●巻五
◎孟瓶庵先生[1]
わたしの郷里で数十年来、紳耆[2]で高い声望を負い、本当に国人のために模範を示すに足りるものとしては、孟瓶庵公(超然)に勝るものはいなかった。公は鰲峰[3]で八年教育し、家大人および諸伯叔父はいずれもかれから教えを受けていた。公は家系が微賎であり、封翁の某は布政使の役所の茶役[4]であったが、敦厚謹厳で士人の風格があった。祖父は殺生を戒める教えを伝え、謹んで実行し、その仲間にも勧めたので、従うものが多かった。役所で客をもてなす時、厨房で殺される動物は数えきれなかったが、封翁はかならず遠く避け、見るに忍びなかったばかりでなく、その声を聞くに忍びなかった。方伯はそれを聞いて喜び、これによってそのしもべを教化したので、殺すのを減らすことは、数えきれなかった。封翁は公が勉強を好むことを知り、ねんごろに育て守った。公が友人の家にゆき、文芸を語るたびに、日が暮れる前から、封翁はかならず提灯を点け、門で待ち、出入りする人に頼んで某に知らせぬようにさせ、文の構想を乱すことを恐れた。後に公はみずからそれを知り、文芸を語る時は、かならず日暮れになる前に終えた。郷試の合格発表の日、封翁は役人に従い、内簾[5]に入り、解元の名を謄写するに至ると、おもわず大声で笑った。役人たちが尋ねると、その子だと知り、それぞれ起立拱手して祝い、先に送り出した。公は連捷して進士になり、翰林に入り、吏部に改まり、粤西で典試し、四川で督学し、封翁はなお健在であった。地方官をして帰朝すると、すぐに乞養[6]して帰郷し、外出しなかった。子と孫は、みなつづけて郷試に合格した。公は先祖の志を守り、今なお一族は殺生を戒めていると言った。道光年間、福建通志を編集する動きがあり、あらゆる書中の体例、局中の経費は、すべて陳恭甫[7]編修[8]が管理していた。前の通志には「儒林」「道学」の二部門があったが、そもそも『宋史』の体例に倣ったものであった。仲間がその旧例に拠ろうとすると、編修は言った。「『儒林』は『道学』を包含できるから、さらに『道学』の名を立てる必要はない。」毅然としてそれを削除した。当時、家大人は休暇をとり、郷里におり、仲間に言った。「道学は宋より盛んな時はなく、福建より盛んな所もありません。これは他の史書にはなくてもよいですが、『宋史』にはあるべきで、他の地方志にはなくてよいですが、福建志ではあるべきで、削除できません。」人々はみなそう思った。編修は言った。「それならば、本朝では誰が道学と称せられる。」家大人は言った。「瓶庵先生などは、十分それに入りましょう。」人々は翕然[9]として異論を唱えず、編修は主導できなかった。
◎葉宮・
乾隆年間、わたしの郷里の葉毅庵宮・[10](観国)[11]は、儒林の文人としてしばしば文柄[12]を司り、廉潔勤勉で職責を尽くし、老年になっても衰えることがなかった。雲南で督学していた時、諸城[13]の劉文正公[14]が使命を奉じて来、公に会い、喜んで言った。「わたしが見たところ、館閣[15]の諸君は、一たび学差[16]に出れば、かならず顔はふくよかになり、体は太るが、今、あなたがこのように痩せているのは、半分は士人を選ぶことが清廉勤勉であるため、半分は役所の厨房が質素であったためだろう。わたしの門下の士たるに恥じない。」粤西にいた時は、ちょうど乙酉[17]の選抜の時期で、某生員は巨公[18]の婿であったが、権勢を恃み、他人の手書[19]を求め、諄諄と頼んだ[20]。手紙を得るとすぐにそれを焼き[21]、一言も発しなかった。合格発表となったが、その人は結局合格していなかったので、すべての属官たちは翕然[22]としていた。各州を按試[23]したが、丁役[24]たちを管理し、過分の浪費がないようにさせた。任期満了になったが、交替したものはその地方の供応[25]のことで、大事件を起こし、結局、極刑に処せられた。巡撫が弾劾し、学臣[26]某が按臨[27]した時、前任の学臣葉某[28]より、多く人夫を派遣し、七百余名に達した。安徽にいた時、年は七旬に近かったが、大省で答案が多くても、一篇も目を通さないことはなかった。夏の夜に校閲したことがあったが、しもべたちをすべて遠ざけ、一人の幼童だけを残し、後ろで扇を揮わせていたところ、風に吹かれて突然灯火が消えたので、童僕に火を持ってくるように命じた。宮・はつねに答案を閲し、かならず大きな几に寄り、答案を中央に置き、採用するものは左に、採用しないものは右に置いていた。灯が消えていた時、宮・が両手で両側の答案を押さえていると、暗闇の中で一つの答案が飛んできて左手の背を圧した。灯が来て翻閲すれば、目を通していない答案だったが、その文は実際によくなかったので、この答案をあらためて吟詠し、あまねく幕客に示し、その事情を語らなかったが、役所は驚いて神かと思った[29]。