●巻三
◎江南の挙子
江南の最近の郷試でのこと、数人の挙子が、寄寓している楼で、毎晩隣家で女の哭いているような声を聞いたが、声はたいへんか細かった。見れば屋梁に破れた処があったので、一人が几を重ねて上って窺ったところ、小さい楼の中に霊座[1]が設けられ、孤灯は熒熒として、一人の縞衣[2]の女の、年は若く、状は美しいものが、巾で涙を拭きながら哭いていた。その人は人々を招いてすべて上らせたが、高い壁に肩が触れ、塵土が索索[3]と落ちた。女はそれに気づいたらしく、頭を挙げて長嘆すると、顔色は悲しげに変わり、舌を出すこと三寸ばかり、にわかに灯を掻き消して姿を消した[4]。人々はひどく驚き、重ねた碁石のように落ち、額を破り、股を損なうものがおり、それぞれ驚き、頭を掩って臥した。翌日、その隣人に尋ねれば、部屋には住む人はいないということであった。ある人がいうには、数ヶ月前に某氏の妻が、夫が死んで自縊して殉じたということであった。人々はみな消沈し、怪我したため、試験が終わらないうちに帰った。この事は潘寿生が黄霽青先生[5]に述べたことだが、先生は言った。「この女は生前節烈で、死後もなお、凄然としてもとの夫を慕っていたのだが、なんと憐れなありさまであることか。声を聞き、穴を開け、様子を覗いたところ、梭が擲たれるよりはやく、楽しみは哀しみによって感じられ、恐れは喜びによって齎される[6]。だとすれば魂の三寸の舌は大いなるの説法といってよい[7]。子衿[8]の軽薄なものは、引いて戒めにしてはどうか。」
◎梁国平
広東東安県の梁国平は、平生忠厚正直で、人の難を救い、憐れみ守ることが多かった。歿した後、その親戚の曹盈中というものの夢に現れ、天監[9]を蒙って他省の冥土の役人になり、死生の路は隔たっているものの、旧情は忘れ難いので、わざわざ別れを告げにきたと言った。曹は目ざめたが、半信半疑であった。一年後、さらに夢みたところ、国平と会って述べたが、平生歓談していた時のようであった。語るには、また上帝にご恩を加えられ、甘粛靖遠県の城隍に昇任し、すでに某月日に赴任したということであった。曹が前任の神はどうして交代したのかと尋ねると、国平がいうには、旧神も同省高州府信宜県の人で、姓は雷、名は鳴邦といい、あらたに甘粛の都城隍に昇ったので、わたしはこの選任を受けられたということであった。別れに臨んで四首の詩を作って送たが、その二首を記す。「聡明正直はじめて神となり、なんぢ諸昆[10]に嘱すよろしく親を敬へと。古より吉門[11]に衍慶[12]多く、和平終に属す一家の春。」「世に処りてはすべからく大丈夫となるべし、驕らず諂はざるは真儒なり。田園世々詩書の業を守らば、耕読家沢おのづから腴かならん。」言葉は浅近だが趣旨は勧奨勉励に関わっている。これが嘉慶戍寅三月二十五日夜に曹が記した二度目の夢である。
◎張家の倅
浙江の張家に倅がおり、若くして音律を解し、素行は軽薄であった。清明中元で、婦女が野で祭り、夜に哭する時になるたび、かならず窺ってひそかに聞いた。それを楽しんで倦まなかったが、邪悪な出会いを望んでいたのであった。その後、七月望日の夜、月影を踏んで歩みに任せて妓院に入ったが、聞くと哭き声が戸外に達しており、哀切で綿々としていたので、あらたに寡婦となったことを知った。しばらく傾聴すると、心が蕩け、その地が家から近かったので、すぐに帰り、吹いている簫を持ってきたが、哭き声はまだ止んでいなかった。そこで門のところで塀を背にして立ち、唇を膨らまし、指で抑えると、烏烏と声が孔に入って反応するのを覚えた。心地よくしていると、突然、背後からその頬を打つものがいるかのようで、吹いていた簫は地に落ちて壊れたかのようになり、すぐに痛みを感じ、頭を抱えて帰った。息は縷のようで、その妻に前後して遇ったものを述べ、言った。「わたしは普段このことを楽しみとしていたが、今回、大きな苦しみに遭おうとは思わなかった。」打たれた処を見ると、紅く腫れて紫に爛れており、まもなくそのために死んだ。その妻はつねに臨んで哭き、かならずまず戸外を窺い、その人がいないのを見て声を発し、人がかれの夫のようにひそかに聞くことだけを恐れていた。しかし操を守れず、服喪を終えると再婚した。
◎淫行を犯すこと
道光甲午[13]の湖南の郷試で、ある士人が一首の律詩を明遠楼[14]の下に題したが、以下のようなものであった。「千里来りて観る上国[15]の光、巻中ひそかに火油[16]に傷はる。半生ただ三婦に淫せしが為、七届誰か五場を貼るを憐れまん[17]。始めて信ず美貌の鬼蜮[18]となるを、悔ゆるは驀地に鴛鴦を結ぶに従る。声を寄す志有る青雲の士に、道ふなかれ閑花艶にして香ばしと。」他人の妻に淫するものに針砭を下せる[19]。当時、楊雪椒先生[20]が湖南で官職にあり[21]、わたしにこのように述べた。
◎張南珍
嘉善県の城隍廟の神座の傍らに、別に書吏の塑像が造られていたが、いずれも生前の姿に似せて作ったものであった。庫吏の張南珍というものがおり、やはりその中に交じっていた。ある日、仕事で友人といっしょに廟に入り、ある像を指して戯れた。「おまえはまだ仕事したことがないのか。」張は言った。「神さまがお呼びにならないだけだ。」散じて一日後、張が昼に疲れ、枕に臥すと、黒衣の人が来るのを瞥見したが、役所に赴くことを促しているかのようであった。起きてついてゆくと、役所に着き、石の牌楼[22]を通り、池の上の平橋[23]を過ぎ、広間を越え、後堂にいったが、どこか分からなかった。しばらく佇むと、黒衣の人が言った。「お役人が座席に登られた。」すると、短身白鬚、藍袍短褂[24]で頂戴[25]のものが机に倚って坐し、傍らに一人の下役が侍していた。張が地に跪き、叩頭すると、役人は尋ねた。「おまえが張某か。わたしがおまえを呼んでしもべとならせないと言っていたが、今こちらに来たのはどうしてだ。」張ははじめて城隍神であり、昨日冗談を言ったからであるということを悟った。そしてたいへん恐ろしいと思い、さらに叩頭し、働くことを願ったが、解決していない心配事があると称し、期限を緩めることを懇願した。神がどういうことかと質したので、張は三つの柩をまだ葬っていないことを訴えた。神は不愉快そうな顔をし、言った。「おまえはもう七十三歳なのだから、この事ははやく終わらせるべきではないか。」張はまた家が貧寒で力がないことを訴えた。神が脇を振り返ると、吏が大きな冊子を捧げて入って来、すこし帙を広げると、にわかに顔を晴れ晴れとさせ、頷いて言った。「おまえにはまだ一点の命を惜しむ心があるから、十年多く生きるべきだ、時期になったら来てしもべとなるがよい。」指図して出させた、もとの奴隷の馬丹書というものに会ったところ、かれは言った。「どうしてはやく帰られませぬ。」肩を打たれ、目ざめると、倒れ臥してすでに三昼夜となっており、妻子が囲んで哭いていた。胸がまだ温かかったので、すぐには納棺していなかったのであった。張は人柄が穏やかで、倉庫を管理していた時、貪官たちが大勢で、偽の領収書を作り、徴収したものを横領している事が日々露顕すると[26]、方策を考えて補填し、当局に懇願してやったことがあり、あれこれ取り成し、結局みな誅せられるのを免れ、減刑されることができたのは、そもそもかれの力であった。神の言っていた、「一点の生命を愛惜する心」とは、そのことか。
