●巻一

 

◎桐城張氏の陰徳

 

桐城の張息耕(元宰)[1]は家大人と壬戌の同年[2]で、ともに館選[3]に登っていた。家大人は壬戌の秋に服喪帰郷したが、同年の中には顔を合わせても知らないものが多かった。乙丑[4]に入京して散館[5]となると、はじめてだんだん打ち解け、息耕ともっとも親しく、旧友であるかのようであった。息耕に尋ねたことがあった。「あなたの家は韋平[6]が美を成し、今でもまだ簪紱[7]が相次いでいますが、ご先祖にきっと莫大な陰徳がおありでしょう。」息耕は言った。「わたしの家には竹立城がございますが、お聞きでしょうか。わたしの家の先代の某翁は、文端公[8]の祖父ですが、雪の夜に盗人が屋根に隠れているのを見、かれが凍えているのを憐れみ、梯で助け下ろしたことがありました。見れば、隣人でした。書斎に連れ込み、壷飧[9]を作り、それを食べさせ、数両を贈って去らせ、まったく家人に知らせませんでした。隣人は翁にたいへん感謝し、つねに報恩の手立てを考えていました。後に夫婦は耕作に励み、田を五六畝買いました。ある日、田にゆきますと、富豪の子が葬師[10]とともにある場所にゆきました。葬師はしばらく観察しますと、言いました。『ようございます。これは卿相城でございます[11]。』どんな験があると尋ねますと、葬師は言いました。『竹をその間に挿してごらんになってください。竹は一晩過ぎれば生えましょう。』隣人はそれを聞き、帰って妻に述べますと、妻は言いました。『以前は張さまに恩返ししようと焦っていたが、今はできる。』隣人がそのわけを尋ねますと、妻は言いました。『かくかくしかじかすれば、宜しいではございませんか。』隣人は承諾しました。朝にその地に赴きますと、本当に竹が生えていましたので、それを除き、枯れ枝に易えました。まもなく、葬師がまた来、その言葉が当たらなかったことを訝り、爽然[12]として去りました。隣人は計略を用い、買って翁に属させますと、翁は言いました。『それはいけない。他人の良いものを奪えば[13]かならず禍が重くなろう。』隣人は言いました。『あなたの盛徳でなければ、これには値しません。』懇請してやみませんでしたので、それを受け、代金を償いました。子孫はそこでこの穴を竹立城と呼んだのです。」家大人は言った。「堪輿の説は信ぜざるを得ません。わたしの郷里安渓の李文貞公[14]のこともお聞きでしょうか。文貞公の父某翁は某翰林の佃戸でした。翰林は葬師[15]を招いて地を占わせましたが、葬師は一つの穴を見つけますと、言いました。『ここはかならず三公[16]を出しましょう。』建築して半ばになろうとしますと、某葬師が阻み、建築を果たしませんでした。前の葬師はたいへん怒りましたが、その時はすでに薄暮でしたので、すぐに辞して去りました。かれはもともと李翁と旧知でしたので、李翁の家に宿を借り、くわしく悪口を言いました。李がうやうやしく接待しますと、葬師は尋ねました。『ご両親は埋葬なさいましたか。』李がまだですと答えますと、言いました。『それでしたら、某翰林の棄てた地を買い、葬られてはいかがでしょうか。頼んで差し上げましょう。』翌日、書状を某翰林に呈しますと、某翰林はちょうどその地を確かめよう[17]としていましたので、承諾しました。葬師は喜び、日を選び、葬地を卜してやりました[18]。それが済みますと、ゆこうとし、李に告げました。『三年後、わたしはかならず確かめに参りましょう。』後に李は耕作し、収穫は倍になり、家産はだんだん豊かになりました。某翰林は驚き、後に葬師を召してわけを尋ねますと、答えました。『禍はもともと現れておりません。墓の傍らに河を巡らせば、禍はすぐに来ましょう。』某翰林はすぐに河を開鑿し、その言葉を試しましたが、河が完成しますと文貞公が産まれました。ある日、前の葬師が来、李が河を開鑿したことを告げますと、言いました。『福はここに集まります。』突然、奥の間で呱呱の声が聞こえ、言いました。『男子を得られましたか。』出して見せることを求めましたところ、四角い額に真っ直ぐな鼻筋でした。葬師は言いました。『これは台星[19]で、あの葬師が知るでしょうから、遠く移り、禍を招かぬようにするべきでございます。』そこで一族は引っ越しました。某翰林はそれを知りますと、他の佃戸に命じ、その墓を守らせました。文貞公は年が十二の時、父に従って帰り、墓参し、某翰林を徳とし、感謝しにゆきました。翰林は驚いて言いました。『この子はどこから来たのか。将来の公輔[20]の器だ。』そこで家に留め、賢明な師を招いて教えさせましたが、これが安渓相公家勃興の物語です。」息耕はそのために嘆いた。その時、座中に江右の同年某友がおり、葬儀のことで親族・隣人と争訟してやまず、二人がほしいままに語るのを聞き、慨然として言った。「わたしの郷里の諺に『福地には福人が来る。』という。何を争うことがあろう。わたしはもともと散館の後、いそいで暇を取り、家に帰り、このことを片付けようとしていたが、今はもうそうしない。」人々が尋ねても、その首尾を審らかにしなかった。

 

◎杭州の許氏の陰徳

 

銭塘の許滇生[21]尚書の家は、四代科挙に及第し、郷・会試になるたびに、親族の同世代や子や侄にかならず合格する人がいた。言い伝えでは、その封翁[22]の楽亭先生は申[23]のベテランで、滇生尚書の曽祖父であった。はじめ陜甘両省で幕僚となり、後に督部[24]の方恪敏公[25]が幣帛を厚くして招いた。公は事務処理が精密敏速であった。時に平涼[26]、慶陽[27]の数府はしばしば飢え、餓死者が相次いでいた。封翁はそれを聞いて憐れみ、ひそかに上奏文の原稿を整え、公に上奏を求め、あわせて帑銀[28]二十万両を出し、平涼などの府の飢民を救済することを求めた。数日後、上奏文をまだ発送せず、封翁はすぐに旅装を調えて辞職した。公はみずからわけを尋ねにゆき、言った。「先生への待遇も粗略にしようといたしませんでしたのに、今たちまち辞職なさるのは、幣銀二十万を求める上奏文をぐずぐずとして発送しないためでしょうか。」封翁は言った。「その上奏文を本当に発送なさいますなら、けっして辞職いたしません。」公は承諾し、即日拝発した[29]。去った後、公は心が惴惴[30]とし、求めることが多過ぎたと思い、許可を得ることができないことを恐れた。一か月後、戻ってきた朱批[31]を奉じたが、大いに称賛を蒙り、二十万両ではまだ足りぬことを恐れ、二十万両を加賑[32]した。公は望外のことにたいへん喜び、すぐに封翁の所へゆき、謝罪した。そこで平涼などの府の数十万の民草は、溝壑に落ちるのを免れた。数年足らずで、封翁の子は郷試に合格し、令孫の学範、学曽はいずれも相次いで進士となり、「乃」の字の排行になると、ますます盛んになった。人は許家の陰宅[33]がたいへん良いのだと思ったが、封翁の功徳が数十万の民草を生かしたことによって致されたものであることを知らなかった。戴君槐谷は許氏の姻戚であり、述べたことはこのようであるが、事実を述べているはずである。

 

◎南昌[34]万氏の陰徳

 

家大人が河南の監司[35]で役人をしていた時、南昌の万氏の兄弟、たとえば廉山(承紀)[36]、淵北(承紫)[37]は、みな管轄官庁の官で、往来してもっとも親しくしていた。その家が盛んであることをよく聞いていたので、その由来を尋ねれば、すべてかれの父君梅先生[38]の遺沢であった。先生は名を廷蘭、字を梅といい、乾隆壬申[39]の春秋会[40]に連捷した進士で、庶常[41]から知県に改まり、直隷懐県を授かり、宛平県に転任し、通州の知事に選ばれていた。東路庁の事件に関わって免官・処罰されるものはたいへん多く、事件を審理するものは日々拷問を事とし、人々はみな度を失っていた。先生だけは惻然として、一身を任せた。一年で結審し、死刑を適用され、ほかの官はみな許しを得た。まもなく、朝廷もかれに罪がないことをひそかに知った。戊子の秋讞[42]で、恩を蒙り、勾留を免れた。丁酉[43]の春、鑾馭[44]は東巡し、通州を過ぎ、高い壁が屹然としているのを見、この城壁工事はだれが請け負ったか尋ねた。大官は前任の州牧万廷蘭だと答えた。にわかに聖恩を蒙り、処刑を延期することに改めた。壬寅の年、たちまち特旨を奉じて出獄したが、保陽[45]の獄に繋がれること都合十六年であった。その時、同案[46]の役人たちは、みなすでに帰郷し、それぞれ大金を出して帰郷の計画を援助しにくるものが、約せずに時を同じくしたが、先生はすべて笑って退けた。帰郷した後、林下に優遊すること三十年近く、嘉慶丁卯[47]に到って天寿を全うし、享年八十九であった。梁山舟先生[48]はために元遺山[49]の詩句を集め、挽聯を作った。「千丈の気豪くして天もまた妬み、一生の詩在りて事伝ふるに堪ふ。」『計樹園詩存』が世に行われている。今、先生の末子(承絳)は、道光甲辰の進士[50]で、官位は山西知県となっている。先生の孫()は、嘉慶己巳進士で官御史である。(啓封)は嘉慶癸酉副挙人で、官位は浙江知県である。曽孫(立錦)はさらに道光庚子の挙人に合格した。目下孫、曽孫は百余人を下らない。ああ、盛んであることよ。