平生およそ四たび学政[30]に任ぜられ、弊害は絶え、風俗は正され、心は安らいだ。四十歳過ぎではじめてつづけて夫の子七人を挙げ、長男と三男はいずれも優行[31]により、成均[32]に貢せられ、四男と五男はいずれも挙人から知県に大挑[33]せられ、二男と六男と七男はともに進士となった。二男は榜下知県[34]として広東に派遣され、六男と七男はいずれも翰林に入り、つぎつぎに地方に出、監司[35]・府知事となった。孫数十人は、翰林から吏部を経、地方に出て監司となったものがおり、進士・挙人・抜貢になったものは、指では数え切れなかった。わが州は簪纓[36]が盛んで、同時代で並ぶものがなかった。同時にわが州から出て学政になったものも一人ではなく、清節美名は、宮・と瓶庵吏部だけが伯仲の間であった。吏部が四川で督学した時、総督某はたくさん賄賂を受け取った。かれの誕生日、公は手ずから楹聯[37]を書き、祝ったが、受けなかった[38]。公はすでに双款[39]を署していることを言ったが、それでも受けず、きりのよい年齢[40]でないし、よそが送ってくるものは、すべて収めようとしていないので、一律に待遇せざるを得ないのですと言った。公は即日一脚の椅子を持ち、総督の正門の外に坐し、各属官で、誕生祝いを送るものがいれば、すべて帳簿に記録し、退けて言った。「大人は礼品を受け取られません。わたしがささやかなものを送っても受け取られません。でたらめな行いがあり、賄賂を贈るものならなおさらです。わたしはかならずすぐさま部科に告発します[41]。」長居すること三日で去り、総督も息を潜めた。今でも蜀の人はその詳細を語れる。そもそも公が壁立[42]万仞[43]でなければ、このようにすることはできなかった。同じ頃、某省で督学したものがおり、多くの利益を得て帰ったが、数年足らずですぐに尽きた。それ以下のものは言うまでもない[44]。
◎陳尚書
陳望坡尚書(若霖)[45]は、もともとわが福建の豪族で、代々閩県の螺洲[46]に住んでいた。江の流れが中洲を囲んでおり、その中で生まれるものは多く、つねに鉅人長徳[47]が多かったが、公はもっとも傑出しており、中央・地方で数十年官職を歴任し、みな純朴によって主上に知られ、仁恕によって人望を得ていた。以前、人に語った。「わたしたちは盛世に生まれ、職分に従い、責務を尽くしているのであって、何の奇才・異能があろう。人として君主に仕えることができるだけで、効果を得るのはおのずと遠い。」さらに言った。「わたしたちは案件を審理しても、明察できず、人を信服させるのはなおさらのことだ[48]。思うに、唐虞の世は、尭舜を君主とし、皋陶を刑官[49]とし、一つには『罪が疑わしければ軽くせよ[50]』といい、二つには『寧ろ不経に失せん[51]』といったが、かれがみずからを信じようとせず、寛大と厳格の間にかならず道があったことが知れる。」陳が楚北[52]で按察使の職にあった時、秋録[53]を調査したところ、失出[54]が十五件あったため、部臣[55]に指摘・批判せられ、上奏が行われると、上は言った。「陳若霖は刑部のベテランなのに、どうして失出が十五件の多きに至ったのだ。」四品の頂戴[56]をおろし、花翎[57]を抜き去られた。これによって公を謗るものがいると、公は言った。「これはわたしの平生第一の、心に恥じぬ事なのに、何を咎める。」刑部を掌管していた時、もっとも人材を導くことを務めとし、鼓舞・重用し、進んでかれのために働かぬものは、一人もいなかった。近年、刑曹[58]の中から熟練のものを推薦し、その地方で司道[59]となり、近畿を掌管し、錚錚[60]として名声があるものは、すべて公の夾袋[61]の中から出ていた。わたしの郷里で俗に伝えるところでは、刑部で老いたものには、まともな死に方をすることができるものが少なく、子孫も多くは振るわぬという。今、公は進退に礼をもってし、死後の名声を永くでき、さらに長寿を享けた。かれの次男景亮は兵部で長貳[62]に信任せられ、さらに庚子の南元[63]に合格し、三男の景曽は抜貢[64]で山西の県令となり、孫の承寛も己亥[65]に郷試に合格し、みな蒸蒸[66]として日の出の勢いがあるので、公の報いを受けたことが分かった。さらに聞けば、公は若年の時、童試に苦しみ、二十八歳の春になっても歳試[67]に応じていたが、なおも合格しなかったので、学業をやめて商人になることを決心し、仲間を作り、いっしょに蘇州にゆき、布を売ろうと、船に乗った。螺洲は省城から三十里で遠く、舟が洪山橋[68]に来ると、かならずしばし停泊し(省城の波止場で、ここを過ぎ、遠方へゆく。)