◎冥罰
呉江の挙人周某は、もともと無頼で、陰に陽に謀略を施し、人々を餌食にし、その深い欲望を満たすことはどれほどか知れなかった。某年の冬、入京を計画すると、県令はかれが事件を起こすことを心配していたので、金を贈り、旅を促し、出発させた。まもなく瘋癲の病に罹り、ほしいままに飲み、歌ったり、哭いたりし、挙止は異常であった。家人は用心したが、しばらくするとだんだんと怠った。ある日、朝起きると、家の後ろに水死体があった。掬いあげて見ると、周であった。頚には隠隠と紅い縷があり、刀で切ったかのようであったが、結局その死にざまがどうであったかは分からなかった。一晩前、ある県の下役が黄昏時にしもべが取り次ぐ声を聞き、県庁の比較[27]だと思い、何度も見にいったが、広間は寂然としていた。じっくり聴けば、声は城隍廟から出ていた。そこで廟に赴くと、門で知り合いの術士に遇ったが、手を振ってかれを止めたので、こっそりといっしょに眺めた。堂上に火が点り、階下には幽鬼の影が群がり、神は事務を執り、沙汰していたが、ぼんやりとして見わけられなかった。その後、周某の名を呼ぶのが聞こえ、鬼卒が一人の男を責めて進んでこさせたが、琅璫[28]として耳に喧しかった。神は机を打って怒り、すぐに引き出して斬るように命じた。すると陰風が颯然として顔を払って過ぎ、寒さが毛骨に沁みるのを感じ、堂上の影と音は消えた。驚いて帰り、朝になると、かれが溺れ死んだことを聞いた。それより前、金持ちの某家の正室が死に、妾が殺したことを疑う者がいた。周は某家ともともと交誼がなかったが、弔問にゆき、脅し文句で座上の人々を驚かした。某姓は恐れ、贈りものをしてかれの口を塞ごうとしたが、噂は四方に広まった。その後、付け狙うものは多く、誣告され、財産を没収された。調査すると事実無根であり、疑いは晴らせたが、家は半ば破産した。さらに某氏の下女は死にざまが明らかでなかったので、周は下女の親族をむりに動かし、怒りを抱き、みずから入水するものが出るのを招いた。この二件だけでも、冥罰を受けたのは当然であった。
◎試験答案の名が焼けること
嘉慶丁卯浙江郷試の点呼の日、三場[29]はちょうど大雨に当たり、受験するものは全身が濡れ、押しあってよろよろし、後ろに遅れたり、先を争ったりして、整列しなかった。頭場[30]はもっとも甚だしく、銭唐[31]の張某が人混みで地に倒れ、下駄の歯に踏まれて惨死しそうになる事態を招いた。他にも肩が触れあったり、筐を堕としたり、踏まれて腫れたり、履を失ったりしたものたちが、紛紛藉藉[32]としていた。黄霽青[33]太守は、その時、郷試の三場を受験したが、履・足袋を失い、泥濘を歩き、女字四十号[34]に坐した。この号舎[35]は、先に号軍[36]によって雑貨が積まれていたので、黄は受験用具をひとまず右側の三十九号に置き、外に出、いっしょに受験するもので、靴を穿いていて予備も持っているものに借りた[37]。ふたたび号舎に入れば、油簾[38]・座布団を、号軍はすでに代わりに置いてくれていた。茶を呷り、仰臥し、一息つくと、三十九号のものが来たと叫ぶのが聞こえた。起きて壁の字を見、はじめて番号を間違えていることを知ったが、たいへん疲れており、移動するのが億劫であったし、二つの号舎は繋がっていて同じ号軍であり、不正に関わりはないので[39]、交換することの便利であるのにしくはないと思った。そこでもともとその号舎であるものに誤りを告げ、ともに再三相談すると、承諾した。その人は武康[40]の王姓のものであり、話している時、試験場で書いた詩文をおおいに自負し、意気はたいへん壮んであった。そもそも幕遊[41]から帰り、受験したものであった。十四日、黄は夜熟睡していたが、見ると一人のざんばら髪の娘が、簾を掲げ、打ち、圧した。王は驚き叫ぶのを聞くと、黄を呼び覚ましたので、魘されただけであることを知り、通常のこととして放っておいた。まもなく、王も魘されて叫んだので、黄は呼び覚まし、その状況を尋ねたが、見たものは同じであった。当時、黄は目赤[42]を病み、翳み目がたいへんひどかった。中秋の夕方、日が暮れぬうちにすぐに寝た。夜半、王が大声を出し、咳をして言った。「間違えた。」起きて見るとその答案に一つの焼かれた穴があり、大きさは鵝眼銭[43]ほどであった。厠へゆこうとし、答案を掩うとすぐに、蝋燭の煤が爆ぜて落ち、この事態を招いたのであった。そこで巡綽官に告げ、解答用紙を換えることを求めた。監臨[44]は換える必要はない、まったく貼例[45]を犯していないと告げた。王は号舎に戻り、なお欣然と謄写した。まもなく、呼ぶ声がさらに激しくなった。見れば、答案の焼けあとは、細くて線香のようであり、姓名が焼かれていた。そもそもその五策[46]は、すでに抄写し終わり、答案を整え、提出しようとしていたところ、突然この災厄に遭ったのであった。ふたたび解答用紙を換えることを求めたが、監臨はかれが粗忽でしばしば解答用紙を汚すことを責め、かたく許さなかった。そこで足踏みし、涙を流して出、結局藍榜[47]に載った。思うに紅蓮幕下[48]で遊魂を招く変事があったのだろうし、それを受けたものは自分で分かっていたはずである。
