●巻三

 

◎会場の悪報

 

呉中の某生は、年が十二で学校に入り、十六で郷試に合格し、才貌ともに優れ、人々に慕われていた。某富豪の婿となり、その次女の婿と同じ館で勉強した。次女の婿は、年は十五で、姿が美しく、さながら璧人[1]のようであった。某は酒席で話す時、つねにかれをからかい、かれは心のなかでたいへん怒りを抱いていたが、父母が尊重していたので、その都度我慢していた。某生は誘惑できると思い、ある晩、かれが酔って臥しているのに乗じ、裸になって淫した。目ざめると、かれは恥じ怒り、天台[2]に逃げてゆき、剃髪して僧となった。家人が探しあてても、死を誓って帰ろうとしなかった。まもなく、寺で円寂した。後に父母はそのわけを知ったが、みずからの体面を惜しみ、やはりこのことを放置した。某生は会試の試験場で、たちまち連襟[3]の婿が館を同じくしていた時のようにしているのを見、たいへん喜び、かれが死んだことを忘れ、またふざけて言った。「弥子[4]の妻は子路の妻と、兄弟なり[5]。」そして前の二語を答案に大書した。後にしばしば受験するとかれを見、三場[6]を終えたことがなかった。若年で合格したため年が強仕[7]になったばかりで、すでに知県に選任されていたが、報せが来ると、たちまち癲癇となって死んだ。

 

◎怨みを訴える霊

 

衡水[8]の某婦人に、豪族と通じて夫を謀殺したものがいた。死人のおいが告発したが、豪族は検屍人に賂した。検屍したところ、傷はなかったので、かえって誣告罪に問うた。しかしさらに訴えたので、廉訪は某知事ケ公に、いって調べることを委ねた。何度も調べたが、やはり証拠がなかった。夜、官舎に泊まり、供述書を閲し、考えていたところ、真夜中となり、従者たちはすべて鼾をかいて寝てしまった。にわかに燭光が黯淡とし、陰風が窣律[9]としているのを感じた。壁の角では、一人の男がにわかに進み、にわかに退き、たちまち(つくえ)の下に跪き、かすかに啜り泣きの声を出し、頼みごとがあるかのようにした。公は心がぞっとし、口を噤み、精神を凝らしてじっくり見、昼間に見た屍であることを悟った。屍は、右の耳元に一物を垂らしており、白い(ねりぎぬ)のようであったので、はっと悟り、大声で言った。「おまえは去れ。かならずおまえの怨みを雪ごう。」その幽鬼は叩頭して消え、燭もにわかに明るくなった。そこで手紙を書き、衡水の尹を迎えて検屍官を督責し、また検屍所にいって調べさせることにした。衡水の尹は笑った。「人はケ公が書痴だというが、本当に嘘ではなかった。知事となって十年、家にわずかな貯蓄もなく、その才能は想像がつく。このような案件を、どうして本官が処理できようか。」しぶしぶまたいった。ケが怒鳴って右耳の孔を調べさせると、検屍人はすぐに色を失い、耳の中から水で湿った綿、重さは約半斤のものを取り出したので、衡水の尹に告げた。「これが奸夫淫婦の志を得たゆえんだ。」そこで拷問したところ、前後の罪状がすべて知れたので、処刑した。

 

◎転生して徳に報いること

 

顧小韓布政使(学潮)[10]が言った。楊乗時(溥)は、無錫の諸生で、文名は県に冠絶していた。しかし、しばしば受験してもかならず落第していた。年が五十を過ぎても、男子は生まれず、閨房に五人の娘がいるばかりであったので、妾を娶った。娶った日、賓客は宴し、賀するものは散じなかった。主人が部屋に入ると、新婦鏡台のほとりで嗚咽しており[11]、慰めてもやまなかったので、その由来を質すと、こう言った。「思えば父が南潯[12]の通判をしていました時、多くの妾を置いたことがございましたが、後に母はかれらを許さず、鞭うちはたいへん激しく、追い出された後、ひどい場合は、娼婦となった者がいました。父は聞いて忍びず、蒼頭[13]に金を持たせ、嫁がせて下僕の妻とならせたり、空門に送ったりしました。今、不幸にして父と兄はともに貴州に駐在し、母と妹は若くして亡くなり、異郷で一人でいましたところ、媒妁に奇貨とせられ、あなたに侍することになりました。今のことから昔のことを思いますと、思わず悲しみが心の中に起こったのです。」楊はそのため泫然[14]とし、こう言った。「泣くな。わたしの先祖の祭祀は存続する運命にあるが、役人の家の娘を妾[15]にするに忍びない。わたしの娘になれ。一人のよい婿を選んでやろう。」女は再拝したので、娘たちと寝るように命じると、姉妹たちについていった。楊はおもてに出ると客に言った。「ひとまずお留まりください。はからずも今夜また一人の娘を得ましたので、さらに湯餅会[16]をなさってください。」くわしく前のことを述べると、客たちはかれの盛徳を讃えた。翌年、夫人は一子を挙げた。お産の際、公は堂上に坐していたが、ふと見ると二人の隷卒が一人の官員を導いて進んで来、迎えようとしていると、官員はにわかに奥の間に走り、二人の隷卒とともに見えなくなった。その容貌を窺うと、女はひどくその父に似ていると言った。公は年が九十あまりで亡くなり、子は名孝廉となり、婿たちはともに貴顕となり、義女の婿も後に役人となり、公に[17]し、中憲大夫[18]とした。

 

◎幽鬼を見ること

 

乾隆年間、京師に役人の家の子がおり、年は十六七で、聡明秀麗であった。賽社会[19]の劇に出くわし、しらぬまに夜が更けたので、途中民家で飲みものを求めた。その家には若い娘だけがいたが、すぐに留めてしばらく坐し、流し目し、その夫が役所の仕事で外出しており、翌日帰ると言った。男は優しく女は艶やかだったので、歓合し、ゆくに臨んで金の腕輪を贈り、泣いて後にまた来ないようにと頼んだ。翌日、釧を見ると、緑青に覆われており、土中から出たようであった。思って忘れず、またその地にいったが、家はなかったので、徘徊して探してみた。するとにわかに乱れた髯の黒い幽鬼が、頬を打ち、はげしく罵ったので、よろよろと走って帰った。幽鬼もついて帰ったので、発狂してうわごとを言い、以前の事情を述べた。父母は墓にゆき、供物を設け、釧を埋めると、その子はたちまち瞑目して言った。「女房が釧をなくしたので、ほかにわけがあるかと疑ったが、確証がなかった。鞭で責めただけで売りはらったが、今おまえが釧を返しにきたので、おまえに誘われたことが分かった。これは何ごとだ。酒食銭帛で謝罪できようか。」顛癇となること二月、結局助からなかった。諺に「奸は殺に近し」というが、穴を穿ち塀を越えることは[20]、本当に命と引き換えなのである。幽冥の奇遇であるが、禍もまたこのようであるから、慎まぬことができようか。

 

◎仙桃草が傷を治すこと

 

徽州の人の汪徳隆は、父に殴られて重傷となり、奄奄として死にそうになった。深夜医者を探し、山路で迷ったが、見ると路傍の茅舎に一人の老人が坐していたので、近づいて道を尋ね、さらに事情を告げた。老人は薬一包みを出して与え、言った。「水で解いて服せば、医者はいらない。」それがどんな薬かと尋ねると、言った。「名は仙桃草といい、その草は四月に麦畑ではびこり、葉は緑、茎は赤く、実は大きさは(はじかみ)のようで、形は桃のようで、中に一匹の小さい虫がいるのがそれだ。小暑節の十五日のうちにとり、時期に先だてば虫が生じず、時期に遅れれば虫がとび出した。出ないうちに採り、炙り乾かし研いで粉にし、磁器に貯え、一切の転んだり打ったりした傷は、一二銭を服せば、起死回生することができる。」そこで道案内し、大通りに送ってゆき、月光を頼りに家に帰り、服するとすぐに治った。一日後、ブタと酒を買っていって報いようとしたが、ゆくと壇壟(はか)があるばかりで、茅舎はなく、墳の前で礼拝祭祀して帰った。幽鬼がかれの孝を憐れんだか。それとも善を好み、人を救い、死ぬまで倦まなかったか。

 

◎殺生の果報

 

乾隆末年、蘇州で飛ぶ虫が夜に人を傷つけることがにわかに噂され、たがいに警戒し、譙鼓[21]が鳴らないうちから、家々は戸を閉ざしていた。子供は莎鶏[22]蛋蛾[23]を見ると、かならず嗷然[24]と泣くのであった。その後、絵図が回覧されると、好事家は射工[25]とし、妖は人によって起こる[26]と指摘した。鸝坊[27]に張老婆というものがおり、寡婦で、妾の忘れがたみを守り、時に十歳、カマキリを見、癲癇となって死んだ。老婆は悵悵とし、日々カマキリを買い、槌で殺して祭っていた。ある日、カマキリ千百を買って籠に貯えていると、突然籠の中子の泣き声がしたので、老婆が驚き、籠を開けてじっくり見ると、たちまち子が姿を現して言った。「母さんはカマキリを殺さないでください、冥府はぼくが虫を殺すのを好んでいたので生命を傷いましたが、今母さんはぼくのために、さらにカマキリを殺して一万匹になりました。罪業は深く重いので、ぼくは罰せられてカマキリに五百劫化するのです。」そういうと、衣をいて、大声で哭いた。老婆が撫でると、一匹のカマキリが衣におり、首を傾けて凝視しているだけであった。