、おりしも連日の大風で、纜を解けず、突然、岸に飛脚が来、公に家書を届け、言うには、昨日、学轅[69]にすぐに近々科考[70]をいそいで整えるように掲示し、公にはやく戻って受験するように頼んだ。公は笑って言った。「これは蛇足というものだ。」漠として意に介さなかった。かれの仲間はみなかれに戻るように促したが、やはり動かなかったので、数人がかれを引いて上陸させ、荷物を抛ち、路傍に置いたが、その時、風向きがすでに変わっていたので、すぐに帆を揚げて去った。公はやむを得ず、怏怏として街に入り、十日間して学校に入ったが、それは乾隆丙午[71]科であった。九月に郷試に合格し、翌年三月に進士になり、翰林に入り、散館[72]して刑部に改まり、官職に任命されるとすぐに丁憂[73]で帰郷し、家にいること八年で、はじめてふたたび出仕した。公が栄達に淡白であるさまはこのようであった。公は、容貌は醜く、弁舌は拙く、お世辞を言うことを好まず、刑部にいた時、毎日ひたすら司堂[74]に坐し、文書を処理していたが、堂官はかねてからかれの顔を知らず、公も人に知られることを求めなかった。当時、和珅[75]が処刑されたばかりで、かれのしもべの劉禿はすでに遠戍[76]になろうとしていた。慣例では、罪人を流刑にする日、提牢官[77]が下役に点呼して引き渡し、順天府役所に護送させ、流罪にし、司官[78]には知らされないのであった。その日は、ちょうど公が当月[79]であったが、これは重罪人だと思い、みずから護送してゆき、順天府の収文[80]を貰って戻った。まもなく科道[81]が弾劾するには、流刑者劉禿は、権勢がなお盛んで、ゆく時、道の両脇の送別の宴は押しあって絶えず、流罪にしたのに三日経っても京師を出ぬ事態を招いたとのことであった。聖上は激怒し、すぐに刑部の堂官たち[82]を召し、何事かと非難した。各堂官は口を噤んで答えず、叩頭して退出すると、すぐに騎を連ね、役所に入り、すぐに各司官に伝えてそのことを質したところ、司官たちもみな茫然としていた。その時、公はぼんやりと司堂に入って来、何を騒いでいるかと尋ねた、老いた書吏が事情を告げ、公に堂に上ることを求めた。堂官は、その日当月であった官員を調べ出し、厳しい顔つきで待っており、公が来たのを見ると、大声で言った。「おまえは×日に、当月だったか。」「はい。」「劉禿の事件が明らかになったが、まだ知らないか。」「先ほど知りましたが、咎めは順天府にあり、本部署と関わりはございません。当月のものとも関わりはございません。劉禿が×日に出獄しますと、司官はその日のうちに、みずから順天府庁に護送して引き渡し、すぐに『本日収到』[83]の印文[84]をもらっており、証拠になりますから、何を恐れましょう。」そして懐から一枚を出して呈上すると、各堂官はみな輾然[85]として言った。「覆奏するのは難しくない。」事は解決した。そして、役所の上下で福建の陳老爺を知らないものはなくなった。このことを附録し、公が事件に遇えば慎重にし、国家に有益であったことをさらに示した。望坡尚書もつねに人に字を書いた紙を大事にするように勧め、つねに言うには、かれの無錫の同年顧式度(ト)[86]が礼闈[87]に入った時、夢みたところ、一人の男が来て答案を求め、「惜」の字を大書して去ったので、目ざめてから嫌に思った。試験用紙が下され、三芸[88]は筆を執るとすぐに出来上がった。謄写すると、真人はみずから首芸[89]がたいへん短いことを嫌い、試験後たいへん不満に思った。合格発表となると、結局、解元に合格していたので、はじめて答案の中の「惜」の字は、その封翁が字の書かれた紙を大事にすることに勤めた報いであったことを悟り、かれの族人たちも異口同音であった。望坡尚書が雲南を巡撫した時、その夫人が役所で亡くなったので、長子景福に、棺に伴って福建に帰るように命じた。ゆくにあたり、一つの沙木[90]の寿板[91]を持っていたのを、公に見られ、戒められた。「おまえはこれを持って戻っていってどうする。」景福が答えられないでいると、公は笑って言った。「おまえの身分では、これを用いるにふさわしくない。もとよりわたしのために準備したのだろう。尋ねるが、おまえはわたしが故郷の邸宅で死ぬことができると思うか。そうなれば、天のような幸福だ[92]。わが福建は木材も悪くなく、多く求める必要はない。総督・巡撫の任地に終わるべきならば、さらに美しい棺を得るのは難しくないだろう。」そして一つの物語を挙げて諭した。「昔、張翁がおり、もっとも謀略に長け、年が六十の時、みずから棺を用意したが、すぐにその材がたいへん薄いことを嫌い、貧しい家が、葬式する時、にわかに棺を調えられないものがいるのを聞くと、貸して使わせ、返す時に一寸だけ厚くすることをを求め、利息とすることを約した。