長牧庵閣老(麟)[50]が浙江を巡撫していた時、某県令が貪官であるとの評判がたいへん顕著であることを探知した。ある晩、微行していたところ、道で知事に会ったので、公は直進してその先導にぶつかり、どこへゆくかと尋ねた。知事は輿を下り、夜回りしておりますと答えた。公は言った。「時に二鼓になったばかりで、早過ぎるのではないか。それに夜回りする目的は、悪事を偵察するためだが、今おんみは盛んに儀衛[51]を列ねているから、奸民はすぐに避けてしまい[52]、どうして偵察できよう。まあよい。わたしについて来いR!。」そこでかれの従者たちをすべて遠ざけ、知事の手を執ってともにゆくこと数里であった。ある飲み屋に着くと、知事に言った。「疲れていないか。とりあえずいっしょに飲もう。」そして、入って坐し、飲み屋に近頃利益を得ているかどうか尋ねた。すると答えた。「利益はたいへん少なく、さらに役所の科派[53]により、ややもすればたくさん元手を損しております。」公は言った。「おまえは細民なのに、なぜ科派がある。」「父母官[54]は財貨を命のように愛し、茶坊・酒肆を論ぜず、売買するものたちは、毎月すべて常例銭[55]を徴しています。凶悪な下役たちは、虎の威を借り、倍にして請求しますので、民草はまったく生活できないのでございます。」そこで某知事が民草を害していること十余件を縷述したが、まさに座上の客であることを知らなかった。公は言った。「お話では、上司は気づいていないでしょう。」「新たな巡撫は民を愛すると称していますが、すぐにはすべてを知り尽くせません。民衆もどうして訴えようとしましょう。」公は笑って数杯を飲み、代金を払い終わり、出ると知事に言った。「小人は過激な言葉が多いですから、わたしは軽々しく信じようとしません。あなたもお怒りになってはなりません。」さらに数里ゆくと、言った。「わたしは今晩夜回りすることができますから、別々にいってはどうでしょうか。」すぐに去らせると、公はまた飲み屋に戻ってゆき、門を叩き、宿泊を求めたが、飲み屋は客を泊める場所ではないと答えた。公は言った。「あなたは今晩不慮の禍を被ります。わたしが参りましたのは、泊まるためではなく、あなたをお守りするためです。」飲み屋はその言葉に驚き、かれを泊めた。夜半になり、剥啄の音がたいへん急であった。里胥[56]と県の下役が朱簽[57]を持ち、酒を売るものを捕らえに来たのであった。公は出て答えた。「わたしが主人だ。犯罪があれば、わたしがみずからそれに対応する。××と関わりない。」里胥は公を知らなかったので、怒って言った。「本官が名指しで××を探しているのだ。おまえは何さまだ。」公はむりにかれと同行しようとしたので、連れていった。飲み屋は胆を潰したが、行く先は分からなかった。公は慰めて言った。「わたしがいるから、恐れるな。すぐにあなたを許そう。」。来れば座に昇らせ、まず飲み屋を呼んだ。公は氈帽[58]を頭に被り、飲み屋とともに、縛られて堂に登った。知事は一見してたいへん驚き、すぐに冠を脱ぎ、叩頭した。公はその座に昇り、笑って言った。「おまえがかならず飲み屋を捕らえることは分かっていた。」そしてかれの印を懐にして去り、言った。「一人の摘印官を省いた[59]。」
◎雷の災異
嘉慶壬申、広東新寧県某村の兄弟二人には、妹がおり、すでに嫁いでいた。兄は四十で娶っていなかったが、弟は言った。「兄さんが娶られなければ後継ぎが絶えてしまいますから、わたしを売って妻を娶られてはいかがでしょうか。」兄は言った。「妻を得て弟を失っては、人とはいえないから、妻がいないにしくはない。」村に富豪がおり、それを聞いて義とし、兄に語った。「ちょうど傭工を探していた。三十両やるから、おまえの弟をわたしの傭工にして利息としよう。弟は食べられるし、おまえは妻を得るから、両得ではないか。後日、金があれば、贖えよう。」そこで従った。新婦は中に入り、しばらくすると、ひそかに夫はもともと弟がいたのに、今はどこにいったのかと疑った。夫が哭いて事情を語ると、妻は言った。「妻を得て弟を失うのは、人でなしでございますから、わたしがいないにしくはございません。」妻は父に無心し、どうにかこうにか三十両を得、笥に収め、その夫を促して弟を贖わせようとした。その後、探したが、なくなっていたので、憤って自縊した。葬る日、その義妹が哭いて葬送していたところ、突然雷に撃たれて棺が開き、妻は生き、義妹は死に、金を地に抛った。そもそも義妹は里帰りしたとき、嫂が金を隠した処を知り、ひそかに盗んだが、嫂は疑っていなかったのであった。そして棺で義妹を葬って、金でその弟を贖った。この事は呉鴻来孝廉(応逵)[60]の『雁山文集』に見える。
◎任幼植先生
家大人は言った。「江南の任幼植先生(大椿)[61]は礼部の先輩で、礼学・小学にともに詳しく、暗誦し、通暁しており、同時代に二人といなかった。翁覃溪師[62]は畏友と称していた。しかし乾隆癸丑の伝臚[63]でありながら、郎署[64]に浮沈し、晩年はじめて御史を記名[65]することができたが、拝命しないうちに道山に帰した[66]。本朝で、二甲伝臚で詞館[67]に入れなかったものは少なく、人々はみな先生のために惜しんだ。先生がみずから言うには、十五六の時、たまたまおじの侍姫のために官詞を扇に書いてやったところ、おじは侍姫を疑い、侍姫は自縊して死ぬことになった。その魂は地下に訴え、先生は奄奄として病に臥し、魂も捕らわれて審問された。四五年を閲し、冥土の役人はみずから七八度質し、当初、無心にしたことだと弁明したが、結局、過失で人を殺した廉で、その官禄を削られたので、仕途が困窮たることこのようであった。紀文達師は言ったことがあった。「冥土の役人でこの事件を審理したものは、顧郎中(徳懋)だ。二人はもともと面識がなかったが、ある日会ったところ、たがいに旧知のようであった。当時、同席していて、かれが冥府の事を話すのをみずから聴いたが、幼植は答えるとき、まだ栗栗[68]としていた。」
◎顧郎中
ある客が顧郎中に冥王の果報の事を尋ねると、言った。「冥府の裁判では、やはり王法[69]を用いるか。それとも仏経を用いるか。」顧は言った。「王法は用いず、仏経も用いず、人心のみによっている。人は心に尋ねて恥じないことだけが冥界のいわゆる善で、心に尋ねて恥じることがあるのは冥界のいわゆる悪だ。是はつねに是、非はつねに非[70]、不偏不倚[71]、幽明は一理で、儒仏は五分五分だ。」思うにこの言葉は平易で情理に近く、天堂地獄はもとより人によって行くか行かないかが決まるのである。
◎戒めを述べること
