巻六

 

◎某太史

 

乾隆末年、わたしの郷里の某孝廉が都に留まり、夏を過ごした。孝廉の家はもともと小金持ちで、若くして登科したので、鮮衣美食し、宴遊吟嘯することを常の習いとしていた。およそ九回公[1]登り、家産は減った。都に住んでいたが借財多く、歳末になると、負債を取り立てるものが門に満ちていた。孝廉はもともと面子を惜しんでおり、なすすべがなかったので、結局自縊したが、二人のしもべに救われ、蘇った。当時、同郷の官および公車をともにしたものはみな慰問しにいった某太史は孝廉と行跡がまさに同じで、交際はもとより密であったので、やはり人々について来たが、目を瞠って一言もなかった。退くに及び、人に語った。「これは某がみずから苦海を抜けようとしただけで、どうして救えよう。救えばまさに苦しめることになる。」人々はみなかれの持論がおかしいことを怪しんだ。数ヶ月後、某太史も自縊し、みなで救っても蘇らなかった。当時、家大人は都におり、そのことを目撃した。亡き叔祖太常公は言った。「この事を論ずれば、孝廉はもともと死なないことができたのだが、某太史がそのようなことを言ったのは、かれの心がすでに死んでいたからだ。按察司は言った。『哀しみは心の死より大きいものはなく、人の死はこれに次ぐ[2]。』、これが孝廉は蘇ったのに太史は救われなかったゆえんであった。しかし太史はもともと翩翩たる佳公子で、さらにすでに清選に登り[3]衣帽は雅、筆硯は精良、断じて非命に死ぬものではないようであったのに、結局このようなことになってしまった。これはわたしの郷里の士大夫の恥で、宦運[4]の衰えだ。」家大人は言った。「この中にはかならず因果があるが、人に知る知らないがあるだけだ。」近頃の士大夫の驚くべき事には、これよりひどいものがあり、李許斎[5]方伯[6]がその端を開いてから王少[7]廉訪[8]つぎ、監司がさらにつぎ、某運司がさらにつぎ、某学政がさらにつぎ、はなはだしきは状元でありながらこれを免れず、宰相でありながらこれを免れず、二十余年の、この事はしばしば見られ、論ずるものはみなその人の命運がそうさせたのだすべて因果に関わっているとはかぎらないと言っているが、どうしてそうであろうか。

 

◎林翰雲先生

 

林翰雲先生(楚)は、乾隆甲寅榜の副車に合格したので、家大人とも同年の誼があった。後に甲子の挙人大挑[9]の二等となって帰る時、家大人が山東で司法官をしていたので、迎えて役所にとどめ、わたしたち兄弟に勉強を教えさせた。時文に巧みで、よく語り、すべて聴いても疲れを感じなかった。ただ、ひどく臆病で、もっとも雷を恐れており、一たび虩虩[10]たる音を聞くと、神色がすっかり変わり、一人室内に坐して震えているばかりであった。人が多い場所いれば、かならず跳ねて人がいない処にいって立った。人々がそのわけを質すと、笑って言った。「わたしは三十以前は、このように恐れることはなかった。ある日、福州から江に至り、一隻の舟に坐したが、同船するものは十余人、中に父子二人で罵り合うものがいたが、その後、子の声はますます激しくなった。その父はすぐに後ろの船室に走って避けたが、なお呶呶[11]としてやまず、同船するものは目を怒らしていた。突然、一声の霹靂が船の(ほばしら)から落ちその子はすぐに死に、(ほばしら)のために折れ、舟は浪間を旋回して転覆しそうになった。その時、わたしはすでにひどく驚いており、しばらくしてはじめて正気づいたが、それから胆は砕け、かれがかならず跳んで人がいない所に立つのは、今でもの累が及ぶのを恐れているだけなのだ。」

 

◎藪医者

 

亡き外祖蘇年先生が病に臥した時、医者は日に数人来たが、いずれも藪医者であった。姓のものがおり、その名声はもっとも盛大であったが、その技術は実はもっとも凡庸であった。つねに医者たちとたがいに褒めあい、相談して医案[12]を立て、ぐずぐずすること一月余りで、先生は病が重くなってしまった。おりしも修園県令(念祖)があらたに帰り、家大人はみずから招きにゆき、あまねく古い処方を見、嘆いた。「すべてあの藪医者どもが事を誤ったのだ」そして、鄭が立てた医案もっとも切歯し、その後に批をつけて言った。「市医[13]の伎、おほむね同じなり。」一日後、医者たちが来、陳の批を閲し、みな意気沮喪し、鄭は怒って言った。「陳×はどうしてわたしたちを市医と呼ぶのだ。」聞くものはかならず笑いを隠した。しかし先生は結局助からなかった。その年のうちに、この数人の医者たちも相次いで亡くなった。当時、鄭は市医先生と号せられていった。さらに某姓のものがおり、もともと名医の子で、その術は父に遠く及ばず、女の脈を診るとき、かならず帳を掲げて熟視し、問聞望切[14]はかならずまず視診して後に脈診する、この古法には従わざるを得ないと言った。後にある若妻のために治療し、結局目で合図して私通したので、その夫はたいへん憤り、妖鬼を招いてその魂を捕らえさせた。ある日、日が暮れて帰り、中に入るとすぐに地に倒れてうわごとを言い、みずからその平生の隠れた悪行を述べ、喃喃として止まず、一時して絶命した。当時の医を業とする者はかならずそのことを引いて戒めにした。家大人は言った。「古の人は言っている。士君子は刀で人を殺すことはないが、藪医者は人を殺し、その酷さは手ずから斬るのと異ならない。もしさらに邪心を含み、他人の乱せば、その罪はますます重い。某がにわかに亡くなったのは、妖鬼が祟りをなすことができたのではなく、本当はその人がみずから冥罰を犯したのだ。」紀文達公は戯れに句を集めて医者に送ってやったことがあり、「医来りて寇至る。」の対があったが、その言葉は苛刻ではなかった。

 

◎天が報いること好むこと

 

林于川先生(雨化)[15]は、亡き祖父資政公の戊子[16]の同年であった。性格は剛直で、寧徳[17]で文教を司っていた。某生員は家がたいへん豊かで、することは良くないことが多かったので、先生はしばしば戒めていた。某生員は怨み、先生を他の事で誣告し、府に訴えた。太守全某は某生員と仲間であったが、先生は直接太守に訴え、言葉も歯に衣着せないものであったので、太守は怨んだ。某生員はそのために先生を追い払おうとし、五百を太守に献じ、先生が賄賂を得たと訴えさせ、省に送らせ、取り調べに委ねさせた。委員[18]も全知事に加担したいへん激しく叱責すると先生は言った。「この事を正せないなら、わたしは京師で訴えましょう。」委員をたいへん激しく叱責し。大府は聞いて嫌に思い、下役は無実の罪に陥れ事件とし、烏魯木斉に流罪とした。これは乾隆六年[19]のことであった。翌年になり、全知事も流罪になって来、時に先生は嘉慶元年に恩赦で許されて帰り、出発の日に、全知事がちょうど来た。先生は旧属の手版[20]を整え、門にゆき、起居を尋ね、即日東へゆくことを明らかに告げ、手版の中央で、一枚の涛[21]呈して言った。「五百の花[22]もまた小なるかな、忍びて名教を(もつ)埃を払ふ。すを好む天道[23]君知るや否や、我まさに帰る時汝かへつて来る。」全某はまさに朝食を摂っていたが、閲すると噎せたり吐いたりし、地に昏倒し、子が来た時は死んでいた。

 

 

◎宴に赴く時に遅参すること三件

 