 

◎人を腐すこと

 

長洲の蒋鏡斎(溶)秀才は、日々性理を講じ、侃侃[28]硜硜[29]として、一言も人に阿らなかった。その書斎は河に臨んでおり、隣には少女が水を隔てて住んでいたが、嫌疑を避けようとし、斎の窓は終年閉ざし、炎熱で[30]蒸し暑くても、けっして開かなかった。ある同学がその紙を弾いて破り、窺おうとすると、すぐに頬を赤くし、罵倒した。年が二十余りで病死した。それより前、郡の武廟[31]の文昌閣[32]が惜字社[33]を結成し、士人たちが資金を差し出し、人夫を雇い、あちこちで字の書かれた紙を拾い、毎月一日に、雑役夫が集めて焼いた。士人たちはみな集まって焼香し、それを利用して会合し、近作の文を出し、訂正しあうことがあった。鏡斎はいつも来たが、人々はかれが迂愚なので、問答することは少なかった。龔浩庭という者がおり、もっとも鏡斎を否定し、つねに軽侮していた。鏡斎は怒ったが、期期[34]艾艾[35]として、一言も言い返さなかったので、人々はそのために嘩然[36]として笑って散じた。鏡斎が死ぬと、ある友人が社で、鏡斎は人となりが迂濶で時宜に合わなかったが、みずからは悪を為さなかった、人々がみなあのようであれば、幽冥は地獄を設けないことができると言った。すると浩庭が言った。「無間地獄はまさにああした輩のために設けられているのだ。かれは河の向かいに少女がいたので、終年窓を閉ざしていたが、みずからその邪念が萌すのを抑えていたのではない。私通して同輩に見られることを恥じていたのかも知れない。」さらに語ろうとしたが、たちまち顔色が土のようになり、空に向かってお辞儀し、膝を屈し、喃喃として罪を認め、惘惘として痴呆のようになった。呉の民間では、祟りに遭った時は、その頬を打てば蘇ることができると言われているので、人々が競って打ったところ、両顴は赤く腫れ、しばらくしてはじめて収まり、人々に告げた。「たちまち蒋鏡斎が現れ、わたしが隣の娘と私通したと嘘をついたと言い、むりに引いてゆき、文帝[37]のもとにゆこうとした[38]。わたしは再三自分が悪いとしたので、さいわいかれはすぐに手を放したが。引いてゆかれれば、命はおしまいだった。」

 

◎廩餼[39]を受けること

 

華亭の姜小枚([40]がわたしに告げたことがあった。「わたしの郷里の諸生に諸雪堂、趙漁塘という者がおり、いずれも古を好み、学に励み、学校で名を等しくしていた。ある日、ともに科試[41]に応じ、雪堂が夜に夢みたところ、漁塘が一隻の米を載せた舟を操って来た。雪堂は自分の米だと思い、呼ぶと、漁塘は言った。『あなたの米はまだ後ろにある。』目ざめたが、わけが分からなかった。まもなく、合格発表があり、招覆[42]は四人で、雪堂はそれに与ったが、翌日落とされ、漁塘がその空きを補い、漁塘が廩生となった。雪塘[43]は言った。『ああ、わたしは廩生になることを望まない。』十余年後、雪堂は科試ではじめて上位に列なり、時に漁塘は歳貢[44]により廩生でなくなったので、雪堂がそれを補った。夢の兆ははじめてすべて事実となったが、廩生となることに関わる運命は、このようなものであった。古人が『一飲一啄は、すべて前もって定められている』[45]と言ったのは、本当である。」家大人は言った。「天府[46]の粟は、幸いにして得られるものでない。占い師が言うのを聞いたことがあるが、八字の中に天厨星[47]というものがあれば、かならず廩餼を食み、調べると、まったく間違っていないそうである。わたしの八字には確かに天厨星があるが、補廩[48]を経ずにすぐに賢書に登った[49]。そのことを占い師に尋ねたが、みなみずからその説を開陳することができなかった。しかしわたしはひそかに思った。ただちに枢廷[50]に入り、日々大官の膳に飽き、客食[51]の頒布を受けたが、もしや天厨星が運命を照らしていれば、区区たる廩餼なども言うに足らないのではあるまいかと。だとすれば、占い師はもとより見ることがここにまで及んでいなかったのだ、その説がすべて間違っているとすることはできない。」

 

◎孝行な嫁

 

紹興山陰県双奔地方[52]に祝姓のものがおり、年は六十余で、やもお暮らしし、家に寡婦となった嫁と忘れ形見の孫がいた。後に孫も死に、舅と嫁二人がいるだけとなった。嫁はいたって孝であったが、多病であり、舅も心痛で、病臥していた。家には門番がいず、孤独で頼るものがなかった。嫁はたいへん悲しみ、その妹の家に迎えて来、代わって働き、瑣事を処理し、代わってその舅を世話した。妹は年がわずか十六で、姉の命に従い、やはりたいへんまめまめしくした。姉は日々舅の病が癒え難いことを憂え、妹は言った。「お舅さまはご病気でも大丈夫です。精力はまだ健やかですから、将来後継ぎを望めましょう。」姉がそのわけを質すと、妹は言った。「いつも灰桶に小便を入れますが、お舅さまはまっすぐに桶の底を衝く力があるようです。それを父に知らせますと『老人は小便に力があり、まっすぐに衝き、散じなければ、まだ子を生むことができる』と言いました。ですから分かるのです。」姉は話を聞くとたいへん喜び、日々舅の病が癒えることを望んだが、再婚する力がないことを憂えた。そして、妹が朝晩舅を世話して左右を離れないから、その妹を舅の後妻としてはどうかと考え、妹を奉って姑とし、祝家のために子孫を産ませることを願ったが、妹の意がどうであるか分からなかった。ひそかに妹に相談すると、妹もさほど断らず、姉さんの命に従いますとだけ言った。姉はたいへん喜び、舅の病が癒えるのを待ち、父母に相談し、決定しようとした。その後、舅は病が癒え、妹も家に帰り、姉はすぐに帰り、その父母に告げたが、父は輩行[53]・年齢がいずれも釣り合わぬことを理由に、たいへん難色を示した。姉は再三言い、父は妹に願うかを尋ねた。妹は言った。「お父さまの命に従いましょう。」父はその願いが真実から出ているのを見、さらに姉妹がともにいることができるので、やはりすぐに承諾した。姉が帰ってその舅に告げると、やはり欣然と楽しんで従った。そこで媒妁を迎え、話を通じ、輿入れし、結婚して数年で、つづけて三子を挙げ、みな書物を読み、学校に入り、名を成した。舅は年九十余で亡くなり、今でも書香は絶えず、子孫は繁栄している。人々は孝行な嫁が天徳に感通し、祝家の血脈を延ばしたのだと思った。

 

◎人を損ない己を益すること

 

桐城[54]の光孝廉某は、排行が五で、古塘[55]の馬家の玉屏庵の近くに葬地を定めた。地は方家の墳墓に隣していたが、風水師は言った。「この地に葬れば、大きい墳があるものの家に不吉で、その家はかならず絶えてしまいますから、改めて卜すればようございましょう。」光は言った。「わたしが吉であることだけを望み、よそさまが絶えるか絶えないかは問題にすることはない。」そして葬った。方家は二代寡婦暮らしし、一人息子がいるばかり、年は十五であったが、数か月足らずで夭死した。死のうとする時、叫んだ。「わたしは死にますが、けっして光五を許しません。」その時光は城内おり、その親戚は李宅に寓していたが、昼間に小便しに出、ながいこと帰らなかった。そのしもべが訝って覗くと、喃喃と語り、葬地のことを弁じているかのようであった。驚き、部屋に入り、いそいで人々に告げた。見にゆけば、すでに地に倒れて絶命していた。弟がおり、浙江龍泉の役所に遊幕[56]していたが、半年足らずでやはり亡くなった。このことは親戚の何氏が先に唆したのであったが、一年で何氏の息子も亡くなった。一念の過ちが、かくもたいへんなことになったものであり、人は直情径行できようか。

 

◎冥土で働くこと

 