 

◎方勤襄公[51]

 

わが福建は台湾の林爽文の乱の時、福節相(康安)[52]が来て平定した。軍機章京[53]二人を従えていたが、一人は方葆岩(維甸)、一人は范叔度鏊[54]で、節相はかれらに頼ること左右の手のようであった。方には訊問を専管させ、范には文書を専管させた。諸羅[55]を取り戻した日、番山の中から逆民千余人を探し出したが、節相はすべて処刑しようとし、ひとまず方に渡し、訊問・記録させた。方が一人一人こまかく訊問すると、いずれも脅されて従った者であったので、すべて許そうとしたが、節相は許さなかった。方はますますつよく支持したので、後に結局すべて生かせた。その後、山を探して見つけた時は、すべてこれに倣って審理し、助かったものはたいへん多かった。時人は方の功徳はたいへん大きく、報いがあるはずだと論じた。後に本当に封疆を歴任し[56]、直隷総督に終わり、謚を勤襄といった。家大人は言った。「葆岩は二世代直隷総督になり、その父恪敏公[57]は功徳が厚く、片言で保定の瘋民が聖駕を犯した事件を許したことがあり、もっとも人に(事は前録に詳しい[58])に語られている。さらに妾の姚氏の伝えるのを聞いたが、公は五十過ぎでまだ子がなく、浙江を巡撫した時、人を遣り、金陵で一人の娘を買わせ、公の姉が彼女を杭州に送って来、日を選んで娶ろうとしていた。公はたまたま姉のところにゆき、詩集を見たところ、知り合いの名があったので、尋ねると、この女が彼女の祖父の作を持って来たことを知った。公は言った。『わたしは若い時にこの娘の祖父と詩によって知り合った。その孫娘を娶れようか。』すぐに彼女の家に返し、資金を援助し、嫁がせたが、時に公は六十一歳であった。その年、家で太夫人はすぐに葆岩を産んだ。今また尚書・総督となり[59]、公の後を継いだ。ああ。これは恪敏公の陰徳で、知る人は少ない。聞けば勤襄公は家が栄え、みな翰林出身によらないことを怨みとすると言ったことがあるそうだが、今、公子伝穆[60]は、詞林[61]から知府となり[62]、しばしば監司に選ばれた。

 

◎胡中丞

 

翻陽の胡果泉(克家)[63]先生は、家大人の乙卯会試の薦巻師[64]で、たいへん良く待遇してくださった。当初、わが福建道府[65]に揀発[66]せられたので、いっしょに都を出ることを約し、帰郷省親の楽しみがあると思っていた。まもなく広東恵潮嘉道に送られたので、家大人に、都に留まって受験勉強[67]するように、都を出る必要はないと命じた。刑部にいた時は、仁恕を旨とし、すこしも私心を交えようとせず、観察[68]を得た。謝恩[69]の日、夜起きるとまだ早かったので、坐して仮眠していた。すると、一人の青衣が来、役所に入ることを求めたので、胡は言った。「まもなく参内せねばならぬ。ゆけない。」青衣は言った。「往復しても遅れません[70]。」そこで輿を動かすように命じると、すでに準備しておりますと答えた。知らぬ間に門を出、車に乗り、疾駆して去り、ある門を過ぎたが、黒漆のように光があった。さらに進めば、輝く緑の瓦の大殿であった。入れば中に坐しているものは三人で、かれが来たのを見ると、みな立って拱手した。先生が進み出て揖すると、階の下に一人の男が跪いていたが、両の臀は爛れていた。上座に着いているものは言った。「この人は暑い時は杖罪が緩決[71]になるはずだったが、緩決にせずに判決され、傷が潰瘍になることによって死んだと訴えているが、そうなのか。」胡は、杖罪は某が慣例通りに審判したものであり、判決の時、某はすでに病気で休暇をとっており、知らなかったことを答えた。そこで冊子を調べると、その時は本当に休暇中であった。さらに一人が首を捧げ持って進み、罪は緩決にするべきだったのに、誤って情実[72]に入れられたと言った。胡は斬罪の緩決はわたしが決め、情実は堂官[73]が改めたものだと答えた。そこで上座に着いているものは座を設けるように命じ、やさしい言葉で慰めた。外に出ると、ふたたび車に乗って帰った。道で昔しもべであった某に会ったが、数日前に死んだ者で、輿の前で叩頭し、称するには、わたしは母は老い、家は貧しいため、仮埋葬された棺は帰郷できません、書室の字の書かれた屑籠の紙くずの山の中に銀三十両がありますから、調べて家人に渡してくださいと求めた。さらに某下役は銀三百両を用いたことがあり、親しいために証文を作らず、利息も取らなかった、今返さぬ積りでいるので、かれにはやく清算を行うことを求めてくれとのことであった。その時、先生はたちまち奏摺を届けるのが遅れることを思い出したが[74]、下役は言った。「ある人が病気の休暇を奏請してあげましたから、心配ございません。」先生はそこで目ざめた。翌日、みずから下役の家にゆき、屑籠を調べると、本当に銀三十両が見つかった。さらに某下役を召して来させ、事情を話すと、某下役はたいへん驚き、数日足らずですぐにくだんの金を量って返した。冥土はもとより欺けず、仁心を本質とする先生でなければ、このように厳格周到にできなかった。先生は外台から安徽で開府[75]歴任しいつも人のために、このように以前のことを述べていた。

 

◎陳方伯

 

江西徳化の陳東浦方伯(奉玆)[76]は、当初、進士から四川の知県となっていたが、金川が乱をなしたとき[77]、官軍が県内を過ぎた。上司は苦役を任せることが多く、公は砲局[78]および兵輿橋路の修理を司り、つねに口外[79]の山谷の間におり、危険に瀕することはしばしばであった。同僚も救ってくれず、上司はなおさら憐れんでくれなかった。三雑[80]土司[81]というところがあり、その土地は金川に進攻する通路に当たっていた。官兵がにわかに来ると、三雑の長卓爾碼(チョルマ)[82]は、婦人であったので、訝って伐ったところ、門を閉ざして防いだ。将校はおおいに騒ぎ、三雑が叛いた、先に攻め破るべきだと言った。公はすぐにゆき、将軍に告げた。「三雑は叛しておらず、国家の趣意を知らないだけでございますから、単騎でいって様子を見て諭しましょう。」将軍は公の策に従った。公がゆき、しばらく話すと、卓爾碼(チョルマ)はすぐに守るものを解散させ、書状を調えて謝罪し、さらに軍を助け、きわめて殷勤にした。後に詔を得、賢順として加封せられた[83]卓爾碼(チョルマ)は、公だけがわたしを生かせ、さらにわたしに栄誉を与えてくれたと言い、今でも像を鋳て祭っている。公は蜀中にいること二十七年であったが、ここにいたって、軍功により選ばれて江蘇布政使となった。

 

◎孫観察

 