林樾亭先生[24]は胸に列宿を列ね、口は立て板に水を流すかのようで、宴会する時はいつも、高談し、雄弁であり、四座は傾聴していた。家大人は通家[25]の子弟だったので、もっとも親炙し、談話に侍し、それによってかれの言論才華を吸収することを好んでいたある日、先生に従い、伊墨卿[26]比部[27]の宴会に招かれ、ゆけば[28]祭酒[29]、遊彤[30]侍御[31]がすでに先に座にいた。そこで一人の公[32]客を待ったが、ながいこと来なかった。当時、先生は内城の[33]の邸宅に住み込んでおり、祭酒は厚載門[34]外に住んでいたので、いずれもはやく帰ろうとしていたが、時間はすでに申の刻を過ぎ、匆匆と酒肴を求めていた時、先生は突然一つの物語を挙げて語った。××科郷試で、ある同考官が一文を閲したところ、たいへんよくなかったので、棄て去ったが、まもなく、その答案はふたたび机上に戻りそのようなことが数回あった。やむを得ず、ひとまずそれを推薦したところ、なんと合格することができた。後に某生員に会い、事情を語り、平生どんな陰隲があったかを質すと某生員は答えなかった。つよく尋ねると、言った。「むなしく四十余年を過ごし、本当に一つも記すべき善行はございませんが、半生のことを逐一数えあげてみますと人から宴会に招かれました時、先にゆかなかったことは一度もなく、主人を待たせることだけ恐れていました。これも方便[35]だとすることができましょうか。」話が終わると、すぐに門番が車の客の来たことを知らせたので、大声で笑って散じた。思うにこの先生は、機に触れて冗談を言っただけだが、応酬世故の中にも、実際こうした厭わしいことがある。そもそも一回の食事の時間は、もとよりさほど時間を費やさぬのだから、すぐに来られぬのなら、はやく断るべきである。断ろうとせぬのなら、主人のためを考え、賓客たちのためを考えるべきなのに、もったいぶり、ぐずぐず[36]として進まず、いたずらに主人が遠くで眺めて待ち、座客が空腹で向かい合い、童僕が怒りを顔色に現し、料理人が[37]して喜ぶようにさせるのである[38]。尊[39]顕官でも、局外で謗られることを免れぬのだから、平等のもの同士なら[40]どうしてすこしも思いやりを加えぬことができようか。そのもっとも憎むべきものは、入覲[41]する地方官の、急いでいるさまを装うものと、要路と親しくし、つとめて職のものを避けるもので[42]、これら二種の人が宴に赴く時は、後から来ないものはいない。長安道中[43]ではそれが積もって悪習となり、[44]の小事だが、君子が深く謗ることであろう。思えば都にいた時、家大人はわたしたちに告げたことがあった。「昨日、人祝雲帆中翰(春熙)に招かれ、程晴峰(采)・達玉圃(麟)両部・李卿中翰(彦章)とともにかれの家へゆき、新任の金太守古心(兆璜)もいっしょだった。灯点し頃になっても、古心はまだ来なかったので、雲帆は激怒しわたしたち四人に飢色があるのを見ると、先に座に入り、愉快に飲み、さらに言った。『古心はきっと来ないし、来てもかれに構わないのがよい。』飲んで三鼓になり、酒肴が尽きると、古心が突然来たので、雲帆はほしいままに罵った。声色はともに激しく、わずかに一羹一おしまいにした。古心はおおいに恥じて去り、聞くものはみな愉快に思った。さらに一日して、春台侍読(人熙)[45]に招かれ、程廬駕部(同文)[46]とともに、一人の地方官を陪席させて朝食を摂ることにしたが、日暮れ近くまで待ったものの、客はなお来なかった。時にわたしたち三人はみな機処仕事していたし、春台も翌日の出勤は朝であったので[47]、みなながく待てず、ほしいままに食事て散じた。灯が点ると、春台はすぐに門を閉ざして眠った。まもなく、客が来たので、門番は命を伝えた。『主人は明日の朝の当番で、陪賓も、みな宮城に入らねばならず、お待ちする余裕がございませんでした。後日あらためてお招きすればようございましょう。』客もたいへん恥じ、口を噤んで一言もなく、京官は伝えて笑い話にした。」これらの二事は低劣で言うに足りないが、記録すればやはり戒めとすることができる。

 

◎周封翁の二事

 

浦城の周封翁(之)には兄弟が五人おり、翁はその末子であった。やや長ずると、すぐに福州で行商しかならず利を得た。かれの三兄は嫉み、かれの商売を真似たが、かならず利を失った。そこで弟が買った商品および出発の日を探り、かならず同行し、翁も兄に伴われことを楽しんだ。そこでそれぞれ米を運び、省城にいったが、途中で翁の船が壊れ、修理せねばならなくなったが、客に省城の米が貴いことを伝えるものがおり、兄は翁に別れて先にゆくと、本当に利を得たので、他の品物を買い、浦城に戻った。翁が省城にゆくと、すぐに値は倍になり、さらに数えきれない利を得た。その兄はかれの福が厚いことに感嘆し嫉妬心がにわかに消えた。後に省に米を運んでゆき、陸に上がった後、見ると船底に大きな穴があり、巨石に塞がれており、人が嵌めて作ったもののようであったので、悚然として言った。「天の功を貪ることは、足るを知るには及ばない。」そして二度と商売しなかった。人と帳簿を清算するたびに、およそ自分に属するべきものは、かならず端数を除き、知らない振りをした。ある人がを誤っていると告げると、翁は笑って言った。「誤っていません。わたしはと孫のために余りを留めたのです。」孫の鳳雛によって貤封[48]を得、四品の[49]を贈られた。鳳雛は字を儀軒といい、県学生から入資[50]して塩運[51]となり、ともに書画を好み、鑑定収蔵をよくしていた。家大人が南浦書院[52]教育していた日、ともにこの事を談論し、親しく交わった。儀軒は気前よく施しを好み、日々人を救うことをとし、もっとも故郷に功績があった。城の東にある祝家[53]は、地脈[54]が関わっていたが城を修理する時、その頂の石を穿ったために、おおいに高い岸、深い谷[55]の恐れがあり、郷試もしばしば落第した。当時、浦城の知事をしていたものは、金溪[56]士竹()で、士たち修補する手段を相談したが、しばしば当を得なかった。儀軒はそこで気前よく一人でそれに当たり、半年足らずで工事が終わり、銀一千あまりを費やした。翌年になり、人で郷試に合格するものは五人の多きに至ったが、前に見たことがないことであった。さらに翌年になり、儀軒の子啓豊・啓棠があいついで学校に入り、啓棠はすぐに郷試に合格した。義行を見ればかならずそれをし、すぐにみずからその報いを得たものであり、士竹はその事を碑に刻んでやった。

 

下女を鞭うつ時の微言

 

先妣夫人は性格が寛大で、やむを得ず下女を鞭うつときは、くも痒くもしなかったので、かえって狡猾な下女に侮られていた。先妣はそのことをよく知っていたが、やはり咎めなかった。乳母や御三待遇する時、しばしばその倒持[57]を受けたが、暮らし向きは蒸蒸[58]として日に日に盛んになり、亡くなった日、下女たちみな哭いて大声を出していた。以前、物語することを好んでいた。親戚に下女を鞭うつことを好むものがおり、下女が脱走すると、藤の鞭を手にして怒って追いかけた。下女が広間から逃れ出ると、庭先に、裁師が数人いたので、下女は呼んだ。「司父(スーフ)、わたしをお救いください。」(民間で裁縫する人司父と呼ぶ)一人の職人が笑って言った。「あなたは自業自得ですから、わたしが救えるものではございません。誰があなたに前生で下女を鞭うつことを好ませたのですか。」下女を鞭うつものは手がにわかに萎え、鞭を地に落として帰った。思うにこれは笑い話だが、にして的を射ており、きわめて古人の[59]の趣があり、その事はあるとは限らないが[60]、その理不磨である。

 

土地を買うときの微言

 