『竹葉亭雑記』にいう。郭孝廉汪燦は、湘潭の人、嘉慶甲戌[57]の進士[58]で、本姓を汪といい、本姓を加え、郭汪燦といった。みずから言うには、合格する前、冥土で働いていたことがあったが、各館の奉仕しているもののようであった[59]。その家は広々として高く大きく、中に長案(ながづくえ)を設け、人々が列座し、考棚[60]の童生が受験しているかのようであった。所司[61]の帳簿はたいへん大きく、すべて毛頭紙[62]で装呈され、頁は三段に分けられ、上にその人の生前の衣禄[63]を注し、中にその人の善悪を注し、下にその人の結末および寿命を注していた。その人によくない思いがあろうとすれば、かならず人が小さい紙を持って報せに来るので、すぐに帳簿に書き、日を閲して悔い改めれば、また報せに来るので、すぐに取り消すのであった。事は煩雑で、日々暇がなかった。所在地はある大きな役所から遠くなかったが、何の官職、何の役所であるか分からなかった。ある日、一人の男が階下に跪き、上座に着いているものが数語で判決し、すぐにその足を切るように命じたところ、獄卒はすぐに足を切り、ふたたび盤に乗せ、堂上に献じた。郭が驚いていると、さらにかれの同窓の某も階に跪き、聞くとやはり足を斬る命令があるとのことであった。郭があたふたと窓を越えて進み、堂上に跪き、叩頭して許しを求めると、上座に着いているものは言った。「これは冥土の刑罰で、その人は人の世では一転びして怪我するに過ぎず、死なない。」郭がつよく求めてやると、上座に着いているものは言った。「すでに命を奉じているので逆らえない。」郭が何度も叩頭すると、上座に着いているものは言った。「おまえの一念が誠実であることに免じて、許そう。」「さきほど『命を奉じているので逆らえない』と仰ったのに、どうしてでしょうか。」上座に着いているものは言った。「至誠が感通すれば、奏請してやることができるから、許しを受けるはずだ。」そこで下役に命じ、冊子を取らせ、かれに示させたが、下役はあやまって三品の冊子を進めた[64]。その冊子は水紅[65]の綾の表面であった。郭がいそいでこっそり閲したところ、かれの旧友の子がその中に名を列ねており、「十九歳学校に入り、提督学院は××、文題、詩題は××、二十二歳で××位に合格し、正考、副考、房考は××、文題は××。」と注せられていた。考官は姓を載せてあるだけで、名がなかった。上座に着いているものは下役が誤って与えたことを怒り、いそいで取り、郭は目ざめた。この子はちょうど二歳であったが、科名に定めがあること、文題および××試験官の下で合格することは、やはり前もって定められていることが分かり、妄想するものは自省することを知るべきである。郭はさらに言った。以前、とある場所で、宮殿が巍然としており、人々は文昌宮と称していた。庚午の五月某日、宮中で議論が紛然とし、しばらくすると散会した。同僚が宮殿から出て来たので、かれに尋ねると、言った。「この合格者名簿の第三位に換えるだけだ[66]。」そのわけを尋ねると、言った。「調べ出したところ、この子は八歳時、遊びを好んだために、その祖父の怒りに触れ、鞭うたれようとした時、走って逃げました。かれの父が追い付き、地面に押さえ、かれの背に乗り、祖父に鞭うたせようとしました[67]が、急に躍り上がり、その父を転ばせたのです。」郭は外から大声で言った。「八歳では何も分からず、打たれるのを避けたり、その父親を推して転ばせたりしたのも、無心から出たことだ。無知無心なのにその罪を咎めるのか。」その人は言った。「相談していたのはまさにそのことなのです。そのために一科を遅らせるだけだったのです。さもなければすでに落とされていたでしょう。」郭は夢の中で、見聞きすることがあるたび、目ざめると、かならず灯を掻き立てて記し、箱の中に鎖し、久しく蓄積して書物にし、刊刻して世を励まそうとした。後に多弁であるために冥官に追われ、記録を刊刻しようとし、開いて見ると、一つも残っているものがなかった。鍵は元のままだったので、その紙がどこから失われたかは分からなかった。

 

◎科名[68]が前もって定められていること

 

科名には定めがあり、さいわい得るのは、すべてコネによるとは限らないし、まったく得られないのは、すべて天命に安んじられる。聞いたことがあるが、姚伯昂先生[69]はよく因果を語り、さらに人のために場屋の近聞を述べることを好んでいたが、もっとも世を戒めることができる。みずから言うには、嘉慶戊辰[70]、命を奉り、陝甘を典試したそうである。その時、程小鶴同年の長子が副考官となった、小鶴の父君鶴樵先生国仁[71]は、昨年丁卯科で陜西の正考官に当たっていたので、父子が連続して一省を典試したのは、やはり佳話であった。合格発表があると、張樹徳という者がおり、上科[72]の文は基準に合っていたので、上梓せられたが、二場で基準に合っていなかったので落ちた。鶴樵先生はかれの文を好み、刊刻すると、それを除くに忍びず、評語を加えてやり、同情を記した。翌年になると、合格した。そもそも張は鶴樵先生のもとで合格するべきでなく、かならず小鶴を待って後に合格するものだったのであり、科名が運命に関わっているのは本当であった。合格発表があると会いに来たが、話が終わると爽然[73]とした。

さらに言った。九江府の李孝廉標は鬚髯が多く、及第する前、夢の中で合格掲示板を見たところ、『第十四名李標』と大書してあったので、欣然として合格したと思った。名の下に小さい字があり、じっくり見ると、『無須(もちゐるなし)』と注してあったので、懼然[74]として別の人であると思った。しばしば受験したが及第せず、道光辛巳[75]の春、夢みたところ、かれの父親が示して言った。「おまえの鬚を剃れば、合格を得るはずだ。」しばらくするとさらに夢みたが、李はもともと鬚が多かった。年が五十を越え、剃ろうとしたが、人に笑われるのを恐れ、剃らなかった。秋になると、舟に乗り、省城に入ったが、舟中に硫黄売る人がおり包みを開いて中を見ていた。李はまさに傍らにおり、煙草の火を硫黄の中に落としたため、灼然として焼け尽くし、李の鬚は一本も残るものがなく、まさに「鬚のない李標」となった。合格発表があると、合格し、姓名と順位はすべて夢の通りであった[76]

さらに言った。「江西の辛巳の郷試で、第一位の、浮梁[77]の人であった。嘉慶辛酉の郷試に応じ、主司はおおいにかれの文を褒め、第一に選び、合格発表しようとしたが、突然その答案がなくなり、くまなく探したが見つからず、ある人に易えた。試験終了後、主司が行李を調べ、帳頂[78]で一つの答案を見つけたが[79]、はじめ第一に合格させた答案であった。そこでしばらく残念がった。それから試験はかならず不合格であった。二十年後、ふたたび解元を得た。冥土で試験場で善悪の行いの検査があったり、過失の科罰[80]があったりするのか。

さらに言った。「わたしの郷里の進士廷輝[81]は、棘闈[82]に苦しんでいたので、泰臨と名を変え、某年に金陵で受験したが、試験場を出るとすぐに、わたしの家の袖江先生[83]に会った。先生はもともと冗談好きだったので、呉に尋ねた。「お名前を変えられたそうですが、どんなお名前か仰ってください。」呉が告げると、瞿然[84]として言った。「八月になると凶事がございますから、及第なさりたければ、九月になろうとする時に試験場に入れられば利です。」郷試は八月に行われるのが慣例なので、かれが九月と言うのは、呉が結局及第できないことを言っていた。呉はたいへんその言葉を嫌に思い、さらにしばらくすると、ふたたび及第せず、北に来て順天試に応じた。おりしも嘉慶辛酉で都は洪水で、号舎は水に苦しんでいたので、上奏し、九月八日に試験場に入ることに改めたが、呉はその試験で合格した。一言の戯れが、ぴったりと讖をなしたが、もしやこれもひそかにそうさせているものがいるのか。

さらに言った。「わたしの郷里の葉孝廉佩珩[85]は、道光辛巳[86]に合格した後、とある日、夢みたところ、旌旗[87]で迎えるものがおり、肩輿[88]に坐し、輿の前には大きい燈を掛け、「山西絳州府正堂」の字が書かれていた。とある場所にゆくと、官署は厳かで、そもそも絳州府であった。そこで座に昇った。傍らには州同[89]の馬がおり、州判[90]の馬がおり、州同はかれと語らず、文書を呈し、報告していたのは、州判であった。葉は、家に老母がおり、世話する人がいないのに、どうしてにわかにこちらに来たかとひそかに思った。州判はそれを知っているかのようで、心配するな、すぐに帰る、用事があってしばらく往来しているだけだ、ここにずっといるのではないと告げた。葉は文書を見た当初、茫然として解せなかったが、州判がすこしくわしく話してやると、すぐに了解した。それから六日に一度ゆき、ゆく時はかならず肩輿、帰る時は退廷するとすぐに目ざめ、あいかわらず寝室であった。しかし大汗は雨のように落ち、にわかにひどい疲れを感じた。当初は目ざめると、かならず人に、判決した××は△△になったと言った。ある日、任に赴く時、鉄鎖を項に繋がれ、輿に坐し、座に登ってもそれを解かれなかったので、それからは恐れて人に告げようとしなかった[91]。壬午正月四日、着任すると、簿書の中に二つの冊子があり、白い冊子に黒字、黄の冊子に朱字、画諾[92]の後、そのことを州判に尋ねると、答えた。「これは春榜[93]の題名録だ。」それを見なかったことを悔いた。二十六日になり、また一冊に署名することを求められたが、冊子の外簽に「進士録」と書かれていた、葉が見ようとすると、州判はにわかに両手でその冊子を覆い、言った。「もともと調査を求めるはずだったが、天機があらかじめ漏れるのを恐れ、見ることを求めるわけにゆかない。」葉はその時すでに丁憂[94]であったので、「わたしの郷里に合格者がいますか」と尋ねた。州判は答えた。「小恒子が合格する。」葉は目ざめると、それを人に語ったが、同郷の計偕[95]名を恒というものがまったくいないことを訝った。あるひとは、方孝廉宝慶は幼名を恒というから、方だろうと言った。あるひとは、「恒を『小』と称しているから、後を継いだものについて言っているのだ[96]。わたしのめいの婿張子畏寅は、父の字を伊恒といい、子畏は恒の子だから、張だろう」と言った。合格発表があると、張が合格したので、その言葉は確かに験があった。葉が前の二冊を見ると、その白紙のものはそもそも会試の合格者名簿で、紙のものはそもそも殿試の合格者名簿であった。だとすれば、除夜に天榜を迎えることは、本当にあるかもしれない[97]。天榜が決まるとかならずその冊子を各府に頒布するのではなかろうか。葉が見た進士録は判官によれば、「これは試験に臨んで各地方に発送し、善悪を検査させるが、期限がすでに迫っているために、先に画行[98]することを求めたのだ。」ということであった。そもそも試験に臨んで照合・選別していたのであった。功名は僥倖によって齎せるものではないのだ。