孫伯淵先生(星衍)[84]は、耿介でみずからを持し、流俗に従わなかった。一甲の進士で編修を授かった。当時、和坤が国政に当たっており、一時の俊英たちには、屈服して門下に収まるものが多かった。公は硜硜[85]としてみずからを保ち、ひとりだけ交際しなかった。和は怨み、公が散館で、『試u賦』[86]を試験された時、『史記』の「匔匔として畏るるが如し」[87]の語を用いたが、和は誤字だと指摘し、抑えて二等に置き、部員[88]として改めて用いた。慣例では、一甲の進士は部員にされると、留館[89]を奏請することになっていた。その時、和はちょうど掌院事[90]であり、公が直接相談しに来ることを望んだが、公は結局ゆかず、言った。「わたしは聖上が改めた官位を得ても、人の恩恵を受けない。」さらに編修[91]から転任し、員外郎を得られたことでは、それより前、わが福建の文煥[92]に前例があった。ある人は、いって会いさえすれば、すぐに前例通りに処理してもらえると言ったが、公は言った。「主事は最後は員外に選ばれるから、汲汲として人に求める必要はない。」それから、編修が主事に改めるのが慣例となった。刑部直隷司主事に補せられ、時に部務[93]を掌管していた相国阿文正[94]、大司寇[95]の胡荘敏公[96]はいずれも刮目して待ち、人を遣わし、秋審[97]をすべて処理させた。仲間はみなかれを書痴と目し、打ち解けなかった。同年張鞠園(祥雲)[98]だけは、ふだんから公と古学を切磋し、同僚として親しかったが、断獄に齟齬があることが多かった。鞠園は精明[99]を旨とし、公は仁恕を旨とし、しばしば古義[100]によって治めることを求め、全員を生かすことが多く、長貳[101]に愛し敬われた。しばらくすると、仲間もだんだん後ろ指を差すことがなくなった。その年、伊墨卿[102]先生があらたに部に入り、その父君雲林[103]光禄[104]が戒めた。「事件の審理はもっとも難しいが、あなたが伯淵に則ることを願うばかりだ。」公は転任後わずか六年で、すぐに京察[105]から地方に出、兗・沂・曹道となり、按察使の事務を代理すること七たびであった。一ヵ月後、冤罪を雪がれたものは数千人、死罪に誣服したものを生かすことは十余件に到ったが、それによって県官を罰することはせず、言った。「県官はどうして刑律に通暁することができよう。すべて幕僚が誤らせているのだ。」辞官の後、白門[106]に僑寓し、もっぱら後進を引き立てることに務め、座客はつねに満ち、人は陳太邱[107]と目した。人とある先輩を論じたところ、こう言ったことがあった。「かれが才人を愛さないのは、結局みずからの才識に限りがあるからだ。」時人は服して名言とした。近頃、伝えるには、かれは死後棲霞山[108]を主管しているということである。聡明正直であったのだから、神になるのは当然であり、理によって信じられる。

 

封翁

 

嘉善[109]南桾負・(凱鈞)は、霽青[110]知府の父であった。いささか帖括[111]を学んだが、(はたち)になったばかりで孤児となり、自活できないと思い、学業を放棄し、農耕を学んだ[112]。今『友漁斎詩集』に農器を詠じた詩十余首があり、首ごとに一器であり、いずれもくわしく注してある。耕さないで食べるものがこれを読めば、農耕の辛苦を知れる。嘉慶甲子[113]、浙西は洪水で、穀物は水に浸かり、米価は暴騰したため、県官は平糶[114]の政策を行ったが、人々には隠匿する[115]ものが多かった。翁だけは身をもって呼び掛け、大暑烈日の中、傘を持ち、歩いてゆき、ごとに、遺漏はなく[116]、救われたものはたいへん多かった。家の傍らの空き地を人に貸したところ、後に久しく借りて返さず、さらに反駁したことがあったが、翁は笑って問題にしなかった。さらに隣人の家を買ったところ、その家は先にすでに人に貸され、店になっていた。翁はかれが他に移って利を失うことを心配し、証文を立てようとしていた時、それを焼き、その店の者に譲った。かれが恩徳を施すのを好むことはこのようであった。まもなく、霽青は翰林に入り、文榜[117]を司り、知府を歴任した。同郷人は封翁の仁厚の報いだと思った。

 

◎彭詠莪[118]宗丞[119]が述べた二事

 

彭詠莪宗丞が言った。呉中郷[120]の大賓[121]彭タ斎、諱は正乾は、芝庭[122]尚書[123]の封翁であった。以前家を造ったところ、東隣の風水に障りがあることを聞き、匠に命じて柱を切らせ、それぞれ三尺短くした。その家はたいへん低く、豪族にふさわしくなかったが、里中の人はかれの盛徳を称えた。後に一品の封を受け、夫婦はいずれも長寿となった。数十年を閲して、東隣の家はすべて彭のものとなり、その子孫が分かれて住んでいた。さらにいった。呉中の朱広文応潮の父、名は宏基は、楓橋[124]で商売していた。以前、盗人がかれの家に入り、見れば、隣家の某であった。その人は捕らえられるのを恐れ、跪いて許しを求めた。朱は銀十両を出して賜い、言った。「これを持ち、みずから生計を探し、ふたたび賊となるな。」その人は結局悪を改めて善に従い、朱も結局かれの姓名を言わなかった。後に応潮は乾隆乙卯[125]に順天郷試を受けたが、房官はかれの答案を捨ておいていた。ぼんやり夢みたところ、一人の男が言った。「もう一度見られよ。」房官は目ざめ、しかたなく見たが、やはり気に入らなかったので、答案を抛って寝た。するとたちまち人がその床を推し、言った。「起きられよ。起きられよ。もう一度見られよ。」目ざめると、すぐに答案を取って圏点を加えた。翌日になり、主司[126]に呈出すると、すぐに合格した。後に官位は桐城教諭となった。

 

◎回煞

 

姚伯昂先生[127]の『竹葉亭雑記』[128]にいう。人が死んだ後、回煞[129]がある時、北方ではそれを出殃[130]という。友人の常雲麾[131]が言うには、地安門外[132]の××家で、あらたに死んだ者がいたので、陰陽生を招いて出殃の日を調べさせた。生は調べ期日を告げ、さらに言った。「このあやかしは尋常と大きく異なり、かならず大きな祟りをなしましょうから、ご一家が移って避けられても、祟りを免れぬ恐れがございます。某鴉番(ヤファン)()()(シェン)街の番兵[133]の称である)だけは胆が太く、敵することができますから、家に迎えて防がれるのがようございます。」その家はたいへん恐れ、その日になると、走って某鴉番烏克神を訪ね、酒食でもてなし、食べおわると、事情を告げた。某ももともとその胆力を自負していたので、断ろうとしなかった。夜になると、棺蓋が音をたてたので、見たところ、蓋はすでに開いており、棺の中の人が起きようとしていた。いそいで棺の上に跳び上がり、むりに押さえ、終夜じっとし、ニワトリが鳴くと、棺の中の人ははじめて帖然[134]とした。某はふたたびその棺を閉じた。その家の人が来、夜の情況を尋ねると、某は語らず、何事もなかったとだけ答えて帰った。その家が無事であったと陰陽生に告げると、生は愕然として、言った。「わたしが前に調べた日は誤っておりました。ほんとうは、あやかしが帰るのは、ちょうど今日です。しかしその激しさは名状できないものでございますから、防ごうとなさいますなら、やはり某さんでなければいけません。」その家はまた某の家にゆき、かれがまた来ることを求めた。某は心のなかでは断ろうとしたが、大胆の名声を失うことを恐れた。ゆこうとしたが、力が敵しないことを恐れた。ひとまず応じたが、心のなかではひそかに心配していた。たまたま表通りにゆくと、一人の文字占い師がいたが、占い師は卒然と尋ねた。「どのようなご心配がおありでしょうか、お告げください。占ってさしあげることができましょう。」某はかれがゆえもなく先に知っていることを怪しみ、事情を告げると、文字占い師は言った。「幽鬼がひどくあなたに祟れば、敵いますまい。爆竹三つをお贈りしますから、急な時にないましたら、一つを放ち、三たび放てば何事もなくなりましょう。しかし部屋の中ではだめでございますから、屋根に登って待たれるべきでございます。」某は文字占い師の指示通りにした。夜半になると、棺蓋の裂ける音はたいへん激しく、本当に前夜とは異なっていた。蓋が裂けると屍はすでに出ており、四方を眺めれば人がいなかったので、すぐに中庭に出た。さらに四方を眺めると、某が屋上にいたので、躍って登り、追いつこうとしたが、某が一つの爆竹を放つと、すぐに倒れた。まもなく、また起き上がった。このようにすること三たび、爆竹が尽き、ニワトリが鳴くと、屍は二度と起き上がらなくなった。その家の人が来ると、そのありさまをくわしく述べ、屍を担いでまた安置した。陰陽生に告げにゆくと、生はすでに急死しており、身は火で燃やしたかのようになっており、硝煙と硫黄の臭いはまだ散じていなかった。その人はたいへん驚いた。後に尋ねて知ったが、この生はもともと某を怨んでいたので、このことに託けて殺し、さらにかれの術を神々しくしようとしていたのであった。そもそも人を騙して殺そうとするものは、先に暴露の苦しみを受けるもので、冥土はもとよりそれを許せないのである。かれが火のために死んだのは、もとより天道の当然であった。これら術士が禍をなすことができるものも、恐ろしいことである。文字占い師が尋ねる先から知っていたのも、疑わしいことである。