常州の某観察は富んでいたが吝嗇で、菜園を買うとき、繰り返し手玉にとり、値段を安くしようとし、売るものが焦れば、ますます刻薄さを加えたことがあった。かれの子は傍らにいたが、たいへん不快であったので、大声で言った。「父さん、すこし値を高くすることができれば、わたしたちが後日売る時、やはりよい値をつけられましょう。」その父は愕然とし、それからすこし悟った。後に観察が死ぬと、その子は温厚にするように改め、父のしたことにすっかり反したので、さいわい家は守られ、破産しなかった。この子は幹蠱[61]したいえ、かれの機微に触れた片言は、本当に心を醒ますに足りた。

 

異姓を封すること

 

浦城の呉世熹(式丹)[62]は、祖舫[63]尚書のおじであった。尚書の家にはもともと恒産があった。かれの封翁(率英)県の諸生で勉強に励み生計を立てることに長けていなかった。しかし世熹は運用に巧みで、蘇州で商売するたびに、かならず利を得ていた。封翁はそこで自分の資金を出し、世熹が代わって運用することを求めた。二人は親戚で、もともと仲が良かったので、世熹は気前よく承諾した。浦城に産する諸物で毎年蘇州にゆくものは、茶葉・子・シイタケの物で、巨利を得られるのであった。しかし封翁の代わりに運んだものでは、つねに利を得ず、世熹がみずから運んだものは、普段通り倍の利を得るのであった。封翁はまったく疑わしいと思わなかった。世熹たいへん申し訳なく思い、あらためて規則定め、一年を二度分け、祖父の資金をすべて春の荷にし、自分の資金をすべて秋の荷にした。その年、春の荷はすべて利益がなく、秋の荷はきわめて利益があった。翌年、自分の資金を春の荷にし、祖父の資金を秋の荷に入れると、今度は春が利益があり、秋は利益がないのであった。さらに翌年、ふたたび祖父は春の荷、呉は秋の荷にすると、春は利益がなく、秋は利益があるのはやはり同じであった。浦城の人はつねに笑い話とした。そこで世熹封翁に語った。「君は商人になる人ではないから、これに従事する必要はなく、もっぱら本業に勤め、心を尽くし、子を教育しろ。あらゆる家計は、わたしが担当しよう。」時に呉家は日に日に盛んになり、富は一郷に冠絶していた。乾隆丁酉、尚書が郷試に合格した時、世熹は封翁に命じ、かれを連れて入京させ、長旅の資金都に住む薪水はすべて準備してやった。翌年、尚書は進士となり、翰林に入り、刑部に改まっても、世熹はかならず手厚く援助し、毎年習慣とした。後に尚書は朝廷に求め、侍郎の任期中に一一品の封誥を加え、世熹に貤贈[64]させ、浦城の人はそれを栄誉とした。嘉慶年間に志を重修した時、尚書は家大人に頼み、伝を作らせたが、時に家大人はちょうど南浦書院の講席を司っていた。

 

良心を失った報い

 

丙申の春、次兄[65]は嫂祝氏を連れて省城から浦城に里帰りした。嫂氏には子女が多かったので、連れている乳母も多かった。江氏というものがおり、その夫の江国宝もついていったが、途中で病んで亡くなったので、次兄は資金を出し、二人の下役に棺を買って納めさせた。二人の下役は、閩県が遣わした護送官で、かれの葬儀代[66]半分以上横領した。棺はすでに薄い嫌いがあり、かれが身に着けている衣服は剥ぎとられてほとんど尽きていたがわたしの兄と嫂は気づかなかった。二人の下役はもともと省城に戻るべきであったので、国宝の棺はすぐにともに戻り、省城に着かない時に、ある下役の父が国宝を夢みたところ、国宝はこう言った。「おまえの息子はひどい残忍さがすでに極まっている。かれが着けている套[67]、わたしの物だから、わたしは地下に訴えよう。国宝の父もその子を夢みた。「わたしはすでに死んだが、二人の下役は酷い心で理に負いているから、かならず報いよう。」国宝の父はこの夢を見た後、すぐにわたしの家を訪ねてきたが、下役が戻ると、子が本当に死んだことを知った。ある下役が父に会ったとき、父は、着けている套どこから来たかを尋ねたが、はじめは事実を告げなかったので、その父は言った。「すでに夢の中で知っていた。国宝は地下でおまえを待っているから、おまえはきっと免れまい。」下役ははじめて恐れ、その夜に悪寒と発熱で亡くなった。もう一人の下役も二十日以内にあいついで亡くなり、この事は、わたしの家の男女は、みなその詳細を語れた。その事は至って小さいが、報応はもっとも速く、もっとも明らかで、これは鬼神幽明の道が、はっきりと人に見られるものを示したもので、下賎なものたちのための説法とすることもできる。ある人は言った。「天下に人の財を奪うものは少なくないのだから、これがどうしてかならず死ぬべきものであろうか。」わたしは言った。「この一件を見ると、二人の下役は良心をすでに失いつくしており、かれらの素行が正しくないことは知れる。この事のためだけで死んだのではない。この事はその一端にすぎない。」

 

母が子を教えること

 

わが郡の郭寿川県令(昌年)は若くして父を失って貧しく、その封翁(斗)は儒学を学び、さらに医術を学び、人に語ったことがあった。「医九流[68]の一つだ。その趣旨はもっぱら人を救うのに務めることにある。それに頼って利を思うならば、商人と異ならない。」つねに親戚のために治療し、きわめて苦しかった、一銭のことも話題にしなかった。金持ちには、助けてもらったことに感動しているものがおり、手厚く助けたが、かならず再三辞して後に受け、すぐにその良い薬を買って丸薬を捏ね、分けて貧民病人を救った。中年で亡くなったが、家には担石の蓄えもなかった。亡くなった時、寿川およびその妾許氏の手を握り、目は直視し語らず、許が言おうとしていることを尋ねると、しばらくして嗚咽して言った。「わたしは半生勉強して名をなすことができなかった。この子がわたしの願いを叶えることを願うばかりだ。」許が頷くと瞑目した。当時、寿川は年がようやく十二で、許はその生母であった。納棺が終わると、許はすぐに親戚を集めて告げた。「皆さんはいずれも故人の医薬の恩恵を受けたことがあるもので、今未亡人(わたし)は家に壁が立っているだけで、幼子は頼るものがなく、自活するすべがございません。皆さん資金を集めて生計を立てさせてくれることを願います。高望みしようとはいたしません。ただ三十両を集めれば十分でございます。」人々はみな気前よく承諾し、それぞれ目録を書き、金額通りに渡し、その後で言った。「このお金を得て、結局どうなさるのですか。」許は言った。「遺児の書本にするだけでございます。」(俗に童子が入学してにつくときの資金を書本という。)人々は賛嘆して言った。「わたしたちはあなたがこの金を得、ささやかな商売をし、毎年利子を得て暮らそうとしていると思っていたが、書本にすることしか考えていないのならば、出るものはあっても戻るものはなく、この銭はすぐに尽き、その後どうする。それにこの子はすでにいい年だし、これからものになるとは限らない。」そして前の目録を回収し、どっと散じた。許はそれを聞き、天に向かって大声で哭き、寿川も哭いた。隣家の老婆はそれを見て憐れみ、言った。「ひとまず哭くのをおやめなさい。ちょうど余裕の資金が千文ございますから、持ってゆき、圧花会[69]をすれば、死者の霊威があって、うまくゆくかもしれません。」許はそこで拝して受け、すぐに隣家の老婆に託して管理させた。夜が明けると、結局三十千銭を得て帰った。許はそこでを親しいものに託して運用させ、みずからは裁縫して補い、日々寿川を促し、塾に入って勉強させた。数年足らずですぐに学校に入り、道光戊子[70]郷試に合格し、癸丑に連捷して進士になり、山東で県令になった。翌年、親を養うことを理由に帰郷を請いその母のために七品の封典[71]求めた。聞けば今なお健在で、隣家の老婆しばしばその家に往来し、近い親戚のようであるという。

 

 

魚を救おうとして果さなかったこと

 