さらに言った。仕官の通塞は、本当に星占いで推測できないものがある。休寧[99]の汪梺煌t学[100]滋畹[101]は、星占いをするものたちから、みな官位は同知に過ぎぬと言われていた。その後、汪は場屋に苦しみ、はじめは塩場大使[102]に就任した。乾隆戊申、部に赴き、選任を待っていたが、官途では[103]、夢みても大羅[104]天上の客となるまいと思った。選任を待つものは、慣例では毎月一日に部にゆき、投供するのであった[105]。閣学は平生馬弔[106]をすることを好んでおり、昼に楽しく集まれば、夜をそれに接いでいた。翌日は一日であったので、放っておくに忍びず、同室の人で投供するものがいたので、代理を求めた[107]。同室の人は吏部にいったが、それを忘れた。この月は空きが出たが、汪は一日に投供しなかったので、選任せられなかった。悔やんでも遅く、やむを得ず試験場に入って受験したが、その試験で合格し、連捷して進士となり、官は翰林となり、二十年足らずで閣学士となった。同室のものがかれのために投供していれば、すでに手板[108]を執り、轅門に鼓を聴いていたろう[109]。しかし平生何度術家[110]の占いを経たか知らないが、結局一人もかれが木天[111]の人になると請け合ったものはいなかった。これも奇異なことである。ある人が言った。「郊外に住んでいると日時計がない。たとえあっても、曇天に遇えば、誕生の時は多くは臆度による。そもそも時間は確実にできないものなのである。」あるいはそうした道理か。

さらに言った。毎月の御門[112]は、吉礼であるので、ずっと左遷が行われることはなかった。毎年春に入って最初の回は、慣例では刑部に進まないが、もとよりそれが吉事でないと思っているのである。丙戍[113]三月十六日の御門で、同年の朱大京兆[114]為弼[115]が府丞に転任したが、そもそも宗人府丞は三品、京兆も三品であり、上は品級が釣り合っているので、転任させたのであった[116]。しかし宗丞を大京兆と比べれば、二級差があった[117]。その後、星占い師の張雲征が都に来たので、朱の子が八字を占うように頼むと、張は言った。「本年は官運がたいへん不吉で、波乱を見ませんが、やはり二級降格するはずでございます。」そもそもかれの運命はこのように定まっていたのだが、御門での降格は、以前はすこしあったのである。

さらに言った。朱文正公[118]が掌院学士[119]となると、聖上は突然役所に学問のきわめて優れたものがいるを尋ねた。文正はあやまって閣の役所と思い、葉雲素舎人[120]継雯[121]を答えたが、たまたまその名を忘れていたので、(あざな)を答えた。葉はその時中書[122]であり、軍機章京[123]に当たっていたが、わたしの同年の葉芸潭紹本[124]はその時編修[125]となっていた。ある日、突然福建で督学せよとの命があった。参内して感謝すると、幾年中書で官員をしているか、幾年章京をしているか、何回典試となったか、何回同考[126]となったかと尋ねられた。時に翰林院で葉姓のものは一人だけであったので、聖上は朱が奏したものは、その人であると思ったのであった。芸潭は福建にゆき、歳試を終えると、慣例で留任し、福建にいることおよそ五年であった。雲素は部郎[127]から御史に改まり、諌言したために降格せられ、官に補せられなかった。一人はさいわい官位を得、一人はついに得なかったのは、いずれもかれらの運命であった。人は君相[128]が運命を掌握しているとの説は確かでないと言うが[129]、わたしは言う。「これはまさに君相が運命を掌握していることを見るに十分だ。」と。

 

◎誕生日に功徳を施すこと

 

無錫に許長生という者がおり、家は安定していたが、若くして連れ合いを失い、再婚していなかった。当時、年は六十であったが、親戚友人はかれに勧めた。「誕生日を過ごす者が、一つの功徳を行えば、一生も無駄にならない。」許が費用はどれほどかと尋ねると、親戚友人はだいたい三百余千文だと答えたので、許は承諾した。すぐに誕生日の数日前、その通りの金額を銭票[130]数枚に分けて書き、先に貧窮している親戚友人たちの家に赴き、分けて贈った。後にすぐに城外の某佃戸の家に赴き、誕生日を避け、ならびに銭を分けて誕生祝いしたことを告げ、かれにその年に租税を完納しなくてよいと言い含めた。佃戸歓喜、感激した。その時、佃戸には娘がおり、年はやっと十六、痘痕面で色黒で、肥満していたが、傍らで賛嘆し、この人は将来かならず善い報いがあろうと言った。その父は許が鰥居して孤独なので、もはやよいことはないとしたが、その女はつよく争い、かならず善い報いがあるとした。その父は謗って言った。「おまえはあのものに嫁ぐか」。娘は言った。「お父さま、お母さまのご命に従いましょう。」その父はすぐに許に向かって結婚に言及し、許は年老いていることを理由につよく断り、望まなかった。その女は嫁ぐことを願ったので、許は心の中でひそかに驚き、婚約することを承諾し、吉日を選び、家に娶った。後に許は続けて五子を挙げ、孫が三人できた。年が八十の時、親戚友人はまた誕生祝いしてやり、公は対聯を送った。花甲[131]になった当初は、妻妾はいなかったが、杖朝[132]八十歳の時には、子も孫もいた。県令はそのため扁額を賜って表彰し、後にその妻は許に先だって亡くなり、許は齢九十余に到り、今でも子孫は繁栄し、門戸は隆隆としており、みな善人には子孫ができると称している。

 

◎雷に殺されること

 

輿夫[133]張林は、武清[134]の人で、大車[135]を御することを生業としていた。以前、王家営[136]から一人の挙子を載せて礼部試を受験した時のこと、一人のしもべが車の前に坐していたが、臨城[137]駅に着こうとする時、雨を冒して進んでゆくと、風雷がにわかに来、そのしもべを捕らえて数十歩に抛ち、挙子の片方の靴を抜いて車の傍らに抛ち、張林も数歩離れたところに昏倒した。まもなく、臀がひどく痛いと叫んだので、挙子が下りて見ると、かれの褲が裂け、左の臀から肉一条が切り取られ、血は淋漓とし、深さは知れなかった。そのしもべは結局目ざめず、見にゆけば、天を仰いで倒れ、すでに胸を切られて死んでいた[138]。挙子はかれに棺を買ってやり、さらに医者を呼んで張林の傷を治させ、治った後に進んだ。張林は帰郷すると、それから門を出ようとせず、そのことを知るものが尋ねれば、衣を脱いでその股の傷ついたところを示したが、長さは五寸あまり、深さは一寸に及ぼうとし、まるで溝洫[139]のようであった。姚伯昂先生は言った。「このしもべはそもそも罪が大きかったので、この重罰を受けたのだ。張林が左股を負傷したのも、隠悪によるのだろう。罪が軽かっただけのことだ[140]。しかし雷公は無辜のものを巻き添えにする必要はない。」

 

◎柳州[141]の牧

 

伯昂先生はさらに言った。旧友の楊天玉[142]は、嘉慶丙子[143]秋に金陵の[144]赴いた。その一年前、実の母を亡くしており、その時は、服喪がすでに終わっていたが、学官がそれを申告していなかったので、妨げられ、受験できず、船に乗って帰った。燕子磯[145]に来ると、風浪がはげしく起こり、舟が覆った。同船していた十四人はみな水に沈んだ。江にはもともと救助船があったが、浪が大きかったので、ともに手を袖にし、坐して見ていた。潜山[146]の柳舎人際清[147]は、寒士であり、その時、諸生として金陵に赴き、受験しようとしていたが、ちょうどそれを見、舟を泊め、懸賞を設け、救うものを募り、七人を掬い上げ、楊君はそれに関わった。柳はかれのために衣を脱ぎ、路銀を贈り、七人はそのために生きられたが、柳の受験の旅費はすでに尽き、窮乏し、金陵にゆくと、借金し、試験を終えた。その試験で合格し、連捷して進士となり、中書を授かった。柳の合格は人を救った後にあり、本当に陰隲が齎したものであった。按ずるに、柳は後に中書から改めて知県に就任し、広西でおおいに循良の誉れを顕した。おりしも家大人が巡撫をしており、上奏し、宣化県[148]に転任させ、特別に上奏・推挙した。州牧として抜擢せられ、本当に嶺西のよい役人であった。

 

◎黒巨川

 

