

[5]http://www.zdic.net/c/0/fb/264671.htm官吏が授した後、経歴に従って順番に任せられること

[6]http://www.zdic.net/c/f/15/33031.htm祝寿の文章。

[7]未詳

[8]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE7ZdicA6Zdic8F226064.htm福徳が集まる場所。

[9]http://www.zdic.net/c/1/17/36967.htm繁忙な官

[10]http://www.zdic.net/c/0/11/27665.htm公章を押した文書。

[11]原文「非公用印文開遞不可。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[12]http://www.zdic.net/c/9/37/84573.htmあるいは関連部批復した文字あるいは文書

[13]こちら「僧家の衣食、資財。」とあるが、要は「衣食、資財。」のことであろう。

[14]未詳

[15]http://baike.baidu.com/subview/28415/5089165.htm

[16]http://www.zdic.net/c/1/13e/308035.htm合格者

[17]未詳

[18]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%98%A5%E7%9C%8C

[19]http://www.zdic.net/c/0/30/74635.htm五品以上の官及びその先代と妻室に対して皇帝の命によって封典を授予すること

[20]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=160906&searchu=%E5%BB%96%E6%B0%8F%E9%99%B0%E5%BE%B7

[21]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%96%E9%B4%BB%E8%8D%83工部尚書。

[22]廖ト夫。最初間接話法だったのが直接話法になっている。

[23]出典未詳。

[24]こちらに引用されている『孟子』が出典。

[25]漆室春秋の邑名。公の漆室女は、柱に倚って、国を民をえたという少女http://ctext.org/lie-nv-zhuan/zh?searchu=%E6%BC%86%E5%AE%A4%E5%A5%B3

[26]原文「不再傳而以科第起家」。「不再傳」が未詳。とりあえずこう訳す。

[27]http://www.zdic.net/c/a/a8/199848.htm冠簪と纓帯。官顕貴、仕宦の喩え

[28]未詳。

[29]http://www.zdic.net/c/5/149/321969.htmhttp://www.zdic.net/c/5/6b/103356.htm

[30]http://www.zdic.net/c/8/3/6929.htm表兄弟の息子。

[31]http://www.zdic.net/c/1/70/110028.htm君火。http://big5.wiki8.com/junhuo_12962/心火http://big5.wiki8.com/xinhuo_2047/病症名。心が熱し火が旺んな病変。

[32]漢典に適切な語釈なし。医学用語のように思われるが未詳。

[33]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E7%A5%96%E6%B4%9B

[34]http://www.zdic.net/c/6/11/28469.htm督。

[35]http://www.zdic.net/c/1/10/26160.htm黒白倒し、人の財ったり、人を罪に陥れたりする訴訟

[36]http://www.zdic.net/c/6/f4/253929.htm官吏が上官署に報告する文

[37]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E5%84%BF%E5%BA%84%E5%8C%BA

[38]http://www.gg-art.com/dictionary/dcontent_b.php?bookid=33&name=%A4%D1&columns=2&bookdetailid=6132

[39]未詳

[40]http://baike.baidu.com/view/3469988.htm

[41]http://www.zdic.net/c/3/10f/294361.htm河道

[42]原文「壁間有顧見亭河帥碑」。「顧見亭」は未詳。「顧」は衍字か。見亭という号の河帥なら、麟慶かと思われる。

[43]http://www.zdic.net/cd/ci/18/ZdicE9ZdicB3Zdic8F61602.htm鱤魚http://www.zdic.net/z/29/js/9CE1.htm身体は大、性質は凶暴で、その他の魚類捕食し、淡水養殖対して有害。大型で上等の食用「黄とも称する。画像検索結果