侯官の某孝廉は、家大人といっしょに園先生(茂春)[72]門下で教えを受けたことがあったが、体格は魁偉、文筆も雄傑で、人々は大成を期待していた。まず抜萃科に挙げられ[73]、さらに郷試に合格した。××科では公車で北にいったが、江南にいた時、舟で真夜中に夢みたところ、一人の金甲神がかれに助けを求めた。「おまえがわたしを救えば、わたしはかならずおまえを救おう。」目ざめたが忘れていた。午後、見ると漁舟が一尾の大きな赤い売りに出しており、代金二千銭を求めていた。某は千銭なら買うと言い、折りあわないで去った。すると突然夜の夢を思いだしたので、いそいで水夫に命じて値を増して買わせようとしたが、先に隣の舟に買われ、すでに首を切られ、その鱗を剥がされていた。仲間はみな謗り、某はそのためにわかに精神病、すぐに京で亡くなった。家大人は言った。「およそ人民に命を託される人は、その器量がみな宏くて大きいものだ。この魚は人物を知らなかったことにより、みずからを救うすべがなかった。が人に負いたのか。そもそも人が魚に負いたのか。」

 

◎人命事件で収賄すること

 

永福[74]の江心葵県令(景陽)[75]はわたしの家と世[76]であり、乾隆己酉の挙人大挑で、南に派遣せられて宜良県知事に補せられ、役人としての名声はたいへん良かった。おりしも京師に銅を運ぶことを命ぜられて離任し、紳士民衆はみな恋々として、いっしょに楹帖[77]を作って贈ったが、「国に負かず、民に負かず、学に負かなければ、父となれ、母となれ、人の師となれる。」というもので、かれの事績を記していた。銅を運ぶ仕事が終わると[78]、また原任に戻って昇進を待った。人命事件があり、死者の家は力が弱くて、下手人は財が豊かであったので賄して免れようとしたが、心葵はそれに動かされなかった。おりしも病に臥し、その子がひそかに賄賂を収めた。そして過失致傷として判決したが、心葵は知らなかった。さらに数ヶ月して、乞養[79]して帰り、園亭を造り、山で石を切り、その子に工事を監督させたが、大きな石に圧しつぶされて死んだ。心葵はたいへん嘆いたが、親しくしていたものがおり、雲南で収賄した顛末を知っており、ひそかに嘆いた。「この子は死ぬのが遅かった。」心葵に聞かれその事を隠せず、外に広めて、心葵の悲しみも和らいだ

 

◎広愛録

 

孟瓶庵[80]先生が殺生を戒めたのはに基づいている。古今の殺生を戒める事を集めて一巻にしたことがあったが、『広愛録』といい、中にある数条は、いずれもわたしの郷里の数十年間の遺訓や最近のことを集録してあり、こうあった。「タ庵先生(甄陶)[81]に『家政須』一巻があり、その中の一条にこうある。『古人は常に殺生したわけではなく、みなが肉を食べたわけでもなかった。戴記の「故なく殺さず」の文[82]見れば、常に殺生したわけではないことが分かり文王の七十歳のものが肉を食べていた政治を見れ[83]、みな肉を食べていたわけではないことが分かる。今、市場のご馳走はたいへん多く、さらに多く屠殺し、物を備えることを求める必要はない。食はたいへん旨く、死はたいへん苦しい。客を敬うといっても、いささか動物を愛する心を留めるべきだ。』思うにこの言葉は、情理に通じており、穏健であり、飲食する人を言い訳できなくさせることができる。今、先生の長男邦)  [84]はすでに解元に合格し、進士になっている。」さらに言った。「何念修侍郎(逢僖)[85]が言った。蘇州にウナギ麺の店があり、他店に数倍する利益を得ていた。その方法は、鉄針ぐるりと蒸篭に打ちつけウナギを巡り走らせ、みずからを傷つけ、血を出させるもので、麺に混ぜると、味がたいへん良いのであった。数年後、晩に外出し、突然帰らなかったので、その子が河岸沿いに探し、数里ゆくと、すでに水で死んでいた。負って帰ろうとすると、ウナギ数万がその腰と腹の間を巡っていたが、これも報応のもっとも明らかなものだ。」さらに言った。「陳剣給諌[86](化龍)[87]が言った。『わたしの郷里の先輩無悶先生([88]には『和曹秋岳籠を開いてゆく序』があり、『秦景天[89]江より鷓鴣を籠めて曹に寄するに、曹ことごとくこれを放ち、開籠行』を作れば、余これに和す』とあり、結語に籠を開きて放ち青霄に入りて去らしめ、なんぢを悠悠天地の身に還す。』の句があった。わたしはつねに読んでかれを慕っていた。世人はニワトリ・マガモを日常の食事とし、スズメ・ハトシャコウズラの類も、すべて捕らえて残さず、口に合うと思い、野味といったり、山味といったりする。さらにかならず生きながらその羽を抜けば、はじめてすべてきれいにできると言い、残酷さは名状できず、俎に載せるものは、幾らもなくても、罪は邱山[90]の重さがある。』と。給諌がこの言葉を語った時、傍らでかれの迂腐を笑うものがいたが、今、給諌の二子は、いずれも連続して郷試に合格している。」さらに言った。「わたしは癸丑の歳に成都で病になり、医者は鹿胎を得て薬に混ぜれば、はじめて快癒しましょうと言った。巡検潘某はそれを松潘[91]で取る 、半月で得られると言ったが、わたしは手紙で止めた。後にまた啖喘[92]を患い、医者は霞天丸[93]作ろうとし、牛肉を煮て膏にし、半夏粉[94]を混ぜると、すぐに効いた。わたしは代々ウシを食べなかったので、やはり従わなかったが、わたしの病もその後治った。およそ諸々の殺戒[95]の中で、耕牛はもっとも重い。わたしはほかに『戒牛集』一巻を編んだことがあり昔、程子[96]は客言ったことがあった。『ひどいことである。小人の行いがよくないことは。ウシの力に助けられながら、老いれば屠るとは。』客は言った。『老牛は使えませんが、屠殺すればなお半値を得られます。』『おまえの言葉は、利を数えることを知っているが義を知らないものだ。政治を行う根本は、民とともに行うことより大事なことはない。民俗が善くて衣食が足りないことはいまだかつてなかった。水旱や螟虫[97]の災は、すべて民俗がよくないことが致すものだ。』[98]この言葉は、根本から説いたもので、たいへん重要であるから、世道人心[99]責任のあるものは、知らないことはできない。」さらに言った。「亡父はイヌを飼う時、冬寒いとかならず寝る場所選んでやり、死ねばかならず銭で人を雇って埋めさせた。壬辰二月、亡父の病が革まると、イヌが突然走ってにわかに牀の下に入り、追い出そうとしても、涙を流してやまなかった。これは病に侍する人々がともに見たことで、だれが畜類を無知と思おうか。」さらに言った。「畜生はウシ・イヌ以外は断じて食らえず、ロバの肉も食らえない。都に住んでいた時、西城の某衚衕にロバ肉を売るものがおり、数代続いていると言っていたが、顔は狭くて長く、さながらロバの姿であった。肉に至っては、みな病んで騎るにたえないものははじめて殺し、馬肉を食べるものはしばしば馬釘瘡を患った。さらに瘟疫が大流行した年、病を得て死んだのはいずれももともと牛馬を食べていた人で、飲食のためにこの苦しい報いを受けることがあろうか。」さらに言った。「わたしが京師で役人をしていた時、誕生日、同族の某が一頭のヒツジを贈り、料理人は、殺して客をもてなすかと尋ねた。わたしは承諾し、門を出た。帰ると、下男は告げた。『ヒツジは殺しましたが、腹に胎児がいました。』わたしはたいへん悔い、箸を下せなかった。壬辰[100]帰郷し、息子のために結婚式をおこなった時、亡父は殺生を戒めていたが、旧友十数人は公にヒツジと酒を送ったので、亡父は言った。『これは退けることはできない。』受け取って鼓山[101]湧泉寺[102]で養った。亡父の慈悲が動物に及び、処置が宜しきを得たことはこのようであった。」さらに言った。「ネズミを食べるのを好むものがおり、家はたいへん豊かだったので、ネズミをの中に納めて放ち、ほしいままに食べさせ、たいへん肥えると、すべて捕らえ、焼き炙って美味とした。これは五穀を粗末にしてさらに殺生するものだ。後にその人は水で死んだ。亡き祖父朝議[103]は一生殺戒を守り、つねに人にネコを飼わぬように勧めた。ある日、門の外に立っていると、数匹のネズミが疾走していた。人々が打とうとすると、朝議公はつとめて阻んでやめさせ、人々は騒然と笑い、迂愚の書生であるとした。亡父が偃臥していた時、ネズミは牀簀[104]の間を窺ったが、器物は一つも毀たなかった。以前、人に言った。『わたしの家は百年ネコを飼わず、わたしはネズミを殺さないから、ネズミがどうしてわたしの器物を損なおう。』これは小さい事だ、やはり守って家法とするべきことである。」さらに言った。「若くして長老が言うのを聞いたが、ある尹が鵝掌[105]食べることを好み、火を鉄板の下に起こし、籠のガチョウをその上で飛び跳ねさせ、しばらくして、両足がだんだん厚くなると、取って炙った。さらにヒツジを(くい)に縛って撃ち[106]料理人に脇を刺させ、その心臓を取らせた。後に悪瘡を患い、床蓐に輾転として死んだ。時人は報応がはずれなかったと思った。」