李鼎和[149]はいった。臨清[150]黒巨[151]は、先祖の遺産がたいへん豊かで、質屋を所持し、さまざまな店を列ねていた[152]。巨川は生まれつき奢侈で色欲に溺れ、時に青楼を家に招いて来させ、その妻にお酌を命じたので、妻はひどく怒り、実家に帰り、かれと絶縁した。まもなく、黒の地産はすべて他人に属した。まもなく、店も他人に属し、住む家だけが残った。かれの家人はかれに勧めた。「家はすでにこのありさまで、頼りになるのはこの家だけですが、数百千銭にしか値しません。これ以上浪費してはなりません。そうすれば、まだ余生を終えられるかもしれません。」巨川は言った。「よく分かった。」しかしかれれは生来食べることを好み、みずからを抑えることができなかった。人々は言った。「食べるだけならまだ大丈夫だ。」それから、巨川は毎日かならず王老の餃子店にゆき、餃子を食べたが、食べる時はその餡をすこしばかり取るだけで、残りは捨てていた。王老はつねにその余りを拾い、日に曝して乾かし、米囲い[153]に集め、貯蔵した。まもなく、囲いが満ちると、さらに一囲いに改めた。まもなく、巨川の家屋はすべて腹に入った[154]。そこで乞食となり、乞食して王老の家にゆくたびに、王老はすぐに曝した餃子を食べさせたが、まもなく干し餃子も尽きた。巨川はそこで飢え死にした。そもそも巨川は一人の小人でありながらここまで暴殄したのだから、死んだのはかれの自業自得である。かれの家が破産したのは、もしやその祖先が富を致した時、正道に由らなかったためか。しかし王老がその余りものを拾い、貯えて後日の食べものにしたその心がけはたいへん嘉すべきであった。

 

◎頭がはずれること

 

姚伯昂先生がいった。某知府は、貴州の人で、鬚が多くて髪に繋がっており、人は某鬍子[155]と称し、綽名は「双料曹操[156]」であった。二度広州知府に任ぜられた。初任のときは、財産はまだ豊かでなかったが、再任すると、人が伝えるには、収賄したために人を斬罪に陥れたということであった。その人が処刑された日、役所にすぐにその人が現れたので、人々は爆竹を放って脅かし、某もその後告帰[157]した。かれは帰った時は、赫然たる大富豪として帰郷した。家に着くと、幽鬼も来、某は日その名を呼んでその罪を許すことを求めた。幽鬼は去らず、たいへん騒ぎ、つねに家人に命じて酒肴を調えて饗応させた。幽鬼は酔い、騒がなくなる時があったが、すぐに元通りになった。某はもともと鬚が多かったが、ある日、奇病を得、鬚の孔に瘡を生じ、一つの鬚ごとに一つの瘡となり、あらゆる手段も効かず、爛れ、頚に及び、喉に及んで頭がはずれた。家では五十両で、靴屋に頼んでその首を縫わせたが、皮は爛れて針と糸を受けつけなかったので、ブタの皮で繋いだ。納棺すると、頭がまたはずれたが、どうすることもできなかったので、とにかく納棺するしかなかった。出棺の日、旗は目に輝き、道はかならず大浪坡、二浪坡、三浪坡を経ることになっていたので、巷を出て後に大通りにいった。三浪坡には石段の道があり、道はもとより広くて平らであったが、葬列がこちらに来ると、紼[158]がたちまち切れ、棺は地に堕ち[159]、轆轤がはやく転じるかのように、ただちに巷の入り口に及んだ。棺が止まると、蓋は開き、その首はまた出た。巷の入り口は大通りまでまだ一箭の距離があり、その首はたちまちさらに毬のように転がり、大通りに達して止まった。見るものは垣のようであった。もしや冥土にも梟首刑があるのか。これは乾隆末年のことで兌楣(安泰)[160]がみずから見、わたしのために言ったが、まだ凜凜として人に出会うことを恐れる。

 

◎妖魔が悪人を食らうこと

 

上天竺[161]に老僧某がおり、冥土に入ったことがあったが、鬼卒が数千人を役所の外に駆っており、すべて衣を剥ぎ、後ろ手に縛っていた。役人が南面して坐しており、下役は帳簿を取って点呼し、痩せたもの太ったものを分け、肥え具合を測っていたが、肉屋がヒツジ・ブタを売っているかのようであった。怪しみ、ひそかに一人の下役に尋ねると、答えた。「妖魔たちはみな人を食糧としているので、人の世には、疫病水災や、生まれたばかりですぐに死ぬものがつねに多い。如来は大神力を用い、伏魔王を恐れさせ、五戒[162]に帰依させているが、部族は多く、叛服[163]は常ならず、みな、『太古以来、妖魔たちが人を食べるのは、人が穀物を食べるようなものだ。人が穀物を食べるのを仏が断てれば、われわれはこれ以上人を食べない』と言っている。このように嘵嘵[164]として、魔王も制することができないのだ。仏は、孽海[165]の洪波は沈淪すれば帰らず、無間地獄はすでに入る隙がないので、通牒を閻魔王に下し、この囚人を移し、かれの食を充たすことにした。かれの腹が満たされると、民草を損なうのを免れることができる。十王はみな、民の命運が関わるものとしては、太守・県令に勝るものはなく、福を造るのはきわめて容易だが、罪を造ることもやはり深刻であると論じた。しかしこれら種種の罪は、みずから作った罪でないことが多く、鏡に台があるように、罪は元凶に帰しているのだ[166]。もっとも民を害するものは、吏といい、役といい、官親[167]といい、僕隷という四種の人間だ。官の責務はなく、官の権威がある。官は考成[168]を気にするが、かれら[169]は利を求めることを図るだけで、草に依り、木に付き、キツネがトラの威を借り、人に、髓を叩き、膏を滴らせ[170]声を呑ませ、血に泣かせるに足りる。四大部洲の中で、この四種の悪行だけがきわめて多く、それを湯鼎[171]に供し、さらにそれにより、わが泥犁[172]を清める。白皙のもの、柔脆[173]のもの、膏腴のもので、魔王の食べものを充たし、粗悪なもので悪魔たちの食べものを充たし、別々に処置する。その中で、業がやや軽いものは、一たび臠割[174]烹炮[175]を経れば、すぐに烏有と化する。業が重いものは、わたしが残った骨を食べると、孽風[176]を吹き、また本相[177]に戻し、さらに料理に供する。三五度から百十度まで一様でない。業がもっとも重いものは、一日に形を化することが数度に達し、切り裂き、炙り焼き、やむ時がない。」僧はその官に罪がないかを尋ねた。下役は言った。「故縦[178]は同罪であり、知らなかった[179]ものは、転生し、報いを受け、痴呆盲唖となる。」僧は額に手を当てて言った。「本当に剃髪して出塵[180]し、この苦しみを免れるにしくはない。」下役は言った。「そうではない。権力が人を害することができるなら、その権力はすぐに人を救えるのだ。霊山会[181]にはもともと宰官[182]がいるわけではなく、これら四種の人間にも蓮界[183]を逍遥するものがいないわけではないのだ。」そう言うと、突然目ざめた。僧には、ある県令の役所にいるおいがいたので、手紙を急送し、帰るように促し、勧めて改業させた。朱蕉圃[184]は言った。「このことは宏恩寺の僧明心が先に暁嵐大宗伯[185]に告げたことがあり、すでに記されて『灤陽消夏録』に入っており[186]世を戒める苦心をひとまず寓言としたと言っている。今春、上天竺に登り、僧良発と前のことを語り、その有無を尋ねようとし、わたしは一人の轎夫で名を唖張三というものに従い、階の下でひそかに聴くと、たちまち咿咿唖唖として、みずからその鼻を指し、さらに拱手揺動し、様態はさまざまであった。人々がそのために喜び笑うと、良発は合掌して言った。「果報は眼前にあり、それが寓言か否かを究明する必要はない。」

 

◎貞女の奇遇

 

林爽文[187]が台陽[188]で乱をなしていた時、鳳山[189]陳氏の娘が賊に攫われた。脅迫されても従わず、鎮卒に売られたが、やはりかたくみずからを守った。ある軍官はそれを義とし、おりしも醵金して難民を贖っていたが、陳女の貞節を知ると、多くの人が得ようとした[190]。まもなくかれ[191]の友人某が一人の童子を贖ってきたが、尋ねたところ、陳と結婚することになっていた夫であった。翌日、一人の嫗を贖ってきたところ、陳の母であった。ついでさらに一人の嫗を贖ってきたところ、陳の姑であった。まもなく二人の老人が妻を探し、よろよろと門に来たが、それは陳の父および童子の父であった。両家の骨肉は、一時に集まったので、合卺させ、旅装を整えて帰らせてやった。

 

◎魂が金を守ること

 