乾隆年間、福州の某甲が雷で死んでしばらくして、ある人が伝えるには、かれは宿屋で客死した郷里の人から託された千両を着服し、その一家が窮死させたことがあったので、それが雷の報いた理由であったということであった。同じ頃、同じ州の甘蔗洲[72]の民某乙は、弟が労咳を病むと、その資産を利とし、医者に賄し、薬殺させようとした。医者はかれの弟の病は、もともと死ぬのが確実だから、報酬は計略によって得られると思い、ゆっくり対処することを求め、かれが元気だと偽り、薬を与えて某乙を騙した。弟が死ぬと、医者は約束通り報酬を求めた。その後、医者は某乙とともに街に入り、船でゆき、川岸に泊まったが、トラがその舟に躍り上がり、某乙を銜えて去り、爪で医者の顔を裂き、手に入れた報酬をすべて使って薬を求めると治った。客でこの事を家大人に告げたものがおり、言った。「天の処罰がこの雷、このトラのようであれば、天下のものは不善をなそうとはしまいが、すべてそうではないために、人は疑うのだ。」家大人は言った。「人の世の断獄には、もとより判決するとすぐに処刑し、上奏・報告することを待たぬものがある。重大事件で皇帝に、「すぐに処刑せよ」と命ずることを求めるものがそれである[73]。上奏するべきだが後に行うことができるものがある。朱批[74]で「すぐに処刑せよ」とあるものがそれである。遅くしたりしばらく刑しないものがある。緩決[75]減刑するものがそれである。そして矜疑[76]の獄には、八議[77]によって許されるものもしばしばある。かれが雷・トラの顕戮[78]に遭ったのは、上奏を待たないで処刑したものか。その他、報いに遅い速いがあってそれが間違っていることを疑うものがいるが、ぐずぐずして待つことがあっても報いが結局間違うものではないことが分かっていないし、人の世の矜疑の八議とは違い、冥土ではほかに勘案するものがあることも分かっていない。」
◎客を疎略にして咎めを招くこと
桂林に随任した時、聞いたのだが、前任の某中丞は性が傲慢であったので、毎日かならず昼寝してしばらくは、しもべが騒ぐことを許さなかった。ある日、某学士が挨拶しに来たので、大門の外ですでに取り次ぎした。中丞は偃蹇[79]として牀にあり、門番が名刺を持ち、懇請すると、しぶしぶ起きた。ちょうど暑かったので、湯を求め、体と顔を再三洗い、さらに全身が冷めて乾くのを待ち、その後、衣冠を着けておもむろに出迎えれば、時間はすでに六刻を経ていた。役所の賓客友人たちはみなひそかに笑い、学使は輿の中で熱くて耐えられず、憤りは語れなかった。会った後、草草と数言ですぐに別れた。両家のしもべはみなかれが楽しまないで去ったことを知り、中丞は懵然[80]とした。一日後、中丞が学署にいって来訪に謝したが、やはり大門の外で一時ばかりじっとして後に入れた。その日、気候はますます暑くなり、中丞は輿の中にひさしく坐し、すでに暑気中りとなっており、広間にゆくと、言葉は乱れていた。結局、よろよろとして戻り、病に臥して十余日して後に外出した。ある学使が驚いてやって来、病人に尋ね、ひそかに人に語った。「その日、中丞が門に来ると、門番は本当に取り次ぎしないように戒め、そもそもしもべたちはひそかに先日の怨みに報いるため、ことさらに主人をしばらく遅れて出てこさせたのだ。」思うにこの事は小さいが、怨みを招くことがたいへん大きい。昔『史記』は、鄭当時[81]が食客を戒め、客が来たら貴賎を問わず門に留めないようにさせたこと[82]を載せた。顔之推の『家訓』に、「門に賓を停めず。」[83]という。さらにいう。「教育を欠く家は、閽寺が無礼である。あるいは主人が寝たり食べたりしていると言って怒り、客を拒んで取り次がぬが、江南では深く恥としている。黄門侍郎裴之礼[84]は、よく士人を待遇したと号し、このような輩がいれば、賓客の前で杖で打っていた。」[85]これらはみな小事と思ってゆるがせにしなかったのである。某中丞の事などは、ますます引いて戒めとするべきである。
◎周次立
家大人は言った。「周次立県令(以)が丹徒を治めていた時、江浙が大旱魃になったが、施した荒政[86]はもっとも優れていた。地は四衝[87]にあり、大官でその土地を通るものは絡繹としていたが、供帳[88]の飲食は、すべて六簋[89]を用い、海鮮を設けず、二両を費やすにすぎなかった。当時、州県知事が総督・巡撫に会う時、門包[90]を贈らないものは、次立と陳曼生(鴻寿)の二人だけであり、求められても応じなかった。嘉慶甲戌、わたしは家族を連れて入京しようとし、鎮江を通ったが、次立も六簋でわたしをもてなし、言った。「粗末なのを厭われないでください。数年来、総督・巡撫から道府[91]まで、一律にこの物でございました。」わたしが笑って謝すると、あわただしくわたしに告げた[92]。「××坊の里甲[93]が、昨日宿屋で一人の男がにわかに死んだことを知らせました。親族がいませんので調べにゆかねばなりませんでした[94]。見るとその人はななめに椅子に寄り、片手にまだ煙筒を持っていましたが、目が飛び出、坐したまま死んでいました。ついてきていた子供がおり、話では、昨日こちらに来たばかりだとのことでした。以前、某官の処で長随[95]をしていたが、故あって追い出された、京師の提督府にゆき、訴えると言っていた、すこしも病はなかったということでした。椅子に坐して煙草を吸っていますと、突然何かが見えているかのようにし、『わたしは死ぬ』とひとりで叫び、すぐに息絶えたということでした。何を訴えるかを尋ねましたが、知らないと答えました。その体を調べますと、本当に急病で死んだもので、ほかの事情はありませんでした。その箱を調べますと、まもなく一枚の訴状の下書きが見つかりましたが、もう一つの冊子には、主人の秘密をたくさん羅列していました。わたしはこの冊子は残せない、大獄を起こすだろうと思い、袖にして役所に戻ると焼きました。」。さらに言った。「冊子の中の多くの項目は、真偽が知れませんが、この輩はひそかに主人の悪行を探り、脅迫の具にし、脅迫することができなければ、反噬して陥れ、さらに人々を陥れようとし、良心を失っているのですから、鬼神がすぐにかれを殺したのは当然でございましょう。」ある人は言った。「某官はもともと丹徒の人で、その祖宗の墓はこちらにあるから、霊魂が滅びないでこのようなことをしたのだろうか。」わたしは次立のこの挙は、かならず善い報いがあると思った。十余年後、わたしは呉門で官となり、次立は丹徒の城隍になったと人が言うのを聞いたが、確かに拠りどころがあった。張真人から得たともいう。言葉は嘘でなかろう。
◎表彰を求めるよい方法