 

◎盗人が恩に報いること

 

甲と乙はいずれも福州南台の人で、もともと仲が良かった。乙はある時、甲に別れて去り、行方が知れなくなったので、甲はたいへん心配していた。甲は商売に長け、家はだんだん豊かになり、大厦は雲に連なり、家族は数百であった。門前で飲み屋を開き、日々その中に坐し、出入を調べた。ある日、乙がその門を通ると、甲はたいへん喜び、店内に引き入れ、久闊叙し、さらに言った。「最近、わたしの家は日に日に繁盛しているから、事務を処理するのを助けるべきだ。」乙はそれに難色を示したがむりを言うと承諾した。甲は実の兄弟のように優待し、やはり日々店内に坐していた。磁瓶を持って酒を買いに来るものがおり、燗番に近づいて飲み、瓶が尽きようとすると、またそれを買い増し、自分は酔郷に入った。そして瓶を提げて去ったが、数歩足らずで塀の辺で転び、瓶は砕け、酒はに掛かったが振り返らずに去った。乙はそれを熟視していたが、尋ねた。塀の中に部屋があるか。」「ある。」「今晩、賊に用心するべきだ。あのものが酔って転んだのはすべて偽りで、塀の土が酒で脆くなり、掘りやすくなるようにしただけだ。」そこで部屋に提灯を点けて待ち構えた。夜半過ぎ、本当に塀の外で登登(トントン)と音がし、まもなく塀が穿たれ、片足が先に入ってきたすぐにその腿を捉え、門を開き、賊を捕らえれば、頭のない人が塀の外に横臥していたので、人々はみな驚いた。乙はすぐに死人を幾つかに分け大きな酒甕の中に入れ、夜のあいだに河岸に担いでいって沈めさせ、ふたたび門を閉ざし、夜明けまで眠った。乙は甲に告げた。「この三日間は、邸内の人がみだりに外出することを許さず、外から来るものは誰であろうと、どんなことをしたかを、すべてわたしに告げてくれ。」三日後、甲は乙に告げた。「前二日は、出入りする人はいなかったが、今朝、農夫が糞の汲み取りの事を相談しに来[107]家の塀の外れに厠があったので、明日の早朝にきて糞を運ぶことを約し、すでに許可した。」乙は黙然としていた。深夜まで待つと、すぐに邸内の人を率い、まず糞を運んだ。糞が尽きると人の頭が見えた。そこで頭を取り出し、その糞をすべて戻し、嚢に頭を入れ、石を加え、江に投じた。翌日、本当に農民五六人が来て糞を運び、事が終わり、見えるものがなくなると、連れだって去った。すると乙が甲に告げた。「これからは枕を高くして寝られる。」まもなく、乙はまた辞して去り、つよく引き止めたが承知せず、ゆくところを質せば、曖昧に答えた。当時、わたしの郷里では海賊が横行し、捕らえられたものはかならず斬られ、それぞれの事案は、どんなに少なくても十余人であった。ある日、海賊が護送されて刑場に赴こうとしていたが、そこに乙がいた。甲はたいへん驚き、近づいて抱き、哭いたので、護送するものたちはみな横目で見た。すると乙は突然足を挙げ、甲を蹴って言った。「勘弁してやろう。嘘をついておまえを連座させようと思っていたが、今は手遅れだ。」甲は蹴られ、昏倒して地に倒れ、しばらくしてはじめて正気づき、乙は蹴って話をし、かれを救ったことを悟った。さもなければ海賊の仲間で、逮捕されないものは少なかったろう。そこで乙の恩に感じ、一日後、ひそかにいってその屍を収め、その家族の面倒をみた。古に、「盗人にも道義がある」というのは、真実である。しかし乙ほどの智術があれば、人を救えたのに、どうしてみずからを救うことができなかったのだろう。これが盗人の盗人たるゆえんか。

 

◎溺愛の害

 

わたしの郷里に胡姓のものがおり、堪輿の学に詳しかった。ある日、人のために土地を探していたとき、しばらく亭で休んだが、見ると一人の乞食、年は四十近いものが、一人の七八歳の児を連れ、亭の側で飯を煮ていた。胡は怒鳴った。「おまえは壮健なのに、どうして傭工[108]にならず、そのような事をしているのか。」乞食は言った。「母がわたしに害を与えたのでございます。」そのわけを質すと、答えた。「わたしはもともと金持ちで、わたしが幼い時、祖父はわたしを促し、書を読んで学芸を学ばせていましたが、母はそれを続けようとせず、さらに事事にわたしに従い、およそ飲食はかならずわたしの気にいったものを供しました。わたしの祖父が歿しますと、わたしは一事も弁えず、日々悪者と交際し、を招き、家産を売りつくし、妻も人に嫁ぎ、この子だけを遺しました。今傭工になろうとしても、さらに耕作知りませんので、子を連れて食を探しておりますが、これはまさに母がわたしに害を与えたのでございます。」ああ。この人が不孝によってその親の過ちを明らかにしたことはもとより攻めるに足りないが、世のひたすら慈母となっているものは、やはり考えるべきである。

 

◎林韶孝廉

 