このようなことを数回繰り返すと、棺は厚さが九寸になったので、厢房の中に収めておいた。ある晩、隣家で火事が起こり、厢房に達したので、いそいで入り、その棺を担いで取ったが、すでに焼かれていたため、いそいで池に投じた。火はすぐに収まったので、引きあげて鉋を掛けると、依然として用いられたが、薄いのも、依然として以前のようであった。張翁はそこで嘆いた。『わたしは薄い棺を得る運命になっているのだ。』そもそも棺の厚さにさえ運命があるのだから、さらにかぞえきれない金を費やし、美材を万里の外に求めることはない。」聞くものはみなかれの達観に服した。
◎五子が合格すること
福州の曽霽峰刺史[93](暉春)[94]は進士から州牧[95]となった。かれの祖父はもともと貧乏儒者で、親戚の某家と墓地を争ったことがあった。墓地はもともと曽の物であったが、言い争いは決着せず、お上に沙汰してもらおうとした。しかし某の親戚はたいへん力があったので、あらかじめ墓碑を造り、一晩前に地に埋めておいた。翌日、官が来、墓を掘って碑を見つけ、曽に迫り、棺を掘り起こして改葬させた。曽はすぐに某の計略を耳にしたが、どうしようもなかった。後に数十年を経、両家の科挙合格と仕官はいずれも同等となったから、風水の説はもとより偽りではなかった[96]。今は某家の顕達したものはだんだん衰微し、その子孫も寥寥たるものである。曽氏は相変わらず書香がますます盛んで、長子元基は、乙未の挙人、次男元炳[97]は、癸丑の進士[98]、三男元海[99]は、壬午の進士[100]、広西学政、四子元燮[101]は、戊戌の進士[102]で、今は主事[103]となっており、五子元澄は、辛卯の挙人である。魏麗泉中丞は「五子登科」の扁額を作ってその閭巷を表彰した。そして孫の兆鰲はすぐに庚子の進士に登った。科挙合格の多いことは、当時比べるものがなかった。人は人に欺かれることを憂えないで、ただ天に助けられることを求めるだけだと知れた。さらに聞けば、曽氏はみずから刺史の父又盤公(新)が殺生を戒め、すでに三代を経、百余年になるということだが、そもそもこれも殺生をしなかった報いか。
◎廖氏の陰徳
閩県の廖氏は陰徳を積んでおり、亡母鄭夫人がつねに讃えていた。亡母は廖家の表侄女[104]だったので、もっとも詳しく廖家のことを知っていた。旧事を談じるときは、廖氏兄弟の父のことを述べたが、それは人々が廖太翁と称している人で、台湾で郡署[105]の胥吏をしたことがあり、某年にひそかに海賊に関する文書一冊を焼き、救った人は千をもって数えていた。さらに平生もっとも字を書いた紙を敬い惜しみ、つねにみずから籃を背負って貧民街で拾い、汚されて触れるにたえないものも、かならず拾って帰り、洗い浄めて焼き、数十年おこなって倦まなかったが、これはそもそも文人学士の難しとすることであった。下女への待遇は代々たいへん寛大で、つねに時期が来ると嫁がせ、俗に行われている試妆[106]、回門[107]の礼もまったく廃さなかった。人が尋ねると、言った。「下女も女なのだから、差別してみるに忍びようか。」その厚徳はこのようでもあった。これはすべて乾嘉の間の事で、亡母が目で見たことである。その時、廖家はなお興起していなかったが、今は兄弟があいついで合格していた。長男の鴻翔は、嘉慶戊寅の挙人で、広東知県、その次の鴻禧は、道光乙酉の挙人、その次の鴻苞は、嘉慶丁丑の進士、江南同知、その次の鴻藻は、嘉慶己巳の進士、江西糧道、その次の鴻荃は、己巳の榜眼、今は尚書で官をしていた。鴻苞は字を竹臣、鴻藻は字を儀卿、鴻荃は字をト夫といい、三人がみな翰林で役人をしたのも、近代まれにみることであった。
◎許氏の陰徳
侯官の許蔭坪進士(徳樹)[108]がみずから述べるには、かれの先代は本籍が晋江[109]で、かれの曽祖母鄭孺人は、湖北巡撫魚門先生(任鑰)[110]の娘であった。巡撫は官をやめても、留まって湖北の省城を修理した。孺人は田地・衣服を差し出し、都合銀二百余斤を得、工費を助けたので、巡撫は帰郷できた。そして、子女を連れ、父に従い、侯官に住み、その田宅の晋江にあるものを放棄し、すべて夫の弟に与えた。泉州の太守はそれを義とし、門に「巾幗君子」と書いた。家は日に日に貧しくなったが、たまたま一族に、男女二人で異郷に流落しているものがいることを思い出すと、むりに金を工面し、送って贖った[111]。その時はかれらが絶食してすでに数日であった。子の端本(崇楷)は、乾隆己卯の挙人で、山西翼城知県、孫の継之(懿善)は、乾隆辛卯の挙人で、広東陸豊知県、いずれも治譜[112]を伝え、循吏としての名声があった。