安化[96]の陶文毅[97]が蘇州を巡撫した時、一つの疏は常州府に属する武進・陽湖両県の貞孝節烈の婦女三千十八人の表彰を求め、一つの疏は江寧府に属する上元・江寧の貞孝節烈の婦女五百余人の表彰を求めていたので、それぞれ総坊[98]を建てて表彰した。その総祠は地方の紳士がみずから造るに任せ、朝廷では公金六十両を費やすにすぎなかったが、潜徳[99]幽光[100]を顕彰し、三千五百余人の多きに至ったのは、世に聞いたことがないばかりでなく、古にもなかったことであった。当時、家大人は江蘇の布政司の任にあり、その事を処理したが、前代未聞のことであると思い、各直省[101]が周知できぬことを心配し、宮保[102]に求め、これら全件を刊刻させ、咨文を各直省に送って処理させた[103]。さらに、各省が咨文を奉っても、保存・管理はなお胥吏がおこなっており、家々が知ることができるとは限らぬことを心配し、各地方官に頼み、一まとめにした冊子を刊刻し、ひろく分け与えてやった。乙未にふたたび呉下を通ると、本当に『曠典闡幽録』一書が流通していたので、満足してやまなかった。そもそも各直省の表彰を待つものは、数えきれず、寒閨の寡婦には、編戸[104]が多かった。国家は法条を厳格にし、風教を維持し、法令の趣旨は善美で、きわめて深遠であるが、胥吏はすぐにそれをゆすり・たかりの発端とし、一人の婦人を表彰することができるようにするには、百余金を費やさねばならず、受け取る坊銀[105]を見ると、数倍に増えているのであった。窮檐[106]の節婦が、どうしてそれに堪えられよう。今、天下では、役所・民間に、それぞれこの帳簿があり、紳士・地方官は、この冊子をもとに、事案に照らし、行いを清くすることができ、胥吏が邪魔する心配がなく、世間に鬱として宣べない[107]気がなく、名節[108]は日に日に尊く、風俗は日に日に美しくなることを見るならば、この冊子の功徳もどうして尽きることがあろう。わたしが浦城に仮住まいしていた時、周芑源広文(啓豊)も建寧府の七属県の、貞孝節烈の婦女雷李氏ら三千百余名をまとめ、表彰し、江南の例のようにするように求めてやった。わたしも、上奏が受理された後、すぐに冊子を刊行し、ひろく頒布してやることをかれに勧めた。そもそも総祠が完成し、総坊が建設されるには、いずれもなお時日を必要としたし、祠の中の位牌はすでに多く、坊の上の姓氏は、たいへん細かく、見るのにたいへん不便であったので、これを棗梨[109]に授け、人人が寓目することができるようにするほうがよかったのであった。そこでくわしくこの事の縁起を述べて示した。広文は性来善行を好んでいたが、合浦県[110]の千万人々は、よく見えているのに見ず、口を閉ざして談じなかった。しかしかれは取材と筆墨の労を憚らず、州府の胥吏の費用を惜しまず、一人でこの義挙を担った。聞けば広文は年が五十を過ぎて子がなかったところ、この事をおこなってから、翌年一男を得たそうだが、それも励ましになろうか。
江蘇の江鉄君(沅)は、艮庭先生[112]の子であった。はじめ儒者をやめ、僧侶になり、後にまた初服[113]に帰った。家大人が呉で布政使をした時、ともに詩文を作って交わっていた。以前、かれが幾つかの話を雑然と述べるのを聞いた。一つは、娄東[114]の王明経樹獲が言ったことで、かれの郷里の人某一家が焼け死んだが、老いも若きも残らず、来て半月足らずの下女もいっしょであったそうである。隣近所はかれに平生横暴な行いがなかったのに、何の隠悪があって天罰が酷かったのか、来たばかりの下女にまで及んだのか分からなかった。たまたま乩仙を呼んだものがいたので、その事について尋ねると、乩は示した。「その家は五穀を棄てることがひどく、子供女が食べたり弄んだりするのに任せ、ばあやもいっしょに汚穢と見なし、つねに擲って棄てていた。上帝はかれらに悪はないので、かれらが悔いるのを待とうとし、小さい災で十年戒めたが、よくないのは相変わらずだったので、雷部[115]に委ねた。雷部は報告し、軽いと思い、さらに瘟部に委ねたが、瘟部も同様で、火部に委ねた。下女はもともと災厄を受けるものではなかったが、三日前、主人が残飯を与えた時、窓の外に擲ち、糞の山の中に落とし、秘して言わなかったので、ともに殺したのだ。」さらに言った。「本屋の周某は、方正謹厳で、出納をいいかげんにしなかった。ある日、わたしに語った。「わたしが市場で書を売っていますと、儒生が一人の少年を連れて来、小説『肉蒲団』[116]というものを求めました。わたしは色を正して言いました。『あなたは読書人で、連れているのは、子弟でなければ生徒でございますのに、どうしてさようなものをお尋ねになります。どうして後生を教えるのです。どうして士人でいられます。わたしは市井のものでございますが、これを売るのを潔しとはいたしません。二度とさようになさいますな。」その人はたいへん恥じ、揖して謝した。「失言いたしました。つつしんでお教えを受け、紳に記しましょう[117]。」踧踖として[118]去った。わたしは言った。「この人は格言を聞いて受け入れ、すぐに過ちを改めたのだから、やはりよい士人だ。」そこで思い出すのは、朱姓の者がおり、本を売ったために家がだんだん栄えたが、後に突然みずから小曲[119]を刊刻して売った。わたしは言った。「あなたは本を売っているので、わたしたちと交際している。これを売れば、荷物担ぎや下僕と交際することになる。今後はそのようにするな。」朱は言った。「わたしはよい値を貪っているだけです。」わたしは言った。「おまえが目前の利を貪り、それによって人心を損なえば、かならず冥罰があろうから、はやく改めろ。」聴かず、一年足らずで、その子は資金を盗み、家の外で淫行したが、娶ってやり、家を分けてやった。子はまもなく死に、幼い子も同様で、子孫は絶え、残った書籍を担ぎ、市で売り、まもなく街亭[120]で死んだ。さらに言った。慈溪[121]の北郊に盲人がおり、貧しかったのでその妻を追い払おうとしたが、妻は承知しなかった。盲人は言った。「おまえが去れば、どちらも生きるが、おまえが去らねば、どちらも死ぬ。わたしが先に死に、おまえがひとりで去ったほうがよい。」そしてみずから死のうとしたので、妻はやむを得ず再婚し、その後、夫に言った。「盲人は身寄りがございませんから、わたしは今月ふたたび裁縫洗濯しにいってやり、泊まらず、すぐに帰りましょう。」後夫はそれを許した。盲人はそこで妻を売った洋銀を得たが、たくさんあったので、夜に弄び、音を立てていた。傍らの塾の童子がそれを羨み、すべて盗んで去ったので、盲人は縊れた。一日後、かれの妻が来、驚いて哭き、やはり縊れた。後夫は翌日見にゆき、人と金がともに失われたのを悲しみ、入水して死んだ。その母はそれを聞き、さらに縊れた。