閩県の林韶)は、吉甫長兄[109]の乙酉の同年であった。つとに孝友[110]として称えられ、利便を施すことをもっとも好んでいた。言い伝えでは、かれは道光甲申年[111]仲間と結んで文[112]を作ったということである。年はすでに半百(いそじ)を過ぎ、郷試でしばしば推挙されても合格しなかったが、志はすこしも衰えなかった。当時、たいへん古いを売るものがいたが、韶軒はそれをくわしく見、唐の陳観察[113]墓碑の石であることを知ると、金を惜しまずに買った。その墓を訪ね、仲間を集めて重修してやり、すぐに[114]をその前に立て、さらに祠を越山[115]に設け、春秋に祭り、一代の佳話として伝えられた。公共の事業であったが、の力は多大であった。翌年、突然夢みてある場所にゆくと、殿宇は巍峨としていた。階段を昇ると、神が旒を垂らし、南向きに端座しており、人の世で信奉されている文昌帝君[116]のようであった。さらに一人が傍らに坐していたが、古の衣冠で、容貌はたいへん温和軒を呼んで前に来させると、言った。「わたしは唐の旧観察使陳××だが、子柏がわたしを厚遇したから[117]、かならず報いよう。」そして帝君の前に引いてゆき、頼むことがあるかのようであった。まもなく目ざめ、人のために夢の世界のことを述べたが、なおはっきりとして絵のようであった。その秋に、合格した。思うに唐の黄璞[118]が撰した『陳観察墓志』は、墓が閩県興業郷太平里にあると載せているが、調べると、宋の太平国年間に、[119]などの郷を割き、県を置き[120]、明の万暦年間に侯官に属するように裁定したので[121]陳の墓は、たしかに今の侯官三十四都[122]にあるのだが、崇業郷[123]いつの時代に廃絶したか分からなかった。黄が撰した墓志銘は、康熙四十三年に北郊の郷農黄福の家の裏から出、林来[124]兄弟に見つけられたので、はじめて公の墓の所在が分かった。康熙六十年になり、林氏は郷里の李君範らとはじめて資金を出して修理し、銘を墓穴返した。雍正三年、同郷の祈広らがさらに官に求め、毎年、侯官の租税八両を割いて祭祀に供させた。調べると公の墓銘は『来金石考』[125]の中に著録されており、乾隆末年、同郷人傑ははじめてその拓本を得たが、都合千百四十字であった。石は高さが三尺二寸、幅は二尺、石に書かれていることは、「安定胡」の三字の下は摩滅して判読できず、『来金石考』に頼って「兆祉」の二字を補ったが、そのほかの欠けたところがなお百余字あった。墓志は康熙末年に墓穴帰り、碑石は道光初年に墓に帰ったが、前後していずれも林氏から出、わたしの郷里の旧事でもあるので、附記した。

 

◎五世同堂

 

侯官の高允培(城)は家大人とともに交社[126]結び、を作って年を経、さらにともに郷試に合格していたので、友情はもっとも厚かった。家系は忠厚で、はじめ章号子店を開いて家を興したので、城の内外はみな高章と称していた。その同腹の弟亭封翁)はもっとも質朴で義を重んじ、およそ郷里に善い行いがあればかならず関与した。亭の子(湘)は嘉慶己卯の挙人に合格し、その孫鏡洲(明遠)は年はわずか弱冠(はたち)、甲午、乙未に連捷して進士になった[127]が、人々はみな厚徳の報いだと思った。さらに聞けば、鏡洲が結婚した後、房中に一人の働く女がおり、たいへん美しかったので、かれを去らせようと思い、亭に申した、亭は言った。「心にかれのことがないなら、とどめてはどうか。」洲はとどめるのはやはり妥当ではないと思い、ふたたびに請い、結局、女を去らせた。若者は美色に遇ってもすぐに礼によってみずからを持したので、かれがはやく合格したのも宜なるかなであった。亭の祖母が堂にいた時、鏡洲はすでに生まれていたので、人々は五世同堂だ世に稀に見るものであるといった。今は亭が健在で、洲が孫を得ているから、なんとふたたび五世同堂であった。これはわたしの郷里の美談であるばかりでなく、沿岸地域でも、しばしば見られるものではなかろう。

 

◎心を明かして責めを受けること

 

侯官の某孝廉はもともと家大人と忘年の交わりをなしていたが、その後、さらに年家子[128]の礼を施してたいへん恭しくした。奇を衒い、古を好み、さらに篆隷に詳しく、桂未谷[129]、伊墨卿[130]遺風があった。しかし狂放不羈であったので、都の人士は、多くはかれを恨み、家大人だけが優待していた。壬辰に休暇をとって郷里にいた時、つねに招いたがしばしば来なかったので、そのわけを探れば、郷里の人のために洪山[131]修理することを建議し、その友某いっしょに発起人となり、日々洪塘一帯で喜捨を募ったということであった。誹謗してかれの横領を責めるものがいたので、その友は某を引いてともに城隍心を明かして、それぞれ密疏[132]一通を書くことを約した。某孝廉ははじめゆこうとしなかったので、人々はむりにゆかせた。廟に入るとすぐに、某孝廉は躓いて転び、二人がそれぞれ跪いて疏を焼くと、突然大風がにわかに起こり、某孝廉の疏を空中に掲げた。人々が手にとって見ると、中に貧しゅうございますので、神さまのご寛恕を望みます。」等の言葉があったので、人々はどっと散じた。某孝廉はその日に病を得、門を閉ざして外出しないこと二十日あまりであった。家大人がわたしに命じて見にゆかせると、すでにその前の夜に亡くなっていた。

 

◎林長娘

 

徳化[133]娘林長娘は、年頃になっても婚約しなかった。父は鰥夫で、弟は幼く、家産は万両を蓄えていた。父が病になり、臨終の際、子の幼いこと憂えると、長娘は哭いて言った。「お父さま、ご心配なさいますな。弟幼いですが、わたしは幼くはございません。」父が目を瞠って見れば、終生嫁がないで弟を守り、家を守ることを誓ったので、父は瞑目した。弟は成長すると妻を娶ったが、夫婦は長娘を徳とし、手厚く嫁がせようとした。長娘はそれを聞くと怒り、父の影神[134]を中堂に掛け、跪いて哭いて言った。「わたしは約束を破るに忍びません。」その弟を責めた。「姉さんに善くないところがあり、おまえに見られたのですか。どうしてこのようなことを相談しようとするのです。」弟夫婦は哭いてとんでもございませんと謝り、言った。「姉さんは天人[135]でございます。わたしは人間として姉さんを推し測っておりましたが、罪は万死に値します。」後に長娘は林家で死に、その弟は有司に上書したので、祭祀することができた。嘉慶丙辰[136]、県で洪水があり、祠の四方の壁と塀が倒れたが、長娘の龕は損なわれなかったので、人々はみなかれを神とした。

 

◎利便を占めることを好むこと

 

同年の林梅友(国士)が述べたことがあるが、かれの某姓の親戚は、平素から狡猾で、利便を占めることを好んでいた。渡し舟で城外にいって年貢を取りたてた時のこと、舟は狭く、人は多く、坐したり立ったりするのに不便であった。某は小便しようとしていたが、去って座を失うことを恐れたので、胯下の船室の板をひそかに動かし、隙間を作り、近づいて小便し、船室の底にまだ貨物があることを顧みなかった。たまたま船内で移動があり[137]、板の隙間が塞がれたので、某は陰部をまれ、大声で叫んだ。舟中の人は末を知らず、走ってきて尋ね、騒いだが、話し声は聞きとれなかった。しばらくして、はじめてそのわけが知れると、今度は人々から罵りを受け、一言も発しなかった。利便を占めることを好むものの戒めとなせよう。

 

◎「ささやかな血食」

 

浦城[138]の史庭秀才(文邦)が言った。道光二十二年、かれの子某が建寧府の季存仁の質屋で、夜に夢みて、知り合いの第)というものと大通りで会い、どこへゆくかを尋ねると、言った。「城隍廟にゆき、公文を届けすぐに吉水[139]に馳せ戻ってゆこうとしているのだ。吉水にゆくのはなぜかと尋ねると、言った。「ささやかな血食があちらにあるのだ。」、某ははじめ「血食」の二字がどういう意味なのかを解せず、匆匆として、詳しく尋ねる暇がないまま別れた。数ヶ月後に浦城に戻り、に会い、はじめて聶が昨年すでに微恙で亡くなっていたことを知った。「ささやかな血食」とは何かと尋ねると、庭は言った。「聞けばかれは死後そのしもべの夢に現れて言ったそうです。『わたしは吉水にいって土地[140]にならねばならない。』『ささやかな血食』とは、村生贄を殺して紙銭を焼くことでしょう。」思うにその人は平生誠実であること有名で、ほかに取柄がなかったが、郷党では嘖嘖かれの孝を称えていた。孝は、大きな徳であるから、かれが歿して神になったのは当然である。

 

◎陶文毅公[141]

 