陸豊君はもっとも闊達で施捨を好んでいた。かれの姑某氏は貧しく、二人の娘を生んだが、溺れ死なせようとしていたので、どちらも引きとって自分の娘にした。当時、陸豊君の家にはすでに五人の娘がいた。さらに某氏にはほかにも二人の娘がおり、貧しいので売って下女にしようとしていたが、公はかれらも連れ帰り、代わりに養育してやった。婿の家に嫁ぎ、それぞれ自立できた。当時、城中で女性への褒賞に適うものとしては、かならず許氏を推挙した[113]。曽孫の鶴舲(冠瀛)[114]はまず進士になり、翰林に入り、蔭坪[115]も進士になり、さらに慶瀾も郷試に合格した。家大人と蔭坪は若くしていっしょに鄭蘇年先生の門に教えを受け、癸卯[116]に福州に戻り、蔭坪を尋ねれば、蔭坪の二子と二人の孫はみなはじめて秀才で郷試に応じ、書香の盛んであることは、同輩の中でまれに見るものであった。
◎官志斎徴君
侯官の官志斎徴君(崇)[117]は塩筴[118]を業とし、世々忠厚をもって称えられていた。後に公金に欠損を出したので[119]、志斎はその父に代わって官となること数ヶ月、資産をすべて交代するものに授け、家は破産した。志斎はたいへん貧しくなっていたが、その親によく仕え、朱梅崖先生[120]から作文法を教わった。乾隆己亥科で、大興[121]の太傅朱文正公[122]が福建で典試し、落第答案の中から選抜し、第六位に置いた。文はきわめて古淡であったので、議論が紛然と起こった。文正公が復命すると、聖上は闈墨[123]を求めて見、公に言った。「上位の数篇はみな良いが、第六位の文は、先正[124]の典型だ。」それから批判するものたちはあれこれ言おうとしなくなった。礼部の試験が終わると、合格せずに帰った。公はそこで福建の当局者に手紙を送り、代わって館穀[125]を求めてやった。当局者が某県の書院の師が定まっていないことを知り、志斎に告げると、志斎は言った。「昨年、この席を司っていたものは、わたしの同学の友某だった。かれから奪い、わたしに与えるのなら、本当にすることを願わない。」当局者はさらに改めて某県にはかると、志斎は言った。「さきほど某席に推薦することを求めたものは、わたしの中表[126]兄弟だと聞きました。」。いずれも就任しなかった。嘉慶元年、詔して孝廉方正に挙げ、汪中丞[127]は志斎が賢いことをよく知っていたので、縁故に頼った若者たちをすべて退け、志斎だけを推挙して応じた。士論は翕然[128]とした。志斎は親の意思によってむりに招請を受け入れたが、清湖[129]までいって病歿した。かれの友謝退谷孝廉(金鑾)[130]がふと夢みたところ、志斎が来て告げた。「わたしは寿命がすでに終わっていたが、上帝はわたしが師の妻を救い、遺児を育てたことを憐れみ、侯官県の城隍神になることを命じた。」そして退谷を連れていっしょに城隍廟にゆき、退谷はここに頼ることを求めたが、志斎は指示して帰らせた。侯官の城隍廟は役所の中にあり、知るものは少なく、翌日その地を訪ねると、本当に夢の中で経験した通りであった。まもなく志斎の訃報が来た。それより前、志斎の師某孝廉が死んだが、家に遺産はなかったので、志斎は師の妻を迎えて養い、その遺児を育て、成人になってはじめてその旧宅に帰らせた。
◎薩露蕭農部
福州の塩商は、薩家だけがその家を代々保つことができ[131]、露蕭農部[132](龍光)[133]が総商[134]となってから、その名声はますます盛んであった。農部の父啓源翁(知遇)はもともと忠厚によって家を興し、善を楽しみ、施しを好んでいた。農部は家の教えに従い、さらに財に富んでいたので、数十年来、陽施[135]夜行[136]が盛んであることは、わが福建で第一と称えられていた。乾隆庚子[137]の冬、農部ははじめて会試を受験するために北にゆき、翁はすでにたくさんの資金を与え、道々貧民を救済できるようにした。辛丑[138]の春、ちょうど引見官[139]で入京するものがおり、翁はまた三千両を量り取って送り、手紙でほかの箱に蓄えるように諭し、合格発表の後に、それをわたしの郷里の落第したものに分けさせた。農部は随行して謹み、わたしの郷里の落第した挙子には、一人も他郷にとどまるものがいなかった。農部はすぐにその試験で進士に合格し、庶常[140]に選ばれ、散館して戸部に改まった。中央官は多くは貧寒であったが、戸部だけは収入がやや優れていたので、農部はすべて取っておき、京寮[141]の貧しいものを助け、足りなければ出資救済した。同じ州の、謁選[142]したり会試を受験したりするものは、多くは農部の邸内に泊まった。おりしも郷宦某が債務に迫られ、身をもって殉じようとしていたが、金を出して助け、すぐにその厄難を解消した。