楚の人戴香樹(三錫)[192]は父に従い、浙江に遊幕したが、父が死ぬと、貧しくて帰れなくなったので、父の仕事を継いだが、実際は申韓[193]の学に明るくなかった。さいわい帰方伯[194](景照)[195]はかれの父と旧交があったので、麗水[196]の知事に推薦した。力不足なのに主人に頼ることを恐れたが、上司の面子を立て、断らなかった[197]。ある日、大事件があり、三昼夜構想したが、判決文を書こうにもなすすべがなかった。朝起きると、理由をつけて帰ろうとし、草稿を片付けたところ、びしょびしょに字が書かれており、処理できていなかった各案件は、すべて片が付いていた。すぐに提出すると、主人はかれの才に信服し、置酒して杯を交わした。その夜、酔ったまま眠り、三更になると酒が醒めたが、口が渇いていたので、帳を掲げてにわかに起き、灯を掻き立てようとしたところ、ふと見ると一人の老人が、龐眉[198]皓歯で、机に向かい、筆を執り、手ずから公文に批語を書いていた。じっくり見ると、役所にその老人はいなかったので、驚いて尋ねたところ、老人は避け、言った。「離れて坐り、怪しまないでくれ。わたしも楚の人だが、こちらで死んで三十余年になる。資金を千両貯え、牀の下に埋めたが、知る人はいないので、屍は帰っても、魂は帰らないのだ。今、足下は同郷の誼があり、誠実忠信であり、館を去ろうとしていることを知ったので、足下の筆跡に倣い、微労を尽くしたのだ。どうか後日楚に帰る時は、銀を持ち、わたしの子××に渡してくれ。今後は、公文があれば、足下は机に置き、はやくお休みなさればよい。」香樹は冷や汗をかいて拝謝し、また床に就いたが、帳を隔てて燈を看れば、ようであったので、老人が見えなくなると、はじめて眠った。翌日、ひそかに床の下の金を発掘すると、ほんとうに金額通りであった。それから毎晩かれを見、三年後、香樹が館穀[199]を計算すると、やや貯えができていたので、床の下の金とともに楚に帰り、約束通りに送り返した。

 

◎妻が薄情者に祟ること

 

劉研渠広文(萼棣)が言った。かれの郷里の宋某が妻何氏を娶った。文墨に通じ、生まれつき賢淑[200]であったものの、容貌は美しくなかったので、夫婦の睦言はなかった。さらに宋は軽佻で、つねに色遊びし、先祖の功業を失い、妻を実家に棄て、門を出、音信を通じなかった。妻の弟は舌耕して口を糊し、母に仕える暇がなく、針仕事に頼り、かろうじて生活していた。二十年に達すると、親戚が雲南から来たが、宋はすでに役人となり、曲靖[201]の経歴[202]となりほかに妻を娶り、子を生んでおり、車馬衣服は麗しかった。その妻が困窮していることを思い、ゆくに臨み、手紙を寄せ、迎えることを勧めたが、聴かなかった。たいへん不満であったので、その弟に告げ、義弟が姉に告げると、姉は泣いて言った。「遠く数千里に官となった時、家族を迎えず妾を娶っても、倫常を失いません。今、捨て置かれ、忘れられたかのようで、薄情ものに良いところはなく、もはや言うことはございません。」鬱鬱とすること数日、結局みずから縊れ死んだ。おりしもかれの親戚はまた雲南にゆくことになり、氏の弟に別れを告げに来たが、氏の柩を見、たいへん怒った。「わたしは疏遠な親戚ですので、あのひとが妻を棄てて再婚するのを抑えられません。あなたもお母さまが年老い、遠くへゆけませんが、どうしましょうか。」嘆きつつ別れた。親戚は出発したが、後に鬼哭が唧唧[203]として、たいへん悲痛なのをつねに聞いた。心の中で何氏かと疑い、祈った。「何の奥さんでしたら、お送りして薄情ものを一見させてさしあげましょう。」そこで回り道して宋に会ったところ、宋は時候の挨拶が終わらぬうちに、たちまちみずからその頬を打ち、言った。「本当に薄情だ。本当に薄情だ。」地に昏倒した。親戚はすぐに退き、翌日探りにゆくと、夜に宋はすでに死んでいた。ああ。古人は「貧賎の交はりは忘るべからず、糟糠の妻は堂を下らず」[204]と言った。これは宋氏の故事[205]だが、どうして忘れたか。

 

◎滕県[206]の下役

 

藹人(星)は、南昌[207]の人で、いとこの某は官位が滕県知事であった。当時、一人の下役が城隍の下役となり、しばしば冥土に赴き、公務を弁じていたが、倒れ伏し、死んだかのようになり、一二日から三五日たつと蘇り、冥土を訪れていたと言うのであった。蘇れば、飲食起居はふだん通りで、役所に赴いて仕事し、異常もなかったが、冥土のことは、口を閉ざして一言も語ろうとしなかった。冥土を訪れるために遅刻するので、かれが怠惰であると怒り、こう命じた。「以後冥土を訪れるときは、本官がすることを調べて言うように。合っていなければ、すぐに妖術師として懲らそう。」一日後聞いたところ、下役はさらに冥土を訪れたが、滕県知事はひとり奥の間におり、戸を閉ざし、家人を退け自省した。夫人が食事に呼んでも、まったく応じなかった。一更過ぎになると、夫人はかれが腹を空かすことを心配し、鶏卵を二つ煮、欞子の眼の中からみずから贈ったので、拒むに忍びず、食べた。翌日、下役が会いに来たので、調べたことを尋ねたところ、答えた。「昨日は冥土に報告されて来た善悪の事はございませんでしたが、終日絶食なさいましたので、代わって禄食を賜うことを求めてさしあげましたところ、神は鶏卵二つだけを賜うことを許しました。多く求めようとはいたしませんでした。知事さまはたいへん空腹ではございませんか。」これは閨房のことで、外部の人には知るものがおらず、それが符合したので、放置して究明しなかった。一年後、下役はたちまちみずから棺衾を用意し、子供たちに××日に納棺するべきだと告げ、すぐに冥土を訪ねる動作をした。期日になり、かれはまた蘇ることを願い、にわかに納棺しようとしなかった。七八日後、屍が変化したのを感じ、納棺すると、やはり「走無常」[208]であった。ああ。人はつねにみずからが深く居り、戸を閉ざしていると思っているが、冥土では見るかのようにしていることを知らない。一飲一食は、すべて神に操られており、神の目はこのように電のようなのだから、わが身を衾や影に対しても慎まぬわけにゆこうか[209]

 

◎知らぬことを隠すこと

 

聖人は直接賢者の教えを授かっていても「之を知るを以て知るとなし、知らざるを知らずとなす。」[210]というに過ぎなかった。今人にはむりに知らないことを知っているとするものが多く、知らないことを隠し、知っているとするものもいる。強弁する害は重く、隠蔽する害は軽いが、その害であることは同じである。以前聞いたが、一人の南方の旅人がおり、鶏卵を食べなかったが、はじめて北方に来、朝食を摂ろうとし、輿を下り、店に入り、たいへんせわしなく店員を呼んだ。その様子はひどく空腹であるかのようで、口を開くとすぐに尋ねた。「うまい料理はあるか。」「木樨肉(北方の店内では鶏卵で肉を炒り、名を木樨肉[211]というが、砕けて色であることによる)がございます。」客は言った。「それはよい。はやく持ってこい。」(つくえ)に献じると、食べるものではなかったが[212]、人に笑われることを心配し、言おうとしなかった。さらに尋ねた。「ほかによいものはあるか。」「攤菜はいかがでしょう(南方の攤鶏子[213]である)。」客は言った。「はやくこれがあると言えば、よかったのに。」几に献ずると、これまた食べているものではなかった。うわべは箸を挙げ、またやめ、まだ腹が減っていないと称し、食らおうとしなかった。そのしもべが前途はたいへん遠く、途中で腹が空きましょうと言うと、客は言った。「それなら、点心だけを食べるればよかろう。」そこで尋ねた。「よい点心はあるか。」窩果子(南方のいわゆる荷包蛋[214]である)を答えた。客は言った。「多めに持ってこい。」几に献じると、これまた食べるものではなかった。恥じたり、怒ったりし、飢えを忍んでゆき、疲れるに到った。そもそも天下のことには知らないことが多く、知らなくても障りないのに、この客はどうしても知らないことを隠し、知っているとしようとし、甘んじて負腹将軍[215]となったもので、腹に何の罪があろうか。

 

最終更新日:2018222

北東園筆録

中国文学

トップページ



[1]http://www.zdic.net/c/7/85/143583.htm玉人、容姿が美しい人を称賛したもの

[2]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%8E%BF#.E5.8E.86.E5.8F.B2.E6.B2.BF.E9.9D.A9

[3]http://www.zdic.net/c/e/155/340686.htm姉妹の夫の互称あるいは合称。

[4]http://baike.baidu.com/view/133599.htm弥子瑕。衛の霊公の男寵。

[5]出典。ここでの「兄弟」は「姉妹」の意味。

[6]http://www.zdic.net/c/9/9/14956.htm挙の試験は三度経ねばならず、初、二、三場といった

[7]http://www.zdic.net/c/a/7a/129053.htm四十

[8]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A1%E6%B0%B4%E5%B8%82

[9]未詳だが、「」に同じで、「さらさら」といった擬音語であろう。

[10]グーグル検索結果

[11]原文「見新姫嗚咽」。「鏡」が未詳。とりあえずこう訳す。

[12]http://baike.baidu.com/view/321652.htm?fromtitle=%E5%8D%97%E6%B5%94%E5%8F%A4%E9%95%87&fromid=5041335&type=syn

[13]http://www.zdic.net/c/d/152/338872.htm奴僕。

[14]http://www.zdic.net/c/b/1/161.htm涙を流すさま。

[15]http://www.zdic.net/c/5/e1/223370.htm姫妾。

[16]http://www.zdic.net/c/4/10a/288347.htm誕生日および子供の出生して三日目あるいは一ヶ月、一ヶ年で行する慶賀の宴会。寿を象徴する湯麺を備えるので、かくいう