某日、大雷雨となり、雷で塾の生徒十六人が死んだが、そもそもその事を聞き、ともにその銀を分けたものたちであった。塾師は与り知らず、幼い生徒は分け前を得なかったので、免れたのであった。時に道光庚寅某月であった。さらに言った。善を勧め、悪を懲らす言葉は、あるいは書物、あるいは瓦版[122]で世に流通させれば、功徳は無量で、廃棄したり軽侮したりするものがいても、一人が実行できれば、「灯伝はりて尽くる無し」である。一人が目ざめれば、すぐに失敗は功績に変わる。以前聞いたが、中表[123]兄妹がおり、ともに旧族名門で、才貌はいずれも優れ、それぞれ欽慕する思いがあった。数回面会できたが、ともに上長が前にいたので、思いを伝えることができなかった。後に盛宴で劇を演じ、堂に珠簾[124]を設け、内外を隔て、その表兄は酒宴を離れ、ひそかに後堂を探り、見るとかれの表妹が席にいなかったので、東西を歩き回り、書斎にゆくと、かれは酔い、小さい榻に憩っていたが、頽然[125]として白粉は融け、臙脂は消えていた。たいへん喜び、近づくと、突然壁にぶつかり、小さい軸が地に落ちたので、取って見ると、淫を戒める文で、言葉は激しかったので、読んで悚然と汗を流し、疾駆して去った。この少年はもともと善根があったが、すべてこの当頭棒喝[126]のお蔭であった。
◎烈婦が怨みを解くこと
江鉄君はさらに言った。江南××科[127]の郷試で某生という者が、隣の号舎で騒ぐ声を聞いた。見ると、一人の生員が碗を砕き、顔を裂き、血を流して茫然としていた。某がそのわけを尋ねれば、幽鬼がかれの体に憑いており、こう言った。「わたしたち夫婦は貧賎で、子を連れ、この人の家に雇われていました。この人はわたしの顔色を窺い、しばしばわたしを挑発したものの、うまくゆきませんでした。そこでわたしの夫を陥れて客死させ、さらにわたしに迫り、わたしに首を吊らせましたので、今この人の命を取りにきたのです。」某は言った。「それならば烈婦で立派だ。あなたの子は今いるか。」幽鬼は言った。「わたしの死後、路頭で乞食しています。」某は言った。「かれの命を取れば、子はふたたび乞食し、溝壑[128]を免れなかろうが、どうする。かれの死を許せば、若干の田地をおまえの子に与えるように命じよう。妻を娶り、子を生ませれば、死者は祭祀があり、生者は後嗣があり、よいことだろう。」幽鬼は言った。「それはたいへんようございますが、かれが従うとは限りませんし、わたしは冥土の令状を奉じていますから、命を取りましょう。」某は言った。「かれは死を恐れ、かならず従おう。おまえのためにそれを成就してやろう。だめならばやはり命を取ればよい。」幽鬼は言った。「それはたいへんようございます。わたしのために取ってください。」幽鬼が去ると、その人は蘇った。某が尋ねると本当で、かれに事情を告げると、その人は唯唯としていた。試験場を出、その人の寓居にゆくと、その人は一議を作り、焼いて言った[129]。「わたしは帰ってすぐにその事を行い、あなたが確かめに来るのを待ちましょう。」某が三場前に答案を書き終えると、突然、前の幽鬼が姿を現したが、明らかに喜色があり、謝して言った。「あなたの一言のおかげで、死んだ者は場所を得、生きている者は安穏を得ました。あなたは才徳の士でございます。わたしはあなたのために神さまに頼みました。すでに二つの試験に合格しており[130]、合格しましたら、つとめてわたしの事を成就なさればようございます。」某は帰ると、その人の家にゆき、その子を求めて得、財産を分けてかれに授け、かれの家を作り、その夫婦を合葬した。某はその試験で本当に合格し、翌年進士となった。これも王明経樹獲[131]が壬申の年にわたしに述べたことで、ともに姓名が伝わっていたが、今は忘れた。思うにこれは、前編に録した、浙江の試験場の「鬼に情を説く」の一条[132]と似ているが、それは浙江の事、これは江南の事で、それは乾隆年間の事、これは道光年間の事で、やはり天下に解けない怨みはないことが分かる。
◎ウシの禁忌
わたしの家は代々牛肉を食べず、すでに二百余年続けている。家大人は公車[133]で落第して南へ帰る時、浙江で瘧を病み、道中病を抱えながら戻った。秋から冬まで、毎日一回瘧があり、すでに百余度に達し、衰弱はほとんど名状し難いものであった。亡き祖父はかれの飲食が進まぬことを憐れみ、時折美味で滋養をつけさせた。ある日、親しい某広文が丁祭の余りの牛肉を贈ってきたところ、医者は、虚瘧[134]は牛肉を食べるのがもっともよく、脾臓にたいへん益があると言った。家先大父[135]は、それをきちんと料理し、家大人に言った。「これは丁祭[136]の余りもので、もとより食べられる。それに治療するためなのだから、障りがない。」家大人は、ほんとうは食べたくなかったが、厳命に逆らうことを憚り、むりに一回箸を下したところ、すぐにはげしく吐き、たまっていた痰がいっせいに湧き出た。その日、瘧はすぐに止んだが、実は牛肉を喉から下していなかった。そこで調べると、施愚山先生の『矩斎雑記』[137]の中の一条にこうあった。「庾楼字は木叔は、三代牛肉を食べず。たまたま病んだ時、ウシの脳を薬に混ぜた。時折牛肉を贈るものがいれば、奴隷に与え、罪がないことを願えると思った。ふと夢みたところ、冕服緋衣のものが言った。『ウシを食べたのではないか。なぜこのように腥いのだ。』庾はすぐに食べなかったと答えた。緋衣のものは属官に命じて帳簿を調べさせ、瞑目して言った。『おまえはウシを食べなかったが、病に託け、戒めを破り、奴隷に食べさせたから、一紀を奪われるべきだが、おまえに悔いる心があったことを考慮し、百十家に食べぬことを勧められれば、ゆるゆるおまえに寿命を返そう。』庾は、世人に戒めを信じるものは少なく、牛肉を贈るものがいたら、どうしようとひそかに思った。緋衣の人はかすかに笑って言った。『土に埋めればよい。思いが堅くないことだけが心配で、行われるのが広くないことは心配ない[138]。』庾は目ざめると、わざわざその事を筆録した。門人[139]黎同吉、字は亦仲も、ウシの禁忌を守っていた。たまたま瘧を病んだ時、親しいものによって、むりに一匕を挙げさせられた。夜に夢みると、黄姓の若者が剣を持ち、怒り罵り、かれの母の肉を食べたと言った。朝に起き、贈られたものについて尋ねると、本当に牝の黄牛の肉であった。ある人が言った。『ウシを食べるのは、小さな過ちで、二人は代々食べておらず、病のためにすこし食べただけで、冥罰がこのようであったのだ。ウシを殺し、コヒツジを焼いて飽きることを知らないものは、さらにどんなことが加えられるか。』坐客は言った。『黒面老子は、おのずから処分がある[140]。それにかれのような悪人は因果を説いても信ぜぬから、この鬼神が戒める[141]夢も、もとより僥倖とすることはできない。』…ある人はさらに、食べることは殺すことと異なるのではないかと疑うが[142]、かれは知らないのだ。人々がみなウシを食らえば、ウシは八珍[143]のようで、世に八珍を切らないで市で売っているものを見たものはいないし、人がみなウシを食べなければ、ウシは糞土のようで、世に糞土を取り、切って市で売るものはいないということを。殺すのと食べるのは、棍棒と刃のようなものである。…この言葉はきわめて痛切で、記録することができ、推奨することができる」云々。そこで詳しく載せたのであった。」