丁憂で帰郷し、ふたたび出仕しなかった。当時、塩政は日に日に腐敗していたが、農部は左に助け、右に助け、肩代わりした額は、数十万両を下らなかった[143]。農部は一身にそれを担い、内外に恩恵を施し、鰥寡・孤独・貧苦で結婚・納棺・埋葬するすべがないもの、親戚で火を起こすこと[144]を待つもの、士人で省試・礼部試に赴くものは、往々にして、すこしも面識がなくてもかならず要求を遂げて去った。侯官の知事某は、横領で吏議[145]に関わると、旧友でなかったが、にわかに家を訪ね、助けを求めた。すると気前よく承諾し、某は復職することができた。さらに鰲峰書院[146]の書舎を増築し、洪山橋を修理し、東街の文昌祠を建て、鼓山湧泉寺[147]を新築したことがあった。乙卯[148]の飢民の救済、丁丑[149]の河川の浚渫は、みな出資を呼びかけることによって成功した[150]。実は農部もたまたま金を人に借りており、余裕があったわけではないのに、施して倦まず、人々はみなそれを知っていった。以前、人に語った。「わたしはどうして財を徳としようか。わたしの正義のあるところを見て従うだけだ。余裕ができるのを待って後に散じるならば、善行をする日はなかろう。」子が十五人おり、みな相次いで秀才・孝廉の試験に合格し、その孫たちは今でも合格するものが絶えない。農部は晩年とりたてて趣味はなく、葉子戯[151]をするのが好きだとだけ言った。ある人はかれが家政をおろそかにしていることを問題にしたが、子にはかならず義方[152]を教えていた。以前、蔚州[153]魏敏果公[154]の教えを守って言った。「家を没落させる子弟には二種類あり、放蕩賭博し、驕奢淫逸で、祖父の資産を失い、その家門を没落させるのは、愚かで勉強しない人がすることで、賢者を阻み、国家を蝕み、賄賂を貪り、家を肥やし、祖父の名節を辱め、その家系を没落させるのは、聡明で勉強する人がすることである。二者はたがいに謗りあうので、資産を保つものはもっとも名節を惜しむべきだ。」さらに関西の張子[155]の『西銘』[156]の言葉を誦えたことがあった。「富貴福沢は、わたしの生活を豊かにしようから、善行をさせるのは容易だ。」[157]それならば農部の学んだことは想像できる。
最終更新日:2018年2月22日
[2]http://www.zdic.net/c/5/151/336369.htm地方の紳士と年老いて声望のある人。
[4]未詳だが、茶汲みのことであろう。
[5]http://www.zdic.net/c/5/a/17777.htm郷試と会試の時に試験官が答案を読む場所。
[6]http://www.zdic.net/c/e/37/84554.htm辞職帰宅して父母を世話することを請求すること。
[8]http://www.zdic.net/c/6/d4/205082.htm官名。翰林院の属官。
[10]http://www.zdic.net/c/b/78/124680.htm太子・事。東宫・事府に属する。
[20]原文「有某生為巨公婿、挾權要人手書、諄諄相托。」。未詳だが、有力者に手紙を書かせ、葉宮・に送り、某生を合格させるように、諄諄と説得させることであろう。
[21]主語は葉宮・。
[25]http://www.zdic.net/c/b/31/77551.htm必要な財物を供給すること。必要な物資を満足させることをも指す。
[29]この話、分かりにくいのだが、受験者の請託を受けた幕僚が、明かりが消えたのに乗じ、合格答案が積まれている宮・の左側に請託者の答案を置こうとしたのだが、宮・は積まれた合格答案の上に手を載せていたので、うまくゆかなかったということなのであろう。
[30]http://www.zdic.net/c/6/7d/130474.htm提督学政の簡称。督学使者ともいう。清中葉以後、各省に派遣され、定期的に所属する各府、庁にゆき、童生及び生員を試験した。
[31]http://www.zdic.net/c/8/f/23370.htm人品・学業が優良であること。
[33]http://www.zdic.net/c/7/d9/211384.htm乾隆以後に定まった制度で、三度以上会試に不合格であった挙人の中から一等のものを選び、知県として用い、二等のものは教職として用いた。六年に一度挙行せられた。
[35]http://www.zdic.net/c/1/99/174171.htm監察の責を負った官吏。漢以後の司隷校尉と督察州県の刺史、転運使、按察使、布政使等を監司と通称する。
[36]http://www.zdic.net/c/a/77/120868.htm官吏の冠飾。貴顕の比喻。