[17]http://www.zdic.net/c/4/1b/41112.htm自身と妻室の封誥を朝廷に呈し、先人に移贈することを求めること

[18]http://www.zdic.net/c/d/13d/304504.htm正四品の

[19]http://www.zdic.net/c/b/e7/233939.htm一年の農作業が終わった後、酒食を列ねて田の神を祭り、ともに酒を飲み、楽しむこと

[20]原文「鑽穴逾牆之事」。http://www.zdic.net/c/b/103/277945.htm男女の密通

[21]http://baike.baidu.com/view/9071822.htm更鼓

[22]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8Zdic8EZdic8E295995.htm虫名。絡緯ともいう紡績娘、絡絲娘と俗称する。画像検索結果

[23]まったく未詳。

[24]http://www.zdic.net/c/7/3c/90433.htm」とも。哀号のさま。

[25]http://www.zdic.net/c/4/15/33365.htm毒虫の名。

[26]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5ZdicA6Zdic96130690.htm人の行為が常道に違反することによって妖異が生ずること

[27]グーグル検索結果

[28]http://www.zdic.net/c/3/150/333797.htm我見を正直に述べ、従容として迫らぬこと

[29]http://www.zdic.net/c/1/159/348479.htm堂堂と正論を述べ、従容として迫らぬこと

[30]原文「炎■」。「■」はこの字。未詳。とりあえずこう訳す。

[31]http://www.zdic.net/c/6/3c/91696.htm関帝

[32]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%98%8C%E9%96%A3

[33]後ろの記述から推測するに、字の書かれた紙の回収を業する結社であろう。

[34]http://www.zdic.net/c/f/37/85441.htm 吃音のさま。

[35]http://www.zdic.net/c/e/d3/201943.htm吃音

[36]http://www.zdic.net/c/7/153/339862.htm衆議汹汹として、人が多く声が雑じるさま

[37]未詳。文昌帝君のことか。http://www.zdic.net/c/7/98/172578.htm

[38]原文「力曳去投質文帝」。「投質」が未詳。とりあえずこう訳す。

[39]http://www.zdic.net/c/a/7a/127819.htm公の機関から生員に発給される糧食。

[40]この人物か。

[41]http://baike.baidu.com/view/645123.htm每届乡试之前,由各省学政巡回所属府州行考

[42]漢典に適切な語釈なし。

https://www.google.co.jp/?hl=zh-CN&gws_rd=cr,ssl&ei=RMByVNywDIrU8gXq5IDgAQ#hl=zh-CN&q=%E6%8B%9B%E8%A6%86+%E7%A7%91%E8%88%89二次試験。

[43]原文同じ。「雪堂」の誤りであろう

[44]http://www.zdic.net/c/1/108/284457.htm国子監に貢せられた生

[45]http://ctext.org/xiyouji/zh?searchu=%E4%B8%80%E9%A3%B2%E4%B8%80%E5%95%84%EF%BC%8C%E8%8E%AB%E9%9D%9E%E5%89%8D%E5%AE%9A

[46]http://www.zdic.net/c/9/3e/95362.htm朝廷。

[47]http://baike.baidu.com/view/3274993.htm

[48]http://www.zdic.net/c/5/e7/233613.htm員のうち、歳・科両試を経て績優秀な者が生に昇格すること

[49]http://www.zdic.net/c/b/a6/193147.htm郷試合格

[50]『北東園筆録』では軍機處を指して用いられる。梁章鉅軍機章京であった。

[51]漢典に適当な語釈なし。

[52]未詳。

[53]http://www.zdic.net/c/8/a/17299.htm。世代。

[54]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%90%E5%9F%8E%E5%B8%82

[55]http://baike.baidu.com/view/289395.htm

[56]http://www.zdic.net/c/8/81/139792.htm故郷を離れ、・幕友となること

[57]http://ja.wikipedia.org/wiki/1814%E5%B9%B4

[58]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E5%98%89%E6%85%B6%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B9%B4%E7%94%B2%E6%88%8C%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[59]原文「若各館供事者」。「各館」が未詳。とりあえずこう訳す。

[60]http://www.zdic.net/c/d/79/127479.htm霊堂の前に臨時に組み立てる弔問用テント

[61]http://www.zdic.net/c/0/94/167809.htm有司。主管の官吏。

[62]http://www.zdic.net/c/b/e0/222846.htm繊維やや粗く、地が軟らかい白、多くは窓紙あるいは包装に用いる。ともいう

[63]http://www.zdic.net/c/3/a6/195209.htm衣食福分。

[64]原文「吏誤而三品冊進」。「三品冊」が未詳。とりあえずこう訳す。

[65]http://www.zdic.net/c/4/111/298626.htmやや粉より深色。画像検索結果

[66]原文「更換本榜第三名耳。」。「本榜」が未詳。とりあえずこう訳す。

[67]原文「俾その祖之捶之也。」。「その祖之」の「之」が衍字のように思われるが未詳。

[68]http://www.zdic.net/c/1/e2/227549.htm挙の功名。

[69]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9A%E5%85%83%E4%B9%8B

[70]http://ja.wikipedia.org/wiki/1808%E5%B9%B4

[71]http://baike.baidu.com/view/4622168.htm

[72]漢典に適当な語釈なし。郷試の一次試験のことであろう。

[73]http://www.zdic.net/c/d/14a/323475.htm豁然、了然。

[74]http://www.zdic.net/c/7/99/175400.htm驚いて見るさま、驚くさま。

[75]http://zh.wikipedia.org/wiki/1821%E5%B9%B4

[76]原文「名次一如夢」。合格者の姓名・順位がすべて夢の通りであったということか。

[77]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AE%E6%A2%81%E5%8E%BF

[78]原文同じ。未詳。ベッドの天井部か。

[79]原文「撤闈後、主司檢行李、於帳頂得一卷。」。行李と帳頂の位置関係が未詳。

[80]http://www.zdic.net/c/a/a7/197311.htm規則を犯した者に対してその試験を停止する分。

[81]グーグル検索結果

[82]http://www.zdic.net/c/8/85/144492.htmhttp://www.zdic.net/c/8/10a/288673.htm試験場

[83]未詳。

[84]http://www.zdic.net/c/f/9b/178100.htmさま。

[85]未詳。

[86]http://zh.wikipedia.org/wiki/1821%E5%B9%B4この年は会試なし。後ろに「合格した」とあるのは郷試に合格したのであろう。

[87]http://www.zdic.net/c/c/158/347777.htm.旗幟総称

[88]http://www.zdic.net/c/9/94/169382.htm画像検索結果

[89]http://www.zdic.net/c/e/a/16922.htm官名。州同知、知州の副

[90]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9E%E5%88%A4

[91]地獄のことを。

[92]http://www.zdic.net/c/b/158/347232.htm主管の官が文署名し、同表示すること

[93]http://www.zdic.net/c/5/143/314480.htm。会試。

[94]http://www.zdic.net/c/1/24/57403.htm父母の際会すること。

[95]http://www.zdic.net/c/1/fa/261190.htm人が上京して会試を受けること

[96]原文「方或謂恆而小稱、蓋有所承而言。」。「合格者が『恆』なのではなく、『恆』の子が合格者だろう」という趣旨であることが、後ろの記述から推測される。

[97]原文「然則除夕迎天榜,或信有之」。「除夕迎天榜」が未詳。グーグル検索結果。除夜に「天榜」に名を送られるという話は『子不語』 に見える。「天榜」は天上の合格掲示板か。

[98]http://www.zdic.net/c/b/158/347167.htm主管の官が公文の稿の上に「行」の字を書き、認可を示すこと。

[99]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%91%E5%AE%81%E5%8E%BF

[100]http://www.zdic.net/c/1/100/270522.htm大学

[101]グーグル検索結果

[102]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=98755&searchu=%E9%B9%BD%E5%A0%B4%E5%A4%A7%E4%BD%BF

[103]http://www.zdic.net/c/e/2b/68608.htm宦途、官

[104]http://www.zdic.net/c/7/23/54932.htm道教でいう三十六天で最高の天

[105]http://www.zdic.net/c/5/80/136409.htm選任を待つ官員が定期的に吏部にゆき、本人の履歴を提出し、選考を待つこと。

[106]http://baike.baidu.com/view/395291.htm

[107]代わって投供することであろう。

[108]http://www.zdic.net/c/b/3d/93629.htm笏。

[109]原文「聽鼓轅門矣。」。「聽鼓」は官吏が役所に赴き宿直すること。

[110]http://www.zdic.net/c/f/77/120505.htm

[111]http://www.zdic.net/c/8/7e/131957.htm翰林院。

[112]http://www.zdic.net/c/1/13c/303680.htm清代に皇帝が宮門聴政すること。時は太和御幸し、康熙の時は改めて乾清御幸した。御門の時、王公大臣、大学士、内学士、各部院、九卿、科、道、侍注の官はみな侍班し、奏事、本、除授、見はみなそこで行せられた。雍乾両朝は、ともにその制に拠り、咸豊以後この典礼は廃せられた

[113]http://zh.wikipedia.org/wiki/1826%E5%B9%B4

[114]http://zh.wikipedia.org/wiki/1826%E5%B9%B4

[115]http://baike.baidu.com/view/211739.htm

[116]原文「上以對品、故調之。」。「對品」が未詳。とりあえずこう訳す。

[117]原文「然而宗丞較大京兆、則差二階矣。」。「則差二階」が未詳。とりあえずこう訳す。

[118]http://baike.baidu.com/subview/214491/6388266.htm

[119]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%8C%E9%99%A2%E5%AD%B8%E5%A3%AB翰林院の主官。