 

◎継子が家を興すこと

 

卓海帆[135]閣老[136]が言った。呉中の某封翁に聞いたのだが、五歳時に伯父の後継ぎとなったが、後に継父は寵愛している下女がつづけて五子を生んだため、封翁を憎悪した。庶出子の長子は、さらに狡猾であり、娶った妻の某氏は、もっとも凶暴陰険であった。かれは日々封翁を讒言し、事ごとに掣肘し、封翁は我慢すること数十年であった。家はもともと豊かで、分家した際、弟たちはともに大金を擁することになったが、封翁が得たものはかれらの分け前の半分にも及ばなかった。家はだんだん没落したが、封翁はもともと節倹し、平生みだりに一銭も用いなかった。継父の歿後、弟たちはますます淫蕩をほしいままにし、禁じてもやまなかったので、家を探して別居した。後に弟たちは人と訴訟して年を重ね、すでにその家産の半ばを費やし、長子夫婦はともににわかに亡くなり、子供四人はつづけてその三人が若死にし、そのほかにも死ぬものが重なり、暮らしむきは蕭然とした。しかし封翁の二子はともに合格し、官位は貴顕で、夫婦は添い遂げ、孫や曽孫は林立した。このことを知るものは、みな天道がたがわないことを嘖嘖[137]と語った。

 

◎四美

 

卓閣老はさらに言った。道光乙酉[138]の冬、わたしは都にいたが、聞けば江南の郷試の二場で答案に詩を題したものがおり、七律一首であったが、後ろの四句にこうあった。「薄く慈姑[139]()りて怨句を吟じ[140]、漫ろに益母[141]を煎じて相思を治す。ゆくに臨みたがひにきる羅衫の袖、珍重す啼痕よろしく護持せよと。」末に「坐九王復題す」と書いてあった。これは「坐」の字の九号[142]のことであった。その試験の会場には二人の王復がおり、一人は安徽の人、一人は江蘇の人であった。後に乙未[143]の歳、わたしは閣学[144]として江南の郷試を司り、一つの答案を得たところ、すでに上位に決まっていたが、詩の結聯に「四美[145]」の二字を用いていたので、あまり荘重でないことを嫌い[146]、退けた。弥封[147]を裂くとき、その名を閲したところ、王復であった。

 

◎江山の豪族

 

江山県の紳、最近を王家がもっとも盛んであった。言い伝えでは、その亡父某は、北門の外に住み、藁屋一間があるだけ、かれの祖父の財産であった。ある日の朝、藁屋を掃除していたところ、小さな包みが一つあったので、調べてみると、中に五十両があった。旅人が忘れたものと悟り、じっと入り口に坐して待っていた。にわかに一人の男がよろよろと号泣しながら来たので、そのわけを質したところ、金を落とした者であった。みずから述べるには、金は借りてきたもので、かれの親戚が誣告されて獄に入っているため、番をしているものたちにその金を賂し、許しを得ようとしているということであった。金が見つからなければ、親戚は獄で死ぬこととなり、かれの妻と子はいずれも自活するすべがなく、わたしは親戚に顔向けするすべがないし、ひとりで暮らすわけにもゆかない、この金は本当に四人の命に関わっているので、このように慌てているのだということであった。話をすると、また泣いた。某はすぐに前の物を出し、返した。その人はくわしく姓名を尋ね、拝謝して去った。一年後、某は親を葬った。期日になると、柩を守ってゆき、墓地を隔てることわずか半里ばかりで、大雷雨となり、水がにわかに漲り、柩は進めなくなったため、途中の空き地に安置した。雨はますます激しく、水はますます多くなったので、走っていって墓穴を見ると、すでに水に突き破られており、葬るに堪えなかった。やむをえず、空き地に土を盛って塚とした。一年後、その家はにわかに栄え、泮宮[148]に入り、郷試に合格するものがあいついであらわれた。みな某が金を返した報いだと思い、今はすでに城内の豪族となっている。

 

◎某廉訪

 

楚南[149]の按察使某は、浙江の人であった。苗をよく治めた功により、同知からしばしば抜擢されて廉訪[150]にまで到り、二品の銜[151]を加えられ、ともに花翎[152]を戴き、疆内では開府と喧伝していた。聡明で才幹があり、省内のことはかれの主宰に従っていた。たまたま糧道[153]に欠員が出たとき、ある補任を待つ某が補任せられるべきだといったが、撫軍は廉訪と相談して与えなかったので、某道は怨みを抱いた。廉訪は苗族を平定した時、苗田数頃があり、道内の兵餉[154]は、本当は廉訪が司り、毎年苗の地に一度ゆき、巡察と称していたが、実際は年貢を納めるだけであった。某道はそのことをくわしく知り、つねに人に言い、発こうとした。廉訪はたいへん恐れ、先に陥れようとした。某道は以前岳常澧道[155]を代行し、鐚銭の一件を調べた時に、苞苴(まいない)を受けていた。廉訪は確かめようとしたが証拠がなく、人をやって賄賂で鋳造主の妻を誘い、その事実を知り、いそいで上奏して弾劾した。勅旨を得たところ、某道は職を剥奪され、厳しく訊問された。廉訪はこのことを司った。某道は法廷に出た当初、まだ廉訪の同僚の誼があったので、悲しみ泣いて訴えてきた。廉訪はたいへん怒り、法廷で怒鳴ったとし、拷問を加えさせた。獄に送るときになると、今度は某道にむかって惜しみ嘆き、旧寅好[156]のようにし、自分の褐衣[157]を着せ、自分の肩輿に坐して出させた。そもそもかれが刑具を加えたことを他人が問題にすることを慮ったので掩飾したのであった。某道が獄に入ると、獄の下役に命じて厳しく拘禁して人と通じさせず、大盗を繋いでいるかのようであった。事件が判決されると、贓私[158]の律によって絞罪とした。まもなく、廉訪は入覲[159]し、楚に帰ろうとし、汝州の宿屋に泊まった。座に入ると、しもべに命じて茶二甌を運ばせた。そのしもべは怪しんだが、すぐに部屋の中で詰り弁じる声が聞こえた。それは主人が某道と弁論しているのであったが、声だけが聞こえ、人は見えなかった。役所に帰るにおよび、部屋に入るとすぐに、驚いて言った。「某道台その、どうして来られたのですか。」すぐに某道にその背を撃たれ、疽を発して死んだ。廉訪は奸悪陰険が極まっており、死んでも余罪があった。しかし某道が軽率な言葉で禍を招いたのも、戒めるに足りる。

 

◎某知府

 

道光年間、某知府がおり、刑名[160]によって家を興した。はじめ同知として派遣せられ、福建に来、しばしば知府に選ばれたが、いささか才幹があったので、制府[161]に信任せられ、当該の官職[162]に補せられていたものの、実際は長年省で事件を審理していたのであった。宣伝したり恫喝したりし、名は大いに広まり、省内の官員たちはみな側目した[163]。台湾の官吏殺害の一件[164]で、制府は随行するように命じ、犯人を百六十余人捕らえた。制府ははじめ別々に審理しようとしたが、某は言った。「台湾は民情が不穏であり、この犯人たちが死ななければ、鎮まるのは難しいでしょう。さらに大人が調べた事件で、将来このものたちが事件を起こせば、おそらく大人も罪を逃れ難いでしょう。」そこですべて斬罪にした。内地に渡る時舟に乗ってまもなく、某が見たところ、幽鬼が無数にその舟に攀じ登り、舟が転覆しそうになったので、いそいで制府の舟に乗り、免れた。その時、史望之大司寇[165]が福建を督学[166]していたが、深くかれを憎み、けっして穏やかな顔で会わなかった。賀耦耕先生[167]が命を奉じて福建布政使となると、やはりよく某の名を聞き、賀が着任した後、某は招き、私的に会ったが、賀はかれに礼しなかった。某はたいへん怒り、帰る時、賀の帽を抛ち、言った。「官になれぬぞ。」その日、知府は某が役所に入って事件を審理しないので、人をゆかせ、かれを迎えようとしたが、某は病気を理由に断った。かれの仲間に、軍功によって補任を待つ通判某と補任を待つ県丞某がおり、ともにかれを見にいったが、かれは某通判に会うとこう言った。「台湾の事件で、後の三四十人はみなあなたたちが判決したが、今、みなわたしの家に来て騒ぎ、部屋にほとんど入りきれない。」二人はかれが発狂したかと疑ったので、無言で退いた。翌朝、探ると、死んでいた。この事件はもとよりすべて処刑するべきだが、制府は別々に審理する考えがあり、死中に活を求められないわけではなかったのに、某の一言により、みな頭のない幽鬼となったのだから、かれらが怨んだのは当然か。按ずるに、乙未[168]の年、賀耦耕先生が家大人とともに召されてふたたび出仕した時、賀は先に都にゆき、すぐに福建布政使を授かった。家大人は北上し、天津の波止場で会った。賀はくわしく福建省の吏治[169]を尋ね、さらに言った。「わたしはもともと福建に二人の郡丞がいることを知っているが、一人は時派[170]で、一人は齷齪[171]だ。」「時派」とは陸莱臧[172]を指し、「齷齪」とは某を指していた。だとすれば賀は精明であり、某はたとえ死なずとも、どうして安全でいられようと洞察したのである。さらに按ずるに、この条を、わたしは福州の当時の当局者たちに聞いた。その後、姚伯昂先生の『竹葉亭雑記』を閲したところ、記載はほぼ同じであった。褒貶は公正であり、衆口を閉ざせないことを知った。