前の両江制府[142]、安化の陶文毅公は、家大人[143]壬戌[144]同榜[145]進士で、ともに京師で役人をし、もっとも親しく、両家の婦人はしきりに交際していた。亡母夫人はわたしに語ったことがあった。「陶家の年母[146]の右手の甲に一つの疣が盛り上がっており、そのわけを尋ねると蹙然[147]として言った。『わたしは出身が微賎で、若い時、つねに労働していました。この手(うす)の柄で損なわれたのです。』。」亡母もその詳細を問い質そうとしなかった後に家大人楚南知好雲[148]聞いたが、文毅は若い時にきわめて貧しく、はじめ同県の黄氏の娘を招いた。富豪に呉姓のものがおり、黄の娘の姿色を聞き、奪ってその子の後妻にすることを謀り、厚い利で黄翁を誑かした。黄はにわかに異心を萌し、公に迫って結婚を断らせようとした。公は可とせず、黄の娘の母もそれを願わなかった。しかし娘は呉の富を利とし、思いはすでに決しており、さらにその父がたいへん熱心に事を仕切ったので、誓って貧乏書生に嫁ごうとしなかった。家に養婢[149]がおり、身代わりになることを願ったので、娘の母は許し、文毅も平然としてそれを受け、はじめは疑わなかった。今、一品夫人の誥命[150]受けているものがそれである。後に呉姓は富を恃み、さらに曽姓の田を占め、たがいに闘った。呉の息子は殴り殺され、呉翁もついで亡くなった。一族は黄の娘が寡婦であることを侮り、その田地をほとんど横領しつくした。当時、毅はすでに貴顕であったが父の死に遭ったために帰郷し、はじめてその末を知り、黄の娘が窮境あるのを憐れみ、五十両を贈った。黄の娘は恥じたり悔いたりして死にそうになり、毎日銀を抱いて哭き叫び、用いるに忍びなかったが、すぐにこそどろに盗まれたので、怒って自縊した。聞けば文毅は今なお毎年その家を援助して倦まないということである。思うにこの事は伝えられているあらすじにはやや違いがあるが、概略同じである。思えば文毅が家大人と江蘇で同僚であった時、朱文定公(士彦)[151]が浙江学政から帰朝しようとしていたが、やはり壬戌の同年であった。舟が蘇州を過ぎると、役人たちとともに劇を演じさせ、公[152]は酒を捧げた。文定が『双冠誥』[153]を演じさせると、文毅は涙を浮かべて堪えられなくなるにいたった。文定はひそかに家大人に語った。「わたしはうっかりして、雲汀(文毅の字)の家にも碧蓮ねえさんがいることを忘れていました[154]。」その日、上下の観劇する者は百十人、文毅に注目せぬ者はなく、大勢でその事を喧伝していたので、ますます本当だと思った。

 

最終更新日:2018222

北東園筆録

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[1]http://www.zdic.net/c/c/1C/43492.htm人が会試を受験すること

[2]原文「哀莫大於心死、而人死次之」。出典。『荘子』の中の孔子の言葉。

[3] 原文「又已登清華之選」。「登清華之選」が未詳だが、文脈からして郷試に合格したことであろう。

[4]http://www.zdic.net/c/8/36/82370.htm官員の運気。

[5]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%B3%A1%E8%8A%B8

[6]http://www.zdic.net/c/9/2a/65509.htm布政使

[7]未詳。

[8]http://www.zdic.net/c/9/110/297338.htm按察使

[9]http://www.zdic.net/c/7/d9/211384.htm乾隆以後に定まった制度で、三度以上会試に不合格であった人の中から一等のものを選び、知県として用い、二等のものは教職として用いた。六年に一度行せられた。

[10]http://www.zdic.net/c/9/e3/229187.htm恐懼のさま。

[11]http://www.zdic.net/c/6/38/88305.htm騒ぐ声。

[12]http://www.zdic.net/c/b/156/341149.htm漢方の践の記録

[13]http://www.zdic.net/c/2/73/117187.htm町医者。

[14]http://baike.baidu.com/view/70204.htm 望・切は漢方の用。望は、気色を見ること、声息を聴くこと、、症状をねること、切は、脈を取ることで、四合称する

[15]林則徐の一族。

[16]http://ja.wikipedia.org/wiki/1768%E5%B9%B4この年に郷試が行われた。その同年ということ。

[17]http://baike.baidu.com/view/43078.htm

[18]原文同じ。未詳だが省で取調べを委ねられた役人であろう。

[19]http://baike.baidu.com/view/5630051.htm

[20]原文「先生具舊屬手版到門部起居」。「手版」が未詳。http://www.zdic.net/c/b/3d/93629.htm漢典は「笏」だとするが、手書きの書状のようなものであろう。「舊屬」は元配下のもののことで、「舊屬手版」は元配下のものが出す書式の書状であろう。

[21]http://www.zdic.net/c/b/d4/203887.htm薛涛がデザインしたとされる箋紙画像検索結果

[22]http://www.zdic.net/c/jd/?c=1/10f/294774の俗称。

[23]http://www.zdic.net/c/9/3e/96952.htm天道が循環し応報が違わないこと

[24]グーグル検索結果。林喬蔭

[25]http://www.zdic.net/c/a/14b/327776.htmたがいに代々の交誼が厚く、一家のようであること

[26]http://baike.baidu.com/view/214387.htm

[27]http://www.zdic.net/c/4/13e/306653.htm刑部およびその司官の称。

[28]http://baike.baidu.com/view/222140.htm

[29]http://www.zdic.net/c/d/99/175833.htm国子祭酒

[30]http://baike.baidu.com/view/6622345.htm

[31]http://www.zdic.net/c/d/b/19224.htm察御史

[32]http://www.zdic.net/c/c/1C/43492.htm人が会試を受験すること

[33]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%81%E5%80%AB

[34]http://baike.baidu.com/subview/960887/15798261.htm北京「地安の俗称

[35]http://www.zdic.net/c/9/2a/65477.htm便宜あるいは幇助を与えること

[36]http://www.zdic.net/c/f/3c/91513.htm曖昧でいい加減なこと

[37]http://www.zdic.net/c/9/13e/307674.htm抄手。袖の中で腕組みすること

[38] 原文「徒使主人蒿目以須、坐客枵腹相向、僮僕慍形於色、廚子叉手而嬉。」。どうして「廚子叉手而嬉」なのかが未詳。することがなく暇にできるからか。とりあえず、こう訳す。

[39]http://www.zdic.net/c/a/6d/109806.htm老師あるいは他人の師匠対しての敬称。

[40]原文「況同此平等耦俱」。未詳。とりあえずこう訳す。

[41]http://www.zdic.net/c/5/37/84626.htm地方の官員が入朝して帝王に謁見すること

[42]原文「要津之熱客、力避阮シ」。「阮シ」が未詳。とりあえずこう訳す。

[43]漢典に適切な語釈なし。文脈からして都のことであろう。

[44]http://www.zdic.net/c/d/71/112253.htm名流が会合する所。

[45]グーグル検索結果嘉慶十四年己巳恩科殿試金榜に名が見える。

[46]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E5%90%8C%E6%96%87

[47]原文「春台又因明日本班早入」。未詳。とりあえずこう訳す。

[48]原文「以孫風雛得貤,贈四品銜。」。「貤」は貤封のこと。貤封は官自身受けた封爵名号朝廷に呈し、族尊長に移授することを請うこと

http://www.zdic.net/z/25/xs/8CA4.htm

[49]http://www.zdic.net/z/23/js/8854.htmのこと。位名称。官吏の封号、品及び任した官、官総称する

[50]http://www.zdic.net/c/5/4/9307.htm金品納めて贖罪あるいは官爵功名を取得すること

[51]鹽運司

[52]http://baike.baidu.com/view/4659266.htm

[53]未詳。

[54]http://www.zdic.net/c/0/11/29351.htm水でいう地形良し悪し。

[55]原文「大有高岸深谷之懼」。「高岸深谷」は事物の大きな変化比喩

[56]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%BA%AA%E5%8E%BF

[57]http://www.zdic.net/c/2/e/20499.htm倒持太阿」とも。宝剣を逆さに持ち剣の柄を人に渡すこと。率に人に柄を授け、自分がかえってその害を受けることの比喩。