[44]http://www.zdic.net/c/2/e6/231831.htm遅鈍さま

[45]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B7%9E%E5%B8%82

[46]http://www.zdic.net/c/9/3/5793.htm道教で信奉される神。天官、地官、水官三帝の合称。

[47]http://zh.wikipedia.org/wiki/1841%E5%B9%B4

[48]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%9E%E6%B5%A6%E5%8E%BF

[49]http://www.zdic.net/c/1/fd/267772.htm糧の会政の管理。ここでは経理担当の幕僚のこと。

[50]未詳

[51]http://www.zdic.net/c/6/38/88305.htm騒ぐ

[52]漢典に適切な語釈なし。神の誕生日であろう。

[53]旅客を指していると解す。

[54]原文「我本不開船、而渠等必欲行、若不將全船覆在海中、亦不見我舵工手段。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[55]漢典に適切な語釈なし。捐例に同じいと思われる。金を払って国子監生の肩書きを買うのであろう。

[56]http://zh.wikipedia.org/wiki/1839%E5%B9%B4この年に行われたのは郷試。

[57]http://www.zdic.net/c/3/e6/230298.htm受験生が、文具、食物を入れる提

[58]http://baike.baidu.com/view/104613.htm

[59]原文「火枝」。未詳。とりあえずこう訳す。おそらく小型の松明であろう。

[60]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8ZdicB4ZdicB8340127.htm目が眩むさま。

[61]http://www.zdic.net/c/9/1c/43442.htm死者に供える菜。

[62]http://www.zdic.net/c/6/1e/48737.htm物主の所有買い方に移転し、買い戻しできないこと。

[63]http://www.zdic.net/c/6/107/280180.htm清代するための画像検索結果 

[64]http://baike.baidu.com/view/104613.htm

[65]原注参照。茶廂で働く者であろう。

[66]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%92%8C%E5%8E%BF

[67]http://www.zdic.net/c/2/db/215219.htm正房の前両脇の房屋

[68]http://www.zdic.net/c/7/23/55156.htm銅銭普通の銅銭より大きく、価値も普通の銅銭より高い。

[69]http://www.zdic.net/c/c/107/282153.htm楼房の二層の隔

[70]http://baike.baidu.com/view/2470795.htm

[71]原文「道在是矣。」。グーグル検索結果

[72]原文「勿悲、此討債者、債償自死」。「死んだ子供は実は(前世の)債権者で、債権を取り立てて(=今まで世話してもらって)自然に死んだのだ。」という趣旨。

[73]http://www.zdic.net/c/7/98/172646.htm童生の称。秀才の試験に応じる士人。儒童とも称する。

[74]未詳だが、合格者を報告することであろう。

[75]http://www.zdic.net/c/8/3/5369.htm・府および院の首席。

[76]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E4%BA%B2#.E5.A0.82.E5.8F.94

[77]http://www.baike.com/wiki/%E8%BE%BE%E9%BA%9F

[78]原文「渠之打銀、非猶夫人之打銀也。」。「夫人」が未詳。誤字か。

[79]浦城。

[80]http://www.zdic.net/cd/ci/18/ZdicE7Zdic9EZdicBF178100.htmのさま。驚喜のさま、驚悟のさま。

[81]http://www.zdic.net/c/b/142/311942.htm下等なものということであろう。

[82]主語は「子供」。

[83]http://www.zdic.net/c/6/14a/323796.htm杭州

[84]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%80%99%E6%BD%AE%E9%97%A8

[85]未詳。文脈からして施餓鬼会のようなものか。漢典に適切な語釈なし。

[86]未詳だが、棺の周囲に薪を積み重ねたものであろう。

[87]http://baike.baidu.com/view/287861.htm

[88]『北東園筆録』の出現例

[89]http://www.zdic.net/c/0/142/311521.htm生員

[90]http://www.zdic.net/c/a/3e/95184.htm科挙の試験場

[91]「耿」「哽」は同音。

[92]これは、役所の中で、声の主を探したのであろう。

[93]さんずいの字だが未詳。

[94]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8Zdic8CZdic82234909.htm生員

[95]http://baike.baidu.com/view/570001.htm

[96]漢典は宋代の制度だとするが、要は正規の要員以外に増派される要員のことであろう。

[97]http://www.zdic.net/c/2/e8/234323.htm慌しいさま。

[98]http://www.zdic.net/c/7/a7/195995.htm号子。http://www.zdic.net/c/7/151/334949.htm試験場で生答案作成・飲食宿泊する所。