 

◎冥土が苦節を重んじること

 

呂農部[173][174]は、道光乙酉[175]の挙人、丙戌の進士[176]であった。袁大尹[177][178]は、かれの郷試の同年であった。春闈[179]の前、袁の兄は一人の老人を夢みたが、かれが祖父であることが分かった。客が来て尋ねると、坐してその祖父に言った。「相談することがございますが、よろしいでしょうか。」祖父が何事かと尋ねると、客は言った。「宜しければ申しましょう。」祖父は言った。「もちろん結構です。」客は言った。「お孫さんは今回の試験で会試合格なさるはずですが、一つの空きしかなく、合格するべきものは二人でございます。呂某というものがおり、二代の苦節がございますから、どうかお譲りください。」かれの兄は話を聞くと、いそいで客の姓名を尋ね、かれを殴ろうとした。客は湯某だと答えた。その兄も久しく敦甫[180]尚書の名を知っていたので、すぐに殴ろうとしなくなった。祖父は客を送って去らせ、その太夫人は平素から神を信じており、夢みて神前で香を捧げ、子のために功名を求めた。香を供えようとすると、傍らの一人の少年が、それを打ち落としたので目ざめた。合格発表があると、呂某が×位に合格したことを聞いた。母が呂の年尋ねると、ちょうど二十余であったので、はっとして言った。「夢の中でわたしの香を打ち落としたのは、この人だ。」会うと、房師[181]は告げた。「あなたの答案は盧総裁に捨て去られたが、湯総裁がたいへん賞賛したので、合格できた。この中には縁があるのではあるまいか。」袁は己丑に進士[182]となり、本当に次の試験であった。冥土はこのように節を守ることを重んじるのであった。呂母は寡婦となった時、年は三十歳近く、かれの祖父が歿した時は、年がちょうど四十余で、朝廷は慣例で表彰しなかったが、冥土は苦節と称していたのである。たいへんなことである。節を守ることが尊いのは。

 

◎不孝の責めが重いこと

 

『竹葉亭雑記』にいう。卓某は、漢軍[183]の人で、金によって知府となり、広東に派遣せられた。洪姓のものから数千両を借り、その人が門番するのを許し、かれを従え、舟に乗らせた。ある晩、その人が跳板[184]に登り、大便していると、船頭が板を除いたので、その人は水に落ちたが、人々が駆けつけて救ったので、死なずにすんだ。卓はかれが寒気を受けることを心配し、自分の衣服をかれに着せたが、人々は主人が過分なことをしていると思った。舟が高郵[185]に着き、若いしもべおよび下女が舟の中で夫人が鶏卵を食べるのに侍していると、突然、雷鳴が空から轟き、下男・下女はみな昏倒した。目ざめると、卓と妻はともに死んでいた。船頭も先に撃ち殺されていたが、その後蘇り、言った。「××[186]が水に落ちたのは、卓が百両をわたしに賂して殺させようとしたのです。」そう言うと、また死んだ。あるひとは、洪は死んでいないのだから、その罰は重いようだと思った。近頃聞いたが、卓夫婦はいずれも不孝であったそうである。卓はもともと佐領[187]であり、母が健在であったが、まずその()の冊[188]の中で自分の名をともに歿した伯父夫妻の名義の下に改め、後日葬儀を行わない根拠にしたのであった[189]。ゆこうとする時、ある親戚に借金し、その母に日々の食費をとどめてあげるのだと言った。財貨を得ると、ひそかに偽の手形を作り、その母に与えて去ったが、天罰はそもそもこのためであり、かれのためでないことをはじめて知った。船頭などは、甲の財が欲しければ、かならず乙を殺す心を本当に持っていた。蘇ってまた死んだのも誅心[190]の罰である。そもそもこのことは道光九年間に記録せられた。当時わたしは家大人が蘇州の布政司であったのに随侍していた。伝聞が蘇州に来た当初、人々はみなそのわけが分からず、着任していない官員が、なぜこのような重罰を受けるに到ったのか、債務を負い、生命を害しようとした一節にしても、どうして夫婦そろってその殃を受けたのかと思った。高郵の知事が蘇州に来、会うと、家大人に語ったが、はっきりとして絵のようで、すべて下男下女たちの口から出、人々は喟然として言った。「この人は死ぬのが遅かった。」高郵の知事が来ると、葬式代を集めてやり、すべてその詳細を知った。

 

◎不当に殺すこと

 

嘉慶戊午科[191]で、浙江郷試の二場の翌日、ある士人が狂疾を発したので、監試[192]の蒋観察は供給所[193]の李照磨に命じ、号舎から護送して出させた。狂人はみずから語った。本年の元旦、夢みたところ、一人の京兆の人がざんばら髪で血のように涙し、言うには、かれの父に不当に殺され、報いは子孫にあるから、かれの合格を取り消し、受験することを許さない、今脱稿したばかりだが、幽鬼がすぐに祟りをなしに来たということであった。話していると、飛び跳ねて叫び、あらゆることをし、海寧の張知事を振り返り、父台[194]さま、わたしをお救いくださいと言った。くわしく尋ねると、かれの祖父が顕官となったことがあり、父が現に直隷で知事をしていることをはじめて知った。その生員の学業はもともと優れたものであった。そこで号舎から連れ出し、米湯[195]を飲ませたところ、だんだん正常になった。また号舎に入ることを求めたので、李照磨が広間に引いてゆくと、朱倅のものに阻まれた[196]。再三頼むと、はじめて入ることを許されたが、蒋監試は突然大声で言った。「遅かった。」その答案を出して示したところ、すでに「廃巻[197]」と書いてあり、墨跡はまだ乾いていなかった。そこで介添えして出した。翌日、主司[198]は二場[199]の答案を選んだが、首場[200]ではすでに合格していたのであろう[201]。一時法を枉げれば、後の人が振わぬことを招くので、民牧[202]たるものは謹まぬことができようか。

 

◎関帝の籤

 

関中の某孝廉という者がおり、久しく病んで起きず、日々牀褥に臥していた。ある日、突然夢みたところ、関帝がこう告げた。「おまえは来年合格するから、明日すぐさま身を起こすことができよう。」朝になると、にわかに起きられた。母に相談すると、母は言った。「県庁の水[203]はすでに使ってしまったが、どうしよう。」ゆっくり考えると、言った。「お父さまは生前、××さんに銀××を貸したが、お父さまはあの人を許して取り立てなかった。お金の出所がないなら、県庁に訴え、取り立ててもらってはどうか。」そこで県庁に訴え、以前の貸しにつき処理してもらったところ、県庁は厳しく捕らえ、取り立ててくれた。公車に上り[204]、合格発表があったが、合格していなかった。訝り、前門[205]の関帝廟[206]にゆき、籤を引くと、籤に「(われ)(かつ)(なんぢ)(こと)和諧(わかい)するを(ゆる)すも、(たれ)(おも)はん(しう)()[207]するも(なんぢ)(みづか)(もと)らんとは。」[208]などの言葉があった。おおむね神には偽りの言葉はないから、合格するべくして合格しなかったのは、免除した銀をむりに徴収し、天の理を損ない、人の怨みを結んでいたからであった。

 

◎満ちることが欠けることを招くこと

 