[120] http://www.zdic.net/c/d/142/312111.htm 人。

[121]http://baike.baidu.com/view/210702.htm

[122] http://www.zdic.net/c/d/142/312111.htm 人。

[123]http://baike.baidu.com/view/39078.htm

[124]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%91%89%E7%B4%B9%E6%9C%AC

[125]http://www.zdic.net/c/6/d4/205082.htm翰林院の属官。

[126]http://www.zdic.net/c/c/14b/327807.htm同考官。

[127] http://www.zdic.net/c/8/ef/245209.htm 六部の郎官

[128]http://www.zdic.net/c/b/39/89967.htm国君と国相。

[129]原文「人謂君相造命之未確」。未詳。とりあえず、こう訳す。「造命」は運命を掌握すること。「君相所以造命」という言葉の古い用例はこちらに見える。グーグル検索結果

[130]漢典に適当な語釈なし。手形であろう。

[131]http://www.zdic.net/c/1/145/317872.htm還暦

[132]http://www.zdic.net/c/6/85/144453.htm八十

[133]http://www.zdic.net/c/6/e9/237352.htm車夫あるいは夫。

[134]http://baike.baidu.com/view/927447.htm?fromtitle=%E6%AD%A6%E6%B8%85&fromid=218724&type=syn河北省

[135]http://www.zdic.net/c/7/16/33629.htmひろく牲畜が引く二輪あるいは四輪の車を称する

[136]ここか。

[137]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B4%E5%9F%8E%E5%8E%BF

[138]原文「已刷心而死矣。」。「刷心」が未詳。とりあえずこう訳す。

[139]http://www.zdic.net/c/f/107/282069.htm水路

[140]原文「薄乎云爾」。http://ctext.org/mengzi/zh?searchu=%E8%96%84%E4%B9%8E%E4%BA%91%E7%88%BE

[141]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%B7%9E%E5%B8%82

[142]

[143]http://ja.wikipedia.org/wiki/1816%E5%B9%B4

[144]http://www.zdic.net/c/2/101/273370.htm学政の行う、郷試受験資格を与えるための試験

[145]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%87%95%E5%AD%90%E7%9F%B6

[146]http://baike.baidu.com/view/192162.htm?fromtitle=%E6%BD%9C%E5%B1%B1&fromid=6623606&type=syn

[147]http://bkso.baidu.com/view/5619308.htm

[148]http://baike.baidu.com/view/5882.htm

[149]未詳。

[150]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B4%E6%B8%85%E5%B8%82

[151]未詳。

[152]原文「陸陳諸行」。「陸」が未詳。とりあえずこう訳す。http://www.zdic.net/c/8/f6/256277.htm

[153]http://www.zdic.net/z/17/xs/56E4.htm画像検索結果

[154]原文「巨川之屋盡入於腹矣」。未詳。とりあえずこう訳す。他人に併呑されたということか。

[155]「鬍子」は「ひげ」。「ひげの某」。

[156]http://www.zdic.net/c/c/fd/267647.htm「ダブル曹操」の意。曹操に輪を掛けて狡賢いということ。

[157]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic91Zdic8A109090.htm官吏が老年で帰郷あるいは暇を貰い、帰郷すること。

[158]http://www.zdic.net/z/21/js/7ECB.htm埋葬時、柩を引き穴に入れる

[159]原文「棺隨地」。「隨」は「堕」の誤字と解す。

[160]この人物か。

[161]http://baike.baidu.com/view/676722.htm

[162]http://www.zdic.net/c/4/14c/328702.htm仏教で在家の男女教徒が遵守すべき五項の戒律。不、不、不邪淫、不妄、不酒。

[163]http://www.zdic.net/c/b/6a/101912.htmしたり従ったりすること。

[164]http://www.zdic.net/c/3/158/346281.htm争論声。

[165]http://www.zdic.net/c/d/149/322858.htm仏教海。種種の悪因によって人を溺させる海。

[166]原文「鏡有台罪歸元惡」。未詳、とりあえずこう訳す。

[167]http://www.zdic.net/c/8/78/124391.htm官吏の戚。

[168]http://www.zdic.net/c/3/9e/181266.htm一定の期限内に官吏の政績を調査すること

[169]「吏」「役」「官親」「僕隷」。

[170]https://www.google.co.jp/?hl=zh-CN&gws_rd=cr,ssl&ei=xuKSVJ75O5KB8gXT6oDoCQ#hl=zh-CN&q=%E6%95%B2%E9%AB%93%E7%80%9D%E8%86%8F

[171]http://www.zdic.net/c/4/10a/288332.htm湯沸し調理の器。

[172]http://www.zdic.net/c/5/8/13203.htm泥犂http://www.zdic.net/c/5/2/3099.htm仏教。梵音訳。地

[173]http://www.zdic.net/c/4/7f/135266.htm柔らかくて折れ易く、砕け易いこと。

[174]http://www.zdic.net/c/4/e7/232253.htm瓜分すること。

[175]http://www.zdic.net/c/9/98/173112.htm焼き、煮、燻し、炙ること。

[176]http://www.zdic.net/c/d/78/123682.htm悪風、妖

[177]http://www.zdic.net/c/c/a/18100.htm本来面目、原形。

[178]http://www.zdic.net/c/5/36/83345.htm人が法を犯しているのを知って検挙せず、あるいは故意にその罪を許すこと。

[179]原文「陷於不知者」。未詳、とりあえずこう訳す。https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E9%99%B7%E6%96%BC%E4%B8%8D%E7%9F%A5

[180]http://www.zdic.net/c/a/11/27136.htm煩悩垢を離れること

[181]グーグル検索結果迦仏法華経のようだが、なぜここで出てくるのかが未詳。

[182]http://www.zdic.net/c/0/76/120144.htm官吏。

[183]http://www.zdic.net/c/2/e8/235268.htm花世界http://www.zdic.net/c/2/152/337138.htm仏地。仏教で称する西方の極世界。

[184]『北東園筆録』の出現例。諱は海。ーグル検索結果

[185]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E6%98%80

[186]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=595662&searchu=%E5%AE%8F%E6%81%A9%E5%AF%BA%E5%83%A7%E6%98%8E%E5%BF%83%E8%A8%80

[187]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%88%BD%E6%96%87

[188]台湾の地名と思われるがこうした地名なし。

[189]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E5%B1%B1%E5%8D%80

[190]原文「群欲得之。」。「得之」が未詳。もし妾にするために買うのであれば、貞節を汚すことになるはずだが。とりあえずこう訳す。

[191]「ある軍官」を指していよう。

[192]http://baike.baidu.com/view/886375.htm

[193]http://www.zdic.net/c/3/9f/182300.htm時代の法家申不害と韓非の併称。後世「申」で法家を代表する。また、の学と称する

[194]http://www.zdic.net/c/9/2a/65509.htm布政使。

[195]http://archive.ihp.sinica.edu.tw/ttscgi/ttsquery?0:17920723:mctauac:TM%3D%C2k%B4%BA%B7%D3

[196]http://baike.baidu.com/subview/7753/7165425.htm浙江省

[197]原文「令方虞蚊負ョ居停、徇上游面、不辭。」。「ョ居停」「徇上游面」が未詳。とりあえずこう訳す。主語は麗水の知事と解す。

[198]http://www.zdic.net/c/e/150/332456.htm眉毛が黒白になっているもの

[199]http://www.zdic.net/c/6/107/281131.htmの束脩あるいは幕の酬金。

[200]http://www.zdic.net/c/4/ed/242341.htm女子のコ性が佳美であること。

[201]http://baike.baidu.com/view/20524.htm雲南省の県名。

[202]http://www.zdic.net/c/f/152/337375.htm官名。

[203]http://www.zdic.net/c/7/150/333891.htm息。息の声をも指す。

[204]http://baike.baidu.com/view/1669621.htm

[205]「糟糠の妻」の出典は『後漢書』宋弘伝。http://baike.baidu.com/view/488922.htm#5

[206]http://baike.baidu.com/view/10085.htm?fromtitle=%E6%BB%95%E5%8E%BF&fromid=7804782&type=search

[207]http://baike.baidu.com/subview/8557/12526906.htm

[208]http://www.zdic.net/c/0/18/38559.htm生者が冥土にゆき仕事し、事が終わると戻ること。

[209]原文「敢不慎獨知於衾影哉。」。「衾影无」という言葉を踏まえた表現。衾にも影にも恥じることがないということで、為に恥じるところがないこと。

[210]http://ctext.org/analects/zh?searchu=%E7%9F%A5%E4%B9%8B%E7%82%BA%E7%9F%A5%E4%B9%8B%EF%BC%8C%E4%B8%8D%E7%9F%A5%E7%82%BA%E4%B8%8D%E7%9F%A5

[211]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%A8%A8%E8%82%89画像検索結果

[212]原文「則所不食者也」。南方で食べられているものではないということか。とりあえずこう訳す。

[213]未詳だが、攤鶏蛋であろう。画像検索結果

[214]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%B7%E5%8C%85%E8%9B%8B画像検索結果

[215]「腹にそむく将軍」ということで、ここでは「腹を空かせた人」ということ。出典は蘇軾の詩の自注。

inserted by FC2 system