[99]http://www.zdic.net/c/b/18/38821.htmR耀のさま。赫のさま、美盛のさま。

[100]http://www.zdic.net/z/17/xs/5880.htm上面の空地。台をも指す。

[101]http://www.zdic.net/c/4/9e/181534.htm懼戒慎のさま。

[102]http://www.zdic.net/c/3/2a/64331.htm恐懼戦慄のさま

[103] 原文同じ。未詳。幕府・幕僚のことか。

[104]漢典に適切な語釈がないと思われる。経理担当部門のことではないか。とりあえずそう解す。

[105]原文「蓋在嘉興縣幕司度支辨抄案」。「辨抄」が未詳。とりあえずこう訳す。税金未納の家に対して、役所が捜索・財産没収を行うものか。

[106]原文「抽減各佃欠冊」。未詳。とりあえずこう訳す。

[107]http://www.zdic.net/c/c/31/76397.htm力が大きく、善い事をし、人を救うことが容易であることをいう

[108]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%BE%8D

[109]http://www.zdic.net/c/d/10/25803.htm人の休憩宿泊に供する亭台舎。

[110]http://baike.baidu.com/view/767574.htm

[111]http://www.zdic.net/c/a/87/149211.htm南楚。楚が中原の南にあるので、かくいう。ここでは湖南のことであろう。

[112]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%8C%96%E5%8E%BF

[113]原文「則見絲繡盈門」。「絲繡」が未詳。とりあえず、こう訳す。漢典に適切な語釈なし。

[114]http://www.zdic.net/c/6/13e/307720.htm恐懼不安のさま

[115]画像検索結果

[116]http://www.zdic.net/c/c/e0/221968.htm按察使

[117]http://www.zdic.net/c/3/e8/234539.htm道台の役所

[118]http://www.zdic.net/c/a/3e/96837.htm官署・邸宅大内の第二の正

[119]http://www.zdic.net/c/2/a5/192549.htm蟒袍画像検索結果

[120]http://www.zdic.net/c/3/a6/195196.htm清代、功名等示す衣服と戴。功名をも指す。

[121]原文「親具衣冠送至簷下間廡間」。「間廡間」が未詳。一文字目の「間」は衍字か。

[122]原文「惡丐」。未詳。とりあえずこう訳す。

[123]原文「貨悖而入、亦悖而出」。http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E8%B2%A8%E6%82%96%E8%80%8C%E5%85%A5%E8%80%85%EF%BC%8C%E4%BA%A6%E6%82%96%E8%80%8C%E5%87%BA

[124]城隍廟の算盤:画像検索結果

[125]http://www.zdic.net/c/9/df/220156.htm画像検索結果

[126]http://www.zdic.net/c/5/93/166558.htm省悟のさま

[127]http://baike.baidu.com/view/590132.htm

[128]原文「如登向の切齒者、莫不感激」。「登」が未詳。衍字か。とりあえずこう訳す。

[129]グーグル検索結果

[130]http://baike.baidu.com/view/22723.htm?fromtitle=%E6%9E%9E%E9%98%B3&fromid=7209641&type=syn安徽省の県名。

[131]グーグル地図検索結果

[132]http://www.zdic.net/c/b/13e/306354.htm試験合格者の姓名掲示板に書くこと。

[133]http://www.zdic.net/c/2/fd/268661.htm学生が着る服。学生をも指す。

[134]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%98%B3%E5%8E%BF_(%E6%B8%85%E6%9C%9D)州府

[135]http://zh.wikipedia.org/wiki/1778%E5%B9%B4

[136]昆山縣の美称。玉山とも。

[137]武童生http://www.zdic.net/c/6/32/79263.htm武科生試験に応ずる

[138]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E6%98%8E%E5%8E%BF

[139]http://www.zdic.net/c/3/14a/324444.htm武官名。

[140]武庠生http://www.zdic.net/c/0/142/311521.htm武生員のこと。http://www.zdic.net/c/6/111/298748.htm明清代、本省試験府、州、学に入った武童生を、武生通称した。通称は武秀才。