姚伯昂先生が言った。王春亭刺史(照)が言うには、ある試験で、山西の副考[209]が公務をして帰ることになったそうである。その時、本省の官が城を出て送っていったが、慣例では、州県官が主司[210]を送る時、肩輿の前まで一丈に及ぶと、公揖[211]することになっていた。主司が輿を止め、柵を出ると[212]、役人たちが小走りに進み出た[213]。かれらに別れると、また輿に入っていった。役人たちはふたたび数歩進んで公揖した。この時、役人たちは揖したが、某副考は輿の中で伸びをしただけであった。金明府[214]というものがおり、副考の同年であったが、たいへん怒った。肩輿が遠くへ去るのを待ち、人を走らせ、それに追い付かせ、「某県にすこしお留まりください。申しあげることがございます」と叫んだ。某副考はやむを得ず、輿から下りた。金明府はかれが輿を出るのを待ち、以前頼んだ答案の磨勘[215]がすでに終わったと言い、ほかには言わなかった。副考はかれがふざけていたことを知り、恥じて去った。満ちることが損なうことを招くのを、古人は戒めている。家大人は言った。浦城[216]で教職にあった時、新任の某学政が入境した。その時、東莱[217]の周賡廷邑侯[218](虎拝)が城を出て迎えたが、某学政は輿の中で一回拱手しただけで、輿から下りなかった。周はたいへん怒り、候館[219]にゆくと、稟謁[220]せず、人馬は兵部の勘牌[221]の例に照らして支給するべきで、一名も多く発給することはできないと揚言した。学政は巡捕官[222]に頼んで再三謝罪させたが、結局不愉快な思いをして去った。さらに新班援例[223]の某巡道[224]が入境し、所属する府の知事李松雲先生(尭棟)[225]は、路傍で待って迎えたが、やはり輿から下りなかった。先生はたいへん怒り、事情を設けてその門丁[226]を束縛し、釈放しなかった。某巡道はまもなくすぐに病と称して帰った。

さらに言った。昔、黄河のほとりで役人をしていた時、入覲する某将軍の舟が淮安を過ぎた。その時、漕帥[227]は魏愛軒先生(元U)[228]であった。舟に入って会い、辞して出る時、将軍は船室の入り口まで送っただけで、すぐに退いた。魏が上陸し、輿の前にゆき、振り返ると、傍らに主人はおらず、はじめは爽然[229]として失ったかのようであった。即日袁浦[230]にゆき、孫寄圃[231]節相[232]のために述べると、節相は笑った。「これはもとよりあなたが未熟なだけです。わたしはかれに処するすべがございます。」翌日、将軍が袁浦[233]に来たので、節相は舟に入って会った。辞して出、ただちに跳板を渡って上陸し、輿の前にゆき、ふり返ると、将軍は見えなかった。すぐに武巡捕に命じて舟にゆかせ、言った。「大事な話がございましたが、申し上げるのを忘れましたので、将軍さまに上陸していただき、一言申し上げたいと思います。」その将軍が輿の前にゆくと、言った。「ほかでもございません。礼法ではあなたはわたしをここまで送って来られるべきでございます。」すぐに輿に乗って去り、将軍も嗒然[234]として退いた。これらはいずれも「人を侮るものは人につねに侮られる」ということである。

 

最終更新日:2018222

北東園筆録

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[1]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%85%83%E5%AE%B0

[2]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E5%98%89%E6%85%B6%E4%B8%83%E5%B9%B4%E5%A3%AC%E6%88%8C%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[3]http://www.zdic.net/c/6/107/281132.htm館職選任されること。

[4]http://zh.wikipedia.org/wiki/1805%E5%B9%B4

[5]http://www.zdic.net/c/3/2a/66810.htm翰林院には庶常館が設けられ、新士で朝考庶吉士の格を得た者は入習し、三年の期が満ち、試験を挙行した後、成績優良の者は留修、検討を授けられ、そのほかは各部に送られ、事中、御史、主事となったり、地方に出て州官となったりするがそれを「散といった

[6]http://www.zdic.net/c/6/2a/64256.htm西韋賢玄成と平当、平晏父子の併称。平父子は相継いで相となり、世に重んぜられた。

[7]http://www.zdic.net/c/a/a8/199848.htm冠簪と纓带。官服飾。また、顕貴・仕官

[8]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E8%8B%B1_(%E6%B8%85%E6%9C%9D)

[9]http://www.zdic.net/c/6/15/32084.htm盛った飲食物

[10]http://www.zdic.net/c/c/e3/228947.htm葬儀で風水を看、日等をぶことを業とする人。

[11]原文「此卿相城也」。「卿相城」は風水の用語と思われるが未詳。文脈からして、そこに墓を造ると子孫が卿相となる、佳い土地のことであろう。

[12]http://www.zdic.net/c/d/14a/323475.htm豁然、了然。

[13]原文「貪天必厚禍」。「貪天」は「貪天之功」のこと。他人の功奪うこと

[14]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%85%89%E5%9C%B0

[15]http://www.zdic.net/c/c/e3/228947.htm葬儀の際水を見、時日等をぶ人。

[16]http://www.zdic.net/c/9/149/323216.htm、太傅、太保

[17]原文「某翰林正欲徵驗其地」。「」は証明することそこに埋葬すると実際にどんなことが起こるか確かめようとしていたということであろう。

[18]http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE5Zdic8DZdic9C17642.htm死者を埋葬する時、先に占いして吉祥の葬日と葬地を選ぶことを「卜葬」と称する

[19]http://www.zdic.net/c/0/70/110952.htm三台星。

[20]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85ZdicAC23868.htm三公・四、いずれも天子の補佐役。宰相などの大臣を指す。

[21]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%B1%E4%B9%83%E6%99%AE吏部尚書であった。

[22]http://www.zdic.net/c/1/143/314147.htm孫が顕貴であることにより封典を受けた人。

[23]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic94ZdicB3182300.htm代、法家の申不害との併称。後世「申」で法家を代表する。「申の学」とも称する。

[24]未詳だが、総督であろう。方承は直隷

[25]http://baike.baidu.com/view/199722.htm

[26]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B6%BC#.E5.8E.86.E5.8F.B2

[27]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%86%E9%98%B3%E5%B8%82#.E5.8E.86.E5.8F.B2.E6.B2.BF.E9.9D.A9

[28]http://www.zdic.net/c/1/6c/107559.htm国庫銀子

[29]http://www.zdic.net/c/c/86/146080.htm奏疏を謄写し、案上に供し、焚香叩拝した後にすること。

[30]http://www.zdic.net/c/4/9e/181534.htm懼戒慎のさま。

[31]http://www.zdic.net/c/1/150/333251.htm筆で書いた批

[32]http://baike.baidu.com/view/12324010.htm追加の救済

[33]http://www.zdic.net/c/4/fb/264086.htm墓、墓穴。

[34]http://baike.baidu.com/subview/8557/12526906.htm

[35]http://www.zdic.net/c/1/99/174171.htm督察する刺史・使・按察使・布政使等通司と称する。

[36]http://baike.baidu.com/view/199118.htm

[37]グーグル検索結果

[38]グーグル検索結果

[39]http://zh.wikipedia.org/wiki/1812%E5%B9%B4

[40]原文同じ。春の会試と秋の郷試に違いないが、「春」「秋」の順序を変えず、なおかつ最後に仄声を措きたいという要求からこうなっているものか。

[41]http://www.zdic.net/c/6/76/12tete33.htm庶吉士http://www.zdic.net/c/6/78/122979.htm官名。

[42]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA7Zdic8B181472.htmhttp://www.zdic.net/c/b/9e/181444.htm死刑案件を再審する制度。秋に行されるので、かく称する。

[43]http://zh.wikipedia.org/wiki/1837%E5%B9%B4

[44]未詳だが、鑾輿に同じであろう。天子の車駕

[45]保定

[46]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic8C111112.htm同一年に学すること。同一年に学した者をも指す。

[47]http://zh.wikipedia.org/wiki/1807%E5%B9%B4

[48]http://baike.baidu.com/view/1394158.htm

[49]http://baike.baidu.com/view/31370.htm?fromtitle=%E5%85%83%E9%81%97%E5%B1%B1&fromid=1940275&type=syn

[50]道光二十四年甲辰科殿試金榜参照。

[51]http://baike.baidu.com/view/1013334.htm

[52]http://baike.baidu.com/view/46935.htm

[53]http://baike.baidu.com/view/39078.htm

[54]http://baike.baidu.com/view/13488682.htm

[55]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E7%BE%85%E7%B8%A3

[56]原文「後果揚歷封■」。「封■」が未詳。「■」は「坍」の「丹」の点がなく、横棒の左側のみ出ていない字でまったく未詳。とりあえずこう訳す。封疆は「封疆大吏」「封疆大臣」「封疆大」とも。、巡など一省あるいは数省の政大総攬する官。