◎程太令
同年の何小汀(艮表)が言った。「江蘇の贛楡県[144]に程姓のものがおり、忠厚によって称えられ、商売によって富を致した。もともと親戚鄭某と親しくしていた。晩年の一切の商売は、すべて経理の程某に任せていた。かれが物故すると、かれの子義は、道光乙酉科の挙人であったが、父が信任していた人だったので変えようとしなかった。鄭は義が会試を受験したのに乗じて入京したが、かれの末弟が儒学を習っていたので、その商売をやめた。交易は、すべて現金であることはできず、金を人から借りていることがあり、人に借りられることもある。その時、程は元本利子を計算すると、たしかに利益があり、不足はなかったが、商売をやめると、人に貸したものは、すべて烏有に帰し、人に借りたものは、借金取りが門に満ち、ひどい場合は訴えを起こすに至った[145]。義は知県に選ばれたが、訴訟に絆され、役所に赴けなかった。そして、鄭は局外に身を置いていたので、親戚友人はみな不満であった。後に鄭の子は、院試[146]に合格したが、招覆[147]の日に、筆誤[148]によって落とされ、補せられた人は義の末子であった。人々は、天はご存じなのだと思った。思うに小汀の尊父恒鍵は、嘉慶末年、贛楡の県令に任ぜられたが、義はかれが県試で選抜したものであった。道光年間、小汀のいとこ森林もその県の役人をしていたので、前後の顛末をよく知っており、わたしに話したのであった。
最終更新日:2018年2月22日
[1]http://www.zdic.net/c/5/fb/264902.htm新しい死者を葬った後、位牌を供する几筵。
[2]http://www.zdic.net/c/f/d5/207470.htm服喪中あるいはその他の凶事に遭った時に着ける白色の衣服。
[3]http://www.zdic.net/c/2/e9/236889.htm瑟瑟。小刻みな音の形容。
[4]原文「欻然卷燈滅影」。「卷燈」が未詳。とりあえず、こう訳す。
[6]原文「乃聞聲而為穴隙之間睹狀,而甚飛梭之擲,樂因哀感,懼以喜招。」。「而甚飛梭之擲」は未詳。とりあえず、こう訳すが意味を成していない。脱文があるか
[10]「諸兄」に同じ。
[11] 未詳だが、良い家のことであろう。
[14]http://www.zdic.net/c/e/110/297876.htm貢院に設けられた高楼。試験の時、巡察官がここで試験場を監視し、不正を防いだ。画像検索結果
[17]原文「七屆誰憐貼五場」。まったく未詳。文脈からして科挙に何度も落第したことを誰が憐れもうという方向か。
[18]http://www.zdic.net/c/c/144/316216.htm人を害する幽鬼と怪物。
[25]http://www.zdic.net/c/6/107/280231.htm官員の等級を区别する帽飾。「頂子」、「頂帯」とも称する。画像検索結果
[26]原文「管庫日有蠹吏伙造偽串冒徵事發」。「伙造偽串冒徵」が未詳。とりあえずこう訳す。
[27]http://www.zdic.net/c/4/e/20782.htm官府が期限までに任務を遂行しないと処罰することによって官吏に任務遂行を促すこと。
[29]http://www.zdic.net/c/9/9/14956.htm科挙の試験は三度を経ねばならず、初場、二場、三場といった。三場とも総称した。
[30]http://www.zdic.net/c/4/151/335789.htm三つあるうちの最初の試験。
[32]http://baike.baidu.com/view/612950.htm多くて乱雑なさま。藉藉は紛乱のさま。
[34]科挙の答案を書く独房は号舎といい、号舎の列は番号の代わりに千字文によって「×字号」と名づけられている。これは「女字号」の四十号室。
[35]http://www.zdic.net/c/7/a7/195995.htm号子。http://www.zdic.net/c/7/151/334949.htm試験場で、生員が答案作成と喫食宿泊する所。
[36]http://www.zdic.net/c/7/a1/188482.htm試験場に置かれた雑役係。
[37]原文「出借同試之穿靴而備鞋者」。何を借りたのかが未詳。文脈からして自分の靴が濡れたので靴を借りたか。とりあえずこう訳す。
[38]未詳だが、油紙で作った帳であろう。
[39]原文「且念兩舎毗連共一號軍、無關弊竇」。未詳。とりあえずこう訳す。同じ号であれば部屋を交換しても不正と見なされないということなのか。
[41]http://www.zdic.net/c/5/6c/106938.htm「幕遊」とも。故郷を離れ幕友となること。
[46]郷試では「経史時務策」の問題が五題出される。謝青等主編『中国考試制度史』二百三十三頁参照。
[47]科挙の答案に汚損があったりした場合、受験者を不合格にし、以後の受験を禁じることを告げる掲示。宮崎市定『科挙史』百四十五頁参照。
[48]http://www.zdic.net/c/2/e8/235441.htm「紅蓮幕」は役所の美称。
[49]http://www.zdic.net/c/8/8b/152925.htm 地方官が罪を犯し、すぐに免職するべき場合、督撫が人員を派遣し、当該官の印章を收取し、期限を設けて離任させること。
[52]原文「奸民方避之不暇」。「不暇」が未詳。とりあえずこう訳す。
[53]http://www.zdic.net/c/1/a1/187118.htm力役、賦税などを割り当てること。