[141]グーグル検索結果

[142]崑山県と新陽県。こちらによれば「雍正二年(1724年)、由于州府昆山人口、税繁多、分出其立新、両同城而治、同属于州府管。」とある。

[143]未詳。漢典にいう布政司・按察司の意ではもちろんないであろう。下級の吏員であろう。

[144]供招」h被疑者が供述すること。「供招吏」は後ろにも出て来、未詳だが、供述を取る吏員か。

[145]原文「令命火鐵燒極熾」。未詳。とりあえずこう訳す。

[146]http://www.zdic.net/c/5/da/212641.htm犯罪者を辺遠に送り、苦役に服させる刑

[147]未詳。漢典に適切な語釈なし。

[148]グーグル検索結果

[149]未詳。

[150]http://zh.wikipedia.org/wiki/1771%E5%B9%B4

[151]原文同じ。宿の主人のことであろう。

[152]地名と思われるが未詳。

[153]未詳。

[154]原文「祁里龍徳橋宿焉。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[155]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E5%B1%B1%E5%8C%BA_(%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E5%B8%82)

[156]ここかと思われる。

[157]http://baike.baidu.com/view/253641.htm

[158]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E7%BF%94%E9%95%87

[159]http://zh.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B5%A6%E4%B8%9C%E6%96%B0%E5%8C%BA&redirect=no

[160]http://baike.baidu.com/view/3598405.htm

[161]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%95%BF%E4%B9%90%E5%B8%82

[162]http://www.zdic.net/c/3/e/20668.htm雇われて人のために働く人

[163]http://baike.baidu.com/view/61381.htm

[164]http://www.zdic.net/c/1/77/121403.htmフェルト製の帽子。

[165]http://baike.baidu.com/view/270040.htm

[166]未詳。

[167]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicADZdicA478791.htm孤独無依の魂。

[168]http://www.zdic.net/c/f/da/214109.htm小考http://www.zdic.net/c/f/148/320035.htm 県試、学政府考の俗称。

[169]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE9Zdic82Zdic91245023.htm県令

[170]http://www.zdic.net/c/b/a6/193147.htm郷試合格

[171]http://baike.baidu.com/view/104613.htm

[172]原文同じ。未詳だが、一青衿、一秀才のことであろう。

[173]原文「患童試遇雨之苦」。未詳。とりあえずこう訳す。

[174]http://www.zdic.net/c/6/7d/130468.htm学政。http://www.zdic.net/c/6/7d/130474.htm提督学政

[175]未詳だが、試験が行われる建物であろう。

[176]http://zh.wikipedia.org/wiki/1826%E5%B9%B4

[177]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%B3%E5%B9%B3%E5%B8%82

[178]漢典に適切な語釈なし。奎文のことであろう。http://baike.baidu.com/view/58265.htm奎星、魁星、文昌などともいう。魁星は文章の興廃を主宰する神。

[179]http://www.zdic.net/c/3/13e/307999.htm代表者。

[180]一八三九年。

[181]http://www.zdic.net/c/1/ee/244220.htm郷試合格者名簿

[182]一八四〇年。

[183]http://zh.wikipedia.org/wiki/1842%E5%B9%B4

[184]http://www.zdic.net/c/b/13e/307128.htm恐れによって話そうとしないこと。

[185]http://baike.baidu.com/view/7009651.htm

[186]http://www.zdic.net/c/7/2/3198.htm嬰児出生後三日あるいは一か月の身を洗ってやること

[187]グーグル検索結果

[188]原文「僕婦以告」。「婦」は「歸」の誤字であろう。

[189]未詳。

[190]グーグル検索結果

[191]後ろにあるように、進士になった人なので調べがつきそうだが未詳。

[192]http://www.zdic.net/c/d/f4/252729.htm翰林院

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