[57]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E8%A7%80%E6%89%BF

[58]こちらを参照。

[59]方葆岩は閩浙総督になっているが、尚書にはなっていない。

[60]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%82%B3%E7%A9%86

[61]http://www.zdic.net/c/d/f3/250489.htm翰林あるいは翰林院の

[62]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic87ZdicBA100434.htm京官から出て太守となること

[63]http://baike.baidu.com/view/1815354.htm

[64]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8Zdic8DZdic90203903.htm科挙試験試験答案推薦する人。

[65]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic81Zdic9350837.htm地方政府、あるいは当該級政府行政官。

[66]http://www.zdic.net/c/3/8b/151773.htm選任を待つ人中から選んで任用すること。

[67]http://www.zdic.net/c/f/74/119901.htm科挙の受験勉強

[68]http://www.zdic.net/c/2/152/339176.htmの尊称

[69]原文同じ。任官を聖上に感謝するのであろう。

[70]原文「去來不誤」。未詳。とりあえずこう訳す。

[71]http://www.zdic.net/c/3/d5/207358.htm死刑囚に対してしばらく処刑遅らせること

[72]http://www.zdic.net/c/5/98/171628.htm死刑判決の一種。罪が事であると定し、死刑行すること。決にしていう。

[73]http://www.zdic.net/c/2/14b/327581.htm中央各部のたとえば尚、侍郎等する通称、各衙署の大堂で務するためかくいう。「堂官」「司官」に対していう。各部以外の独立機構の官、たとえば知、知府等も「堂官」と称することができた

[74]原文「時先生忽憶遞折誤矣」。「遞折」が未詳。とりあえずこう訳す。奏摺は官吏が皇帝に奏する文書。「摺子」とも称する。

[75]http://www.zdic.net/c/0/f5/255484.htm漢典に適切な語釈なし。ここでは巡撫のことであろう。三編巻一『胡中丞』で「先生(胡克家)由外台揚歷開府皖中」とあるが、この「開府」は巡撫のこと。

[76]http://archive.ihp.sinica.edu.tw/ttscgi/ttsquery?0:17981126:mctauac:TM%3D%B3%AF%A9%5E%AF%F7

[77]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B0%8F%E9%87%91%E5%B7%9D%E4%B9%8B%E5%BD%B9

[78]http://www.zdic.net/c/e/9a/177708.htm「礮局」とも。銃砲を制造する工場あるいは銃砲を貯蔵する所。

[79]http://www.zdic.net/c/3/149/321266.htm城以北の地

[80]地名と思われるが未詳。

[81]http://www.zdic.net/c/f/146/319799.htm土司官吏所少数民族居住地

[82]未詳。

[83]原文「加封賢順」。未詳だが、「賢順」という封号を与えられたのであろう。「賢順」は文字通り賢明で従順であるということであろう。

[84]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%99%E6%98%9F%E8%A1%8D

[85]http://www.zdic.net/c/1/159/348479.htm堂々とし、従容として迫らぬさま

[86]http://www.xiexingcun.com/shiciqupianqu/05/e139.htm

[87]http://ctext.org/shiji/zh?searchu=%E5%8C%94%E5%8C%94%E5%A6%82%E7%95%8F

http://www.zdic.net/c/4/6c/107618.htmのさま。

[88]http://www.zdic.net/c/8/1d/44977.htm 六部に属する中央官であろう。

[89]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic95Zdic99182033.htm進士の中で成れた者が翰林院の官授かること。地方官に任ぜられる「散館」の対。

[90]http://baike.baidu.com/view/292969.htm?noadapt=1翰林掌院事。官名。

[91]http://www.zdic.net/c/6/d4/205082.htm翰林院の属官

[92]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B3%E6%96%87%E7%85%A5

[93]http://www.zdic.net/c/8/ee/244095.htm政府部の公

[94]未詳。

[95]http://baike.baidu.com/view/1814652.htm刑部尚

[96]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E5%AD%A3%E5%A0%82

[97]http://www.zdic.net/c/b/9e/181444.htm死刑案件の再審制度。

[98]乾隆五十二年丁未科殿試金榜に名が見える。

[99]http://www.zdic.net/c/e/142/311770.htm明察

[100]http://www.zdic.net/c/4/38/86861.htm古人の籍に対する伝統

[101]http://www.zdic.net/c/f/fa/262324.htm正副

[102]http://baike.baidu.com/view/214387.htm

[103]http://baike.baidu.com/view/214388.htm

[104]光禄寺卿

[105]http://www.zdic.net/c/c/10/25670.htm吏部に考功清吏司を、三年に一度考核した。在京のものは「京察」と称し、外地のものは「大」と称した。

[106]http://www.zdic.net/c/d/a5/191442.htm南京

[107]グーグル検索結果

[108]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%96%E9%9C%9E%E5%B1%B1

[109]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E5%96%84%E5%8E%BF

[110]グーグル検索結果

[111]http://www.zdic.net/c/6/13e/307110.htm八股文。

[112]原文「課治農畝」。「課治」が未詳。とりあえずこう訳す。漢典に適当な語釈はないと思われる。

[113]http://zh.wikipedia.org/wiki/1804%E5%B9%B4

[114]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5ZdicB9ZdicB330913.htm官府が荒年の食糧不足の倉庫貯えてある糧食を平価で売り出すこと。

[115]米を。

[116]原文「按之上下、罔有漏失」。未詳。富んだ家にも貧しい家にも、按分に、遺漏なく米の提供を呼びかけたということか。

[117]原文「文枋」。「文榜」の誤字であろう。http://www.zdic.net/c/7/91/160923.htm告示、布告の

[118]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%AD%E8%95%B4%E7%AB%A0

[119]宗人府

[120]http://www.zdic.net/c/1/ee/244206.htm郷飲酒礼郷飲」とも称する。地方官が定期的に儒学で行する敬老の式。

[121]http://www.zdic.net/c/7/16/33871.htm郷飲礼で、年齢と徳が高い者一人を推し、「大とする

[122]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%AD%E5%95%9F%E8%B1%90

[123]は兵部尚書。

[124]http://www.zdic.net/c/b/2f/70528.htm名。州市外寒山寺附近にある。画像検索結果

[125]http://zh.wikipedia.org/wiki/1795%E5%B9%B4

[126]http://www.zdic.net/c/b/4/8764.htmある仕事を主管する官あるいは部

[127]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9A%E5%85%83%E4%B9%8B

[128]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=231593&searchu=%E5%9B%9E%E7%85%9E

[129]http://www.zdic.net/c/e/145/318077.htm人が死んで若干日後に霊魂が帰宅すること

[130]http://baike.baidu.com/view/3673357.htm

[131]未詳

[132]http://baike.baidu.com/view/88987.htm

[133]原文「看街兵」。未詳。とりあえずこう訳す。

[134]http://baike.baidu.com/view/3058519.htm帖然、おとなしく従うさま

[135]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%93%E7%A7%89%E6%81%AC

[136]http://www.zdic.net/c/1/100/270495.htm翰林の中で勅をる学

[137]http://www.zdic.net/c/7/70/111576.htm擬音語。声が軽く細いさま

[138]http://zh.wikipedia.org/wiki/1825%E5%B9%B4

[139]http://www.zdic.net/c/8/143/314524.htm植物名。「茨菰」とも称する。食用と用にできる画像検索結果

[140]原文「薄采慈姑吟怨句」。「薄采」の意味、句の含意が未詳。とりあえずこう訳す。

[141]http://www.zdic.net/c/a/a4/190322.htm茺蔚。名。http://baike.baidu.com/subview/8873/16209164.htm画像検索結果

[142]科挙の答案を書く独房は号舎といい、号舎の列は番号の代わりに千字文によって「×字号」と名づけられている。

[143]http://zh.wikipedia.org/wiki/1835%E5%B9%B4

[144]http://www.zdic.net/c/1/100/270522.htm大学

[145]http://www.zdic.net/c/b/73/116595.htm答案の文が載せられていないので判断しかねるが、「1」「4」あたりの意味か。

[146]原文「嫌不甚莊重」。未詳。とりあえずこう訳す。「四美」という言葉が「四人の美人」という意味のように見えるからか。

[147]http://www.zdic.net/c/5/79/125324.htm試験答案の姓名を填写した場所の角を折り、あるいは糊づけし、不正を防止すること

[148]http://www.zdic.net/c/e/8/13180.htm学校

[149]http://www.zdic.net/c/a/87/149211.htm南楚。楚が中原の南にあるので、かく称する。

[150]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE5ZdicBBZdic89297338.htm按察使。