[38]「楹聯などいらない。賄賂を持ってこい。」という意思表示。
[40]原文「整壽」。未詳だが、訳文の意であろう。
[41]原文「我必立揭部科」。「揭部科」が未詳。とりあえずこう訳す。
『清史稿』の「揭部科」の用例。官吏の不正を中央に訴えることのようである。「部科」は六部や科道官のことであろう。
[42]http://www.zdic.net/c/1/e/21936.htm室内に所有物がなく、四壁を余すだけであること。貧困の比喻。
[43]「壁立万仞」は、ここでは賄賂を峻絶することのたとえであろう。
[54]http://www.zdic.net/c/1/69/100191.htm重罪を軽く判決したり判決するべくして判決していないこと。
[56]http://www.zdic.net/c/6/107/280231.htm官員の等級を区别する帽飾。「頂子」、「頂帯」とも称する。画像検索結果
[58]http://www.zdic.net/c/1/11/27582.htm刑事を管掌する官署あるいは属官。
[59]http://www.zwbk.org/zh-tw/Lemma_Show/164560.aspx 「司」は布政使司と按察使司。「道」は道員。
[60]http://www.zdic.net/c/e/103/277762.htm声名顕赫、才華抜群であること。
[63]http://www.zdic.net/c/7/7/10044.htm南方諸省の人で北闈(郷試)を受験し、第二名に合格した者を、南元と称する。第一名は慣例で直隷籍の人となるので、第二名も元と称する。
[64]http://www.zdic.net/c/4/87/148695.htm選抜されて国子監に入れられる生員。
[66]http://www.zdic.net/c/8/e8/235721.htm上昇のさま。興隆のさま。
[67]http://www.zdic.net/c/1/2a/65034.htm歳考。http://www.zdic.net/c/1/108/284436.htm学政が、每年所属する省の府、州、県の生員、廪生に対し挙行する試験。
[70]http://www.zdic.net/c/1/a5/190668.htm明清の科挙で、郷試の前に学官によって挙行される選別試験。一定の順位に達して、はじめて郷試を受験できる。
[72]http://www.zdic.net/c/3/2a/66810.htm翰林院庶常館を設け、新進士で朝考庶吉士の資格を得た者は入館学習し、三年の期が満ち試験を挙行した後、成績優良の者は留館、編修、検討の職を授け、そのほかは各部に送られ、給事中、御史、主事となり、あるいは出州県官となるが、それを「散館」といった。
[73]http://www.zdic.net/c/1/24/57403.htm父母の死に遭うこと。
[78]http://www.zdic.net/c/8/70/110864.htm各部の属官の通称。部内各司の郎中、員外郎、主事及び主事以下の七品小京官を指す。
[81]http://www.zdic.net/c/1/a1/187125.htm科道官。http://www.zdic.net/c/1/92/163123.htm六科给事中と都察院各道監察御史の総称。
[82]http://www.zdic.net/c/2/14b/327581.htm中央各部の長官たとえば尚書、侍郎等の通称、各官署の大堂で執務したため、その名がある。「堂官」は「司官」に対していう、各部以外の独立機構の長官、たとえば知県、知府等も、「堂官」と称することができる。
[83]「本日受け取り。」の意。
[90]http://www.zdic.net/c/9/1/305.htm杉の一種。後ろの記述から推察するに、高級な木材なのであろう。
[96]原文「風水之說固不謬矣。」。曽家が改葬したことによって運が開けたのは風水のおかげだといいたいのであろう。
[98]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E9%81%93%E5%85%89%E4%B9%9D%E5%B9%B4%E5%B7%B1%E4%B8%91%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C
[100]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E9%81%93%E5%85%89%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E5%A3%AC%E5%8D%88%E6%81%A9%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C