[58]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE8Zdic92ZdicB8235721.htm盛んなさま

[59]http://www.zdic.net/c/2/fa/260040.htm婉曲に諌めること

[60] 前世の報い云々という話はあるとは限らないが。

[61]http://www.zdic.net/c/2/30/73243.htm幹父之蠱」のこと。http://www.zdic.net/c/2/30/73225.htm子が父の志を承し、父親が終わらせていない事業を完成すること。

[62] グーグル検索結果 

[63] http://baike.baidu.com/view/2819004.htm 

[64]http://www.zdic.net/c/4/1b/41112.htm自身と妻室の封朝廷に呈上し、先人贈すること請うこと

[65]梁丁辰、字平仲、1811年生。こちらを参照

[66]原文「斂貲」。未詳。とりあえずこう訳す。

[67]http://www.zdic.net/c/7/38/88664.htmの外に被せ、防寒あるいはを保する画像 

[68]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%95%99%E4%B9%9D%E6%B5%81 

[69]http://www.zdic.net/c/1/10f/293362.htm 南沿海に流行した博。

[70]http://zh.wikipedia.org/wiki/1828%E5%B9%B4 

[71] http://www.zdic.net/c/1/144/315708.htm 帝王が爵位名号を臣下及びその家族にう栄典。

[72]グーグル検索結果。林茂春、字崇達、号

[73]原文「先舉抜萃科」。http://www.zdic.net/c/4/3/6623.htm 。になったということ。抜選抜せられ国子入せられた生

[74]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%A6%8F%E5%8E%BF_(%E7%A6%8F%E5%BB%BA)

[75]http://baike.baidu.com/view/4666920.htm

[76]http://www.zdic.net/c/6/143/313582.htm代々の交際

[77]http://www.zdic.net/c/9/df/220156.htm 対聯。

[78]原文「銅差竣」。未詳。とりあえずこう訳す。

[79]http://www.zdic.net/c/e/37/84554.htm帰郷して父母を世話することを求すること。

[80] http://baike.baidu.com/view/234320.htm 

[81]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E7%94%84%E9%99%B6

[82]http://ctext.org/liji/zh?searchu=%E7%84%A1%E6%95%85%E4%B8%8D%E6%AE%BA 

[83]http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E4%B8%83%E5%8D%81%E9%9D%9E%E8%82%89%E4%B8%8D%E9%A3%BD 

[84]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E7%B6%93%E9%82%A6

[85]グーグル検索結果乾隆十六年辛未科殿試金榜に名が見える。

[86]http://www.zdic.net/c/9/e9/237127.htm六科事中の称。

[87]http://baike.baidu.com/view/3461857.htm乾隆三十七年(1772)壬辰

[88]http://wapbaike.baidu.com/item/%E5%BC%A0%E8%BF%9C/10987224?uid=7054F09FB5927C42918AFAF2AE7B3A17&bd_page_type=1&st=3&step=3&net=0&ldr=2&sublemmaid=6298944&bk_fr=polysemy 

[89]グーグル検索結果 

[90]http://www.zdic.net/c/1/1c/44218.htm

[91]http://baike.baidu.com/view/117661.htm?fromtitle=%E6%9D%BE%E6%BD%98&fromid=5351153&type=syn

[92]http://baike.baidu.com/view/793519.htm

[93]霞天膏に同じいか。

[94]http://baike.baidu.com/view/821382.htm

[95]http://www.zdic.net/c/0/8e/159101.htm生を戒め、生を禁止する戒律。

[96]http://www.zdic.net/c/b/e2/227781.htm、程への尊称。

[97]http://www.zdic.net/c/f/e2/227139.htmズイムシ。ひろく穀物食らう害虫も指す。

[98]こちらを参照

[99]http://www.zdic.net/c/6/14a/323431.htmひろく社会の道徳尚と人々の思想感情等を指す

[100]http://zh.wikipedia.org/wiki/1772%E5%B9%B4 

[101]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%BC%93%E5%B1%B1

[102]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%8C%E6%B3%89%E5%AF%BA_(%E7%A6%8F%E5%B7%9E)

[103]未詳

[104]http://www.zdic.net/c/a/99/175447.htm床と床に敷く竹席。ひろく寝台指す。

[105]http://www.zdic.net/c/5/29/62936.htmアヒルの水かき画像検索結果

[106]原文「又擊羊于橛」。訳文の意味であろう。

[107]原文「惟今晨有村農來議賺糞事」。「賺糞」が未詳。とりあえず、こう訳す。

[108]http://www.zdic.net/c/3/e/20668.htm 雇われ人

[109]こちらによれば、梁逢辰、字吉甫、1800年生。

[110]http://www.zdic.net/c/d/db/215163.htm父母に事えて孝、兄弟に対して愛であること

[111]http://zh.wikipedia.org/wiki/1824%E5%B9%B4

[112]http://www.zdic.net/c/7/91/160866.htm志が相投ずる文人が成した体。

[113]http://baike.baidu.com/subview/927652/6376309.htm

[114]http://www.zdic.net/c/a/a1/187828.htm硯もしくは硯を作るための石だが、何のためにこうした動作をするのか未詳。

[115]http://baike.baidu.com/view/926442.htm

[116]http://baike.baidu.com/view/121974.htm

[117]原文「承子柏待厚我」。未詳。とりあえずこう訳す。

[118]http://baike.baidu.com/subview/927657/8732658.htm

[119]グーグル検索結果http://baike.baidu.com/view/5042063.htm

[120]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=154984&searchu=%E6%87%B7%E5%AE%89 

[121]原文「明萬暦中裁歸侯官」。「裁歸」が未詳。とりあえずこう訳す。

[122]三十四都は地名。こちらを参照。

[123]グーグル検索結果。莆田県にあった地名。こちらを参照。

[124]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E4%BD%B6兄は林侗

[125]http://baike.baidu.com/view/8190923.htm

[126]グーグル検索結果 

[127]道光十五年乙未科殿試金榜に名が見える。

[128]http://www.zdic.net/c/4/4/8574.htmがある者の後輩。年誼は同年の誼。

[129]http://baike.baidu.com/view/226301.htm

[130]http://baike.baidu.com/view/214387.htm

[131]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E5%B1%B1%E6%A1%A5

[132]http://www.zdic.net/c/6/74/119836.htm秘密の奏疏。

[133]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B7%E5%8C%96

[134]http://www.zdic.net/c/1/76/120004.htm画像

[135]http://www.zdic.net/c/9/16/34007.htm仙女

[136]http://zh.wikipedia.org/wiki/1796%E5%B9%B4

[137] 原文「會舟中有所遷移」。「遷移」が未詳だが、おそらく船板の下の荷物が動いたのであろう。

[138]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E5%9F%8E%E5%8E%BF

[139]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E6%B0%B4%E5%8E%BF

[140]http://www.zdic.net/c/f/146/319805.htm神名。ある場所を掌管、守護する神。画像検索結果

[141]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%BE%8D

[142]http://www.zdic.net/c/6/11/28469.htm

[143]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E7%AB%A0%E9%89%85

[144]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E5%98%89%E6%85%B6%E4%B8%83%E5%B9%B4%E5%A3%AC%E6%88%8C%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[145]http://www.zdic.net/c/c/39/89542.htm同じ科挙試験に合格したもの。

[146]未詳だが、同年の母であろう。同年は同榜に同じ。

[147]http://www.zdic.net/c/9/e2/226010.htm局促不安のさま。憂愁不悦のさま。

[148]未詳

[149]未詳だが、身柄を買い取られ家庭で養われている下女であろう。

[150]http://www.zdic.net/c/0/30/74636.htm帝王の命令

[151]http://baike.baidu.com/view/886378.htm

[152]陶文毅公のことであろう。

[153]戯曲名。『曲海総目提要』巻二十九参照。

[154] 原文「忘卻雲汀口字家亦有碧蓮姊也」。碧蓮は『双冠誥』の主人公。

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