[151]官銜位名称。官吏の封号、品及び任した官

[152]http://www.zdic.net/c/1/145/317916.htm孔雀の羽製の、官品をす帽画像検索結果

[153]http://www.zdic.net/c/e/9f/183278.htm督糧道、各省の漕糧を督運し、「糧道」と称する

[154]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic85ZdicB510459.htm人の俸給。ひろく軍隊食糧用をも指す

[155]http://baike.baidu.com/view/3006615.htm

[156]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5ZdicAFZdic85125972.htm交情のある同僚。

[157]http://www.zdic.net/c/0/d3/201099.htm粗布の衣服。

[158]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8ZdicB5Zdic83120873.htm汚職『大清律例』の用例

[159]http://www.zdic.net/c/5/37/84626.htm地方の官員が入朝して帝王に進見すること

[160]http://www.zdic.net/c/1/6d/109011.htm刑名官署で刑事理し、公文を批閲する幕僚。

[161]http://www.zdic.net/c/6/11/28469.htm

[162]http://www.zdic.net/c/c/7f/135012.htm自身が任ぜられている官

[163]http://www.zdic.net/c/7/157/345518.htmしようとせず、恐れること

[164]原文「台灣戕官一案」。年代も分からないのでどんな事件かは未詳。

[165]http://baike.baidu.com/view/1814652.htm刑部尚

[166]http://www.zdic.net/c/3/28/60788.htm教育行政を監督観察し、試験を主宰すること。観学とも称する。

[167]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E9%95%B7%E9%BD%A1

[168]http://ja.wikipedia.org/wiki/1835%E5%B9%B4

[169]http://www.zdic.net/c/f/30/74724.htm官吏の

[170]http://www.zdic.net/c/6/25/58744.htm時賢

[171]http://www.zdic.net/c/c/2b/67528.htm度量が狭いこと

[172]http://wapbaike.baidu.com/searchresult/?word=%E9%99%86%E6%88%91%E5%B5%A9&uid=2738F622616BBD960C0D31BB3003193F&bd_page_type=1&st=1&step=1&net=0&ldr=-1http://d.g.wanfangdata.com.hk/ExternalResource-wenb200101012%5E51.aspx莱翁:我嵩、字莱臧、江青浦.道光二年、道光五年任福建閩県.母与林徐母姐妹行。」

[173]戸部の別称。に同じ。

[174]道光六年丙戌科殿試金榜に出てくる呂振騏か。

[175]http://zh.wikipedia.org/wiki/1825%E5%B9%B4

[176]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E9%81%93%E5%85%89%E5%85%AD%E5%B9%B4%E4%B8%99%E6%88%8C%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[177]http://www.zdic.net/c/7/6c/106796.htm行政官の呼称。

[178]袁績懋の父。

[179]http://www.zdic.net/c/5/10e/292531.htm

[180]http://baike.baidu.com/view/213956.htm礼部尚、吏部尚、工部尚部尚などを歴任。

[181]http://www.zdic.net/c/f/e1/224352.htm・会合格者に対して部屋を分けて答案を閲覧する試験官の尊称。

[182]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E9%81%93%E5%85%89%E4%B9%9D%E5%B9%B4%E5%B7%B1%E4%B8%91%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[183]http://www.zdic.net/c/9/8c/154049.htm清の旗籍の一種。人で明末に清に投降した者は、洲の兵制により、漢軍各旗に入せられた

[184]http://www.zdic.net/c/3/13e/307098.htm「跳版」とも。に渡し、人が乗降する

[185]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%83%B5#.E5.8E.86.E5.8F.B2

[186]「洪姓のもの」を指していよう。

[187]http://www.zdic.net/c/0/a/18614.htm八旗組織基本位の名称。満州語「牛」の漢訳。所属の口、田宅、兵籍、訴訟等を掌管する。

[188]原文同じ。未詳。戸籍簿のようなものか。『清史稿』の用例

[189]原文「先於本旗冊檔將己名改竄於伯之夫妻俱歿名下、為異日之無喪地也。」。未詳。とりあえずこう訳す。「為異日之無喪地也」は「為〜地」という構文になっている。「為地」は「爲之地」に等しく、「人に事理の根据を提供すること。」の意。http://www.zdic.net/c/a/8b/151436.htm「無喪」は未詳。訳文の意に解す。

[190]http://www.zdic.net/c/b/103/277881.htm人を摘発、非難する思想。

[191]http://zh.wikipedia.org/wiki/1798%E5%B9%B4

[192]http://www.zdic.net/c/1/9f/183308.htm試験督の責を負う官吏。

[193]グーグル検索結果。貢院内の施設と思われるが未詳。

[194]原文同じ。未詳だが、知事に対する敬称であろう。

[195]http://www.zdic.net/c/3/110/297773.htm米を煮た汁。

[196]原文「為朱倅者所阻」。「朱倅」がまったく未詳。朱衣の幕僚か。

[197]http://www.zdic.net/c/f/74/119226.htm閲読を中止すること

[198]http://www.zdic.net/c/b/4/8764.htm官。

[199]ク試あるいは会の第二次試験。試験でク試、会試はそれぞれ三場に分かれていた

[200]頭場に同じであろう。ク試あるいは会の第一次試験。首、初とも称する。試験でク試、会試はそれぞれ三場に分かれていた

[201]原文「次日、主司調取二場巻、殆首場已合格矣。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[202]http://www.zdic.net/c/1/8d/156413.htm民衆を治める君王あるいは地方官。

[203]http://www.zdic.net/c/4/2b/68203.htm水路運用。

[204]http://www.zdic.net/c/c/1C/43492.htm人が会試を受験すること

[205]http://www.zdic.net/c/d/111/299476.htm北京の正陽門

[206]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=585596&searchu=%E8%80%8C%E7%8D%A8%E8%91%97%E6%AD%A3%E9%99%BD%E9%96%80%E5%BB%9F%E8%80%85

[207]http://www.zdic.net/c/e/3e/95895.htm実行

[208]『関帝霊籤』四十二http://baike.fututa.com/a1139/

[209]未詳だが、正考の副官であろう。

[210]http://www.zdic.net/c/b/4/8764.htmの主官。

[211]http://www.zdic.net/c/c/3f/98307.htm衆人に揖すること。

[212]原文「出闌」。未詳。とりあえずこう訳す。「闌」は輿の柵と解す。

[213]http://www.zdic.net/c/b/d4/204084.htm小歩疾行して進み、敬意を表す作。

[214]http://www.zdic.net/c/e/2b/67538.htm県令。

[215]http://www.zdic.net/c/8/9a/177780.htm・会答案対し翰林院が儒臣等を派遣し、審査すること。

[216]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E5%9F%8E%E5%8E%BF

[217]http://baike.baidu.com/view/180223.htm

[218]http://www.zdic.net/c/1/ee/245023.htm県令

[219]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic80Zdic9919072.htm往来する接待する駅館

[220]原文同じ。未詳だが、面会を申し出ることか。

[221]原文同じ。まったく未詳。文脈からして旅する役人に対して人員・物資を支給することを要請する令状のようなものか。

[222]http://baike.baidu.com/view/58159.htm督・巡などの

[223]「援例」は捐例の誤りと思われる。捐官のこと。「新班」は未詳だが、捐官するものにさまざまな班があり、そのうちの一つではないかと思われる。『清史稿』選挙志・捐納における「新班」の用例。ここでは、「新班遇缺」「新班侭先」などの「班」が設けられていたことが述べられている。ただ、これらは咸豊九年に設けられたものなので、家大人(である梁章鉅)の時代よりも後のことである。したがって「新班援例」に関しては、漠然と、「捐官したもの」の意であるということぐらいしか分からない。

[224]http://www.zdic.net/c/1/1c/43152.htm明代、各省按察司には按察使以外に、按察副使、按察事等の官おり、州・府・の政治、司法等の方面の事務を巡察する責任を負、分巡道、兵巡道等と称した。清は副使、事等の官を廃し、巡道と称した

[225]http://baike.baidu.com/view/1818719.htm

[226]http://www.zdic.net/c/8/101/272944.htm門番

[227]http://www.zsbeike.com/cd/42202673.html漕運http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%95%E9%81%8B%E7%B8%BD%E7%9D%A3

[228]http://baike.baidu.com/view/2822205.htm

[229]http://www.zdic.net/c/d/14a/323475.htm茫然

[230]http://baike.baidu.com/view/2089813.htm#2浙江省

[231]http://baike.baidu.com/view/482070.htm

[232]巡撫のことと思われる。玉庭は千八百十五から千八百十六まで浙江巡撫。

[233]http://baike.baidu.com/view/2089813.htm

[234]http://www.zdic.net/c/2/72/114296.htm喪悵惘のさま

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