[57]http://www.zdic.net/c/1/7f/135595.htm紅色の竹簽。逮捕令状。
[64]http://www.zdic.net/c/e/ef/245424.htm京曹のこと。朝廷各部衙門の司官以下の属官。
[65]http://www.zdic.net/c/0/153/339416.htm官吏に功績がある時、吏部あるいは軍機処に記名させ、抜擢に備えること。
[66]http://www.zdic.net/c/3/29/62994.htm人の死を「道山に帰す」と称する。
[68]http://www.zdic.net/c/7/149/321639.htm顫えるさま。畏れるさま。慎むさま。
[70] 原文「公是公非」。漢典に適切な語釈なし。用例に引かれている唐 刘禹锡 《天论上》にいう「是为公是,非为公非,天下之人蹈道必赏,违之必罚。」ということであり、是はどこへいっても是、非はどこへいっても非ということであろう。
[71]http://www.zdic.net/c/d/3/6709.htm一方に偏しないこと。ここでは王法・仏経いずれにも偏しないということであろう。
[73]原文「人世議獄、固有獄具輒刑不俟奏報者、如重案請王命即行正法者是也。」。未詳。とりあえずこう訳す。
[74]http://www.zdic.net/c/1/150/333251.htm皇帝が朱筆で奏章の上に施す指示。
[75]http://www.zdic.net/c/3/d5/207358.htm死刑囚に対してしばらく処刑を緩めること。
[76]http://www.zdic.net/c/c/a1/188980.htm罪人が憐れで、罪状が疑わしいこと。
[78]http://www.zdic.net/c/e/24/57968.htm処刑,罪を加えて殺すこと。
[82]http://ctext.org/shiji/ji-zheng-lie-zhuan/zh?searchu=%E8%8E%8A%E7%82%BA%E5%A4%AA%E5%8F%B2ここでいう「荘」は鄭当時の字。
[86]http://www.zdic.net/c/2/16/35618.htm飢饉を救済する政令あるいは措置。
[88]http://www.zdic.net/c/b/38/87820.htm。宴会用に並べる帷帳、用具、飲食等。宴会を挙行することをもいう。
[91]http://www.zdic.net/c/3/21/50837.htm清代道級の地方政府、あるいは当該級政府の行政長官。
[92]原文「忙中告余曰」。未詳。とりあえずこう訳す。
[93]http://www.zdic.net/c/c/1c/42282.htm漢典に適切な語釈なし。未詳だが、里長と甲長であろう。
[94]原文「而無親屬當詣驗」。未詳。とりあえずこう訳す。
[100]http://www.zdic.net/c/d/73/118446.htmここでは陰徳のことであろう。
[101]http://www.zdic.net/c/4/15e/354670.htm各省。中央に直属するので、直省ともいう。
[102]http://www.zdic.net/c/b/73/118239.htm太子太保、少保の通称。
[104]http://www.zdic.net/c/6/d4/205074.htm戸籍に編入された通常の家。
[105]未詳だが、総坊を建設するための資金であろう。
[106]http://www.zdic.net/c/7/9b/178659.htm「窮檐」とも。茅舎、破屋を指す。
[116]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%82%89%E8%92%B2%E5%9B%A2。http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=882545
[117]原文「當書紳也」。http://www.zdic.net/c/6/108/283897.htm牢記すべきことを紳带に書くこと。後に他人の話を牢記することを書紳という。
[118]http://www.zdic.net/c/7/ed/242067.htm恭敬にして不安のさま。
[120]http://www.zdic.net/c/7/77/120847.htm原文同じ。未詳。街角に設けられた粗末な屋根つき救貧施設か。漢典に適当な語釈なし。
[122]原文「單片」。未詳。とりあえずこう訳す。
[126]http://www.zdic.net/c/3/158/345837.htm人に醒悟を促す手段あるいは人に厳重な警告を与えること。
[127]原文「江南某科鄉試有某生者」。訳文「××」には干支が入る。
[128]http://www.zdic.net/c/f/31/77954.htm野たれ死にの場、あるいは困厄の境。
[129]原文「其人作一議焚之日」。「一議」は文脈からして幽鬼への手紙のようなものと思われるが未詳。
[130]原文「早登兩科」。「兩科」は郷試と会試。
[133]http://www.zdic.net/c/c/1C/43492.htm挙人が会試を受験すること。
[136]http://www.zdic.net/c/1/9/14822.htm毎年陰暦二月、八月第一の丁日に孔子を祭祀することを、丁祭と称する。
[138]「あなたの意思が堅固でないのが心配で、ウシの禁忌が広く行われていないことは心配ない。」という趣旨であろう。
[139]http://www.zdic.net/c/8/101/272945.htm弟子。食客。黎同吉の伝記が分からないのでどちらなのかは判断できない。
[140]原文「K面老子自有處分」。まったく未詳。
[142]原文「或更疑食與殺有異」。これは『矩斎雑記』を不正確に引用しているのだと思われる。『矩斎雑記』の原文は「或更以食與殺有異」
[143]http://www.zdic.net/c/b/143/313165.htmひろく珍羞美味を指す。
[145]原文「第生理既罷、為人負者皆歸烏有、而貸諸人者、索取盈門、甚至構訟。」。「為人負者皆歸烏有」がよく分からない。商売をやめようが、債権は債権として残ると思うのだが。とりあえずこう訳す。
[146]http://www.zdic.net/c/2/fd/269663.htm清代、各省の学政によって主持せられる試験。これに合格すると生員となる。