[101]https://www.google.co.jp/?hl=zh-CN&gws_rd=cr,ssl&ei=r5LdVNLQF6a-mgXk4oCYDg#hl=zh-CN&q=%E6%9B%BE%E5%85%83%E7%87%AE
[102]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E9%81%93%E5%85%89%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%B9%B4%E6%88%8A%E6%88%8C%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C
[105]府庁。
[107]http://www.zdic.net/c/e/10f/293378.htm女子が嫁いだ後、最初に実家に帰省すること。婿とともにゆくのは双回門という。
[109]福建/泉州府の県名。
[110]グーグル検索結果。康熙四十五年丙戌科殿試金榜に名が見える。
[111]原文「力措金寄贖之」。「贖之」が未詳。とりあえずこう訳す。
[112]http://www.zdic.net/c/b/1/171.htm父子兄弟が在官中に治績があったことを讃える恩典。
[113]原文「時城中稱女賞者、必推許氏。」。「女賞」が未詳。とりあえずこう訳す。
[114]グーグル検索結果。道光二年壬午恩科殿試金榜に名が見える。
[118]http://www.zdic.net/c/0/156/340863.htm塩務。塩税を徴収する政策法令。筴は「策」に同じ。
[119]原文「後負官帑」。「負」が未詳。とりあえずこう訳す。
[123]http://www.zdic.net/c/1/103/278087.htm郷試、会試の後、主考が答案の中で文章が形式に符合しているものを選び、編刻成書したもの。
[124]http://www.zdic.net/c/8/35/81577.htmひろく前代の賢人を指す。
[125]http://www.zdic.net/c/6/107/281131.htm私塾で教えたり幕賓に任ぜられたりすること。ここではその口。
[126]http://www.zdic.net/c/d/150/332885.htm祖父、父親の姐妹の子女との親戚関係,あるいは祖母、母親の兄弟姐妹の子女との親戚関係。
[127]ここでいきなり出てくる。未詳。
[128]http://www.zdic.net/c/5/d3/202264.htm一致して称えること。また、安寧、和順のさま。
[129]未詳。
[131]原文「福州鹽商惟薩姓能世其家」。未詳。とりあえずこう訳す。「世」は動詞であろう。http://www.zdic.net/c/6/143/313588.htm
[133]グーグル検索結果。乾隆四十六年辛丑科殿試金榜に名が見える。
[134]http://www.zdic.net/c/b/d5/207507.htm商総とも称する。清政府が専売商人の中で首領として指定した富裕な商人。
[135]http://www.zdic.net/c/お3/101/272133.htm表だって布施すること。
[141]原文同じ。まったく未詳。
[142]http://www.zdic.net/c/2/f6/256345.htm官吏が吏部に赴き、選に応じること。
[143]原文「時鹽政日敝、農部左提右挈、所代承謀額不下數十萬金。」。「代承」「謀額」が未詳。「時鹽政日敝」とその後との論理的な関係も未詳。とりあえずこう訳す。
[145]http://www.zdic.net/c/f/4/7905.htm司法官吏の処分・判決に関する建議。
[150]原文「皆ョ倡輸以集事。」。「倡輸」が未詳。とりあえずこう訳す。
[152]http://www.zdic.net/c/9/a8/199334.htm遵守すべき規範と道理。
[157]原文「富貴福澤、將厚吾の生、使之為善也輕。」。未詳。とりあえずこう訳す。「富貴福澤、將厚吾之生」は『西銘』に見えるが、「使之為善也輕。」は見えず、明-曹端『西銘述解』に「使吾之為善也軽」という言葉が見える。https://www.google.com/?hl=zh-CN&gws_rd=ssl#hl=zh-CN&q=%E4%BD%BF%E4%B9%8B%E7%82%BA%E5%96%84%E4%B9%9F%E8%BC%95